作者のページに戻る

「この匂いは……?」

 時は変わって、大宴会場。
 とは言っても、いつもの居間をそれらしく掃除したり机を並べ替えたりしただけに過ぎない。
 エスペリアがご馳走に奮闘しているが、あと一時間もすればそれも完成するだろうと様子を見に立ち寄ったそこでは、光陰やオルファ、その他チラホラとスピリット達が集まり、なにやら楽しげに杯を傾けていた。
 雰囲気はとても明るい。
 というより、明るすぎる。
 見れば、どの面々もうっすらと頬に朱が指している。
 テーブルには恐らく何かの飲み物だろう空瓶が、1ダース程も転がっていた。
 そして立ち込める、特殊な匂い。この状況。これはどこをどう見ても……

「……光陰。皆に何を飲ませた?」
「んー? あー、悠人か。どうだ。お前も呑るか?」
「やるかって……光陰、これ、酒じゃないのか?」
「馬鹿言え。俺は仏門の徒だぞ? その俺が酒なんか飲むはずあるか」
「ウソつけって。これ、この匂い。絶対酒だろ」
「いーや違うな。よく聞け悠人。これは般若湯(はんにゃとう)といってな。古来より仏教のどの宗派でも、知恵の湧き出る水としてめでたい席などで用いられてきた、ありがた〜い御仏の慈悲だ」
「って、それって確か酒の隠語じゃなかったか?」
「ああ、確かに科学的に分析すると、どちらからも同じ成分が検出されるが、なに、それはそれ。そんなものはいまだ御仏の英知に足下も及ばん愚かな人間達が錯覚してるに過ぎん。この俺が言うんだから間違いない」
「お前が言うから間違いだらけに聞こえるんだよ」
「ふむ。どうやらお前も、まだ無明の境を越えられずにいるらしいな。安心しろ。この般若湯はそんなお前のような人間のためにある。一度これを口に含めば、お前も釈尊がたどり着いた悟りの境地に少しは近づけるようになるぞ」

 言うなりフラリと椅子から立ち上がり、片手に瓶を、片手に杯を持って、不気味な理論を口にしながら悠人ににじり寄る光陰。
 その口から吐き出される息は、疑いようもなく酒臭い。
 言いようもないその迫力は、悠人をして思わず腰の『求め』に手を伸ばしめたほどである。
 ジリジリと迫る、光陰。そして同じ様にジリジリと交代する、悠人。
 と、突然腰の辺りに軽いつっかえを覚えて、悠人の足が止まる。
 振り返ると、オルファが足止めをするように悠人に抱きついていた。

「……オルファ。悪いけど、ちょっとどいてくれないか?」
「ンフフ〜。パパ〜」
「オルファ。今ちょっと忙しいんだ」
「ん〜、だ〜め。パパもジュース飲むの〜」
「オルファ、これジュースじゃないって! 酒だって!」
「どっちでもいいよ〜。それともパパ、オルファのジュース、飲めないの?」
「いやだから! そういう問題じゃ!」

 完璧な酔っ払いっぷり。
 父として、隊長として、悠人はこの少女の行く末に不安を感じられないではなかった。

「む〜。もういいもん。パパが自分で飲んでくれないんなら……ん〜!」

 進退窮まった悠人。この状況をどうするか……具体的には酒乱の様相を呈したオルファをどのようにして宥めるかと悩んでいた悠人の首っ玉に、オルファがしがみ付く。
 そして器用にこぼさずに持ったままの杯を煽ると……おもむろに、悠人の唇に自分のそれを重ねた。
 すなわち、口移し。
 オルファからすれば、悠人が自分から飲まないのであれば、こうするしかないという、幼いながらも思考した結果の行動であろう。が――
 立場が違えば、アルハラ+セクハラ。加えて日本であれば淫行のカドで挙げられても文句の言えない所業である。

「!? ??!??!!?」

 哀れ悠人。悲しむべきは、生まれついての朴念仁ぶりか。
 口内の液体をすべて悠人に流し込んだオルファは、唇を離すと、妖艶ともいえる仕草でニタリと笑う。
 知っての通りオルファは掛け値なしの美少女である。
 その息がかなり酒臭いことを除けば、それはなんともソソられる表情であった。

「ね? ね? パパ、美味しいでしょ?」

 その問いに、朴念仁は答えることが出来ない。
 なにしろ突然のことである。味などわかるはずもない。

「あ〜! オルファ、ずっる〜い! ねえねえユート様、ネリーも〜!」
「わっわっ、私もします!」
「も〜☆」

 答えに窮するどころか、指の一本さえ容易には動いてくれない悠人。
 それに、オルファの行動に触発されたスピリット達がわらわらと群がる。
 ネリー。
 ヘリオン。
 シアー。
 恐らく皆、ペド野郎光陰の趣味で声をかけられたのだろう、幼い彼女達は酔いも手伝って、隊長――上司であるはずの悠人に次々と酒を含んで柔らかくなった唇を押し付ける。
 もうなんと言うか、軍隊以前に常識としてハチャメチャである。
 かつて古代、中国の人はこのような状態を表すうってつけの言葉を生み出している。
 曰く、酒池肉林。
 故事を紐解けばその語源は、多分に今とは異なる様を呈することはさておき、この状況、正に普通の男ならば血湧き肉踊る展開である。或いは、据え膳食わぬは。
 しかしながら高峰悠人、ここでならばこう言っても構うまい、何をとち狂ったか、「待て」だの「やめろ」だの「早まるな」だのと意味不明のことを口走っている。
 当然そのような言葉など、悠人を敬愛して止まない、可憐な少女達が聞き分けるはずもなく。
 ――酒に酔って善悪の判断を無くしている、と信じたいのは悠人だけだ。
 しばらくしてようやく解放された悠人は、酒と、それ以前に少女達の歓待で、顔と言わず首やら手やらまでもう真っ赤に染まっていた。
 ひとしきりその様子を眺めていた光陰は、さも面白そうに目の前の雄雄しきエトランジェを褒め称える。

「おいおい、羨ましいぞ悠人。酒を味わうのに、これ以上の酌はないな」
「って、光陰! お前、やっぱり酒じゃないか!」
「おっと、これは俺としたことが、うっかり口が滑ったか。ところで皆、俺には酌をしてくれないのかな?」
「ほっほ〜う。それじゃあ、アタシがついであげようかしら」
「お、そりゃいい、それじゃ一つよろしく頼……む……」

 背後からの声に、期待にだらしなく口元を緩ませて振り返る光陰。
 しかし、直後、その声も、表情も一瞬の内に凍りつく。
 最上級のバニッシュスキルでもこうは行くまい。
 ……鬼が、いた。

 般若湯 飲ませ呑まれて 般若見ゆ

 これが光陰辞世の句とならなかったのは幸せといわなければならない。
 いつの間に潜んでいたのか、片手に酒瓶のみを握り締め、わなわなと両手を震わせて、恐るべき鬼――岬今日子は静かに微笑み、佇んでいた。
 そう、彼女自身は、静かに。
 しかしながらその強気そうなショートヘアの辺りでは、恐らく生来静電気も溜まり易いのだろう、しかし明らかにそれとは違う種類の電撃が、時折パチリ、パチリと音を立てて爆ぜていた。
 正しく、笑い般若。いや――
 こうなるともう、カーリーやヘカーテもかくや、と言った具合である。
 ……ちなみにもう一度言うが、彼女の手に握られているのは、酒瓶のみ。
 即ちこれから彼女がとるだろう行動に、杯は必要ないと言うことである。

「まあ、アタシみたいにちょっと育ちすぎてちゃ、アンタの趣味には合わないかもしれないけど……」
「い、いや、今日子。そんなことはない。お前は充分に魅力的だ」
「あーら、ありがと。さ、光陰。ア〜ンして。その魅力的な今日子ちゃんが、ちゃ〜んと口移しで飲ませてあげるわよ」
「そ、そりゃありたいが……今日子、その前に俺たちはもっとわかりあう必要がある」
「ないわね」

 笑みを引っ込め、ギラリ、と今日子の眼が光る。
 そのまま瓶の尻の方を持ちかえると、スッ、と――まるで『空虚』を掲げるように、酒瓶の口を光陰へと向ける。
 それはさながら「覚悟はよろしくて?」と対戦相手にレイピアを向ける、男装の麗人のように凛々しく、気高い仕草だった。

「ま、待て、今日子。話せば解かる、話せば……!」
「問答無用、これでも食らえ!」

 かつてクーデターにより、軍部の若手将校達に暗殺された総理大臣そのままの台詞を吐く光陰。
 歴史は繰り返す。
 彼もまた、この凶行によってしばし、還らぬ人となる。
 今日子の手に握られた酒瓶は、過たず彼女より頭一つ分高い光陰の口を捉えた。
 そしてそのまま、腕を高々と差し上げる。
 瓶の口から、光陰の口へ。確かに『口移し』の言葉に間違いはない。

「グッ……ン……ンン!?」

 瓶の中の液体は、重力に従って光陰の口へと流れ落ちる。
 もはや抗う術はない。
 いや、唯一つだけある。瓶を口から吐き出せばよいのだ。
 しかしそれをすればどうなるか――
 解からぬほど、光陰も愚かではない。
 だから、されるがままにその液体をすべて胃の中に収めると、そのままバタリと床に倒れこんだ。
 あっぱれ、漢(おとこ)光陰、大往生。
 称えるべきは、その潔さか。
 床には一滴の酒もこぼれていない。
 正に益荒男(ますらお)と呼ぶに相応しい死にっぷりであった。

「コイツはこれで良し、と……それじゃ、悠?」

 光陰への制裁を終え、ゆらりと悠人に向き直る今日子。
 空瓶をテーブルに置き、新たな弾丸をその手に握る。
 なんだか使い捨てのパンツァーファウストを装備した特殊隊員のような雰囲気である。

「ここじゃあちょっと教育に悪いから……ね、悪いけど、少しソイツ貸してね?」

 にっこりと人好きのする笑みを浮かべて、悠人の傍らにはべる少女達に告げる。
 戦場においては、常にリーダーたる悠人を守ろうと勇猛果敢に戦う少女達は、しかしこの時ばかりは今日子の言い得ぬプレッシャーに押され、ただ無言で首を縦に振った。
 ……ヘリオンなどは悠人の後から、「さあ、どうぞ」とばかりにその背を押し出したりしている。

「……今日子。一つ弁解をしたい」
「言い残したことがあれば聞いてあげるわ」
「とりあえず、俺は純然たる光陰の被害者だ。こいつらも同様だ」

 明らかな身の危険を前に、悠人はもはや死者(仮)に罪を被せることもいとわない。
 光陰の潔さからすればなんともなヘタレっぷりであるが、しかし悠人も人間(この世界ではエトランジェ)。怖いものは怖いのである。
 だが、地獄の断罪官は容赦なかった。

「却下ね。悠だってエトランジェでしょ? アンタがしっかりしてれば、例えスピリットと言えどもこんなか弱い女の子達に好きにはされなかったはずよ」
「う……」

 至極もっともな指摘。
 悠人は言い返せずに押し黙るしかない。

「という訳で、決定。ほら、こっち来なさい。じゃ、ちょっと行ってくるから」

 震えて立ち尽くす少女達に明るい声で告げると、今日子は逞しくも悠人の胸倉をつかんで居間を後にした。

「……ユート様、ごめんなさい……ゴメンなさい……どうかご無事で……!」

 震える声が果たしてどの少女のものだったのか。
 あまりに小さなその声は、悠人の耳に届くことはなかった。

 やがて料理が一段落して厨房から出てきたエスペリアは、そこに倒れ伏した光陰と震えながら酒の匂いがする少女達を発見し、果たして少女達を叱るべきか、それとも宥めるべきか、あるいは光陰を解放するべきかと、再びオロオロすることになった。

 報告。やはりラキオスにおいても飲酒の年齢制限は厳守させるべきと提言する。


Chapter 3.へ戻る   Chapter 5.へ進む

作者のページに戻る