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 決戦。
 死に物狂い……いや、それは適当ではない。
 皆が命を燃やして戦っていた。
 圧倒的な威力を誇るオーラの爆炎。
 一人のエターナル――聖賢者ユウトと名乗った――が加護のオーラを展開し、碧がそれに助力する。
 しかしそれでも及ばない。加護のオーラだけでは相殺することはおろか、弱められてなお、そのエネルギーはスピリットたちの命を奪うに十分だった。
 飛び出し、体を張って受け止めたものがいた。
 ユウトだ。
 その爆発をたった一人で浴び、かつ心まで侵食する『世界』の破壊意識。
 苦痛と恐怖で身動きできなくなったところを、弄ぶような剣舞で切り刻まれる。
 だが、まだ終わらない。
 爆炎、二波。傷ついたエターナルは下がり、もう一人、トキミと名乗る巫女装束のエターナルが打って出る。
 結果はユウトと同じに終わった。
 そして『世界』……いや、瞬は、さらに第三波の構えに入った。
 もはやこれまで……皆が死を覚悟し、それを受け入れないただ一人が一歩を踏み出した。
 碧だ。
 爆炎を身に受け、無数の剣瘡を負い、それでもなお立ち続けた碧は、ニヤリと笑い、言う。
 さすがにこれで打ち止めだろ。

 猛反撃が始まった。
 誰より早く飛び出したのはアセリアだった。
 この日のために、ただひたすら剣を振るった。
 碧との組み手。迷いのない、真っ直ぐな剣。
 手先は器用だが、生き方は不器用な彼女だ。
 小細工を捨て、一切を剣に任せた。
 ただひたすら速く、強く。
 一撃一撃が必殺の剣舞、それを真っ向から打ち出す。
 だが防がれた。いくらかは傷を負わせることに成功したが、それまでだった。
 近寄るだけで傷を負う、もはや瘴気と化したマナ。それをまとった『世界』が、アセリアの攻撃など意にも介さずこちらに突進してくる。
 すんでのところでシアーの支援魔法が展開された。
 エーテル・シンク。
 マナの振動を抑えられれば、それを糧として生きる生命体は思うように力を発揮できなくなる。
 確かに枷ははまった。だが効果は薄かった。
 切りつけられたエスペリアが、苦痛に顔を歪める。
 隊の誰よりも守りに秀で、鉄壁を誇るエスペリアでさえ、剣に纏わりついた瘴気からは逃れることができない。
 あわや致命傷か、その止めの一撃を妨げ、横合いからネリーが飛び込んだ。
 アセリアとは違い、手数の多さで勝負をする彼女だ。
 一撃目、二撃目……防がれる。
 それでも彼女の瞳は闘志を失わない。
 いなされ、弾かれ、しかし大地を踏みしめ、ハイロゥの力を乗せて跳躍、三撃目!
 入った!
 厚い剣の壁を潜り抜けて、ネリーの刃が瞬の身体をえぐる。
 瞬はやや驚いた表情をしながら……しかしまるで意に介した様子もなく、会心の斬撃を決めたネリーを掴み、投げ捨てる。
 傷は、皆の見ている前で、瞬時に修復した。
 怯むな、血は流れた、マナは消費される。ダメージは蓄積するはずだ。
 唖然とする一同に渇が入る。碧だ。
 自分こそが今だダメージから抜けきらず、脇腹を押さえている。
 誰かに治癒の魔法をかけてもらうか、あるいは己に意識を向けて集中すればもっと回復は早いだろう。
 だが彼は戦力の低下を恐れて、傷の痛みに耐えながら加護のオーラを広範囲に展開していた。
 その声に応え、細剣が踊った。右に今日子、左にウルカ。
 右から鋭い連突。その動きはあまりに速く、突きと戻しの間で残像すら見える。それは慣れぬ者が見れば、まるで刃が伸びたかのように見える技。
 左からはこれも神速の抜刀。抜き、戻し、その剣線は右とは対象に孤を描いて襲い掛かる。
 その円を基調とした動きの中で巧みに舞い、軌跡を変えて上から、下から、時には相手に背を向けて刃を隠し、思いも寄らぬ方向から切り付ける。
 確かに何本かは通った。しかしその大半が、まるで約束演武を見ているように止められ、そして二人はそろって反撃を喰らい、吹き飛ばされる。
 敵にしてみれば、針でチクチクと刺されるようなものだったのだろう。だがそれは軽くとも、いや軽いからこそ神経を逆なでる。
 激昂の気配。猛攻撃の予感。
 トキミのビジョンが察した。標的は……ニムントール。
 傷ついた者はすでに一旦避退している。そして前線に残った者で、一番組みしやすいと判断されるのは彼女だろう。
 抵抗力が比較的高く、ダメージを受ける前の支援能力に秀でる。
 実際、これまでも、光陰の力に隠れて分かりづらいが、ニムントールは的確に見方をサポートしている。
 彼女が差し向けたマナの盾によって防がれた致命傷も、いくらかあっただろう。
 手近にいて、残しておくと厄介な相手……パッと見て目に付いたのが彼女だった。
 実際その通りだ。例え少しくらい抵抗力が高くとも、その小さな体躯は、荒れ狂うエターナルの攻撃を受け止めるには未発達に過ぎる。
 しかし、そんな都合など知ったことではない。
 一度狙いを定めた『世界』は、次の瞬間にはすでに獲物に向かって急接近していた。
 一撃目、かろうじて耐えた。ニムントールの愛らしい顔が苦痛に歪む。
 あの、いつも強気で、弱音を吐くことなど滅多にないニムントールが、だ。
 苦痛にわななき、構えを直すことすらままならないニムントールに、再び紅い刃が迫る。
 むざむざやらせるつもりはない。『世界』の余りの速さに出遅れたものの、二対の翼は確実にトキミの警告を受け、対処するべく動いていた。
 セリアが口の中で練り上げた魔法を、二撃目に移ろうとしていた瞬に叩きつける。
 それはシアーが展開したものと同じだった。
 そしてスピリットは個体によって特性があり、同じ魔法でも細部は違ってくる。
 セリアのそれは力を奪うだけではない。完全に、その動きを封じる。
 剣を振るおうとした不自然な態勢のまま、凍りついたように固まった。
 そこに飛び込む第二の翼。
 仮面の奥、暗く、しかし激情に燃える瞳。
 黒スピリットの戦闘スタイルで相手の隙を窺っていたが、愛する妹を傷つけられた今、彼女が平静でいられる理由など、一体どこに見つけられるだろう。
 ファーレーンは、普段の優しげな声からは想像もつかない獰猛な雄たけびを上げ、滅多やたらに刀を抜き放つ。
 腕、首、胸、腹、脚。狙いなどあってないようなものだ。無抵抗となった瞬の隙だらけの身体を、技の限りに刃を振るいまくった。
 ――恐らく彼女のことだ、例え相手が自由な状態で凄まじい反撃が予想されたとしても、構うことなく踊りかかっただろう。
 ありとあらゆる急所を狙い、何度も何度も剣が抜かれる。
 切って、斬って、また切って、斬って……
 それでも暴威は去らない。
 硬直から解けた悪夢は、なおも飛び掛ってくるファーレーンを無造作に殴り飛ばした。
 そして哄笑。
 ほらほら剣を向けてみろよ。効くわけないんだからさ。
 言う通りかもしれなかった。あれだけ切り刻まれてなお、硬直から解けたマナは、瞬時に肉体を再構成していた。
 だからと言って怯んでいられるほど、この戦いは軽くなどない。
 どんなに強大な敵だとしても、屈してなどやらない。やるわけにはいかない。
 弄ばれるために、命があるわけではない。
 破壊されるために、この大地はあるわけではない……!
 もはや自分だけが安全な場所から見ているわけにはいかなかった。
 佳織は『求め』のかけらを握り締め、一歩前に踏み出す。
 それを見た『世界』の、ほんの少し驚いたような顔と……そして、嘲笑。
 すでに『世界』は『瞬』ではない。もう自分のことなど、意識に上ることはないのだろう。
 純然に、恐らく一番戦力的に低いだろう自分。
 それが向かってきたことを意外に思ったのだろう。
 ――或いは、何かの冗談かと。
 だが、自分とて以前の自分ではない。
 碧や今日子、小鳥に守られてばかりの自分ではない。
 欠片とは言え『求め』を握り、エトランジェとして、仲間と共にこの場に立つというのは、戦うということなのだ。
 マナの加護を得て……跳躍。
 刀身のない『求め』での攻撃は、素手での殴打にも等しい。
 剣で受けるにも足らないと判断したのだろう。
 『世界』は幼子の悪戯を見守るかのように――だとしても、あまりに禍々しい顔つきだが――その攻撃を、あえてその顔に喰らって見せた。
 予想通り、肉体を包む瘴気によって、殴った自分の方が大きなダメージを喰らう。
 だが。
 『世界』は佳織をあなどった。代償は高くつく。
 わざと殴らせた顔。その瞳が、驚愕に見開かれる。
 確かに自分の攻撃に威力はない。もともとダメージを負わそうなどとは、考えてもいなかった。
 目的は……相手の動きを止めること。
 『世界』は強大だ。敵として、どうしようもないほどの絶望感を植え付けられるほど。
 下手に突っ込めば、反撃だけでもかなりの痛手を被る。
 ならば、動きを封じてしまえばいい。
 先程のセリアのサポートが、それに気づかせてくれた。
 洒落にならないほどの苦痛が全身を襲う。それでも心は挫けない。
 何故ならば。
 目が合い、互いに頷きあった。
 自分が時間を稼いだ間に、ヒミカが詠唱を終わらせていた。
 火球が放たれ、剣翼の堕天使を包み込む。
 二つの火球の合い間に、オルファリルがさらに灼熱の剣を振るった。
 この始まりの地で、彼女自身にもわからない、なんらかの感情が巻き起こっている。
 『世界』は無抵抗、カウンターの反撃はない……それでもどうしてか、彼女自身の方が痛々しく見えながらも、果敢に剣を止めずに切り掛かる。
 火球によって巻き起こった煙が晴れ、『世界』の硬直が解ける前に、オルファが剣を止めて飛び退った。
 それは反撃を恐れてではない。危惧しているのはむしろ巻き添えだ。
 皆感じている。まだ、赤マナの高揚は去っていない。
 そして再び、炎が踊った。
 ヒミカの放った火球とは、また違う炎。
 単体に目標を定めるのではなく、辺り一面を焼く尽くす地獄の業火。
 ヒミカとオルファによってあぶられ、焼け爛れた肉体を、さらにナナルゥの大規模魔法が襲った。
 それは爆炎……初めにエターナルたちが喰らった、オーラの爆発にも近い。
 身体の表面が焼け焦げた状態で、『世界』はまたも、限定的ながら身体の自由を奪われた。
 そこに小柄な影が躍る。
 ヘリオンは何度か反撃を受けながらも、しかしその連閃は確実に傷を増やしていく。
 代わる代わるの攻撃。休んでいる暇はない。
 出向くのが面倒だから、回復したい者は自分のところに来い……そんな冗談を交える余裕など一切ない。
 ハリオンはその顔から笑みを消し、傷ついた者たちに片っ端から癒しの光を注ぎ込む。
 明らかに力の使いすぎで、顔色はどんどん悪くなっていく。それでも彼女は、彼女の戦いをやめない。
 見かねたエスペリアが押しとどめた。一人ずつでは効率が悪い。
 戦いに慣れた者の冷静さ……セリアや光陰がエスペリアの意図を汲み、巧みに指示を出して戦場を誘導する。
 そして傷ついた者たちを一同に集めて、一気に癒しの力を解放した。

 それは、熱い波だった。
 死に物狂いなどという表現などでは絶対にありえない。
 誰もが死を覚悟しただろう。だが同時に、死なない決意を持ってこの場に及んだのだ。
 それぞれが、己の命を懸けて、それを掴み取るために戦っていた。
 慎重に相手の動きを止め、隙を狙い、時に強引に攻め込む。
 だが敵もただやられるだけではない。例え嫌がらせ程度のダメージ程しか感じなくとも、執拗な攻撃は彼に煩わしさを感じさせる。
 破壊の本能に怒りが加算された暴虐の刃に、ある者は倒れ、ある者は吹き飛び、血を流す。
 それでも誰もが諦めずに立ち上がった。
 碧は加護のオーラを緩めず、危険な場面があればトキミが未然に防いだ。
 何度も、何度でも挑みかかった。
 どれだけ死闘が続いただろう。
 お互いが不死ではない、命ある者の戦いならば、それにはいつだって終わりが来る。
 やがて敵にも疲れが見え始め、こちらの波状攻撃に防御が追いつかなくなる。
 そして彼は、誰かの攻撃を受けて膝を就き……
 その頭上に、これまでにない、一際大きな白銀の波が迫った。
 誰もが緊張を解かず、しかしながら動けもせず、それを見守った。
 何かの因縁、めいたもの。誰も手出しが許されない。
 掲げられた紅い刃を、白い刃が砕き、その下にある身体を真一文字に抜ける。

 そして、封じられた『始まりの地』、その最奥で、狂った『世界』は終焉を迎えた。


 震動が、大きくなっている。
 初め微弱だったそれは、『再生』の崩壊と共に増大していった。
 『始まり』の地が、消えるのだ……
 中央部にぽっかりと空いた穴。
 そこから、崩れ落ちて行く『再生』が見える。
 それはさながら、今までスピリットを生み出していた偉大な船が、ゆっくりと沈没していく様にも見えた。
 そして、巨大な剣の欠片にまぎれて、沈み逝くもう一つの影。
 『世界』もまた、奈落の底に飲まれようとしている。
 それはマナの力なのだろう、その速さは自由落下などではなく、ゆっくり、ゆっくりと下っていくように見える。
 佳織はそれを目で追った。
 剣を砕かれ、目を閉じ、全身からマナの燐光を放出し、ゆっくりゆっくりと希薄になりながら沈んでいく。
 それは自らの敗北を認められず、まだこの世界に留まろうと必死になって足掻いているようにも見え……
 だが佳織には、傷ついてなどおらず、優雅に泳いでいるようにも見えた。
 それは、佳織が以前の瞬を知っているからであろう。
 優秀で、冷酷な。だが同時に、佳織に対してだけは病的なまでに優しく偏執的な瞬。
 他人にどう思われているかなど関係ない。何と言われようと、他人の言葉などでは傷つくことなどない。
 一人孤高に、彼のためだけにある世界を泳ぐ。
 それが、瞬だ。瞬だった。
 だが、それは果たして本当の彼だったのだろうか?
 佳織は知っている。佳織だけは知っている。
 孤高なはずの少年が、一人病室で泣いていたことを。
 もし瞬が、本当に傷つかない人間ならば、彼に流す涙などあっただろうか?
 否だ。
 彼も人間だ。傷つくことだって厳然としてあったはずだ。
 彼の生い立ち……地元では名家として知られる家の御曹司。
 幼い頃から、求められるレベルは並ではなく高かったのだろう。
 だから彼は強くならねばならなかった。
 病弱な身体を押して。弱い自分は殺して。
 結果として彼は傷つくことを止めた。だが克服できたわけではない。
 いかに優雅に振舞い、傷つくことを知らないかのように演じていても、不意に一人になれば思い出す。
 忘れていた傷口から押さえ込んだはずの弱さが噴出し、その痛みに打ちのめされることもあっただろう。
 そして自分は偶然にもそんな時の瞬に出会い、瞬はそこで、瞬に優しくした自分を求めた。

 確かに瞬は優しかったが、その求め方は普通ではなかった。
 彼が優しくしてくれるのは嬉しかったが、しかし自分だけにというのは不自然だとも思った。
 実際二人だけで遊ぶよりは今日子や碧らと大勢で遊んでいる方が楽しいこともあったし、瞬の露骨な態度で友達から冷やかされるのが恥ずかしかったこともある。
 正直なところ、彼のそういった態度が、時には煩わしく感じられたのも事実だ。
 だが……今になって思う。
 それは、彼の言葉にならない叫びだったのではないだろうか。
 自分が誰かの救いになる。そんな大それた考えなどないが、一人病室で、病魔と孤独を相手に戦っていた瞬にとって、自分は明らかに救いになったのだろう。
 そして彼はそれ以外にすがるものを見出せなかった。
 だが、もし自分が、もっと彼に働きかけていたら。
 彼にとって、佳織の友達は、自分と佳織を妨げる邪魔者以外の何者でもなかっただろう。
 あまり邪険にするのも気が引けた。だから時々は、彼と二人だけで過ごしたこともあった。
 それは、優しさのつもりだった。……同情と言う、美しいが、何の役にも立たない感情から生まれた。
 自分には、他にもっとしようがあったのではないか?
 自分と一緒にいる時だけ笑顔でいられる瞬。それは、日の光を浴びて輝く月と変わりはない。それはプリズムのようで、綺麗ではあるが、弱弱しい光だ。
 そうではなく、彼を孤独そのものから救い上げて、彼自身の力で輝かせることはできなかったのか?
 本当の優しさとは、そういうものではないのだろうか。
 実際、今日子も碧も、素敵な人たちだ。
 何度助けられ、支えられたかわからない。
 だから、自分からもっと積極的に瞬を誘えば、彼もこの仲間に入れたのではないだろうか。
 ……こんな未来は、訪れなかったのではないだろうか。
 ――それがもはや意味のない想像だということはわかっている。その考えとてやはり独善的で、自分勝手なのかもしれない。
 それでも思わずにはいられない。
 言葉にならなかった貴方の声の数だけ、私はもっと優しくなれたらよかったのに。


「佳織ちゃん、何してるんだ!?」

 ふいに怒鳴られ、振り向く。
 碧に今日子、そしてユウトとトキミが、こちらに駆けてくる。
 気づけば、かなり震動は大きくなっていた。
 これは本当に崩れてしまうかもしれない。
 自分の立っている足場も、かなり怪しい状態だった。
 だが。
 小さく、もう豆粒ほどになってしまったが、それでもまだ瞬は、そこに見えているのだ……
 駆けてきた四人は、佳織の視線に誘われるように穴の奥を見やった。
 その表情に、一つとして明るいものはない。

「……佳織ちゃん、気持ちはわかるけど……」

 今日子が言いにくそうに口を開く。
 身体が揺れているのは、別に焦りでもじもじしているからではない。彼女の立つ地盤自体が、すでに無視できない大きさで揺れているのだ。
 本格的に危険な状況なのだ。今自分が立っているブロックも、いつ抜け落ちてもおかしくない。
 だが、それでもこの場を動くことはできない……

「……俺は」

 不意に、ユウトが口を開いた。
 振り返って、その顔を見る。
 ……ひどく、哀しそうな顔をしていた。

「俺は……この世界を守るために、みんなを死なせないためにここに来た。ここにこのまま残れば……いずれ崩壊に巻き込まれる。
 ……気持ちはわかるけど、もう行かなきゃ。もし君が動けない……動きたくないのだとしても、俺は無理やり、君を担いででもここから連れ出す」

 語られた言葉も、哀しそうだった。
 そして、どこか……何故か、必要以上に余所余所しく感じられた。
 佳織はその言葉を反芻する。
 別に動けないわけではない。動きたくないわけでもない。
 ただ、沈み逝く瞬がまだ見えるのに、それを後にしてこの場を去るのは……
 助けを求めながら堕ちて行く瞬を、まるで見捨てるかのような罪悪感があるからだ。
 しかしながら、ユウトにそう言われると、また別の感情も起こる。
 この人を困らせてはいけない。
 何故そう思うのかはわからない。
 わざわざ遠い世界から、縁も由もないこの世界を・・・・・・・・・・・助けに来てくれた恩人だから?
 それもあるだろう。だがそれだけでここまで強くそう思うだろうか。
 しかし今確実に、自分はこの人を困らせたくない、と感じているのだ。
 佳織はもう一度、穴の底を見た。瞬はさっきよりもまた小さくなった。だがまだはっきりと見える。
 佳織はその姿を……もうおぼろげにしかそれと見えない影を目に焼き付けて、振り返った。

「……すいません。いきます」

 避けられぬ決別なら、胸に留め置く。
 胸に抱いて、生きて行こう。


 脱出……時間的に言えばそれほどでもないはずなのに、日に浴びる日光はやけに眩しく感じた。
 スピリット隊の面々は先に脱出を済ませ、今は地面が雪原にも関わらず、へたり込んでいる。
 あのウルカですら例外ではない。
 ウルカはへたり込んだまま、空を見る。
 その虚空に何を映しているのか、それはわからない。
 ただ『冥加』の鞘を握る手には時に力が篭り、その目からは静かに涙が流れていた。
 外に出てなお、地面からは微弱に震動が伝わってくる。
 崩壊の余波が、ここにまで及んでいるのだ。
 それは徐々に高まり、そして一度、一際大きく波打った後……
 忽然として、止んだ。
 だが、その場にいる者たち――マナを感じることのできる者たちは、確かに感じていた。
 洞窟の、最奥部で、それが完全に崩壊したことを。
 洞窟の奥から、一瞬風のようにマナが流れ出る。
 それは存続の祝福であり、解放の証であり、そして断絶の斧でもあった。
 誰かが、静かに片手を挙げた。
 敬礼。
 入り口に向かって、静かに礼を向ける。
 やがて挙がる手の数は増え、それぞれが思い思いに手をかざした。
 ――私たちは、生きて行きます――
 どの手も、雄弁にそれを語っていた。


 誰かが、帰ろうと言い出した。そしてそれは伝播する。
 どこか寂しさは消せないながらも、この時になってようやく、部隊の表情には笑顔が戻って来ていた。
 こういう時には、その火を大きくする少女がいる。
 ネリーだ。
 彼女は普段から元気だが、今は意識してそう振舞っているようにも見える。
 シアーを巻き込んでヘリオンを引っ張りまわし、邪険にされながらもニムントールに絡む。
 やがて騒ぎが大きくなったところで誰かに怒られ、それが年長者にも笑いを起こさせるのだ。
 佳織はそれを見ながら、微笑ましく、頼もしく、そして少しだけ残念に感じた。
 彼女たちがいるなら、この大地は大丈夫だろう。
 彼女たちのように強ければ、そしてレスティーナ女王の力があれば、もう彼女たちが望まぬ戦争で涙と血を流すこともないだろう。
 そして彼女たち、いや、ここで生きる人たちが協力して作り上げる世界は、どんなに素晴らしいものになるだろうか。
 だから、それを一緒に見られないのは、残念なことだ。
 佳織は、『求め』の欠片から伝わる振動を感じた。
 もう、戻る時間が近いのだ。ここに留まることはできない。
 だからこそ――
 佳織は歩き出して、彼に近寄った。


 近寄ったはいいが、何と言っていいかわからない。だから、その一言目はありふれたものになった。

「あの」

 だがそれだけで、ユウトは明らかに緊張したようだった。
 とは言え彼のことばかりは言えない。自分だって緊張している。
 胸が高鳴り、顔が熱くなる。
 それはまるで、いつも小鳥が言っているような……
 一瞬思って、すぐに打ち消した。それ以上意識すると、本当に、まともに話すらできなくなりそうだった。

「何かな?」

 困ったような顔で、ユウトは尋ねる。
 佳織はどう言ったらいいものかと迷ったが、とりあえず一番に思っていることを言った。

「あの……ありがとうございました。皆さんを助けて頂いて……それと、この大地を守ってくれて」

 その言葉に、ユウトは柔らかい笑みを浮かべる。
 そうか、守れたんだな、と。
 ここに来て、改めて気づいたかのように、ポツリと漏らした。
 その笑顔に誘われるように、佳織はさらに続ける。

「でも」
「?」
「どうして、そんなにがんばってくれたんですか? 時深さんから、それが使命だって聞きましたけど……こんな、言っちゃうとなんですけど、見ず知らずの世界のために」
「それは……」

 ユウトは一瞬困ったような、寂しそうな表情をするが、やがてまた笑顔に戻って、言った。

「俺がこの世界が好きだから……じゃ、理由にならないかな?」
「この世界が好きだから……ですか?」
「ああ。おかしいかな?」
「おかしくはないです……けど、でも、全然知らない世界なんですよ?」
「それでもさ」

 全然知らない、という部分を打ち消そうとするかのように、ユウトは早口で佳織の問いを遮った。

「知ってるも知らないもないさ。この世界を見れば誰だって好きになるよ。だって、こんなに皆ががんばって守ろうとしてたんだから。それは君だってそうだろ?」

 ユウトは、逆に佳織に問いかける。
 皆が守りたいと思っている、だから好きになる。
 そうかもしれない。何故って、ここにいる人たちは、みんな素敵な人たちだから。
 言われてみればそうなのかもしれに。確かに自分も、そのために戦う決意をしたのだ。
 だから。

「……強いんですね」

 自然に、言葉が出た。
 自分がこの世界を守りたいと思ったのは、やはり自分がこの世界を、この世界の人たちを知っていたからだ。
 そうでなければ、自分を守るために戦ってくれた人たちのためでなければ、命を懸けてまで戦おうとは思わなかったかもしれない。
 だがその言葉に、ユウトは苦笑した。

「俺だって、そんなに強いわけじゃないよ。エターナルに……こうやって、世界を守れるようになるのだって、散々迷ったんだから」
「そうなんですか?」

 佳織は驚きを露わにした。とてもユウトがそうには見えなかったからだ。
 確かに戦いに置いて、時に敵を斬ることにためらいを覚えている様子はあった。それはあの『瞬』を相手にしてもだ。
 だがその決意は、一片たりとも迷いがあるようには見えなかったのだから。

「ああ。実は俺、妹がいてさ。他に家族もいなくて、ずっと二人で暮らしてたんだ」

 ユウトは、佳織を見ながら・・・・・・・どこか懐かしそうに・・・・・・・・・語り始めた。

「俺は妹のこと、ずっと守ってきた。……守ってきたつもりだった。
 それが、ちょっと事件があって離れることになってさ。
 それでいろいろあって再会したんだけど、そしたらそいつは驚くほど変わってた。
 ずっとウジウジしてるだけの俺なんかより、よっぽど強くなってたんだよ。
 俺がこの道に進むときに迷ったって言ったろ? あれは……選択肢があったんだ。
 そのままエターナルにならずに、妹を守って人間として生きる、っていう。
 本当はそうしても良かったんだよ。時深に聞いたんだけど、俺の元々の世界が壊される順番はこの世界よりも後で、その頃には俺たちの寿命なんかとっくに終わってるはずだったから。
 でもさ、俺は……そんなのは我慢できなかった。自分たちだけ幸せな一生を送るなんて。
 救える世界があるなら救いたい。そしてその力を得るチャンスが俺には与えられてた。
 本当に板ばさみだったんだ。
 そんな時、妹が言ってくれたんだよ。
 『お兄ちゃんの、本当にしたいことをするべきだ』って。
 ……それと、『私なら、大丈夫だから』って。
 それで俺は、エターナルになることに決めた。妹に背中押されて、やっとさ。
 だから俺は、まだまだ全然強くなんかないよ。
 本当に強いのは……俺の妹だ」

 ユウトは、佳織の目を見つめながら語り切った。
 それは――そんなのは、都合のいい妄想だ、と思ったのだが――佳織に、まるで自分がその妹であるかのように・・・・・・・・・・・・・・錯覚させた。
 だが、悪い気分ではなかった。むしろそうだったらいい、とさえ思えた。

「素敵な、妹さんですね」
「ああ。自慢の、最高の妹だよ」

 一点の曇りもない笑顔で誇るユウトを見て、佳織は不意に、猛烈な切なさを覚えた。
 抱きしめてもらいたかった。髪を撫でてもらいたかった。
 それは、そうすることが当たり前だったのに、できなくなってしまったかのような……
 およそ見ず知らずと言ってもいい他人に覚えるような感情ではないのに、強烈に膨れ上がる。

「……でも、寂しくないんですか?」

 だから、そう聞いてしまった。
 もし自分に何年も一緒に暮らした兄がいて、お互い大切に想いあって、でも別れることに……永遠に別れることになったら。
 今の気分は、そういう風に思えた。

「そりゃ、寂しくないわけはないさ。でも、死に別れたわけじゃない。似たようなものだけど、あいつが言ってくれたこと、あいつの想い、あいつの夢……
 俺の知るあいつのすべてを、俺は永遠に持っていける。それに俺の妹は強いやつだから、必ず幸せになれる。
 それを信じてれば、例えもう二度と会えなくても……寂しいけど、辛くはないよ」

 その言葉を聞いて、佳織は、ああ、やはりなんと強い人なのだろう、と思った。
 きっとこの人は、この先何度でも世界を救うのだろう。
 そして限りない優しさを持ち、それを守っていけるほどの強さを、すぐに身につけるだろう。
 佳織はそのことを誇らしく思った。
 英雄と一緒に戦えた――そんな安っぽい自慢ではない。
 この人を知っている。この人に知られている。
 そして――もう、素直に認めることにためらいはない――この人を、好きになった。
 寂しさも切なさも追い抜いて、そのことがこの上なく嬉しい。

「あの……握手、してもらえますか?」

 言いながら、佳織はおずおずと右手を差し出した。
 何のつもりかは、自分でもわからない。
 だが、何でもいい。記念みたいなものだろうと構わない。
 最後にもう一度、この人に触れたい。

「……ああ、喜んで」

 佳織は、万感の想いを籠めて差し出返されたその手を握った。
 無骨で、暖かくて、優しいその手を。
 それだけで十分だった。握った相手の手からも、想いが伝わってくるのを感じた。
 もう、抱きしめてもらわなくても、髪を撫でてもらわなくてもいい。
 手を握る……『戦友』の、自然な距離。
 それだけで、この人とは通じ合える。

「そろそろ、時間です」

 傍らで見ていたトキミが、声をかけてきた。
 思えば、この人も不思議な人だ。見ただけでも、ユウトの恋人であるだろうことがわかる。
 なら今の自分とユウトのやり取りを見たら嫉妬の一つくらいしても良さそうなものだが、逆に自分たちはそうすることが自然であるかのように見守っていてくれた。
 ……理解のある女性、というのも違う気はする。
 それはどこか、やはり何故か、妹でも見るかのような……

 思考に耽る間もなく、スピリットに囲まれた。
 当然だ。これが正真正銘、最後の別れ。
 自分も、やはり寂しい。
 だが自分はエトランジェ……それも、帰る家のある旅人なのだ。
 だから、悔いのない別れを。

 抱きついてくるオルファリルと泣きあい、エスペリアに、ハイペリアでハーブティーを再現してみると言う。
 ウルカにも抱きしめてもらって、アセリアにはペンダントを大切にすると約束する。
 やがて自分の身体が光り始める。本格的に、時が近いのだ。
 最後の一時まで無駄にしない。次第に声が遠くなるなか、懸命にこの世界の人たちと言葉を交わす。
 そして最後の時が来た。もはや声はまったく通らず、視界も光に溢れてほとんど利かない。
 その光の向こうに、あの人を見た。
 笑っていた。
 口元が小さく動いていた。声はやはり聞こえない。
 だけど多分、あの人のことだから、簡単に別れの言葉でも言ってくれたのだろう。
 じゃあな、とか、またな、とか、そんな感じで、まるでいつでもまた会えるかのように。

 やがて門を通り、佳織は自分のあるべき世界へと運ばれていく。
 その最中に、佳織は自分の記憶が失われていくのを感じた。
 それは優しくしてくれたレスティーナのこと、友達になってくれたオルファリルのこと、頼もしかったウルカのこと……
 あの世界で関わったこと、人、全てが次第に希薄になっていく。
 失われていく中で、ふと、こういう風になるのなら、もしかしてあの人は、本当に私のお兄ちゃんだったのかもしれない、と佳織は思う。
 それは唐突で何の脈絡もない思いつきだが、こうして記憶が失われつつある現状は、それこそ確かであるように思わせた。
 このまま行けば、また自分はユウトの記憶を失くすのだろう。
 だが、そのことで悲しくはならなかった。
 何故なら、ユウトがそのことを嘆いていないからだ。
 門を渡るその途中、無数に見える、星のような煌き。
 あれはきっと、いくつもある世界……いくつもある宇宙なのだろう。
 今見ているこの光景を、彼もいつか見る日が来る。
 そうして世界を共有できる。いつのことになるかはわからないが、どんなに時間が、距離が離れていても、今見ている星屑は彼にも輝くのだ。
 そのことを考えると、それを楽しみに思う気持ちが、寂しさを上回った。

 今見えている世界たち……これを回ることで、彼はこれからもっともっと強くなっていくのだろう。
 いつの日か、彼でなければ救えない世界も現れるかもしれない。
 そしてその世界に心あるならば、例え戦い、傷つくことがあっても、人は確かな世界を生み出していくのだ。
 そのことを考えて、佳織は……


 目が覚めて、目覚ましを見た。
 まだ鳴っていないから当然なのだが、設定した時間より早い。
 なんとなく、勝ったような、得したような気分になる。
 佳織はベッドから出ると、部屋を出た。
 階段の下からは、朝食の用意だろう、いい音と香りが漂ってくる。
 おはよう、と挨拶をすると、同じ挨拶が二つ返ってくる。
 父と、母。
 父に寝癖をからかわれ、母に早く顔を洗ってくるよう言われる。
 やがて部屋に戻って着替えを済ませると、佳織は最後に、ペンダントを手に取った。
 寝るときは外して家族写真の前に置いてあるが、それ以外は肌身離さず着けている愛用の品だ。
 首を通す前に、鏡の前でプラプラと振りながら眺めた。
 それは控えめな、何の石かはわからない、だが綺麗な青い宝石細工のペンダント。
 いつからあるのか、佳織は覚えていない。
 不思議なことに、両親もよく覚えていない。
 父は誰かの形見かもなあ、と言い、母はそれを聞いて、やめてくださいよ、誰のとも知れない形見なんて気味が悪い、と肩を竦める。
 だが由来はどうあれ、佳織は気に入っていた。
 青く、時に光の当て方によっては自ら光るようにも見える宝石。
 不思議なことに、身に着けるといつも誰かが傍にいて、守ってくれているように感じる。
 案外、本当に誰かの形見なのかもしれない。
 鏡にペンダントを映していると、階下から呼び声が聞こえた。母だ。
 早くご飯を食べないと、小鳥ちゃんが来ちゃうわよ。
 佳織は慌ててペンダントを首にかけ、返事をして階段を降りる。
 小鳥が迎えに来たのは、朝食を食べ終わったのとほぼ同時だった。

 小鳥に引っ張られるように、佳織は登校する。
 時折転びそうになりながらも、それでも佳織の表情は明るい。
 小鳥には及ばないが、佳織は陽気で、活発な女の子に成長した。交友関係も広く、彼女から進んで付き合いだした友達も少なくない。
 そして彼女のいるところは、何かあれば一同がそろって鮮やかな笑顔に溢れる。

 それは――もはや彼女が知る由もないが、彼女のいたはずの義兄、高峰悠人……今は聖賢者ユウトと名乗る者が見守っていたいと願い、守ろうとしたものである。
 もはやこの二人が触れ合うことは二度とない。
 今現在、ユウトがどこで何をしているのかはわからないが……
 いずれにしろ、次に「渡り」をしてユウトがこの世界に赴く時、確実に佳織の命は終わっているだろう。
 ユウトのエターナル化と「渡り」は、かつて二人が兄妹だったという事実さえ完全に消し去ってしまった。
 だが、それでも残ったものはある。

「わわ、小鳥、待ってよぉ〜っ」
「大丈夫大丈夫! ほら、遅刻しちゃうよ!」

 つまづきかけた佳織の胸から、反動でペンダントが躍り上がる。
 それは朝の陽光を浴びて、確かに一度、キラリと輝いた。

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