After the Eternal War ――閉ざされた大地で――

第八章 激突、法皇の壁




 ついに、ラグナが動き出した。サーギオスを発ったかと思うと、瞬く間に旧帝国内を席巻し、リーソカ、ユウソカ、サレ・スニル、ゼィギオスなどを陥落させたのだ。そのまま北上を続け、すでにその勢力圏はリレルラエルにまで及んでいる。

 早い話、旧サーギオス帝国領がそのままラグナたちの手に渡ったと考えていい。

 仲間のスピリットの士気も高い。何しろ彼女らのほとんどが、かつては人間の歪んだ戦闘訓練によって、神剣に自我を飲まれてしまった者たちである。ラグナの『転生』によって救われた今、その復讐の矛先が人間に向けられたのは当然といっていい。

 その上、今までゴミクズか何かのようにしか扱われたことのない彼女たちを、ラグナはあたたかく迎えた。それは彼女たちが始めて感じる安らぎであった。おそらく、ラグナが姉か母親のように映っただろう。彼女たちのラグナを慕うこと、はなはだしい。

 その結束は、今では岩をも砕くといっても過言ではあるまい。皆が皆、ラグナの言う「人間根絶」に向かって心をひとつにしていた。

 だが、制圧した領域に比べると、その目的自体はほとんど果たせていなかった。

 サーギオス城がラグナに制圧されたと知れ渡った途端、周囲の住民は恐れをなしてほとんどが逃げ散ってしまっていたせいである。実際、リレルラエルにたどり着くまでにラグナたちが殺した人間の数など、数えるほどでしかない。

 ただし、言うまでも無いが、ラグナに見つかった人間は全て殺されている。その中には赤ん坊もいるし、身動きも取れぬような老人も含まれている。まさに、見境なしといっていい。

 しかも、その最中にラグナは相当タチの悪いこともやってのけた。

 人間を殺すだけでは飽き足らず、その死体を晒し首にしたばかりか、その首にレスティーナをはじめとするガロ・リキュアの貴族どもの名を書き付けた紙切れを貼り付けたのである。レスティーナへのあてつけであった。

 そのやり口は、常軌を逸しているとのそしりを免れない。もっとも、それだけラグナの人間に対する憎しみが深いということでもあるのだが。

 一方、レスティーナも黙ってこれを見過ごしていたわけではない。ラグナがサーギオスを発ったという知らせを受けるや、すぐさま旧スピリット隊の面々を向かわせている。

 リレルラエルにいるラグナも、彼女らが迫りつつあるということを知った。





《リレルラエル》

 砂金をばらまいたような星空だった。

 他のスピリットたちが寝静まったのを見計らって、ひとりラグナは宿営している館を出ると、郊外の小さな森へと足を向けた。森の中は暗いが、星明りを頼りに進んでゆくラグナの足取りはしっかりしたものだった。

 しばらく行くと、森の奥からぼんやりとした赤い光が漏れてきた。ぱちぱちと焚き火のはじける音も聞こえる。

 そこに、クスカはいた。

「おや、ラグナ。こんばんは」

「こんなところにいたのか、お前は……」

「どうしたんですか? こんな夜更けに」

 まるでラグナが来るのを知っていたかのように、クスカは無邪気な笑顔を向けた。

 彼の目の前、焚き火にかけられた小鍋の中で湯が煮えている。そこにクスカが何かの粉末を入れると、はっかのような香りがあたりに立ち込めた。

 この香り、あまりラグナは好きでないらしい。むっ、と顔をしかめると、

「何だ、それは?」

「なあに、ただの薬草を干して粉にしたものですよ。煎じて飲むんです」

「……そんなものが効くのか?」

「効かないでしょうね」

 無駄だと分かってこうしているのが、我ながらおかしくなったらしい。くすっ、とクスカは笑みをこぼした。

 一方のラグナは、露骨に顔をしかめる。

「この前も血を吐いたらしいな」

「おや、ばれてましたか。誰にも言わなかったんだけどなぁ……。どうしてわかったんです?」

「そのくらい、お前の顔を見れば分かる。前よりもよほど顔色が悪い」

「ラグナにはかなわないなあ……」

 そう言って微笑するクスカの顔には、重い病を患っているような暗い影はまったく見られない。おそらく、自分の運命について悟りきってしまっているのだろう。

「どうする気だ。今ならまだ間に合うというのに……。このままでは、せいぜいもって半年だぞ?」

「そんなにもってくれますか?」

 嬉しげな顔つきでクスカが言ったのには、ラグナも呆れた。

 この若者、欲というものを置き忘れて生まれ落ちてしまったかのように、ものごとに執着が無さすぎる。それは、自分の生命についても例外ではないようだった。

 ラグナは責めるような目をすると、

「お前は馬鹿だ」

「ひどいなあ。そりゃあ、ラグナくらい賢いとそう見えるのかもしれないけど」

「違う。『転生』の力を使えば助かるというのに、何故わざわざ死を選ぶような真似をするのかと聞いている」

 『黒い翼』の連中を見れば分かるように、『転生』の羽には、それを取り込んだものの肉体をマナで構成しなおす能力がある。彼らがスピリットに及ぶほどの力を持ち得たのはそのためである。

 同じように、マナで存在を書き換えることによって病気を治すこともできるのだ。

 にもかかわらず、今まで何度ラグナがすすめてもクスカは肯んじなかった。

「だって、人間じゃなくなるでしょう?」

 そう、肉体をマナで構成しなおすというのは、人間をやめるというのと同意義である。早い話が、スピリットやエトランジェのようになるということだ。

「それじゃあ駄目なんです。私は人間のまま、ラグナのそばにいたいんです」

 他のことにはまるっきり執着を持たないクスカだが、この一点にだけはこだわった。

「だから、ね? ラグナ」

「お前というやつは……」

「いいんですよ。人生は長く生きればいいってものじゃないんですから」

 クスカのふわっ、とした丸みのある声を聞いていると、時としてラグナは物悲しさを覚えることがある。

 クスカはエトランジェでもなければスピリットでもない。ただの人間である。

 にもかかわらず、あれほど人間を憎悪するラグナが、クスカだけは憎みきれない理由は、案外こうしたところにあるのかもしれない。

(もし、すべての人間がお前のようだったなら、私も少しは違っていたのかもしれない)

 ふと、そんな思いがラグナの胸中をかすめることがある。だが、一度燃え上がった黒い憎悪の炎が消えることはなかった。

(歴史に「もし」は無い。300年間、人間がスピリットを虐げ続けたという事実は消え去りはしない)

 いつもの無表情に戻ると、突然ラグナは切り出した。

「ところで聞いたか?」

「何を?」

「旧ラキオススピリット隊がここに向かっている。もう二、三日もすれば到着するだろう」

「ああ、そのことですか」

 クスカ、なぜか浮かぬ顔である。おそらくハリオンやヒミカの顔が浮かんできたのだろう。クスカの表情の変化にラグナも気づいたが、素知らぬふりで続けた。

「私も、できることなら彼女たちは殺したくない。だから……」

「はい」

「人間の女王を暗殺する」

 決然と言い切ったものである。

 ラグナは、いまだにエスペリアたちが人間に騙されていると思っている。人間とスピリットの共存、ということをまるっきりの絵空事としかとらえない彼女には当然のことだった。

 スピリット隊の面々を人間の側に引き止めている最大の綱はレスティーナである。となると、

――いっそ、暗殺するか。

 一足飛びに、ラグナの思考は飛躍してしまう。ラグナは、殊にスピリットに関することとなると見境がなくなる。こういう論理の飛躍も、彼女の中にあってはごく自然なことなのだ。

――あの女を殺せば、「人間とスピリットの共存」などという迷妄から、彼女たちも解き放たれるだろう。

 何の疑いもなく、そう思い込んでいる。

「どうだ、クスカ」

「……ラグナなら、いつかそう言い出すとは思っていましたが……」

「無論、私自身が手を下す。こんな汚れ役を他の皆にさせるわけにはいかないからな。汚名を着るのは私だけでいい」

 暗殺というのは、敵はもちろんのこと味方にさえも非難を浴びせられる手段である。たとえ暗殺自体に成功しても、それだけは免れられない。

 ラグナは冷徹かもしれないが、そういう汚い役回りを他人に押し付けるような卑怯者ではない。まして、彼女が愛してやまないスピリットたちに犠牲を強いるようなことをするはずもなかった。

(人間を滅ぼし、この世界をスピリットの手に取り戻す。それが私の唯一の望みだ。それさえ叶えば、あとは私はどうなろうともかまわない)

 そんなラグナを、クスカは困ったような顔で見つめていたが、

「やめておいたほうがいいでしょう」

 はっきりと、言い切った。クスカには、クスカなりの思惑があるらしい。

「……なぜだ?」

「レスティーナ女王を殺したところで、スピリット隊の皆さんはラグナの言うことに耳を貸しはしないでしょう。レスティーナ女王に言われたからではなく、彼女たちは自分の意思で人間との共存の道を選んだのですから。「彼女たちは騙されている」っていうのは、ラグナの一方的な押し付けです」

「何故、そう言い切れる?」

「人間もスピリットも、ひとりひとり違う考えを持っています。ラグナが絶対の正義だと思っていることも、他人には絶対の悪にしか映らないこともあるってことですよ。……ラグナがやろうとしてることだって、殺される人間にしてみれば、ラグナが悪魔みたいに見えるんじゃないのかなあ」

 こんな当たり前のことが、ラグナには分からない。自分の考えが絶対だと思い込んでいる者によく見られる傾向である。だからこそ、クスカは言葉を尽くして説明したのだが。

 もし、彼以外の人間が同じことを言えば、間違いなく首をはねられていただろう。その証拠に、ラグナの表情が見る見る険しくなっていくのが見て取れた。

「クスカ、貴様……」

「……とにかく」

 今にも癇癪を起こしそうなラグナをやんわりと制して、クスカは続けた。

「やめておきなさいって。誰が得をするわけでもないんですから」

「しかし……」

「第一、レスティーナ女王を殺された彼女たちは、間違いなくその怒りの矛先をラグナに向けてきます。彼女たちの戦意を煽り、いたずらにこちらの被害をふやすことになるでしょうね。……それとも、ラグナはそっちのほうが望ましい?」

(……こいつめ、私が何と答えるかわかっているくせに……)

 にこにこと微笑みかけてくるクスカに、ラグナも白旗を揚げた。

「この策士め……。まんまと私をはめてくれたな」

「何言ってるんですか。自分ではまったくせに」

「……お前にだけは敵わん」

 結局、いつものようにクスカにだけは頭が上がらないラグナであった。が、すぐに顔を曇らせると、

「やはり、彼女たちは殺さねばならないのか……」

「それがラグナの選んだ道です」

 きっぱりと、クスカは言い切った。これには、さすがのラグナも嫌な顔をした。

「それとも、『人間を滅ぼし、必ずスピリットの幸せを勝ち取る』というラグナの誓いは、その程度のものですか?」

「……」

「ラグナ、これだけは言っておきます。あなたのやろうとしていることは、この世界を全く別のものに変えるものです。それだけ、大きな意味を持っている。もちろん、滅ぼされる人間にとってもね」

「その程度のこと、言われなくてもわかっている……!」

「それなのに、ラグナはこんな些細なことにこだわっている……。ラグナのやろうとしていることを考えれば、許されることではありません。それが、滅びゆく者に対する礼儀であり、滅ぼすラグナが負うべき責務です。それができないというのなら、ラグナに人間を滅ぼす資格はない」

「クスカぁっ!」

 ラグナの激情に呼応するように、彼女の足元にオーラフォトンのサークルが広がると、強烈な突風が巻き起こった。しかし、クスカは全く動じることがない。その顔を忌々しげに睨みながら、ラグナは言った。

「……それは、人間を依怙贔屓しての言葉か?」

「さあ? それはラグナが一番よく分かってるはずです」

「くっ……!」

 こういうとき、クスカが決して人間を贔屓しないことは、誰よりもラグナが知っていた。それだけに、返す言葉がない。

「……お前の言うことはわかっているんだ。自分が甘いということも……。だが、それでも私は……」

 力なくうなだれるラグナには、いつもの凛冽たる雰囲気はない。心底、スピリット隊のことを思っているのがクスカにも分かった。そんなラグナを、クスカはやさしく見つめていた。

「彼女たちを殺したくはない……」

「やれやれ、ラグナも困った子ですね……」

 くすっ、と笑みをこぼすクスカである。

「……分かりました。ラグナのために一肌ぬぎましょう」

「……何?」

「私だって、彼女たちに死んでほしいわけじゃありませんから。ちょっとした個人的事情、というのもありますしね」

 何だかんだ言って、クスカはラグナが大好きなのだ。結局、甘いところがあるのはクスカもラグナも変わらない。

「そのかわり、ラグナにもしっかり働いてもらいますよ?」

「……わかった」

 結局、最後はクスカのペースに巻き込まれてしまうラグナであった。







 翌朝。

「なぜですか、ラグナさまっ!」

 仲間のスピリットたちがものすごい剣幕で押しかけてきたのには、ラグナも頭を抱えてしまった。それというのも、

「この男は人間ですよ!? ラグナさまは私たちに、人間の指揮のもとで戦えとおっしゃるのですか!?」

 今回のラキオススピリット隊との衝突に当たって、すべての指揮権をクスカに委ねると宣言したためである。

 当のクスカはといえば、まるで罪人並みの扱いで、周りを四人のスピリットに囲まれ、神剣を突きつけられていた。(まいったなあ)といった顔つきで、ラグナに苦笑してみせている。

 そんな中、年かさのレッドスピリットがラグナの前に進み出た。気の強そうな、どこかヒミカを思わせる顔立ちだった。その彼女が、詰問するように、

「ラグナさま。納得のいく説明をお願いします」

「……さっきも言ったとおりだ。今回の作戦、私は別行動をせざるを得ない。クスカは私の代理だ」

「ならば私がラグナさまのかわりをつとめましょう。どうか、私に指揮をお任せください」

「駄目だ。お前には荷が重すぎる」

 哀れみを含んだ表情で、ラグナは首を振った。しかし拒否された彼女にしてみれば、自尊心を傷つけられたことには変わりない。

「な、なぜですか!? 私ごときでは、信用できないとでも!?」

「そうではない。ただ……これまでのお前たちは神剣に飲まれ、神剣がマナを欲するまま、なかば本能に近い状態で戦ってきた。なるほど、神剣に心を飲まれていたほうが、ひとりひとりの力は強いだろう。だが、そのせいでお前たちは仲間と力を合わせる、ということを知らずにここまで来た」

「そんなことは……!」

 思わず反論しようとするレッドスピリット。だが、ラグナはみなまで言わせずに、目顔で彼女を制すと、先を続けた。

「お前が言いたいことはわかる。何人かで作戦行動を共にしたことはある、と。……違うか?」

「……そのとおりです」

「だが、それはあくまで「同じ部隊に配属された」というだけのことだ」

「……?」

 ラグナの言わんとすることがまだ掴めていないのか、きょとん、とした顔つきの少女であった。ラグナは、そんな彼女に噛んで含めるように穏やかな調子で言った。

「戦うときはいつもひとり。仲間に頼ることもなければ、頼られることもない。そうだったろう?」

「は、はい……」

「別にお前たちに非があるわけではない。神剣に飲まれていた以上、仕方がないことだったんだ。だが、それでも……仲間を知らないことは、悲しいことだと私は思う」

 表情を曇らせるラグナに、少女も、はっ、とした顔つきになった。ラグナはあらためて全員の顔を見渡すと、

「何も戦いに限ったことではないが……今度の戦いの中で、お前たちには仲間というもの重みを知ってほしい。……だからこそ、まだそれを感じたことのないお前たちには、全員の命を預かる指揮役を任せることはできない」

 ラグナの言葉をかみしめるように、全員がしん、と静まり返った。ラグナの言葉は、自分たちに対する愛情から出たものであるとはっきりと理解できたのである。

 しかし、同時に不安にもなった。先の言葉は、裏を返せば人間であるはずのクスカに、ラグナが深い信頼を寄せているとも取れるのである。皆の気持ちを代弁するかのように、先ほどのレッドスピリットが口を開いた。

「ラグナさまのお気持ちは分かりました……。ですが、人間が指揮を執ることだけは承知しかねます。よりにもよって、このような男に指揮を任せるなどと……。やはり、私はラグナさまに指揮を執っていただきたく思います」

「だから、それは無理だとさっきも言ったではないか……」

「いいえ! こればかりはいくらラグナさまでも譲れません!」

(……ふふっ、ラグナにそっくりの強情っぷりですね)

 強気に言い張る少女を、いささかもてあまし気味のラグナを見て、人知れず苦笑するクスカであった。それだけ少女の中におけるラグナの存在が大きいということでもあるのだろうが……。

 少女の意見に、他のスピリットたちも賛成らしい。黙ってはいても、何かを期待するようなまなざしをラグナに向けている。さすがのラグナもうんざりした表情を隠せなくなってきた。ふぅ、とひとつため息をつくと、

「お前たちが不安を感じる気持ちは分かる。だからもし、この男がひとりでも脱落者を出すようなことがあれば……」

 そこで、ラグナはいったん言葉を切った。次の言葉を、皆が固唾を呑んで見守っていた。

 ゆっくりと、ラグナは口を開いた。その内容に、ここにいるスピリット全員が耳を疑った。

「即座に、この男の首をはねていい」

「……え?」

「お前も、それで構わないな、クスカ?」

「ええ、もちろん」

 力強くうなずくクスカに、ラグナを除く全員が目をみはったものである。一同、声もないままに、

「では、私は行く。あとはクスカの指示に従って彼女たちを迎え撃つように」

 ラグナは宿営を後にしてしまった。去り際に、

(うまくやれ、クスカ)

 クスカにだけ分かる目配せを残して。それだけで、クスカにはラグナの信頼が感じ取れた。

(……了解。ラグナのためにも、誰ひとり死なせはしませんよ)

 取り残されたクスカに、全員の視線が注がれる。そのどれもが、好意的とはかけ離れたものであった。先のレッドスピリットが、憮然とした面持ちでクスカを睨み付けると、

「ラグナさまに免じて、今回だけはお前の指揮下に入ってやる。だがな……お前を信用したわけではないからな。それを忘れるな」

(……まいったなあ)

 それほど深刻でもなさそうな顔で、頭をかくクスカであった。





 その頃、光陰たちスピリット隊は、ケムセラウトに到着していた。ここから南下すれば、帝国の最外部ともいうべき法皇の壁にぶつかり、ラグナのいるリレルラエルは目と鼻の先である。

 ちょうど日暮れ時と重なり、今夜はここで野営することに決まった。

「さすがにラキオスからだと遠いよなぁ……。やれやれ、エーテルジャンプが使えりゃあもう少し楽に来られたってのに……」

「仕方ないでしょーが。ヨーティアったら戦争が終わった途端、『これはアタシたちには過ぎたシロモノだ』とかなんとか言って、自分で壊しちゃったんだから」

 光陰をたしなめるように言う今日子だが、心の中では彼と同じことを思っているらしい。その口調には、どこか投げやりなものが感じられた。

 ロウ・エターナルとの決着がつき、ファンタズマゴリアに平穏が戻ると、各国の技術者が争ってエーテルジャンプの技術を欲しがり、ヨーティアのもとにつめかけたものだ。大陸が統一され、研究者にとっては邪魔でしかない「国」という障壁がなくなった以上、無理もなかった。

 しかし、やってきた彼らの目の前で、ヨーティアは装置を叩き潰した。唖然とする彼らを前にして、ヨーティアはこう言いはなったものである。

「いいか、よーく聞けボンクラども。このエーテルジャンプってのはな、イオの『理想』の力があってはじめて成り立つものなんだ。天才であるアタシだって、まだその原理を解き明かしたわけじゃない。所詮は、「こうしたらこうなる」って経験則に基づいた出来損ないの産物なんだよ。……そんなもん、自分たちで作り出した技術とは到底言えないだろう? これまでは必要上、仕方なく使ってきたが……戦争が終わった今、こんなもん必要ないだろ」

 ニヤリ、と皮肉っぽく笑うヨーティアに、研究者たちはいっせいに文句をたれたものだ。そりゃあそうだろう。せっかく得た技術を、何も自分から放棄する必要はないのである。

 だが、それこそがヨーティアと彼らの、研究者としての「格」の違いでもある。

「……はぁ、だからいつまでたってもボンクラなんだよ。お前たちには技術者としての意地とか誇りってもんはないのか?」

 ヨーティアは呆れ顔で、そのくせ値踏みするように全員の顔を見回した。

「いいか? この出来損ないのエーテルジャンプでさえ、アタシがいなきゃお前たちが知ることはなかった。言ってみれば、お前たちは他人の褌で相撲とってるようなもんだ。それがなんだい、アタシがこの技術を放棄するって言った途端、このザマだ。仮にも研究者名乗ってるなら、文句を言う前に自分で開発してやろうって根性はないのか?」

 ヨーティアの言葉に、全員が恥ずかしそうに下を向いてしまったものだ。その様子を、しばらくニヤニヤと眺めていたヨーティアだったが、

「……まあ、そうは言ってもボンクラにゃあ荷が重いだろうからね」

 おもむろに新しいタバコをくわえなおすと、勢い込んで言い切ったものである。

「10年だ。10年で、エーテルジャンプにかわるシステムを作り出して見せる! 天才の名にかけてな」

 実際は10年どころか、わずか3年で完成することになる。天才の面目躍如である。

 が、当然のことながら、今はまだ無い。開発の真っ最中である。

「まったく、余計なカッコつけて……。天才のプライドってのも困ったもんだよな……」

 光陰がぼやくのも無理はなかった。





 一方、エスペリアたちが野営の準備にかかっている頃、ウルカは、

「すみませぬ。手前、少々身体を動かしておきたいので……」

 そういい残し、野営地を離れると、近くの渓流にやってきた。が、先ほどから素振りをするでもなく、せせらぎのそばにある苔むした岩の上に腰を下ろしたまま、じっと水面を見つめていた。

 西日を照り返すせせらぎは、目に沁み入るほどに美しかった。

 そのとき、ウルカは何かに耐えられなくなったような目をすると、すらりと腰の剣を抜き放った。空の光を浴びてオレンジ色に輝く刀身に、脂肪が雲のように浮かんでいた。この剣が、人を斬った証である。

 つ、と一筋の涙が、ウルカの頬を伝い落ちていた。

 これで何度目だろうか。この剣を見つめているときのウルカは、決まってこうなのである。それだけ、この剣がウルカにとって深い意味を持っている、とも言える。

 が、それが決していい意味ではないことは、ウルカの顔に漂う、憂鬱そうな色を見ればすぐにわかった。最近では、普段の凛、とした武人らしさも影をひそめ、ぼんやりしていることが多くなっている。

 その証拠に、今も、

「……ウルカ」

 背後の草を踏み分けてやってきたアセリアに、声をかけられるまで気づかなかった。ウルカ、狼狽を隠しきれない。

「あ、アセリア殿……? どうしてここに……」

「夕御飯ができたからウルカを呼んで来いって、エスペリアが」

「もう、そのような時間でしたか……。わかりました、手前もすぐに戻ります故、アセリア殿は先にお戻り下さい」

 が、アセリアは動こうともしない。いつもの、何を考えてるのか分からないような顔で、じいっとウルカの顔を見つめていた。アセリアは、はた、と何かに気づいたように小首を傾げると、

「……ウルカ、泣いていたのか?」

「う……」

「ここ、涙のあとが残っている。それに……目も赤い」

 ウルカはもともと赤目……などと言っている場合ではない。

 アセリアに指で示され、ようやくウルカも気づいた。ウルカ自身、泣いていたことに気がついていなかったのだろう。あわててごしごしと顔をこすったが、もう遅い。

 そのとき、ウルカの手に握られた抜き身を、アセリアの視線がとらえた。

「また、ミュラーのことを考えていたのか……?」

 口調こそいつもと変わらないように思えるが、そう問うアセリアの目には、確かに悲しげな色が窺えた。

 ウルカも隠し事ができるような器用者ではない。まして、すべてを見透かすかと思えるほどに、澄んだアセリアの瞳に見つめられては、どうしようもなかった。

 力なく、ウルカは頭をたれた。その、魂が虚脱したような動作が、無言でアセリアの言葉を肯定していた。

「それ……ミュラーが使っていた剣か?」

「……はい。『黒い翼』の手の者が、ゼィギオスを襲ったときに……」

 皆まで聞かずとも、アセリアは知っている。スピリット親善使節として、ウルカがゼィギオスに派遣されていたこと。ラキオスに戻るようにとレスティーナから伝えられ、その留守をミュラーに預けたこと。ウルカの不在を狙ったかのように、『黒い翼』の連中がゼィギオスを襲ったこと。

 そして……連中の手にかかり、ミュラーが命を落としたこと。

 それからというもの、もともと口数が多いとはいえないウルカが、ますます寡黙になってしまった。傍目にも、ウルカがミュラーのことを気に病んでいるのは明らかだった。

(あのとき、手前がもう少し早くゼィギオスに戻れていれば、ミュラー殿は死なずに済んだ……。いや、そもそも留守を頼んだりしなければ……)

 真面目の塊、といっていいウルカだけに、余計に責任を感じるところがあったのだろう。単なる剣術の師、というだけでなく、それ以上にミュラーの人柄を敬愛していただけに、罪悪感を感じることしきりであった。

 無論、ウルカに非はない。『黒い翼』が襲撃してくるなど予想もできないし、襲撃の知らせが届いてからは、ウルカは最善をつくしてミュラーの救助に向かっている。誰もウルカを責めることなどできないし、責めるつもりの者もいない。

 それは、ウルカ自身も分かっている。だが、いくら理屈上はそうであったとしても、感情が自分自身を許さないのも事実だった。

「ミュラー殿を殺したのは……手前です。手前がミュラー殿を殺したのです……」

 がっくりと膝を突き、ミュラーの剣を見つめて嗚咽を漏らすしか、今のウルカにはできなかった。

 アセリアも、ミュラーに剣の手ほどきを受けた一人である。優しさがにじみ出るようなミュラーの温顔もよく覚えている。それだけに、ウルカがこんな風になっているのを、ミュラーは望まないと分かっていた。アセリアは、ウルカのそばにかがみこむと、

「ミュラーは……怒ってないと思う」

 ぼそり、と言った。「え?」と言いたげな顔のウルカを見つめながら、

「だって、この剣をウルカにくれたから」

 と、ミュラーの剣を撫でながら言った。ウルカは、憂鬱そうな目のまま、アセリアと一緒に剣を撫でた。

「しかし、手前のせいでミュラー殿が亡くなられたのは紛れもない事実……。きっと、手前を恨んでおいででしょう……」

「そんなことはない」

「え……」

 大きな声――といっても、普段と比べてだが――で、アセリアが否定した。その声には、何物にも揺るがない確信がこめられていた。

「もし怒ってたら……ウルカのことが嫌いになったのなら……ミュラーは、この剣をウルカにはくれなかったと思う」

「しかし……」

「ミュラーはウルカのことが好きだったんだ。……うん、絶対」

 こくこくと、ひとり頷きながら言うアセリアに、一瞬だがウルカの顔に微笑が立ちのぼった。だが、次の瞬間には、もとの憂鬱な表情に戻ってしまっている。そればかりか、今度は自嘲の笑みさえ浮かんでいるではないか。

(手前は、何と浅はかな……)

 アセリアの言葉に、一瞬でも心を緩めてしまったことが、自分のことながら歯がゆくなったのだろう。

(こんなに自分に甘くてどうする……。手前のこの甘さが、ミュラー殿を失うことにつながったかもしれないというのに……。まだ、手前は自分を許すわけにはいかない)

 ウルカは苦笑とも自嘲とも取れる表情で、アセリアを見つめ返した。

「アセリア殿はお優しい……。しかし、手前にはその優しさを受け取る資格はありませぬ」

「……よくわからない。ウルカ、それはどういう意味?」

「アセリア殿……何と言われても、手前が取り返しのつかないことをしてしまったのは事実です。そして、許しを乞うべきミュラー殿はもういない……。そうである以上、手前が勝手に自分を許すわけにはいきませぬ」

「ウルカ……」

 アセリアは悲しそうに眉をひそめると、

「ミュラーはもういない……。だから、本当は許したくてもウルカに伝えられないだけ。いつまでもウルカが悲しそうな顔をしていたら……きっとミュラーは悲しむ。ウルカはそれでいいのか?」

「良くは、ありませぬ……。しかし……」

「何か、ミュラーが喜んでくれることをすればいいと思う。そうすれば、きっと許してくれる。……ミュラーは、優しいから」

「……」

 やり場のない虚脱感を抱えたまま、ウルカは空を見上げた。いつの間にか日が沈み、あたりは群青色に染まり始めている。

 しばしの沈黙。虫の音と、川のせせらぎの音だけが、場を支配していた。そんな中、ぽつり、とアセリアが口を開いた。

「これから……ウルカはどうする?」

「……アセリア殿は、どうすればよいと?」

「わからない。それはウルカが自分で決めることだと思う。……ミュラーは、何と言っていた?」

「……」

 瞑想でもするように、ウルカは上を向いたまま、目を閉じた。まぶたの裏に、あの夜の光景がよみがえってくる。同時に、そこにミュラーが居合わせるかのように、彼女が残した言葉が聞こえてきた。

『……いいか、ウルカ。この世界は、まだアンタたちスピリットを受け入れきってない。それは、腐った人間ががたくさんいるからだ。でもね……それと同じくらい……いや、もっとたくさんのいい人間がいる。あんたたちとともに生きたい、心からそう思ってるやつがね……』

 その腐った人間の代表が、『黒い翼』である。そして、その救いようのない連中にミュラーは斬られた。

(手前自身も許せぬが、かの者たちも許せぬ……!)

 だからこそ、ウルカはその場で連中を斬って捨てた……ミュラーの剣で。

 しかし、それは根本的な解決にはなっていない。ミュラーの言葉を借りれば、『剣では、守ることは出来ても、創ることは出来ない』ということなのだろう。

『くじけるな。せっかくアンタたちがロウ・エターナルから守った世界じゃないか。これからは、アンタたちが笑って暮らせる世界にするって仕事が残ってるだろ? ……大事なことは、剣と同じなんだよ。雑念を捨てる、そして心を静かに研ぎ澄ませ………そうすれば、自分がすべきことも見えてくるはずだ。……いいね。これが、師としてアタシがあんたに残してやれる最後の奥義だ』

 ミュラーの言葉を思い浮かべていると、今更ながらウルカは、ミュラーのあたたかさが心にしみこんでくる思いがした。

(手前がすべきこと……)

 胸に手を当てて、思いをめぐらせるウルカを見て、アセリアは小首をかしげた。

「ウルカ……?」

「アセリア殿……。手前には、まだやるべきことがあるのかもしれませぬ……」

 そういってアセリアを見つめるウルカの瞳からは、完全とはいえないが、確かに迷いが消えつつあった。

「手前たちが笑って暮らせる世界……。人間とスピリットが手を取り合える世界。そんな世界にしろと、ミュラー殿は手前に託されました……」

「うん……」

「だから、もう少しだけ……探してみようと思います。ミュラー殿の気持ちにこたえる道を……」

「……そうか」

 にっこりと、アセリアは微笑むと、いつか悠人にしたように、くしゃくしゃとウルカの頭をなでた。

「あ、アセリア殿……!」

 恥ずかしいのか、頬を赤く染めながらも、結局アセリアの好きにさせるウルカであった。そのまま、ウルカは空を見上げると、はるか彼方にあるという、ハイペリアに向かって祈りをささげた。

(ミュラー殿……。手前はまだ、自分を許すことができませぬ。しかし、ここで立ち止まっていては何も解決しませぬ)

 ウルカは心の中で、姿のないミュラーに語りかけた。

(だから、手前は行きます……。ミュラー殿が、笑ってくれるように。そんな世界になるように。……それが、手前のけじめです)

 その瞬間、ミュラーが笑ってくれた気がした。『それでこそ、ウルカだねぇ』といわんばかりの、優しい笑顔だった。

 見上げると、いつの間にか空が、宝石のような星々に塗りつぶされていた。





《リレルラエル》

 翌朝。

 まだ日も昇りきらない刻限だけに、皆、寝静まっている。

 そんな中、一人のレッドスピリットが妙な物音を聞きつけ、目を覚ました。

(……なんだろう?)

 先日、指揮をクスカに委ねるといったラグナに、食ってかかった少女である。

 リィラ=レッドスピリット。それが彼女の名だった。つりあがった眉に、引き締まった口元。その油断の無い目つきは、どことなくラグナを思わせる。

 ここにいるスピリットは皆、ラグナを慕っている。リィラもそんな一人だ。それだけに、自然とラグナに似てきてしまうのかもしれない。

 相変わらず、外では妙な音が続いている。それに、人の気配もあった。

(一応、確かめておこう)

 他の皆を起こさないよう、静かに掛け布団を脇へどけ、立てかけておいた神剣を手に取る。

 そろり、と外へ出た。

 そこにいたのは、クスカだった。いかにも重そうな剣を握り、素振りを繰り返している。物音の正体は、これだったらしい。しかし、

(それにしても……なんて下手な動きだ。踊っているようにしか見えない)

 リィラをしてそう思わしめるほど、クスカの動きはぎこちない。棒振り芸、とでも言えばよかろうか。

 だが、当のクスカは大真面目で剣を振っている。額に浮かんだ汗をぬぐおうともせずに、せっせと同じ動作を繰り返していた。

 見かねたリィラが、思わず声をかけてしまったのもうなずけるというものだ。

「……何のつもりですか、これは?」

「え?」

 リィラの存在に気づいてもいなかったらしい。振り返ったクスカは、意外そうに目を見開いていた。リィラは呆れたが、続けてクスカが言った言葉には、なおさら呆れさせられた。

「ああ、リィラさん。こんな朝早くから散歩ですか?」

(……この男、頭のねじを二、三本、締め忘れているのか?)

 やはり、クスカはどこかずれている。クスカの問いを憮然とした表情で無視すると、リィラは皮肉をたっぷりきかせて言ってやった。

「それより、その棒振り芸は何のつもりですか? そんな座興の芸、披露する機会はないはずですが」

 が、そんな嫌味を言われても、クスカは意にも介さない。にこにこと笑顔で見つめ返すばかりである。リィラは拍子抜けがする思いだった。

「それより、リィラさん」

 笑顔を崩さず、クスカは切り出した。

「今日はどうしたんですか? 敬語なんて使っちゃって。前と同じしゃべり方でいいんですよ?」

「……ラグナさまがいない間だけのこととはいえ、仮にも、あなたは我々の指揮官ですから。この方が自然でしょう。どうぞ、お気になさらず」

「うーん、堅苦しいのは嫌いなんだけどなぁ……」

 苦笑しながら頭をかくクスカだが、そんな彼に向かって、リィラは決め付けるように言った。

「あなたがどう思おうと、これで通させていただきます。そもそも、人間を私たちと同列に扱えるわけがないでしょう? 見下すのでなければ敬う……他にどうしろというのですか?」

 氷のような、冷たい視線だった。リィラの口調こそ丁寧だが、その端々にはクスカに対する侮蔑が露骨に含まれていた。他人の気持ちというものが分かりすぎるクスカが、それに気付かないはずはない。

 眉をひそめるクスカに向かって、リィラは続けた。

「ですから、間違っても私たちと同じ立場に立とう、などと考えないで下さい。もちろん、あなたは戦わなくて結構です。どうせ、命を張るのはスピリットなのですから。あなたはせいぜい、私たちが血を流す後ろで、ぬくぬくと指揮でもしていればいいでしょう?」

 と、クスカの握る剣へ、視線を落とした。

(ふん、その剣だって、私たちに同情しているフリをするための小道具だろう。自分の命を危険に晒す気なんか、これっぽっちも無いくせに……)

 射るように睨み付けてくるリィラに、さすがのクスカもため息をついた。

「……わかりました。どうしても私を人間として扱いたいと言うのなら、それで構いません。……ただし」

 と、大きな瞳を見開くと、クスカもリィラの目をしっかりと見据え、言った。

「私の指示には、絶対に従ってもらいます。命令拒否は一切認めません。……あなたの中の人間像というのは、そういうものなのでしょうから」

「いいでしょう。もとより、命令を拒否する気などありませんから」

「……わかりました」

 本当なら、クスカもこんな物言いはしたくなかった。無理やり命令を聞かせるなどということは、クスカのような青年には、耐え難いことだった。

 だが、今のクスカには、それ以上に優先すべきことがある。

(誰も死なせない……ここの皆さんも、ハリオンさんたちも。ちゃんと約束は守りますよ、ラグナ)

 そのためには、指揮権を確立しておかねばならない。

 クスカは「人間だ」という理由で、ここにいるスピリットたちに信頼されていない。当然のことだ。そもそも、この人間排他的な集団の中、ラグナの信頼があるという以外の理由で、クスカが身を置く場所などありはしない。

 それだけに作戦中、スピリットたちが自分の指示を無視する恐れがあった。

 もともと戦争で、敵味方ともに一人の死者も出さない、などというのが無茶な話なのである。それだけに、今回の作戦はクスカの宰領にすべてがかかっているといっていい。

 そういう難しい戦いをしようというときに、命令違反を起こされては困るのだ。

 クスカは、冷徹な「人間」という仮面の下に、感情を殺した。そうしてでも、ここは指揮官としての立場をはっきりさせておかなくてはならなかったのが、クスカの辛い立場だ。

「では、リィラさん。指揮官として、最初の指示を下します。あなた方の中で、もっとも腕が立つメンバーを、10人選んでください。その方々に、斬り込み隊としてラキオススピリット隊に正面から当たってもらいます」

「……わかりました。人選は、こちらに任せていただけますね?」

「ええ、それはもちろん」

 クスカは、力強くうなずいた。続けて、リィラがたずねる。

「それで、他の皆の配属は?」

「ありません」

「え?」

「他の皆さんには、後方で待機してもらいます。実質、彼女たちに当たるのは最初にいった10人だけです」

「な……!?」

 目を白黒させるリィラに、追い討ちをかけるようにクスカの言葉は続く。

「それと、もうひとつ。私が「退け」の合図を出すまでは、斬りこみ部隊が戦線離脱するのを認めません。たとえ最後の一人になっても、戦ってください」

「ふ、ふざけるなぁっ!」

 激昂を抑えきれず、リィラの言葉が荒くなる。しかし、クスカは眠そうな視線を向けて、一瞥するだけだった。それが、リィラを一層煽ることになった。

「何故だ!? 何故全ての兵力を投入しない!? 兵力の分散は、多少でも戦術を知っている者なら絶対にしないタブーのはずだ!」

「……」

「しかも、死ぬまで戦えだと? 私たちを何だと……」

 しかし、言いかけるリィラに、クスカは冷たく言い放った。

「黙りなさい。命令拒否は認めないと言ったはずです」

「……っ!」

 自分で言ったことだけに、リィラは口をつぐまざるを得ない。感情の抑揚を隠したまま、静かにクスカは続ける。

「理由が聞きたいというのなら、教えましょう。斬りこみ部隊は、いわば餌です。果敢に戦い、相手の気を引く。それこそ、死に物狂いでね。肝心なのは、相手が思慮を失うくらいに翻弄し、躍起になるほどに攻めの手を休めないことです」

 クスカの脳裏には、戦場の光景が鮮やかに浮かんでいた。その、頭の中の地図をなぞるように、クスカの戦術も展開してゆく。

「そして、互いにある程度消耗したら、崩れたと見せかけて法皇の壁の内側へ退く。ご存知のとおり、法皇の壁は難攻不落の城砦です。そんな厄介な場所に逃げ込まれては、彼女たちとしても困るはず。まず間違いなく、逃げるあなたたちを追って、壁を抜けようとするでしょう」

「……それで?」

「彼女たちが法皇の壁をくぐったところを、伏兵にしておいた残りの戦力が不意をつき、一気に包囲してしまう。退路を断たれ、動揺した彼女たちを攻め崩すのは、十分に可能でしょう」

 兵士にとって、退路を立たれるほど恐ろしいことはない。百戦錬磨のラキオススピリット隊といえど、彼女たちだけが例外であるはずがない。地の利を生かし、巧みに戦場での心理を付いたこの作戦は、十分に機能するだろう。こういうことに関しては、クスカは天賦の才があるらしい。

 しかし、リィラはそうは見なかった。皮肉っぽく、片頬を吊り上げると、

「なるほど。クスカさまのおっしゃりたいことはよく分かりました。しかし、そううまくいくでしょうか?」

「何か、不満でも?」

「先ほど、クスカさまは伏兵に包囲させる、とおっしゃいましたが、残念ながら法皇の壁の周辺は開けた平野。伏兵を置くには不向きです。仮に置けるとしても、壁からは大分離れた場所になるはず」

「ええ、確かに」

「それでは、せっかくの伏兵も間に合わず、結局相手に逃げられてしまうでしょうね。こんなのは、戦術の初歩の初歩だと思いますけど……」

 してやったり、とでも言いたげに、リィラは勝利の笑みを浮かべた。もちろん、その中にはクスカへの侮蔑が色濃く含まれている。リィラはわざとらしく、はっと気がついたフリをすると、

「あぁ、これは失礼しました。クスカさまは人間ですものね。そんなこと、普段はお考えになる必要がありませんか。そりゃあ、こんな簡単な作戦の欠陥でも気付かないでしょうね」

 クスカを見下した。だが、クスカは顔色一つ変えずに、「あぁ、そのことですか」と言うと、

「大丈夫、そちらにはちゃんと手を打ってあります。今回の作戦、ラグナが別行動なのはそのためですから」

 微笑を浮かべて答えた。それと反比例するように、リィラの表情が険悪になったのは言うまでもない。そろそろと、人間に対するリィラの憎悪が鎌首をもたげ始める。

 きっ、とクスカを睨みつけると、唾をはき捨てるように言った。

「いいでしょう。その作戦、同意いたします。……ただし、約束は忘れないで下さい。もし、私たちのうち、誰か一人でも脱落した時は……」

「ええ、分かっています。その時は遠慮なく、私の首をはねてくれて結構です」

「……その言葉、絶対に忘れないで下さい」

 言うや否や、背を翻し、宿営の中に戻っていった。

 その背を、クスカは黙って見送った。いつの間にか、その顔には物悲しげな色が浮かんでいる。

 そよ風が、クスカの空色羽織を静かになびかせていた。





《法皇の壁・外周部》

 その日の午後、両軍は激突した。ケムセラウトから南下してきたラキオススピリット隊を、法皇の壁を背にラグナ勢が迎え撃つ。

 ラグナ勢の士気は高かった。

「人間の手先に成り下がったやつらに、思い知らせてやれ!」

 人間嫌いで凝り固まった彼女たちの目には、スピリット隊は人間に魂を売った裏切り者としか映らない。容赦なく剣を浴びせかけるばかりだ。同族に刃を向ける後ろめたさなど、薬にしたくてもなかった。

 しかし、燃え上がる戦意とは裏腹に、ラグナ勢は押しまくられた。

 何と言っても、相手は百戦錬磨のラキオススピリット隊である。ロウ・エターナルとの戦いを生き抜いたという戦歴は伊達ではない。一騎当千、まさしくファンタズマゴリア最強の戦士が顔を連ねている。何にもまして、長い戦争を通じて培われた絆が、彼女たちにはあった。

 そこへくると、ラグナ勢は見劣りすると言わざるを得ない。個々の力量といいチームワークといい、スピリット隊には遠く及ばない。形勢不利は否めなかった。

 そんな中にあって、ひとり気焔を上げ続ける者がいる。

 リィラだ。

 敵中に何度も突撃しては、時に退き、味方を鼓舞する。そして頃合を見はかり、再度突撃。その勇敢な姿に、何度ラグナ勢は救われたか分からない。

 崩れそうになりつつも、何とかラグナ勢が踏みとどまっているのは、リィラひとりの働きによるといっていい。

(まだ、退くわけにはいかない)

 リィラは、忠実にクスカの指示を守っていた。意外なことに、あれほどクスカに悪態をついたリィラは、命令に逆らおうとは考えなかった。

 スピリットの悲しい性だろう。いくら人間を憎く思っても、心のどこかに「人間の命令には従うもの」という観念が染み付いている。300年かけて醸成された意識は、そう容易に消えはしない。リィラはひたすら、クスカが「退け」の合図を出すのを待ち続けた。

 しかし、それも限界に近づきつつあった。

(まだか……!)

 激闘二時間余り、いい加減リィラの息も上がっている。まるで針でも浮かべたように、心臓が脈打つたびに刺すような痛みが走った。一向に指示を下す気配の無いクスカに、リィラも業を煮やした。

(やはり、私たちを捨て殺しにする気か……。人間め……! ラグナさまもどうかしている。あんな奴を信用するなんて……)

 心の中で、クスカに呪詛の言葉を投げかけたときである。

「それくらいにしときな」

 目の前に、長身の青年が現れた。

 光陰である。軽々と『因果』を肩に担ぎ、鋭くリィラを見据えた。その目には、えもいわれぬ気迫がこめられている。

 リィラを強敵と見たのだろう。

「どうやら、お前さんがリーダーみたいだからな。悪いけど、覚悟してもらうぜ」

(ここまでか……!)

 リィラはほぞをかんだ。

 エトランジェ相手に勝てると思うほど自惚れてはいない。リィラの顔から血の気が引いた。

 だが、それも一瞬、リィラは腹を決めると、

「……行く」

 自分でも驚くくらい、落ち着いた声で言った。

 その声に光陰が応じる間もなく、たん、と跳躍すると、リィラは真っ向から剣を振り下ろした。

 意外なまでに鋭い太刀行きだった。さしもの光陰も、『因果』で防ぐのがやっとだった。

(こいつ、出来るな)

 光陰は、一瞬でリィラの力量を見て取った。

 戦いは勢い、という。最初の一太刀を奪われたことで、光陰は守勢に回らざるを得ない。リィラも攻勢を維持すべく、執拗に攻め立てる。じりじりと、光陰は追い立てられていった。

 リィラは小技を用いない。相手がどう打ち込んでこようと構わず、自分に敵の刃が触れるより一瞬でも早く、相手を斬り捨てる。彼女の、ただ斬撃の速なるをもって最上とする太刀捌きには、一種異様な迫力があった。

 それは、神剣に自我を飲まれていた頃から変わらない。現に、今までリィラと対峙した相手は、そのすべてが初太刀で葬られている。

 しかし今回ばかりは、それが仇になった。

 確かに、リィラの剣は初太刀が強い。それは自我を飲まれてのこととはいえ、曲がりなりにも戦争を生き抜いてきたリィラの戦歴が証明している。

 だが、あまりにそれが上手く行き過ぎたせいで、リィラは二撃目以降をおろそかにしすぎた。初太刀というのは、十分に身体を沈め、体勢を整えて振ることが出来る。それだけに速さも出るし、威力もある。

 だが、剣というのは初太刀が全てとは限らない。当然、外されたときのことも考えておかなければならない。かつて、悠人がウルカに指摘されたことでもある。

 悠人は、失敗したからそれに気付いた。リィラは、失敗しなかったから気付かなかった。初太刀以外は必要としなかった、リィラの素晴らしい戦績がもたらした、実に皮肉なしっぺ返しだった。

 そして、リィラを不幸が見舞った。

 力をためず、不用意に突きを繰り出したのが運の尽きだった。

 リィラの腕が伸びきったところを、光陰はすばやく『因果』で叩きのけた。衝撃で大きくリィラの姿勢が崩れる。その隙を光陰は見逃さない。

 つつっ、とリィラの手元に滑り込むと、腰を跳ね上げるようにして『因果』を薙いだ。

 ばずんッ、と丸太をなたで叩き割ったような音とともに、神剣を握ったまま、リィラの右腕が吹っ飛んだ。

「うあっ……!」

 たまらず、リィラは地に突っ伏した。切断された箇所から、湯水のように血が吹き出る。意識が飛びそうになるのを、リィラは懸命にこらえた。

 そこへ、憂いを帯びた顔で、光陰が声をかけた。

「……悪いな。お前さんに恨みは無い。だけど……」

 光陰が言うのを待たず、リィラは憎々しげな視線を向けると、

「……だけど、何だ? また人間様お得意の言い訳か」

「おいおい、そりゃないだろ。俺は別に……」

「ふん、ラグナさまは、お前のことを多少は見所があると言っておられたが、違うようだな。所詮、やることなすことは人間と変わらない。いや、力がある分、人間よりタチが悪いかもしれない。貴様などが何を言おうと、今更聞く気はない」

 光陰は押し黙った。押し黙り、リィラの顔を見つめ、あきらめたようにため息をついた。

「……お前さんくらいのスピリットなら、致命傷にはなってないはずだ。戦いが終わるまでここでじっとしてろ。あとで必ず助けに来る」

「なめるな。人間に情けをかけられて生き延びるなんて……! 私など、ここで殺してしまえばいいだろう。その方が、後腐れ無くて互いのためだ」

「断る。俺はお前さんたちを止めに来たんであって、殺しに来たわけじゃない。戦いの中で殺しちまうことはあっても、好き好んで殺す必要はないだろ?」

「きれいごとを……!」

 吐き捨てるように言うリィラだが、言葉に力が無い。やはり、傷の深さは覆うべくも無かった。

 ちょうどその時である。他のラグナ勢が、撤退を始めた。ひとり、ふたりと法皇の壁の内側に消えてゆく。ようやく、クスカの指示が下ったのだ。

 相手が退却すると見て、スピリット隊も追撃にかかった。

 アセリア、エスペリア、ウルカ、セリア、ハリオン、ヒミカ、ナナルゥ、ファーレーン、そして今日子は、これまでの戦闘で崩れた隊形を編みなおし、法皇の壁へ向かい始めた。

 遅れるな、とばかりに手を振って合図する今日子の姿が、光陰にも確認できた。重症のリィラを放っておくのはいささか気が引けたが、さすがにそこは光陰も戦場慣れした男である。情に引きずられて、作戦を乱すわけにはいかなかった。

「じゃあな、そこでじっとしてろよ」

 言い残すと、隊の皆と合流するため光陰も駆け出した。残されたリィラは憤懣やる方ない。

「負けてたまるか、人間の手先なんかに……!」

 地面に転がった自分の右手から神剣を拾い上げると、這うようにしてスピリット隊のあとを追った。





(……妙だ)

 敗走するラグナ勢を追う最中、ふとウルカの胸中に疑念が生じた。

(何故、相手は守り易い法皇の壁に拠らず、わざわざ何も無い平原を戦場に選んだ? 彼女たちの中には、元サーギオス所属の者もいる。サーギオスのスピリットなら、法皇の壁の堅固は十分に承知しているはずだが……)

 しかも、である。

 ウルカの見るところ、負けたとはいえラグナ勢は十分に戦う力を残している。いったん態勢を整え、今度こそ法皇の壁にこもり、自分たちを迎え撃つだろうとウルカは考えていた。

 ところがラグナ勢は、立てこもるどころかそのまま法皇の壁を放棄し、リレルラエルに向かって逃げ続けているのである。

(おかしい。確かに消耗してはいるだろうが、それはこちらとて同じこと。今、法皇の壁に陣取れば、勝機は十分にあるだろうに……)

 どうしても、ウルカには解せなかった。

 だが、その疑念はすぐに晴れた。それも最悪の形で。

 スピリット隊が法皇の壁を抜けた途端、それまで逃げの一手だったラグナ勢が、くるりと踵を返したのだ。と同時に、おびただしい数のスピリットが周囲から現れた。

 クスカの伏勢である。その一団が、スピリット隊を包囲するように一斉に動き出した。

 これには、スピリット隊も愕然とした。

 敗走していた人数も加えると、ラグナ勢の戦力数は優にスピリット隊の三倍を数える。スピリット隊が万全の状態であったら、覆せない戦力差ではなかったろう。そのくらい、個々の能力においてはスピリット隊に分がある。

 だが、今は疲弊している。何にもまして、敵の術中にはまったという心理的な動揺が大きかった。まさに、クスカの作戦が図に当たったといえるだろう。

(敵の不可解な行動の意味は、こういうことだったのか……!)

 ウルカは、その予感は感じつつも、はっきりと読みきれなかった自分を責めた。

 だが、さすがはウルカである。一瞬で思考を切り替えると、冷静に状況を把握した。

(今は、一度退くべきだ。幸い、まだ退路は断たれていない。後退して態勢を立て直せば、十分戦える相手だ)

 スピリット隊にとって幸運だったのは、伏勢との距離がかなり離れていたことである。これは、法皇の壁周辺には遮蔽物が少なく、伏勢を置くのには不向きだったからである。自然、伏勢は離れた位置に配さざるを得ない。今朝方、リィラが指摘した弱点であった。

 伏勢がスピリット隊のところに到達し包囲されてしまうとしても、まだ十分な猶予がある。

「コウイン殿、手前が殿軍をつとめます! 一度後退し、法皇の壁の外で隊形を――」

 だが、ウルカが言いかけたときである。スピリット隊の背後で、異変が起きた。

 突如として、法皇の壁周辺の大気が光り始めたのだ。最初はぼんやりと光っていたのが徐々に強い光芒へ変わり、ついにはそのまばゆさのあまり、目も開けていられないほどになった。

 光は天に向かって伸びてゆき、空にはオーロラがたなびいた。

 その光景に、スピリット隊の誰もが声を失った。何が起こったかわからなかったからではない。分かりすぎていたからだ。

 その威力も、恐怖も。

 だが、たとえ分かっていても、ウルカは聞かずにおれなかった。

「コウイン殿……。これはやはり……」

「……ああ、規模こそ小さいけど、紛れもなくマナ障壁だ。俺がマロリガンにいた頃使ったやつとそっくりだ」

 苦々しげに、光陰は答えた。

「何てこった。昔、自分たちが使った手に、まんまと引っかかったってわけか。まさに前門の虎、後門の狼ってやつだな」

「し、しかしコウイン殿。マロリガンのマナ障壁とは、確かエーテルが空気中に放出され、マナに戻る際に放出されるエネルギーを利用したものだったはず……。すでに抗マナに変わってしまったこの世界のマナからエーテルを得るのは不可能なのでは……?」

「さあな、そりゃ俺にもわからない。ただ、ひとつだけ言うなら……」

 光陰は、『因果』を構えた。目の前に敵が迫っている。

「こんなことが出来るのは、この世界でラグナひとりだ」

「……!」

「『転生』は第三位。それも『再生』が消滅する間際、自分に残された全てを詰め込んで、ラグナに遺した上位神剣だ。ラグナはスピリットだけど、同時にエターナルでもあることを忘れるな」

「し、しかし……」

「無駄話はそれくらいにしとこうぜ、ウルカ。来るぞっ!」

 言うが早いか、相手の一太刀を『因果』で受け止めた。ついに、伏勢が合流したのだ。

 前方は敵、後方にはマナ障壁。圧倒的な戦力差に加え、退路を断たれたとあって、スピリット隊は進退窮まった。

 ハリオン、ヒミカも苦戦を強いられている。

「ヒミカ、危ないっ!」

 ヒミカに死角から襲い来る一撃を、ハリオンは割って入るようにして『大樹』で弾き飛ばした。その衝撃で、相手のスピリットの神剣が音を立てて砕け散る。スピリットは、邪魔をしたハリオンに憎悪にまみれたひと睨みをくれると、悔しそうに退がっていった。

「あ、ありがと、ハリオン……」

「いいえ〜……」

 相変わらずおっとりと答えるハリオンだが、その顔には疲労の色が濃い。『大樹』の柄も、汗でぐっしょりと濡れていた。ヒミカの胸を危機感がかすめる。

(マズいわね……)

 明らかに戦力不足なのである。人数が少なければ少ないほど、ひとりに割り振られる疲労の量も増大する。ヒミカといいハリオンといい、すでに気力だけで戦っているようなものだった。

(何とか、退却しないと……。このままじゃ、全滅するしかないわ)

 しかし、肝心の退路はマナ障壁で塞がれている。

 ヒミカが、焦慮の念に胸を灼かれていた時であった。

 ふらり、と現れた人影がある。空色羽織をまとったその青年は、目元に微笑を浮かべながら二人に声をかけた。

「お久しぶりです、ハリオンさん。ヒミカさん」

「……え?」

 どこかで聞き覚えのある声に、二人はあっと振り返った。その顔が、みるみる驚きの色に染まってゆく。

「く、クスカさん……?」

 信じられない、といった面持ちで、ハリオンは青年の名をつぶやいた。ラキオスでの一別以来、はじめての再会である。

 あの日、突然の喀血に見舞われたクスカは、心配するハリオンとヒミカの前から、逃げるように姿をくらませた。

 たった一日という短い時間だったが、そこで垣間見せたクスカの暖かい人柄は、二人の受け入れるところだった。それだけに、クスカの安否は気にかかっていた。こうして無事なクスカの姿を見て、二人が胸をなでおろしたのも無理はなかった。

 もっとも、ここは戦場。それどころではない、というのも偽らざる気持ちである。

「何でここにいるのかは知らないけど……。とにかく、こんなところにいたら巻き込まれるわ。どこでもいいから避難してて!」

 幾分焦りを含んだ調子で、ヒミカはクスカを促した。

 しかし、クスカは動こうともしない。微笑をたたえたまま、じっと二人の顔を見つめているばかりだ。不審に思ったヒミカが、思わずクスカの肩に手をかけようとしたときである。

 クスカの顔から、笑みが消えた。

「ヒミカさん、ハリオンさん……。剣を捨ててください」

 静かに、クスカは言い放った。

 その意味がつかめず、顔を見合わせる二人に、追い討ちをかけるようにクスカは続けた。

「この部隊を預かる者として、ラキオススピリット隊に申し入れます。これ以上の戦闘は互いの損失をいたずらに増やすのみ、無意味だと判断しました。こちらの優勢は一目瞭然。じきに、あなたがたは全滅せざるを得ないでしょう」

「な、部隊を預かるですって……!?」

 ヒミカの顔に、驚愕が走った。クスカはお構い無しに続ける。

「しかし、それはこちらの望むことではありません。降伏を勧告します。……全員の命は保証しましょう」

「クスカさん……!?」

 ハリオンが言いかけるのをさえぎるように、クスカは前に手を出して制した。

「私はラグナの意志の代行者としてここにいます。それ以上でもなければ、それ以下でもありません」

「どうしてよっ!?」

 半ば叫ぶような、ヒミカの声だった。

「あなた言ってたじゃない!? 人間とスピリットは共に生きていけるって……。今は無理でも、諦めない限り可能性は消えないって……。私たちに言ってくれたじゃない!?」

「……」

「それなのに、ラグナを助長させるようなことをするなんて……! あの時言ったことは嘘だったの!?」

「……嘘じゃありません。なろうことなら、スピリットと人間が争うことなく、同じこの世界に生きる仲間として、生きていって欲しい」

「じゃあ何で!?」

 語気鋭く問い詰めるヒミカに、クスカは困ったような微笑を浮かべ、短く言った。

「……悪が要るんです」

「……悪?」

「そう、悪です。それもただの悪じゃない。絶対の悪です。人間とスピリットが本当の意味でわかりあうには、悪が必要なんです」

 抽象的な言葉に、ヒミカは怪訝そうに眉をひそめた。クスカは瞑目すると、ゆっくりと語り始めた。

「……この300年、人間はスピリットを虐げ続けました。その在り方には一片の同情の余地もない。人間は、まごうことなき完全な悪でした」

「それは、そうだけど……」

「それなのに、いまだ多くの人間は自分達がどれほどの大悪であったかに気付いていない。そんな状態で人間とスピリットの共存、なんていっても中身が伴っていません。人間は己の過ちを、怒れるスピリットの行動によって知らなければならない。そのための悪です。この前は膿に例えて話したと思います」

 はっきりと、クスカは言い切った。

「私とラグナが悪となることで、人間とスピリットが分かり合えるようになる……。そう思っています」

「ま、待ってよ。ラグナは自分が悪だなんて思っていないでしょう? あなたまでその汚名をかぶる必要なんて……」

 その一言は、不用意だったというほかない。クスカは射るようにヒミカの顔を見つめると、

「ヒミカさん、あなたの気遣いは嬉しく思います。ですが……さっきのは、『人間』としてのクスカの見方です。いうなれば、人間とスピリットのためには何が必要かということ……。でも、それは私の気持ちと同じとは限らない」

「え……」

「ラグナの望みと、スピリットと人間の共存。ふたつは相容れないものです。その二つを同時に願う……できもしないことを夢見るのは痴者でしかない。……だから、私はラグナのそばにいます」

(嘘よっ!)

 心の中で、ヒミカは叫んだ。

 本当に、クスカはラグナが好きなのだろう。そうでなければこんなことは言えるものではない。

 だが、かといって人間とスピリットが手を取り合える日が来るのも、同じくらい強く望んでいる。そのことは、何よりも辛そうに語るクスカの顔が証明していた。

 突然、クスカは頭を下げた。

「お願いします、ヒミカさん、ハリオンさん。剣を捨ててください。そして……隊の皆さんにも、そう説得してください。決して悪いようにはしません」

 その言葉に嘘偽りはない。クスカの誠意がにじみ出ていた。

 たまらず、ヒミカが隣のハリオンを見返ったときである。それまで黙して聞いていたハリオンが、はじめて口を開いた。

「クスカさん〜、それは無理なお願いというものですよ〜」

 その声に、はっ、とクスカは頭を上げた。ハリオンは言う。

「ラグナさんにはラグナさんの正義があって、クスカさんにはクスカさんの正義があって……。でも、それは私たちも同じなんですよ〜?」

 口調こそいつもの通りだが、ハリオンの声には有無を言わせぬ力強さがこめられていた。

「今、ここでラグナさんの好きにさせたら取り返しのつかないことになります〜。だから、私たちも負けられないんですよ〜。クスカさんも〜、心の中では分かってるんじゃないですか〜?」

「……」

 クスカは、答えなかった。

 答えるかわりに、悲しげな笑顔をハリオンに向けると、静かに背をひるがえし、その場を去った。

「あ、ちょっと……!」

 あとを追おうとしたヒミカだが、その肩をそっとハリオンの手が抑えた。ハリオンは静かに首を振って、

「めっ、ですよ。ヒミカ」

「でも……!」

「クスカさんにはクスカさんの生き方があるんですよ〜」

「そんなの、納得できるわけないじゃない……!」

 目を伏せるヒミカに、優しくハリオンは言った。

「クスカさん、きっといろいろ考えたんですよ〜。自分に残された短い時間で、何ができるのかなあって……」

 ハリオンの言葉に、ヒミカに衝撃が走った。狼狽気味の声で、

「ちょ、ちょっと待ってよ……。残された時間って、まさか……?」

 目を見開いてたずねるヒミカに、こっくりとハリオンはうなずいた。

 ハリオンは、グリーンスピリットの役目柄、怪我や病気に詳しい。一目様子を見て、クスカの病を死病だと判断した。要するに不治の病である。

 ハリオンは目を伏せながら、首を振った。

「……ヒミカ。人もスピリットも、生きているものは必ず死にます〜。それは避けられないこと……。でも、死に方を選ぶことはできるんですよ〜」

「え……?」

「クスカさんは、自分の死期を悟っていた……。だから、自分の死を何かに役立てて死のうと思ったんですよ〜……。そうやって出した結論は、私たちが変えられるものじゃありません〜」

「……」

 ぽん、と軽い音をたてて、ハリオンはヒミカの肩に手を置いた。

「だから、私たちは私たちのできることをやるしかないんですよ〜……」

「……」

 ヒミカは、こっくりとうなずいた。しかし、その表情にはありありと苦渋の色が浮かんでいた。

 ハリオンも、それ以上はどうすることもできない。そのまま無言で、二人は戦場に戻っていった。





 時が移るにつれ、スピリット隊の敗色が濃厚になってきた。無理もない。むしろ、疲弊した状態で三倍もの相手を敵に回し、これほど持ちこたえたことの方が奇跡というべきだろう。

 しかし、これ以上の戦闘に耐えるだけの力は、すでに残されていなかった。

(こいつぁ、さすがに年貢の納め時か……)

 光陰を取り囲むように、五人のスピリットが刃を向けている。その全員が、傷一つない万全の状態であるのに比べ、光陰は満身創痍である。これではさすがの光陰も観念せざるを得ない。

 覚悟を決め、『因果』を構え直したときだった。

「ほらほらっ、邪魔しないで道をあけなさいっ! じゃないと痛い目見るわよっ!」

 まさに間一髪、スピリット達が光陰に飛び掛る寸前、『空虚』を振り回しながら割って入ったのは今日子だった。

 すさまじい勢いで『空虚』をきらめかす今日子に、蜘蛛の子を散らすようにスピリット達は追い散らされた。今日子はすぐに光陰のもとへ駆け寄ると、

「光陰、大丈夫?」

「ああ、何とかな……」

 息も絶え絶え、といった様子の光陰に、今日子も眉をひそめた。どんなときでも余裕を失わない光陰から、その余裕が失われていた。それだけでも、事態のただならなさが伺える。

「光陰……」

「なあに、心配すんな。これくらいどうってことないさ……」

 笑って答える光陰だが、それが作り笑いであることくらいは今日子にも分かる。

 ふと、今日子は戦場を見回した。

 そこでは、勢いに乗ったラグナ勢がスピリット隊を圧倒していた。スピリット隊で無傷の者はひとりもいない。それどころか、戦闘力の半ばを失っている者が過半を占め、かろうじて、アセリアとウルカが敵を食い止めている状態だった。

 この絶望的な状況を打開するには、手はひとつしかない。今日子は決意の色を面に表すと、

「光陰。あんた、皆を連れて逃げなさい」

 後ろの光陰を見返りながら、言った。

「あんたの加護のオーラなら、何とかマナ障壁を突破できるでしょ? 皆を守りながら退却して」

 しかし、言われた光陰は呆れ顔で答えた。

「おいおい、無茶言うなよ。いくら俺でも、マナ障壁を無事に乗り切れる自信はないぞ?」

「あー、もう。男ならしゃきっとしなさいよ、しゃきっと。肝心なときに頼りにならないんだから」

「つってもなぁ……。第一、敵が逃がしてくれないだろ? 今回のむこうの作戦、俺たちを逃がさずに一気に葬るのが目的みたいだしな。退却するのは無理だ」

「それは大丈夫。アタシが何とか足止め食わせとくから、その間に逃げて」

「……え?」

 滅多にものに動じない光陰が、このときばかりは青くなった。

「じょ、冗談だろ!? お前ひとりを残していけるかよ! それだったら俺が残って……!」

「光陰っ!」

 言いかける光陰の頬を、ピシャリと今日子の掌が打った。

「あんたらしくもないこと言わないでよ! 分かってるでしょ、この状況がどうなってるのか! 皆を助けられるのは、あんたと『因果』だけなのよ!?」

 すさまじい剣幕で、一気に今日子はまくし立てた。しかし、光陰も負けてはいない。

「分かってるよ! こんなところに置き去りにしたら、お前が死んじまうってことくらいな! お前こそ分かって言ってんだろうな!?」

 今日子の肩を揺さぶりながら、光陰は問いただした。今日子は、その目をまっすぐに見つめ返すと、

「……分かってるわよ」

「え?」

「分かってるって言ってんの。アタシだって、これだけの人数敵に回して生き延びられるとは思ってないわよ。でも、ここでアタシたち全員が戦えなくなったら、誰がラグナを止めるのよ。いないでしょ、そんな奴。だから、絶対にあんたやアセリアたちには生き延びてもらわなきゃ困るの」

 そう語る今日子の目には、決死の覚悟が浮かんでいた。どん、と光陰を突き飛ばすと、

「行って、光陰」

「きょ、今日子……」

「早くっ! 言うこと聞かないと、あの世で会っても口聞いてやんないんだからねっ!」

「……」

 己に向けられた背に、光陰は声をかけることができなかった。力なく立ち上がると、

「……死ぬなよ、今日子」

 万感の思いをこめた一言を残し、その場を去った。今日子は振り返らない。振り返らないまま、

「……ありがと、光陰」

 静かに、礼を言った。

「さぁて、今日子様一世一代の大イベント、派手に暴れてやらなくちゃね」





「見ろ、やつら退いていくぞ」

 ラグナ勢のひとりが、法皇の壁に向かって後退していくスピリット隊を見て声を上げた。別のスピリットが応じる。

「追いましょう。ここで逃がせば後々の憂いになるのは必定。それに、退却する敵を叩くのは戦術の基本よ」

 異論を挟む者はいない。提案したスピリットは冷ややかな視線で、そばにたたずむクスカを見返ると、口調だけは丁寧に尋ねた。

「クスカ様も、異存はありませんね?」

「……ええ、お任せしますよ」

 あまり気のない様子で、クスカはうなずいた。

「よし、行くぞっ!」

 即座に、ラグナ勢は追撃に移った。勝ちに乗じた彼女たちは勢いに乗り、津波のごとく法皇の壁に押し寄せた。

「一気にもみ潰してしまえっ!」

 しかし、スピリット隊まであとわずか、というところで、彼女たちの前に立ちはだかる者がいた。

「……こっから先には、死んでも通さないわよ」

 今日子である。ぶんっ、と『空虚』を振ると、小さく稲妻がはじけた。『空虚』の力を限界まで解放した影響か、今日子の身体全体に、鎧のように雷がまとわりついている。死を決した今日子の顔には、凄愴なまでに、不敵な笑みが浮かんでいた。

 しかし、相手は意にも介さない。ひとりのスピリットが、あざけるように今日子を見下ろした。

「ふん、ひとりで何ができる。いくらエトランジェでも自惚れすぎだ。こちらは多勢……。一気にひねり潰してやるっ!」

 その声に呼応するように、ラグナ勢は黒だかりとなって、今日子を押し包んだ。

 瞬きする間もない。次の瞬間、自分でも何が起こったのかわからないまま、彼女たちは空に弾き飛ばされていた。分からないまま、重力に従って地面に叩きつけられる。その痛みで、ようやく事態が把握できた。

 今日子はただ一閃、『空虚』を振っただけである。手のひらの上で、パチパチと雷を発する『空虚』を弄びながら、今日子は言った。

「……分かった? 人間、死ぬ気になれば大抵の無茶はきくようになるもんなのよ」

 今日子の顔に張り付いた笑みが、スピリット達には悪鬼の様に映った。狼狽したように、声を上げるスピリット達。

「ふ、ふざけるなっ! そんなことがあってたまるか……!」

「ふぅーん……。冗談だと思うなら、試してみれば?」

「……っ! 調子に乗るなッ!」

 噛み付くように、再び今日子に飛びかかった。

 しかし、何度やっても結果は同じだった。今日子の獅子奮迅の働きは、まさしく鬼神と呼ぶにふさわしい。今日子の立つ場所からは、一歩たりとも法皇の壁に近づくことができなかった。ぴたり、とラグナ勢の足が止まってしまった。

「くっ、このまま奴らを逃してなるものか……!」

 するうちにも、スピリット隊はどんどん後退していく。攻めあぐねたラグナ勢に、焦りが見え始めた。

 その時である。負傷して後方に護送されていたスピリットのひとりが、怯えた調子で指差した。

「ね、ねぇ……。あれって、もしかして……」

 彼女の指差す先に、全員の視線が集まる。同時に、戦慄が走った。

「リィラさんっ!?」

「……!?」

 誰かがあげた叫び声に、反射的にクスカは振り向いた。

 そこにいたのは、リィラだった。

 あろうことか、吹き荒れるマナ嵐の中、リィラはひとり取り残されてうずくまっていた。片腕をなくした痛みをこらえながらスピリット隊を追っていたのが、法皇の壁をくぐったところで力尽きてしまったのだ。悪いことに、そこへマナ障壁が発動してしまった。

 リィラの無残な姿を見たラグナ勢は、追撃どころの騒ぎではなくなった。慌てふためきながら、次々とマナ障壁のそばに駆け寄ってくる。

 しかし、右往左往するばかりでどうにもならない。遠巻きにして、マナ障壁の中に浮かぶリィラの姿を見つめるばかりで、誰ひとり、リィラを助けに行こうとする者はなかった。

 無理もない。マナ障壁に飛び込むなど、自殺行為でしかないのだ。誰だって死にたくはない。誰かが行ってくれないか、と心の中で願いつつ、隣の仲間と目を合わせては気まずそうに目を逸らす。

 仲間を見殺しにする罪悪感にさいなまれ、それでも死の恐怖には抗いがたい。重苦しい沈黙が、ラグナ勢にのしかかった。

 だが次の瞬間、その沈黙を破るように駆け出した人影がある。

 クスカだった。

 唖然とするスピリットたちには目もくれず、まっすぐにマナ障壁に飛び込んだ。スピリットたちが声を上げる間もなく、クスカの影は光の渦に飲み込まれていった。





「な……!?」

 リィラは目を疑った。あろうことか、マナ障壁に自分から駆け込んだ者がいたのだ。しかもその人物は迷うことなく、まっすぐに自分のもとへ駆け寄ってくる。

 生まれてこの方、その顔を見たときほどリィラが驚いたことはない。

「クスカ……さま……!?」

 荒れ狂うマナの中、全身から血を吹き出しながら現れたのはクスカだった。クスカはかがみこむと、

「よいしょ……っと」

 小さく声を上げ、リィラを背に負った。

(なぜ、人間が……!?)

 この事態に、リィラは戸惑い、呆れ、ついに怒り出してしまった。

「あなたは馬鹿ですかっ!?」

 第一声がそれだった。この一瞬、リィラは相手が自分の大嫌いな「人間」であることを忘れていた。

「……馬鹿はひどいなあ」

「いいえ馬鹿ですっ! 一体何を血迷ってこんな馬鹿な真似を……。馬鹿でなければ大馬鹿です!」

「今日は馬鹿の大安売りだなぁ……」

 肩をすくめるクスカだが、その顔はなぜか嬉しそうだった。それがリィラの癪に障った。クスカはニコニコしながら、

「そんなに心配してくれなくても大丈夫。私たち人間の身体は、リィラさんと違ってエーテルで出来てないですからね。マナ障壁といっても、リィラさんほどひどい怪我にはなりませんよ」

「誰が人間の心配なんか……!」

 そう言うリィラは、クスカの空色羽織から目を離すことが出来なくなっていた。

 全身に口をあけた傷のせいで、クスカ自慢の空色羽織が、今では血で赤黒く汚れてしまっている。どう見ても、クスカの傷が軽いはずはなかった。

 他の誰のためでもない。その傷は、リィラのためにクスカが支払った代償だった。

(なんで人間がこんな事をする……!?)

 人間がスピリットのために命を投げ出すなど、あってはならないことだった。少なくとも、人間の存在そのものが悪だと思っているリィラにとっては。

 血も涙もない、冷血の徒。それがリィラの人間観だった。

(なのに……!)

 それなのに。

 クスカの指先に通う血は、あたたかかった。

 今朝、作戦前に見せた、リィラのイメージどおりの「人間」としてのクスカ。

 そして、わが身を省みず、ためらうことなく自分のもとに駆けつけたクスカ。

 リィラには分からなくなってしまった。

「一体、どっちが本当のあなたなんですか……?」

「……どっちかなぁ」

 丸みのある、春風のような声だった。クスカはちょっと考える風情だったが、やがて一言、ぽつりと漏らした。

「でも、もうあんなことを言うのは、二度と御免だなぁ……」

 顔は見えないが、クスカが笑っているのが、背中越しにリィラに伝わってきた。たいして大きくもないクスカの背を見つめながら、リィラは思った。

(妙な人間だ……)

 でも……、とリィラの言葉は続く。

(不快な感じじゃない……かな)

 クスカに背負われたまま、いつしかリィラは腕の痛みも忘れて眠りについていた。さすがに疲れたのだろう。

 すやすやと、気持ちよさそうに寝息を立てるリィラを見て、クスカの顔に微笑が立ちのぼった。くすっ、と喉を鳴らすと、

「……人間の背中も、寝心地は悪くないでしょう?」

 包み込むような暖かい声音で言った。