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私がルティナさんの所で生活するようになって、二週間が経った。
その二週間を省みる事は…出来る事ならあまりしたくはない。
生憎と自分の無知を再認識する勇気は持ち合わせていない。
それでもこの二週間を結果のみで表すなら、大量の本を読むようになった事が挙げられる。

本を読むこと。
それが私にどのような効果をもたらしたかと問われれば、私は間違い無く色々な事を知ったと答える。
例えば、敬語。
例えば、ルティナさんの言っていた一般常識。
例えを挙げていけばキリがない。
だが、敬語についての補足的な話をさせてもらえば、私はルティナさんに敬語を使っていない。
何故か、と問われればその答えは実に簡単。
ルティナさんに笑われたからだ。
敬語を知った私は彼と話す時に敬語を使って話した。
それを聞いた彼は目を丸くし、その数瞬後に笑い出したのだ。
大爆笑だった。
思わず私は敬語を忘れて今までの口調で聞いた。何でそんなに笑うの、と。
そこで彼は笑うのを何とか止めて、それでも体中で笑いながらこう答えた。
「いやー、敬語なんていきなり使いだすからさー…あーおかしい」
何でおかしいのだろうか?
確かにそれまで一切敬語を使わなかったことは確かである。
でもそれだけの理由でそこまで笑うことも無いだろうに。
そして彼に今まで通りの話し方にして欲しい、と頼まれてしまえばもうそれまで。
結局今まで通りの話し方に戻ってしまった。
それでいいのか、という疑問もあるし。
このままでもいいか、という安堵のような物もある。
自分の事であるのに分からない、といった感覚も不思議だと思う。



今日はここで終わりにしよう。
そう思い私はペンを置き、紙に息を吹きかけインクを乾かす。
昨日から私は日記を付けている。
とある本に出てきた日記帳に憧れのようなものを抱いてしまったからだ。
自分では気が付かないが、その日記の部分を熱心に読んでいたようで直にルティナさんにばれてしまった。
彼は二階に駆け上がると埃にまみれた手帳を持ってきて私にくれたのだ。
でも、その時彼の表情には、蔭りがあった気がする。
日記帳は最初の数ページが破り取られ、うっすらとペンの後が残っている。
もしかしたら彼も日記を付けていたのかもしれない。
最後の部分を指で触って見て、インクが乾いたことを確認して手帳を閉じる。
そして明かりを消し、ベッドに潜り込む。
最近になって思うのだが、今私がいる部屋は元々ルティナさんの部屋だったのではないだろうか?
タンスに机、ベッドに本棚。
一通り見た館の中ではここ以上に部屋として機能する所は無い気がする。
だとしたら、今彼は何処で眠っているのか。
私が起きると既に彼は起きていて朝食の支度をしているため、それを確認するすべが無い。
実は彼は眠らないのではないか、等と突拍子も無い事を考えながら私は眠りに落ちていく。


「消沈の理由」 第三話:代




何故かやたらと早く目が覚めた。
まだ日が昇ってすらいない。
少しだけ考えて、起きる事にする。
服を着替えて部屋を抜け出す。
そこまでしてから、ルティナさんが何処で寝ているのかを知る機会なのではないかと思う。
よし、探してみよう。
意識して足音を殺しながら歩く。
床が軋んだ音を立てる度にびくりと体を止め、この音で既に彼は起きているのではないかと不安になる。
そうこうしている内に、何とか一階に降りる事に成功し、そのまま食堂へ向かう。
そこで、その中のソファーの中で、毛布に丸まっている人を見つけた。
間違いない。
ルティナさんだ。
慎重にソファーに近寄り、彼を観察する。
彼は、毛布に包まって、動かない。
その表情は、とても険しい。
何か怖い夢でも見ているのであろうか。
私にもそんな経験は一度だけあった。
あの日、得体の知れない何かに追い掛け回される夢。
それが夢である事に気が付いた朝は忘れることが出来ない。

「……ナナルゥ…」

…ん?
今、私の事を呼んだ?
彼の顔が苦しげな物から哀しげな表情へと変わっていく。
寝言は、新たな言葉を産む。

「…なんで……居なくなったのさ……」

なんで居なくなったのか?
どういうことだろう。
私は、今ここに居る。
何処にも、行きはしないのに。

「…どうして…なんでなんだよ…」

彼の表情に見入ってしまう。
その哀しげで、魅惑的な表情に。
私は彼を見続ける。

「…大丈夫だよ、私は、ここに居るよ」

彼の表情は、大分落ち着いていた。


そのままの状態で、どれだけの時間が経っただろうか。
まだ薄暗かった部屋が、だいぶ明るくなってきた。
そのことで頭がようやく正気を取り戻し、とりあえず彼の寝顔を視界から外すことに成功する。
そうしてからこれからどうしよう、と考える。
そうだ。
料理をしてみよう。
何時もルティナさんが作っているのを見ているから、大体のやり方は分かる。
よし、決まり。
足音を消すのも忘れて心なし駆け足でキッチンへ。
……………
………


「…っつ!!?」

あ、ルティナさんが起きた。
何故かきょろきょろとしている。
無理もないか、私がここで料理しているのだから。

「ルティナさん、おはよう」
「あ、ああ…? おはよう」
「もうすぐ朝ご飯できるから顔洗ってきて」
「ん…? う、うん。分かった」

彼はそう言い残して頭を傾げたまま部屋を出て行く。
無理もないか、私がここで料理しているのだから。

「って! そうじゃない!!」

ルティナさんが戻ってきた。
何故か手にはバケツいっぱいの水。
それをフライパンに向かってぶちまける。
あ…せっかく作ったのに。

「ナナルゥさん!? 何やってるの!!?」

何やってるのって…見れば分かるだろうに。
料理を台無しにされた事も手伝い、答えはかなりぶっきらぼうになる。

「料理」

ところがルティナさんは違う感想を持ったらしい。

「何であれが料理として成立するんだよ!?」

一息。

「何でフライパンから七色の煙が出てるんだよ!!!?」

うん、確かに私も疑問に思った。


その後、結局ルティナさんが朝食を作り、その後にこっぴどく怒られた。
そして今後料理を作りたかったら必ず彼に言うこと、作る時は彼の監督の元で作る事を約束した。
キッチンの後始末をしている内にお昼の時間が来たが、もう一度キッチンに立つ勇気はなかった。


彼の作った昼食を食べ、もう日課になっている読書を始める。
『君とあたしとの間にあったかもしれない信頼と友情は、今、ここで死ぬ』
ぱたん。
本日三冊目の本を閉じた。
読む事が、辛く、悲しい本だった。
思う。
思わずにはいられない。
優しい嘘、とは何なのだろう。
優しくも何ともないではないか。
これではただ悲しいだけではないか。
これではただ哀れなだけではないか。
聞いてみよう。
ルティナさんは何でも知っている。
何よりこの言葉を発したのは彼自身なのだ、知らない筈が無い。

「ルティ―――」

ナさん、と続く筈の語尾は口をすぼめる事で消えていく。
彼がいないのだ。
私が本を読み始めた時は私の正面に座っていた筈だが。


「………る…。………ら…え…」
「………う……も…か…」



ルティナさんの声と、もう一つの他の声。 
なんだろう?
来客らしいがそれにしてもルティナさんの様子がおかしいような気がする。
ちょっと見に行ってみよう。
椅子を立ち、玄関へ。
足は当然忍び足。



「今更戻ってきて、彼女を差し出せだ? ふざけるのも大概にしろよな」
「ふん、出来損ないが偉そうな口を利くのだな! 貴様に拒否権はないのだ、従って貰うぞ!!」
「あーやだやだ、人権無視の大暴論。これじゃあ理知的な会話は不可能かね」
「…貴様…! 調子に乗るな…!」



二人の視界に入らない物影から、私はこの会話を聞いている。
何の話だろう?



「ラキオスに送る? 一体何を考えているのだ貴様は!」
「俺としちゃあアンタこそ何を考えているのだ、だよ」
「分かっているんだろう? だったらその問いは無意味になるぞ」
「そうだな。じゃあ俺の迷惑の掛からない所で勝手にやってくれ、以上」
「…ふん、本当にお前は変わってしまったな。かつてのお前は何処に行った?」



まだ言い合いは続く。
あれは、本当にルティナさんなのだろうか?
自分の事を「俺」と呼ぶのもおかしいし、何よりも雰囲気が違う気がする。
出会って二週間。
それだけでも、相手の雰囲気を掴む事位は出来る。

―――と、空気が切れる音。
見れば。
ルティナさんがナイフを相手の喉元に突きつけている。



「俺は代替品。誰かの代わりにしかなれない存在だ。そんな事を気にする必要は無い」
「……ふん。随分とスピリットに肩入れするのだな」
「悪い見本はいくらでも知ってるつもりさ」
「っつ…! この、妖精趣味が…!」
「ふふん。褒め言葉として受け取って置くよ」



―――え?
妖精趣味?
ルティナさんが?
つまり。
ルティナさんが、私を、性の対象として、見ている…?
彼と居ると忘れそうになる事。
私がスピリットである事。
私が戦争の為の兵器である事。

疑問。
何故、ルティナさんは私に優しくしてくれるのか。
答え。
彼が妖精趣味で私を狙っているから。

思わずその場から離れる。
幸いにも音は立たなかった。
キッチンに戻り、椅子に座る。
目を閉じて、耳を塞ぐ。
これ以上は何も聞きたくない。



「……ナナルゥさん?」

その声に、ハッとする。
目の前にルティナさんが立っている。
いつも通りの雰囲気で。
いつも通りの微笑で。

「どうしたの? 何か様子がおかしいよ?」

その問いに、答える事が出来ない。
口が、答えを発する事が出来ない。
私はあなた達の会話を盗み聞きしてあなたが妖精趣味だと信じられずにいます。
そんな事、言える筈がない。

「…別に、何にも」
「…ふーん」

沈黙。
その沈黙の間、私はずっとテーブルを見ていた。
彼は何を見ていたのだろう。
そして。
沈黙を破ったのは、彼の方だった。

「――で、何処まで聞いてたの?」

思わず顔を上げる。
其処にいたのは、何時もの彼。

「僕とあの男の会話、聞いてたんでしょ?」
「………うん」

再び沈黙。
私は彼を見る。
彼も私を見る。
今度の沈黙を破ったのは。
私だった。

「ねえ」
「ん? 何?」
「代替って、どういう事?」

彼は、答えない。

「ねえ、教えてよ。分からない事があったら何でも聞いてって言ったのはルティナさんだよ」
「…聞いての通りさ。何かの変わりの事」
「そんな事が聞きたいわけじゃない。分かっているんでしょ?」
「……まいったね。もっと別の事聞いてくるかと思ったよ」
「それは――」

貴方は妖精趣味なんですか?
嘘っぱちだと、信じたい。

「あのね、僕の行動は、ぜ〜んぶ兄さんの行動をトレースしているだけなの」
「え………?」

どういう、事?

「僕にはさ、双子の兄が居たんだ」
「知らなかった」
「そりゃあ言ったこと無いからね。でまあどっちか片方が目立って優秀だともう片方の影は必然的に薄くなるわけで、僕らもその例に漏れなかった」
「……………」

そんな風には、見えない。

「それで彼の行動を僕は真似ている」
「……何で?」
「簡単な話。彼は天才だったんだ。
 彼は何でも出来た。運動、勉強、何もかも。
 顔立ちも整っていたし、万人に好かれる性格だった。
 おまけに人の心を掴む何かがあった。彼の周りには常に人がいたな。
 勿論、僕も彼が好きだったし、憧れていたさ。
 その彼が、17歳の時。僕が、16歳の時。
 彼は、消えてしまった」

其処まで言って、一呼吸置くルティナさん。

「原因は、良く分かっていない。
 事件かもしれないし、失踪かもしれない。
 僕がそれを知ったのは、家に戻った時の両親の言葉が、僕を迎えたものじゃなかった事からなんだ」


「…それで?」
「後は簡単。帰って来た僕を迎えた言葉は、兄さんを迎えた言葉だった。僕の話は、これでお終い」

そう言い、席を立ちキッチンへ向かおうとする彼を呼びとめた。

「ルティナさん……」
「ん? 何?」
「そんな、自分が要らない人間みたいな言い方しないでよ」
「…実際にその通りだからそう言っているだけだよ。僕は居ても居なくても同じような人間だったからね。事実は事実として受け止めないと」

そんな、他人事のような物言いに、私は苛立つ。

「あまりにも可哀想じゃないか! そんな考え!!」

思わず大声が出るが、そんな事気にもしない。

「要らない人間って何なの? その基準は? その理由は? 誰が決めて、誰が従うの!? そんな哀しい事言わないでよ!」
「……簡単だよ。何もかもが他人によって決まる。そして、少者は弱者。民主主義ってのは酷だね」
「そんな事で自分を納得させて!! 少しでも可笑しいと感じなかったんですか!? 少しでも寂しいと思わなかったんですか!? ねえ! 教えてくださいよ、ルティナさん!!」
「―――五月蝿いッ!!!」

ルティナさんの表情が、変わっていく。
無表情から憤怒の表情へ。
憤怒の表情から、泣き崩れそうなほど歪んだ顔に。
ああ―――
これがこの人の、素顔なんだ。

「貴女に、貴女に何が分かる!!? あの時、家族の記憶から消えた少年は何処に行けば良い!?
 彼の替わりにならないと生きていけなかった少年はどうすればいい!? ねえ! 知っているなら教えてくださいよ、ナナルゥさん!!」
「簡単でしょ!? 『自分はここにいるよ』って言ってあげれば良かったんだよ! 忘れられたらもう一度思い出してもらえば良い!」
「知った風な口を聞くな!! 何も知らないくせに! 貴女に何が分かるんだ!?
 誰よりも近くにいた羨望の存在に成り代われた時の歓喜! それに気付いた自分への侮蔑! そんな感情、貴女に分かるわけが無い!」
「じゃあ、私はどうすれば良いの!? 戦争の道具でしかなくて、人間の奴隷で、なのに道具になりきれない私はどうすれば良いの!?」

その言葉に、彼は沈黙。無言で私を見つめる。
私も彼を見つめる。

「――言ったよね」

彼の口が、開く。
その目は、静かに私を見つめている。

「僕の行動は、全て兄の行動のコピーだって」

私は、答えない。

「じゃあ、あの時何で僕は君を拾ったと思う?」

私は、答えない。
いや、答えられない。

「答えは簡単。僕は君を初めて見て、『兄ならきっとこうするだろう』、そう思って君を拾った。何を意味するか分かる?」

私は、答えない。
――答えたく、ない。
そんな、頭に浮かんでしまった結末なんて。


―――ルティナ=ナティヴが、本当はナナルゥ=レッドスピリットの事を嫌っているなんて。



「――ごめん、頭冷やしてくる」

救われた。
本当にそう思った。
いつの間にか床を見つめていた目を上げる。
顔を上げた先のその表情はもう、何時もの彼。
キッチンから出て行こうとする背中に、私は尋ねた。

「ねえ、ルティナさん…」

息を吸う。

「私と初めて会った時、貴方自身はどう思ったの?」

彼の足が止まる。

「貴方のお兄さんなら私を拾うと思って貴方は私を拾った。なら、貴方自身はどう思ったの?」

これは、聞くべきではなかったのかも知れない、と思った。
それでも、聞かずにはいられなかった。
例えどんな事であっても。
分からない事が、嫌だった。

その問いに、彼は、答えない。
答えないまま、去っていく。
そして、私は一人取り残される。


優しい嘘。
優しい嘘とは何なのだろう。
結局全ては嘘ではないのか。
これではただ悲しいだけではないか。
これではただ哀れなだけではないか。
優しい嘘。
優しい嘘とは何なのだろう。




――――後書き


離岸流です。
消沈の理由第3話をお送りしました。
何だか随分とシリアスになって来ました。

ここで軽く明かしておきますと、ルティナの話には嘘が二つほどあります。
一つは事実そのものを隠蔽する嘘。
もう一つは結果は同じでもそれに到るまでの過程を偽る嘘。
さて、何故彼は嘘をついたのでしょうか、そして、その真意は何なのでしょうか。

物語は、折り返しに入ります。

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