ユートは自室への階段を上がっていった。
得られたマナに満足してか、それとも意識がまだ不確かでないのか、まともに声も掛けられない自分には見向きもしなかった。
残されたエスペリアは、テーブルの脇で床に倒れたまま動かないアセリアに近づく。
大丈夫か、と問うエスペリアの言葉を呆と聞き流し、差し出された水をゆっくりと飲み下した。
やがて焦点の定まらない目で立ち上がると、例も言わずにまた階段を上がって自室に戻る。
アセリアが例を言わないのはいつものことだ。大抵は小さなつぶやきとわずかな頭の上下でそれを表す。
だが、今は違う。
感情こそ希薄でも、その目には良く探せば、いつでも意思を見ることができる。それが今はない。
輝きを失った目で、アセリアは歩き去って行く。
エスペリアは一つ、わざとらしく、なんでもないようにため息をついて、「後始末」に取り掛かった。
桶に水を汲み、雑巾と一緒にそれを食堂に運び込むと、床に置いた。
暗闇で、そして行為の最中にこすられ、引き伸ばされたのだろう、よく見なければわからないそれは、しかし確かにそこにあった。
赤と、白。
混ざりあっているそれは、見慣れた色だ。
赤は血液。戦いが使命のスピリットだ。人間の何倍も、何十倍も見慣れていると言える。
そして血を流す傷口が膿めば、白い膿が出る。
――そうならば、よかった。
そうならばよかったのだ。自分たちはスピリットだ。肉が裂けても、骨が折れても、マナを操作すれば傷口は塞がる。そして自分にはそれができる。
だが、その白は違った。
それが膿ならば、こんなに生臭い匂いを発しない。
それが膿でなければ、エスペリアの情動はここまで刺激されない。
その白によって奪われた傷口は、もういくらマナを操作しても、祈っても、誰にも癒すことはできない。
――奪われてしまった。
マナを求めるエトランジェ、求めのユートに、アセリアは陵辱された。
スピリットにはないはずの生殖行為を強要され、アセリアはマナを、感情を、そして女を奪われた。
それは、とりもなおさずユートも、己を奪われたということだ。
ユートは優しい。戦いには向かないほど、見ていて切なくなるほど優しい。短い付き合いだが、彼女はそのことをよく知っている。その彼が、己の意思でこのような暴虐を尽くすことはない。
それを命じたのは、彼が持つ永遠神剣、第四位の『求め』だ。
強い力を誇る神剣。スピリットには使いこなせず、それ故ハイペリアからの来訪者――エトランジェが扱うことになる。
そして本来永遠神剣の本能は、マナを求めることだ。
他の永遠神剣を砕く。あるいはその使い手を切り裂き、エーテルを吸収する。
その本能は、神剣の持つ力に比例して大きくなる。
『求め』は危険な剣。それはわかっていた。大陸に伝わる、聖ヨト時代の歴史にもある。
高位の剣は、ただ敵を討つ以外にも、契約者を通じて直接スピリットからのマナ吸収を可能にする。
それが、今食堂で行われたことだ。
『求め』はユートにこれまで幾度もマナを要求していたのだろう。
だが戦闘が行われない今、彼に剣が求めるだけのマナを得ることはできない。
――ならば、身近にいるスピリットから吸い取ればいい。
剣の要求は日ごとに強烈さを増し、精神への干渉という脅迫じみたものになり――
そしてユートは抗い切れなかった。屈してしまった。
手始めに、アセリアが奪われた。
エスペリアは床を拭き始める。
赤と白を、何もなかったようにするために。
明日、起きて来たユートにも、オルファにも何かがあったように思わせてはならない。
エスペリアは自嘲する。
本来なら、自分がこうなるはずだったのに。何しろ自分はすでに汚れている。
必要ならば、体を呈して妹たちを守る。そう考えていた。王女にもそう伝えていた。
オルファリルが必要以上にユートに馴れ馴れしくしないよう叱っていたのは、礼儀やスピリットという立場を考えてのこともあるが、それだけではない。
できるだけ親しくならないように。彼がオルファリルに興味を持たないように。
二人きりになるようなことがないように。
常に身近にいるのは自分。そうすれば、彼が他のスピリットに興味を抱くことなどない。そう思った。
恋愛感情などではない。
襲われるならば、自分がまず初めになるために。
適任なのは自分以外にはいないだろう。
汚れている――赤も白も見慣れているのは、自分だけだ。
男を喜ばせる技は良く知っている。教え込まれた。
実際にそうするために、彼の部屋を訪ねたこともある。
だがそれも、単に彼の性欲を一時的に処理するだけに終わった。
――本当に?
エスペリアは黙々と床を拭きながら考える。
何故こうなってしまったのだろう。
それは、日ごろのユートが優しかったから?
彼女が抱く危惧を消してしまうほど、彼の自制心が強そうに見えたから?
――違うだろう?
それとも、『奉仕』に赴いたときの彼の顔が、あまりに辛そうだったから?
――まさか、それが全てではないでしょう。
自分がユートを信じたばかりに、こんな――
――ウソをつけ!
心の中で、もう一人の自分が責め立てる。
本当に信じていたのか。期待していた、いや、期待に乗せて逃げようとしていただけではないのか。
――気づいているのだろう、自分の本心に。
呵責の言葉は止まらない。己が慈悲深く、傷つきやすければ、なお。
その言葉に導かれるまま、エスペリアは己の内面を解きほぐしていく。
私は――
――そうだ、認めてしまえ。
私は、怖かったのだろう。
変わってしまうのが怖かった。エトランジェがその役目を果たし、戦乱が巻き起こるのが。
優しいユートが豹変するのが。
自分や、妹たちがマナを吸われ、心を砕かれてしまうのが。
このままずっと続けばいいと思っていた。ユートが苦しみながらも、剣の誘惑を断ち切って自分たちが守られ、優しい生活が続けばいいと思っていた。
そのあやふやな希望が、今日、こうして崩れ去った。
ごめんなさい。
呟きにも似た謝罪の言葉が漏れる。
そして認めてしまった瞬間、それまでこらえていた涙が零れ落ち、清め終わった床を新たに濡らした。
笑顔には自信がある。
辛くても、痛くても。人間たちに嫌悪と侮蔑の表情を向けられても、殴られようとも。
笑顔を向けて忠実な道具であることをアピールしていれば、自分が我慢すればそれで丸く収まる。
オルファリルほど自然な笑いではないが、だからこそつねに浮かべていられる。
エスペリアはそうして今、笑顔を浮かべようとして、失敗した。
いけない。自分は泣いてはいけない。
今、本当に泣きたいのはアセリアなのに。
だがアセリアは今後、泣くことがない。涙だけではなく怒りも、悲しみも全て失った。
――泣きたい時に笑いたいと、そう思うことさえできなくなってしまった!
自分はまだそうできるのに。彼女の分までそうしないといけないのに。
そして、奪われたのはアセリアだけではない。
ユートは剣に屈した。一度屈服した心は戻らないだろう。
彼が受け入れてしまった以上、抵抗はできない。『求め』がマナを欲する度に、手近なスピリットから奪われていく。
オルファリルも、自分も、他の仲間たちも、全て……!
エスペリアはもはや床を拭く手も止め、ただ涙に暮れた。
涙を流しながら、その口からはただ嗚咽にしかならない謝罪が漏れ続ける。
それは、誰に対してのものなのか。
館は寝静まり、その声を聞くものはいない。
ただそれを包む木々たちが、静かに哀哭を受け止めていた。