After the Eternal War ――閉ざされた大地で――
第七章 放浪記
戦争を始めるには時間が要る。
敵方への諜報活動、運用する部隊の調整は言うに及ばず、軍勢を養うための大量の食料も必要である。さらには、それを前線へ送り届ける輸送部隊に、護衛隊。挙げればキリがない。
サーギオス城を陥落させたラグナも、こればかりはどうしようもない。北方へ進攻するための準備に躍起になるばかりで、まだ目立った行動に移ることができないでいる。
同じことが、ガロ・リキュアの側にも言える。毎日、ラキオス城に出入りする兵士や商人が後を絶たない。倉庫には、武具、糧食が今にも崩れ落ちそうな勢いで積み上げられていく。
ただ、そのお陰といっては何だが、スピリット隊はわずかながらの休暇を得ることができた。何といっても、ラグナとの戦いが始まれば、最前線に立つのは彼女たちなのである。それまで十分に英気を養っておく必要がある、というレスティーナの判断だった。
というのは名目上で、実際はそんなおこがましい理由であるはずがない。
第一、制度上でいえば、スピリットは解放されているのである。もう、彼女たちが死地に赴かなければならないいわれはない。にもかかわらず、彼女たちは人間との共存のために、自ら剣を取ってくれた。レスティーナたち人間は、その善意に甘えているともいえる。
せめて戦いが始まるまでの間だけでも、彼女たちに自由な時間をつくってあげたいとレスティーナが考えたのも無理はなかった。
《ラキオス城下町》
今日も、ラキオスは晴れていた。
空は抜けるように青く、見上げると太陽がまぶしい。街を吹きぬける風は爽やかで、浴びるだけで鬱屈した血が洗われるようだった。
そのためか、町のにぎわい方もひとしおだった。市場のあちこちで威勢のいい声が飛び交い、まるで祭りのように皆が笑っていた。
その様子を、ほほえましそうに眺めている青年がいる。
いでたちは、紺のズボンに白いシャツ。その上に膝までありそうな長い羽織をつけていた。少々旅塵に汚れてはいるが、羽織は空を写し取ったように澄んだ色で、右胸の部分には色も形も桔梗の花そっくりの紋が染め抜いてある。
顔立ちは、どこか子供臭い。くりくりとした大きな二つの目に、おまけのようにくっついた小さな鼻と口がそう思わせるのかもしれない。
その空色羽織が、さらさらと茶色い髪をなびかせながら市場を歩いていく。
見るものすべてが珍しいのか、時々立ち止まっては露店を覗き込むのだ。日和がいいせいか、店主も機嫌がいい。覗かれていい気はしないはずなのだが、それをニコニコと笑って許している。
「お前さん、変わってるなあ。露店なんかがそんなに面白いかい?」
相好を崩した店主が、ゆったりと空色羽織にたずねた。
「ええ。こういう賑やかなところにいると、楽しくなっちゃって。ついつい色んなものに目を引かれちゃうんです」
「そうかそうか。俺も祭りなんかは大好きでなぁ。ガキの頃はそういうのがあるたびに、先頭きって突っ込んでいったもんだ。で、ついたあだ名が鉄砲玉」
と、店主は見事に禿げあがった頭を、ツルリとなでてみせた。
「まあ、ホンモノの鉄砲玉みたいになっちまうとは思ってなかったけどな」
「ははっ、よく似合ってる。そんなあだ名なら、ちょっとうらやましいなぁ」
「何なら、お前さんの頭も刈り上げてやろうか? 二人並んで鉄砲玉一号、二号ってのはどうだ?」
「あー……それはちょっと勘弁してください。まだ若いので」
頬をかきながら微苦笑する空色羽織に、今度は店主が笑い出す番だった。
「はははっ、冗談冗談。まあ、こっちも身を張った笑いを提供したんだ。その心意気を買って、何か買っていってくれよ」
「うーん、何だかうまく丸め込まれた気がするけど……。じゃあ、そのネネの実をひとつ。大好物なんですよ」
「へぇ、お前さんもか。実は俺もネネの実が大好きでな、昔は森の中で拾って食ったりしてたよ。やっぱ、その場で食う美味さってのはあると思ったね。子供心ながら、あのときの甘さは忘れてねえよ」
「いいなぁ。私の住んでいたところでは、あまりネネの実は取れないから……」
「……まあ、その後腹ぁ壊して、お袋にこっぴどく叱られたんだけどな」
ツルツル頭を触りながら苦笑すると、店主はネネの実が二つ入った紙袋を差し出した。
「ほれ、ひとつはオマケだ。好物なんだろ?」
「何だか悪いなぁ……。でも、ありがとう。いただきますね」
「おう。でも、腹は壊すんじゃねえぞ」
にこやかに手を振る店主に、空色羽織も負けないくらいの笑顔で答えた。
「面白いおじさんだったなあ。ラキオスは人もスピリットも明るいって聞いてたけど、本当なのかも」
ネネの実を頬張りながら行くと、またしても空色羽織は足を止めた。視線の先には、呆れるくらいの長蛇の列が伸びていた。
「……何だろう?」
しばらく見ていると、あたりに甘い匂いが漂い始めた。と同時に、行列が動き始める。
「さあ、焼きたてのヨフアルだ。早い者勝ちだから、恨みっこなしでな」
「おじさん、こっちに二つ!」
「私には三つお願い!」
「お、おいおい。そこ、並んでるんだから割り込むんじゃねえよ」
(……ははあ、これが噂に聞くラキオスのヨフアルかぁ)
ということは、この列の正体はヨフアルの焼き上がりを待っていた人たちなのだろう。人気があるとは聞いていたが、ここまですごいとはちょっと想像していなかった。
あっという間にヨフアルは売り切れ、あっという間に行列も消え去ってしまった。
空色羽織は屋台に近づくと、店主に声をかけた。歳は40がらみ、恰幅のいい男だった。
「こんにちは。私にもひとつ、ヨフアルいただけますか?」
「あ、悪いなぁ。今、売り切れたばかりなんだよ。すぐに次の焼くけど、時間あるかい?」
「ええ、もちろん。一時間でも二時間でも待ちますよ。今日はこのために来たんですから」
「お、嬉しいこと言うなあ。ちょっと待ってな、とびっきりのやつを焼いてやるからな」
そう言って、慣れた手つきで生地を鉄板に流し込む。じゅうっ、と実に美味しそうな音を立てると、生地は一面に甘い芳香を放ち始めた。
「そういえば、お前さん、あんまり見ない顔だけど……ウチに来るの初めてだよな?」
目は生地に釘付けのまま、店主は言った。
「ええ。実を言うと、ラキオスに来るのも今日が初めてなんです」
「何ぃ!? ってことは、今まで一度もヨフアルを食ったことがないのか!?」
信じられない、といった顔つきのまま、店主は空色羽織の顔を凝視する。かと思うと、今度はこの世の終わりのようにため息をつき、
「何てこった……。お前さん、よっぽど辛い人生送ってきたんだなあ。ヨフアルを食えねえなんて……」
「え……?」
「よーし、わかった! こうなったら俺が手取り足取り、ヨフアルのすばらしさについて教授してやろう! ふっふっふ、腕がなるぜ……」
「あのー……何かすごい勘違いをしてるんじゃ……?」
話についていけない空色羽織そっちのけで気負いこむと、ヨフアル談義をはじめてしまった。何と言うか、ヨフアルひとつでこれまでの人生を否定されてしまった空色羽織が哀れでならない。
あれこれとヨフアルについて語りながらも、店主の手は休むことなく、しっかりとヨフアルを焼いているのは驚きといえば驚きだった。するうちに、ヨフアルが狐色に焼きあがってきた。
途端、店主の目つきが鋭くなる。それはもう、ヤバいくらいに。同時に、店主の咆哮が響いた。
「味覚の限界を超える……。最高の味を求めた結果、俺はここにたどり着いた!」
ぱん、と乾いた音を立てて生地は鉄板から離れ、空中で一回転。美しい弧を描き、今度は逆の面を下にして、再び鉄板に落下した。おもわず見ほれる空色羽織に、店主は不敵な笑みを浮かべて見せた。
「この程度ではないぞ。本物の美味、貴様に味あわせてやる……」
「あ、あのー……おじさん?」
「ウオオオッ!!」
(……これもラキオスぶりなのかなあ)
空色羽織もどうかしている。どうもこの青年、物事の解釈の仕方が世間一般とずれているらしかった。もし仮に、ラキオスの住人すべてがこんな性格をしているとしたら、レスティーナもよほど統治に手こずるに違いない。『黒い翼』どころか、『ヨフアル革命』などというテロが起こってもおかしくはないだろう。
先ほどまでの行列が嘘のように、異常な雰囲気に包まれた店に近寄る者はいない。味で有名なだけに、一度熱くなったら止められないという店主の性格も一緒に知れ渡っているのだろう。
(かわいそうに……)
そんな視線が、通りを隔てて空色羽織に注がれている。
その中で、ただ一人の例外が現れた。荒れ狂う暴風雨の中に、たじろぐことなく足を踏み入れると、
「あらあら……またヨフアル講座を開いてらしたんですか〜?」
まるであくびのような、のんびりとした調子で店主に声をかけた。何か仕掛けでもあるのか、なかば暴走気味だった店主がその声を聞いた途端、にこやかな笑顔を返した。
「おう、ハリオンか。久しぶりだなあ。何か、俺に用事か?」
「用事はないんですけど……ちょっとそこを通りかかったらおじさんの声が聞えてきたものですから〜」
と言うと、ハリオンは口元に手を当てて、クスクスと笑い始めた。
「またやってるなあ、って」
「あー、それは、だな……」
ヨフアルを語りだすとついつい熱くなる癖を指摘され、困ったような顔をして店主は頭をかいた。
「つっても、こればっかりはなあ。ヨフアルと聞いて血が騒がなきゃ、俺が俺じゃなくなっちまうよ」
「でもぉ〜、初対面の人を捕まえて一日中離さないのはどうかと思いますよ〜?」
(……ということは、あのままだと私は日暮れまで帰してもらえなかったワケですか……)
さしもの空色羽織も、ハリオンの言葉に冷や汗を流した。不完全燃焼のまま話を打ち切られ、いかにも残念といった顔の店主を見ると、その疑問は確信に変わった。
「うふふ……男の人って、大人になってもどこか子供っぽくて、可愛いんですよね〜」
「……ハリオンには敵わんなあ。わかったわかった、俺の負け。今日はこのくらいでやめとくよ」
お手上げとばかりに両手を挙げて苦笑すると、ようやく店主も諦めがついたらしい。すっかりもとの陽気な顔に戻っている。もちろん、それを見た空色羽織が胸をなでおろしたのは言うまでもない。
「ところで、ハリオン。今日はまた、えらく買い込んだな……。それ全部、お菓子作りの材料か?」
「はい〜。せっかく今日は時間がありますし、お天気もいいですから〜」
嬉しそうなハリオンの腕の中には、果物やら小麦粉やらでいっぱいの紙袋が、しっかりと抱きかかえられている。
「今日は新作に挑戦するんですけど……出来上がったら、また味見していただけますか〜?」
「おぅ、当たり前じゃねえか。何つっても、ハリオンが作ったお菓子で今までハズレだったことないもんなあ」
「んもう、おだてても何も出ませんよ〜?」
照れているのかどうなのか。ぱたぱたと手を振るハリオンは、いつもと変わらぬ調子である。が、やはり褒められたことは嬉しいのか、
「じゃあ、今日は奮発してヨフアル五つ、買っちゃいます〜♪」
「おお、さっすがはハリオン。そうこなくっちゃねぇ」
「もちろん、焼き立てですよ〜?」
「任せとけって。……あ、でもその前に先客がいるんだった」
と、今の今まで、完全に存在を忘れ去られていた空色羽織に向き直った。
「あー、すまん、兄ちゃん。話に夢中になっててすっかり……。悪いなぁ、せっかく焼いたやつが冷めちまった。また焼き直しになっちまうけど……ホント、すまねえ」
申し訳なさそうに頭を下げる店主に、空色羽織は笑ってかぶりを振った。それどころか、
「私の分は後回しでいいですから、先に彼女の分を焼いてあげてくれませんか?」
と、順番をハリオンに譲る始末だった。この申し出には、ハリオンも店主も顔を見合わせた。
初対面の相手――それもスピリット――に先を譲るなどということは、スピリットへの理解が進んだラキオスの住民ならいざ知らず、他の地域の人間にはなかなか考えにくいことだったからだ。
ただ、同時に、ハリオンと店主の中にこみ上げるものがあった。
それは間違いなく、喜び。
こんな些細なことであっても、数年前には考えられないことだった。それは、間違いなくハリオンたちが自分の手で勝ち取ったものである。嬉しくないはずがなかった。
「なぁ、ハリオン」
溶けるような微笑を浮かべて、店主はハリオンに呼びかけた。ハリオンも、明らかにご機嫌な様子で答える。
「何ですか〜?」
「俺、今回はハリオンのお菓子、試食パスするわ。かわりにさぁ……」
含み笑うだけで、店主はその先を言わない。もっとも、ハリオンにはそれで十分に意図が通じた。
「あらあら、私も同じことを考えてたんですよ〜」
ハリオンは紙袋を片手で抱きかかえると、空いたもう片方の手を空色羽織に差し出した。何が起こっているのかよく分からない空色羽織は、目をぱちくりさせている。
「さあ、行きましょう〜」
「行くって、どこへ……? それに、ヨフアルがまだ……」
「心配しなくても、おじさんのヨフアルに負けないくらい美味しいお菓子をご馳走してあげますから〜」
「俺のヨフアルに負けないとは大きく出たなぁ。ま、確かに否定はしねえがな。よかったなあ、兄ちゃん。ハリオンのお菓子が食えるなんて、そうそうあるラッキーじゃないぜ」
阿呆のように突っ立っている空色羽織の背中を、店主はぽんと押した。いきおい、つまずいた空色羽織はハリオンの手につかまる形になる。
「心配すんな、あとでヨフアルは届けてやるよ。二人の分まとめてな」
「はい〜、お願いしますね〜」
そう言いながらも、ハリオンはずるずると空色羽織を引きずっていく。やはり、空色羽織には何がなにやら分からない。
「あ、あのう……どうして私を? 別に感謝されるようなことをしたわけでもないはずですけど……」
「いいんだよ。俺とハリオンが兄ちゃんのこと気に入ったってだけだ」
「は、はあ……」
「じゃあ、また後でな」
よく分からないながらも、一応、空色羽織は店主にお辞儀を返した。もっともこの青年、生まれつきそうなっているのか、あまり深く考え込むタチではない。
(……ま、いっか)
一旦そう思ってしまえば、あとは早い。ぐいぐいと腕を引っ張られながらも、子供のように心がウキウキしてくるのをどうしようもなかった。人懐っこいというか、二、三言葉を交わしただけのハリオンと、すぐに友達のようになってしまった。
もう、ハリオンは腕を引っ張っていない。空色羽織はハリオンの荷物を半分受け持って、二人並んで市場の大通りを歩いてゆく。
ちょうど曲がり角に差し掛かったとき、思い出したようにハリオンは声をあげた。
「あ、大事なことを忘れてました〜」
「大事なこと?」
「お名前、まだ聞いてませんでしたよね〜?」
「あ、ホントだ。……すっかり忘れてました」
ハリオンといい空色羽織といい、どこかおっちょこちょいなところがある二人である。二人揃って笑い出してしまった。
「ははっ……えーと、ではあらためて。私の名前は、クスフォード=カイゼスハルトといいます。よろしくお願いしますね、ハリオンさん」
「まぁ、随分長くて、ごつごつしたお名前ですね〜……」
「似合わないでしょう?」
そう言って笑み崩れる空色羽織には、確かに名前から想像できる威厳などは微塵もなかった。どちらかというと、そこにいるだけで周りにいる者を和ませるような、やわらかな雰囲気が似合っている。
「まったく、私の両親もこんなにちぐはぐな名前をつけなくてもよかったのに。今でもそう思うことがあるんです。だから、皆には別の名前で呼んでもらっているんです」
「……どんな?」
たずねるハリオンに、空色羽織は満面の笑みを浮かべて答えた。
「クスカ、といいます」
《サーギオス城》
クスカがラキオスで遊んでいる頃、ラグナは大汗をかいて仲間のスピリットの指揮に当たっていた。補給物資の調達に、スピリットたちの訓練。そのどちらも、ラグナ自らがやらなくてはならないことだった。
というのも、ここにいるスピリットは皆、ラグナの『転生』で自我を取り戻し、救われた者だったからだ。特にサーギオス出身の者が多い。つまり、彼女たちは戦うこと以外は何も知らないし、自主的に行動することもできない。
何かをするには、すべて命令を必要とする状態になっていたのだ。当然、「自分の意志で何かをする」ということを教えられていないのだから、自我を取り戻したところで、誰かに指示してもらわなければ何をしていいのかわからない。
「人間め……。どこまでスピリットを苦しめれば気が済む……?」
この状態に、ラグナは唇をかんで悔しがった。ただ、絶望してはいない。
「まあ、いい……。人間さえ排除すれば、きっと皆も自分の意志で動く喜びを知るはずだ」
それはさておき、現状では彼女たちに戦闘以外は期待できないのは確かだった。
ラグナは、訓練場に赴いては訓練内容を指示し、倉庫に赴いては物資の量を計算、調達の手筈をスピリットたちに指示するという手順を、朝から幾度となく繰り返している。何度訓練場と倉庫の間を往復したのか、途中で数えるのも止めてしまった。
しかも、訓練の場合は指示をするだけでなく、自ら剣の相手役を務めたりもしているのだ。こんなのを朝から繰り返していれば、いくらラグナでも疲れないはずがない。
が、そんな様子をおくびにも出さず、凛とした容儀を崩さないのは、ラグナのプライドの一分といえるかもしれない。今もまた、すらりと背を伸ばしたまま、静々と訓練場と倉庫をつなぐ通路を歩いている。
そのとき、向こうから一人の幼いグリーンスピリットがやってくるのを目にした。訓練から上がったばかりなのか、少女は熱に浮かされたように頬を上気させている。
が、ラグナの姿を捉えた瞬間、スピリットはあわてて居住まいを正した。
「あ、ラグナさま。これからまた倉庫ですか?」
「ああ。……それより、大分頑張ったみたいだな。そんなに息を切らして、大丈夫か?」
「は、はい。これくらい、何とも……って言いたいんですけど、本当はヘトヘトなんですぅー……」
情けない声をあげて、スピリットの少女は苦っぽい笑みを浮かべた。途端に、ラグナは心配そうに眉をひそめた。
「無理はしなくていい。自分にできることに最善を尽くす……それが、一番大切なことだ。いたずらに自分の分を超えたことをやろうとしても、いい結果には繋がらないぞ?」
「でも、私はみんなの中でもすごく弱い方だし……。はやく強くなりたいんです!」
グリースピリットの少女は、何故か必死の色を浮かべていた。しかし、ラグナはその目の奥に潜む別の感情を見逃しはしなかった。
(……いや、違う。これは何かを恐れている者の目だ)
「どうして、そんなに強くなりたいと思う?」
少女が抱く恐怖を刺激しないように、ラグナはできるだけ優しい声でたずねた。その言葉に、一瞬、申し訳なさそうな表情をつくると、少女はうつむきがちに答えた。
「だって……弱いスピリットは生きていても仕方ないから」
「……何?」
「ずっと私はそう言われてきました。『力のないスピリットなど生かしていても無駄だ。強くなれなければ処刑してマナにするだけ。そうなりたくなければ、必死で強くなれ』と。……だから、私は強くならなくちゃいけないんです!」
(そういうことか……)
少女が強さに固執する理由はそこにあった。やはり、長い年月をかけて刷り込まれてきた人間への服従の論理は、そうたやすく消えないのだろう。いや、人間への服従というのは違うかもしれない。人間が植えつけた「間違った常識」に、彼女は毒されているといった方がより相応しい。
ギリ、とラグナは唇をかんだ。
(こんな幼いスピリットにまで……。人間というのは、一体どこまで腐り果てている?)
一瞬のうちに、憎悪の炎がラグナの心を塗りつぶす。背中に生えた『転生』も、深淵のごとく黒一色に染まった。だが、目の前の少女――そう、スピリット――を愛おしむ気持ちだけは、どんなに憎しみに焦がれても見失うことはなかった。
そっ、と少女の小さな身体を抱きしめた。
「ラグナ、さま……?」
「強くなりたいというのなら、それは構わない。好きなだけ腕を磨けばいい。……だが、強く
「え、でも……」
「スピリットは強くなくてはならないというのは、人間の勝手な都合だ。そこにお前の意志は介在していないだろう? ……そう、スピリットだって弱くていいんだ」
「……」
何とこたえていいのか分からず、少女はラグナに抱かれるままになっている。ラグナは抱く腕に力を込めると、静かに言葉を続けた。
「いいか。弱さは恥じるべきものでもなければ、まして罪でもない。罪は、自分が弱いのを棚に上げ、強さを他人に強いる側にある」
これが同じ人物だろうか、と疑いたくなるほどに、スピリットに接するときのラグナは慈愛に満ちている。その表情も、信じられないくらいに穏やかだった。
天女と夜叉、正反対の二つの顔を、ラグナは併せ持っている。
「だから、お前は何も悪くない。悪いのはお前にそう思い込ませた人間なんだ。今は分からなくても、きっとそれがわかる日が来る」
「……でも、そうだったとしても、やっぱり強くないと生き残れないんでしょう? それに、私はラグナさまや皆の足手まといにはなりたくない……」
「その気持ちさえあれば、十分だ。お前はしっかりと生きていける」
「でも……」
「『でも』、はもういい。それにな、もしお前が弱いままだったとしても……」
ゆっくりと、ラグナは少女を放した。そして、少女の肩に手を置くと、かがみこむようにして視線を合わせ、
「お前は、私が守ってみせる」
「……!」
「それが、私が生まれた意味だからな」
すっ、とラグナは立ち上がると、廊下の窓から外を眺めた。その目は、はるか彼方にあるソスラスに向けられていた。そう、今は亡きスピリットの母が眠る場所である。
「母なる『再生』から授かった私の力、他のことに使う気は毛頭ない。……だから、お前は皆の力になりたいと思った今の気持ちさえ忘れなければ、それでいいんだ」
「……はい」
答える少女の声は、小さいながらも一本芯が通っていた。その反応に、ラグナは、ふっと頬を緩めた。同じように少女も微笑を返すと、元の陽気な娘に戻った。
「じゃあ、もう一度訓練場に戻ります」
「……お前、私の話を聞いていたのか?」
苦笑しながら、ラグナは呆れた。が、グリーンスピリットの少女は太陽のように微笑むと、
「やっぱり、私は強くなりたい。強くなって、ラグナさまや皆と一緒に笑っていたいですから」
「……そうか、それなら何も言うまい。しっかり頑張っておいで」
「はい、それじゃあまた後で!」
「あ、ちょっと待て」
駆け出そうとする少女を、ラグナはすんでのところで呼び止めた。キョトン、とした表情の少女に、いつもの落ち着いた様子でラグナはたずねた。
「クスカを見なかったか? 今朝方からずっと姿を見かけないんだが……」
「クスカさま、ですか?」
「ああ」
「クスカさまなら、『ちょっと散歩に行ってきます』って言ってましたけど……」
「あの馬鹿……」
途端にラグナは苦虫を噛み潰したような顔になり、軽く舌打ちした。それを、グリーンスピリットの少女は不思議そうに見ている。
「ラグナさま、どうかしたんですか?」
「あ、いや。何でもない。……すまないな、わざわざ引き止めたというのに、つまらないことを聞いてしまった」
「い、いいえ、とんでもないです! ……それじゃあ、私はこれで」
「ああ」
少女の背を見送ると、ラグナは再び倉庫へ向かって歩き始めた。が、あからさまに機嫌の悪そうな顔つきである。理由はいうまでもなく、クスカにあった。
(まったく……。あいつの散歩癖は今に始まったことではないが……)
散歩は散歩でも、クスカの場合は意味が違うのだ。散歩癖というより、いっそ放浪癖とでも言ってしまった方がいい。一度出かけてしまえば、日単位で帰ってこない。この癖に、何度ラグナは悩まされたかわからない。
今日とて、本当ならば、倉庫の担当はクスカにさせるつもりだったのだ。それが突然いなくなるものだから、ラグナが何度も足を運ぶ羽目になった。
(何も、わざわざ今日いなくなることもないだろうに……。一体どこをほっつき歩いている?)
つい、愚痴っぽくなってしまうのは、それだけラグナがクスカを信頼しているということなのだろう。普通なら、信頼してもいない相手にこんなことは感じない。が、まさかそのクスカが、敵地のど真ん中ともいえるラキオスにまで足をのばしているとは、さしものラグナも想像できなかった。
誰もいない廊下で、ふとラグナはつぶやいた。
「あいつは馬鹿だ」
何を考えているのか分からない、というのだ。まるっきり行動の基準が見えてこないせいだろう。
「帰ってきたら、すこしばかり灸をすえてやるか……」
結局、助けてくれる者もいないまま、ラグナは倉庫へ向かうのだった。
《ラキオス》
さて、その馬鹿。
空色羽織ことクスカは、ハリオンに誘われるまま、一軒のお菓子屋へ足を踏み入れた。ハリオンいわく、
「お休みの日は、いつもここのお手伝いをさせてもらってるんですよ〜」
とのことだ。
店は木造の平屋で、入るとすぐにお菓子の並んだショーウィンドゥにぶつかる。焼き菓子が専門らしく、クッキー、パイ、ケーキといった品々が、わが美を誇るようにずらりと並ぶ様は、圧巻の一言だった。
店の奥に目を転じると、そこには紅茶と焼き菓子を楽しむ人々の姿があった。若い男女から老人まで、年齢にまとまりはない。
「へぇ……、店の中でもお菓子を食べられるようになってるんですか?」
少し、クスカは驚いたらしい。もともとお菓子屋などに出入りする機会がないだけに、余計にそう感じたのだろう。そういう妙な問いを発したクスカが面白かったのか、ハリオンの口元が綻んだ。ぴっ、と人差し指を立てると、姉が弟にものを教えるような調子で、
「もちろんですよ〜。お菓子は焼き立てを、その場で食べるのが一番ですから〜」
「なるほど……。ははっ、何だか喫茶店みたいですね」
納得したのか、クスカはしきりとうなずいてばかりいる。その様子にはやはり愛嬌があって、またしてもハリオンは笑みを誘われた。
通りに面した側は大きなガラス張りになっており、そこから差し込む陽光が店全体に明るい雰囲気をかもし出していた。
こんな空気の中で美味しいお菓子が食べられるとなれば、自然と心も浮きたってくるのだろう。店の中に、客の談笑が絶えることがない。
「いいお店ですね」
素直に、クスカは褒めた。この童臭を残した青年の声には、どこか篤実な響きがある。聞いたハリオンも、それが社交辞令ではなく、クスカの心からの感想だということが分かった。
「ふふふ……ありがとうございます〜♪」
ハリオンは、クスカに預けていた材料を受け取ると、
「それではお客様〜、今から準備をいたしますので、あちらでお待ちくださいね〜」
にっこりと笑みを残し、のれんをくぐって厨房へと姿を消した。クスカも言われるままに席に着き、窓の外を眺めている。日の光にまぶしそうに目を細め、穏やかに笑みをたたえる姿は、縁側でひなたぼっこをする子猫を思わせた。
「これが春なのかなぁ」
同じファンタズマゴリアでも、ラキオスほど気候が穏やかな場所はない。ラキオス生まれでないクスカにとって、この種の自然の暖かさというのは、初めて経験するものだった。
「なるほど、こういう場所ならハリオンさんみたいな人がいても不思議じゃないかな」
土地の気候はそこに住む人々の気質にも影響を与える。クスカがそう考えたのも無理はない。とはいえ、それだけではハリオンのマイペースぶりは説明できないが。
ふと、厨房から声が聞こえてきた。
「ハリオン! あなた、この忙しいのに一体どこへ行ってたのよ?」
「お菓子作りの材料を買いに行っただけですけど〜?」
「材料なんて必要なものは全部揃ってるじゃない!」
(……誰だろう?)
クスカは、首をかしげた。片方が、ハリオンだというのは分かる。だがもう一人の、ちょっと強気そうな女性は誰なのだろう。
「まったく……。今日は店長が風邪を引いて出られないから、私たち二人で店を切り盛りしなくちゃいけないって、ハリオンも分かってたでしょう?」
「あぁ〜! すっかり忘れてましたぁ〜!」
「あのねぇ……」
「でも、困りましたねぇ……。新作のお菓子をご馳走しようと思って、お友達を連れてきたんですけど……」
「何で次から次へと難題を持ち込むのよ、あなたって人は……」
姿こそ見えないものの、声の調子から女性が頭を抱えている様子を、クスカは容易に想像できた。しかも、話題はどうやら自分のことらしい。
(何だか悪いことしちゃったなあ……)
クスカが困った顔をして成り行きを見守っていると、何かをひらめいたように、はた、とハリオンが手を打った。
「それじゃあ、こうしましょう〜」
「……何?」
「私は新作を作りますから、お店のほうはヒミカ一人でやる、ということで〜♪」
「そんなのできるワケないでしょーがっ!」
「え〜……」
ふくれるハリオンだが、そもそもそんな提案に、ヒミカが受け入れられる余地など一寸もない。ハリオンの「迷案」は、あっさりと一蹴されてしまった。
「名案だと思ったんですけどねぇ……」
「そう思うのは、世界中探してもハリオン一人しかいないわよ」
「む〜……」
「はぁ、どうしてお菓子のこととなるとこんなに強情なのかしら……」
ヒミカほどハリオンとの付き合いが長く仲のいい者もないのだが、そのヒミカでさえ、殊にお菓子に関することとなるとハリオンは手に負えない。が、どちらにせよ、ヒミカ一人で店を切り回すのは物理的に不可能だった。あからさまに不満げな表情のハリオンに、ヒミカは精一杯の譲歩を示した。
「店長が『今日は俺がいないから早めに店は閉めていいぞ』って言ってたから、新作はその後にしたら? それなら私も手伝うから」
「そんなにクスカさんを待たせたら、途中で帰っちゃいますよぅ〜!」
(……困ったなあ)
別段、二人は大きな声で話しているわけでもないが、その様子はクスカに筒抜けだった。生来、耳がいいのだろう。
当のクスカは眉をハの字にひそめ、何とも情けない表情をしていた。子供のように本気で当惑してしまっている。
(どうしよう……)
ここで自分が帰るのが、店にとっては一番いいのだろう。そうすれば、ハリオンも今すぐにお菓子を作らなければならない理由はなくなる。ただ、それはせっかくのハリオンの好意を無にするということでもある。今日、出会ったばかりとはいえ、友人に嫌な思いをさせるのも気がすすまない。
――さて、どうしたものか――
一方、ヒミカとハリオン。
「……はぁ、分かったわよ。じゃあ、待っててもらえるように私が事情を説明してくるわ、そのクスカって人に。……それなら問題ないでしょう?」
疲れきった顔で、ヒミカはため息をついた。さすがのハリオンも、これ以上は抗弁する気が失せたらしく、不承不承うなずいた。
「仕方ないですねぇ……。でも、お仕事が済んだら、ちゃんとお菓子作り手伝ってくださいね〜?」
「わかってるって。しつこいわね……」
「それはヒミカのせいです〜!」
ヒミカも、むっ、と思わず言い返しそうになったが、そうすればさっきと同じ不毛な流れが延々と繰り返されるのが目に見えていた。ここはぐっと我慢。ヒミカは、ウエイトレスらしくお冷の乗ったお盆を持つと、厨房から一歩足を踏み出した。
「じゃあ、行って来る……って、あら?」
急に足を止めたヒミカを見て、ハリオンは不審げに首をひねった。
「どうかしましたか〜?」
「……寝てるわよ、彼」
「……へ?」
「……だって、ほら」
と、ヒミカの指差す先には、テーブルを前に腕を組み、こっくりこっくりやっているクスカの姿があった。出鼻をくじかれたというか、これにはヒミカも拍子抜けする思いがした。
気持ちよさそうに眠りこけている姿が妙に可愛らしく、ついさっきまで頬を膨らせていたはずのハリオンまで笑い出してしまった。
「あらあら、こんなところでお眠りさんですか〜? マイペースな人ですねぇ〜♪」
(あなたにそれを言われちゃお終いだと思うんだけど……)
ヒミカはヒミカで、喉元まで出掛かっている言葉を押さえるのに必死だった。とはいえ、ハリオンをしてそう言わしめるほど、クスカの寝顔は柔らかい。
(道理でハリオンが気に入るわけね……。ま、悪い人じゃなさそうだし、いいか)
「そういえば、ラキオスまでずっと散歩してきたって言ってましたし〜。きっと、すごく疲れてたんですねぇ〜」
「……そうね。このまま寝かせといてあげましょ。日も差してるから、風邪を引く心配もないでしょうし。店が終わって、お菓子ができた頃に起こしてあげればいいんじゃない?」
「そうですねぇ〜。ふふふ、クスカさん、きっとビックリしますよ〜♪」
こんな形で面倒事が片付くとは思ってもみなかった。とはいえ、これで二人とも余計なことに気を回さずにすむようになったのは確かだ。
「はいはい、そうと決まったら仕事仕事。ハリオン、やることはちゃんとやってよね?」
「わかってますよぉ〜」
そんなやり取りをしながら、和気藹々と仕事に戻るヒミカとハリオンだった。
が、本当のところ、クスカは眠ってなどいない。何のことはない、机に突っ伏して目を瞑っているだけだ。それが、遠くのハリオンたちから見れば、さも寝息を立てているように見えたのだろう。
(……うん、上手くいったみたいですね)
うっすらと片目をあけて、クスカは二人が厨房に引っ込むのを確認した。行為としては、失礼極まりない。
が、別に悪意があってこんなマネをしたわけではない。むしろ、二人に余計な気遣いをさせまいという、クスカの心遣いだった。この他人の気持ちを慮りすぎる若者は、そういう罪のない嘘が上手かった。
(……さて、と。それじゃあ、夕方まで一眠りしようかなあ)
幸いなことに日も暖かく、昼寝には絶好の状況だった。今度こそ、演技抜きにクスカの意識は沈んでいった。
数時間後。
客のいなくなった店内で、クスカ、ハリオン、ヒミカの三人がひとつテーブルを囲み、ケーキをつついていた。普通、ケーキを「つつく」などとは言わないものだが、あえてここではそうしておきたい。
「まだ、あるの……?」
半ば呆然として、ヒミカは高々とそびえ立つケーキを
お菓子屋で働いているくらいだから、ヒミカも甘いものは嫌いではない。とはいえ、それにも限度というものがある。正直、食べすぎで胸焼けがしてきたところだ。
(おとぎ話に出てくるお菓子の家じゃあるまいし……)
じろり、と恨めしげな視線を、ヒミカはこの物体の製作者に向けた。しかし、諸悪の根源であるハリオンは、この上なく幸せそうな顔でケーキをパクついていた。
「一度、食べきれないくらいのケーキをつくってみたかったんですよねぇ〜♪」
といって皿を平らげると、また一切れケーキを取り分けた。これには、ヒミカも呆れてしまった。
(しかも……)
ヒミカは思うのだ。ハリオンだけでなく、目の前の青年も、きっと満腹中枢に異常をきたしているのだろう、と。そうでなければ、胃袋がどこか別の世界に通じているとしか思えない。
口の周りにクリームをつけたまま、クスカも次の一切れに手を伸ばした。
「それじゃあ、私もおかわりを……」
「どうぞ遠慮なさらずに〜。いくらでもありますから〜」
(絶対おかしいわよ、あなたたち……)
見ているだけで胃が重い。げっそりした顔をヒミカに向けられて、ハリオンはさも不思議そうにたずねた。
「ヒミカは食べないんですか〜?」
「もう、いい……。お腹いっぱいだし……」
「えぇ〜!? せっかく作ったのにぃ〜!」
「ヒミカさん、まだそんなに食べてないじゃないですか。こんなに美味しいのに……勿体ないですよ?」
(……この胃袋魔人どもぉっ!!)
ヒミカに向かって、二人揃って無邪気な顔をしてケーキの皿を突き出してくるのだ。戦場では誰よりも勇敢な戦士であるヒミカだが、これには閉口した。今のヒミカにとって一口のケーキは、ヘヴンズスウォードの一撃より重い。
「と、ところで……クスカさんってどこから来たの? ラキオスは今日が初めてだってハリオンに聞いたんだけど」
二人のケーキ攻めから逃れるには、無理矢理にでも話題を変えるしかない。できるだけ自然な口調で、ヒミカはクスカに水を向けた。
「私、ですか?」
きょとん、と呆けたような顔をしていたが、すぐに微笑むと、
「サーギオスから来ました」
「……え?」
「……どうかしましたか?」
事も無げに言うクスカだが、ヒミカやハリオンは今のサーギオスがどういう状況にあるかを知っている。ラグナは、サーギオス城を落とした翌日、露払いとばかりに城下町を襲撃していたのだ。そこでかなりの犠牲が出たというのも、風の噂で聞いている。
クスカを気づかうように、ヒミカは眉根を寄せた。
「もしかして、あなたもサーギオスから逃げてきたの?」
「え?」
「ほら、この間ラグナっていうスピリットがサーギオスの人たちを襲ったでしょう? それ以来、レスティーナ女王の庇護を求めてラキオスに流れてくる人が多いって話だから。サーギオスから来たっていうから、あなたもそうなのかと思ったんだけど……」
「あ、いや。私はその前にサーギオスを発っていたので、そういう訳じゃないんですけど……」
「へぇ、そうなんだ。でも、どちらにしろ当分はサーギオスには戻れないんじゃない? その辺のアテはあるの?」
「はい。ラースに伯父がいるので、しばらくはそこへ泊めてもらおうかと」
「ふぅん、それならいいけど……」
「ははっ、心配してくださってありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」
もちろん、嘘である。ラースに伯父などいないし、そもそもクスカの肉親はどこにもいないのだ。とっさに思いついた、その場しのぎに過ぎない。ただ、この嘘もまた、ヒミカやハリオンには何の害もないあたりがクスカらしかった。
ふと気づけば、ヒミカが苦い顔をしていた。
「それにしても、本当に人間を襲うなんて……。ラグナならやりかねないとは思っていたけど」
「そうですね〜……。確かに、彼女の気持ちも分からなくはないんですけど〜……」
「ハリオンの言うとおり、ラグナが人間を憎んでるのは仕方ないと思う。スピリットに対して人間がしてきたことは、それくらいひどいものだっていう点については、私もラグナと同じ考えだから。……でも、それが人間を殺していいって理由になるの?」
テーブルの下で、ヒミカはこぶしを握り締めた。
「私は、この手で何人ものスピリットを斬ってきた。戦争だったから……そんな理由で片付けちゃいけないのかもしれないけど。でも、私だって死にたくなかった。生き抜かなくちゃいけなかった。何より、仲間を守りたかったから、私はいくつもの命を絶った。エゴだっていうのは分かってる。でも、戦争っていう行為自体がエゴの塊である以上、そこに身を置く私もそうならざるを得なかった。……でもね、骨を断つ感触、神剣魔法に焼かれて焦げる肉の匂い……そんなもの、何度経験したって慣れっこないし、慣れたくなかった。……いいえ、慣れそうになる自分を必死で抑えてた。きっとそれに慣れた瞬間、私は生きてちゃいけない存在になると分かっていたから」
とうとうと流れるヒミカの言葉には、己が手を血で汚し、そして苦悩してきた者だからこそ持ちうる重みがあった。
「……だから思ったわ。せめて、こんなことは早く終わらせよう。そして、できれば二度と同じことが繰り返しませんようにって。……血なんて、流れない方がいいに決まってるもの。それがスピリットのものであろうと、人間のものであろうと……。だから、私はラグナみたいに『虐げられたから今度は逆に虐げる』なんて割り切れない。仮に、ラグナの言うように殺していいものがあるとすれば、それは過去のしがらみだけよ。少なくとも、これから共に生きていこうとする人たちを殺していいはずがない」
激情のまま言葉を続けようとするヒミカの先を制して、やんわりとハリオンが継いだ。
「きっと、ラグナさんはまだ子供なんです……。やっていいことと悪いことの区別がつかないだけなんですよぉ〜……」
「……器が小さいのよ、ラグナは」
初対面のときから、ヒミカはラグナが嫌いだった。ラグナの容貌にも問題があっただろう。鋭すぎる容貌は無用の敵を作りやすい。そこにラグナ特有の憎体さが加わったとあれば、ヒミカがラグナを快く思えないのも仕方がないのかもしれない。その点、ハリオンにはその小面憎さが、ラグナの精神的な幼さとして映るようだった。
「でも、これでまたスピリットは嫌われますね〜……」
悲しげに微笑するハリオンを前に、ヒミカもうなだれた。
無理もなかった。これまでわずかずつではあったが、確かに人間とスピリットは歩み寄り始めていた。サーギオス地方や、かつての貴族など、相変わらずスピリットを白眼視する連中も決して少なくはなかったが、その数もかつてに比べれば大きく減っていたのだ。
だが、人間とスピリットの間に架けられつつあった橋は、ラグナという名の濁流にもろくも押し流されてしまった。
二人が黙り込んだのを見計らったように、日が沈んだ。西の空の残光が、妙に物憂げな色に店の中を染め上げている。
それまでじっと聞き手に回っていたクスカが、初めて口を開いた。
「大丈夫……。たとえどんなことがあっても、ヒトとスピリットが手を取り合える日は必ず来ます」
そよ風か何かと勘違いしてしまうほどに、クスカの声はさりげない響きを持っていた。ふと、ハリオンとヒミカの眼に映ったのは、クスカの空色羽織だった。切なげな夕日の中、そこだけが時に置き忘れられたように、抜けるような青を漂わせていた。
しかし、クスカの楽観的な発言に、ヒミカはかえって落胆したようだった。
「どうしてそんなことが言えるの? あまり軽々しく考えないで欲しいわね……」
「そんな風に聞こえましたか?」
「悪いけど、正直なところはね……。もちろん、諦めるつもりもないし、ラグナのせいで全てが駄目になったとは思わないけど。大分、時間がかかるでしょうね……」
「なら、いいじゃないですか」
「……は?」
「時間がかかる、っていうことは、逆に言えばいつかは解決するってことでしょう。つまり、ヒミカさんたちが諦めない限り、可能性は消えない……ね?」
「……あ」
あまりにも単純な論理。あまりにも幼稚な言葉。それでも、なぜかヒミカは否定できなかった。クスカは先を続けた。
「人間の身体にたとえれば、今は腫れ物が膿みきった状態なんですよ。そう、300年の間、人間とスピリットの間で膨らみ続けた腫れ物が。そして、ちょっとした拍子でその膿があふれ出した……。確かに、腫れ物が破れた瞬間は痛いかもしれない」
まるで自分が当事者であるかのように、クスカは顔をしかめた。そこに嘘偽りは微塵もなく、本当に心痛しているのだろう。たった数時間の付き合いでしかないが、ハリオンにはそれが分かった。クスカの言葉を引き取って、ハリオンは言った。
「でも、膿は出し切らないといけませんよね〜……」
「……はい。絆創膏を張ってごまかすことはできるかもしれない。でも、それはますます傷を膿ませるだけで、本当の意味での解決にはなっていないと思います。だから……」
「……ラグナが溢れさせた膿も、ヒトとスピリットの未来をつくるには必要。避けて通れないものだって言いたいのね」
「はい。その膿を取り除いて、はじめてヒトとスピリットは共に歩んでいける」
ヒミカの言葉に、クスカは強くうなずいた。クスカは、溜まりにたまったしこりを一度発散させることが必要だといっているのだろう。人間がスピリットにしてきた仕打ちがどれだけのものか、怒れるスピリットの行動を以って人間の側も知る必要がある。
少し間を置いて、クスカの目を見据えてヒミカは言った。
「やっぱり、あなたの言うようにラグナのやってることが必要だとは思えない。どう考えても、復讐のためだけに人間を滅ぼそうなんていうのは自己満足にすぎないわ。前にセリアが言ったように、ラグナは極論に走りすぎてる。……でも」
ふっ、とヒミカは頬を緩めた。
「少し安心した、かな」
「……はい?」
「あなたと私の意見は違う。でも、真剣にスピリットと人間のことを考えてることには違いないわ。そういう人がいるって分かっただけでも、これからの希望につなげていけるから。何より……」
「クスカさんと私たちがお友達になれたのが何よりの証拠ですよね〜♪」
「ははっ、違いない」
ハリオンの明るい言葉に三人揃って吹き出してしまった。空を見上げると、月が南天の空にかかり始めている。
「あ……随分長居しちゃいましたね。そろそろ行かないと」
思い出したように、クスカは椅子から立ち上がった。
「あら〜、残念ですねぇ〜……」
「もう遅いし、ラースは明日にしてこっちで宿を取ったら? 一応、紹介できるところもあるし……」
「いえ、大丈夫です。あんまり日延べしちゃうと伯父に心配かけちゃいますし……。それより、せっかくですから夜に押しかけて伯父さんを驚かせてやろうかと」
「……あなたらしいわね」
苦笑するヒミカに、クスカは飛びっきりの笑顔で応えた。その無邪気な様が、いっぱしの青年とは思えぬほどに可愛らしい。
「それじゃあ、お土産にケーキを包んできますね〜♪」
「あ、お願いします。ハリオンさん、すごく美味しかったですよ。遅れましたけど、今日は本当にご馳走様でした」
「いいえ〜。喜んでもらえて何よりです〜」
ころころと笑いあう二人をよそに、ヒミカの胸中に別の疑問が鎌首をもたげている。
「まだあったの、あのケーキ……」
「あ、ヒミカの食事は当分ケーキ尽くしですから〜」
「ちょ、冗談じゃないわよ! ちょっとハリオン、待ちなさい!」
ラッピングをするために、鼻歌を歌いながら厨房に戻るハリオンの後を、ヒミカは慌てて追った。そんな光景を、クスカは微笑ましげに見つめていた。
「ははっ、ヒミカさんも大変だなぁ」
朝から山盛りのケーキを出され、げっそりしているヒミカの顔が目に浮かぶようだった。だが、この日、クスカは間違いなく幸せだった。生まれてこの方、こんなに楽しく友人と過ごした日が果たしてどれだけあっただろう。
その明るい性格からは想像できないが、クスカはほとんど他人との付き合いというものがなかった。それがこの若者の飄々としたところにつながっているのだが、無論、本人に自覚はない。元が人懐っこいだけに、ハリオンたちと仲良くなれたのが本当に嬉しかったのだろう。今この瞬間、確実にクスカの心は満たされていた。
(今日は本当に楽しかったなあ……)
クスカは、本当にいい笑顔を浮かべることができる。おそらく、心に余計なこだわりを持たずにいるからだろう。純粋に感情を表現できるのは、彼の特徴といってよかった。そして、そういう表情を通じて直接に他人と通じることができるからこそ、ハリオンたちとも気持ちを通わせることができたのだろう。
しかし、そんな彼にもただ一点の影がある。微笑したまま、ひそやかに目を伏せると、
「……
誰にも聞こえないような小声で、つぶやいた。もっとも、聞かれたところで意味が分かるものはいなかっただろう。普段から彼のそばにいるラグナでさえ、分からなかったに違いない。ただ、そう望むクスカの声に、どこか諦念じみた響きがあったのは気のせいだったかどうか。
(ハリオンさん、ヒミカさん……。また、会えるといいですね)
厨房から漏れた光が、クスカの足元にまで伸びている。子犬をなでるような手つきでそれに触れると、クスカは黙って足を外に向けた。二人に声をかけるつもりは無かった。
だが、一歩足を踏み出した瞬間、それ以上進めなくなった。同時に、糸で引っ張ったようにクスカの顔がこわばった。
「……ッ!?」
突然、クスカは激しく咳き込んだ。かと思うと、がはっ、と塊のような血を吐き出し、ひざから折り崩れた。左手を床に着き、身体を支えている。
(な……っ!)
おびただしい喀血だった。口周りが真っ赤になり、口を押さえた指の隙間からも血が滴った。異変を察知したハリオンとヒミカが、慌てて駆け寄ってきたが、まず、二人はその光景に唖然とした。
「く、クスカさん!?」
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの!?」
クスカの後ろに回ったハリオンが背中をさすり、ヒミカがハンカチで口周りを拭う。
「だ、大じょ……ぐっ……」
二人に心配をかけまいと、何とか言おうとするクスカだが、咳のせいで言葉にならない。言葉のかわりに血が溢れた。
(何でこんな時に……っ!)
悔恨がクスカの胸に満ちた。まるでそれを吐き出そうとするかのように、クスカの喀血も続く。ひゅうひゅうと呼吸は乱れ、喘息患者のような有様だった。
しかし、それもしばらくするとおさまった。血と一緒に、ごっそりと気力まで奪われた感じだったが、何とかクスカは立ち上がった。
「……すみませんでした。もう、大丈夫です」
「クスカさん、病気なんですか〜……?」
「……」
クスカは何も語らなかった。だが、困惑げに眉をひそめて微笑するその横顔が、ハリオンには泣いているようにさえ見えた。無言のまま背を向けると、そのまま逃げるようにクスカは外へ出ようとした。二人は、ただ呆然と見送るしかできない。扉に手をかけると、初めてクスカは振り向いた。
そして、言った。
「……かなうことなら、すべてのスピリットと人にマナの導きを」
そのまま、クスカはラキオスから消え去った。
(クスカさん……悲しそうだった)
ハリオンは思った。クスカの最後の言葉は、馬鹿みたいに陽気な声だった。彼が残した春風みたいな笑みも、まだその辺を漂っているようにさえ感じる。そのくせ、ハリオンはクスカの中に、何か物悲しいものが宿っているように思えて仕方が無かった。ただ、それが何なのかは分からない。
綺麗にラッピングされたケーキの箱が、行くべきものの元へ行くことなく、ハリオンの腕の中に抱かれていた。