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 ファンタズマゴリアでも、雪は降る。

 高い山に登ればその頂には常にあるし、寒ければ恐らくどこにでも降る。

 そこに住む人間にとっては、それは当たり前のことである。

 寒くなるから、雪が降る。

 なぜなら水は凍れば氷になるからだ。

 つまり雪というのは凍った雨である、と言うことを知っている。

 これは後の話だが、その程度のことをこの世界の人間は理解しているし、そう言った知識を与える教育機関というものも、この世界には存在している。

 

 その雪を、年中豊富――とはおかしな言い方だが、抱えている土地がある。

 大陸北西部、旧ソーンリーム自治区。

 特に語るべきところではない。語らねばならぬことは、教育機関の歴史の講義にでも行けばいい。

 あるいは街中でもいい。統一間もない今時分なら、その手の話には事欠くことは無いだろう。

 だから、ここでは言わない。

 あるのは雪と、それに埋もれるようにして生きる領民達のみである。

 ソーンリームは閉鎖した土地である。

 西の海岸は流れるように北へ続き、やがて北端となって閉じる。

 南は荒々とした砂漠に面している。出口はここ以外に無い。

 何故なら東は急峻な山脈に閉じられている。よほどの事情でもない限り、ここを越えようとする者はいない。

 そして積もる、雪。時にその領は人の丈を超え、すぐ隣の家を訪ねるのにも雪を乗り越え、踏み固めるか、あるいはモグラのように掘って進むしかない。

 天然の要害、と言えば、聞こえはいい。

 しかし概して言えば、暮らすには不向きな土地である。

 そのため自然人の出入りには乏しく、閉鎖的になる。

 領土を目的としてわざわざここに攻め入り、制圧しようとした者も、恐らく無い。

 多少の寒さに耐えられるなら、隠遁生活には向いている、とは言える。

 それはともかく、小国から身を興した女王がこの大陸を統治する今、この地方にあるのは雪だけ、と言っていい。

 それが、山脈を越えればない。

 おかしなことに、その山脈によって隔てられたサルドバルト、イースペリアと言った平野地帯には、それほど雪が積もるということがない。

 ――はて、何故だ?

 と思う者はいない。

 もしかしたら山脈うんぬん、吹き付ける風がどうたらと言った具合に研究もなされているのかもしれない。

 しかし事はそこまで真剣に考えるまでも無い。

 これまでそうだったから、そうなんだろう。

 それは常識であり、疑うものではない。

 古来常識に疑問を抱く者は変人と言われる。

 もしくは馬鹿と。しかしそこから一歩隔てたところに立てば、天才と称されるかもしれない。

 自分がそのどちらかと思いあぐねたなら、この新しき大陸王国の首都に赴き、大賢者と言われる者を探して門下に加わるがいいだろう。

 最も、その師事の中で果たして天才とはなんだろうかと新たな疑問を持つことも、多少は覚悟しておかなければならないだろうが。

 雑談になった。

 

 一度「雪」が降れば、辺りは一面、その白粉に塗り込められる。

 しかし永劫にそのままかと言えば、多くはそんなことはない。

 やがて雲が去り、日が照れば、「雪」は融け、或いは地に染み、或いは川に流れて消え去る。

 よほどの高山の頂か、或いは極限られた地域――それこそソーンリームのような――以外は。

 

 長い間降り積もり、大地を閉ざしていた「雪」が融け去った、その後の物語である。

 

 

 オルファリル・ラスフォルト――レッドスピリット。

 かつて戦争に参加し、縦横に剣を振るい、魔法を放った。

 あれから数年、年の頃は早、少女。

 ――当時に於いては、幼女と称されるべきだった。

 珍しい事ではあったが、異な事ではない。

 かつてこの種族は戦争の要であり――いや、ごまかしはよそう。

 彼女達、スピリットと呼ばれる種族こそが戦争のほぼ全てであり、その道具となって戦わされた。

 求められているのは年齢ではない。能力である。

 いかにあどけなく、年端の及ばずとも、戦うに足るだけの力があると判断されれば、戦隊に組み込まれる。

 それがこの世界の戦争だった。

 数百年前、ふと現われて定着したこのシステム。

 誰も疑問にさえ思わず、連綿と受け継がれてきた戦争形態。

 だがつい数年前、その伝統にも終止符が打たれた。

 システムを持ち込んだ悪意ある「異邦人」達、その存在の発覚。

 大陸全土からの命の搾取。その企てを未然に防ぐことで、戦いに赴いたスピリット達は僅かな未来とともに、初めて人として認められる命を手に入れた。

 以来、この地に大きな戦乱はない。

 あると言えば、旧敗北国で「いい暮らし」をしてきた郎党の一部が、時折思い返したように亡国の旗を掲げる程度である。

 それは旧来の戦争ではない。

 人――人間が武器を取り、戦う。

 そこに、かつてのように神剣を振りかざすスピリットの姿はない。

 まれにあるとしても、反乱軍の中に見られるのは、せいぜい在りし日には三流訓練士としてうだつの上がらなかっただろう者の手にかかった弱小のスピリットである。

 それは人間の技術に毛の生えたような戦法しか知らなければ、「戦争」を生き残った統一王国の敵ではない。

 だから例え反乱が起こっても、王国軍は精鋭を持ってこれに辺り、そう言ったスピリットは可能な限り捕縛、後は首謀者の陣に文字通り飛ぶように駆け込んで叩きのめす。

 そのように、速やかに鎮圧される。

 死者は最小限に押さえると言うのが、徹底した方針である。

 

 オルファリルはそういった、鎮圧行動に参加することはなかった。

 これから先にあるかどうかは解らない。

 それは彼女が決めることだ。

 こう言った雑事を引き受けるのは、大抵は彼女の二人の姉――

 

 エスペリア・ラスフォルト――グリーンスピリット

 ウルカ・ラスフォルト――ブラックスピリット

 

 この二名である。

 もともとスピリットという種族に血脈はない。だから正確にはこの二人は姉ではない。

 しかし血のつながりがないからこそか、オルファリルを含めたこの三人は結束が強い。

 住居も一緒である。さすがに仕事があれば時間の合わないことも多いが、それでも三人がそろう時は、必ず一緒に食事をする。

 何故か、オルファリルには昔から家族への願望が強かったようだ。

 だから、二人を姉と呼ぶ。二人も喜んでそれを受け入れる。

 この三人は、誰がどう見ても、家族だ。

 

 大抵の場合、実際の戦場にはウルカが立つ。

 かつて漆黒と大陸中で恐れられた彼女の翼は、今はその心を映すかのように一点の穢れもなく、白い。

 清楚、と言ってもいい。

 もともとこの種族の特徴として皆、例外なく美しい姿、顔立ちを誇る。

 その中でもウルカは格別だ。

 神剣という武器。そして身を守るための防具。

 それらの無骨な武具に守られて、その美しさは微塵も霞むことがない。

 それどころか逆に凛として引き立たせ、凄みをましてなお一層の輝きをほこる。

 また讃えられるべきはその外見だけではなく、彼女は武勇に於いても誰をも凌ぐ。

 その物腰や刃の軌跡も、時に美しいとさえ思わせる。

 女性として、武人として。二つの美の頂点に届こうというガロ・リキュア最強のカード。

 その彼女が鎮圧軍を率い、戦場に赴いて名乗りを揚げ、軽やかに舞い出で、翼を翻す。

 と――

 味方の士気は上がる。

 これが我が軍の将。

 なんと美しいことか。

 なんと頼もしいことか。

 ――勝てる。

 敵の士気は下がる。

 あれが、ウルカ。

 ダメだ。

 やはり、最初から無謀だったのだ。

 ――勝てない。

 大抵はそれで決着が付く。それほどまでに彼女の武名は高い。

 

 しかし、武名だけを戦場に持って行っても効果は薄い。

 実際に彼女が現れるからこうなのだ。

 そして、それを送り出すのがエスペリアである。

 反乱軍というのは、もとより不利な立場にある。

 領土は無い。兵もいない。軍資金など微々たるもの。

 彼らは王国を倒そうとはまず考えない。単に私利私欲の郎党である。

 もっともらしい義を掲げ、近辺の村を襲い、弱者をいたぶり、略奪し、己の強さに酔う。

 そしてある程度体裁が整ってきたら和睦を申し入れ、自分達の自治権を認めさせる。

 大抵はそういう腹積もりである。

 言ってみれば野盗となんら変わりない。

 そして平和に慣れつつある王国にとって、こう言う連中ほど危険なものはない。

 端からこちらの軍隊とやりあおうなどと言う気はない。

 だがいたずらに時が過ぎれば、被害にあうのは無辜の領民たちである。

 よって、情報を掴み次第潰さなければならない。

 しかし軍隊の行動というものは概して面倒なものだ。

 兵は鐘一つで集まる。平時よりウルカが先等に立って鍛えなおしている王国軍精鋭。

 一度戦場に立てば、勇敢、優秀であることは間違いない。

 しかし兵と言えども人間である。荷物や食糧が無ければ、行軍はできない。

 もちろんこのような事態に対して備蓄はしてある。

 だがそれにも限りがあり、悪知恵を働かせ、2つ3つと呼応して蜂起されては、間に合わないこともある。

 そしてそのような時にこそ、エスペリアの真価が発揮される。

 王国財政と言えど、人が思うほど裕福ではない。

 そして商人とは、有事の際――つまりはこの場合反乱などだが、そう言ったことが起これば、ここぞとばかりに値を吊り上げて売り込もうとするのである。

 別に商人があくどい訳ではない。経済学に照らしてそれは合理である。

 しかし王宮宝物庫のリストには、打ち出の小槌など載っていないのだ。

 故に交渉の場には、大抵エスペリア――女王陛下総合政務補佐官が臨席することとなる。

 女王陛下総合政務補佐官、平たく言えば女王代理とも言うべき地位の者が自ら臨席し、まずはプレッシャーを与える。

 ところがその次には手ずから茶を淹れ、しかもその茶がとんでもなく旨い。

 そして終始一貫、優雅な物腰と、蕩かすような笑顔。

 これで、大抵の商人は篭ちる。

 あとはごりおしである。

 丁寧な言葉づかいと、優雅な仕草と、ほんの少しだけ王国の権威を掲げて、多少無理である注文を納得させる。

 汚いやり口と言えばそうである。事実エスペリアも初めは渋っていたが、何度も繰り返すうちに半ばヤケになって慣れてしまった。ついた二つ名が「魔性の天使」。

 人は成長するものである。

 良いか悪いかは別に置く。

 

 かくして外内の両雄により、これまで反乱が大規模に広がったことはない。恐らくこれからもそうだろう。

 ガロ・リキュア統一王国は平和を保っている。

 だから、まだ幼いと言えるオルファリルも、戦争に駆り出されること無く、かねてからの望みであった教育機関に身を置き続けていられるのである。

 

 

 ここで余談を挟めば、彼女達、スピリットが住む館には、空き部屋がある。

 それほど広くない館なのだが、部屋換え等をしてもどうしても誰も入らない部屋が、二つほどある。

 何故、と聞けば彼女達は困る。

 さて、何故だろうと首を傾げる。

 どうせ誰も使わないなら物置にでもすればいいのだろうが、それにも頷かない。

 物置なら既にある。それは最もな理由だが。

 なら、空き部屋のままなのは何故か。

 しかしどれだけ考えても、やはりその理由はわからない。

 ――ただ、なんとなく大切な気がする。

 これは、言葉にはならない。それまで誰が使っていたという訳でもないのに。

 だが、やはり彼女達がそう感じるのならば、そうなのだろう。

 そうして今もスピリットの館に、依然として空き部屋は二つ、ある。

 

 

 オルファリルの得意科目は、国語と体育、それから家庭科。

 物語を読むのは好きだ。特に朗読は得意で、その声の美しさはまるで歌にも聞こえると教官が誉めそやすこともある。

 体を動かすのも負けてはいない。もともとがそういう訓練を受けて育ったのだ。走っても、球技でも、体操でも、彼女は群を抜いている。この時間は彼女の独壇場だ。成長過程に入って順調に発育しつつあるその身は、女子の羨望の眼差しと、男子の微妙な眼差しを常に受けている。

 また達人の姉にはまだ及ばずとも、彼女の家事全般の能力は高い。日頃鍛えられた技は伊達ではない。その実力に満足することなく姉に追いつくことを当座の目標としているが、その姉も日々自分の技を研究し、磨きをかけている為、その差が思うように縮まらないところが今のところの悩みと、挑戦しがいのある目標の一つである。

 返って不得意科目は数学。あるいは座して聞くことの全般。

 通い始めた頃は新鮮だったが、とにかく考えることは苦手、というか注意力がない。

 初めは面白いと思っても、そのうちに飽きる。飽きるからつい、教官の言葉も聞き漏らしがちになる。

 だからまた解らなくなる。解らなければ面白くない。だから飽きる。

 絵に描いた様な悪循環。

 本人はあまり気にしていない。むしろ気にしているのは保護者の姉の方である。

 時には自宅で、半ば姉に監禁されるように教わることもある。

 その度になんとか形になる辺りまでは盛り返すのだが、この先いつ自分がさじを投げる日が来るだろうと、姉はいささか戦々恐々とした日々を送っている様子だ。

 とは言え、ここまではどうにかこうにか来た。

 オルファリル・ラスフォルトの新生活は、まずまず順調であると言っていい。

 日が昇っては暮れ、そして昇る。

 そして今日、また新しい一日が始まる。

 昨日まで続いた雨雲も去り、太陽がのぞいている。

 いい日になりそうだ――そう思う。

 オルファリルはベッドから出ると、軽く伸びをして髪を梳かすために鏡台の前に座った。

 

 ――やはり、いい日になった。

 オルファリルは教室の窓枠に腰掛け、そう思う。

 今日の授業は、国語、体育、音楽、歴史、そして数学。

 まるで好物ばかりの入った弁当箱だ。

 問題は最後の数学である。最後まで口に放り込むのをためらっていた野菜炒めのなかのリクェム。

 しかし。オルファリルがリクェムを苦手だったのも数年前の話。

 今日の数学。宿題が出なかった。

 宿題がない。なんと素晴らしいことだろう!

 これで次の授業までは薔薇色だ。何も臆することなく遊ぶことができる。

 隣で同じ様な姿勢を取る友達との話題も、まずそのことが上る。

 ――ちなみにその友達も、数学はあまり得意でない。

 そうして過ごす、無為な時間。

 オルファリルにとって、それが何より今日をよくしている、と感じる。

 教育機関に入りたい。それはいつ頃から持ち始めた願望だろうか。

 戦争が終わって自由になったとき、彼女が希望したことはそれだった。

 幸い王城にはコネがある。入学の手続きもすんなりと済んだ。

 新しいことを知るのは楽しい。それは本心だ。時々わからないこともあるけれど。

 だがそれより大きな収穫は、こうして友達と過ごす、そんな時間を手に入れられたことだ。

 勝ち得た、と言うべきだろうが、彼女自身にその自覚はない。

 ただ、幸せだと感じる。

 気を抜けば、知らないうちに流れてしまう。

 それほど自然に、オルファリルを包む優しい時間。

 だからふとそれを思い返したとき、ただ、やはり幸せだと感じる。

 穏やかに、まだ日は高い。

 ――やっぱり、いい日になった。

 特別でもなんでもない、当たり前に流れていく、人間の友達との無駄話。

 自然と頬に笑みが浮かび、そしてそれに答えて微笑み返してくれる友達が、今すぐ傍にいる。

 ――だから、明日も多分、いい日になる。

 背を暖める日差しは、彼女の胸にも届いている。

 

 窓から入る陽光が、オルファリルの髪を照らす。

 夕日の時間にはまだ早い。

 しかしその髪はまるでそれに染められたように赤い。

 ――レッドスピリット。

 その名が示すとおり、彼女は髪と、瞳の色にその特徴を示している。

 もっとも。

 と、その友達は思う。

 彼女の髪を例えるのなら、夕日のような儚いものではなく、例えば祭のかがり灯のような華やかな表現こそが相応しい。

 左右の頭頂から無造作にまとめた真紅の束が、流れるように下に落ちている。

 髪留めは黄色のリボン。それ以外の飾り気はない。

 無くても十分だ。むしろ余計な飾りはその美しさをそこねるのではないか、と思わせる。

 真紅のツインテールと言えば、既にこの学校の名物と言っていい。

 それに、同じような真紅の瞳。

 常に活発で、輝きを失わない。まるで宝石か何かを埋め込んでるのではないか――

 そう思ったことも二度や三度ではない。

 その紅とコントラストを描く、肌の白さ。

 清楚なワンピースがそれを包み、その背後から陽光が照らしている。

 オルファの隣にいて、良かった。

 その友達は、そう思う。

 もし今このオルファをまん前から眺めたら、きっとそのまま見とれてしまうに違いない。

 

 オルファリルは気取らない。

 気取るということを知らないのかもしれない。多分まだ、恋も知らない。

 「黙ってれば美人」という表現もあるが、オルファリルもその一派だろう。

 それはがさつという訳ではない。マナはオルファリルに良き姉を与えた。

 が、元気一杯という表現がこれほど似合う少女も珍しい。

 そのような活動的である姿も、オルファリルの魅力の一面、いや、大部分だ。

 しかし今、窓枠に腰掛けて話をしている最中。

 例えばふと髪を掻き揚げ、それが後に流れる。

 それが戻って来ると、今度は一瞬だけ隠れていたうなじがまた現われる。

 そしてそう言った何でもない動作が、何故か目に焼きつくこともある。

 ついさっき、まん前でなくて良かった、と思った友達は、その仕草に不覚にも見とれる。

 それはちょっとした発見というか、そんなものであり――

 その直後、自分を見つめる視線に気付いたオルファリルに、「何?」と笑顔で訪ねられ、慌てて「なんでもない」と誤魔化さざるを得ない、そんな状況に陥る。

 いつも元気一杯なオルファリルは、そのように同性の友達を困らせてしまうような一面を確かに備えつつある。

 おそらくそれはこれからもどんどん大きくなっていくだろう。

 そのことを思い、はぁ、と。

 友人は、何故そうするのか自分でもわからないまま、一つ溜め息をつく。

 

 女王の命により、国中のあらゆる機関からスピリットに対する差別は排除されてきた。

 しかしここに一例、誰もが苦笑しながら認めざるを得ない差別がある。

 それは、それまでとは別種のものである。なぜならそれは新しく、曰く、

 ――文化祭におけるミスコンテストに於いて、スピリットの参加を禁ずる――

 これは、認められなければならないだろう。恐らくこの点でも、彼女達は遥かに人間を凌駕するに違いない。

 そんな条文をふと思い出しながら、友達は、傍らのスピリットである学友を囲んで取りとめもない話に花を咲かせる。

 そんな、穏やかな時間――

 

「ほう。なるほど。つまり君は妖精趣味というわけか」

 

 それを破る、一つの言葉。

 わざとだろう、一際高く発せられた声は、窓際の少女達にも届いた。

 教室の一角。見れば、男子の何人かが集まって一人の机を囲んでいる。

 机に座っているのは、気の弱そうな男子生徒。

 それを取り囲んでいるのは、貴族の息子を筆頭としたグループ。

 この学校は特殊な学校で、平民、貴族を構わず、広く門戸を開いている。

 平民にとっては少しでも上流階級に触れさせ、また貴族からすれば下の者と触れることで見識を広めさせる機会になるとのことで、そこそこに人気がある。

 どの商人の子、誰某公爵の子弟などという垣根を越えて教育する。この学校が掲げる理念である。

 しかし、それも建前。

 実際に違う階級の子供達が打ち解けることなど、まずない。

 貴族の子供は、生まれ持った気位から、やはり学校内でも貴族として振舞う。

 大抵の親はそれを認めている。奨励しているとも言っていい。

 つまり今のうちから下々の者に家の威光を見せ付けておけ、ということだ。

 対して庶民の子供達の反応は、二つに分かれる。

 一つは学校の教育方針に従い、少なくともここだけは皆学生と言う同じ立場であると、言葉で、行動で主張するもの。

 もう一つは、今のうちから媚びへつらい、将来に向けてのコネを作っておこうと言う者。

 自然そういう者達は貴族の、まるで従者のように振る舞い、追従する。

 今男子生徒の机を囲んでいるのは、そういう一派である。

 一人の貴族と、その取り巻き達。

 机で俯いているのは、珍しく貴族に対立も追従もしない、恐らく将来は学者にでもなりたいのだろうか、そういう男子だ。

 

「おい、聞いたかお前達。彼はオルファリルが好みだそうだ」

「ええ、バッチリと。ヘッ、妖精趣味かよ、気持ち悪ぃ」

「ガリ勉の運動オンチ、ほんとに救いようがねえな」

「いやいや、それを言ったら可哀想だ。人間にもてないなら、やはりスピリットに走るしかないだろう?」

 

 口々に男子生徒を罵る貴族の子弟――リュケイム・クオルシスと、その取り巻き達。

 それは、窓辺で語らっていたオルファリル達のところにも届くような大声だ。

 いや、届くような、ではない。

 わざわざオルファリルに聞かせるようにそのようにしているのだから。

 

 レスティーナ統一女王の、スピリット解放宣言。

 その瞬間、スピリットはもはや戦奴ではなく、またその出生からの呪縛からも解き放たれ、心身共に自由となった。

 ――公式には。

 しかし政府から公式にお触れがあったからといって、すぐに従うことができるわけではないのも民衆、人間である。

 なぜならまず、知識がない。

 それまではスピリットに対しては、人間に従う、恐ろしい力を秘めた道具、と言った程度の認識しかなかった。

 すべからくスピリットは政府の組織、設備で管理され、また国の財産であるからみだりに手を出せば極刑が待っている、という存在。

 ありていに言えば、馴染みがないのだ。

 それがいきなり解放されて、人間と同格の扱いになる。

 皆、怒るというよりは混乱の方が大きかった。

 

 比較的受け入れが早かったのは、子供達だ。

 特に幼年に近ければ近いほど、その度合いは高い。

 それまでの常識にとらわれない、柔軟な理解――などと言わずとも、要は刷り込みが甘かったため、スピリット達が危険なもの、卑しい者ではないと実感するのに向いていたのである。

 女王がオルファリルの入学を許可したのも、こういった背景がある。

 それは確かにオルファリルを政治的な道具として用いる、言ってみれば汚いやり方ではあったが、確実に功を奏している。オルファリル自身がそれを気にしていないのが何よりの幸いだ。

 そして子供達が実際にスピリットというものに触れ、それがどういうものだったかを偏見のない目で親に伝えれば、大人はやはり、身内の言うことならば信じてみようか、という気分になるのである。

 

 ――スピリットはいいよ。綺麗だし、礼儀正しいし、その上なにしろ公務員だからちゃんと金を払う。その辺のババァどもがいくら喚いたって少しもまけてやろうなんざ思わねえが、あいつらが相手なら、ちょっとサービスしてやろうか、なんて気にもなるってもんよ。

 

 これはエスペリアが良く利用する青果店主の声である。

 多分に私情が含まれてはいるが、数年経つと、民衆の中にはこう言う受け止め方をする者が多くなってきたのも事実だ。

 

 しかし、女王と言う太陽に最も近くあるはずの山。

 貴族達は、この例ではない。

 それは頂に近づけば近づくほど、偏見の氷が溶ける兆しが見えない。

 何故か、と問われれば、それは困る。

 貴族だからというのが、最も適当な答えであろう。

 貴族に求められているのは、貴族らしさである。

 もちろん地位によって役職は与えられるが、彼らがその職務遂行能力で評価されることはほとんどない。

 彼らに要求されるのは、いかに貴族らしく考え、振舞えるか。

 早い話が仕事の腕などはどうでもよく、衣服の上等さや歌、遊戯の上手下手で判断される。

 そしてそう言った生活習慣は、既に彼らの一部、いや、すべてと成り果てていた。

 先王時代、王の不況を買い、身分を平民に落とされた貴族は何人もいた。

 彼らがどうなったか。

 突然土地も屋敷も失い、それ以前に拠り所であった「貴族である」ということさえ失った貴族たち。

 それが庶民の生活などできるだろうか――できるわけがない。

 貴族でない民衆は、働かなければ収入がない。収入が泣ければ飢える。飢えれば死ぬ。

 それをわかっているから、庶民の子供たちは小さな頃からお使などの家事で、小さいながらも働くことを覚える。

 だが彼らにはそれがわからないのである。

 自分達の仕事は優雅にしていることであり、自ら食い扶持を稼ぐなどとは考えられないのだ。

 だから残り少ない金を、新たな官位を得るための賄賂に贈ったり、その一方、自分たちからすれば慎ましやかな、端から見れば遊興の生活を続けたりする。

 結果、どうなるか。

 持ち出すことを許された幾ばくかの金や宝石。これらはすぐに消え、やがて路頭に迷うことになる。

 そうしたものの多くは、一年かそのくらいには、皆行方がわからなくなった。

 恐らくは飢えて死んだか、その前に自殺したか、それとも――女であれば娼館に売り飛ばされたか。

 もちろん生き残ったもの達もいた。

 例えば、娘がいた者は幸いである。

 容姿か性癖、あるいはその両方に難があり、嫁の候補がいない貴族か、その息子。

 そこに娘を差し出す。

 そうすれば姻戚として、また貴族階級に復帰できる。

 その一方、娘こそは不憫である。妻であるといいながら、実際には買われた女。召使か奴隷という扱いを受けるのがほとんどだ。

 しかし、微々たる贈りものと政略結婚で手に入れた地位。たかが知れる。

 貴族と言っても領地はあるかないか。それまで地位が高かった者ほど次第に首が回らなくなり、やがては嫁ぎ先でも厄介者とされて離縁される。

 せいぜいが庶民になるまで数年、数十年の延命策なのだ。

 あるいは順応し、庶民として生きようと努力した者も皆無ではない。

 しかしそれらも元は貴族。その多くが鼻の高さばかりが目に付いて、やがては困窮を極めるようになる。

 そして庶民の生活というのは貴族から見れば、成功してもとてもではないが送れたものではないのである。

 そう言った者達を多く見ているから、王が変わった今も、貴族達は自らの地位に固執する。

 だから、その貴族の地位を揺るがすスピリットの解放――身分制度の改変を認めたくないのだ。

 その思想は貴族の家に生まれ、貴族として育った少年、少女達にも連綿と受け継がれる。

 だからオルファリルの通う学校にも、時としてこうしたあからさまな嫌がらせが目に付くのだ。

 

 

 ――またか。

 オルファリルは眉を下げる。

 入学した当初、方々から奇異の目で見られたことは記憶に新しい。

 それでもこうして今は、友達もできるほどに打ち解けた――と思う。

 それは、初めは入学の推薦状――女王陛下の御威光あってのことだったが、しかしその実は、ここに集まった子供達のほとんどが、話せばわかる人たちだったからだ。

 つまり、まず話し掛ける。そうすれば、相手も話が通じる相手だ、と解かる。

 次に、話してみれば、話の内容、嗜好、物事の考え方が人間と変わらない、ということが解かる。

 とすれば、何故彼女を差別しなければならないのか? する必要があるのか?

 そのように、それまでのスピリットに対する偏見を疑問に思うことのできる人達だったのである。

 ――こう言う、貴族の手合い以外は。

 オルファリルがこの教育機関で学んだことの一つは、貴族を貴族たらしめているのは貴族である、という過剰なまでの自意識であり、それは他を見下すこととほぼ同義だということだ。

 そしてそれは生まれたときからなされた家庭内での洗脳とも言うべき教育の賜物であり、地位の高さに比例してそれを解くのは困難となる、ということでもある。

 もちろんここに集う学生達のほとんど――貴族というのは国民の中でもかなりの少数派である――は若者らしい素直さで貴族達のそうした鼻の高さを否定するか、或いは辟易するに足るだけの知力があり、彼らとは距離をおこうとする。

 結果、貴族と庶民の間には教育方針に関して深い溝が深まることになり……それはいい。

 厄介なのはその貴族に迎合する庶民もいる、ということである。

 オルファリルの入学は、この学校の生徒社会に於いて、一つのシンボリックな現象となった。

 それは貴族とその取り巻きがオルファリルを排斥しようとし、貴族が気に入らない生徒達はオルファリルを受け入れようとしたことである。

 乱暴に言えば、オルファリルが反貴族の神輿に祭り上げられた、とも言える。

 対して一般市民の中にも、スピリットに対しての偏見を拭えないものたちは、確実にいた。

 身分の高低はあるが、統一された攻撃目標があればまた、万年雪を被った者達が寄り集まるのも自然であった。

 そしてその中でも特に貴族への憧れが強い者は、自称親衛隊、いわゆる取り巻きとなる。

 貴族について回ればなにかメリットがあるのか。恐らく彼らにはあるのだろう。

 それは自然、国立の機関であるから、貴族であるということは、王制であるこの国家に於いては、教師の覚えもいい。

 その近くにいれば、自分も何かの便がある、と思っているのだろうか。

 或いは単に貴族の空気を吸いたいだけなのかもしれない。

 そして恐らくこの可能性が一番高い。

 憧れの貴族の近くにいることで、その覚えを良くして仲間に入り、貴族のように振舞う。そのこと自体が目的なのかもしれない。

 そう考えるならば、彼らはむしろ純朴である。

 悪い言い方をすれば愚鈍でもある。

 貴族が貴族らしく振舞えば孤立する。孤立すれば無力になる。

 しかし、三人寄ればモンジュの知恵、とは、たまに顔を見せるソーンリーム在住のエトランジェの片方がある時言った言葉である。

 モンジュとはハイペリアにおける知恵の神様――エトランジェ曰く仏様だが、オルファリルにその違いを理解することは難しい――のことだが、とにかくどんな人間でも三人集まればその神様に届くようないい考えが浮かぶ、ということだ。

 スピリットであるオルファリルが見る限り、人間が三人寄ろうが五人寄ろうがマナの動きが活発になるようには見えないが、どうやらその言葉は本当らしい、とは実感できる。

 実際宿題だって一人でやるよりは姉に教わったり、友達と一緒にやった方が終えるのは早い。し、なにより――

 こうして徒党を組んで考えられた嫌がらせは、実に効率良くこちらに不快感を与えてくる。

 

「ほらほら、どうしたんだい? 君の愛しのオルファリルがこっちを見ているよ」

「おい、その顔を上げて見つめ返してやれよ。もっとも、俺には出来ないけどな」

「まったく。なんでよりにもよってあいつと同じクラスなんだ? 汚らわしいスピリットに見られるなんて、考えるだけでも気持ち悪い」

「……だったら、教室から出て行ったらいいじゃない」

 

 静かに、その罵倒を遮る。

 同時に、三人組がこちらに首を向ける。

 座ったままの男子生徒は、項垂れたままで小さく震えている。

 羞恥か、怒りか――

 カチン、と、来た。

 窓枠から背を離して、オルファリルは一歩前に出ようとする。と――

 手が後に引かれる。

 振り返ってみると、さっきまで話していた友達が心配そうな顔でその手を握っていた。

 オルファリルは小さく微笑み――

 大丈夫だよ、と。

 そして柔らかくその手を振り解いて、男子生徒の机に向かった。

 

「おや、オルファリル。何かな。察するに、どうやら怒っているようだが」

「ええ、確かに。怒ってるといえば怒ってるわね」

「ほう。それは済まない。しかし僕には君が何故怒っているのか見当もつかないな。良ければ教えてもらえないか?」

 

 リュケイムとその取り巻きは、ニヤニヤといやらしい笑顔でオルファリルを睨めつける。

 対してオルファリルは毅然とした表情を作った後――

 

「……あんな大声で話してて、聞こえないとでも思ってたの? 前々から思ってたんだけど、今後の貴方の為を思って言ってあげる。ホント、つくづくマヌケだね、リュケイム」

 

 そうして相手を心底哀れむような顔で両手の平を肩まで持ち上げ、長々と溜め息を吐いて見せた。

 オルファリルの学習事項その二。

 嫌味を言うのに一々皮肉を交えてくる「頭のいい連中」には、同じ様な手段よりもむしろ直接的な一撃の方が有効である。

 仕草はソーンリーム在住エトランジェのもう片方から引用した。優雅な姉はこの物まねを好まなかったが、これはこれで面白いのでやめられない。

 案の定目の前の貴族はその言葉に一瞬頬を引きつらせ、しかし表面上は再び優雅な笑みを取り繕う。

 

「これは、失礼した、オルファリル・レッドスピリット。何、ちょっとこの間、この彼が妖精趣味――ああ失礼、早い話が君などに好意を抱いていると聞いたものでね。やはり民の上に立つ者としては、そう言った悩みも聞いた上で一つの恋が叶うように協力してあげようと思った訳だよ」

「ハッ、喜べよスピリット。妖精趣味なんて変態野郎、お前にゃピッタリの相手じゃねえか!」

 

 援護するようにまくし立てる取り巻きその一を、オルファリルは一瞥だけで黙らせる。

 

「そんなの大きなお世話。第一貴方達、他人の心配してる暇なんてあるの? 少しは鏡を見て見なさい。心が顔に表れて、本当に――」

 

 そこで一つ息を吸って、

 

「醜いったらありゃしない」

 

 致命的威力の一言を吐き出した。

 オルファリルの学習事項その三。

 貴族の最も嫌う言葉の一つ――醜い。

 何事に於いて優雅と美を重んずる貴族達にとって、醜いということは耐えがたいものである。

 例えばそれはもちろん人の容姿だし、或いは醜い歌声だったり、あるいは醜い成績表だったりする。

 それを、貴族の息子に面と向かって言ってやる。

 リュケイムにとってはこれ以上の侮辱はない。

 見る見る内に顔は赤くなり、両拳は握り締められてブルブルと震えだす。

 

「醜い――? 僕が、醜いだと――!?」

「だから、そう言ったでしょ? なんなら今の貴方の顔、見せてあげようか? ホラ、鏡」

「ふざけるな!」

 

 オルファリルがポケットから取り出した手鏡を、リュケイムが振り払う。

 彼女の手から弾かれた鏡は床に叩き付けられ、耳障りな音を立てて割れた。

 しかしそれも気にならない。オルファリルがその最期を確認するより前に、リュケイムがそれよりも耳障りな声で怒鳴りだしたからだ。

 

「ふざけるな、ふざけるなよオルファリル・レッドスピリット。いいか、僕は貴族だ。貴族なんだよ! 本来ならそれ相応の学校に通うべきなのに、それがただ三男だというだけでこんな学校に入れられて、あまつさえお前みたいな汚らわしいスピリットと同じ空気を吸わなければならなんて、屈辱以外の何物でもない」

「知らないよ、そんなの。文句なら家に帰ってパパにでも言えばいいじゃない。そんなにこの学校が嫌いならそれこそパパに頼んでその学校に転校させてもらったらいいんだし」

「うるさい! スピリットごときが偉そうな口を叩くな! 戦争で活躍した? それが何だって言うんだ! それだけのことで大きな顔をして、大体女王も女王だ! 狂ってるとしか言いようがない! 手が血まみれのスピリットを、人間と同等にあつかうなんて――」

「女王陛下と仰いなさい、リュケイム・クオルシス」

 

 鼻息の荒い罵倒を止める一言は、その声に比べて酷く小さかった。

 そして、酷く冷静で、冷淡だった。

 

「貴方の名を忘れて? クオルシス子爵が三子、リュケイム・クオルシス。貴族だというなら、そういう風に陛下を罵ることはどういうことか、解からないはずがないでしょう」

 

 その声は、教室中の空気を冷すには充分だった。

 いや、既にもとから白け切って白熱していたのはリュケイムただ一人だったが、その彼も、今のオルファリルには何か底知れない凄みを感じて黙らざるを得ない。

 リュケイムは、言ってはならないことを口にした。

 レスティーナお姉ちゃん――レスティーナ統一女王陛下。

 先王の時代から表面上はエスペリア達に対しても冷酷を装っていたが、その実スピリットに同情し、隠でオルファリルを部屋に招いて話し相手になってくれたこともある。

 オルファリルが教育機関に通うに当たり、女王の強力な後押しがあったことは、皆語らないまでも学校の中では有名な話だ。

 今でも教師の半分くらいはオルファリルをテストケースとして見ている。

 しかし、そのことを表立って自慢したことはない。

 入学して早々は、それこそ自慢のお姉ちゃんとして友達に話したことはあった。

 だが、後ろ楯を自慢するとは、どういうことか――それは、すぐ近くにいた例を見れば解かった。

 オルファリルに、女王の威を借りる意趣はなかった。

 それでも自分の背後に強力な権力がある、と示唆することは、人にはよく思われない。

 ましてや自分はスピリットである。スピリットであるからなおさら女王の威にすがろう、とは、オルファリルは思わなかった。

 レスティーナは機会を与えてくれた。なら、それに止めておくべきである。

 そうしてオルファリルは今の自分と、自分の周りの関係を勝ち得て言った。

 いくつもの誤解といくつもの偏見を自ら打ち破って、うららかな午後の談笑を手に入れたのだ。

 それはすべて自分のしたことで、レスティーナをないがしろにするということではない。

 一から十までレスティーナに頼りきりでは、それは通わせてくれたレスティーナの意にも反することになる。

 事実、オルファリルは学校に通える事に関して、レスティーナへの感謝を一日も忘れたことはない。

 そのレスティーナを罵倒する。

 それは絶対にされたくないことで、許しては置けないのだ。

 オルファリルも、初めのうちこそ軽くあしらってやろうと思っていた。

 が、もともとはレッドスピリット――情熱の化身とも言われる種族である。

 そのことを思うと、次第に感情の抑が効かなくなる――

 

「いい、良く聞きなさい、リュケイム? 私は大きな顔なんてしてない。あの戦争の時はああするしかなくて、それをできるのは私達だけだった。ただそれだけ。確かに私はたくさんスピリットを殺した。でもそれをさせたのは貴方達人間の方だよ。だからと言って私は貴方を責めることはしないし、責められる謂れもない。それに、私が一度でもその話で偉そうにしたことがあった? ないよね」

 

 凛とした声は、教室中に響き渡る。

 

「貴方のしてることは卑怯だよ。私に言いたいことがあるなら直接来ればいいじゃない。それで私が悪いって思えるなら素直に謝るし、直そうともするよ。でも貴方は違う。一々人を利用して、挙句の果てに女王陛下まで持ち出して、やってることはただの嫌がらせ。そんなの、私は絶対に……認めない!」

 

 そして、はっきりと自分を、自分の大切な考えを叩き付けた。

 その言葉に、わなわなと拳を握り締め、しかし何も言えないリュケイム。

 オルファリルの迫力に押され、同じく黙り込むしかない取り巻きその一。

 それと……

 

「……スピリットが……!」

 

 同じく拳を握り締め、オルファリルに迫ろうとする取り巻きその二。

 しかし彼も、

 

「……やるの? 今剣はここにないけど、私はオルファリル・レッドスピリット。良く考えた方がいいよ。本当にやる?」

 

 そう言って不敵に笑うオルファリルには、結局近づくことはできなかった。

 オルファリルはリュケイムに向き直る。

 

「私の言いたいことはこれで全部。どう、リュケイム? 今度はそっちの番。何かあるなら聞くけど?」

 

 あくまでこれは討論、ディベートだ――それを言い含めるような口調でオルファリルが訪ねる。

 当然、リュケイムに反論の余地などあるはずがない。

 

「……お前達、行くぞ!」

 

 結果として、彼はオルファリルと目も合わせることなく退室していった。

 遅れて取り巻き一、二も小走りで後に続く。

 

「待って、リュケイム」

 

 そのまま教室のドアをくぐろうとした貴族を、オルファリルは呼び止める。

 リュケイムは一瞬ビクリと背を縮み上がらせたが、態度だけは鷹揚に、渋々と振り返って足を止める。

 

「……まだ、何か?」

「うん。言い忘れてたの。貴方も忘れてるようだから言っておくわ。貴方が言うとおり、私の名前はオルファリル・レッドスピリット。でももう一つ、足りない部分がある」

 

 オルファリルは息を吸い込み、背筋を伸ばし、そして自分の胸に手を当てると、

 

「私の名前はオルファリル・ラスフォルト――レッドスピリット。それを忘れないで、リュケイム・クオルシス」

 

 ラスフォルト――その名の最後の1ピースが示す通りの気高さで、誰恥じることなくそう宣言した。

 もはや、美しいとさえ言える。

 誰にも反論を許さないし、許すつもりもない。

 三人は悔し紛れに舌打ちをしながら、そそくさとドアをくぐる。

 そして教室には、重苦しい雰囲気だけが残される。

 誰も、一言も発せず、微動だにしない。

 廊下からは野次馬だろうか、結構な人がいるように感じられるが、その喧騒もこの教室の前だけはひっそりと静まり返っている。

 その中を遠ざかる、三つの荒々しい足音。

 オルファリルはそれを耳で追い、やがて小さくなり、完全に聞こえなくなったのを確認すると、

 

「一昨日来いってんだ、バーカ!!」

 

 勝利宣言と共に、エトランジェから教わった威勢のよさで、一息でその空気を遥か彼方に吹き飛ばした。

 できる限りのしかめっ面で、もう見えない相手に舌をだして威嚇する。

 そこにいるのは冷淡なオルファリル・レッドスピリットではない。

 いつもの、元気一杯なオルファである。

 フッ、と、教室の空気が軽くなる。

 そして次の瞬間、活気と喧騒に満ち溢れた。

 あちこちから、果ては廊下までから、好意的な生徒(と言ってもこの学校の生徒はおおむねオルファリルに好意的だ、特に男子は)からの拍手や口笛までもが一斉に鳴り響く。

 

「あー、スッキリしたー!」

 

 照れ隠しに、もう一言吐き出すオルファリル。その頬は少し染まっている。

 そして軽やかに、窓際で待つ友達の方に向き直った。

 内心はそうではない。

 むしろ恐る恐ると言ってもいい。

 戦争が終わってオルファリルがしたことに、それまでのマナへの祈りに、自分が手にかけたスピリット達の冥福を祈る言葉を加えることがある。

 後悔はない。悔やんでも始まらない。『再生』は失われ、自分の手にかかったスピリット達が再生することも、もう、ない。

 しかしいくら祈っても、自分が同じスピリットを手にかけた事実は失われない。

 もちろん皆もそのことは知っている。知っているが、知っているからこそ、口には出さない。

 売り言葉に買い言葉だった――とは言え、その友達の前で自分の行いを認めてしまった今。

 頭が冷えるにつれて、そうした不安をオルファリルは覚える。

 が――

 

「オルファ、やったね!」

「すごいよ、尊敬しちゃう!」

「も〜、カッコ良かったよ、オルファ〜!」

 

 友達は、相も変わらぬ笑顔で迎えてくれた。

 ばかりか、我先にとオルファリルに駆け寄り、絶賛する。

 オルファは、キョトンとする。

 そして次に、困ったような笑顔を浮かべる。

 それから――躊躇うように、口を開く。

 

「うん、ありがとう。でも……皆、私が怖くないの?」

「え……なんで?」

「だって……さっきも言ったけど、私はスピリットを一杯……」

「でも、それは仕方がなかったんでしょ?」

 

 さすがにその話題は彼女達にとっても重いものなのか、皆一様に表情が曇る。

 しかしその中の一人が、オルファリルの目を見つめて、キッパリと言った。

 

「それに……それは、私達人間の都合でさせたことだったんだし。むしろ私達はオルファに謝らなくちゃいけない方だよ。でも、オルファは責めないって言ってくれた。だから、私達も気にしない」

「それにね、オルファ。私達、オルファは強いって思っても、オルファは怖いとは思わないよ。だってオルファはそんなことしないもん。少なくとも、私達には絶対」

 

 隣の一人が、まるで世界の始まりから決まっていたことのように断定する。

 オルファは呆気にとられるしかない。

 

「……どうして?」

「どうしてって……ねえ?」

 

 友達は皆、困ったように顔を見合わせながら……しかしやはりはっきりと言ってくれた。

 

「だって、友達じゃない?」

 

 気がつくと、オルファリルの視界はぼやけていた。

 やっぱり、いい日になった。

 だから絶対、明日もいい日になる。

 だからだから、これからは、やっぱり生きてて良かったって、そう思える。

 そんな簡単な言葉を、オルファリルは口にすることができない。

 だから多分、その行き場を無くした言葉が、口ではなく眼からこうして溢れてきているのだ――

 

「オルファ〜、泣かないでよ〜、こっちが恥ずかしいよ〜」

 

 そう言って宥めてくれる友達も、自分がもう半分もらい泣きだ。

 それが嬉しくて、可笑しくて、そうして泣いてる自分はやっぱり恥ずかしくて、オルファリルは口を開く。

 

「…………」

 

 でも、言おうとした言葉は間違いだと気付く。ごめん、なんてこの場で言うのは間違ってる。

 だから。

 

「うん。ありがとう」

 

 そうして口に出せたから、涙はもう、ない。

 

 

 その日の帰り、館への道は『オルファリル御一行様』となった。

 オルファリルが友達を家に呼び、エスペリアを紹介すると同時に姉特製のハーブティーをご馳走すると誘った。

 そこに三人組からなじられていた男子が「改めて礼を言いたい」と言い出したのを、まとめて招待すると言った瞬間、それを聞きとがめた「オルファリルの家+美しい姉を見たいという希望者」が男女比8:2で殺到した。

 さすがに館の収容人数限界から抽選がおこなわれたが、それでも20人を越す大所帯となってしまった。

 その抽選の裏で(主に男子の)意地や欲望をかけた苛烈な駆け引きがあったとかないとかいう話だが……

 あったとしても多分、それは別の話になるだろう。


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