「お姉ちゃん!」
倒れ伏したファーレーンに、ニムントールは駆け寄る。
「お姉ちゃん、大丈夫!?」
「ええ、大丈夫よ……痛っ」
身を起こして笑いかけようとして、ファーレーンは失敗した。
腕を切られている。骨が見えるほど深くもないが、すぐに治りそうなほど浅くもない。空中から叩き落された衝撃も回っている。
「動かないで、ジッとしてて……!」
ニムントールは身をかがめ、神剣を掲げて詠唱に入る。
そもそも笑える状況ではない。
法皇の壁を破り、そして進軍、トーン・ジレタの森で交戦。
混戦だった。自軍と敵軍の戦力は拮抗し、すぐに双方の陣形は崩れ去った。
そして乱戦。目に見えるどれが味方かもわからない。荒ぶる戦場に神剣も興奮し、憎しみが増幅され、全ての動く者が敵にさえ見え始める。
わかるのは、なんの迷いもなく動いているのが敵軍だということだ。
神剣との同化がかなり進み、意識を飲まれている彼女らの動きには無駄というものがない。
反面守るという意識に薄れている。こちらはその点、圧倒的な攻撃を受けてもなんとか隊列を守り、しのげているのが現状だった。
だが。
どうやら主力部隊と離れてしまったようだ。回りに味方の気配はない。
変わりに、敵に取り囲まれている。
数は1、2、3……
片手を超えたところで、ファーレーンは数えるのをやめた。
笑える状況ではない。
「ニム、もういいわ」
「……………………」
「多分あっちの方がリレルラエルよ。戻ればきっと誰かがいるから」
「......神剣の主が命じる。マナよ......」
「ニム、聞いてるの、ねえ!?」
「ウィンドウィスパー」
高速で紡ぎだされた呪文が、ニムントールの命令の下、マナを従えてファーレーンを包み込む。
傷口に注ぎ込まれるマナが、すぐさまそれを修復していく。
そしてこれなら、しばらくは敵の刃を遠ざけられるに違いない。
「これで少しは楽になるでしょ?」
「ええ、ありがとう、ニム。でも……」
「あ、もうちょっとジッとしててね。すぐに片付けるから」
横たわったままのファーレーンに、ニムントールは暗く笑った。
そして神剣を握り、おもむろに立ち上がる。
「数は……ふぅん。結構いるんだ。これだけの数でお姉ちゃんを……」
「ニム、何をする気なの!? 馬鹿なことはやめなさい! 引き返して助けを呼ぶのよ!」
「心配しなくていいよ。もうあいつらには指一本触れさせないから」
「貴女のことを心配してるのよ! あれだけの数を相手に、死んじゃうわよ!?」
「ニムは死なないよ。お姉ちゃん」
ニムントールはすぅ、と目を細め、
「死ぬのは、あいつらだから」
槍を構える。
「もう面倒くさがってなんてあげない。ニムは怒ったんだから……」
「ニム、やめて、ニム!」
「……許さない!」
瞬間、砂埃が舞った。
大地のスピリットが、翼のない妖精が、宙を爆進する。
……地霊立ち、宇宙を駆ける。
突風を巻き上げて木々を揺らし、散らした葉が敵の目くらましになる。
ニムントールはその影に巧に潜み、木の幹や枝をとび渡りながら接敵、投擲。
槍を突き立てて木に縫いとめ、えぐりながらそれを引き抜き、地面に崩れ落ちる前に霧に還す。
「死ね!」
背後に回った青スピリットからの一閃。
身をかがめてかわす。剣が頭の上を薙ぐ。
「遅い!」
青スピリットの攻撃力は強大だ。木の一本なら紙のように切り裂いてしまう。
幹を振りぬいて獲物を両断しようとした刹那、その腕は止まった。
マナが放たれ、木にまとわりついて強化している。
これが岩などの遮蔽物ならわかったかもしれないが、気づいたときには遅すぎた。
緑スピリットならではの巧妙な戦術。
「甘く見ないで。森の中なら、ニムの戦場!」
剣を絡め取られて唖然とする敵を、振り返った勢いを利用して柄で打ち上げる。
瞬時に自らも跳躍し、空中で2閃、3閃。
下方に蹴り飛ばし、自らは反動でさらに上方へ。
せり出していた枝に足をつけると、それを足場にまた槍を構える。
トップ・アタック。
全体重と、跳躍と、さらに風の勢いまで乗せた槍が、落下する敵に降り注ぐ。
強く叩きつけられる音がし、次いでまた何かを切り裂く音が聞こえた。
槍を引き抜く間に、索敵――いた。
距離を置いて、赤スピリットが呪文を詠唱している。
差し向けられた手の平から、火の玉が撃ち出される。
「小賢しい!」
炎は森を焼き払い、大地を荒野に変える。
緑スピリットはそれゆえか、総じて魔法への抵抗力が低い。
だがニムントールは回避行動をとらず、それどころか真っ向から火の玉に向かっていく。
「森の中だって、言ってるでしょ!」
槍を掲げ、再び投擲。
マナに覆われた槍身が、飛来する火の玉を切り裂く。
凄まじい勢いで追走するニムントールの横を、灼熱が通り過ぎていく。
身体の表面が少し焦げる気がしたが、苦にはならなかった。
遠くで爆音が聞こえた。
勝利を確信していたのか……少なくとも、少しは動きが止まるものと思っていたのだろう。
それを聞いたこともないような方法で打ち破られた赤スピリットは、剣を構え直すことも出来ずに槍に貫かれた。
「命溢れる木々は……」
肉薄されてしまっては、赤スピリットと緑スピリットの差は歴然だ。
「……火の玉なんかじゃ、燃やせやしない!」
森の深奥にあってマナを纏う槍は、わずかな抵抗さえも許さなかった。
瞬きする間もないような短い時間で霧へと還される。
圧倒的だった。
ニムントールは狂暴な躍動を続ける。
どこに敵が潜んでいるのか。どこから敵が襲い掛かっているのか。
全てを看破し、森の中が自らが支配する宇宙であるかのように、縦横に駆け巡る。
ファーレーンはその様子を、震えながら見ていた。
その姿には、助かるかもしれないという希望も、強くなった妹を見る頼もしさもない。
ただ、恐怖だけがあった。
そしてファーレーンにも危機が迫る。
3体の黒スピリット。鬱蒼と茂る森の闇に乗じ、気配を殺して近づいたらしい。
倒れて動かない敵ならば、いい標的だ。
それぞれが素早く、かつ慎重に動く。
ニムントールが築いてくれた風の防壁のおかげで楽になってはいるが、まだ動けるほど回復もしていない。
3体のスピリットは無表情にファーレーンを取り囲み……
「やらせないって言った!」
刀が抜かれようとしたその時、風が弾けた。
こちらの様子に気がついたニムントールが、神剣に命じてマナの構成を変える。
ファーレーンを覆っていた風が、一部を残して荒れ狂う刃となった。
回避する暇はない。これから襲い掛かろうとしたところへのカウンター。
なす術もなく吹き飛ばされる。
だが、浅く切り裂かれ、背や頭をしたたか打ち付けながらも、帝国のスピリットは強靭だった。
防護壁が転じて攻撃に回った。マナの楯は薄くなった。ダメージこそ負ったが、あちらは深手のスピリット一体。もう一体の影は見えない。
まだ、勝機は潰れてはいない。そう思い、構えを戻そうとした瞬間――
1体の頭上から、衝撃が襲った。
ニムントールは遠くから跳躍、枝を蹴って方向を変え、木の葉に紛れて急降下。
直下にいた敵を串刺しにすると、そのまま槍を振るって投げ払い、もう1体にぶつけて牽制する。
その背後に迫る刃。
目をむけもせずに槍を背後に回し、打ち上げる。
振り返りながら、がら空きになった胴を一薙ぎ。
上半身と下半身が分かれた敵は、その目を怪物でも見たかのように見開いていた。
そして最後の1体。
なす術もなく霧となった仲間を見て不利を悟ったか、翻って翼を広げる。
逃げようというのだ。
ニムントールはその姿をボウッと見つめる。
……見覚えがあった。
「……あいつ、だよね。お姉ちゃん」
「え……何?」
「あいつだよ! お姉ちゃんをやったのは! これだけやって、逃げようっていうんだ……」
その目に再び、暗い輝きが宿る。
ファーレーンは妹が何をしようとしているのかを悟り、愕然とした。
「駄目よニム! ユートさまも仰っているでしょう! 相手は背中を向けているのよ!?」
「……許さない。お前が……」
「ニム! 剣を降ろして!」
「……よくもお姉ちゃんをぉ!」
制止の言葉は耳に入らない。
身体を弓のようにしならせ、槍は唸りと輝きを帯びる。
「いけない! やめてぇっ!」
悲鳴は遅すぎた。
放たれた矢は狂喜するかのように飛翔し、やがて敵の胸から頭を生やすと、血を啜ってわななく。
そして枝伝いに跳躍して追いついたニムントールが、空中で槍を取り、斬り付ける。
何度も。何度も。
黒い妖精の身体から鮮血が噴出し、ニムントールの身体を染めていく。
それでも落ちることは許されない。
落ちる前に槍で跳ね上げられ、空中で再び切り裂かれる。
ファーレーンにその姿は、もう良く見えない。
涙で視界が歪んでいる。
「ニム……もうやめて……憎しみで剣を握らないで……」
言葉が届くことは、この先あるのだろうか?
「ハイロゥ……ハイロゥが……」
……黒く、染まりつつある。
やがてとどめとばかりにニムントールが槍を振り上げ、大上段から叩き下ろす。
ファーレーンを傷つけた敵へのあてつけだろうか。
すぐさま地鳴りさえするような衝撃と、何かが砕けるような音がファーレーンにも届く。
「……ぁ……ぁあ」
もはや、嘆きしか口から出るものはなかった。
もう敵は半分以上減ったはずだ。身体も動く。逃げるのには問題がないはずだ。
けれど。
ああなってしまったニムントールは、きっと戦いを止めることはない。
圧倒的な憎しみと、力に我をなくした存在。
……剣に飲まれてしまった。
自分がニムントールのことを大切に想っていたように、ニムントールも自分を大切に想っていてくれた。それは嬉しいことだ。
だが、まさか自分が、荒ぶる地霊を目覚めさせるトリガーになったなど!
「やめて……ニム、もういいから……」
うめくような呟きは、もう自分にしか届かない。
……黒く染まりつつあるハイロゥは、今だ荒れ狂うニムントールの頭上で輝いていた。