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 訓練とは違う剣のぶつかりあい。隙を見て、目を閉じ――それでも叫び声をあげながら振るった剣が、一体の敵を霧に還した。
 その瞬間、ヘリオンは自分の中で何かが切れたのを感じた。元よりスピリットは命令によって人間に、そして意思じみた本能によって神剣に戦いを強いられる種族。
 マナを得た剣が喜びに奮え、そしてそれは持ち主自身にも伝わる。
 自分が斬った――自分にも斬れた。
 彼女は己の技が敵に通じたことに勢いを乗せ、そしてそれがより剣の冴えに輝きを増させていく。
 初めての戦場。初めての殺し合い。その中にいて、まるで自分の動きが、世界を手に取れるがまでに拡大していくような昂揚感が全身を支配する。
 誰かが何かを言っている気がする。気をつけろ。深追いはするな。お前はまだ――
 だがそれも気にならない。それは戦場が騒音で溢れているから。ぶつかりあう剣戟がひっきりなしに鳴り響くから。どこかで赤スピリットが放った魔法が轟音と共に炸裂するから。何より耳を打つ自分の鼓動が王城の鐘より大きく響いているから。そしてもしかしたら……自分の口が、それらを打ち消すほどの雄たけびを挙げているかもしれないから。
 だが、気にならないのはそれだけではない。何故ならそれは取るに足りないことなのだ。
 敵が強い? そうかもしれない。
 自分が未熟? 確かにまだ通常のレベルで考えれば、満足するほどの訓練は受けていないだろう。
 しかし――なら。
 その未熟なはずの自分が、強いはずの敵を斬って捨てた――この事実は何だと言うのだ?
 そして彼女は判断する。
 何も恐れることはない。自分はやれる。自分ならやれる。
 鍛えた技、使うのは今――!
 剣から流れ込む本能だけではない。確かにその瞬間、彼女自身の戦いへの衝動が身を支配していた。
 そしてヘリオンは逃げた敵を追う。
 だが彼女は知らない。
 逃げているはずの敵が、時々前だけではなく左右に目を散らしていることを。
 そしてその視線の先に、明らかに自軍の者ではないスピリットの姿があることを。

 結局のところ、経験の無さというものはどうしようとも否めないものだ。
 教えられるべきことは、ただ一人の技だけではない。
 スピリットが駒のように扱われるとしても、しかし戦場で戦う兵士であることには変わりはない。
 そして戦いというものが単に力と力のぶつかり合いだけではないことも事実である。
 だから時に、策を用いて敵の力を削ぐ。戦場とは騙しあいの場でもある。
 もちろんその指揮をとるのは隊長などの上級の戦士だが、戦士には当然その指揮に従う教育もされていなければならない。
 しかしヘリオンには、その上官の命令も伝わらなかった。
 追っていたスピリット以外の神剣の気配が増えた時点で、おかしいとは感じていた。
 だが己を過信していた彼女はそれほど気にかけずに追跡を続けた。
 そして不意に眼前の敵が逃げるのをやめてこちらに向き直る。
 観念したか、それともやる気か――どちらにしてもいい度胸。この一太刀で今すぐ霧に……
 そう思って腰の刃に手をかけた瞬間、爆発的に左右から襲い掛かる殺気。
 もし眼前の敵をすり抜けざまに切り捨て、そして十分な距離を置いて振り返ればこんなことにはならなかったのかもしれない。
 極度の興奮状態にあったヘリオンは冷静な判断ができず、結果としてその場に立ち止まる。
 右から襲い来る敵をかがみ込んでかわす――成功。
 しかし元より向こうは初めから組んだ連携攻撃。左から襲った敵が跳躍し、落下と共に手にした剣を振り下ろす。
 ヘリオンはかがんだ勢いに任せて地面を転がり、そして転がりながら抜刀――剣を盾にするも、敵の勢いは止まらずに腕を浅く切り裂かれる。
 そしてそこまでだった。

 昂揚が続いたのは傷を負うまで、その痛みはすぐに恐怖へと変わり、ヘリオンの精神を蝕み始めた。
 身にしみこんだ技で反射的に立ち上がって構えを正すも、それ以上の行動には繋がらなかった。
 攻撃を仕掛けた2体は、ゆっくりとも見える動作で陣形を組みなおす。
 そして敵の動きが止まった時、眼前に今しがたの3体、そして新たに背後の2体。
 ここに来てヘリオンはようやく己の間違いを悟った。突出しすぎた。
 初めからわかっていたことなのに。いかに己が強く感じようとも、所詮一人で出来ることには限りがある。
 それまで熱く感じていた全身の血が、まるで泥沼の底からすくって来たもののように冷たく感じ始める。
 裂かれた腕から血が滴り落ちる。出血の様子から見て深手ではない。骨も筋も傷ついてはいない。この程度なら戦闘には支障はないと判断する。
 だが判断は出来ても心が追いつかない。おかしい。訓練でこれより深い傷を負ったことなど何度もあるのに。骨が折れたことも2度や3度ではない。その時に比べればはるかに軽傷と言ってもいいはずなのに。
 ――痛みとは、これほどまでに強烈なものだったか?
 腕から流れる血の他に、全身から猛烈な勢いで汗が流れ始める。傷のついてない腕で拭ってその色を確認したくなる衝動を必死に押さえ込む。
 やがて全身が震え始める。奇妙なことに……そしてありがたいことに、敵は自分を取り囲んだまま動かない。
 どうやって逃げるか……いまだ幼いとは言え、ヘリオンは訓練を受けた戦士だ。常に戦いの中での思考を叩き込まれている。何もできないまま死なないという友の言葉もある。
 敵の編成は前に青が2体、緑が1体、そして背後に赤が2体。
 神剣魔法で眼前の一体をひるませ、その隙にもう一体を斬りながら駆け抜ける……
 ダメだ。恐らくその瞬間に背後からの魔法で焼き殺される。
 ならば背後を振り返って自軍と合流するか? 幸い赤スピリットは防御力に劣る……
 だが今は緑スピリットがいる。防御支援の魔法をかけられたら、果たして自分の刃が通るだろうか。
 平静を保とうとして、しかし状況と心理がヘリオンに一層の混乱をもたらす。
 そして彼女はわずかに残った冷静さで、極めて簡潔な現状判断を下した。
 絶対絶命。
 その気配が敵に伝わったのか――様子を見ていた敵が、剣をゆっくりと振り上げる。
 後ろからは魔法の詠唱の声。
 ヘリオンは汗と……そして目じりには汗ではない水を浮かべながら、それでもなお構えを崩さず、ちらりと天を見上げる。
 ごめんね、ネリー。やっぱり私、何もできなかっ……

「何を諦めてるの!」

 え、とヘリオンは振り返る。
 それは訓練士が見たら問答無用で張り倒すような、緊張感のない動作だった。
 しかし怒号を叩き付けた赤い影は、それを叱責するでもなく、的確に指示を出す。

「伏せて! マナよ、疾く進め……」

 その詠唱を聴いた瞬間、ヘリオンは言葉の通りにその場に身を伏せた。
 闖入者の出現に一瞬たじろいだ1体の青スピリットが、しかしそのヘリオンを見逃すはずもなく剣を振りかぶって跳躍する。
 残りの青スピリットは、援軍の魔法を解除するためのカウンタ・マジックの詠唱に入っている。
 成功すれば恐らくヘリオンはなますにされるだろう。しかしその恐怖は、ヘリオンの中で指示に逆らうほど膨れ上がりはしなかった。
 何故なら援軍の唱える魔法は。そして、それを唱えようとしている彼女は……

「インシネレート!」
「アイスバニッシャー!」

 伏せた彼女の直上でマナの気配が急激に活性化し、そしてその直後に今度は皮膚を切り裂かんばかりの痛みを持った冷たさで硬直する。
 カウンタ・マジック成功。透き通ったマナの中、頭上から迫り来る敵の気配が神剣から刺すように流れ込む。
 それでもヘリオンは起き上がらなかった。そしてもし起き上がっていたら、彼女も無事では済まなかっただろう。
 刃が身に届く――その直前、再度場のマナが急激に振動し始める。
 爆炎。
 迫り来ていた気配が、彼女の上で一瞬にして消滅した。
 インシネレート……高速の先制攻撃魔法。
 機先を制して敵を焼き尽くすその魔法の特徴は、早さだけではない。攻撃に特化した高速詠唱。例え解除しても、場しのぎのカウンタ・マジックでは2発目の爆発に間に合わない。
 1発目を目くらましにして2発目を本命に命中させる。戦場ではありふれた戦術だ。本来なら青スピリットが2体がかりで解除するべきだったのだが、確信した勝利に奢った彼女らにはそれができなかった。
 常に先を読む戦いの技と、それを十分生かせるだけに詰まれた経験。
 その持ち主が、すさまじい速さでヘリオンに駆け寄る。余波で漂っていた霧と煙が吹き飛んだ。

「起きて、構えなさい。いい的よ」
「ヒミカさん!」

 厳しいが、それでもどこか温かいと感じさせる声。
 ヘリオンは飛び起きた。
 辺りを見回す。青スピリットが一体消えたのは感じていた。しかしどれほどの早業だったのか、背後にいたはずの赤スピリットまでが一体、崩折れながら霧に還って逝くところだった。
 そして……目の前に立つ、背中。
 相手が女性であることを除けば、広く、逞しいという褒め言葉がまさに相応しい。
 絶望の中に降り立った赤い騎士。
 ヘリオンは訪れた安堵と共に、それまでの恐怖と心細さが爆発するのを感じた。
 すがりつきたくなった。ここが戦場であることなど当に忘れていた。ヘリオンの膝から力が抜ける。

「しっかりしなさい!」

 突如、頬を張られるような、再び怒声。
 ヒミカはヘリオンに顔を向けない。当然だ。まだ敵は3体残っている。
 突如現れた救いの主……それに背中から叱責され、ヘリオンはビクリと縮こまる。
 その気配を察したのか、ヒミカは今度は多少声を和らげて、ヘリオンに語りかける……ただし構えは崩さないまま。

「覚えておきなさい。それがコンバット・ハイ(戦闘による昂揚)というものよ」
「コンバット・ハイ……?」
「そう。戦場という異常な興奮状態に放り出されて、精神が一時的に麻痺するの。それが上手く作用することもあるけど、大抵は各々が勝手な動きをして陣形が崩れたり、あまりいいことじゃないわね」
「あ、あの、すみま……」
「謝るのは後。貴女は本来ならまだ訓練課程だし、それに新兵なら誰でも一度は経験するものよ。とは言っても、手放しに許されることでもないけど。とりあえずは今夜、宿舎でエスペリアのお小言は覚悟しておきなさい」

 戦闘の只中というのに、余裕すらあるのか……
 ヒミカはヘリオンを諭すように、冗談交じりの一言を付け加える。
 だが、敵もいつまでも混乱したままではない。
 二人を取り囲むように陣形が組み直される。
 騎士の態度が、戦闘状態に移った。

「さあ、もう行きなさい。向こう……いえ、こっちの方が近いわね。ハリオンがいるわ。回復してもらいなさい」
「え……?」
「行きなさい。ここは私が引き受けるから」
「そんな、私……!」

 躊躇うヘリオン。助けに来てくれたかと思えば、今度は一人で自軍と合流しろと言う。
 だが、ヒミカは甘えを許さなかった。しかしそれは拒絶でも見殺しにするわけでもない。見殺しにするくらいなら救援になど最初から赴かない。
 ヒミカは、再びヘリオンに語りかける。

「自分を信じて」
「そんな、無理です! さっきだって……」
「そう。そう考えることが大切なのよ。大切なのは恐怖を知ること。でもそれに負けないこと」

 ヒミカは視線だけで振り返り――しかし、しっかりとその目を見つめながら、背後に立つ少女に言う。

「さっきの太刀筋、見事だったわ。私が貴女くらいの時、あれほどできたかはわからない。だから信じて、自分を」

 そして話はしまいとばかりに、再び敵に向き直る。
 背後の気配はそれでも一瞬躊躇したように感じたが――しかし直後、翼をはためかせて彼女の指示した方に飛び去っていった。

 敵は追わない。少しでも動けば赤い刃の餌食になることを感じている。
 寄せ集め、決して大きな脅威にはなりえないと評価されていたラキオス王国スピリット隊にも、鍛えられた精鋭はいる。
 赤光のヒミカ、レッドスピリット。
 とある事件から以前のスピリットがすべて失われ、新しく編成されたスピリット隊、その最古参たる彼女。育成期間の長さは伊達ではない。睨むだけで、敵の動きは止まった。
 ヘリオンが充分離れたのを感じて、ヒミカは自分の姿を見下ろす。少女に見向かなかったのは、敵を警戒していたからだけではない。
 胸から腹に、赤い線が一本。
 魔法を撃ちざまに敵の赤スピリットを斬り捨てた一瞬、その最中に受けた反撃によるものだ。
 幸いにして深くはない。すこし肉をえぐっているが、主要な血管にも内臓にも深刻なダメージはない。
 ふと、空いた手で、赤く染まった服に手をかける。ヒラヒラと煩わしく、今はもうまとわりつくだけの布。
 その奥に、形のいい膨らみが鮮血を滴らせている。

「スピリットが女だけっていうのは、こう言うときには助かるのかもしれないわね」

 場違いな呟きをこぼして、傷口をなぞる。思ったよりも――いや。ほとんど痛みを感じない。
 ――興奮状態。
 それはヘリオンの陥ったコンバット・ハイではない。彼女は訓練を積み、戦闘をよく知っている熟練の戦士だ。
 彼女の血を躍らせているのは……怒り。
 ヒミカは見た。
 駆けつける最中、敵の顔に、わずかに表情が浮かんでいた。
 恐怖に囚われ、自分しか見えなかったヘリオンでは気づかなかっただろう、それは嘲笑の色。
 興奮し、己を過信した愚かで哀れな新兵……それを蔑む表情だ。
 敵のスピリットは神剣に飲まれかけている。飲まれてしまえばスピリットは人間性を失う。
 が、敵を倒すという本能は残る。そしてそれを最大限に生かすために、最後まで残る人間性の暗い部分――残虐さ。
 そうであるとわかっていながらも、こみ上げる怒りは抑えられない。
 彼女は赤光のヒミカ、ラキオスの赤い騎士。
 国と仲間のためなら、命もかける。
 だが……

「それでもこの命、貴女達みたいなのにあげられるほど、安くはないのよ……!」

 邪魔になった服を毟り取る。
 白く、滑らかな肌に、うっすらと幾本ものほの赤い線が浮かんでいた。
 これまで戦闘を潜り抜けるたびに受けた、その名残だ。
 もうすでに癒え、普段は注意してもわからないほど薄くなっているが、今、全身を強く打つ血流が、それを前面に押し上げている。

 戦場の風が、露わになった上半身を撫でていく。
 肩の防具は服と一緒に毟り取ってしまった。だが何も問題はない。敵の攻撃など、当たらなければどうということはない。
 傷口に手を。赤くぬめる感触。瞬間的に走る痛み。だから、それがどうした?
 彼女は知らないが、ハイペリアではよく知られていることがある。
 人間の血中にはある成分が含まれているが、それは怒りを感じるとその量が増加する。
 彼女に血がその状態だ。痛覚は鈍り、恐怖は抑えられる。身体機能が向上。
 かの世界の言葉で、それは……

 血を拭った手を口元に。そして口の中に広がる鉄錆の味。命の味。
 まだ、死ねない。

「誰を敵に回したのか、きっちり教えてあげないとね……!」

 一瞥、裂帛れっぱくの気合。


 アドレナリン・ハイ!

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