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─聖ヨト暦332年 アソクの月 青 一つの日 昼
 闘護の部屋

 「ふぅ・・・」
 溜まった書類を整理しながら、闘護はため息をついた。
 『何でこんなに内務の仕事が残ってるんだ?』
 苛立たしげな眼差しを、机の上に積まれている書類に向けた。
 『エスペリアと均等に半分に割ったが・・・それでも、数日かかるかもしれん』
 「はぁ・・・」
 ため息をつく。
 コンコン
 「はい?」
 「私です〜」
 「ハリオンか。どうしたんだ?」
 「お茶をお持ちしました〜」
 「そうか。いいよ、どうぞ」
 「失礼します〜」
 ガチャリ
 ハリオンがお茶の入った器を載せたお盆を持って、部屋に入ってきた。
 「お仕事、どうですか〜?」
 「・・・それなりに進んでる、かな」
 「ご苦労様です〜」
 ハリオンはテキパキとした動作で、机の上にある僅かなスペースにカップを置いた。
 「ありがとう」
 闘護はすぐにカップに手をつけた。
 「それにしても〜」
 ハリオンは盆を持ったまま机の上を見回した。
 「凄い量ですね〜」
 「・・・まぁね」
 「でも、まだあるんですよね〜」
 「・・・ああ」
 闘護は苦い表情で頷く。
 「どうしてこんなに仕事が溜まったんでしょうか〜」
 「・・・やっぱり、前線に内務処理を出来るメンバーを全員投入したら駄目だな」
 カップを置いてため息をつく闘護。
 「そうですね〜」
 ハリオンは片手の人差し指を自らの顎に当て、考える仕草をとる。
 「内務処理が出来るのはトーゴ様とエスペリア、それにセリアぐらいですもんね〜。セリアは今、特別任務でいませんし〜」
 「そうなんだよな」
 ハリオンの言葉に闘護はため息をつく。

 セリアは現在、悠人、アセリア、ファーレーンと共にヨーティアを連れてスレギトへ向かっていた。

 『他のメンバーに仕事を教えるにしてもなぁ・・・』
 闘護は頭を掻く。
 『ヒミカとハリオンは攻撃、防衛にとって欠かせないし、暇のある時はケーキ屋で働いて欲しいから内務を任せることは出来ない。ファーレーンは先日までスランプ気味で薦められなかったし、ナナルゥには余裕のある時は孤児院に行って欲しい。それ以外で内務の仕事をすぐに覚えてくれそうな人材はいないんだよな』
 「はぁ・・・」
 大きなため息をつく闘護。
 「大丈夫ですか〜?」
 にこやかながらも、僅かに眉をひそめたハリオンが尋ねる。
 「ああ・・・大丈夫だ」
 『あれこれ“たられば”考えても無駄だし、とにかく仕事をこなすか』
 闘護はカップの中身を一気に煽ると、再び書類に手を伸ばした。
 コンコン
 「ん?誰だい」
 「ヒミカです」
 ドアの向こうから返事が返ってくる。
 「どうぞ」
 「失礼します」
 ガチャリ
 「あの・・・あっ!」
 中に入るなり、ハリオンの顔を見て目を丸くするヒミカ。
 「ハリオン!こんな所にいたのね」
 「あらあら、どうしたの〜?」
 「どうしたのじゃないわよ。今日が何の日か忘れたの?」
 「えっと〜・・・あら、そういえばケーキ屋さんに行く日でしたね〜」
 のんびりした口調で言うハリオンに、ヒミカはため息をつく。
 「もう・・・早く行かないと怒られるでしょ!」
 「はいはい〜。それではトーゴ様、失礼します〜」
 ハリオンはペコリと頭を下げた。
 「失礼します!」
 ヒミカも頭を下げる。
 「ああ。行ってらっしゃい」
 闘護は優しい笑顔で二人に手を振る。
 「ほら、行くわよ」
 「はいはい〜」
 ガチャ・・バタン
 二人が出ていき、部屋の中は一気に静かになる。
 「ふぅ・・・」
 『なんだかんだ言って、ヒミカも結構ケーキを作るのを楽しんでいるみたいだな』
 自然と闘護の口元が綻ぶ。
 『俺も頑張らないと』
 「さて・・俺もさっさと仕事を片づけるか」


─聖ヨト歴332年 アソクの月 青 四つの日 夕方
 マロリガン領 スレギト

 「これがマナ障壁の発生装置・・・」
 悠人は巨大な塔のような物体を見上げる。
 低い地鳴りのような音を響かせるそれは、思ったより大きく圧迫感がある。

 視察に行くと言ったヨーティアは、あっさりと意見を翻した。
 きっと、なんとかなる・・・とのことだ。
 悠人が理由を聞くと、答えは『天才だから』だ。
 悠人は危うく、感動以外の理由で泣いてしまうところだった。
 ともかく、悠人はアセリア、セリア、ファーレーンの三人だけで、急ぎ発生装置まで来た。

 『この機械といい、この世界の不自然さはなんだ?』
 悠人は眉をひそめる。
 『自分の世界の常識が通じないことは解っている。でも、この世界の人間は、殆どこれらが『何であるか』を知らない。だけど、それを疑問に思わない・・・こんな事ってあるのか?』
 「ユート、10分間くれ。それだけあればこんなもん、簡単に解除してやるよ」
 ボンヤリと巨大な装置を見上げていた悠人は、ヨーティアの声でハッと我に返る。
 ヨーティアは慣れた手つきで操作盤を取り出す。
 ダイヤルやら、スイッチやら、まるで工場の機械のようだ。
 『こういう単純な仕組みっていうのは、どういう世界でもあんまり変わらないのかな?』
 首を傾げている悠人をよそに、持ってきていた紙資料を広げて、工具を取り出す。
 『成る程。完全にぶっつけ本番じゃなくて、それなりに調べはついてたって事か』
 ヨーティアの様子に、悠人は幾ばくかの安堵を覚える。
 「解った。・・・みんな、ヨーティアを中心に警戒態勢を取ってくれ」
 悠人の命令に三人は頷く。
 「さぁ〜て、いっちょヤルかね」
 ヨーティアは作業を始めた。
 「この構造・・・結構ちゃんと残ってたんだねぇ・・・吹っ飛んだと思ってたのに。これは・・よくできているね。まぁでも、これくらいなら・・・」
 鼻歌を歌いながら操作盤をいじっているヨーティア。
 まるでパズルを解いて遊んでいる子供のようだ。
 「・・・っ!?」
 ピタリとヨーティアの手が止まる。
 「どうした?」
 ヨーティアは持ってきていた計器の針をジッと見つめている。
 まるで彫像にでもなったかのように動かない。
 「ヨー・・・」
 「ちょっと待て!話しかけるな!」
 ヨーティアは厳しい表情のまま叫ぶ。
 「・・・私を引っかけよう、って魂胆だな。猪口才な」
 その雰囲気からはいつもの余裕はない。
 『いつも軽口を叩いているヨーティアが、珍しく焦っている?こんなヨーティアは初めてだ・・・』
 悠人は先程の安堵から一点、不安を感じ始めた。

 「くそっ!!」
 バンッと壁を叩く。
 ヨーティアにしては珍しく、感情的になっていた。
 「どうしたんだ?」
 「内部にエーテル変換施設と同等の動力機関が隠してある。強制的に止めると暴走する巧妙な仕掛けだ」
 ヨーティアは首を振った。
 「解除するには、対となる方も同時に止めないと駄目だ。そうしないとデオドガンも、イースペリアの二の舞になる」
 悔しそうに操作盤から手を離す。
 「え、じゃあこの装置を止めることは出来ないのか?」
 「残念ながらね。この装置自体が爆弾みたいなものだ。停止させようとすると、自爆するように出来ている」
 ヨーティアは苦笑を浮かべた。
 「悪い。ここは私の負けだ」
 「・・・」
 「急いで撤退しよう。引き際が肝心だ」
 ヨーティアはテキパキと工具や、資料を片づけ始める。
 『撤退・・・するしかないのか』
 悠人から見ても、どうなのか解らなかった。
 『だけど・・・それならばこそ、ヨーティアの言葉に従うべきなんだろう』
 「・・・行こう。追っ手が来る前に」
 悠人は【求め】を握りしめる。
 『まずはヨーティアを安全に連れ帰らないと。そうしないと、今後の対策の立てようがない。全員無事に帰る・・・それを考えるのなら、まだ気が楽だ』
 悠人は小さく頷く。
 「・・・この小型の動力機関の罠・・・ちぇっ、アイツくらいしかこんな事が出来る奴はいないなぁ」
 ヨーティアは悔しそうな顔をして、小さく呟く。
 だが、その声は楽しそうにも聞こえた。
 『罠を仕掛けた相手に心当たりがあるんだろうか?』
 「ならここは私にもどうしようもないか・・・作戦を練り直す必要がある。行こう!!」
 すぐに気を取り直し、自ら走り出す。
 敗北を引きずらない・・・この切り替えの速さは、確かに天才のものだった。
 悠人達は、暗いうちに撤退した。


─聖ヨト歴332年 アソクの月 赤 五つの日 昼
 ヨーティアの研究室

 マナ障壁停止作戦の撤退から、数日の時が過ぎた。
 悠人達だけならばエーテルジャンプを使うことも出来るが、今回は人間のヨーティアも一緒である以上、地上ルートを使うしかラキオスに戻る方法はない。
 ウィングハイロゥを持つ者に協力してもらったが、それでも時間がかかってしまった。
 そして帰り着いた悠人達は、体を休めるのもそこそこに、首尾の報告をすることになった。
 普段は簡単に済ませてもいいのだが、今回の作戦は失敗した。
 つまり、次の一手が必要になる。
 だから報告会も最低限の人数。
 つまり、悠人と闘護とヨーティアとレスティーナ・・・それから、側にイオが控えているくらいだ。

 「デオドガンのマナ障壁に罠があったと聞きましたが・・・?」
 「そうなんだよ。しかも、ヨーティアがその場で解除できなかったくらいだから、結構ヤバイかも知れないな」
 悠人の言葉を受け、レスティーナと闘護は視線をヨーティアに向ける。
 口には出さないが、説明を求めているのは明らかだ。
 「まぁ、要するにエーテルを放出するのを制御する装置があるんだけど、そこを停止させてやればいいだけなのさ」
 ヨーティアは肩を竦めた。
 「実に単純な話でね、無効化できない兵器なんて存在するだけで危険だっていう話さ。エーテル排出を制御する箇所ってのは、意図的に残された弱点みたいなもんなんだよ」
 「ならば、罠というのはその弱点に・・・?」
 闘護の問いに、ヨーティアは頷く。
 「そう。その部分に細工がしてあったってわけ。エーテル排出を止めると自動的に温度が上がって、中枢部の動力結晶が暴走するようになっていたんだ」
 「動力結晶の暴走・・・か」
 闘護は苦い表情で呟く。
 『あのマナ消失の時の恐怖は、忘れることが出来ない・・・』
 『神剣を通じて伝わってきた断末魔を思い出すと、未だに身体が震える・・・』
 闘護と悠人はイースペリアのマナ消失を思い出し戦慄する。
 「トーゴ、以前そっちの世界の原子力とかいうのを利用した発電所の話をしてくれたことがあったね?」
 「ああ。便利だが大事故の危険性もはらんでいるものだ」
 「エーテル変換施設ってのはそれに近いのさ。安定供給してくれるし、普通に使ってる分にはとても安全な物だけど、暴走したら最後、周辺にとんでもない被害をまき散らす・・・ま、要するに制御が難しいと考えてくれ」
 「成る程・・・」
 闘護が納得するように頷く。
 「ヨーティア殿、よろしいですか?何故、戦略兵器に解除を前提とした罠を仕掛けるのでしょう?しかも、罠が発動したら最後です。我が国だけではなく、マロリガンにも多大な被害があるはず。それなのに・・・」
 レスティーナの疑問は尤もだった。
 相手が解除でなく破壊とする場合も、十分にあり得る。
 そうなったら、マロリガンには破滅が待つだけだ。
 『どこにもマロリガンの得になるようなことはないように見える・・・それなのに、何で?』
 悠人が表情を窺ってみると、レスティーナも考えは同じらしい。
 「まるで、こっちが解除できると踏まえた上での罠だな」
 闘護がゆっくりと呟いた。
 「闘護?」
 「どういうことですか?」
 「さぁな」
 悠人とレスティーナの問いかけに、闘護は肩を竦めるとヨーティアを見た。
 ヨーティアは渋々頷く。
 「・・・なんとなくわかるよ。解除方法を知っている者への当てつけなのさ。気がつくことも折り込み済みの罠だ。要するに、私に対してのね」
 チッと舌打ちして、ふて腐れたように頭をぼりぼりと掻きむしる。
 「どうしてヨーティアに対してのっていうのが解るんだ?」
 悠人が尋ねた。
 「マナ障壁の技術は、私が研究していた物の一つだ。おそらくはその時の同僚が、マロリガンに流れている。手の内が読まれたってわけさ」
 『そういえば、発生装置でのヨーティアの言葉・・・心当たりがありそうに思えたのはそのせいか』
 悠人は納得したように頷く。
 「では、突破の方法はありますか?」
 レスティーナの問いに、ヨーティアは首を振った。
 「・・・今はない」
 「今は・・・あれ?ちょっと待てよ」
 その時、悠人が声を上げた。
 「どうした、ユート?」
 「解除が無理だって言った時、“対になる装置を同時に止めればいい”って言ったよな。一方はスレギト、もう一方は・・・えっと」
 「デオドガンにあると予測できるが」
 詰まった悠人に、闘護が助け船を出す。
 「そうそう、デオドガン。だから、スレギトとデオドガンを両方同時に止めればいいんじゃないのか?」
 「だから、どうやって?」
 闘護が尋ねる。
 「なぁ、装置を止める方法って難しいのか?」
 「それほど難しいって訳じゃない。一日、二日あればどうにか憶えられるけど・・・それがどうしたんだい?」
 ヨーティアが訝しげに尋ねる。
 「だったら、闘護がその方法を憶えて、デオドガンに潜入したらどうだ?」
 【!!】
 悠人の提案に、ヨーティアとレスティーナは目を丸くする。
 「だって、闘護ならマロリガン側に知られることなく潜入できるだろ?解除方法を憶えて、時間を合わせて停止させたら・・・」
 「・・・成る程、確かに」
 レスティーナが頷く。
 「不可能じゃあないねぇ・・・」
 ヨーティアも考え込む。
 「だろ?これなら・・・」
 「無謀だな」
 しかし、闘護は首を振った。
 「どうしてだよ?」
 「スレギトでは誰にも見つからずに済んだんだろ」
 闘護は悠人とヨーティアを見る。
 「だけど、デオドガンはどうだろう?守備隊はいないと言えるのか?」
 【!】
 闘護の言葉に、三人ともハッとする。
 「守備隊が人間だけなら何とかなるだろうけどね。スピリットが一人でもいたら俺にはどうしようもないよ」
 「だ、だったら、誰かと一緒に・・・」
 「そうしたら、デオドガンに到着する前に気付かれる可能性が跳ね上がるね」
 闘護は肩を竦めた。
 「俺一人だからこそ、デオドガンに潜入できる。だけど、そこから先は俺だけではどうしようもない」
 「・・・」
 「その作戦は無理だ」
 「だけど・・・それじゃあ、どうするんだよ?」
 『ヨーティアがないと断言する以上、方法はない・・・性格はともかく、技術者としては紛れもなく天才なんだから』
 悠人はヨーティアを見た。
 「少しだけ時間をくれ。あの方法が駄目だとすると、また最初から考えるしかない」
 ヨーティアの言葉に、レスティーナが頷く。
 「わかりました。それではユート、トーゴ。大変ですが方法が見つかるまで、現状を死守して下さい。ここで敵の侵攻を許しては、思うつぼになります」
 「そう、だよなぁ・・・」
 『ラキオスのスピリットは多くない。度重なる戦闘で疲弊しているだけに、容易な作戦ではないな・・・』
 悠人は難しい表情で頷く。
 「善処しよう」
 『幸い、まだそれほど大規模な戦闘にはなっていないが・・・防衛戦とはいえ、相手はデオドガンを瞬時に制圧するだけの戦力を持っている』
 闘護は内心不安を抱えつつ答える。
 「すみません。無理は承知の上です。それでもやってもらわねばなりません」
 そう言って頭を下げる。
 前王とは違い、スピリットの生命も気に掛けるレスティーナ。
 こうやって死地に赴かせることは、決して本意ではないのだろう。
 『それでも、俺たちが食い止めなければラキオスが・・・』
 『非情にならざるを得ない・・・ならば俺達は、協力者としてその期待に応えるまで』
 悠人と闘護は頷く。
 「・・・了解した」
 「でも、早めに対抗策を考えてくれよな」
 「有り難うございます」
 闘護と悠人の返答に、レスティーナは感謝の表情を浮かべた。
 「ヨーティア殿。我が国の技術部も、不眠不休で解析に当たらせます。総動員して糸口を掴んで下さい」
 「承知したよ、レスティーナ殿。なぁに、思い当たる節は幾つかある。ユート、トーゴ。頼むよ!持ちこたえてくれ」
 ヨーティアは悠人と闘護を正面から見つめる。
 二人も向き直り、笑いながら答えた。
 「任せておいてくれ」
 「そっちこそ頼んだぜ、ヨーティア」
 ヨーティアは力強く頷いた。
 「さてと。それじゃあ、戻って部隊編成を・・・ん?」
 言い掛けた闘護が、ふと眉をひそめる。
 「どうした、闘護?」
 「・・・俺、どうしよう?」
 「どうしようって・・・何が?」
 「エーテルジャンプシステムが使えないから、ラキオスと前線の往復に時間がかかりすぎるだろ」
 【!】
 闘護の言葉に、悠人とレスティーナが思い出したように目を丸くする。
 「さて・・・どうしようか」
 腕を組んで考え込む。
 「おいおい、まだ使えないと決まった訳じゃないだろ」
 【?】
 ヨーティアの言葉に三人の視線が彼女に集中する。
 「トーゴを調べてみるんだよ。もしかしたらシステムが使えるかもしれないからね」
 「そういえば・・・前にそんなことを言ってたな」
 闘護は思い出したように呟く。
 「なんだ。それじゃあ、直ぐに調べてもらって・・・」
 「だが、調べ終わるのに一ヶ月かかるとも言っていたな」
 悠人の言葉を遮るように闘護が続ける。
 「一ヶ月、ですか・・・」
 レスティーナは難しい顔つきをした。
 「もう少し早く調べることは出来ないのか?」
 「無茶を言うな。一ヶ月でも充分早いんだぞ」
 悠人の問いにヨーティアは心外そうに首を振った。
 「だったら、当面は問題が解決しないままだ」
 闘護は頭を掻いた。
 「こうなったら、ずっと前線に待機して・・・」
 「それでは、スピリット隊の事務処理をエスペリアが一人で受け持つことになります」
 レスティーナが難しい表情で呟く。
 「あ、そうか・・・」
 「ランサで事務処理をすればいいんじゃないのか?」
 「いや、書類をシステムで運ぶのは無理だろう。ヨーティア」
 「ああ。エーテルで構成されたものじゃないからな」
 「と、なると・・・」
 「トーゴには王都にいてもらわなくてはなりませんね・・・」
 「うーむ・・・」
 「だったら、王都にずっといればいいだろ」
 ヨーティアがボソリと呟く。
 「ずっといるって・・・」
 「前線は膠着状態だ。ユートが動けば、副長がいなくたってどうにかなるだろう。それに、さっさと調べた方がいいしな」
 「しかしそれだと悠人に負担が・・・」
 「いいぜ」
 闘護の言葉を遮るように悠人が答える。
 「ゆ、悠人」
 「事務処理はお前に任せるからさ。戦いは俺に任せてくれよ」
 「・・・」
 「そうですね」
 レスティーナも頷く。
 「トーゴには、暫くの間内務に専念してもらいましょう」
 「いいよな、闘護?」
 「し、しかし・・・」
 「なーに、お前一人いなくたって大丈夫だって」
 悠人はニヤリと笑った。
 「俺やみんなを信用しろって」
 「・・・わかった。よろしく頼む」
 闘護は観念したように頷いた。


 これからしばらく・・・
 ラキオスとマロリガンはダスカトロン大砂漠を部隊に小規模な小競り合いを繰り返す。
 互いに一歩も譲らず、戦線は膠着状態のまま時が過ぎてゆくことになる・・・


─聖ヨト歴332年 アソクの月 緑 一つの日 昼
 悠人の部屋

 手に納まる【求め】。
 悠人はその鈍く光る刀身を見つめる。
 『・・・いずれ、あいつらとこの剣で斬り合うことになるのか?こんな剣で光陰や今日子と!?』
 悠人は想像して、薄ら寒く感じる。
 時として、悠人から意志すら奪う神剣。
 そして、悠人と同じように神剣を持つ、【空虚】の今日子と【因果】の光陰達二人。
 キィーン・・・
 二人の剣への強い破壊衝動が、【求め】から伝わってくる。
 【求め】が悠人の心を黒く塗りつぶそうとする。
 『敵・・・なんかじゃない。あいつらは敵じゃない!何か方法はないのか・・・何か』
 コンコン
 ドアをノックする音と共にハッと我に返る。
 「はい」
 「失礼いたします、ユート様。よろしいでしょうか?」
 「あ、イオか。入ってくれ」
 カチャリ・・・
 「こんにちわ、ユート様」
 イオが静々入室する。
 彼女が本城からわざわざ、館にやってくるときの用事は決まっている。
 「・・・またか?」
 「はい。主人が研究室に来てくれ、と。誰にも秘密でとのことです」

 そう、ヨーティアからの呼び出しはかなり多い。
 それも密会に近い状態で。
 エトランジェである悠人が機密を知る。
 そのことに対して、まだ反発している者も多いのだという。
 この辺りは、レスティーナの立場を考えての配慮なのだろう。

 『ただの発明自慢、ってことも多いけど・・・それにしても・・・』
 「全然こっちのことは気に掛けてないな。都合も何もお構いなしかよ」
 「重要なことと聞いております。申し訳ありませんが」
 悠人のぼやきも軽く受け止め、イオは礼をする。
 その態度は、あくまで礼儀正しく、断ることも出来ない。
 「わかったよ。それじゃ、ちょっと着替えるから待っていてくれ」
 「はい」


─同日、昼
 ヨーティアの研究室

 「よう」
 既に一足先にきていた闘護が手を挙げて挨拶をする。
 続いて、やはり悠人よりも先にきているレスティーナが頭を下げる。
 それに会釈すると、悠人はヨーティアにかみつく。
 「何だよ。またいきなり呼び出して」
 「悪いな。また密談というヤツだ。ドキドキするだろ」
 「いつも同じじゃないか。いい加減慣れちまったよ」
 「何だ・・・つまらんヤツだな」
 ヨーティアが本当につまらなさそうに呟く。
 「今回はどのようなお話ですか?」
 痺れをきらしたのか、レスティーナが尋ねた。
 「早速だが本題にはいるか。今回の話はかなり長いぞ。覚悟しておくようにな。ボンクラの頭には入らないかも知れないから、最後に内容をまとめる予定だ。安心しろ」
 ヨーティアはゆっくり全員を見回した。
 「コホン。この天才であるこの私が、かねてより研究していた題材がある。この世界の大いなる謎の一つだ」
 もったいぶった演説が始まった。
 放っておくと長々と解説が続いていくことになる。
 「永遠神剣の事だろ?もう何度も聞いてるよ」
 悠人がウンザリした口調で口を挟む。
 「そこ!話の腰を折らないように!レスティーナ殿と私の目標であるエーテル技術体系の破壊。その鍵となる研究だ」
 「!何か進展があったのですか?」
 レスティーナが血相を変えた。
 「まだ基礎理論の段階から、現実段階に持っていくことが出来るようになった。その程度の話ではあるんだけどね。それでも現実味を帯びてきたってわけ。ここまで来るのは、天才の私でも、さすがに時間がかかってね・・・思えば・・・」
 今度は研究段階の苦労話が展開し始めた。
 『これも放っておくと、いつまで続くか解ったもんじゃない・・・』
 「苦労話はいいから、早く続きを聞かせろってば」
 再び悠人はヨーティアの話を遮る。
 「目上の者に対する口がなってないね。このボンクラ!」
 ヨーティアはさすがにムッとした表情で言った。
 「何が目上だ。いつもグータラしているだけのくせに!」
 「誰がグータラだ。誰が」
 「いつも寝てばかりいるじゃないか」
 「天才は寝ている間の閃きも大事なのさ。まぁボンクラには解らないね」
 「ボンクラって言うな!」
 ドン!!
 「いい加減にしろ!」
 「ユート!ヨーティア殿の話の腰を折らないように。進まないじゃないですか」
 低次元の言い合いを続ける悠人達を闘護とレスティーナが一喝する。
 「う・・・」
 悠人はバツが悪そうに頭を下げる。
 「まったくもってその通り」
 ヨーティアは悪びれずに頷く。
 「では、話を戻そう」
 ヨーティアは再び全員を見回した。
 「エーテル技術体系はマナとエーテルを循環させることで成立している。マナを吸収してエーテルへと変換する。そのエーテルが消滅すると、再びマナへと戻り、変換施設で再利用できる。だがこのエーテルが問題だ・・・何にでも使えるという便利すぎる代物」
 「確かにそうだよなぁ。建築にも使えるし、明かりを灯すような技術としても使えるし・・・でも、それのどこが問題なんだ?」
 悠人が尋ねた。
 「大陸中の国が戦力の強化に走っているからな。どうしたってエーテルはスピリット達の強化に注がれていく。それが自分たちの首を絞めているのに、バカだから気にしていないのさ」
 『スピリットを強化することが自分たちの首を絞める?どういうことだろう・・・せいぜい、自然に存在するマナが少なくなるくらいしか、影響なさそうだけど』
 ヨーティアの話に、悠人は首を傾げた。
 「更にここに一つのデータがある」
 言いながら、ヨーティアはメモを手渡す。
 受け取ったレスティーナと横からのぞき込む闘護は、それを真剣な表情で眺めた。
 「これは何だ?」
 「各国の出産率と農作物の収穫率差。ほら、年々数字が落ちてきているだろう。特に、24年前が酷い」
 「24年前・・・確か・・・」
 「シージスの呪い大飢饉ですね」
 闘護の言葉を継ぐようにレスティーナが答える。
 「呪い大飢饉?」
 レスティーナの言葉に、悠人は首を傾げた。
 「そう。殆どの農作物が収穫できなかったのです。雨量が少なかった・・・ということはなく、原因不明とされていました。ダーツィ大公国が、アト山脈の魔龍シージスを殺したことの呪いと噂されたのです」
 「・・・更にだ。ここにもう一つの数字を重ねてみる」
 続いて、ヨーティアは別の紙をレスティーナに渡す。
 レスティーナは右下がりの線グラフが書かれた紙に、もう一枚の紙を重ねる。
 「こっちは真逆のグラフ・・・ねぇ」
 闘護が難しい表情で呟く。
 二枚目の紙のグラフは、人口が落ち込む寸前に赤い線が大きく跳ね上がっている。
 『・・・待てよ。このグラフの形、何処かで見たことがある』
 それを見た悠人は首を傾げた。
 『あれは確か、エスペリアにこの世界の歴史を習っていたときのことで・・・あの年代に跳ね上がっていた物といったら・・・』
 「これって・・・確か軍事力だっけ?」
 悠人の呟きに、ヨーティアが頷く。
 「その通りだ。飢饉の前の年、ダーツィ大公国とイースペリアの間に緊張が高まった。二国は同時に極端な軍事強化に走り、スピリット達にエーテルをつぎ込んだ。当然のようにマナも限界まで回収してから・・・だ。そして・・・大陸中央部はマナが極端に減ってしまった」
 「大飢饉の引き金だと仰るのですか?」
 「・・・私はそう考えてるね」
 レスティーナの問いに、ヨーティアは頷いた。
 「レスティーナ殿はマナがいったい何なのか、考えたことはあるかい?空間に存在するエネルギー。この世界に昔から存在していた物質。皆の見解は大体こんな物だ。それが本当は何なのかを考えもしない。帝国大学のバカ共もそうだ」
 「ヨーティア殿の考えは違う、と?」
 「まぁね〜。大天才は凡人とは目の付け所が違うってことさ」
 ヨーティアは得意げに言った。
 「それでは、マナとは一体何なのでしょうか?」
 「マナとは・・・マナとは命そのもの。この大陸の、な」
 「命・・・」
 悠人は初めて敵を倒したときのことを思い出す。
 『あの、身体の奥底まで活力を与えてくれるような感覚は・・・陶酔しそうになるのと同時に、酷く恐ろしかった・・・自分に欠けてた物が埋まっていくような・・・そんな気がしたんだっけな』
 悠人はゴクリと唾を飲み込む。
 「皆が便利に使っているのは実は命なのさ。命を武器に変えてしまえば新しい命は生まれない。真理は常に単純なものさ。それでも自然とはうまくできている物でね。大飢饉と共に大量の命が失われて、大陸にまたマナが補充された。人口が元の数にまで戻ることはなかったけどね」
 「随分と親切な世界だな」
 闘護は不愉快そうな口調で呟いた。
 「無くなった命を補充する為に、他の所から補給するか・・・エーテルからマナへの変換時に発生する現象を除けば、よくできた等価交換理論だな」
 「全く、その通りだよ」
 ヨーティアは頷く。
 「それでは今の戦乱が続けば・・・また24年前の災厄が繰り返されるということですか?」
 「いや、今回の戦いはそれでは済まないだろうね。ユート、お前なら解るだろう?その手に持つ神剣【求め】の叫びが」
 「・・・全てを殺せ、マナを手に入れろってやつか。どうしてヨーティアがそれを知っているんだよ」
 「言っただろ?天才の情報網をなめるなって。まだ永遠神剣が何であるかは、天才の私を持ってしてもまだ解明し切れていない。ただ確実に言えることがある。今回の戦いはこの世界の歴史上、間違いなく最大規模の物になっている」
 「災厄も過去最悪になる可能性がある、ということです・・・か。大飢饉以上となると、我々が生きていることはなさそうですね」
 「ああ。ラキオスが帝国を打ち倒してエーテル技術を封印したとしても、この大災厄は逃れられないだろう」
 ヨーティアは、そこで一息つく。
 「・・・そこでだ。この天才の最大の発明が今明かされようというわけだ」
 「もったいぶるなぁ・・・ただでさえ前置きが長いのに」
 「わかったわかった。ふぅ〜・・・これだからボンクラは。溜という物の重要性を知らない・・・」
 ヨーティアは呆れたように首を振った。
 「マナはエーテル化されるから消費される。消費されてマナに戻る際にわずかだが減少する。これは以前説明したな。それならば、マナ自体を変えてしまえばいい。今のエーテル変換施設では変換することが出来ないマナにね」
 「マナを変えるだって!?そんな馬鹿な・・・さっきヨーティアが言っていただろう。マナは、命そのものだって。そんな物を変えられるのか?」
 「何でボンクラに馬鹿呼ばわりされなきゃならんのだ!いいか?マナは確かに生命力のような物だ。今だ、この天才を持ってしても解明できていない。その鍵を握っているのはお前の腰に着いているそれだ」
 ヨーティアは【求め】を指さした。
 「神剣はマナを直接吸収している。更に神剣が破壊された瞬間、内に貯められたマナは外に解放される。エーテル化することなくマナをサイクルさせている。永遠神剣が消滅した場合に発生するマナは、エーテル変換を行うことが出来ない特性を持つ。何故かは解らないけどね。私はこのマナを『抗マナ』と名付けた」
 「全てを抗マナにすれば良いと?」
 レスティーナの回答に、ヨーティアは頷く。
 「ご名答!エーテル技術はゴミ屑になるってわけさ。抗マナを元に戻す技術が開発されない限りね。それに、エーテル施設を封印したとしても、一斉放棄するときに何処かに残される可能性は高い。残しておけば、簡単に悪用できると思うだろうからな。そういう下らない企みも含めて、全て無駄になる。私の発明が完成しさえすれば」
 「そうすればマナは生命の力としてだけ、この世界に残るわけですね。それが正しい姿なのでしょう。ヨーティア殿、協力は惜しみません。是非とも完成させて下さい」
 「まだまだ時間がかかるだろうがね。レスティーナ統一女王が即位するときまでには何とか間に合わせるつもりさ」
 「抗マナ変換が成功すれば争いの種の一つが消える、か」
 闘護はゆっくりと呟いた。
 「だが、平和を手にする代わりに生活の利便性を失うことになる。世界が滅ぶかも知れない、などという漠然とした答えに、人々は納得するのか?」
 闘護の問いに、レスティーナは力強い目で闘護を見た。
 「私が納得させてみせます」
 「そうか」
 その強い口調に、闘護は納得したように頷く。
 『でも、マナが変質する?ということは・・・』
 「ちょっと待ってくれ。アセリア達スピリットはどうなるんだ?その抗マナで生きていくことは出来るのか?」
 悠人が尋ねると、ヨーティアは難しい表情で首を振った。
 「・・・それは解らない。スピリットは永遠神剣と同じで、未解明な部分が多すぎる。いつ、どこで、どうして生まれたのかすら解らないんだ。皆が奴隷のように扱っている彼女たちが何者なのか、誰も知らないのさ」
 「人間達だけが平和になるっていうのか!?戦争で矢面に立っているのはスピリット達なんだぞっ!!」
 悠人は我慢できずに叫ぶ。
 「解っている、解っているさ・・・何とかしてみせる。私が天才であることを忘れないでくれ。決してスピリットだけを不幸にすることはしない。私にもイオという大切な相棒が居る」
 重苦しい空気が部屋を包む。
 「だけど、このことは決してみんなには言わないでくれ。まだはっきりしてないことで動揺させたくない」
 「・・・わかったよ。ヨーティアがアセリアやイオにとって良くないことを好んでするわけないもんな」
 「了解した」
 悠人と闘護はそれぞれ答える。
 『でも、それでも何か割り切れないものがある』
 「でもさ・・・なんか俺たち、何かを犠牲にすることを当たり前に考えているような気がする・・・」
 「・・・」
 悠人の呟きに、ヨーティアは少し眉をひそめただけで何も答えてはくれなかった。
 「しかし、それは別にしても・・・しばらくはこちらからは攻められない、か」
 闘護が言った。
 「はい。マナ障壁が解除されるまでは、また睨み合いですね。相手の出方は解りませんが、こちらも出来る限りの備えをしましょう。今は待ちましょう・・・大丈夫。ヨーティア殿ならば、必ず応えてくれます」
 レスティーナの言葉に、悠人と闘護は頷いた。


─聖ヨト歴332年 アソクの月 緑 二つの日 昼
 マロリガン共和国 執務室

 「ふ〜」
 「へぇ・・・珍しいな。大将、煙草なんか吸うのか?」
 「何年ぶりだろうな・・・久しぶりに懐かしい気持ちになってな。無性に吸いたくなった」
 「なぁ、大将・・・一つ聞いていいか。あんたはどうして帝国を憎んでいるんだ?」
 「・・・そう見えるか?」
 「この国の連中なんてどうでもいいって顔してるぜ。前にラキオスの女王さんに言ったことだって、全くの嘘だろ?・・・いや、違うな。帝国すらもどうだっていいんだ。帝国の先にある・・・何を見ている?」
 「フ・・・お前は騙せないか。議会の老人共は騙しきっている自信はあったんだがな。それも、神剣の力か?」
 「さぁね。俺もこいつらがあまり好きじゃないんだがな。力を積極的に使うことはしてない・・・それで一体、何が目的なんだ?」
 「・・・目的、か」
 クェドギンは天井を見上げた。
 「俺はこの世界における【運命】というやつに嫌われている。それならば、戦うしかあるまい?俺が俺であるためにな。お前なら解るだろう。運命に愛された者と戦うには、藻掻き足掻くしかないのだ」
 「変えられないものを、変えるためには・・・か」
 「そうだ。俺は運命に挑む。そして支配する。俺を支配していいのは、俺だけだ」


─同日、夜
 マロリガン共和国

 「今日子・・・大丈夫か?」
 「う・・・ぐぅ・・・あぐ・・・」
 「【空虚】よ。もう少し手加減してやれよ。なぁ、【因果】よ。どうにかならないのか?・・・無理か・・・お前らも仲悪いからな。今日子。お前、別に強く・・・ないもんな」
 「ぐっ・・・、あ・・・ゆ・・・ゆう・・・」
 「へへ・・・」
 光陰は自嘲気味に笑った。
 「仕方ねぇなぁ。本当に、よ」
 光陰は【因果】を見つめる。
 「大将の言葉・・・運命に挑む、か」


─聖ヨト暦332年 アソクの月 緑 五つの日 昼
 ラキオス城下町

 長い戦いの中での、短い休み。
 街に出て、悠人は当然のようにレムリアと出会った。
 ちょうど闘護はたまっていた事務処理に追われて誘えずに一人、散歩していた時だった。
 悠人はこの出会いを本当に運命的と感じた。
 そこまでは良かったのだが、今日の神様は少し意地悪をしたい気分だったらしい。
 突然、雨に降られてしまった。
 「うわ。参ったなこりゃ」
 「通り雨・・・だと思うけど・・・」
 「多分、そうなんだろうけど・・・」
 『実際にそうでも、止むまで濡れ続けるというのは馬鹿らしいし、何処か、雨宿りできる場所は・・・』
 悠人は周囲を見回す。
 「おっ」
 並んでいる看板の中に、意味のわかりそうなマークを発見する。
 『あれは、どう見ても喫茶店だ』
 「レムリア、あそこに行くぞ」
 「えっ、ん〜〜と、あれってどんなお店なの?」
 「入ったこと無いのか?多分、喫茶店だと思うんだけど・・・まぁ、少しの間休めればそれでいいさ」
 「キッサテン?う〜ん、私も入ったこと無いからわかんないなぁ」
 「考えるのは後にして、とにかく雨を凌がないか?」
 「ん、さんせ〜い」
 二人は強まる雨足を避けて走る。


─同日、昼
 怪しげな連れ込み宿

 勢いよく駆け込むと、店主らしき男が驚いた様子で見ていた。
 「な、なんだ!?」
 「ああ、騒がせてしまってすまない。俺達は、その・・・ん?」
 悠人はふと、様子がおかしいことに気付く。
 店の中は薄暗く、少なくとも俺の持つ喫茶店のイメージとはかけ離れていた。
 「ふ〜ん、ここがキッサテンかぁ・・・なんだか、あんまり楽しそうじゃないね」
 「いや、ちょっと待て。これは多分間違い・・・」
 「部屋は階段を上って突き当たりだ」
 「え・・・?」
 レムリアに弁解しようとしたところで、先に硬直から脱した主人に声をかけられる。
 盗賊団の頭目といわれた方がまだ納得できそうな強面で、気さくなマスターという雰囲気ではない。
 「部屋って・・・その、俺達は・・・」
 「何だ。兄ちゃん、こういう場所は初めてか。ん・・・ほぅ」
 主人は品定めをするようにレムリアを見て、顎を撫でる。
 それから悠人の方を向いて、意味ありげにニヤリと笑った。
 「成る程。上手いことやったな」
 「は?」
 「仕方ねぇ・・・ついてきな。今日の所はルールを教えがてら部屋まで案内してやる」
 「いや、俺は・・・」
 「ぐずぐずするな。のろまな男はもてねぇぞ」
 「だから・・・」
 「ユート君、置いてっちゃうよ〜?」
 「・・・」
 疑う様子もなく、レムリアは主人に続いていた。
 ドアの向こうに消えかける二人を悠人は慌てて追いかける。
 ガチャリ
 「ここで湯を取って部屋まで運ぶ。まぁ、男の仕事だな」
 途中、給湯室のような場所で大きめの手桶二つ分の湯を取り、部屋まで運ぶ。
 ガチャリ
 「・・・で、この部屋だ」
 部屋は二つに区切られていて、片方にはダブルヘッド、もう片方には大きなタライが置いてあった。
 主人はそれに汲んできた湯を注ぐと、悠人を振り返った。
 「さて、ここまで来たら聞くことはないよな」
 『休める場所っていうか・・・ここは思い切り『御休憩』する場所なんじゃないのか?あの看板がこんな意味を持つなんて・・・』
 この状況に呆然とする悠人。
 『しかしこのままだと、俺に下心があったかのように思われてしまうのでは・・・?』
 悠人のこめかみに冷や汗が浮かぶ。
 『うわ・・・なんか、凄くヤバイ状況じゃないか!?』
 主人は呆然とする悠人に近づき、レムリアには聞こえないように小声で話しかけてくる。
 「そんなに緊張するな。俺の経験上、ああいうタイプは押していけばなんとかなるもんだ。ああ、そうだ。本当は先払いがルールなんだが、今日の所は後払いにしといてやる。あんまり、お嬢ちゃんを待たせるんじゃないぞ」
 ニヤリ、と野獣のような笑み。
 『なんだ、実際には気の良い親父さんみたい・・・じゃ、なくて!!』
 「だから俺はっ!」
 「うん?何話してるの?」
 キョロキョロと部屋を見ていたレムリアが、こちらを見て小首を傾げる。
 「それじゃごゆっくり。ああ、湯は一回分でそれだけだからな。この御時世、薪代だってバカになりゃしねぇ」
 バタン
 最後に愚痴のようなものを零すと、主人は部屋を出て行った。
 残された二人は、勝手もわからず呆然とするばかり。
 漸く奇妙な点に気付いたのか、レムリアも普段にないしおらしさを見せていた。
 「あ、その・・・」
 悠人は混乱する頭で必死に言葉を探す。
 『ここが何処なのかキチンと説明するべきか、それともうやむやにしてしまうか・・・いや、そんなことよりも冷えた体を温めなければ・・・しかし、この場にあるのは湯張りのタライがたった一つ』
 必死で考える悠人を後目に、レムリアは困った表情を浮かべた。
 「ユート君・・・どうしよ。一つしかないよ」
 「ああ、一つだな・・・」
 横に小さなものがあるけど、どう見ても手桶だった。
 いかに小柄なレムリアでもそれに浸かるのは不可能だろう。
 「ええと・・・レムリアが入れよ。俺は別に良いからさ」
 「そんなのダメだよ。ユート君、風邪引いちゃうもん」
 「つったってなぁ・・・」
 悠人は改めて床を見る。
 タライ。
 確かに大きいけど、これでは密着しないと入れない。
 それに、ただのタライな訳だから、冷めた湯を沸かす機能などあるはずもない。
 「一人ずつ・・・じゃ、冷めちゃうね。お湯」
 「確実にな」
 『俺は別に城に帰ってからでもいいんだけど。普段から体を鍛えていることがものをいうだろうし』
 悠人はウーンと唸る。
 「どうしようか・・・」
 「ふぁ・・ぁ・・・ぺくちっ!」
 その時、妙に味のあるクシャミが耳に届いた。
 「・・・変なクシャミ」
 「変じゃないもん!」
 「それはいいとして、やっぱりレムリアが入れよ。俺は隣で待ってるからさ」
 「そんな、ダメだよ。私だけ入るなんて・・・ぺくちっ!」
 「だってさ、いくら何でも二人で入るわけにはいかな・・・へっくしっ!」
 悠人までクシャミをしてしまった。
 「・・・」
 「・・・」
 顔を見合わせ、しばしの沈黙。
 やがて、レムリアが顔を上気させながら口を開いた。
 「その・・・いいよ。二人、一緒でも」
 モジモジしながら俯く。
 「・・・は?」
 「だから・・・風邪引くくらいだったら・・・ね?」
 『ええと・・・つまり、レムリア的には二人一緒に入るのはOKで・・・いやいや、ちょっと待て!成り行きとはいえ、そんな・・・い、いいのか!?』
 「うーん・・・あー、いや、だけど・・・」
 「・・・ユート君は、イヤ?」
 身長差もあり、レムリアが悠人の目を見ようとすると、自然に上目遣いになる。
 それが懇願するように見えて、断りづらさを倍増させた。
 「う・・・イヤなんかじゃないけどさ。その、なんだ」
 「う〜ん・・・あ、わかったぁ!私、目を瞑ってるよ!そうすればユート君も安心でしょ?」
 「は?逆だろ!?俺は別に見られてもいいんだ。そうじゃなくって、レムリアはイヤだろ?」
 「え、なんで?」
 互いに目を丸くする悠人とレムリア。
 「なんでってなぁ・・・恥ずかしくないのか?」
 「そうかなぁ・・・」
 あっけらかんとしたレムリアの態度に、悠人の方が面食らう。
 「だって、さっ気恥ずかしそうにしてただろ?顔だって思い切り赤くなってたし」
 「え・・・そうだった?さっきからちょっとだけドキドキしてるんだけど、私、恥ずかしいのかな?」
 「俺に聞かれても・・・」
 『レムリアはたまに訳がわからなくなる。普通の女の子に見える時と、何処か遠くにいるように見える時の差があまりにも激しいよな・・・』
 悠人は困ったように頭をポリポリと掻いた。
 「でも、私・・・ユート君なら、いいよ?それに、早く入らなきゃ、お湯が冷めちゃうもん」
 「・・・」
 『そうだ、こうしている間にもドンドン冷めていってしまう。二人とも入らないで風邪を引いてしまいました、では笑い話にしかならないよな・・・これは覚悟を決めるしかないか。もちろん、間違いが起きないように自制心を心がけて・・・』
 心の中でそう結論づけると、悠人はレムリアを見た。
 「そうだな。俺は背中向けて入るか。そうすればレムリアも恥ずかしくないだろ?」
 「うん。私はそれでいいよ」
 「じゃ、俺から先に・・・」
 「う、うん・・・・目瞑っているから・・・私、本当に目瞑ってるからねっ!」
 「あ、ああ・・・わかった。だからそんなに興奮するな」
 「こ、ここ、興奮なんかしてないもんっ!!」
 「・・・」
 『そこまで力一杯言わなくても・・・』
 気圧される悠人を前に、レムリアは両手で目を覆った。
 それではと、悠人は上着を脱いでズボンに手をかけ、ふと視線を感じてそちらを見る。
 案の定、指の間から悠人を見ている視線が一組。
 「案の定見てるし」
 「あっ!」
 小さな声を上げ、今度は身体ごと逸らす。
 「・・・レムリアのスケベ」
 「え、えっ!?す、スケベって、な、な、な、なに!?」
 レムリアはしどろもどろになって焦りまくる。
 「いやらしい、ってこと」
 「そ、そ、そ、そ、そんな、そんなことナイモンッ!!!スケベじゃないモンッ!!」
 『トランクス姿なんて普段着(?)みたいなものだから、どうって事無いけど。それでも、レムリアの反応はいちいち楽しいよな』
 悠人はクスリと笑った。
 「しっかり目瞑ってたもん」
 「あはは、俺は別にいいんだけど」
 『なんというか、俺より年上だとは思えないな』
 それはあまりに初で可愛らしい反応だった。
 ザプッ・・・
 悠人がタライの中で胡座をかくと、腰の辺りまでが湯に浸かった。
 少し温くなってしまっているが、ほのかにハーブのような良い香りがする。
 「ユート君・・・もういい?」
 「ああ、いいぞ。俺は絶対に見ないから安心して入ってこい」
 「う・・・ユート君、声にトゲがあるよ」
 スルリ、カサカサ
 『衣擦れの音が、ヤケに大きく聞こえる。なんだか見えない分、余計に想像力をかき立てられるような・・・』
 そんなことを考え、慌てて首を振る悠人。
 「じゃあ・・・入るね」
 チャポン
 小さな水音、次いで水面を渡る波紋。
 水位が上がり、レムリアが腰を下ろしたことがわかる。
 悠人は背中に感じる気配にドキドキしてしまう。
 「す、少し、温くなっちゃったな」
 「でも、これくらいなら大丈夫だね」
 悠人は落ち着いた声を出そうとしたが、あっさりと失敗に終わってしまった。
 『かえってレムリアの方が落ち着いて見えるのは、男としていかがなものだろうか?』
 悩んでいると、悠人は背中に膝の当たる堅い感触を感じた。
 「わぁ、ユート君・・・背中、おっきい」
 「そ、そっか?普通だろ?」
 「ううん。なんか頼もしい。守ってもらってるんだなぁって、そう思えるよ」
 レムリアのおでこが悠人の背中に当たる。
 『流れていく髪が妙にくすぐったいな・・・って、な・・・なんかヤバイっ!い、いい雰囲気すぎて、これじゃ・・・』
 心臓が尋常でない速さで打ち続けている。
 『極度の緊張を強いられている上、こんな無防備な態度を取られたりしたら!いけないと思いつつも妄想が・・・静まれ・・・静まれ、俺っ!むやみに男らしくなるなっ!』
 混乱し、自らの頭を叩いている悠人を、不思議そうにレムリアが尋ねてくる。
 「ユ、ユート君?いきなりどうしたの!?」
 「い、いや、自分の心を静めようというか、なんというか!」
 「ふふ・・・変なの〜」
 「変じゃないっ!」
 「あ、それさっき私も言ったよ。『変じゃないもん』って。変な人同士、私達結構お似合いかも知れないね♪』
 クスクスと笑う声が聞こえる。
 『レムリアのことだからからかってるって事はないだろうけど・・・どうしよう?』
 混乱する悠人は、風呂に入るといつもしていることをしようとした。
 「俺、頭洗う」
 この世界は大気が綺麗なせいか、雨に濡れても変にベタベタすることはない。
 「あ、ユート君!私が洗ってあげるよ!」
 「えっ!?いいよ。自分で洗うよ」
 「遠慮しないで〜。私に任せてよ。せっかく後ろにいるんだもん。お姉さんに任せなさいっ」
 「ぷっ、お姉さん・・・ねぇ」
 『お姉さん・・・レムリアが言うとリアリティの欠片も感じない言葉だな』
 悠人は思わず吹き出してしまう。
 「あ、笑った!いま笑ったっ!ひっど〜い」
 「だって、お姉さんって感じしないからなぁ。どっちかっていうと妹・・・」
 「こらっ!」
 「うひゃっ」
 ペトッ
 石けんが頭にタップリとつけられる。
 「はいっ!お客さん。どこか痒いところはありますかぁ?」
 ノリノリの声。
 『こういうのは向こうもコッチもかわんないんだなぁ』
 悠人は変な感心をしてしまう。
 「お客さん初めて?サービスしますよぉ〜♪」
 『何か違うものも混ざってるけど』
 小さく苦笑する。
 「ん・・・んっ、しょっと・・・」
 ワシャワシャと髪を洗う小さな手。
 『一生懸命なのだろうけど、自分でするのよりも凄く弱い力。だけどやっぱり、人に洗ってもらうのは気持ちいいなぁ』
 「それじゃ、生え際の辺りを頼む」
 「わかりましたぁ。ん〜〜。お客さんの髪の毛は針金みたいですねぇ」
 二人は床屋さんゴッコを満喫する。
 『さっきまでのドキドキは何処へやら、なんだかほのぼのとしたムードになってきた・・・助かったような、残念なような・・・』
 微妙にがっかりする悠人。
 シャクシャク・・・
 悠人は心地よい刺激を楽しむ。
 レムリアの両手の指が頭皮を柔らかにマッサージする。
 「へへ〜、こうしていると、ホントのお姉さんみたいだよ」
 「そうかな。全然、そんな気は・・・」
 「いいのっ。レムリアお姉さんに逆らっちゃダメだよ」
 レムリアは謎のお姉さん風を吹かす。
 『まぁ、今だけならそれもいいか。あ〜、なんかすっごく気持ちいい・・・』
 シャクシャク
 シャクシャク
 「はいっ!終わり!」
 「さんきゅ」
 「ん〜〜。ユート君って、髪の毛結構長いね」
 「そうかもな。こっち来てからも切ってないし」
 「今度切ってあげよっか?百人切りの腕前、見せてあげるよ♪」
 「その異名に血なまぐささを感じるのは俺だけなのか・・・?」
 悠人は手を周囲に這わせる。
 「ん・・・と、手桶はどこだ?」
 悠人は目を閉じたままで手桶を探す。
 しかし、手探りで見つかるはずもなく、悠人の腕は空を掴む。
 「頼むレムリア〜、頭流してくれぇ〜」
 「あ、お湯もったいないから、このまま身体洗っちゃうね」
 「身体!?ちょっと待っ・・・!!」
 「え〜い!」
 ヌルリッ
 ヌメッとした掌の感触。
 「ぬはぁうっ」
 悠人は思わず妙な声を出してしまう。
 「あれ、くすぐったかった〜?」
 レムリアは楽しそうに背中や腰に石けんを塗りたくっていく。
 『うう・・・ちょっと気持ちいい』
 「えへへ〜。お風呂なんて、楽しく入ったことあんまりなかったから・・・凄く嬉しいよ♪」
 ヌルヌル、ヌルヌル、ヌルヌル、ヌルヌル
 悠人の状態にも気付かず、思うままに泡まみれにしていく。
 『しかし・・・このズレッぷりはなんだ?この世界ではこんな事が普通なのか?もしかしてレムリアが世界基準で、俺が普通じゃないのか!?』
 悠人は心の中で苦悩する。
 「ふんふんふ〜ん♪ふんふふ〜ん♪」
 悠人の苦悩をよそに、レムリアは上機嫌そのものだった。
 鼻歌など歌いながら、両手はじわじわと腹や胸当たりに移動してくる。
 「こっちの方もむにゅむにゅ〜っと♪」
 『うっ、背中に柔らかい感触が・・・』
 近づいてくるレムリアの両手に、悠人は危機感を覚える。
 『ヤバイ・・・本当にヤバイ。ひたすら続く挑発行為(?)に、俺の下半身は一杯一杯になっている。これを見られるのは、ちょっと考えたくない・・・』
 「・・・ちょ、レムリア!もういいって。それ以上はダメ」
 「え〜!?なんでなんで?心配しなくても、隅から隅までしっかり洗うよ〜」
 「いや、そうじゃなくっ・・・というか、それが問題でっ!!」
 「お姉さんを信じなさいっ♪」
 「そうでもなくって〜〜っ!!」
 「ん・・・それじゃ、なに?」
 レムリアの手が下半身へと伸びていく。
 『ああ、もう少しで・・・じゃないっ!期待してないっ、期待なんかしてるわけ・・・』
 「あぅ・・・♪」
 レムリアの泡まみれの手が、悠人のものを無造作に掴んだ。
 その刺激に悠人は甘いと息を漏らす。
 『・・・なんてやってる場合じゃない!?』
 「ん・・・ユート君、これ何?」
 ふにふにっ
 レムリアはすっかり大きくなったソレを不思議そうに撫でる。
 「う・・・あ、あ・・・」
 『レムリア、わかっていないのかっ!?』
 ムニュムニュ
 「・・・ヘンな手触り」
 『うっ、さ、触るな〜』
 「あ、なんか、固い部分はっけ〜ん」
 「い、いらんものを発見するな〜っ!」
 「え、これいらないの?」
 ふにふに・・・ぎゅっ
 「掴むな〜〜!!」
 悠人は堪らず叫ぶ。
 「あー、もうっ!そこはなんでもない!ここは自分で洗うから。レムリアは洗わなくてもいいの!」
 「えぇ〜っ。せっかくユート君の為に洗ってあげているのにぃ」
 不満そうな声と共に手が引っ込む。
 『あ、危なかった・・・あとは心臓の動悸と、アレが納まれば』
 必死で冷静になろうとする悠人。
 『しかし、まさかレムリアって男の子とをなんにも知らないんじゃないか?』
 一方で、レムリアの無防備な行動に一抹の不安を覚えた。
 「じゃ、私自分を洗うね」
 「お、おい。俺はこのままか?」
 「だって、お湯少ないんだもん。ちょっと我慢しててね。あ、でも冷えないようにお湯かけてあげるから。それに髪の毛は洗わないから、すぐ済むよ」
 悠人の背後でモゾモゾと動く気配。
 漸く密着が解かれ、余裕が生まれる。
 「俺なら大丈夫だし、髪の毛も洗えばいいのに」
 「え?あ、あはは・・・いいのいいの。ほらっ、私髪長いし、それにまた髪形直すの面倒だし。ね?」
 「そんなもんか。長い髪の毛って手入れ大変そうだもんな」
 「そ、そうなんだよ〜。あ〜、大変、大変〜」
 「俺の知り合いにも、すっごく長い髪の人がいてさ。レムリアみたいに綺麗な黒髪なんだけど、凄く大変なんだろうな」
 「へ?あ、あは・・・そうだね。多分、その人も大変だと思うよ〜?」
 レムリアの声が裏返っている。
 「ん、どうした?」
 「なんでもありません・・・っもん。ぜっ、ぜぜ、全然、なんでもないんだもん」
 「なんか不自然だな〜」
 「そ、そんなこと、な、な、ないもん。そうだっ、ほら、流すよ〜。ユート君、下向いて〜」
 ザパァ
 勢いよく泡が流される。
 『一気にサッパリして気持ちいいや』
 悠人はブルッと体を震わす。
 「は〜い。もう一回流すよ〜」
 ザパァ
 タップリとした湯が残った泡を洗い流す。
 「ふぃー。サッパリした」
 ザパァ
 背後でレムリアも身体を流す。
 「ええと、それじゃ、私が先に出て着替えるね」
 「ああ、俺はこのまま、向こう見てるから。俺は絶対に騙したりはしないからな」
 「う・・・まだ根に持ってる・・・」
 レムリアは沈んだ口調で答える。
 「じゃ、ホントに先に行くね」
 ガサゴソ・・・ガサゴソ・・・
 「じゃあ、ユート君。お部屋に行ってるね」
 「ああ、俺も着替えてすぐ行くよ」
 パタン
 扉が閉じ、浴室には悠人一人が残される。
 「あ、危なかった〜〜〜」
 心からの安堵のため息。
 『欲望を抑えるのがこんなに辛いなんて・・・』
 「つ、疲れた」

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