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 道を歩く途中で、黒いものが蠢くのが見えた。
 よくよく見てみれば、それは花壇にうずくまり、手入れをするウルカの姿だった。
 ナナルゥは我知らずに足を止め、その姿に見入った。
 かつて、漆黒の翼と恐れられた黒スピリット。
 それが穏やかな笑みを浮かべて、愛しそうに草花に語りかけている……
 やがて作業も終わったのか、ウルカが立ち上がる。
 そして初めてこちらに気がついたのか、目があった。

「ナナルゥ殿……どうされました」
「いえ……なんでもありません」

 特に用があったわけではない。
 とっさにそう答える。ウルカの視線はどこかいぶかしむようになった。
 いたたまれなくなって、足早に館へと向かおうとする。
 そこに、制止の声がかかった。

「ナナルゥ殿、少し話でもしませぬか」
「……はい」

 特に話すことがあったわけでもないが、館に戻ってすることがあるわけでもない。
 ナナルゥは逡巡の末そう答えると、ウルカにが招いた傍に座り込む。
 そして……口を開くことはない。
 ウルカも話をしようと読んだ一方、口を開くことはない。
 もともと彼女も口数の多い方ではない。どちらかと言えば無口だ。
 陽光と柔らかな風が、二人の妖精と、その前に広がる花々を包み込む。
 端から見れば、もどかしく見えるかもしれない情景。

「いい天気です……」

 沈黙の邪魔にならないよう、ウルカがぽつりともらす。
 それは実際独り言だったのかもしれない。
 だが、それが場を変えたのは確かだった。
 かつてサーギオスで隊を任されていたウルカ。それはもちろん戦いの技量によるところも大きいが、その立場にあった中で彼女が磨いたのは剣の腕だけではない。
 時にこうして、何かを思いあぐねている仲間に、それを自然に吐き出させる。
 そういう術や雰囲気にも長けているのであろう。
 それが呼び水となって、ナナルゥはぽつりぽつりと己が心の内を語りだした。

 ナナルゥは良く出来たスピリットだった。
 早いうちから神剣との同機が進み、意志も感情も、希薄で表にでることが極めて少ない。
 多く感情を示し、よく言えばイレギュラーな、悪く言えば厄介者の集団であった旧ラキオスに於いては、もっとも範とされるスピリットとして、訓練士の評判は高かった。
 しかし、一度戦争が終われば。
 この大地を因縁づけたエターナル達の拘束が解かれ、スピリットが解放された世の中は、彼女には戸惑いを植え付けた。
 何をすればいいかわからない。
 自我を取り戻したからと言ってすぐに自分の人生が見つかるかと言えば、決してそうとばかりは限らなかったのだ。
 もっと的確な表現をすれば、自分が何をしたいのか、それがわからない。

「試しに、飲食店の仕事をしてみました」
「どうなりました?」
「……愛想が悪いと三日でクビになりました」
「……お察しします」

 失敗談を語るナナルゥの表情は暗い。
 もともと感情を見分けることが難しい彼女の美貌に、今はありありと不安が浮かんでいる。
 仕事がないから食べていけないかと言えば、そうとは限らない。
 古参のラキオス兵であったナナルゥには、食べるには困らないくらいの恩給が支給されている。
 だが……それでは、違う気がするのだ。
 回りのスピリット達は、戸惑いながらもそれぞれのやること、やりたいことを見つけていく。
 それを見れば、自分にも何かはできるのだろうと思う。
 しかし、何かをしたいという明確な目的が見えない。
 葛藤。取り残されていく不安。

「手前にも、いまのナナルゥ殿のような時期がありました」

 沈んでいくナナルゥの横顔を見ながら、ウルカが言う。
 ナナルゥは顔を上げ、ウルカを見た。
 目は、優しかった。

「サーギオスを放逐され……オルファリル殿に見つけられ、エスペリア殿に世話を焼いてもらい……声が聞こえなくなった剣からさらに力すら感じられなくなった。唯一の価値である、戦うことができなくなった。ならば自分に何の価値があるのかと、そう思い悩みました。状況こそ違えど、今のナナルゥ殿の悩みは、手前には他人事とは思えませぬ」

 安易な同情や慰めではない。不思議な重みがあった。
 それは、同じ思いをしたものでなければ言えない言葉だ。

「結局、手前はまた剣を握りました。無骨な手前には、それしかすることが思い浮かびませんでした故。ですが、今はこのように花を愛で、日々を楽しむこともできるようになりました。……何故だか解かりますか?」

 ナナルゥは頭を振った。解かるわけがない。
 それこそいくら考えてもわからないのだ。どうやって生きればいいか。何故他のスピリットは笑うことができるのか。
 常に頭からそれが離れない。そして結論はいつも虚無だ。木陰で。ベッドの中で。喧騒にさざめく街角で。
 時には、涙さえこぼれる。

「手前が何故剣を握れたか。あの時はそう、まだ旧マロリガンとの戦の最中でした。帝国のスピリットに浸入され、ここを守れるのは手前だけ。手前は守りたいと思いました。優しくしてくれた人たちに報いるためにも。そう強く思ったら、再び剣の声が聞こえたのです」

 ナナルゥの目を見つめながら、ウルカは諭すように言う。

「思うに、ナナルゥ殿は少しばかり考えすぎなのではないでしょうか。楽しめるようになったからと、無理に楽しむ必要はないのではありませぬか。やりたいことが見つからないなのなら、見つかるまで待てばいい。恩給とて、レスティーナ女王陛下から正当な報酬。ふんぞり返って頂いていればよいのです。何しろ我々は英雄なのですから」

 そして、にっこりと笑う。
 その言葉に、ナナルゥは驚きの表情を浮かべた。探らなくてもわかるほどに、はっきりと。
 常に質実たるウルカのこと、冗談交じりとしても、その彼女がこれほど倣岸なことを言うとは。

「焦る必要はありませぬ。ゆっくりやればよいのです。時間はたっぷりとあるのですから。まずはゆっくり休んで、休むのに飽きたら動き出せばいい。全てはそれからです」
「それから……」

 そして、一転して諭すような穏やかな口調。
 ナナルゥはその言葉を、じっくりと噛み締めた。
 焦る必要はない。ゆっくりやればいい。
 全ては、それから……

「……でも、それでも何も見つからなかったら」
「大丈夫です。ナナルゥ殿のように悩まれるのは、意思あればこそ。見つかりますとも。見つけたいと思って探し続ければ、それはきっと見つかります。……手前はそう信じております」

 弱気になって出た言葉を、ウルカは優しく、力強く否定した。

「そうだ、ナナルゥ殿。手始めに手前の庭いじりを手伝っては頂けませぬか」
「園芸、ですか」
「はい。実を言うと仕事が少々忙しくて、なかなか世話をする時間がとれませぬ。無理にとは申しませぬが、何かの気晴らしになるかもしれませぬし」

 ナナルゥはしばし考え、結局その提案を受けた。
 翌日から毎日花壇に向かい、渡されたメモを見ながら手入れをする。
 頼まれごと。言われたこと。それを繰り返しているだけの作業。
 本当にこれでいいのだろうか、そう思い続けるある日。
 花壇に、花が咲いていた。
 ふと、何かが実ったような気がした。

 翌年、ナナルゥは鍬を担いで庭を増設した。
 やがて彼女の庭は広がり続ける。植えられるものも次第に花から野菜、果物の木へと広がりを見せていった。
 そして今、さんさんと降る日差しの中で、ナナルゥは果物の様子を見ている。
 随分実った。そろそろ収穫の時期が近い。
 今年は雨量が少し少ない。その分果実には甘さが凝縮されて、みずみずしく美味しい実をつけることだろう。果実酒にしてもいいかもしれない。
 そしたらまず樽を買ってこなければ。それに耕地もまだまだ拡げられる。いずれは蔵でも建ててみようか。
 そうなったら大変だ。まずは醸造の方法を教わらなければならない。一人では大変だろうから、何人か手伝ってもらうか、雇わないといけないだろう。ギルドへの加入費や、酒税の計算も始めなければ……
 やることが多くて目が回る。自然相手の仕事だ、気を抜く暇もない。
 だが、ナナルゥの表情は明るい。
 汗を拭う手は土にまみれ、自然と拭われた顔もその色に染まる。
 それでも彼女の顔は、頭上に輝く太陽に引けをとらないほどにまぶしい。
 ナナルゥは再び空を見上げる。まったくもって忙しい。やるべきことがめじろ押しだ。
 そしてそんな風に忙殺されている自分に、また一つ、微笑を浮かべた。
 明日は、久しぶりにのんびりしてみようか。
 誰かに手伝いを頼んで、自分はゆっくり、あの花壇の花に水でも撒いていよう。
 それから買物に行き、街を歩く。そう言えばウルカの訓練場は盛況だと聞く。顔を出して見てもいいかもしれない。
 休みは一日しかない。それでもその中に収まりきらないほど、したいことが浮かんでは消えていく。
 それから……

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