「さて、年越しといえば除夜の鐘だ」
既に夜も更け、いよいよ年が変わろうとする時間帯。
地獄の酒宴を終えた幼いスピリットたちは、既にエスペリアのお説教もそこそこに、心身ともに心地悪い眠りについている。
なにしろ飲酒など始めての経験である。年齢はさておき、これまで酒というのはどの国でも人間が楽しむためのものであって、スピリットに振舞われたことなどないのだからそれも仕方がない。
それは悠人も同様である。かろうじてまだ起きてはいるものの、彼も向こうの世界にいた時、こちらは主に経済状況によってだが、酒をたしなんだことなどほとんどなかった。
主催者が顔を出さないのはいかがなものか、という認識から出席してはいるが……今の悠人は、もはや戦力外通告を出されてもおかしくはない顔色である。
しかしながらそうであるならば、悠人と違って多少の慣れはあるかもしれないとしても、あの酒宴を終えてなお意気揚揚としているこの碧光陰という男は、果たして何者なのだろうか?
「コウイン殿。ジョヤの鐘……とは、なんでございましょう?」
そんな光陰の言葉に、ウルカが訊ねる。
方や坊主の息子、方や武人。
出会ってからの時間は短いものの、お互い雰囲気でどこか通じるものがあるのだろう。
ウルカがこのように興味をそそられることは、これもまた当然と言えるかもしれない。
「よく聞いてくれた。ウォッホン。人は生きていくうえで様々な欲求を抱えている」
「我々はスピリットですが……」
「だー。いいから。話を聞いてくれ。それでだ。皆も心当たりがないか? あれがしたい、これがしたい、あれが欲しい、これが欲しい。誰でもそう言ったことの一つや二つ、思い当たる節があるはずだ。いやいや、恥ずかしがらなくてもいいぞ。そういうものは、生きていれば誰でもが持つ感情だ」
「はぁ……」
ウルカはなにやら釈然としないながらも――スピリットとしてサーギオスで鍛えられた彼女は、未だに人もスピリットも同じというラキオス部隊の風潮に戸惑うことがある――光陰の言葉を受け、眼を閉じて自分の心を探ろうとする。
「そしてそういう感情を煩悩というんだが、なんと人間にはその煩悩が百八もある」
「そんなに……!? 手前はせいぜい、1つか2つしか思い当たりませぬが――」
そして光陰の指摘に、驚いて目を見開いた。
「いいや、あるんだ。自分が気付いてないだけで、それは確実にある」
「なんと……己の煩悩さえ正確に把握できていなかったとは、これぞ正に不覚の至り。もっと精進せねば……!」
熱弁を振るう光陰と、その言葉に衝撃を受けるスピリット達。
ウルカに至っては唇を噛み、うなだれて冥加の鞘を硬く握り締めていたりさえする。
「アンタの場合、それが唯一つの方向に集約されてる気がするんだけどね」
とそこへ、横から投げかけられる冷ややかな今日子の言葉。
光陰は一瞬ギクリとしながらも、冷や汗を押し隠して先を続ける。
「ま、まあそれはともかくとして、人間は煩悩にまみれて生きている。しかし常にそれでいいのか? いや、いい訳がない。せめて新年くらいは煩悩を忘れ、晴れやかな気分で過ごすべきではないか。そのために鳴らすのが除夜の鐘だ。大晦日の深夜、つまり一年の最後の瞬間に、その数に合わせた百八の鐘を打ち鳴らして、煩悩を追い出すんだ」
得意げに語る光陰。
さすがは坊主の息子か――と感心したいところだが、日頃の行動からするに、破戒僧の典型ともいえるこの男。
その口から出たとあっては、これほど疑わしい言葉もない。
悠人と今日子は、あからさまに胡散臭げな視線を光陰に送っている。
「そのような慣習があるとは……やはりハイペリアとは、よほど素晴らしい世界なのでありましょう」
しかし哀しいかな、ここに集まるスピリット達は光陰の実態をいまだ良く知らない。
実際この場に置いてもウルカやエスペリアを筆頭として、皆光陰の説法に聞きほれ、感心するばかりなのである。
「うむ。そうだろう、そうだろう。そこでここは一つ、このラキオスでも除夜の鐘を鳴らそうと思ったんだが、しかし残念なことにこの国には俺たちの世界のような鐘はない。だから……」
「……鐘なら、ある」
なにやら代替案を立てようとした光陰を遮って、アセリアが割ってはいる。
端から見ているとボーッと聞いていたようにしか見えなかったが、その様子からするとなにか感じ入るところがあったのだろう。
「鐘って……アセリア、心当たりがあるのか?」
「ん。行ってくる」
悠人の問いに答えるなり、館を出て行くアセリア。
皆キョトンとしてそれを見送っていたが、すぐにエスペリアがハッとした表情になって悠人に告げる。
「ユートさま、大変です! アセリアを止めなくては!」
「なんだ、どうした、エスペリア?」
「きっとあの子は、鐘楼に登って警告用の鐘を鳴らす気です!」
「……! やばい! みんな、行くぞ!」
事態に気がついた悠人も、『求め』を手にとり、駆け出そうとする。
腹の中の液体が燃え上がるような不快感を発するが、そんなことなど気にしてはいられない。
それはそうである。警鐘を鳴らすというのは、文字通りの意味。
即ち、敵の襲撃。
年末、深夜、年越し。
そんなタイミングで打ち鳴らされる警鐘。
それは安らかな眠りの中で年を越そうという人たちの耳に、滝のように水を注ぐことに他ならない。
そもそも実際に敵襲があったのならまだいい。いや、良くはないが。
だが、警鐘自体は本来の意味でもって役に立つことになる。
しかし今回は敵が来ているわけではない。単に光陰の話を聞いて早とちったアセリアが、煩悩を払うがために打ち鳴らそうというのである。
絶対に誰も納得してくれないだろう。
下手をすれば、これまでスピリットの地位を高めることに貢献してくれたレスティーナの努力も水泡に帰すかもしれないのだ。
――絶対に、阻止せねばならない!
スピリット達も表情を一転させ、戦闘中もかくや、というほどの真剣さで悠人に続いて走り出す。
しかし時既に遅し。
悠人たちが館を出て、アセリアの後を追おうとした瞬間――
カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン!
――作戦失敗。 打ち鳴らされる鐘は、滅茶苦茶にハイテンポだった。
もうなんだか、どう考えても緊急事態、それも打ち鳴らされる速さから連想すれば、超弩級の事態を継げる鐘なのだが……
傍らのエスペリアが、「はぅ……」と力なくうめいた。
全員、その場で脱力。もはやどう急いでも止めさせるのは不可能だ。
一同、煩悩ではなく気力そのものが体から抜けていく思いである。
恐らくアセリアは鐘楼で、そんなことはお構い無しに、無表情ながらも一心不乱に鐘を打ち鳴らしているのだろう。
寝付いていた幼いスピリット達も、具合が悪いながらもすわ何事かと神剣を手に飛び出してきて――
そして玄関先でグッタリとする悠人たちを見て、これまた何事かと眉をひそめるしかなかった。
その後。遅ればせながらも登城した悠人とエスペリアは、寝不足も相まってかなり不機嫌な当直仕官から延々と文句を言われ、そして報告のために赴いた謁見の間で、これまた不機嫌なレスティーナからきついお小言を頂くこととなった。
その後ろでは、目的を達成したアセリアが、そこはかとなく満ち足りた様子でそんな二人を眺めていた。
報告。次からは隊員に、充分に作戦内容を理解した上で行動に移るよう、教育を徹底する。