木の根元で、小さく丸まって眠りこける少女。
緑の髪、幼さの残る体。そしてその腕に眠りながらも握られた、発育まだ途中の少女の体格と合わせて見れば、冗談としか思えない程の無骨な長い棒……槍。
規定の時間になり、彼女を連れに戻った青年は、その姿を見て足を止め、そしてその寝顔を見て複雑な微笑を浮かべる。
やがて青年は少女の傍に膝をつき、彼女の寝顔に手を伸ばす。
青年の名はシャム・エジル。
そして彼の手が伸びようとしている、その子の名は……
シャム・エジルは考える。
彼の生い立ちについて。彼を取り巻く環境について。そして彼の仕事について。
幼年時代から少年時代にかけての彼は、一言で言ってしまえば普通の子供だった。
末っ子らしく甘えん坊で、忙しい大人たちに遊んでくれとせがむ。
しかし元来優しい心根の持ち主だったのか、相手が忙しいからと困った顔で辞退すると、じゃあ早く終わればいいんだね、とその大人の仕事を手伝おうとする。
シャム・エジルはそうした、どこにでもいる善良な子供だった。
しかし彼を取り巻く環境からすれば、彼はやや異質な子供だった。
結果からすれば、その行為により手伝おうとした大人が、あるいは彼自身が彼の父親から叱責されることが多かった。
そして彼は物心がついてだいぶしてから、ようやくあることを覚える。
ラキオス王国に使える、エジル――男爵家。
貴族という地位に於いて、進んで下々の者と交わろうとする彼の態度は、およそ「上に立つものらしく」なかったのだ。
彼は物心ついてそのことを悟る。
言わば使用人とはすなわち家の道具であり、そのように扱わねばならないのだということを。
元来純粋で優しい心根の持ち主である彼にはそれが納得できなかったが、しかし自分がみだりに彼らと交流を図ろうとすれば、逆に彼らの方に迷惑が行く。
それを考えれば、納得はいかないながらも彼は行動を慎むようになった。
年は進んで、彼は少年と青年の中間の存在として教育機関に身を置くことになる。
彼は持ち合わせの善良さで人の役に立つ仕事をしたいと考えることになる。
彼がもし長男であれば、父親は「どこでどうねじまがったらそうなるのか」と嘆いただろう。
そも貴族という「家」を持つ者ならば、それを守り、続けていくことが第一の使命となる。
そのために王に忠誠を誓うのだ。それは家を潰さないための手段にすぎない。
だが幸いかな彼の兄は二人とも健康で、彼が家を継ぐようなことはありえない。
父は彼に好きなようにしろ、と言った。
とは言え、貴族の庶子、嫡男以外の息子の取るべき道と言えば、大方が決まっている。
他の貴族との姻戚関係を結ぶために婿に出す。或いは学者にする。でなければ国を守るための組織……軍隊に入れる。
元来争うことが嫌いなシャムではあったが、この国、いや、世界に於いては、軍に属すると言っても人間がそれほど危険な目に遭うこともない。
何か人の役に立ちたいという漠然とした希望を持っていた彼は、自分の知的好奇心を満足させることに終始しているように見える研究職、学者になることよりはと軍に入ることになった。結婚するには歳が若すぎたし、彼もそんなものをする気はなかった。
軍に入った彼は、一通りの士官教育を受けながら、その頭角をあらわしていく。
もともとパズルが好きだった。戦いを模しているとは言え、机上演習では誰かが傷ついたり死んだりすることはない。相手との思考の読み合い。いつしか彼はそれに面白さを見出し、のめり込んでいく。気づけば実力は同期の中で軍を抜くようになっていた。
そしてある日、彼は「兵士」の錬兵場を見学することになる。
彼は愕然とした。
そこには机上演習では想像もできないような光景が広がっていた。
「兵」は――それは当然のことだったのだが――人として扱われず、命令されたことができなければ叱責よりもまず先に殴られる。
そして与えられたノルマをクリア、あるいはそれ以上の成績を収めても、褒められることなど一切ない。できて当然、でなければただのゴミ……そのような扱いだ。
彼が家で目にしていた道具たる使用人たちの扱い、それよりも酷いものだった。
シャムは唐突に思い立った。自分がするべきはこれだったのだと。
それは彼ら、目の前で「兵」をいたぶる訓練士にそのまま仲間入りするということではない。
シャム自身が、彼が思う方法で「兵」の扱いを良くするということだった。
錬兵場から帰ったその足で、彼は上官の部屋のドアを叩き、入り様こう言った。
自分をスピリット隊に回してください、と。
上官はあまりのことに持っていたカップを落とし、そして駆け寄るようにシャムに近づくと言った。
どうした、何があった、考え直せ、君の実力はあんなところにいるべきではない、もっと上層部に進み、安全で、しかし権力のある地位に進むべきだ、お父上も悲しむぞ。
しかし一度心を決めたシャムの耳に、それらの言葉は入らなかった。
結果として彼は説得に応じず、頭を抱えた上官は彼の家に連絡する。
すぐさまシャムは家に呼び戻された。
そして両親だけでなく叔父や兄、さらには遠縁に当たる軍の上層部の将軍まで集まり、彼の説得にあたった。
それは説得という生易しいものではない。集まった者たちは口々に彼を叱責し、罵りまがいの言葉を浴びせる。
何を考えている、家を何だと思っている、家名に傷をつけるな、我々にまでそんな「落伍者の縁族」という烙印を押し付ける気か、どうしてもと言うなら……
その言葉を待っていたかのように、長々と沈黙を守っていたシャムは、ただ一言言い放つ。
結構。ならば離縁願いたい。自分は自分の信じる道を行く。
次の日、彼の宿舎の部屋は引き払われた。出立の前、叩いた上官のドアからは率直な返事があった。
失望した。顔も見たくない。とっとと行け。
スピリット隊、それも人間部隊というものは奇妙な部署である。
それは国の主力を担う機関であり、そこで働くためには高度の専門的知識のいる、いわゆるエリート部隊と言ってもいい。
しかし、その人気は異常な程低い。
それはそうだ。何故ならそこはスピリット部隊なのだから。
そこに集まるのは何かのミスを犯して左遷された者か、あるいは元来の戦好きか、でなければその訓練対象、スピリットを好む性癖がある者――妖精趣味者だ。
いずれにしてもまともな人間とは言いがたい。
スピリットへの、普通の人間からの印象はまず二言で済む。
恐ろしい。そして不気味。
人間では扱えない永遠神剣を扱い、魔法を放つ。スピリット一体で街一つを壊滅させるのに、無抵抗ならば一日とかかるまい。
何より……彼女らは人間ではないのだ。
それだけで充分だった。
人と同じ姿をし、言葉を話す。しかし人間ではない。
それだけで不気味と判断するには事足りた。要するに誰も好んでは近づきたがらないのである。
訓練士がすべからくスピリットに当たるのは、それは様々な理由があるが、概して言えば二つの感情からだ。
愛情か、憎悪か。
ミスを犯して左遷された者は、その待遇への不満をスピリットにぶつける。言わば逆恨みだ。
戦争が好きなものは、大概暴れることが好きだ。人を殴るのが趣味と言う危ない者もいる。
妖精趣味者は、多くの場合が変質的苛虐趣味、サディズムを兼ねる。
そこに放り込まれもせず、自ら望んで配属されたまともな人間であるシャム・エジルは、そこでもやはりかなりの異端だった。
時期が悪かったのかもしれない。彼が配属となったのは、前隊長である男が出奔、失踪した直後であった。
それまでは、ラキオスでは比較的、スピリットの人格をある程度自由にさせる方針を取っていた。
しかしそこに要請趣味者であった前隊長の行動と、そしてその際に起きたスピリットと人間兵士の損失、そして訓練士の不幸。
上層部はそれまでの方針を見直し、スピリットの人格形成よりは戦力強化に努める、この大陸のスタンダードへと方針転換をした。
結果、訓練士とスピリットとの「人間的な」交流は厳しく禁じられ、一種のタブーともなった。
シャム・エジルの思い描いた訓練士としての仕事は、彼が決意を固める前からすでになかったものになっていたということだ。
だがそれでも彼は諦めなかった。
隙を見てはスピリットに話し掛け、心を通わせようとした。
時に人に見つかり、懲罰を受け、そして友となろうとしたスピリットからは濁った、あるいは拒絶の視線を向けられ。
それらに日々絶望を味わいながらも、シャムは決して希望を捨てなかった。
そして彼はある日、一体のスピリットの主任訓練士を任されることとなる。
幼年のスピリットの扱いほど、難しいものはない。
何より幼い。スピリットとは言え子供なのだ。成長した者と同等の扱いをすれば、用意に怪我をするし、下手をすれば死ぬ。
何より、彼女らは何も知らない。彼女らの存在意義たる、神剣とマナの扱い方さえも。
バーンライトとは小競り合いが続いている。小康状態との見方もできるが、のんびりとはしていられない。できるだけ早急に戦力に仕立て上げる必要がある。
しかし不必要に気を逸らせて能力の向上を急げば……早い話が、神剣や魔法の訓練中にマナの操作を誤れば、彼女らは正に動く爆弾となる。そしてその時近くにいるのは訓練士だ。巻き添えは免れない。
熟練した訓練士さえもが嫌がる仕事だ。そして上官はそれをシャムに押し付けた。
訓練中に死ぬかも知れない……いや、むしろ上官はそれを望んでいたのかもしれない。体のいい厄介払いだ。家からの圧力によるものかもしれなかった。
しかしシャムは喜んでその任務を請け負った。
何も知らない幼子ならば、自分の信じる通りに育てられるかもしれない。
軍の方式ではなく、人間性を失わずに。
それは、明らかに軍の命令への反抗である。
そして端から見れば明らかな偏愛……多くの人の役に立ちたいという彼の当初の理念からすればその方向が偏りすぎている。もはや彼がいくら弁明しようとしても妖精趣味の誹りは免れまい。
それでもよかった。シャムはそう思った。もしかしたら彼は疲れていたのかもしれない。ただ否定されるばかりの毎日。例え誰か一人でもいい。それが決して実を結ぶことがなくても、例え人でなくても、彼が与える愛を受け取ってくれる者が一人でもいればいい。そう望んでしまう彼を、果たして誰が責められよう?
果たして彼の行動が正しかったのか誤まっていたのか、それはもう誰にも判断はできない。それは過去の話だ。だが幸いかな、彼が受け持ったスピリットは大きな失敗や事故を起こすことはなく、順調に成長した。
そして彼は今日も訓練に赴く。午前の過程は終わった。短い休憩時間を取り、これから午後の過程が始まる……はずだった。
だが木の根元で眠る少女を見つけたシャムは、その足を止めてしまう。
あまりに穏やかな寝顔。
同年代の人間の少女であれば、恋や成績に悩むその年頃にありながら、それらのほとんどが戦うことの訓練に費やされた少女。その寝顔はそれを映してか、彼女の生きた時間よりもずっと幼く見えた。
シャムはその寝顔に手を伸ばし、そして……その手を止める。
大樹のハリオン。
木の根元で無邪気に眠りこける、その少女の名だ。
その名が示す通り、彼女は戦うよりは敵を抑え、そして味方を回復させる能力に秀でている。
そして彼女自身も、健やかな発達を遂げている。もう数年もすれば、すっかり美しい、街を行けば必ずどの男も振り返るような美しい女性になるだろう――
その続きに浮かびかけた言葉を、シャムは慌てて打ち消す。それを言ってしまうのはあまりに……やるせない。
シャムは少女の寝顔を見つめる。
寝顔の口元が動く。何か寝言だろうか。それとも、夢の中でも何か食べているのだろうか。
こう見えても彼女はこれでなかなか食い意地が張っている。女の子らしく、甘いものならなおさらだ。
大樹のハリオン。しかし今はまだ小さく、それは枝……いや、咲き誇る前の蕾、か。
願わくは、その木が大きく育ちますように。育つことができますように。そして膨らんだ蕾が仇花として散ることのないように。
それがあまりに可能性の小さいこととは言え、そう思わずにいられないのは、これが……親心というものか。
少々接した時間が長かったかもしれない。
このように穏やかな寝顔を見せられれば、そうも思うのも当然のことだろう。
もう午後の訓練が始まる時間だ。当然起こさなければならない。
しばらく寝顔に見入っていたシャムは、しかし……浮かせた手をそのままに躊躇する。
やはりもう少し寝かせておいてやりたい……もっと寝顔を見ていたい。
そう思う彼の気配が、少女に伝わったのか、その目がうっすらと開かれる。
髪と同じ色の瞳。
見つめられると、シャムの心に優しさと、温かさと、後ろめたさと、どうにも消せない心苦しさと……何故か心をよぎる一抹の寂しさ。それらを浮かばせるエメラルド・グリーン。
始めその瞳はぼんやりと彼を見つめ、そして何度かの瞬きの後に焦点を結ぶ。
シャムは慌てて自分の手を引っ込める。
「起きたか?」
「はい。おはようございます〜」
「……もう昼だ」
「あ、いけない。じゃあ午後の訓練にとりかからないと……」
言うなり、寝起きに相応しい、そしていつものおっとりとした動作でハリオンは身を起こす。
まだ寝ててもいいぞ、とは言わない。彼はすでに「職務に対して過度の情熱が認められる」問題児だ。
それをハリオンが解っているのか、あるいはスピリットとしての従順さからか、ハリオンは自分の担当訓練士を煩わすことはほとんどない。
「どんな……」
「はい?」
「どんな夢、見てたんだ? 幸せそうな顔して」
「え、あの、それは……」
並んで歩くハリオンに、シャムは聞く。ハリオンはうつむく。
ほのかに朱の上った顔は、背の高いシャムから見えることはない。
「……言いにくいような夢か?」
「それは、ええと……はい」
「まったく、どうせまた空飛ぶケーキ雲の夢でも見てたんだろ」
「もう、シャムさま。私そんなに食い意地は張ってませんよう」
「はは、どうだか」
一転して自分を見上げる顔を、シャムは笑いながら見下ろす。
ハリオンは今度は顔を隠す必要はない。だって顔が赤いのは怒っているからなのだから。
「午後の訓練は……攻撃技能だな。ちゃんとやれるか?」
「やりますよ〜。頑張ります」
「さて、な。ハオの苦手分野だろ」
「そんなことないですよう……」
言い返しながらも言葉尻を小さくして、再度うつむくハリオン。しかしその声にどこか嬉しそうな響きがあるのを、シャムは気づいているだろうか? 彼女をハオと……略称で呼ぶのは、彼だけだ。
もちろん公の場では呼ばない。二人きりになったときだけの愛称。
やがて二人は訓練場の柵を越える。ここを過ぎればすでに教官と兵だ。双方共に甘い顔はしていられない。
他の訓練士とスピリットはすでに午後の過程に入っていた。二人もそれに習う。
「まずは素振りを500本。終わるまで休むな。始め!」
「はい!」
そして黙々と剣を振り始めるハリオン。シャムは時にその型や足運びに鋭く叱責の声をかける。その度にハリオンは返事をして、その指示に従う。
そうして彼女の動きを見る中で、時々ふと、シャムは先ほどまでの少女の顔を思い出す。
あどけない寝顔。蕾の見る夢。
彼らに与えられたそれは確かに、幸せな時間。
年月が経ち、ハリオンは年長スピリットの一人となる。
いまではもうすっかりみんなのお姉さんだ。事実彼女を慕う妹たる少女たちも仲間として増え、彼女もそれに答えるように振舞う。
しかしその寝顔が……とりわけ幸せな夢を見ている時の寝顔が、昔と変わらず少女のままであることを知る者は誰もいない。
聖ヨト暦330年、ラキオス王国スピリット隊訓練士の中に、シャム・エジルの名を見つけることはできない。
それはただの人事異動かもしれない。あるいはそうでもないかもしれない。
だが彼らが過ごした時間は、過去のものとなっても、確かにそこにあった。
ハリオンは今日も微笑む。辛くとも、厳しくとも、彼女は大切なことを知っているから。
育った大樹は、いつまでも、蕾の夢を見る。