沈黙が破れ、マナのざわめきが戻ってくる。
霧が、天に昇っていく。
ウルカはその中に、それが見せた最後の表情を探した。
見知った顔だった。よく知っている。剣の癖も、好きな果物も、苦手な虫も。手塩にかけて育てた少女だ。
唇が動いていた。断末魔の悲鳴ではなかった。声が小さくて聞こえなかった。もしかしたら、硬直したマナで伝わらなかったのかもしれない。
だが、よく見た動きだった。これも見慣れた動きだった。注意してみたことなどないが、最後の最後でゆっくりと動いたそれは、間違いなくその動きで自分に向けられていた。
霧の中に、その谺にさえなりきらなかったものを探す。だが、どこにも見当たらなかった。
焦りとも苛立ちともつかないざわめきが心を塗りつぶしていく。
今さらそれを聞いたところでどうにかなるものではない。だが、探さねばならない。
あの少女が、最後に自分を呼んだ声を。いくら注意しても直らなかった、舌っ足らずな、どこか甘えるような調子の、かつての自分を呼ぶ、あの……
「隊長!」
背後――思いもよらぬところからその声が響き、ウルカはとっさに振り返る。
そうだ、その呼び声だ。
幼さの抜けない小柄な体、赤い綺麗な髪。うなじが見えるか見えないかのところで切り揃え、暇さえあればそれをいじくっていた。
そんなことにかける時間があるなら剣の腕を磨け、そういった自分に、緊張気味ながらも髪は女の命なんです、と恨みがましく反論してきた。
基本的に無口だったが、時々なんでもない、そこら中にありふれたものを、何か特別なものでも見つけたかのように自分に報告する。
それが始まる時はきまってその声だ。今のように唐突に、何が嬉しいのかはわからないが、自分を大きな声で隊長と呼ぶ。
そして自分は答える。何だ 、今度は何を見つけた――
「――――」
だが、その名を口に出すことはできなかった。
振り返った先にいたのは、その少女ではない。
幼さの残る小柄な体――そして、青く腰まで届くポニーテール。
ああ、そうだ。わかりきっていたことではないか。
その少女は今、自分が手にかけた。マナとなって再生の剣へと還り逝く霧と、唇の動きだけを残して。
だからその声が、その少女のものであるはずなどない。
サーギオス帝国スピリット隊長、拘束のウルカを呼ぶ声ではない。
ラキオス王国スピリット隊第4隊長、冥加のウルカを呼ぶ声なのだ……
「すごかったですね! でもでも、それもネリーのサポートあってのことですからね!」
駆け寄ってくる青い少女は、無邪気に、誇らしげにそう言う。
確かにその通りだ。最高位の青の神剣魔法。マナの動きを止め、その振動を利用した神剣魔法が押さえ込まれる。
変わりに乱れのないマナ空間の中、剣は揺らぐことなく通り、その攻撃力は爆発的に増加する……
そう、この少女の言うとおりだ。だからウルカはあの少女を斬れた。
もしそれがなければ、威力が落ちて止めまでは刺せなかったかもしれない。
剣より魔法を得意としていた彼女が、せめて一矢、こちらに報いることができたかもしれない。
なにより最後の、あの唇から振り絞られたかすかな囁きを、マナが自分に伝えてくれたかもしれない……
鞘を握る手に、知らずに力が篭っていく。
可能な限り自制した。そう、この青い少女は何も知らない。今霧に還った敵がかつてのウルカの部下だったことなどどうしても知りようはない。
だから彼女は嬉しいのだ。戦闘が勝利に終わったことが嬉しいのだ。自分が勝利に貢献できたことが嬉しいのだ。きっとサーギオスから放逐されたウルカが、今のように一見なんの躊躇いもなく、かつての母国を相手に戦って勝利できることも嬉しいのだろう。
――黙れ、お前に何がわかる。
口から出る前に、胸の中でその叫びを殺した。自分は武人だ。今は隊を預かっている。個人的な過去や苛立ちは、決して戦場で見せるものではない。
それに、この少女は何も悪くはないのだから。
「ネリー!」
凛とした声が通り、はしゃいでいたネリーが肩をすくませる。
恐る恐る振り返ると、そこには赤い女性が立っていた。
奇しくも今散った少女と同じ様な、肩で揃うような短い髪だ。
「何をしてるの。まだ戦闘は終わってないのよ」
「ぅ……でも」
「小さな勝利に浮かれて、部隊の壊滅を見逃す気? 遊びでやってるんじゃないのよ。あっちにまた強力な赤スピリットが攻め込んできてるわ。ハリオンを援護してあげて。急いで!」
「はーい!」
呼びに来た赤スピリット――ヒミカに呼ばれ、ネリーは翼をはためかせて小さくなっていく。
ヒミカはその後姿をしばらく追った後、視線を動かさずに言った。
「聞いてもいいかしら」
「何を、でしょう」
「……部下、だったんでしょう」
「……ええ」
しばしの沈黙。
「まだ戦闘は終わってないわ。落ち込むなら、これが終わった後にしてちょうだい」
「そのような心配は無用です。もとより覚悟はしていたこと。今ので腹が据わりました」
視線を合わせない会話。冷たい物言いだが、ヒミカの言っていることは正しい。
だが、戦場では時に優しさを殺さねばならない。
今までもずっとそうしてきた。ウルカも、そして恐らくヒミカも。
だがその痛みに慣れることはない。戦争が終われば、時が過ぎればそれは癒えてくれるのだろうか?
「無理かもしれないけど、ネリーのことを怒らないであげて。あの子はまだ幼いから」
「わかっています。手前は……ラキオス第4スピリット隊長なのですから」
「そう。それじゃあ行きましょう、隊長」
そう言ってヒミカは駆け出す。ウルカも後を追う。
その最中、ポツリと声が投げられた。
「……同情するわ。けど慰めはしない。私にはよくわからないし、何より貴女が選んだ道だもの」
「かたじけない」
それを最後に、会話は途切れた。
ウルカは走りながら翼を広げ、ヒミカを追い越していく。
影が頭上をとおりすぎる際、何かが身体に当った。
暖かな水。悲しい飛沫。
「雨……?」
だが顔を上げても、空に雲はない。ウルカはもうすでに先を行っている。
雨と感じたものは、それきり二度と落ちてくることはなかった。