「行くんだな」
「光陰……」
その男は、コウインが居間の戸口に現れても気づくことなく、呆、と窓の外を眺めていた。
よほど、心を飛ばしていたのだろう。
今日一日、そこから森を向こうに覘く街を歩いていたという。
顔に似合わず、覚悟を決めたら行動は早い。
だから、その顔を見てやろうと思っていたのに、結局こんな時間になってしまった。
夕暮れ。街の喧騒は収まりつつあり、そして『別れの時間』は近づきつつある。
「聞いたぜ、いろいろとな」
「……そうか」
……いや、時間になってしまった、というのは少し違うだろうか。
それは、邪魔をしたくなかった、ということもある。
だが機を窺っていたのは確かだ。
誰にも、聞かれたくない話があった。
……自分は、その決着を付けに来たのだろうか?
判らない。
判らないまま、コウインはユートに話しかける。
「なあ、悠人」
「何だ?」
「いい顔、するようになったじゃないか」
この男は今日、別れを告げに歩いていた。
その時は近い。
だが、救国の英雄――今では彼をそう見る者も少なくない――がいきなりいなくなるとすれば、そしてそれが、まだ去っていない危機に立ち向かうためだとすれば。
それは、知られれば民衆には、無用の心配を招くことになるだろう。
だから、今日はなんでもない、普通の一日だった。
街を見て回り、それとなく挨拶をして。
痛々しすぎるほど、不器用な、普通の日。
――まったく、何てヤツなのだろう、と思う。
一言、言ってやろうと思った。だからここに来たのだ。
だがこんな姿を見せられれば、余計な心労をかけずに、素直に送り出したいと思ってしまうではないか。
「そう……なのかな」
「ま、どんなに頑張っても、俺の二枚目ぶりには程遠いけどな」
「ふん、言ってろ」
「しかしまあ、あの悠人がねえ。らしいと言えばらしいが」
「何だよ」
「よく思い切ったな、ってことさ」
「ま、いろいろあってな」
「なるほど。詳しくは聞かないぜ。男の決意を問いただすほど、俺も野暮じゃないつもりだしな」
言い合って、二人は軽く笑う。
……まったく、世話を焼かせる。
それは今日、初めてユートが浮かべた、屈託のない笑顔だっただろう。
この男は昔からそうだ。頭は悪いくせに酷く考え込む癖があり、そして大抵その想像は悲観の方向に向かう。
だから、笑っても、どこか笑っていない時がある。
これまで何度、自分はそんなユートの堅い笑いをほぐして来ただろう。
この前は温泉だったし、いやそれよりももうずっと昔に思える、『召喚』の直前――
発案者こそ今日子だったが、この無愛想で不器用な男を演劇の主役に据えるという企み。
あの黒幕が自分だったと明かしたら、変なところで愚直な程人を疑えない青年は、一体どんな顔をするだろう。
心のそこでそんな意地悪い想像をして、コウインはニヤリとした笑みをさらに深める。
「俺は剣を手に入れて、またここに戻ってくる」
「ああ」
「その時まで、頼む、光陰」
「任せとけ。邪悪な道に堕ちたヤツに喝をいれてやるのは、昔から聖職者の仕事と決まってる」
「ははっ。そりゃ安心だ」
サーギオスは陥落した。
だが依然として、危機は去っていない。
力に心を侵されたシュンは、もはやシュンですらなくなってしまった。
そしてその力は今、ユートの義妹や国といった小さなものではなく、この大陸ごとまとめて吹き飛ばそうとしている。
それは、阻止しなければならない。
無論備えはしてある。剣を失ったユートに変わり、今は自分がエトランジェとして、隊を鍛えている。
もともと素質はある。皆スピリットなのだ。
経験も不足しているはずがない。揃いも揃って歴戦の勇士。何より皆この大地を諦めていない。
自然、訓練にも熱が入る。戦力としても確実に、戦争終結時より向上しているだろう。
しかしだからと言ってそれは、ユートには気軽に答えて見せたほど、生半のことではない。
大陸中に散った四振りの剣。
ユートの剣は、その中でもっとも高位だった。だが、それすらもあっけなく砕かれたのだ。
恐怖と焦燥。皆が心の中で抱えている。
だから、現隊長の自分が、それを現す訳にはいかない。
部下に対しても、女王に対しても。
守るべき市民に対しても、そして……これから旅立つ、目の前のこの友にも。
だからユートは、それだけで納得しておけばよかったのだ。
信頼できる仲間に後を預けて、とりあえず剣を手に入れるまで、自分は自分のことだけ考えていればいい。
しかしそんな思惑などまるで知らずに、ユートは自ら、コウインが隅に置こうとした箱に手をかける。
「それじゃあ……もう一つ」
「ん?」
「……今日子のことも、頼む」
まずい、と思った時には遅かった。
「……何を言ってるんだ?」
「こんなこと言うのは勝手だってわかってる。俺は、裏切ってしまったけど……でも、お前にしか」
「あのなあ悠人。お前は何か勘違いしてるようだから、この際はっきりさせておく」
キョウコはユートを選んだ。
二人がそう言わなくても、コウインは敏い。すぐに気配でそれは知れた。
言わば男として負けたのだ。
悔しさは、もちろんあった。
キョウコの想いが初めからユートに寄っていることは判っていた。
それをどうにか自分の側に手繰り寄せようとして足掻き、もがき、命まで投げ出そうとして……そしてそれは結局、徒労に終わった。
反面、それでいいとも思った。自分にできるのは努力することだけで、決めるのはキョウコなのだから。
だが今、ユートはコウインに、キョウコを頼む、などと面と向かって言ってのける。
それがもはや悔しさなどではなく、屈辱すら相手に植え付けるとは知らずに。
コウインは湧き上がる感情を、今度は飲み下すことなく、ギロリとした目の光に映す。
そのまま、コウインは口を利かない。ユートも目をそらすことをしない。
どれだけ睨みあっただろう。それは長かったのか、短かったのか。
だがコウインには、十分な――十分だと納得できる時間を経て――
決心がついた。
「頼むも何も、今日子は昔から俺のもんであって、返してもらうだけのことだ。これからは丁度いい具合にお邪魔虫も消えることだし、俺達は白髪が生えるまで仲良くやるさ」
ニヤリと、笑ってやった。
恐らく拳の二、三発は覚悟していたに違いない。だから一瞬、ユートは唖然とする。
そして困惑した頭で彼なりに努力し、飲み込み、整理し、どうにか理解に達したのか。
自分では精一杯引き締めたつもりなのだろう。
だらしなく、ホッとしたように顔を笑み崩した。
「ちぇっ。なんだよそれ。だったらはっきり言えばいいのに」
「何度も言ってたさ。言葉には出さなかったが、それこそ露骨なほどに俺は態度に出してたぜ。それをお前は持ち前の鈍さでずうずうしく無視してくれたわけだが」
「そんなに割り込まれたくないんなら、首に縄つけて捕まえておけばいいだろ」
「そりゃ無理だ。そんな真似したら『飼い犬が立場をわきまえてない』って、間違いなく殺される」
「……確かに」
「だろう?」
「ああ」
「………………」
「………………」
「…………ぷっ」
「ククク……」
「はははははははははは!」
そして、二人とも、笑った。
本当は、殴ってやろうと思った。
睨みつけ、そしてユートが一瞬でも目をそらそうものなら、それこそ渾身の力と怒りでもって殴り伏せてやるつもりだった。
だが、ユートは目をそらすことなく、こちらを見返してきた。
この男は、なんて馬鹿なのだろう。
まったく、手に負えない。
――負けた。
完敗だった。
この男の馬鹿さ加減には、賢い自分は、どうしても勝てない。
マロリガンの砂漠では力で負け、あの晩に男として負け、そして今、何かわからないものに負けという決着が下った。
そしてそれが、悔しくはあっても、どうあっても恨めない、憎めない。
それほどまでに、この男の態度は清々しかった。
言わなければいいのだ、そんなことは。
どうせ数日と立たずに、時の流れさえ経ずに忘れてしまうことなのだから。
今から消える男の気にすることなどではないはずなのだ。
だが、ユートは口に出さずにいられなかった。
俺のもの。返してもらう。
コウインは、そう言った。
キョウコが聞いたなら、見くびるな、アタシはモノじゃない――そう憤慨するだろう台詞。
だが、そうでもせねばならない。
求めるものが有限ならば、それを皆が手に入れることはできない。
もしそれが形があれば、分かち合うこともできるだろう。
しかしそれが生きて、物想う人ならば、それもできることではない。
何度も悩んだことだろう。もしかしたら黙って言ってしまうことも考えていたのかもしれない。
そして人並み程度に勘が効けば、恐らくそのまま行ってしまっていたことだろう。
だが結局この不器用な男は、言い出すことに決めた。
自分に惚れてくれている女が、自分がいなくなったらどうするのか。
ユートの考えたところは、恐らくそんなところだろう。
自惚れにも程がある。
キョウコはユートだけに惚れていたわけじゃない。自分にだって惚れてたさ――それが何かのきっかけで均衡が崩れ、関係を持つことになった。
そうコウインが思うのは、果たしてそれこそが彼の自惚れだろうか?
どちらにしろ、しかしユートは、そこまでの考えに至らなかった。
どこまでも一本気で、誠実な男だ。
そしてその誠実さに、コウインは負けた。
それは、前にも思ったことだ。
国と、愛する者のため。敵は敵と切り捨てて、あくまで冷静に戦う。それがコウインというエトランジェだ。
しかしながらユートは時に怒り、涙を流し、子供のような駄々を捏ねて己の信念を貫こうとする。
そしてそれが、英雄として人の心を捉える。
力でも技でも、そして精神力でも、自分はユートに劣るところはない。むしろそのどれも勝っている。そうコウインは客観的に評価する。
それでも負けるのは、それが心の強さというものなのだろうか。
恐らくはそうなのだろう。
それがあるから、ユートは示された孤独の道を歩こうと決意できたのだ。
自分は違う。
惚れた女を捨てて手に入る世界より、共に死ぬことを選ぶ。
普段の軽い態度や口調からは見せないが、存外そういうところのある男だ。
そんな女一人にかかずらって手一杯の自分には、とてもできない決断。
それをした友の、心の重荷を少しでも軽くするためにも、そして己の気持ちに整理をつけるためにも。
俺のもの、返してもらう。そう言ったのだが。
――この馬鹿面じゃあ、わかってくれそうにもないな。
笑い顔の下で、コウインは嘆息する。
それにしても。
結局のところ、何から何まで負けっぱなしじゃあ気分が悪い。
ユートの笑い顔を見ていると、そんな気持ちがムクムクと湧いてきた。
ひとつ説教でもしてやるか。
こうなったら教養くらいしか、自分にはユートに勝てるところがない。
そんな小さな自己満足を得るために。
それよりも、こっちが忘れても、ユートの心に自分の欠片が残るように。
何よりもこの先、この未熟な英雄の心が折れないよう、僅かでもその支えとなってやれるように。
「因果、というものがある」
「お前の剣だろ」
「違う違う。観念的な話だ。いいか悠人。すべからく物事には原因があって結果がある。どちらかが単独で存在することはない」
「……何の話だ?」
「いいから聞けよ。それでだ。何かをした時、その結果が想像通りにいくこともあれば、思いもしないような事態になることもある。その原因と結果の間にあるのが縁というものだ。因の回りに漂う無数の縁の糸を時には手繰り寄せ、時には向こうから絡み付いてきて、そしてその行いによってあるべき結果へとたどりつく」
「…………」
笑いが収まってから、コウインは唐突に告げた。
「因と縁が結ばれ、果が生じる。果はまたそれ自体が因になる。程度の大小はあるが、それは以前の因とは別物だ。芥子粒……ひなげしの種のように小さな変化、それが紡ぎ合わされて道ができる。人はその上を旅して行く。永遠に不変なものはない。悠人。お前もだ。例え永遠の未来が前にあっても、変わらないことなどできはしない」
説教や真理と聞けば、大抵は構えて聞くものと思うだろう。
何を馬鹿げたことを。
生きるために大切なことなら、常にそこに転がっていなければならない。
だから、話すときだって気軽で、気楽でいいのだ。
「鍛錬すれば成長する。戦いに負ければ死ぬ。それは全て変化だ。だが全てのものが変わってしまうことが世界の因果なら、逆に不変を保とうとするのもそれに逆らう一つの変化と言える。お前の意志。お前の考え方。……お前の中にあるもの。絶対にとは言い切れない。やはり薄れてしまうかもしれない。お前と共に消えてしまうかもしれない。それでも保とうとするのなら、お前はずっと高峰悠人のままだ。そしてお前が高峰悠人であり続けようとするならば……」
それでなくても、今日はただの、普通の日だ。かしこまって話をする必要はない。
それに、そうでもしなければ。
「俺は、お前という親友を持てたことを誇りに思う」
最後の台詞。いや、その前から、みっともなく目を潤ませるユート。
馬鹿野郎。泣きたいのはこっちも同じだ。
人は生まれ、育ち、そして死んでいく。
それが曲げられない、唯一と言っていいほどの真理だった。
だが今ユートは、その真理さえ踏み越えて別のものになろうとしている。
それは、別れではない。
どんな別れでも、それが死によるものでさえ、残された者には記憶が残る。未練が残る。残ってくれる。
だがこの別れは、それすらも残してくれない。
忘却――いや。
完全なる消失。
哀しい、寂しいと思うことさえ、それは許してくれないのだ。
涙を見せるわけにはいかない。
ユートは決断したのだ。それはもう、誰の涙でも曲げることはできない。
まして相手は自分を負かした男だ。この上涙まで見せるなど、できるわけがない。
だから、不器用に笑ったこの親友を、同じように笑って送ってやるのが、せめてもの……
「……サンキュ、光陰。ためになる話だった」
「当然だ。未熟者を導くのもまた聖職者の仕事だからな」
「俺も、お前という親友を持てたことを誇りに思う。……いや。お前という親友を持つことを、誇りに思い続ける」
「おう、友よ。その感激、俺の胸で涙にして表してもいいぜ。本来なら可愛い女の子限定だが、今日は特別にお前にも貸してやるぞ」
「いや、それはやめとく。誰かに見られたら絶対に誤解されるから」
「ふむ、そうか。そりゃそうだな。レスティーナあたりに見られたら、それこそ一大事だ」
軽口の応酬。涙は引いた。
だから、さあ。ここからはいつも通り、馬鹿な話でもしようじゃないか。
コウインはふと思い出したように、あ、と声を漏らす。
「悪い、悠人。さっきの訂正だ。どんなに時間が流れても変わらないものが一つだけある」
「なんだよ?」
「俺と今日子の愛だ。それだけは何があっても変わることはない」
ニヤリと笑ってみせると、ユートは呆れ、次いで小さく噴出した。
「言い切ったな」
「ああ、言い切るさ」
「どうだか。いつも他の女ばかり見ているお前に、すぐ今日子が愛想つかすんじゃないか?」
「ふん、俺達の愛はそんな些細なことでは揺るがんさ」
「些細か……?」
「見苦しいぞ悠人。お前はそうやって嫉妬しながら、草葉の陰で見てろ。せいぜい見せ付けてやるさ」
そして二人はぎゃあぎゃあといがみ合う。
いがみ合いながら、その顔は笑っていた。
これで最後になる、その思いもあってか、その言い合いは戻って来たカオリにたしなめられるまで、止むことはなかった。
旅立ちの、ほんの少し前のことだ。