『ユウトよ、急げ。時が近づいているぞ』
「わかってるよ。そんなに焦らなくてもまだ余裕があるって」
腰に帯びた剣から、声が響く。
『そういう問題ではない。外の様子が感じられぬ今、『蓋』が開いたと同時に何が起こってもおかしくはない。あらゆる事態に備えるがためにも、常に余裕を持って……』
「はいはい」
ユウトは生い茂る下草を踏みしめながら、適当に返事を返す。
『何だその返事は。ユウトよ、お主はいつまでたってもその適当さが抜けぬ』
「『聖賢』がいちいち細かすぎるんだよ。それに第一……」
チラリ、と自分の腰に下がった剣を一瞥。
「そんなこと言って、本当は外に出られるのが待ち遠しいだけだろ」
言葉では立派なことを言っているが、剣から伝わってくる感情は……
それは例えるなら、遠足の前日にリュックサックを背負う小学生のようなものだった。
『何がおかしい。我は知を求め、司る者。それは己の内で発展させるものでもあるが、それだけではいずれ倦み始める。
実際に物事と出会い、触れる。ようやく再びその探求の旅に出られるのだ。我の喜びも当然であろう』
だが剣は、ユウトの指摘を受け止めた上で真っ向から切り捨てた。
意思のある剣。普段は沈着なその感情が、この時ばかりは喜びを微塵も隠そうとしていない。
そしてこの剣はあらゆる世界の誕生とほぼ同じ程の齢を誇り、そして長く生きたものは未熟者に教え諭すことを好む。
『それをお主は……わかっておるのかユウトよ。蓋に閉ざされたこの世界で、他の世界の情報が一切入ってこないということが、どういうことなのか』
「……そんなに退屈だったのか?」
『そういう問題ではない!』
剣から力が流れ込み、頭痛を誘発する。
『聖賢』がユウトを懲らしめる時の常套手段だ。
『ややもすれば、秩序主義者たちと我々との間で大きな戦力さが育っているかも知れないのだぞ。そうなれば幾多の世界が危機に瀕する。それは以前から何度も言っていただろう』
「悪かった、冗談だって」
頭痛は一瞬で消えた。『聖賢』は前の剣とは違い、理性も思慮もある。ただマナを求めるだけの飢えた剣ではない。
それでも残る余韻に顔をしかめながら、ユウトは苦々しく答えた。
「でも、無駄じゃなかっただろ。俺たちだってのんべんだらりとただ過ごしてたわけじゃない。
俺みたいな初心者には、落ち着いた環境でゆっくり修行するのも一つの手だってことで落ち着いたじゃないか」
『当然だ。他ならぬ我と契約している者が弱いなどということは、我に対する侮辱でさえある。
それに修行を通じて判断するに、確かにこのやり方もあながち間違いではなかったようだ』
「悪かったな、物覚え悪くて。でもおかげでたっぷ鍛えられたよ。少しはマシになっただろ?」
『ある程度はそうかもしれぬ。だが奢ってはならぬぞ。我から見ればお主など、まだまだ……』
『聖賢』の説教は止まない。ユウトは一つため息をつく。
その口調に、さっきまで見られた旅立ちの喜びはすっかりと薄れていた。
「でもさ」
『何だ』
「こういうのもいい経験じゃないか。これまで一つの世界に長く留まってこなかったってことは、今回が初の事例だったわけだろ?
『保護した世界がどうなるか』について知識が深めるための追跡調査だったと思えばいいじゃないか」
『それは結果論だ』
「じゃあ得るものが何もなかったか?」
『……屁理屈ばかり上手くなりおって』
剣から、呆れと悔しさを混ぜ合わせたような感情が伝わってくる。
『聖賢』はいまだにユウトの未熟をたしなめ、上からの態度で臨む。
それは常に高みを目指す姿勢の裏返しでもあるが、単に若者の成長を認めたくない老人の姿勢でもある。
それ故にたまにこうしてやり込められるとすぐにふて腐れるのだ。
逆にユウトにとっては常に叩き伏せられる日常での、貴重かつささやかな勝利でもあった。
黙りはしたが不満そうな『聖賢』の気配に若干の達成感を覚えながら、ユウトは生い茂る下草を掻き分けて進む。
やがて、目的の場所についた。
ごく狭い空間だが、うっそうと茂る森がそこだけポッカリと開いている。
そして……『蓋』の効力が弱まっていることの証なのだろう。微弱だが、しかしはっきりと感じられる揺らぎ。
「……ここだな。だいぶ大きくなってる」
『そうだな……』
『聖賢』が感慨深そうに呟く。
ユウトもしばし、それに倣った。
そして注意をこの空間に向けている相棒とは逆に、視線を今しがた歩いてきた彼方に向ける。
かつて荘厳な、白亜の城がそびえていた場所。
今では掘り返したとて建物があった痕跡すら発見できないその場所を、かつてリュケイレムの森と呼ばれたこの地から、ユウトは遠く眺める。
『……あの娘のことを考えているのか?』
「…………」
ユウトは答えない。だがその視線が、何よりも雄弁に物語っていた。
レスティーナ・ダイ・ラキオス。
かつてこの大地を救った、若く聡明な女王。
……ユウトが、禁忌を犯してまでこの世界に残った理由。
出会いは運命だったのか。あるいはその悪戯だったのか。
支配者と被支配者。別人としての出会い。
偶然や、それに見せかけた逢瀬。恋に落ち、やがて知り、そして愛し、約束を交わし……
忘れ去られた後も、ユウトはその約束を無にすることができなかった。
定めに逆らい、またゼロから関係を築き始め、そして……
『……時に縛られる生き物と、そうでない我ら。いくら心を通わせたとて、それは必ず時に引き裂かれる』
「…………」
剣と契約者は、一心同体だ。
互いが何を感じているか、それは言葉を交わさずとも理解できる。
だがあえて、『聖賢』はユウトの心を試すかのように言葉を口にする。
『我らは一つの世界に長く留まってはならぬ。それは我らの存在自体が、その意思がなくとも世界に変化をもたらすからだ。
それだけではない。常に同じ、変わらぬ姿のエターナルは、人目に触れることさえ避けねばならぬ。世界を渡り歩くより、留まることの方がよりエターナルに孤独を植えつける。
確かにそこに愛はあったかもしれぬ。だがそれは我らにすれば瞬きにも満たぬ短い間だ。
その後の孤独で、お主は何を得た? 何が残った?
答えよ、ユウト』
『聖賢』の問いは厳しい。
だがユウトは見つめていた目を閉ざすと、穏やかな口調で答えた。
「得るものは、あったさ。決して無駄なんかじゃない。
確かに俺たちは引き裂かれたかもしれない。でも、引き裂かれたからって、それでお終いになるわけじゃない。
俺は信じることを、愛することを、愛されることを知った。
残ったものだってちゃんとある。俺はレスティーナを覚えている。声も、笑顔も、涙も、……抱き合った温もりも。
マナは循環する。レスティーナの命は、この大陸で何度も芽生えたさ。そして俺はそれを見守ってきた。それを抱いて生きてきた」
『この世界に、お主は満足していると?』
『聖賢』の詰問は止まない。
レスティーナ女王の御世、ファンタズマゴリアは熱狂に包まれた。新しい生活、新しい歴史の始まり。
だがその時代の終わりと共に、世界は徐々に冷却されていく。
ダスカトロン大砂漠やイースペリアなど、マナが希薄になった地域がまず死滅し始めた。
エーテル技術の凍結により、パイプラインを用いての送付、及び再変換による修復作業もできなかった。
自然、近隣地域のマナがゆっくりと流れ込んで修復されるのを待つしかない。
しかしマナは元々土地に属するもの。その流れは、乾いた大地に流れ込むにはあまりにも遅々としていた。当然の如く、それらの地域は荒れるに任せるしかなくなる。
マナを放出した地方は地方で、それに伴って出生率の低下や横ばい、作物の不作が起きた。
そしてその地域は次第に拡大していき、結果大陸中に蔓延する貧困……
もちろんガロ・リキュアは奮闘した。
レスティーナは巧みな政治手腕を見せ、また人徳によって各地の不満を抑えることに奔走した。
研究部に留まったヨーティアも、それまでのエーテル技術に替わる、新しい文明の手がかりを模索した。
確かにいくらかの発明は成し遂げた。だが、彼女も命に限りのある一人だった。
悪いことに、彼女は天才だった。後進の教育に手を抜いたわけではないが、しかし彼女でしか理解できない発想や理論に基づく研究は、彼女の死後、どうすることもできずに頓挫することになる。
結果文明レベルは明らかに衰退し、レスティーナ女王崩御の後は、幾代もせずにその統治体制は崩壊。人は不便な、寒い時代を生きることを余儀なくされた。
そして聡明な女王の名も、数百年もせぬ間に色あせ、歴史から忘れ去られた。
後に残ったのは、欲や不満を思い出し、武器を取って争い合う人たちの時代。
それは、誰もが幸せに生きる……創設当時のガロ・リキュアの理念からすれば、本当に望まれた未来だったのか?
そんな世界を見続けて、本当に満足だったのか?
問いかける『聖賢に、ユウトはそれでも答えをためらうことはない。
「確かに種は途絶え、人の生活は不便になった。……でも、大切なものは消えてない。
そりゃ『聖賢』の言うとおりかもしれない。永遠を生きる俺たちは、今を生きる人たちと共に生きる幸せを掴むことなんてできないのかもしれない。
俺たちはただ、守り、去っていくだけだ。
そしてまだ見たことはないけど……守っても、救った末にダメになる世界もあるんだろう。
でも、この世界はそうじゃなかった。だって生きてるじゃないか。何度も争いはあった。でも同じように平和な時もあった。
レスティーナが、俺が、あの時の俺たちが守り通した世界は続いてきた。
……それで十分さ。涙も笑顔もひっくるめて、俺はこの世界で、レスティーナと一緒にいられた」
『だが、お主は今この時、この世界からも引き裂かれる。その運命、本当に耐えられるか?』
『聖賢』は問いを止めない。
まるで回廊の試練だな、ユウトは苦笑する。
そして苦笑を微笑に変え、恐らく最後だろう問いに答え始める。
「構わないさ。この世界で、どんな時代でも、どんな状況でも、人は愛を育んできた。
思うんだけど、それは俺も同じことなんだよ。
俺がこの世界を守ったのは、好きだったから。レスティーナを、レスティーナが守ろうとした世界を好きだったから。
それは他の世界でも同じだと思うんだ。
困っているから助ける。その世界に住みたいと思ってるやつらがいるから守る。
そしてここで学んだことを忘れなければ、いつか数が消えて、そういう全ての世界を含めた『全体としての世界』を、俺は多分好きになれるよ。
正当化するわけじゃないけどさ、エターナル同士の戦いは、最後は心の力の戦いなんだろ?
レスティーナのくれたものは、決して無駄じゃないよ。いくつも刻は過ぎたけど、それはこれからも過ぎるけど、俺はそれを、命を続ける源にできる。そう信じてる」
そうして、ユウトは目を開いた。
森が、輝いている。
その景色を、次に訪れる時にはどのようにも変わってしまっているだろう景色を、ユウトは残さぬよう、しっかりと見納める。
『……見事だユウト。よくぞそこまで成長した』
『聖賢』が、感嘆の声を漏らした。
それは教え子の成長に驚きながらも、喜ぶ教師のようでもあった。
『この世界に残った時……初めはお主の神経を疑ったものだ。だがお主はこの閉ざされた大地で、主なりの答えを得たというわけか』
「まだこれが正解かどうかはわからない。でも……俺は間違ってないと思ってる」
『完全な正しさなどない。だが信念を持ち続ければ、いずれはそれがお主にとっての真実となる。
認めよう、ユウトよ。お主は確かに我の契約者、『聖賢者』たるにふさわしい』
腰に帯びた剣から、力が伝わる。 それは誇りと喜びに満ちたオーラだった。
やがて、森が鳴動し始める。
風が起きているわけでもない。地面が揺れているわけでもない。
だが、森の動物、植物は敏感にそれを感じ取っていた。
もはやそれを糧として生きている者がいなくなったこの時でも、大地に満ちるマナはその変化を感じさせる。
音のないざわめきは次第に大きくなり、そして――
「開いた、な」
『うむ。ユウトよ、覚悟は良いか』
「……やっぱりちょっと緊張するかも」
『……お主という男は、せっかく感心したかと思えば……』
「今更かっこつけたってしょうがないさ。己を知り、恐怖を知る。それも強さの一つだろ?」
『……その口に実力が追いつくのは、一体何時になることやら』
「精進するさ。それより、これからどうする。正直言って俺、どこに行ったらいいかわからないんだけど」
『ふむ、そうだな。ではひとまず『時詠』『時果』『時逆』の主と合流するのはどうだ』
「時深か……思いっきりなんか言われそうだな……」
『そうなったとしても、それは自業自得であろう。心の強さで切り抜けよ』
「……いざとなったら、フォローしてくれないか?」
『情けない……先程の気概はどこへやった』
「それはまあいずれ、本当に必要になった時に、ってことで」
『やれやれ……
しかしあの者と会うのも久しぶりだ。今度はどんな騒ぎに首を突っ込んでおるのやら』
「いきなり派手なことに巻き込まれなきゃいいけど……でも時深だしなあ」
『それには同意するが、ユウトよ。しばし口を慎んだ方が良さそうだ』
「どうしたんだよ?」
『噂をすれば影、ということか。どうやら向こうの方から向かえを出してくれるようだ』
ユウトの脳裏に、どこかから『呼ばれて』いるような感覚が走る。
そしてその後、満面の笑みを浮かべた戦巫女のイメージが届いた。
「げ……」
『この様子からするに、向こうもこの日を楽しみにしていたようだな』
「なんか凄い嫌な予感が……」
『修行の成果を見る、という名目の模擬戦くらいは覚悟しておいた方がよかろう。
さあユウトよ、我を抜け! 『門』を開くぞ!』
「ええい、わかったよ! やってやるさ!」
言われるままユウトは腰から『聖賢』を抜き、天に掲げる。 そのまま視界は光に包まれていき……
ユウトはそれから、本格的に戦いの日々に身を投じることになる。
星屑のような世界を渡り歩き、時に傷つき、時に倒れ……
だが、彼は立ち上がる。その心は理想を失わず、暴虐の剣を止め続ける。
それは彼がユウトであるからだ。いくつもの愛を重ねて、その上に形作られた理想は、何人にも打ち砕くことはできない。
それは、小さな世界から起こった、あるいは勘違いじみた夢なのかもしれない。
だがユウトは、目の前に広がる世界の銀河に、レスティーナを映し、その世界に溶け込んで行くのだ。
その宇宙の明かりを、果てさせることのないように……