作者のページに戻る

 練習後、部員は一同音楽室に集まってミーティングを行う。
 それは明日の活動予定の報告だったり、今日の練習内容の反省だったり、あまりにその内容がひどければ部長をはじめとする幹部部員や先生からのお小言だったりする。
 だが、大抵は一日の練習を締めるための習慣であり、前者、つまり簡単な反省をして解散というものだ。
 今日もおそらくそういうものだろう……入部から少し時間が過ぎ、ようやく部の雰囲気にも慣れてきた香織はそう思い、別段構えることもなく楽器を置いたばかりの部室から音楽室へと足を踏み入れた。
 とたん、何かが背中を這い上がった。いつもと様子が違う。
 いつもならこれから帰宅後の予定や明日の宿題についてあれこれとしたおしゃべりで騒然としているはずの音楽室に、その喧騒がない。
 普段なら部長が「これからミーティングはじめるよー。はじめるったらー。はじめるっつってんのがわからんのか貴様らー!」と怒鳴りだすまでやまない開放感が、今日は音楽室のどこを見渡しても見つけることができない。
 変わりに部員が皆、授業中の教室のように整然と席についている。席にあぶれた者は壁沿いに立つ。  それはまるで……そう、時代劇でしか見たことがないが、きっと浅野匠守切腹の知らせから一週間がたった、大石内蔵助の登場を待つ赤穂城の広間はこのような雰囲気であったのだろうと思わせるような厳粛さがあった。
 香織はその気にあてられ、入り口で思わず足を止める。
 それにぶつかりそうになった小鳥が文句を言おうとし、そしてやはりその音楽室に飲まれて押し黙った。
 それほどまでにその空気は異常だったのだ。何しろ夏小鳥と言えば、例え黒尽くめの侵入者にM4アサルトカービンを突きつけられ、あまつさえ「動くな」とすごまれても「うわうわこれってあれですかホールドアップってやつですか! すごーい私ホールドアップ初体験です! でもあんまり嬉しくない初体験ですよね。それにしてもどうして私にホールドアップなんですか? ホールドアップと言ったら銀行でしょう銀行! 私お金なんて持ってないですよ。もちろん民間人だからドッグタグもぶら下げてないし。ハッ。ということは狙いはずばり私ですか? 私ですね? 私だったんですね!? いえいえ貴方の目を見ればわかります。貴方、この可愛らしい夏小鳥ちゃんに一目ぼれしちゃったんでしょう! ああ、通りすがりの侵入者さんにさえこんな凶暴な愛の形をとらせてしまう私ってなんて罪な女なんでしょう。でもでも、残念ながら私は貴方につかまってあげることはできません。何故って私は幸せの青い鳥。私の宿る枝は悠人先輩って生まれた時から決まってるんです。あれ、ちょっと侵入者さん聞いてます? 聞いてませんね? ていうかどこ行くんですかこれから悠人先輩がいかに魅力的な男性かを語ってあげようとしてたのに、おーいおーい」とそれこそ息をつかせぬマシンガントークで撃退してしまうであろう騒がしさを備えた少女なのだから。
 固まる二人の後ろで、咳払いがした。振り返ると、先輩の一人が早く行けと目で言っている。
 香織と小鳥は慌てて先に音楽室に入っていた同じフルートパートの先輩のもとに駆け寄る。
 依然、教室内は粛として静まりかえっている。
 香織は勤めてその空気を乱さぬよう――事実、そのどんよりと鬱積した静寂に穴を空けようものなら、そこで暴発寸前までに高められたエネルギーがその小さな穴から本流となって自分に襲い掛かってくるのではないかと香織は本気で恐れた――隣に立つ先輩に尋ねる。

「あの……先輩」
「ん……何? 香織ちゃん」
「えと、これ……なんですか? 今ってミーティングの時間ですよね」
「そうよ。……ああ、そうか。二人とも初めてだったわね。あのね。ちょっと今日は特別なの」
「特別……ですか? あの、何がです?」
「それは聞いてればわかるわよ。おっと、おしゃべりはここまでね。部長が来たわ」

 先輩はそう言って一方的に会話を打ち切り、部長の入ってきた入り口を見る。
 香織もつられてそれを見る。
 そして今日は、その部長もどこか違った。
 いつもは人のいい笑顔が常に浮かんでいるのに、これは時代劇ですら見たことはないが、きっと大阪冬の陣で徳川の旗印に特攻をかけた真田幸村はきっとこんな顔をしていたのだろうなあと思わせるほどに顔が引き締まっている。
 目を覗き込むと、なにやら炎が宿っている。
 マグマだった。
 人に知られざる地底で、華々しさはなくともグラグラと煮え立つ黒い赤。そのまま街を歩けば職質どころか問答無用で公安に連絡をされかねないほどの、一種狂気とさえ見れるような熱のこもった目だ。
 そして、右脇に抱えた紙包み。香織も入部して見るようになった。あれは楽譜の入った袋だ。
 見ると、2、3年生の視線は、部長と同じような熱をもってその紙包みを見守っている。
 やがて部長は教壇に登り、教卓代わりに置いてある指揮者ようの譜面台にその紙包みを乗せる。
 そして、顔をあげ、耳鳴りのするような静寂を睥睨し……ゆっくりと口を開く。

「諸君。私はここにある通告と、それそのものとも言える楽譜を用意したわ。
 数多ある候補から、彼我兵力差を省みて吟味に吟味、討論に討論を重ね、ついにこの日がやってきたのよ。
 ところで皆、ひとつ確認しておきたいことがあるんだけど。
 本当にこれでいいのかしら? 私たちがしようとしていることは、本当に正しいのかしら?
 当然のことながら、部活動、つまり学校教育の一環として行われる活動だから、部員が好き勝手を言うことは許されない。つまり、これから告げることを聞いたら最後、皆はどんなにいやでも全員参加でそれに臨まなければならない。その覚悟は皆にあるのかしら?
 考えても見て。これから私たちがこの楽譜と共に目指すステージは、普通のステージじゃない。定期演奏会みたいに町中にポスターが張り巡らされるわけでもない。経験者や保護者以外の聴衆なんて滅多に来ることがない。しかも私たち……いえ、すべての参加者に与えられる時間は12分。たったの12分! メタルギアソリッドならムービーをカットしても、果たしてリボルバーオセロットと闘りあえるところにまで届くかどうかもわからないような短い時間。私たちはそのために何ヶ月も練習する。時には周波数が1Hzにも満たないほどの横のズレをしつこく調整し、時には計測すれば0コンマ何秒でしかない縦の線をそろえるために一日をかける。
 たった12分のステージのために。
 馬鹿らしくはない? 普通の女の子なら、その数ヶ月で彼氏を作ったりデートしたり、あれをしたりそれをしたり、かと思えばこれをすると見せかけてどれにだって手が出せるほどの大きな時間。きっとそれは素敵な青春の思い出として、日記や写メやプリクラに残したりできるわ。それを、私たちは無駄にしようとしている。ああ、クラリネットやサックスはそれも将来の練習になるかもしれないけど」

 そこで部長はいったん言葉を切る。クスクスという笑い声がどこかから聞こえた。
 クラリネットやサックス……マウスピースを口に含んで鳴らす木管楽器。どの楽器も練習すれば将来何かの役には立ちそうなものだが、あえて部長がその二つの楽器を選んで言ったことに香織は疑問を覚えた。
 同時に小鳥は顔を赤らめる。そこから何か意味深な台詞であったのだろうと香織は推測する。
 しかし、それだけだった。やはり2年生と3年生の生徒は、特別な反応を示すでもない。
 部長の演説は続く。

 

「まあそれはそれとして、やっぱり普通に考えたら、こんな修行僧みたいな真似なんかしないのが当たり前よね。
 だけど。中には馬鹿もいる。時には修羅にさえその身を落とすほどのつらい、はたから見れば無駄とも思える時間を過ごすことに命をかける阿呆どもが。リードを噛む下唇が切れても。マウスピースとキスをする唇が血を吹いても。スティックを握る手のひらの血豆が破けてしまったとしても。それでもこの無益な戦いに身を投じようとする馬鹿は確かにいるのよ。
 さて……貴女たちに聞きたいわ。この中にそんな馬鹿はいる!?」

 部長は音楽室に控える部員全員の目を覗き込み……
 それより先に突如として、部屋中に咆哮が巻き起こった。
 私だ! アタシよ! ボクもだ! 拙者が! なんのわらわこそ!
 およそ乙女の園であるはずの音楽室に、大塩平八郎の乱もかくやというばかりの、とても乙女の名乗りとは思えないほどの雄たけびが次々と沸き起こった。

 中でも印象的だったのがオーボエパートの唯原先輩(仮名・2年)だ。普段は香織よりも小柄で愛らしい容姿から部の内外を問わず癒し系と認められる彼女が、猛然と立ち上がり「ふざけんな、男なんざいるか! この道に入ったからには、このオーボエが俺のディックだ! 唇がファックするまでサオ(オーボエ)しゃぶり尽くしてやる!」とシャウトしていた。
 そして、その豹変を見て驚くものは、一年生の他には誰もいない。
 部長はしばらくその怒号の中に身を置き、そして十分にそれを受け止めると、静かに右手を挙げた。
 同時に、ピタリとその喧騒が止む。

「よくわかったわ皆。ありがとう。こんな気持ちのいい馬鹿野郎どもを従えることができた、今年の部長であれたことを私は今、皆と、それから古今東西の神仏に感謝するわ。
 さて、それじゃあ皆の覚悟を聞いたところで本題に入りましょうか。
 ……勿体ぶるのは趣味じゃないわ。単刀直入に行く。全日本吹奏楽コンクール、今年のうちの自由曲は……これよ!」

 部長は言いざま振り返り、極太チョークを握ると黒板に叩きつけ始める。
 軽快な音が響くべき黒板からしばらくガツ、ガツという音がしばらく打ち鳴らされる。
 部員は皆黙としてそれを見つめる。
 やがて部長は腕をいっぱいに伸ばして黒板に堂々とした文字を表し、振り返った。
 直後、それを注視していた部員の間からざわめきが起こる。
 現れた文字は……春の祭典。

「部長、本気!?」

 一人が立ち上がり、問うた。
 ホルンパートの天見先輩(仮名・3年)だ。

「春の祭典なんて……ちょっと、レベルが高すぎない!?」

 そこかしこで頷く頭が見える。
 部長はそれを受けて、冷然と言う。

「だから?」
「無理よ、そんなの!」
「あら、始める前からそんなこと言うの?」
「こんな冒険は危険すぎるって言ってるのよ!」
「無理かどうかは、これからの私たち次第よ。違う?」
「でも!」
「それとも、ブルーリッヂサガでもやれっていうの? 或いは定番のホルストの二組? 確かに去年は『実力を考えて』そのあたりのレベルに抑えたわ。そして結果は県大会ダメ金。そのことを忘れたの?」
「くっ……」
「わかってると思うけど、これは決定事項だから。不満があっても一切聞き入れないし、妥協するつもりもない。それに……天見、貴女は一つ勘違いをしている」
「……何よ」
「それはね。今の実力で曲を決めてたら、今のレベルの曲しかできないってことよ。去年のダメ金がその何よりの証拠じゃない」
「…………」

 天見先輩(仮名・3年)は、部長の得体の知れない迫力に押されて席に戻る。
 相手をやりこめた感慨などどこにもない口調で、部長は先を続ける。

「多分、他にも不満のある人はいるんでしょうね。だから、何故この曲にしたかをまず説明するわ。
 まず、今年の課題曲がマーチであること。これはもう私たちのやる曲は決まってるけど、はっきり言って今年の課題曲はどれもこれも変わり映えのしない、面白みのないものよ。それについてできるのは、せいぜいミスをしないことだけ。だからこそ、自由曲でインパクトを狙う必要がある。
 それに今年は新入部員も多かった。即戦力になりそうなのもいるし、編成的にも余裕を持って組めるわ。
 もちろん、だからと言ってこれが難しい曲であることに変わりはない。偏拍子に不協和音。実はすでに先生とも約束してます。一月たって形ができなかったら、しょぼくて簡単でわかりやすいのに自由曲は変更すると。でも……」

 部長はそこで両手を譜面台に叩きつけ、教室中の全員を睨んだ。

「だからこそ! ここまで来たら退くわけには行かないよ! いい? これは意地よ! 私たち部員、全員の意地の問題! やるやらないの問答は無用! そんなあまったれた根性のヤツは、いますぐ出て行ってかまわないわ、残った者だけでこの戦を進める! 部が自分に何をしてくれるかではない、自分が部に何をできるかを考えなさい! 合言葉は、『夏に春の祭典を!』」

 そして、再び咆哮が巻き起こる。
 それに負けないほどの大声で、部長は初めの指示を下す。

「では、これよりすべての活動を開始! まずはパートリーダー、譜面を取って人数分コピーしなさい! あ、それからこれレンタルだから。原譜汚したり傷つけたりしたら、弁償代は体ででも払ってもらうからね」

 しかし、それを聞くものはいない。
 指名されたパートリーダーは、我先にと紙袋へ群がり、袋を引きちぎらんばかりの勢いでそれぞれ譜面を手にして散っていく。
 香織はその様子を眺めながら、傍らの小鳥にポツリと言った。

「なんか、すごい世界に入っちゃったかも……」
「……うん」





 ※用語解説

 ・全日本吹奏楽コンクール
 別名吹奏楽の甲子園と言われているとかいないとか。日本は何故かはしりませんが、実に吹奏楽が盛んです。吹奏楽部のない中学校、高校、大学はむしろ珍しいとまで言われているとかいないとか。
 そしてその一同が会して演奏の技術を競い合うのがこの吹奏楽コンクールです。
 日程は地域によってばらつきがありますが、大抵7月の末に地区大会、8月中旬に都道府県大会、下旬に地方大会、そして最後に9月か10月あたりに全国大会が行われます。なお北海道や東京など、やたらと広かったり学校数が多かったりすると、地方大会とかの地区割りがちょっと面倒になります。
 このコンクールは勝ち抜き式です。演奏終了後に各校それぞれ金銀銅の成績が振り分けられ、成績が上位の学校がそれぞれの大会の代表校として上位の大会に進出します。
 吹奏楽関係者にとっての一大イベントですが、実は対外的な宣伝活動をほとんど行っていないため、それ以外の人は開催を知ることさえ滅多になく、はたから見れば実に異様な盛り上がりを見せる行事の一つです

 ・マウスピース
 歌口と言われる部品。木管楽器の場合はこれとリードと言われる部品を金具で固定して、さらにそれを上の歯と下唇で固定して息を吹き込み振動させることによって音を奏でます。
 なお下唇はあらかじめ紙を歯につけて保護したりしないと、切れます。
 金管楽器は金属製の一端が異様に太く、大きくなった短い管のことをいいます。あまりに無理な奏法、練習をすると、これとの摩擦により唇が痛くなったり、血を吹いたりします。
 なお金属製なので、寒い日にいきなりこれとキスすると顔面神経マヒに陥ったりします(実話)。

 ・ダメ金
 コンクールにおいて金賞を受賞しながらも、成績があと一歩及ばず上位大会に進出できなかったことのことを言います。ダメ金と上位大会出場の間には高くて厚い壁がそびえていると言われます。

 ・春の祭典
 イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲のバレエ組曲。1913年。ロシアの某地方の土着の踊りをアレンジしたもの。不協和音や偏拍子が極めて多く、その踊りもそれまでの優雅な、いわゆるバレエ的なものではない。第一部8章、第二部6章からの構成。全曲演奏すると小一時間ほどかかるため、吹奏楽コンクールの自由曲になるときは大抵その中の2,3曲を演奏します。

 ・横の線(ズレ)
 いわゆるキーやピッチ、つまり音の高さ。これがずれると音の波がずれ、うなりが生じます。このうなりはかなり気持ちの悪いもので、一般にこれが入っていると気持ちの悪い音です。演奏前に行う楽器のチューニングとは、このうなりを消すためのものです。さらに音には純正調と平均正調があり、和音を構成する際……(以下薀蓄)

 ・縦の線
 いわゆるフレーズやリズム、パッセージがそろっているかということです。これがずれるとある意味音楽は崩壊します。なお音楽を奏でる際、その人の性格や心理状態によってテンポから外れ、遅くなったり早くなったりします。これを皆同一のテンポで奏でようとするのが、縦の線をそろえる作業ということです。

 ・不協和音
 汚い和音。使いようによっては不安感、嫌悪感、恐怖感を煽り立てます。これで横の線がそろってなかったときにはさあ大変。

 ・偏拍子
 いわゆる3拍子、4拍子のような整然とした音楽運びではなく、例えば7/8→5/8→6/8などの頭がどうにかなりそうな進行を見せます。つまり、慣れていなければ文字通りリズムを狂わされるような音楽進行をさせるもの。ただ、慣れるとこれがどうにも気持ちいいという人たちもまれにいるらしいです。

作者のページに戻る