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 強く打ち付ける雨の中を、泥を跳ね上げながら駆ける。
 ラキオスとバーンライトの国境に位置するこの山道は、狭く、見通しが悪い。
 さらに悪いことに、今日は会戦前からの雨天だ。まったくの悪条件下での戦闘。やりづらいことこの上ない。
 視界の有無など、テントの中で雨音を聞きながら諦めた。それ以前にテントの中まで水が染み込んで来ていれば、自ずと知れようというものだ。  一粒一粒が軽いとは言え、間断なく体を打つ雨粒は、確実にこちらの体力を奪っていく。
 平たい土地でおおっぴらに軍をぶつけるのではなく、双方が仕方なく部隊を小規模に展開する局地戦。
 両軍どちらが敵か味方か、剣の共鳴がなければ容易ではなく、なす術もなく戦闘は混戦へと突入した。
 もしも自分が人間だったなら――それは仮定とだとしても、虫唾の走る想像だが――と、彼女は考える。
 何も、こんな日に戦争をしなくてもいいだろうに。もっと別の日にはできなかったのか。
 戦争日和――それは痛みを知らず、スピリットの戦いが図上演習と何も変わらないと信じる人間の軍属の間で噂される天気のことであり、あったとしてもまったく陰惨なものでしかありえないのだが――などではない、最悪のコンディション。
 だが、空は人の都合では動かず、そして戦はスピリットの都合では動かない。
 それを理不尽と感じることなど、とうの昔にやめてしまった。だからセリアは与えられた命令の下、ただ戦場を一気に駆ける。
 幸い……なのか。己はブルー・スピリット。濛々とけぶる雨で視界こそ利かないが、それでも水を表す妖精、他のスピリットほどにはそれは苦にはならない。
 前方から敵。青は剣を振り上げ、赤は詠唱に入っている。
 振り下ろされる剣を横にかわし、すれ違いの勢いのまま腹を一突き。
 心臓は外れた。だが激突の勢いで、刺さった深さは申し分ない。
 セリアはためらわず、突き刺さった剣の位置をえぐりながら調整して確実な致命傷へと変えた。
 剣の刺さったスピリットから何かが聞こえた気がする。それは苦痛のうめきか、死に際の呪詛か。
 気にしている暇はない。耳に入る言葉より、自分が口にする言葉を正確に織らなければならない。
 急激に膨れ上がるマナの振動。赤スピリットはこちらに剣を向けている。
 だがセリアは冷静に、冷酷に、今突き刺したばかりの剣ごと敵を見の前に引き寄せた。
 一瞬、敵はひるんだ。それだけで彼女には十分すぎる間ができた。
 こちらの詠唱は完成する。そしてセリアはそれを解き放つ。
 アイス・バニッシャー。
 痛みさえ伴う冷気が場を支配する。それは敵の詠唱によって引き起こされたマナの振動すら例外ではない。
 そのエネルギーが大きいほど、それが強制的に消滅させられた反動も大きい。行き場を失ったマナの活力は、それを引き起こした相手に返って行く。
 そして、今回はただの痛みではない。
 頭上から降り注ぐ雨粒が、氷粒となって場に降り注ぐ。
 それ自体にそれほどの威力はない。当たって肌につく傷も、せいぜい皮を削る程度、血が流れることもないだろう。
 だが、それでも目に入れば視界を奪う。
 セリアはマナの霧に還りつつある敵を蹴り飛ばし、剣を露わにする……変則すぎる、抜刀。
 一瞬の暗闇が晴れたとき、敵の視界に飛び込んだのはかつての同胞。すでにその実態は希薄化し、輪郭すら薄れ始めている。だがそれでも向こうが透けて見えるほどには、まだ消滅はしていない。
 彼女はとっさのことに倒れこんで来た仲間を受け止める。最後の優しさだった。
 受け止めた身体から立ち上る霧が、薄灰色の背景とは逆に、美しさすら漂わせて視界に立ち込める。
 刹那、それが割れた。彼女息を飲み、そして二度とそれを吐き出すことはない。
 ぬかるんだ地面への踏み込みを翼で補助し、大上段に剣を振り上げた長い青髪。
 霧を断ち割った剣が、もろとも赤スピリットを両断する。

 永遠神剣第七位、『熱病』。
 全体として見れば低位ではある。
 しかしエトランジェの持つ四振りを除けば、後のスピリットの剣は、大陸中を合わせて最高が六位、下が九位。
 それをかんがみれば、一概に駄剣と切って捨てられるものでもないだろう。
 だがそれ故に、時に『熱病』はその名が示す通りの激しさでマナをセリアに要求する。
 セリアは未熟なスピリットではない。神権は上手く扱えている。この先も何か心に大きな傷を負わない限り、剣に飲まれることはないだろう。
 だがそれでもその熱は、時に確かに、セリアを掻き立てる。
 熱に浮かされたように剣を奮い、そしてそれを握る自分にもマナは与えられる。
 それは衝動であり、異常なことではない。……戦場に出れば、誰だって多少は熱に浮かされる。
 熱に浮かされている間は、考えも鈍る。敵を切る。スピリットを切る。割り切っているはずの罪悪感を、衝動に任せて軽くする。そうすればより剣の力を引き出せる。訓練を積んだ自分なら、その勢いに乗ったところで死ぬような危険もそうあることではない。感じるのは全てが終わった後の自己嫌悪だけで済む。
 だからセリアは、その時間が好きで、そして大嫌いだった。

 剣を持ったままその場に呆、と立ち、セリアは一度剣を振り払う。
 こびりついていた血糊が飛び散り、そしてマナとなって宙に溶けていく。
 見送った顔を、容赦なく降り注ぐ雨が叩く。
 追悼という感傷を演じている場ではない。ないことはわかっている。
 だがセリアはほんの一時だけ、それを眺めた。

 まだ戦闘は続いている。見たところ五分……いや、わずかながらこちらが押しているか?
 一瞬、場が猛然と熱くなる。
 ナナルゥの神剣魔法によって呼び起こされた強烈な炎が、降り注ぐ雨滴のみならず、その範囲内にいた敵の一部隊をまとめて消し飛ばした。
 ――バーンライト開戦。
 ラキオス王国の戦略研究室で、以前から起こるだろうと言われていた戦争。
 それでも、よく言えば楽観的な、悪くいえば暢気のんきな人間たちの分析で言えば、そのうちそのうちと言われて実現しなかった戦争。
 それは没落し、小国になりさがったラキオス王国の国力を鑑みてのことであったが、エトランジェの出現と、そして龍討伐によって得られたマナ――それが決定的な後押しとなって今、現実のものとなった。
 すぐに軍が編成された。警戒に当たっていた者。いまだ訓練課程にあった者。なけなしの戦力が集められ、その大部分が東側の平地からバーンライト首都を目指す。
 予想通り敵は裏をかいて来た。一見無防備になった、山道からのラキオスへの道。
 予備隊としてラキオス待機を命じられていたセリアとナナルゥに、当然の如く出撃命令が下った。
 盾になって死ね、そう言われているようなものだった。敵は正規の編成を組み、そして待ち受けるこちら側はたったの二体。
 マナが大量に得られたとは言え、それをエーテルに変換する施設や、技術者が決定的に足りない。
 防衛拠点となるラセリオにろくな防備態勢を敷くこともできずに、セリアとナナルゥは迫り来る敵を睨まなければならなかった。
 だが幸い、敵の足は鈍かった。
 何の感情も抱かぬまま死を覚悟したセリアだったが、まだ『再生』の剣は彼女を受け入れる気はなかったらしい。
 何度かの小競り合いをするうちに、リモドアを制圧した部隊のいくつかが、ラキオスを経由して援軍として到達した。
 ようやく、マシな戦力になった。
 ラキオス本国からの伝令。防御はこれまで、全軍反撃に転ぜよ。
 例によって、それまでラセリオを防衛していたスピリットへの慰労の言葉など、一片たりとも見当たらない。
 セリアは従順に、一言の文句もこぼさず、その指示に従って拠点を打って出た。

 ナナルゥの引き起こした炎の余波が消え去り、雨がまた戦場に降り注ぐ。
 その中で、影が躍った。
 降り注ぐ、水の中を泳ぐ……遠くに見える、青いポニーテール。静寂のネリー。
 白く翼を羽ばたかせ、先ほどの自分と同じ様に大上段へと振り上げる。
 それは本命で、陽動。
 後方に控えた小柄な身体は、頭上の影に目を取られた敵を見逃さなかった。
 ヘリオン・ブラックスピリット。
 その言葉によって紡ぎ出された暗黒のマナが、敵を絡め取り、言いようのない恐怖に包み込む。
 ひるんだときにはもう遅い。降下を始めたネリーの剣は、すでに外しようのない距離まで迫っている。
 そして彼女たちも幼いとは言え、スピリットなのだ。
 剣が地面に叩きつけられる。かつてそこと天の間にあったものは、二三度痙攣してそのまま倒れこんだ。
 霧が、立ち上り始める。
 成果を確かめ頷き合うと、二人の少女は別の敵に向けて駆け出していった。
 なかなかに、やる。見事な連携だった。セリアは冷静にその実力を分析し、そして思う。
 ――あのように、無邪気であれるのならば、いい。
 初陣を終えての第二戦。多少の自信も、度胸もついたのだろう。
 しかしいかに押し隠し、忘れようとしても――それは遠くから見ても判った――頷きあったその表情は未だ、戦い、スピリットを斬ることへの恐怖を完全に殺しきれてはいない。
 だが、セリアはそこに、確かに恐怖以外の物も見た。
 それは信念だった。彼女たち幼いスピリットは勝利を疑ってはおらず、そしてそのために振るわれる剣に意味があると信じている。
 自分とは逆だ。
 セリアは学んだ。戦いの技を、戦いの心持ちを。
 結果、学びすぎたのだろう、と彼女は思う。確かに戦うことには慣れた。敵を斬ることにも恐怖はない。そして恐らくこのまま行けば勝利を収められるだろうとも確信している。
 だが、その先にあるものは?
 幾たび勝利を重ねれば、自分は敵を斬らずに済むようになる?
 歴史に学べば……自らの、スピリットという種が現れて以来、その種の歴史と大地の歴史はほぼ同一となる。
 戦乱、後、わずかな平穏、そしてまた戦乱。
 この戦闘には勝てるだろう。だがその次は? その次の次は?
 そしてその意味もわからないまま全てに勝利して、その先に自分たちに何があるというのだ?
 セリアは戦いに恐怖を抱いてはいない。
 だが、その戦いを終えて得られる勝利には・・・・・・・・・・・・・・・・疑問を消せないでいる・・・・・・・・・・
 いかに自分たちが戦を征しようと、その先にまた戦乱が待ち受けるのであれば、この勝利は一体どれほどの意味を持つのか。
 思考を蝕む熱が去れば、それは冷える。
 考えることが許されないスピリットであるからこそ、セリアは冷笑を押さえきれない。
 だから、あの二人が羨ましい。妬ましさすらある。

 セリアは一度、翼を広げる。
 そのまま宙に駆け出した。
 かつてそれは本当に翼だった。空を泳げばどこまでもいける気がした。
 だが彼女は知ってしまった。自分の価値を。翼の意味を。
 結局のところ、それはただ移動のための道具でしかない。
 自分たち……いや、自分には、か。
 セリアはふと思い直し、口に出さない独り言を改める。
 未来を疑わない幼いスピリット……彼女たちまで自分と同じように決め付けるのは、忍びない。
 だから、自分にはせいぜいこの程度がお似合いなのだろう。
 いかに宙を泳いでも、それが空にまで届かないのなら。
 例え翼があっても、それは戦乱に包まれたこの大地では、重い大気の底を這うようなものでしかない。
 いつしかそれが変わるのだろうか? 一体誰が変えてくれる?
 ふと脳裏をよぎる顔、異邦人の隊長。
 まだ話したことはない。だがあの顔を見る限り、深い苦悩の表れ。無邪気さの証拠だ。
 セリアは頭を振る。そんなことを今考えてどうなる?
 そのまま敵陣に踊りこんだ。沸き起こる衝動。吐き気がするほど心地がいい。
 セリアはそれに逆らわず、再び剣を振り上げた。

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