PAST-「冬」
本当にどうしようもなく 世界は回り続ける
神にすがろうとも そこに救いの手などない
ただ時の移ろうままに 俺達は朽ちて行くだけだ
これはそんな 過去のお話
before「Intruder」
PAST
〜winter〜
snow rain
「んでだよ!!」
やり場のない怒りを紛らわすように、俺は目の前の男を壁面に叩きつける。
理性では理解している。そんなことに意味はないのだと。そんなことをしても、何も変わらないのだと。
「あんたは医者だろ!? 此処は病院なんだろ!? 病気の奴を治すところじゃないのかよ!!?」
それでも止まらない。止められない。
暴走した感情が理性を押しつぶし、ただこの怒りに酔いしれ、ぶち撒けられる。
周りにいた看護師の女性たちが、身を震わせて俺を見た。
かつて誰もが、自分のことをそうして見てきた様に。
それは姫花に会ったその日から、次第に消えていった不快な瞳。
不快を晴らそうと瞳を逸らすと、ただ喚き散らす子供の俺の胸倉を、壁に叩きつけられた医者が掴み返した。
「そう、私達は医者だ。医者なんだよ! 分かるか!? 医者である我々が、どうしようもないと言う事の辛さが!!」
荒々しく俺を放すと、医者の男は疲れ切った表情で椅子に座り込んだ。
姫花が倒れて数週間。病名は不明。体には何も問題ないはずなのに、どんどん衰弱していっている。
その事実が、俺を、この医者を焦らせている。
「……すまない。だが、分かっても欲しい」
「いえ。すいません」
症状は、高熱と体の衰弱。
点滴をし、薬を使ってみても、何の成果も得られない。
何故だというのだ。
あんなに笑っていたのだ。
一緒に飯食って、一緒に帰って、時々学校帰りに遊んで回って。
ほんの少し前まで、「校則違反だね」と笑っていて。
そんな姫花が、どうして倒れなければならないのだ。
どうしてあの娘が、苦しまなければならないのだ。
「衰弱が、非常に激しい。このままでは一月と持たないかもしれない」
冷えた心を貫くように、医者の言葉が、深く深く、俺を抉る。
行き場の失った怒りが、悲しみとなって血を流していた。
こんなときだというのに、脳裏に移るのは笑顔の姫花ばかりだ。
そうしてようやく、俺は思い出す。
あいつの、悲しいときの表情なんて、見たことがなかったのだ。
怒ったときの膨れっ面や、悪戯をした子供のように笑う顔。静音の突拍子のない言葉に驚いたときの顔。
どれもこれもが姫花の顔で、そのどれもに悲しみの感情などない。
ああ、だから俺は惹かれたのだ。
どうしようもなく負の感情で埋め尽くされた心を、彼女の光が照らしてくれたから。
「あいつと話、してきていいですか」
「……ああ。そうしてやってくれ」
これが俺の発することの出来る、精一杯の懇願だった。
Χ Χ Χ
「えへへ……ちょっと悪い風邪みたいだね。……体がずっと、重くて辛いや」
「ったく、入院なんてしてんなよな」
他に誰もいない、俺と姫花だけの病室。
少し前より痩せた少女が、ベットの上で申し訳なさそうに眉をひそめた。
平静を装い、俺は喋り続ける。
まるで沈黙を嫌うかのようだ。いつもは、そんなこと恐くもないというのに。
「受験も近いんだぞ? 俺もお前も、受かるかどうかギリッギリなんだからな。早く治らないと、俺だけ勝手に合格するからな」
「それは……やだな。うん、シン君と一緒の高校、行きたいもんね」
そう言ってつくる笑みも、以前とは違う、どこか疲れを漂わせる。
これが、あの姫花だというのだろうか。
「来年は……」
「ん?」
「また桜の下で、シン君と挨拶して。一緒に一杯遊んで。夏は皆を呼んで、海で遊んで花火して。秋になったら、二人で焼きいも食べて。それで、冬になったら、コタツに入ってお鍋を食べるの。それが、私の夢」
「食ってばっかだな」
「ふふ。そうだね」
ああ。いつもの会話だ。
教室で、交わすような。俺の家のリビングで、撮りためたビデオを見ながら話すような。そんな、そんなかけがえのない日常。
それはもう、届くことのない、淡い記憶。
失うはずなどないと思っていた。ずっと続くと思っていた、愚かな夢。
けれど、未だに捨てきれない夢。
「夢なんて大袈裟なんだよ。来年になったら、全部まとめて叶うから、だから安心しろ」
そう言って、自分でも驚くぐらい自然に微笑む。
あの春の頃から比べれば、その変化は劇的だ。
こんな笑顔をくれたのも、この少女だと、照れくさくて言えないので、心の中で感謝することにした。
そんな俺の表情を見て、今は病床の少女があの頃のように綺麗に笑う。
「やっぱり私、シン君の笑った顔、好きだな」
「こっぱずかしいことを言うなバカ」
「むー。バカって言った」
こんな時だというのに、自然にこんな会話が出来るのは、俺と姫花がずっとそうして過ごしてきたからだろうか。
それとも、互いが互いを気遣いあって、無理矢理あの頃を演じようとしているのか。
分からない。
分からないが、構わなかった。
それほどに俺の心は弱くて、今にも溺れそうな心は、必死に過去にしがみついているのだ。
「でも、きっともう見れないね」
だから、そんな言葉を聞いた瞬間、俺の心は深淵へと落ちていくのが分かった。
寒い。姫花の言葉に、魂が震えを上げる。
目を逸らそうとして、過去を演じても、今俺たちが踊る舞台は、今だ。
それを思い出させてくれるような、そんな一言だった。
「バカ! んなわけあるかよ! 絶対よくなる! 絶対だ!!」
「ううん、駄目だよ。私には分かるから」
「違う!!」
駄々をこねる子供のように、姫花の言葉を拒絶する。
そうしなければ、その事実が決定的になってしまいそうで。
それでも姫花は笑っていた。
まるで母のように、俺の瞳を真っ直ぐ見据え、そして言うのだ。
「私が始めてシン君に話しかけたとき、もう私は壊れ始めてたの」
「……は?」
「限界を超えた体は、亀裂が入り始めてて。悲しいぐらい、それは手遅れで」
分からない。
分からないのに、俺は姫花の言葉を待ち続ける。
「助かる道はあったけど、それでも私は忘れられなかった。冷たい目をして空を見ていた、一人の男の子のことが」
何もかもを閉じ込めて。
心に冷たい鍵をかけて。
世界を閉ざしてしまった、そんな少年に―――
「私は、恋をした」
「―――」
狂おしいまでの姫花の思いが、俺を射抜く。
あの時、俺に始めて声をかけたとき、この娘はどんな思いで決心したのだろう。
どれだけ躊躇って、それでも勇気を出してくれたのだろう。
「だから、壊れてもいいから、私はあなたの傍にいようって、そう思ったの。一分一秒でも、私のことを覚えてて欲しい。私のことを思って欲しい。そう、思ったから」
「……勝手だろそんなの。残される俺は…どうしろってんだよ」
「うん。ごめんね。これは私の、我が侭だから」
本当に、我が侭だ。
後に残った俺は、一体どうして行けばいい。
姫花という光もなしに、俺は何を標にして進めばいいのだ。
恐怖する。姫花が抜け落ちた日常に。
彼女がいなくなった世界は、自分にとって空っぽだった。
何もない。何も見えない。
姫花と会う前のような、そんな虚無感。
もう戻ることのないと思っていた、孤独と言う名の地獄。
「違うよ」
そんな俺の絶望を見透かすように、姫花は静かに微笑んだ。
いつもとは違う、まるで慈しむような微笑。
全てを見透かすような、透明さ。
「私と過ごした日常は、シン君の一部分だけ。本当のあなたは、もっと沢山の表情を見せてくれるはず。シン君は、もうあの頃には戻らないよ。だって人は、過去には戻らないんだから」
「だから大丈夫」と、そんな言葉を、神を信じる子供のように素直に受け入れる。
いや、姫花は神様なのかもしれないと、そう思った。
ドジで自分勝手で食べるのが好きな、そんな人間じみた神だけど、彼女が大丈夫だと言ってくれるだけで、俺はここまで安心できるのだから。
「シン君」
「ん? なんだ?」
「最後に一つ、お願いしてもいい?」
Χ Χ Χ
寒空がむき出しになり、開かれた窓からは外気が流れ込んでくる。
看護師と連れ立って沢渡静音が見たのは、空のベットと生けられた花だった。
隣で狼狽する看護師を他所に、静音はゆっくりと窓の傍まで近寄る。
そうして、今ここにいない親友を思った。
初めて会ったのは、一年生のとき。
普通とは決定的に違う自分は、クラスから同然のように孤立した。
それは当たり前だったし、静音自信、己が普通とずれていることは分かっていたので、別にどうとも思わない。
いつものように、一人で生きていく。生きていけると、そう思った。
けれど彼女は違った。
一人で座ってチビチビとパンを食べる自分の真ん前を陣取り、聞いてもいないのに色んなことを喋りだす。
身振りの激しいその所為で少女の手にしていたコロッケパンからは、コロッケが抜け落ちていた。
それが、始まり。
一人だった自分を、孤独から救ってくれた、たった一人の親友。
そんな親友と今は共にいるだろう、金の瞳の少年を思い浮かべる。
自分とどこか似通った、孤独を恐れる少年。
「……辛いね……」
誰にも聞こえない、そんな小さな呟きが、冬の風に吹き飛ばされて散っていった。
Χ Χ Χ
「重いー……」
「羽のように軽いって言わなきゃ駄目!」
「無茶を言うな」
そう言って姫花に返すが、後ろからの重さはほとんど感じられなかった。
それが、余計に恐怖を煽る。
まるで一度振り向けば、幻であったかのように消えてしまうのではないかと。
そんな風に思いながら、俺は姫花を後ろに乗せ、拝借した自転車で目的地に向けこぎ続けていた。
場所は―――
「ふー。着いた着いた」
「わあ……」
感嘆の声をあげ、姫花が一歩踏み出す。
砂と潮騒とが入り混じるそこは、海と呼ばれる場所だった。
今年の夏に行きそびれた、来年の夏に来ようと約束した場所。
「私ね、海が好きなの」
「へえ」
「私のいた所に海はなくて、だから此処でこの海を見たとき、凄いなって思ったの。ここから、全ての命が生み出されたのかって」
此処に来る前は内陸に住んでいたのだろうか。姫花はそう言って、寄せては引く潮の流れをじっと見る。
誰もいない砂浜は、この世界に二人しかいないような、そんな錯覚を起こさせた。
波がかからない位置を選んで、姫花はそっと腰を下ろす。
俺もそれにならって、隣に座った。
静寂は波の音で塗りつぶされる。
冬の冷たい風が、何故だか感じられなかった。
あらゆる生物の根幹たる、母なる場所の前で、少女は静かに言葉を紡ぐ。
「今年の夏こそ、海水浴に行こうね」
「ああ」
もう叶わない、ありもしない未来予想図。
決してつかめない、そんな明日。
それでも俺達は、それを望んで止まない。
神様は等しく平等で、等しく残酷で、等しく優しいはずだから。
「秋にはさ、きのこ狩りとかしよう。健吾とか誘って、怪しいきのこ食べさせたりしてさ」
「えへへ。健吾君、かわいそう」
「浅見ヶ丘の文化祭はさ、冬にやるんだってさ。そしたら―――」
「またシン君の女装が見れる?」
「絶対やらん」
ああ。こんな未来があれば、どれほど楽しいだろうか。
姫花といられる日常が、どれほど楽しいだろうか。
皆で笑って、騒いで、バカやって。そんな日々が続けば、どれほど楽しいだろうか。
「シン君」
「ん?」
「大好きだよ」
堪えられない涙があふれそうになったとき、少女がゆっくりと俺を抱きしめた。
一回り小さい、華奢な体。
漆器のように艶やかな黒髪が、風に揺れている。
このぬくもりが、今の俺の世界の全て。
「うん。俺もだ」
「へへ。これで相思相愛だね」
ラッキーだな、と姫花は呟く。
「これからのこと一杯話して、シン君に好きって言ってもらって、今日は凄いラッキーな日だね」
「因みに“すき”ってのは農具の鍬であって」
「照れなくてもいいのに」
コロコロと笑う姿を、記憶に焼き付ける。
何時からだろう。この少女に、俺が恋をしたのは。
もしかしたら、始めて会ったあの時に、俺はもう姫花に恋をしていたのかもしれない。
まるで陽光のような、夜を照らすこの娘に。
神凪真夜という夜に、朝をくれたそんな彼女に。
「チョッと眠くなっちゃった」
「いいよ、少し眠りな。起こしてやるからさ」
「うん。……それじゃチョッとだけ、おやすみ」
静かに目を閉じた、姫の名を持つ少女を見る。
彩る四季を、彼女は俺にくれた。
モノクロだった世界を、彼女が染めてくれた。
なら俺は、彼女に何をしてやれただろう。
何を、与えてやれただろう。
「おやすみ……」
神様。
ほんの一瞬でいいから、こっちを見てくれよ。
俺達に、奇蹟を振り注いでくれよ。
もうこれから、どんな願いも叶わなくていいから、だからこの願いだけは、叶えてくれよ。
この娘を、助けてあげてくれ。
頼む神様、お願いだから―――
「こいつと一緒に、笑ってたいんだ……!」
この世界に、神などいない。
それを俺に教えるかのように、ただ粉雪だけが降り続いていた。
冬
全てが白く染まる季節
君と繋いだ その手がとても冷たくて
おやすみ
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