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 なぜ、あんなことをしてしまったのだろう。
 自室に戻り、塗れた衣服に手をかけて、エスペリアは思う。
 浴室でのユートへの、奉仕。
 初めはただ本当に、背中を流すだけのつもりだった。
 しかし、実際は……
 行き過ぎと思える、奉仕。
 ――だが。
 ユートは拒否をしていても、拒絶はしなかった。
 明らかに、悦びを覚えていた。
 ユートの隊長管理も、副長たる自分の務め――
 主人を悦ばせるのは、召使の義務――
 様々な理由が、浮かんでは消える。
 そして、最後の理由――
 こうして自分が性欲の処理を担えば。
 自分が汚れ役に徹すれば、そしてユートが自分にそういう欲求を向けるならば。
 アセリア、オルファ、ネリー、シアー、ヘリオン……
 彼女達が、その『危険』にさらされることはなくなる。

 エスペリアは、ユートを信頼している。
 しかし、ユートの持つ剣は危険だ。
 永遠真剣第四位――求め。
 スピリット達の持つ剣とは比べようがないほど強力で、高位の剣。
 それ故に、剣が持ち主に求めるものも大きい。
 得物となるスピリットを狙い、肉体を犯し、マナを略奪する。
 そうなったら最後、笑うことも泣くことも、考えることさえもできなくなり、ただ剣を振る生物になるしかない。
 剣がそうすることは過去の伝承にも見られ、また意識を神剣に譲り渡したスピリットがどういうものか……
 そうさせるわけにはいかないのだ。
 自分が、楯になると決めたのだから。

 エプロンを外して、服のボタンを外す。
 湿った音をたてて床に落ちる服。変わりに、差し込む夕日に照らされた彼女の肢体が露わになる。
 散らばった服を拾い上げる。
 真っ白なエプロン。
 その色に溶け込んで、見えない色。
 ――ユートの匂い。
 慕情をつのらせるような、淡い存在感ではなく、それは強烈な本能の匂いを発している。
 エスペリアはそれをじっと見つめ……
 ハッ、と我に返った。

 自分は今、何をしていた?
 何をしようとしていた?
 顔を..近づけようと......していはしなかったか?...........
 ユートの匂い。ユートの体液。そして手に残る、ユートの感触。
 それをもっと強く味わおうとはしていなかったか?
 エスペリアは手にした衣類を投げ捨てるように籠に入れ、そのままベッドに腰掛けた。
 言いようのない感情が心を埋め尽くしていく。
 葛藤、不安、恐怖。
 それらがごちゃ混ぜになって、とてもではないがどれなどと決めることができない。
 悶々と思うなかで、次第に思考がクリアになっていく。
 それは、自分がユートに奉仕した、考えようとしなかった一つの理由。

 ――ユートは、悦んでいた。なら、自分は?

 ありえない考えと、一笑に伏す。簡単なはずのそのことができない。
 忌避感を覚える。
 上官と部下。主人と召使。――エトランジェと、スピリット。
 誰がそう言ったわけでもないが、自分は尽くすだけに止めなくてはいけない。
 求めることの許されない関係。
 そしてそれ以前に、思い出される光景。
 記憶にあるあの寝室での、姉達の嬌態。

 調教され、快楽に溺れ、濁って輝きを失った瞳。
 ゾッとする。
 そのような本能がスピリットにもあるのだとすれば、まさにそれに従っているだけの狂宴。
 幼かった自分に、問答無用で叩きつけられた恐怖。
 しかし確かに、自分は浴室でのユートへの奉仕で興奮を覚えていた。
 沸き起こる嫌悪感。
 耳元で、『それがお前の本性だ、私が見出した通りの』と囁かれている気がする。
 体がガクガクと震え、掛けたはずの腰が床にずり落ちる。
 たまらず何かすがりつくものを探した。薄い布しかなかった。
 スピリットに上等な寝具は用意されない。
 毳立けばだって、そしてそれさえもベッドからずりおちそうなシーツ。

 かつてユートに提供し、彼が療養していたベッド。
 エスペリアはシーツに顔を埋める。
 ユートの匂いはそこにはない。当然だ。あれから月も過ぎ、シーツは何度となく洗われている。
 匂いを求めるなら、脱ぎ捨てた服の方が適当だ。
 不意に涙がこぼれた。
 夕食時、またユートと顔を合わせることになる。
 彼はその時どんな顔をするのだろう。あんな姿を曝した自分にどんな目を向けるのだろう。
 それを想像するのは、とても怖いことだ。
 もしそうなったとしても、自分は忠実な部下としての立場で臨んでいればいいだけなのに。
 なのに彼と過ごした時間の中で、少しずつ惹かれはじめている自分を否定しきれない。
 それに気づいてしまった以上、過去に自分にあったことと、今自分が抱えてしまっている欲求。
 それを想う人に知られるのは、どうしても避けたい。
 はしたない過去と、雌の本能。軽蔑される。嫌われてしまう。
 嫌悪感を催す身体の欲望。
 それでも沸き起こる、心の欲求。
 どちらが本当の自分なのか、わからない。
 そして再び覚える忌避感。
 近づいて、受け入れてくれて、その時もし、彼が『あの人』と同じになってしまったなら……?

 一度味わった喪失。二度目は嫌だ。
 必ずそうなると決まった訳ではないのに、エスペリアの脳裏には自分のせいで死んでいくユートの姿が何度も浮かんでは消える。
 大切な人を失うよりは、自分が消えた方がいい。
 しかし自分が消えては、妹や、仲間達を誰が守るのか。
 ならばいっそ近づくことを止め、忠実な部下を演じ続けるか。
 そう思えれば簡単だ。だがそれを許してはくれないほど、彼の声も、態度も、エスペリアには暖かすぎる。
 ――もう、何がなんだかわからない。

 シーツにくるまり、どれほどの時間が過ぎただろうか。
 寒さを覚え、エスペリアは顔を上げる。
 当然だ。湯に塗れた身で、体を包んでいたシーツももう使いようにならない。
 日が落ちている。
 ――いけない。夕飯の用意をしなければ。
 エスペリアはシーツをまとめ、脱衣籠に放り込んだ。
 タンスから新しい服を取り出して、それに身を包む。
 身体に馴染んだいつもの服。
 いつもならそれで引き締まり、気分が新たになるはずなのに。
 わかっている。服は身体を包むもの。所詮心までは装えない。
 心を包む、今だ毳立った、ずりおちそうなシーツ。

 いずれ、シーツが取り去られる日がくるのだろうか。
 それとも新しい、綺麗なシーツを纏うことができるのだろうか。
 本当は、そうしたほうがいい。
 だが……これは確信できる。新しいシーツが渡っても、それも恐らく毳立ちがあることだろう。
 その手触りは、心地のいいものではない。
 溜め息をついて、部屋を後にする。
 どうしたらいいのかはわからない。
 だが、日々やることには追われている。
 ならば今は、できることからやるしかない。
 さしあたっては今日の夕食だ。
 幸い料理は好きだ。下ごしらえは済んでいる。きっと集中できることだろう。
 ……できる、はずだ。しなければならない

 エスペリアは改めて息をつき、エプロンの帯をしめた。

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