「姫様」
謁見の間から戻る途中、年老いた侍女の声で、レスティーナは足を止めた。
この侍女は皇后であるレスティーナの母付きであったが、レスティーナの誕生と共にその教育係として専属になった。
レスティーナからすれば、小さい頃からずっと一緒にいる婆や、というあたりか。
「何か」
レスティーナは足を止め、やや早口で尋ねた。
生まれた頃からの付き合いと言えば、多少なりとも親愛の情が湧くのが普通であろうが……
正直なところ、レスティーナはこの侍女があまり好きではなかった。
「はい。姫様には、是非聞いて頂きたいことがございまして」
「後にしてください。私はやりたいことがありますので」
「恐れながら、私の一存ではございませぬ。陛下からもお伝えするよう申し付かっておることにございますれば」
慇懃に頭を下げる侍女。
レスティーナは嘆息する。
確かに優秀な侍女ではある。よく自分に仕えている。
だがレスティーナがこの侍女を好きになれないのは、彼女があくまで自分ではなく、王家に仕えるものと己を心がけているからだ。
「……手短に済ませてください」
「申し訳ございません」
頭を下げる侍女をそのままに、レスティーナは廊下を歩いて適当なドアを開けた。
侍女は僅かな遅れもなくその後に続く。
「これは、姫様。このようなところに、どのような御用でございましょう?」
部屋の中で書き物をしていた廷臣が、驚いたように顔を上げる。
「そなたに用ではありません。私はこの者と話があります」
少し肩を引いて、後ろの侍女を示す。
「ついては、この部屋を使います。少しの間下がりなさい」
「は。失礼いたします」
廷臣はその言葉に飛び上がり、書類も机の上に放り出して逃げるように部屋を出た。
……一体、何の喜劇かしら。
その様を見ながら、呆れたようにレスティーナはまた一つ、ため息をこぼす。
「それで、話とは何か」
だが、こんな下らない演劇の役者でいるのはまっぴらだった。
どうせ侍女の話す内容など推測がつく。
ならば少しでも早く台本を消化して、さっさと舞台の袖に下がってしまいたい。
「はい、大変に申し上げにくいのですが……」
ならば申さねばよかろう、と、レスティーナはその前置きに心の中で悪態をつく。
「恐れながら、最近の姫様のご趣味ついてでございます」
そら来た。レスティーナは侍女の次の発言を予想した。恐らくは……
「姫様はいつまで、あのような下賎の者をお部屋に置いておかれるのでございますか」
侍女は困り果てたような顔で尋ねてきた。
困りたいのは自分だ、とレスティーナは思う。
これまでこの質問をされたことは数知れない。
真っ向から聞いてくるのはこの侍女くらいのものだが、なるべく気配を殺して廊下を歩けば、どこの部屋でも臣下が自分の行いについて噂をしているのが聞けた。
「そのことなら、父上の了承を得ています。そなたが介在することではない」
「ですが、姫様。聞けば時折、なんとスピリットまで招いていらっしゃるというではありませんか。そのようなこと、到底……」
「到底、何だと言うのです」
「……申し訳ございません。大変なご無礼を致すところでございました。平にご容赦ください」
不機嫌そうに言い放つと、侍女は深々と頭を下げた。
だが次に上げた顔には……
そこには迷いはない。
自分は、絶対に正しい真理に基づいて姫様をお諫めしているという自負に満ちていた。
だから、レスティーナは、この侍女があまり好きではない。
「しかしそのような者に触れることなど、王家の方のなさることではありません。誰か臣に申し付ければよろしゅうございましょう」
「そなたの認識は甘い。剣を持たぬとてあの者はエトランジェ。何かあった時、例えばそなたにあの者を抑えられますか?」
「それは……」
「答えなさい」
「……いいえ、不可能でございます」
「でしょう。ならばエトランジェが抵抗することのできない、王族たる私がその監視にあたるのは当然でありましょう」
レスティーナの言葉に、侍女は俯く。
それは、言葉としては正しいのだ。確かに物事を捉えるだけならばそこに反論の余地はない。
だが彼女からすれば、それはどんなに正しくても、間違っていることなのだ。
侍女は顔を上げ、言葉を搾り出す。
「それは姫様の仰るとおりでございますが、ならばスピリットのことはどう仰るのです。あのような者をわざわざお部屋に招くなど……」
「ならばそなたは、エトランジェのような下賎の者と付きっ切りで話せと申すのですか」
ピシャリ、とまるで音がしそうな勢いで、レスティーナは言葉を叩き付けた。
「確かに監視の役目を負い、ハイペリアから来たとなれば多少の興味もあります。暇つぶしにもなるでしょう。
ですが私とてそのような者に付きっ切りで言葉を教えるなど真っ平です。
下賎の者には下賎の者を。そのためにスピリットを呼んでいるのです」
ムカムカしながら、レスティーナは言う。
そんなこともいちいち説明せねばわからないのか――そんな態度を作って。
……内実は、そんな茶番を演じている自分にこそむかつきながら。
「そう仰るならば姫様、いっそ言葉など教えねばよろしいでしょう。あのような者と言葉を交えぬとも、姫様がお困りになるとは思えません」
「ならばそなたは、私に言葉の通じぬ猛獣を見張れと申すのか」
「いえ、姫様、そのようなことは……」
「黙りなさい。あの者は、人質であると同時に、今剣を握るエトランジェの予備なのです。
言葉がわからねば軍略には用いられず、いざと言う時に大変な損失を招きます。
そなたはその程度のこともわからぬのか。そうであるならば、そのような者に長年育てられてきたかと思うと腹立たしい」
「姫様、申し訳ございません。お怒りごもっとも、全て婆めの不覚にございます」
声こそ控えめ名がらも、怒りを爆発させたレスティーナに、侍女は平謝りに頭を下げた。
――まったく、茶番だ。
レスティーナは舌打ちというものを、初めてしみたくなった。
侍女は下を見ながら、ただ震えている。
「話はそれだけですか。ならば私はもう行きます」
「お、お待ちください、姫様」
歩き出そうとしたところを呼び止められる。
まだ何かあるのか……
振り返ると、侍女は目に涙を溜めていた。
「姫様、ご無礼の程は平にお詫び申し上げます」
「なんです、その顔は。これだけ理を解かれて、そなたはまだ不満があると申すのですか」
「いいえ、逆でございます、姫様」
逆?
怪訝に思うレスティーナの前で、侍女は安心したように微笑を浮かべた。
「姫様がそのような深いお考えの下で過ごされていたこと、気づけませなんだは不明の至りでございました。
ですが、姫様。婆は嬉しゅうございます。
城の中での噂話に心配もしていましたが、いつの間にか姫様がそのようなご立派な考えをお持ちになられていたとは……」
レスティーナは呆気に取られる。
まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかった。
だが一瞬後、ああ、この侍女ならそう思うのかもしれない、と諦観する。
「……そなたも、老いたということです」
レスティーナは顔を背けて吐き捨てた。
褒められたことに対して、嬉しさも照れも、微塵もない。
「ええ、そのとおりでございましょう。ですが姫様のそのようにご立派なお姿を拝することができるとは、婆めは安心いたしました」
誇らしげに語る侍女の顔を、レスティーナは見る気になれない。
その顔は、誇らしく、王族の侍女らしく老いてなお美しかったが、しかしその表情はレスティーナには、直視するには醜悪に過ぎた。
「恐れ多くも姫様は、この国を担われるお方。姫様はすでに王としての気構えをお持ちでございます。
姫様のお召し物に例えれば、王と民とはそのスカートのようなもの。
王の加護はそのように広がり、あまねく国を覆うものでございます。
ですが姫様、王たるものはただ立っていれば良いのです。決して下々の者に近づいてはなりません。
屈みこみでもしようものならば、スカートの裾が床に触れましょう。そうなれば下々の汚れで、ご威光は損なわれます。
そして臣は覆われたその上を仰ぎ見るような不敬など犯さず、ただ伏して恩恵にあずかるもの。
王は立ち、民は伏せる。そのようであってこそ、国は栄えるというものです。
今姫様のようにご尊考あるならば、この国は何があっても安泰でございましょう」
語る侍女の目からは、ついに涙が零れた。
「……そのようなこと、言われずとも承知しております。それに父上はまだご健在であられる。そのような話をするのは不敬でありましょう。
それに、ただの臣たるそなたに王道の何をわかるというのです。分をわきまえなさい」
「はい、はい。申し訳ございません。ですが、婆めは嬉しくて……」
罪にもあたる行いを問われながらも、侍女は嬉しそうな顔を崩そうとはしない。
「……もう良い。他に誰も聞いておりませんし、そのことは不問に付します。僭越である。下がりなさい」
「はい。失礼いたします」
うんざりして、レスティーナは侍女を追い払う。
だが侍女はその言葉にさえ嬉々として従い、言われるままに部屋を後にした。
侍女が去った後の部屋のなかで、くたびれた空気は去らない。
何が王家か。何がスカートの裾か。
うんざりした。心底うんざりしていた。
何もわかっていないあの侍女に、その侍女に答えるように茶番の姫を演じて見せた自分に。
そしてそれらを丸めて包む、この城に。
王はただ立っていればいい? 民を省みる必要などない?
それならばその辺の畑から引っこ抜いて、案山子でも立てて置けばいい。
確かに……自分は良い生活をしている。
何度か見た街の光景からすれば、それは事実である。
だが……なら、自分は何度この城の中で、街の人のように心から笑ったことがあるだろう?
街など、見に行かなければよかったかもしれない。
実際にスピリットなどと、話しなどせぬ方がよかったのかもしれない。
レスティーナは嘆息する。
そうすれば、レスティーナは今の侍女の言葉にも素直に頷き、道を躓かない愚鈍な王女であれたかもしれない。
だがレスティーナは知ってしまった。そして知ってしまった以上、この王宮でのことは全て虚構に見えてしまう。
馬鹿、と言って見たかった。実際に小声で呟いた。
馬鹿らしい。王らしさ、そんなものにどれだけの意味があるのか。
例えば、この部屋だ。城が自分の住まいであるならば、勝手にどこの部屋にも押し入っていい。
そんな馬鹿なことがあるものか。王を敬うために仕事を投げ出す。本末転倒だ。
だが今この城では、そのことに疑問を持つ者などいない。
先程の会話もそうだ。会話の中で、結局誰の名前も出ることはなかった。
姫は姫。侍女は侍女。エトランジェはエトランジェ。スピリットはスピリット。
誰も名前など要していない。後の二人に関しては、下賎であるがゆえに名前など知らずとも良いということだ。
なんと馬鹿げた話だろう。
……そして、なんと失礼な話だろう。
わざわざ部屋を借りて良かった、と、レスティーナは思う。
自分の部屋では到底言えないことであった。部屋にはエトランジェ……カオリがいる。
そして廊下でも、誰が聞くかもわからない。
例え偽りだとて、自分の口から出た余りと言えば余りの言葉の数々に、レスティーナは自分で悔しくなる。
いつか自分は王になる。その時自分は、こんな国をどれだけ変えられるだろう。
振り返って背後を見る。純白のドレス、そのスカート。
侍女の言葉とは違い、足よりも長いそれは、明らかに床を引きずっていた。
……王宮の床ならば、清潔であるとでも言うのか?
例え単なる比喩だと分かっていても、そんなところにまであげつらって、皮肉りたくなる。
陰鬱な気分のまま、レスティーナは部屋を出た。
今日は、オルファリルの来る日だ。
あの騒がしさに触れていれば、この気分も晴れるだろうか。
楽しい娘たちだ。姫という役割に縛られているこの城の中で、数少ない友と呼べる。
……だからこそ同時に、罪悪感も。
複雑な面持ちで、しかし姫としての威厳を保ち、レスティーナは自室への廊下を歩いていく。
道のりは、やけに遠く感じられた。