Somewhere......

 少し広めの執務室の中で、ある男が一人実務に追われていた。
 男は金褐色の髪に褐色の肌をしていた。まだ若さの残る年頃のようだが、その眼差しは老いた獣王がごとく鋭い光を秘めている。
 その男は手元に広げられた書類の山から、その中の一つをつまみあげた。
 無駄なくその内容にざっと眼を通し、呟く。
「ふむ。思ったよりは遅かった、か・・・・・・」
 感想は一言。それでその内容への興味を失ったかのように、テーブルの隅へと投げ捨てた。
 そして再び他の書類に眼を通し始めようとした所を、突然の訪問者が訪れた。

 ―――ギイッ
「よっ。調子はどうだい、大将?」
 入ってきたのは、長身でがっしりとした青年だった。
 体格はかなり良いが、表情は人懐っこしさすらあって近寄りがたい雰囲気はまるでない。
「―――またお前か。勝手に部屋に入るな」
「あぁ、そりゃすまないな・・・・・・お、バーンライトが落ちたのか?」
 たしなめられた青年は、けれどもまったくこたえた様子もなくずかずかと机の向かいまで歩み寄った。
 男も重ねて注意することもなく、世間話をするかのように青年の言葉を肯定する。
「うむ。私にしてみればようやく、といったところだがな。思ったよりも、バーンライトも骨があったのか・・・・・・思ったよりも、ラキオスが不甲斐なかっ たのか」
「そうか? 議会の連中は驚いていたって、クォーリンが言っていたぜ?」
「ふん。やつらはラキオスがもはや歴史だけの国と成り果てたと信じているからな。否、そう信じていたがっている、というべきか」
「・・・・・・・・・・・」
「だが、それも終わりだ。戦争は始まった。そう、お前たちの存在がそれを証明しているのだからな」
「・・・・・・ちえっ、なんだよそりゃ。俺たちは祭りでかつがれる御輿じゃねーっての」
「ははっ。・・・・・・ともあれ、北方五国に火がついたのはエトランジェの出現が発端に他ならん。まあ、前線にエトランジェが二人いる、ということはかな りの脅威ととられたようだな。帝国にそそのかされたダーツィ大公国も、なかなか攻めに出ようとはせん」

「―――なんだって?」

「む? どうした、珍しい顔だな。ラキオスのエトランジェが、大国に尻込みをさせていることがそんなに意外か?」
「違う! 前線にエトランジェが二人、だと!? んな馬鹿な!! エトランジェの妹は城に幽閉されている話じゃなかったのかよ!? いや第一、悠人が佳織 ちゃんをそんな場所に出すはずがないぞ!!」
「・・・・・・ん? あぁ、言葉が足りなかったな。確かに、『求め』のエトランジェの妹はラキオス王家によって拘束されている。そしてその者を人質に、ラ キオスは現在二人のエトランジェを保有している」
「ふた、り・・・・・・? 悠人や俺たちの他に、佳織ちゃんが人質として成立する人間・・・・・・? な、なぁ、大将。そのもう一人のエトランジェ、男 か? 女か?」
「報告によればその者の名は『追憶』のチトセ。外見はお前たちと同じ世代、長い黒髪の、背の高い女、だそうだ」
「マジかよ・・・・・・よりにもよって、あいつか・・・・・・」
「ふむ。その様子だと、顔見知りのようだな」
「・・・・・・あぁ」
 青年は短髪を引きちぎるようにがしがしと掻いた。その動作と眉間によったしわが、何よりも雄弁に青年の心の内を語っている。

「でも、『追憶』ってのはなんなんだ? 大将の話だと、ラキオスにあるエトランジェの神剣ってのは、『求め』だけだって言ってなかったか?」
「知らん。少なくとも『追憶』のチトセなる人物が確認されるまで、わが国の情報部はラキオス王国の持つ第五位以上の神剣の所在はすべて網羅してい た・・・・・・と、情報部の連中は言っている」
 どうしようもないという呆れを含んだ男のため息に、青年はこれ以上この件を追及する意味はないと判断し、思考を切り替えた。

(しかし、あいつがこの世界に来るとしたら、間違いなく秋月のやつのところに行くと思ってたけどな。あいつが佳織ちゃんを人質にされて黙っているはず が・・・・・・いや、違うか? 秋月が帝国にいることを、あいつらはまだ知らない? だとすると、こいつは・・・・・・)
「・・・・・・ま。どちらにせよ、でっかい厄介が増えたってのは間違いなさそうだな」
「ほう? お前は、そのエトランジェを脅威と思うのかね?」
「脅威・・・・・・か。そうだな、脅威ってのはぴったりだ」
 男の問いに、青年は自分の記憶にある少女の姿を思い浮かべた。

「俺はあいつと何度か手合わせしたことがあるが・・・・・・だいたい、引き分け八割の、残りを同じ数の勝ち負けで半分こ、ってとこだ」
「・・・・・・・・・」
「んで。その決着のついた二割の後は、俺かあいつが確実に床にぶっ倒れる。あいつは戦っている間に相手と自分の力をよぉく把握して、その上で必殺を狙うか らな。こっちも手加減なんてできなかった。お互い素手だったが、洒落になんない時もあったぜ」
「ふむ。つまり、チトセというエトランジェはお前と互角の強さである、と?」
「さあな。神剣の能力にも相性があるみたいだし、こればっかりは戦わないとわからない。だが、これだけは確実に言えるぜ」

 青年は不敵な笑みを浮かべ、きっぱりと言った。
「俺たちの世界で、悠人と千歳は互いに相容れない立場にいた・・・・・・どれだけそれぞれの力が強かろうが、あいつらがあいつらのままでいる限り、お互い が本当の意味で協力し合うってことはないだろうな」
「たとえ、人質であるエトランジェの娘がいても、か?」
「だからこそ、なおさらに、ってもんさ。佳織ちゃんを守れないっていうジレンマは、自分に向くのと同時にお互いにも向いていく。あの娘を想っていればいる ほど、な。下手すりゃお互いに睨み合って自滅、なんてこともありかねないと俺は思うね」
 青年の言葉に何か思う所があったのか、男は静かに目を閉じてイスの背もたれに体を預ける。しばらくの沈黙の後、何かを振り切るように目を開き、男は変わ らぬ調子で言った。

「話はわかった。まあ、お前が心配していることは、万が一にもありえんだろうがな」
「・・・・・・なんだ、そりゃ? 議会のやつらの知らない、ラキオスに関する何かでもつかんでるっていうのか、大将?」
「ふっ。そんなものではない・・・・・・お前が気にするほどのこともない。それよりも、何か用があってきたのではなかったのか?」
 男はさらりと青年の追及を避けた。
 青年は会話の続きがやや気になったが、ここで食いつける立場にはないことを自覚していた。

「あぁ、ようやくスピリットたちも形になってきたからな。そろそろ、訓練からあげてもいい奴らが増えてきたことを報告しに来た」
「そうか・・・・・・よし、それでは、新しい部隊の設立に移るとしよう。軍属になれば、議会の連中からの抑制も少しは弱まるだろうしな」
「おう、そりゃ願ったりだ。・・・・・・そうだ、それなら新しい部隊の名前を決めさせてもらってもいいか?」
「うん? なんだ、何か希望でもあるのか?」
「希望・・・・・・っていうか、な」
「まあ、いいだろう。言ってみろ」
「あぁ。その名前だが――――――」

 青年は一拍の間を置いて、一つの名前を口にした。
 男はその言葉の意味にすぐに気がついて、呆れたような笑みを口端に浮かべた。
「まったく・・・・・・お前も、随分な入れ込みようなことだ」
「ま、俺のけじめみたいなもんさ。どうせ、他に案があるわけじゃないんだろ?」
「あぁ、かまわんだろう。話がそれだけなら、今日はもう行け」
「へいへい。邪魔したな、大将」
 青年は飄々と、ドアへと向かった。

 それをくぐって廊下へ出ようとしたその時、不意をつくように男の声がかけられた。
「十分な用意をしておくことだ。ラキオスのエトランジェたちは、必ずお前たちの前に姿を現すだろう。それが、どんな形であろうと、な」
「・・・・・・・・・」
 青年は眉をひそめたものの、問い返すことはなくドアを締め切った。
 男の言葉を頭の中で反芻しながら、その意味を図る。
 だがちっとも明確な回答が出ず、青年はふぅとため息をはいた。
「大将の意図はわからないが・・・・・・確かに、これからラキオスが残ろうが残るまいが、悠人には『求め』を持ったまま俺たちの所まで来てもらわなくちゃ あいけないんだよな」
 それから再び不敵な笑みを浮かべ、誰にともなく言ったのであった。





「今日子のために、そして俺のためも、な」











 永遠のアセリア二次創作            

龍の大地に眠れ

    二章 : 蝕まれし世界

第四話 : ほんの、平和








 スピリットの館 千歳の部屋

 突然な話題になるが、スピリットに与えられる私物は、そう多いものではない。もとより身寄りがあるわけでもない身の上、さらに人間よりも成長期間が短い ために生活に必要なものがだんだんと増えていくくらいのものなのだ。
 スピリット隊において最年長であるエスペリアのものでも、私物はこぢんまりとした自分の部屋の半分にすべて納めることができる。
 さて、その理論からいけばさらに私物など持てようもないエトランジェの部屋、その一つに―――理論を覆す現実があった。

 ドアに対して、部屋の中央に置かれたテーブルの向こう側、その床にちらばるは数多の本、本、本。
 薄いもの、分厚いものからほとんど百科事典のようなものまでもが所せましと散乱していた。
 さらにそれらは所々で山になり、いっしょになって何かを書きなぐったメモ用紙が挟まり、または束が置き捨てられてさらに雑多な雰囲気をかもし出してい る。
 そしてそれぞれの本の山から等間隔に離れている壁際の机―――中央にあるそれよりも、事務的なそれに向かっているのは、その部屋の主であり、ラキオス軍 スピリット隊副隊長でもある千歳その人であった。

 千歳は机の上にも詰まれた本の山を横に、かじりつくようにして手元に開いた研究書を読みふけっていた。
 ぶつぶつと独り言を呟きながら冊子をめくるその姿は、服装が学生服なこともあり、はちまきとどてらでもつければ十人中十人が『受験生』と答えそうだ。
「・・・・・・これが正しいマナ限界値の定数だとする、と・・・・・・やっぱり、この公式はこっちでよくなる、のかしら・・・・・・? と、すれば今度こ そ・・・・・・」
 メモを引き寄せ、インクに浸したペンで数式や図を書いていく。
 しばらくの間、部屋にはペン先が粗い紙の上をすべる音だけが響いた。

 ―――カリカリ、カリカリ、カリ・・・・・・カ。
 二分ほど無言でペンを動かし続け、ふと、その肩がピクリと震えて腕の動きが止まった。
 眉間にはしわ。その存在を疑うがごとく、いぶかしくメモの上を目線が行き来する。
 わずかな躊躇、千歳はその後に先ほどよりも早い速度でペンが再び紙を滑らせた。

 ―――カッ! カリカリカリ・・・・・・!
 先ほどよりも部屋の中で高まる緊張感。
 ぴりぴりとした空気の中で、心なしか背もたれにかかる三つ編みが怒った犬の尻尾のように逆立って見える。
 時間がたつにつれて力が入っていく腕、その鬼気に負けてかペンが取り返しのつかない向きにねじれていく。
 そして、限界は訪れた。

 ―――カリカリ・・・・・・ガリッ!!
 釘をおろし金ですりおろしたような音と共に、千歳の腕が再び止まる。
 欠けたペン先からインクがにじみ、メモにしみこんでいく。
 それでもかまわぬとばかりにペンを押し当てていた手が、ぐっ、と握り締められた。リンゴを握りつぶせるという噂の握力に、何故か永遠神剣の力まで加わっ ている。

「だぁ〜〜〜っ! なんでそこでまた、ゼロになんのよっ!?」

 ―――べきっ。
 部屋中いっぱいに怒りの雄叫びが轟く。
 同時に、鈍い音と共にペンが昇天した。それが彼の物の寿命であったか否かなど、論ずるまでもない。
―――主殿。どーでもよいのじゃが、儂の力をそーゆー阿呆な事に使うのは・・・・・・。―――
「うっさい、駄剣っ!!」
 八つ当たりにぐしゃぐしゃに丸めたメモが、投げられる。
 放物線を描いたそれは、近くの壁に立てかけられていた『追憶』にクリティカルヒットした。無論、ぺち、といって紙が床に転がっただけで『追憶』には何一 つ変化はない。

「さっきっからあんたの主人がこれってないくらい苦難に立たされてるってぇのに、何が阿呆なことですってぇっ!?」
 ――― く、苦難、といってもの・・・・・・主殿は現状のどこに、どのような苦難があるというのだの?―――
「わからない? わからない!? 私がさっきから机に向かってどれくらいになると思ってるの!?」
 ――― ・・・・・・う、む。に、二時間くらいではないか?―――
 なんか引き気味な『追憶』に、叩き込むように千歳は怒鳴った。程度としては、だれかれかまわずからむ酔っ払い並みにたちが悪い。

「そう、二時間よ! 二時間やって、この一問が解けないっていうのはどういうつもり!? 二時間あったら年明けの悪夢、共通一次が二科目分終わってるわ!  合計で二百点のマイナスなのよ!? 推薦が通ってなけりゃ志望校にも通らなくって、浪人一年なんですからね! どうしてくれるのよ!?」
 ―――いやどうしてくれる、といわれても。何ぞやっておるのは主殿一人であってだの・・・・・・。―――
「オルファたちに落書きさせるわよ」
 ――― ・・・・・・全面的に儂が悪かったという結論で、どうぞお続けを。―――
 永遠神剣にしてみれば意味不明に違いないことを乱発しまくる千歳に対し、すごすごと引き下がる『追憶』。悠人がこの場にいれば、彼に心底から同情したで あろうことは間違いない。

 勝利の余韻に浸ることもなく、がるるるる、と穏やかならぬ唸り声が喉の奥から漏らしながら千歳は机に向き直った。
 本の上に几帳面な書体でつづられた方程式たちを、親の仇のようにじいっと睨み、やがて諦めのため息をつく。
「・・・・・・やっぱり、まだ独学で科学を習うのは無理がある、か」
 がっかりと肩を落として、千歳はその研究書を閉じた。
 表紙には題名と著者の名前であろう『ラクロック』という音を示す文字が書かれていた。
 千歳が読んでいたのは、この世界における科学―――マナとエーテルを原動とする工学に関する書物である。
 先ほどから取り組んでいたのもその初歩、エーテル変換に関する方程式を調べようとしていたのだが、その初歩の時点で千歳は思いっきりつまずいていたの だった。
 無論、意味もなくこのような事をやっているわけではない。
 千歳はエスペリアの部屋から、または城内からかき集めた本から、ハイペリアに―――自分の世界に戻る術を模索しているのだ。

 これは千歳がようやくファンタズマゴリアの文字を覚え、かつバーンライトが落ちてまとまった時間が手に入ったゆえに、ようやく始めることができるように なったことである。
 もっとも終戦直後にバーンライトとの同盟国であったダーツィ大公国が、ラキオスに宣戦布告をしてきているのだが、お互いに攻めあぐねており実際の戦闘行 為は始まってすらいない。
 この機を逃してなるものかと千歳はここ数日間、奮闘に奮闘を重ねていたのだった。
 しかし専門の書物があるはずもない現状では、手当たり次第に有効そうな手段と思えるものを突き詰めていくしかない。
 ただ一人の力でこの世界においても難関な科学に挑む姿は、なかなかに感動的であるのだが、その本音は聞いたものがすべからく脱力するような代物だった。

「昔話とかには大して有益な話すらのってなかったし・・・・・・やっぱりファンタジーよりは、SFの方がなんとなく現実味ありそうなのよね・・・・・・」

 ファンタジー愛好者に対する冒涜的な発言をあっさりとのたまいながら、千歳は右側の床に積まれた、歴史、伝承関係の本の山をちらりと見た。
 エスペリアたちとの共同勉強がなくなってから、こつこつと読み進めていった本たちの数は着実に増えつつあるのに、いまだ決め手となりそうな情報は一つも 手に入っていない。

「あぁ、もう。こんなんじゃ・・・・・・ダメだっていうのに!」
 ふいにこみ上げてくるやるせなさに、千歳はいらいらと爪を噛んだ。
 ―――ふぅ。主殿、きやつに言われたことが随分と気にかかっているようじゃが、いい加減に落ち着かれい。―――
「っ」
 『追憶』の諌言に、千歳は図星を突かれてぎくりと身をこわばらせた。
 ―――たとえあれが大きな力を持つ者であっても、主殿を害するに価するものではなきことは自明の理。何をそのように心乱す必要があるというのだの? ―――
「そう思っていて、痛い目を見たわ。見くびっていい相手じゃないのよ、あれは・・・・・・」
 千歳は苦々しげに、先日の出来事を思い出していた。


 ラキオス城 執務室

 バーンライトが陥落し、帰還した千歳を早々に待ち受けていたのは、城からの呼び出しであった。
 行軍すぐ後のこともあり疲れていたが、千歳は心の仮面で表情を覆ったまま、目前にする相手の動向をうかがう。
「この度は御苦労であったな。『追憶』のエトランジェ、チトセよ」
「・・・・・・いえ、私は栄えある王国の剣。王に勝利を捧げますことが、私の使命にございますれば」
 押し殺そうとしつつも、喜びが隠しきれてはおらぬラキオス王の声に対して、千歳はひたすら偽りの忠誠を演じ続ける。

「うむ。しかし、これはほんの始まりに過ぎぬ。これからが、これからが始まりなのだ。・・・・・・そう。このラキオスが、在るべき姿となるためにな」
 恰幅のいい腹を揺らし、含み笑いをする王に千歳は違和感を覚えた。このような話をするためだけに、わざわざ自分を王自らが呼び出すとは思えない。
 はたしてその予感は正しく、王はやがて笑い止むと千歳に向けて静かに問いかけた。
「さて。ラジード鉱山、並びにラセリオでの働きは耳に届いておるぞ。敵の奸計を破ったその手際、見事なものであったとな」
「はっ。恐縮にございます」
「―――そこで、だ」
 ラキオス王は含みを持った顔で、千歳に言った。

「此度の働きにより、そなたに褒章を与えよう。好きなものを言うがよい」

 千歳は一瞬、自分の耳を疑った。
 しばしの思考の後、当たり障りのない言葉を選びながら返答する。
「それは、まことに光栄にございますが・・・・・・おそれながら、我が隊の隊長たる『求め』のユートを差し置き、私にそのような栄誉がございまして は・・・・・・隊の乱れ、ひいては軍の乱れとなりかねませぬ」
「ふむ、ではそなたはわしの決定が不満である、と。そう申すのだな・・・・・・?」
「・・・・・・!」
 唐突に調子を変えた王の声に、千歳は危機を感じた。
「いえ。そのようなことは・・・・・・」
「ならば、遠慮はいらぬ。さあ、申すがいい」
 王の言葉に、千歳は急いで算段を巡らせる。

(―――やっぱり、佳織の解放? ・・・・・・ダメ。ここで佳織への執着を強めれば、かえってなんらかの拘束が佳織に加えられる可能性が高い。
 ―――スピリットたちへの待遇の改善・・・・・・いや、これもダメ。私がスピリット寄りの思想を持っていることは、この王には隠しておいた方が何かとや りやすい。
 ―――なら、スピリット隊員の増強・・・・・・ダメ! この勝ち戦の後じゃ、スピリットたちの能力を疑っているようにもとられかねない。そのせいでオル ファたちが処分される羽目になってなったら、目も当てられないじゃない・・・・・・!)

 しばらくの沈黙の後、千歳は静かに口を開いた。
「では、リーザリオにて我が軍に貢献して下さった捕虜の方々の解放、並びに彼らの罪を不問として旧バーンライト領への送還することをお許しいただけます か?」
 千歳たちが最初に制圧した都市、リーザリオ。そこにいたスピリットたちを束ねていた者たちが拘束された折、千歳はスピリットたちを見下した彼らに対し、 ややトラウマになりそうな方法で『お願い』をして彼らからバーンライト側の伏兵の存在を聞きだしていた。
 その後は、彼らは捕虜であると共に『ラキオスの情報提供者』として王都に送られていたが、無論それは感謝からではなく、戦後、元祖国の人間から裏切り者 として袋叩きにされることを期待してのことである。

 このチャンスをこんなことに使い潰すのも惜しいが、自分が人間よりの者であると示すと共に、憂さ晴らしも出来るという一石二鳥の策でもある。
 即興にしては上出来か、と千歳は思ったが、対する王の返答は予想外のものだった。
「残念ながら・・・・・・それは、できぬな」
「・・・・・・は?」
 千歳は呆けたような声を出してしまい、慌ててとりつくろう。
「何故、でございましょうか。バーンライト王国は既になく、捕虜として彼らを拘束する意味はないかと存じますが」
「ふむ。確かに、あの者たちの用は済んだ・・・・・・もし、生きていたのならば帰してもかまわなかったのだがな」
「―――!」
 千歳は息を呑んだ。
 生きていたのなら、それは仮定の話。つまり、彼らは―――。

「何故、なのですか・・・・・・」
「さて、な。与えられていた部屋の中で、ある日突然に死んだそうだ」
 王は何がおかしいのか、にやりと笑う。
「なんでも、リーザリオにてとてつもなく恐ろしいモノに会った、などと死ぬ前に周囲に振れ回っていたらしいがな」
(―――っ!)
 千歳は自分の背にぞわり、と寒気が走った。
 彼らが自分のことについて何かを言うであろう事は予想の範囲内だった。
 それゆえにその体には一切の傷をつけずにおいたので、彼らが何を言おうが証拠もないただの戯言としてすまされるだろうと考えていたのだ。
 だが彼らが死んだことで、その目論見は一転してしまった。
 他人の耳に届くのは、と兵士たちが目にしたというある者への恐怖と、それを話した彼らの唐突な死。
 典型的な怪談話のパターンであるそれが、だれに疑いを向けるかなどいうまでもない。

「『追憶』のエトランジェよ。わしは無論、そなたがその者たちの死に関わっているとは思っておらぬぞ」
 わずかに顔色を変えた千歳の心の内を読むように、王は労わるかのような声音で言う。
「自らラキオスの剣となる事を誓った者を、どうして疑うことなど出来るものか。我が国に歯向かう愚か者共は何を言うやも知れぬが・・・・・・お前は下々の 言うことなど気にかけず、その使命を果たすがいい」
(っ、この狸―――!)
 千歳はがりっと奥歯をかみ締める。何のために彼らが消されたのか、千歳にはやっと理解することができた。

 悠人は人質である佳織の兄であり、また人間に対して対立的な立場にある。対して千歳は佳織への執着を隠し、また人間よりの立場にあるように見せかけてい た。
 加えてエトランジェの制約は直接王族に危害を加えられずとも、裏切り―――他国に鞍替えするなどのことには効果がない。そして、北方にはエトランジェの 力を必要とする国々がひしめいている。
 王は、千歳をラキオスにとどめておくには鎖が足りないと判じたのであろう。
 そこで、『人間よりのエトランジェ』というイメージを、『ラキオスのためならば手段を問わぬエトランジェ』として人々に定着させる手段に出たのだ。
 一時の怒りに任せた行動のせいで、千歳はその居場所をラキオスにしぼられる共に、周辺諸国にエトランジェの恐怖を振りまくよい材料とされてしまったの だった。
 千歳はこの王をただの凡愚と見くびっていたことを後悔した。この国を独裁し、同盟を維持、そして敵対諸国を牽制していた要因の一つは、間違いなくこの男 の実力でもあったというのに。
 この王の人間性がろくでもないという意見は変わりない、しかしそれゆえに、千歳はこの男の持つ権力を甘く見てはいけなかったのだ。

「さて、他に望みはないか?」
 今までの会話を何でもないかのように話を戻した王の言葉に、千歳は自分の心の中でなにかがすとんと落ちた気がした。
 そうだ、人殺しの汚名をかぶった所で、今更何をおののく必要があるのか。事実、自分の体はとうに血塗れているというのに、何をためらうということがある のか。
 今の状態から、再び佳織を決死の覚悟で救い出そうとするのはリスクとデメリットしかない。ならば自分がこの人間たちの思い通りに動くことで、佳織を擁護 するレスティーナが少しでも動きやすくするだけ。
 そして、万が一に備えて―――。

「―――では、金を頂きたく存じます」

 千歳は静かに、そう短く告げた。
「うむ。金か」
 王は満足そうに、鷹揚な頷きを返す。
「無論、陛下が私の働きに見合うと思われる程度にてかまいません」
 千歳は王の安心を満たし、自尊心をくすぐるように付け加える。
「よかろう。ではこの話は終わりだ。次なる戦のためにも、ゆっくりと体を休めるがいい」
「はい。―――この身は、ラキオスの剣となるために」
 頭を垂れる千歳の顔は冷え冷えとしており、しかしその心の底では、鋼よりもさらに冷たい嵐が吹き荒れていたのだった。



 再び、場所は戻って・・・・・・。

 ―――コン、コン。
 軽いノックの音に、千歳ははっと我に返った。
「チトセ様、エスペリアです。今、よろしいでしょうか?」
「あっ。―――ちょ、ちょっと待ってて」
 千歳は頭を二、三度振って頭の中からいやな記憶を追い出してからドアに向かう。

 ―――カチャッ
 ドアを開け放った向こうには、優しい笑顔を浮かべたエスペリアの姿があった。
「こんにちは、チトセ様。お加減はいかがですか?」
「こんにちは、エスペリア。私の調子は・・・・・・うん・・・・・・まぁ、大丈夫よ」

 バーンライトとの戦が終わり、この館に帰ってからのエスペリアは以前と同じ笑顔を取り戻していた。いや、以前よりも明るくなったようにすら見受けられる のは、きっと千歳だけの感想ではないはずだ。
「それで、どうしたの?」
「はい。これからお買い物に出るのですか、何かご入用なものはございますか?」
 エスペリアは朗らかな表情で、かるく買い物籠を持ち上げてみせた。
 千歳は少し考えて、部屋をふりかえりながら返事をする。
「そうね・・・・・・またイクザ豆を一袋、お願いしようかしら。そう、それと布地があまっていたら、わけてもらえる?」
「かしこまりました。イクザ豆ですね・・・・・・あの、もしかしてそれは・・・・・・」
「えぇ。オルファたちにあげる御手玉の材料よ。シアーがまた上達してね。もう少し作ってあげようかと思うの」
 千歳はすこし微笑みながらそう言った。

 悠人たち三人が気まずくなっていた間、千歳はよくオルファやネリー、シアーを部屋にこっそりと招きいれたり、彼女たちの部屋に行ったりして以前と同じよ うにハイペリアの遊びを教えていた。
 少しでも幼い彼女たちへの心の負担が軽くなるように、と願ってのことだったが、実際には千歳もまた彼女たちに癒されていた。その恩返しの意味もこめて、 新しい御手玉やその他の遊び道具を、千歳はそう頻繁とはいかないがちょくちょくと作っている。

「・・・・・・本当に、ありがとうございます。チトセ様」
「やだ。やめてよ、エスペリア。私はお礼を言われるようなことなんてしてないわよ」
 エスペリアに頭を下げられるのが気恥ずかしく、千歳は栗色の髪をよけるようにドアに体をあずける。
「しかし・・・・・・ああっ!」
 顔を上げたエスペリアは、何かを言おうとしたところで千歳の部屋の『惨状』にようやく気がついた。
「チトセ様、またこんなに本を散らかされて!」
「ヤバっ・・・・・・い、いや、これはね。ちょうど今から片付けるとこだったの。ホントよ!」
 千歳は慌てて部屋に戻り、床のある一山から何冊かの本を抜き出して中央のテーブルにどさどさと置いた。

「ね! これ全部、あなたから借りて、もう読み終わっている本よ。こっちとこっちも大体は読んだし・・・・・・ほら! これを返せば、だいぶ片付いたで しょ?」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・あー、うん。まだちょっと汚いかしら。それじゃ、こうしたらどう? ほら、こっちに集めておいた紙クズを全部、今から捨てるとし て・・・・・・」
 館の家事を取り仕切るエスペリアに、自堕落感ただよう部屋を見られた千歳はかなり焦っていた。
 部屋で遊び散らかした時、エスペリアのお怒りとお説教がいつもの五割り増し近くになっていたという、オルファたちの話を聞いているからだ。

 いろいろな物をテーブルに並べ始める千歳の姿に、エスペリアはそっとため息をはいた。
 いつもは厳格な雰囲気の千歳が、今はオルファたちぐらいの少女のようにばたばたとしているのだから無理もない。
 エスペリアは気を取り直して、買い物籠の中から封筒を取り出した。
「チトセ様。お片付けでしたらお買い物の後で私がお手伝いいたしますので、今はお止めになって下さい。王女殿下からの言づてがあります」
「―――レスティーナ殿下から?」
 千歳は目を丸くして振り返った。とりあえず腕の中の本を一式ベッドに乗せ、エスペリアのもとに戻る。
 手渡された封筒は、城からの伝達を伝えるのによく使われるそれよりも、それはきれいな紙で作られていた。

「では、確かにお渡しいたしました」
「えぇ、確かに」
 千歳は受け取ったそれをすぐには開けず、ポケットの中に放りこんだ。
「それでは、イクザ豆は後でお渡ししますから・・・・・・あ。布地は、以前と同じ生地のものの方がよろしいですか?」
「そうね。でも、模様とかはいろいろとあった方が助かるわ。それじゃ、いってらっしゃい」
「はい、いってまいります」
 じゃあね、とひらひらと手を振って千歳はエスペリアを見送る。
 それから扉を閉めようとエスペリアに背を向けたその時、千歳の背後から静かな声がかけられた。

「それから・・・・・・帰りました後に、チトセ様のお部屋は『しっかり』とお掃除させていただきますので。覚えておいて下さいませ」

「あ、あははは・・・・・・はぁ〜〜〜ぃ・・・・・・」
 静かな声の裏に隠された感情に、千歳は空笑いを返すしかない。
(こ、これはマジで怒ってるわね・・・・・・)
 できるだけ今日の買い物が長引くことを祈りながら、千歳は後ろ手にドアを閉めた。
 ドアに寄りかかったまま手早く手紙を取り出した千歳は、その紙面の文字をたどるにつれて頬を緩めていった。

 『中庭の花が咲いたようですね。約束を覚えていますか?』

 手紙を封筒ごとランプの火で燃やし、千歳は『追憶』を取って告げた。
「『追憶』、私たちも出かけるわよ。他の娘たちに見つからないようにいくから、警戒よろしく」
 ―――諾。―――


 ラキオス 城下町

 昼下がりの町は、活気に満ち満ちていた。
 たくさんの人々が荷物を抱え、あるいは自分の売り物を高らかに宣伝している。その中に、すれ違う人々を押しのけるように元気な様子で市場を行く二人がい た。
「ねぇ、セーネ! 今度はあれ、あれに行こ!」
「はい、はい。慌てないの。そんなに急がなくたって、お店は逃げやしないわよ」
「売ってるものは逃げちゃうの!」
 ぷう、と頬を膨らませるレムリアに、千歳―――いや、『レムリア』の姉であるセーネは苦笑しつつお団子にまとめた髪の間をぽんぽんとなでた。

 レムリアは町娘らしいワンピースとお揃いの靴と、以前と同じ格好だったが、セーネはつば付き帽子と男物の上着、そして今回はスカートではなくズボンを身 に着けていた。
 何でもセーネの着ている上着とそのズボンは両方ともレムリアの祖父の遺したものだそうで、千歳とのサイズがぴったりと合ったことを面白がったレムリア が、今日はこれで行こうと言い出したのである。
 鏡を見た時、はっきり言ってスカートよりもこちらの方が似合っていた事に、セーネはたまらなく泣きたくなったのは余談である。

 閑話休題。
 レムリアは小さな瓶が並んだ屋台に行くと、硬貨を何枚か出して店主に呼びかけた。
「おじさん、ネネのジュースを二本ちょうだい!」
「お、嬢ちゃん、また来てくれたのかい―――おっ、そっちはお姉さんか?へぇ、姉妹そろって別嬪さんじゃねえか」
「・・・・・・は?」
 セーネは何を言われたのかわからずにぽかんとするが、レムリアは自慢げにくすくすと笑った。
「もう、やだなぁおじさんったら! 褒めても何もでないよ?」
「ははっ! それじゃあ、目の保養をさせてくれたお礼に俺が出そう・・・・・・ほら、ジュースを一本おまけだ」
「わっ♪ ありがと、おじさん!」
 レムリアは三本のジュース瓶を受け取ると、手を振って屋台から離れていった。

「今の所には、よく買いに行っているの?」
「うん! まぁ、ヨフアルほどじゃないけどね〜・・・・・・あぁっ!」
 言葉の途中で、レムリアははたと前方の一角に目を止めた。
 一つの屋台の前で、結構な行列ができている。それは、レムリアの大の好物がならぶ屋台だ。
「あんなに人が並んでる〜〜〜っ!」
「本当ね。これは、少し待ってから買いに行った方が・・・・・・」
「絶対ダメ! 待ってる間に今日の分が全部売り切れちゃうかもしれないんだよ!? セーネ、わたしのヨフアルを確保しに行ってくるから、先にいつもの場所 に行っていて! あ、もちろん、セーネの分も買ってくるからね!」
「あ、ちょっと、レムリア!?」
 手に抱えていた瓶をまとめて手渡されて慌てるセーネを他所に、レムリアはさっさと駆け出していってしまう。
 声をかけるまもなく、レムリアの姿は人ごみの中にまぎれてしまった。

 ―――やれやれ。あの小娘、主殿が何のためについて来ているのかをすっかり忘れておるの―――
「・・・・・・それだけ、今の時間を自然に受け入れてるってことなのよ。きっと」
 千歳は少しだけ哀しそうな声で、『追憶』をたしなめるように言った。
 厳格な『レスティーナ』と奔放な『レムリア』。その二つの彼女の顔を見たものは、どちらが本性であるかといぶかしむかもしれない。
 しかし、千歳にはそのどちらも本当の彼女であるのだろうと理解できた。
 いや、もともと性格が一枚岩である者の方が少ないだろう。

 瞬をこの上なく憎む悠人と、周囲の者たちを気づかう悠人。
 敵の命など顧みぬ千歳と、佳織とオルファらを愛する千歳。
 スピリットである身を卑下するエスペリアと、スピリットたちを慈しむエスペリア。
 そしてアセリアも、オルファも、それぞれがそれぞれの二面を持っている。
 レスティーナの場合は、その二面が交わることが限りなく薄く、他の者たちよりもその溝が深くなったのであろう。『王女』としての自分だけを求められ、今 までは一人だけで『少女』である自分を解放しかなかった彼女の境遇は、不憫ですらある。

「私が秘密を共有することで、少しでもあの娘の負担が減ればいいんだけど・・・・・・」
 セーネはそう呟いて、レムリアの希望通り先にあの高見台へと足を進めようとした。
 ここで無理やり合流することは可能だろうが、それは千歳があくまで護衛をしているのだとレムリアに感じさせる行為であるためそうしたくなかった。
 ・・・・・・まあ、万が一を想定してちゃっかりマナの糸をつけておき、異常があった折の追尾は可能にしてあるあたり、やはり抜け目ないのだが。

「しっかし、このままだとジュース三本は運びにくいわね。どうしようかしら?」
 ジュース瓶は手の中にすっぽり入る大きさで、両手で持っていくには不安がある。
 かといって本数がばらばらのままジュースを上着に入れると、自然と二本入っているポケットの側へずれてしまう。肩に『追憶』を隠した鞄をかけているの で、余計に落ち着かない。
「あ。そうか、こうすれば・・・・・・」
 セーネは上着の留め金をすべてかけた。重心が前により、先ほどよりもバランスがよくなった。
 本当は、そのせいで服の中で唯一女性らしさを残していたブラウスが隠れてしまっていたのだが、その時のセーネはさほど気にしてはいない。
 それがすぐ後になって、奇妙な事態を引き起こす要因となるのだが、それを彼女が知る術はなかった。

「よし、それじゃ・・・・・・って」
 セーネは前に歩き出そうとしたその時、思わず顔がこわばった。
 視線の先、市場の道から歩いてくる人物に気がついたのだ。
「・・・・・・ちょっと、なんであいつがこんな所にいるのよ」
 うめき声のような力ない言葉に、律儀に『追憶』が答える。
 ―――大方、あの緑の妖精の買出しにでもついてきたのであろう。見た所、今は一人のようだがの。―――

 視線の先の人物、周囲をきょろきょろと見回しながらこちらへ歩いてくるのは、間違いようもなくラキオス軍スピリット隊隊長、『求め』の悠人その人であっ た。
 セーネはやり過ごそうかと横道を探すが、すでに二人の距離は今から道を変えていてはかえって不自然になる位置まで来てしまった。
(くっ・・・・・・ええい、なるようになれっ)
 千歳は諦めて、何とか自然な様子で歩みを速めた。
 ささやかな抵抗とばかりに、最後につばの広い帽子をさらに深くかぶり、上着の襟を立てる。

 なにを探しているのか、あっちに行ったりこっちに行ったりしている視線が、セーネの緊張を高める。
(気づくな、気づくな・・・・・・っていうか、気づいたら殴る!)
 実はけっこうピンチが迫っているというのに、まったく気づかずにこちらへと近づいてくる悠人。
 セーネは鼓動を抑え、足元に視線を落とした。
 ファンタズマゴリアではやたらと目立つスニーカーが見え、視界を横切っていく。
 何事もなくすれ違うかと思われたその時、そのスニーカーの先がこちらへくるりと向いた!

「あ、そこのアンタ。ちょっといいか?」
「―――!」
 ぎくりとする心臓を意地で止め、それでもセーネは緊張に足を止めてしまった。歩みを止めた彼女に、悠人が近づいてくる。
 セーネはやばいと思いながら、対抗策を急いで練りはじめた。
(どうする!? こんな格好してうろついていることに気づかれたら、いくらこの馬鹿でもおかしく思うわ。まずいことになると、レムリアのことまでばれかね ない。―――っ、やっぱりここはっ!)
 考えを練ったわりに安直な答えに行き着いて、セーネは自分の拳を握りしめた。

(―――殺るッ!!)

 振り向きざまに一撃を放とうと、体を悠人に向けたその時。
「悪いんだけど、この辺でグリーンスピリットの女の子を見なかったか? あぁ、そうでなきゃ、城への道を知らないか?」
「っ?」
 ぴたり。握っていた拳を急停止。
 セーネは臨戦態勢を解き、視線を上げて悠人の顔を見た。

 その顔には、知人を思わぬ場所で見たという驚きは一切ない。
 それどころか、その表情には心底困った、という感じしか見て取ることはできない。
(いや、待って。この馬鹿が気づいてなくても、『求め』が『追憶』の気配を・・・・・・)
 ―――ふむ。あっちはとっくに気づいているようだがの。―――
 『追憶』の声に、千歳は内心げっと声をあげた。
(マジで? じゃあなんで、悠人のやつは何にも気づいてないのよ?)
 ―――何も言っておらぬようだからの。いや、これは・・・・・・ふむ、なるほど。―――
(どうしたの?)
 セーネの問いかけに、『追憶』はきっぱりと答えた。

 ―――うむ。呆れ果てておるようだの。―――

(・・・・・・・・・)
 残虐無比の永遠神剣が呆れ果てているのは、はたしてセーネの正体に気づかぬ主にか、はたまたこんな格好でこんな所をうろついているセーネになの か・・・・・・。
 少なくとも、セーネにはそれを追求することは怖くてできなかった。

「おい。なぁ、聞いてるのか?」
 いぶかしげな声に、千歳ははっとして悠人の方を向いた。
 どうやら、このキングオブ朴念仁は完全にセーネの正体に気づいてはいないらしい。ならば幸運、このままやり過ごすに限ると、セーネは思考を切り替えた。
 先ほどからの態度を見ていると、悠人はセーネを男だと思っているようである。元から中性的な格好だった上、上着を閉じて体の凹凸が目立たなくなった今、 不思議ではない。
 それに見ず知らずの女性に話しかけるにしては態度が馴れ馴れしいし、だとしたら本当に拳で矯正する必要があるだろう。

「・・・・・・聞いている。道がわからないんだろう?」
 セーネは低めの声音で悠人に話しかける。
 男言葉に関する知識はないので、極力、色素の薄い幼馴染をイメージした雰囲気を作った。
「あぁ。それか、スピリットの娘の場所がわかればいいんだけど」
「この近くでスピリットは見ていない。私がわかるのは城への道だけだ」
 悠人の言うのはエスペリアかハリオンだろうが、セーネは事実そのどちらも見てはいない。
 セーネは鞄をかけていない方の腕で、今来た道を指差す。
「このままここを真っ直ぐに行けば、中央通りに出る。ここよりも格段に広いから、すぐに分かるだろう。後は、丘の方へ進めば自然に城の正門へつくはずだ」
「こっちの道か・・・・・・。悪い、助かった」

 悠人は軽く頭を下げて、教えられた道を行こうとする。
 最後までセーネの正体はおろか、性別まで気づかなかったことに、セーネは安心するよりもやや腹を立てていた。
 無用な挑発は危険と知りながらも、去り際に一言声をかける。
「ここに住むのならば、家路くらいは覚えておくんだな。五才の子供でもできることだ」
「なっ!」
 文句を言おうと振り返る悠人にかまわず、セーネはさっさと人ごみにまぎれたのだった。


 ラキオス城下町 高台

 セーネは高台の縁に腰かけながら、先ほどの出来事を思い返していた。
 その顔には、先ほどは押し込めていた怒りが解放されている。
「ったく! 私が誰なのかを気づかなかったのはともかくとして、男だって思うってのはどーいうことよ!? 屋台のオヤジの方が、まだ人を見る目がある わ!」
 ―――ま、その愚鈍さに助けられたわけだが・・・・・・いや、本当に助かったのは若造の方かの?―――
 悠人を殴り倒す気満々だったセーネを揶揄して、『追憶』はくつくつと笑う。
 その無神経な反応にムカッときたセーネは、無言でジュース瓶のそばに下ろしておいた鞄をつかんだ。

「うわ〜。とってもきれいな湖ね〜。きっと、自殺するくらいの勢いで飛び込んだら、とっっっても気持ちがいいと思うわよ〜〜〜?」
 ―――ちょ、ちょっと待てぃ、主殿。まさ、まさか儂をこんな所に本気で・・・・・・うをっ!?―――
 わざとらしく棒読みな言葉と共に、鞄をぶらぶらと揺らすセーネ。
 その眼下には言葉通り限りなく美しい湖面が広がっているが、相対するかのごとくセーネの顔には限りなく邪悪な笑みが広がっていた。
「いつもあんたには、随分と世話になってるからねぇ? たまには心のケアをするのも主の義務だと思うのよ。それに、水に浸るのって気持ちがいいのよぉ?  そう、きれい好きなあんたがすっかり錆びつくくらいま、で・・・・・・」

 セーネはふと、レムリアにつけていたマナの気配がこちらに向かってくるのに気がついた。
 レムリアがようやくヨフアル片手にやってきたのだろう・・・・・・だが、彼女の気配のすぐ横に、ぴったりとくっつくような形でこちらにやってくる者がい るのはどうしたことか。
 しかもこの気配。セーネにありありと分かるほど大きな永遠神剣の気配・・・・・・。
「・・・・・・ねぇ。私、あの朴念仁に、どっちに行けって言ったっけ?」
 ――― ・・・・・・確か、あの小娘と分かれた方向だったと思うがの。―――
 宙ぶらりんになったままだった『追憶』も、この事態はかなり意外だったのか呆然とした調子で返事を返す。
 セーネは鞄を元の位置に戻して、高台の縁から降りた。
 ひょっとして。でも、まさか。
 これが夢であればと思うセーネの希望を他所に、二つの気配は近づいてくる。
 そしてお団子頭が見えるより先に、階段の向こうからつんつん頭が覗いた瞬間、セーネは天を仰いだ。

(神様・・・・・・アンタ、よっっっっっぽど、私のことが嫌いなようね?)
 今ならば万能の神すら呪い殺してみせようと、セーネは神社の娘にあるまじきことを思う。
 そのとことん黒い怨念に沈みかけたセーネを現実に引き戻したのは、溌剌としたレムリアの声であった。


「―――とうっちゃ〜〜〜くっ!」


 両手を高々と掲げ、自慢げに後ろから追いついた少年に話しかける。
「やっとついたよ。ここが、私のとっておきの場所なんだ〜」
 少年は感動を交えた瞳で、階段から一歩を踏み出してきた。
「ここが・・・・・・そうだな。確かにここなら、とっておきになるよな」
 おそらく彼の視界には、美しいラキオスの自然がいっぱいに広がっているのだろう。自分が始めてこの場所を紹介された時と同じような反応を示しているだけ なのに、セーネは限りなく複雑な感情を覚えた。
「いいでしょ! 大好きな場所なんだ。ここに来るのは私と・・・・・・あ、いたいた! お〜い、セーネ〜〜〜っ!」
 レムリアはセーネがいる方に気づいて、笑顔で駆け寄ってくる。
 袖を取り、レムリアはセーネをつい先ほど別れた少年―――悠人に引き合わせた。

 少女を挟んで二人の視線がばっちりと合い、悠人の目が大きく見開かれた。
「あっ! お前、さっきの・・・・・・!」
「え?」
 レムリアが予想外の悠人の反応に驚いたのか、困惑気味にセーネの顔を見上げる。
 セーネは内心でため息を一つ、それからむんずとレムリアの肩を握って胸に抱き寄せた。突然のことにレムリアは驚いたようだったが、片手に抱いた袋から、 ただ一つのヨフアルも逃さぬあたりさすがである。

「・・・・・・どうやら、妹が世話になったようだな」
「セーネ、どうしたの? その言葉づか・・・・・・」
「妹? それじゃあアンタ、レムリアの兄さんなのか?」
「へ? 兄さ・・・・・・?」
「―――いいから、話を合わせなさい」
 レムリアがぽかんと口を開けたのに対し、セーネはレムリアを引き寄せてさやいた。
 だが、レムリアとしてもこの理解不能な事態を流すことなどできず、ひそひそとセーネに問いかけてくる。
「ちょ、ちょっと、どういうことなの?」
「さっき会ったのよ。それでこのバカ、かんっぜんに私のこと男だと思い込んでるの」
「な、なんなのそれ〜!? セーネもなんで、訂正しないのよっ!」
「下手なこと言って正体バレたら、元も子もないでしょうがっ!」
 ひそひそ声で怒鳴りあうという、なかなかに器用なことをやってのける二人。
 だが、今はそんな場合ではない。
「文句なら後で聞くから、今は合わせて! いい!?」
「う〜〜〜っ・・・・・・」
 未練たっぷりなレムリアのうめき声を無視して、セーネは悠人との会話を再開した。

「紛れもなくレムリアは私の妹、そして私の名はセーネだ。それで、私たち二人の秘密の場所にやってきたお前は誰なのかな?」
 気障ったらしい声に反感を感じたのか、少しむっとした様子で悠人は答えた。
「俺は、悠人。高嶺悠人だ」
「ユートくん、だね。ふふっ、変な名前!」
 レムリアが険悪になりかけた空気を掃うように、明るく微笑んだ。
 その陽気さに、二人は毒気を抜かれてしまう。
 にこにことしたままレムリアは改めまして、といって調子でもう一度自己紹介を始めた。

「私はレムリアだよ。それで、こっちはセーネ! セーネ。ユートくんとは、ついさっき町で会ったお友達だよ!」
 レムリアの話によれば、彼女の買ったヨフアル一袋が、また余所見をしながら歩いていた悠人とぶつかったせいで地面にぶちまけられる羽目になったらしい。
 激怒したレムリアの気迫に負けるも、文無しの悠人は弁償することもできず、新しく買わせてきたヨフアルと共に強制連行と相成ったそうだ。
 いくら正体がばれていないとはいえ、また随分大胆なことをとセーネは思った。

 続いて悠人に、レムリアは自分たちのことを少し詳しく聞かせていた。
 何度かセーネが『姉』であることを言いたいと視線を向けてきたが、セーネはレムリアの希望をことごとく却下した。
「それで、私たちはこの町のね、ええっと〜〜〜」
 ふとある時、『設定』を忘れかけたのか、レムリアが不自然にどもる。これはまずいと、セーネは助け舟を出した。
「西の居住区で暮らしている」
「う、うん。そう! よろしくね、ユートくん!」
 そう言って、レムリアは片手を差し出した。
「ああ、よろしく。レムリア」
 悠人はそれに応えて握手を交わす。
 そして。

「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 悠人とセーネが、無言のまま火花を散らしあう。
 何も言わずとも、二人の心の内は互いに読めていた。
「・・・・・・セーネ、ユートくん」
 レムリアの呆れの混じった声にぴくりと反応し、一泊の間をおいて、二人の手ががっしりと重なった。

「―――よろしく頼もうか。ユート」
「―――おう、こちらこそ。セーネ」

 ―――ぎりぎりぎりぎりぎり・・・・・・。

 みしみしと互いの指の骨が鳴るそれは、けっして友好の握手ではなかった。
 ただそこにあるのは仁義なき、漢の戦い―――。
「あぁ、もうっ! どうしてそうなるのよっ!?」
 いい加減にしろっ。そう言いたげなレムリアが、二人を無理やり引き離した。
 一歩退いた悠人は表情こそ変えなかったが、万力のごとき握力で潰されかけた手を、血行を確かめるように何度も握り閉めている。
(―――勝った)
 セーネはふっと、レムリアに気づかれないように悠人に笑いかけた。
 ぐ、と悔しそうな顔を律儀に返してくれるものだから、余計に勝利の感慨も深まった。

「もう、セーネったら。・・・・・・ほら、ヨフアル食べようよ。わたし、もう待ちきれないもん!」
「あぁ。ありがとう、レムリア」
 手に抱えていた紙袋から、レムリアはセーネにヨフアルを手渡す。
 見れば握手をしていなかった方の悠人の手には、すでに一つが握られていた。

 二人が高台の縁に腰かけてそれぞれのヨフアルを食べ始めたのを見ると、悠人はいままでのどたばたで少しつぶれてしまっていた自分のヨフアルを見、ひょい と口の中に放りこむ。
「・・・・・・うん、確かにうまいな! このワッフル」
「ね? おいし〜でしょ? わたしのとっておきの一つなんだから」
 子供のようにヨフアルに舌鼓をうつ悠人に、レムリアは自慢げに笑った。
「・・・・・・あ、でもワッフルじゃないよ。ヨフアルだよ」
 してやったり、という笑顔をレムリアは浮かべる。セーネもまた、そんなレムリアを見つめながら優しく微笑んだ。
 その兄妹の何気ない様子に、悠人はなんとなく自分と佳織の姿を二人に重ねていた。

 しばらくしてセーネは、一人階段の近くに立っている悠人に、右手側に広がる高台の縁を指差した。
「おい。そんなところに突っ立っていないで、こっちに座ればいい」
「え? あ・・・・・・っと、いいのか?」
「あったりまえじゃない! ね、セーネ。ユート君にそっちのネネのジュースもあげていい?」
「かまわないさ・・・・・・ほら、ユート。受け取れ!」
 セーネは鞄の脇に立ててあった瓶の一本を放る。
「・・・・・・っと、サンキュ」
 空中で瓶をうまく受け止めた悠人は、瓶を開けながらレムリアの隣に座る。

 そして残ったヨフアルをまた食べようとする悠人に、レムリアは念を押すように言う。
「ちゃんと、じっくり味わってよね。このヨフアルは、それに値する傑作なんだから!」
「そうそう。ヨフアルに関してはレムリアに逆らわない方が良いぞ? どんな仕返しが来るかわからないからな」
「あっ。ちょっと、セーネ! 何よ、その言い方〜〜〜っ」
「ははっ・・・・・・わかった、そうするよ」
 悠人はレムリアがぷっくりと頬を膨らませるのをおかしそうに笑い、そして忠告通りに少しヨフアルを口に入れたのだった。

 それからはとくに会話を交わすこともなく、悠人たちは静かに高台からの景色を眺めていた。
 傾いていく太陽の暖かな光、頬をなでる涼やかな風。それらのすべてが心地よく、この感傷を言葉で破ることは無粋にすら思えた。
 ネネのジュースをちびちびと舐めながら、セーネは自分の心が穏やかなことに驚いていた。

(こいつが近くにいるのに、こんなに静かな気持ちになれるなんて・・・・・・まったく、らしくないったら)

 演技ではなく、『千歳』はこの状態を良き時間として感じていた。
 悠人への敵愾心もなく、佳織への焦燥もなく。ただ、時間が過ぎていくだけで何かが満たされる気持ち。
 それは彼女にとってたまらなく愛しく、また懐かしいものだった。


 それからどれだけ時間がたっただろうか。
 日が大きく傾きかけたころ、悠人がはたと身を起こした。
「やばい! さすがに、そろそろ城に戻らないと!」
 セーネははっと、自分が溺れかけていた感情から立ち直った。
 レムリアはわたわたとする悠人の姿を笑いながら、今来た階段のほうを指差した。
「お城に行くなら簡単だよ。路地を道なりに行ってね、始めの分かれ道を右に行けば、お城の前に出るから」
「へぇ。さすがに詳しいんだな」
「この辺のことなら、レムリアにとっては自分の庭のことみたいなものだからな」
 セーネはぽん、とレムリアのお団子頭に手を乗せた。

「へへ〜ん♪ その通りっ!」
「そっか・・・・・・この町から出たことはないのか?」
 悠人の問いに、レムリアはわずかに表情を曇らせる。
「う、うん。わたしはずっと、この町の中だけだから」
「バーンライトとの戦争が終わったとはいえ、町から外れた場所には盗賊のたぐいも多い・・・・・・スピリットでもなければ、若い娘がそう易々と町を行き来 できる時代じゃないんだ」
 補足するように、セーネが言う。

「何だって? この近くにも、そんな奴らがいるのか?」
 ファンタズマゴリアで武器を取るのはスピリットだけと思っていた悠人は、驚いて尋ねた。
「あぁ。何のために人間の兵士たちが武装していると思っているんだ? それにこの辺はまだましな方だ・・・・・・話に聞けば、マロリガン共和国などは国土 が広いだけあって、犯罪の発生も食い止めるのが大変らしいからな」
 時としてスピリットを商う者たちが犯罪者らに協力をするせいで、うかつにスピリットたちで討伐することも難しいのだ。
 現大統領が就任するまで、国民たちはマナが枯渇しかけた土地を使い潰していくような生活しかできず、夜盗に身をやつす者も少なくなかったという話が本に あった。

「ここで暮らしていくのなら・・・・・・そういった知識もつけていく事だ。知らなかった、ではすまされないのだからな」
 セーネの忠告に、悠人は難しい顔をしながらも一つうなずいた。
 その後ろで、レムリアもまた難しい顔をしていたのだが、二人がそれに気づくことはなかった。
「暗い話にしてしまったな。それはともかくとして、急いでいたのではなかったか?」
「え? あ、あぁ。そうなんだけど・・・・・・」
 悠人はやや話の切り替えについていけずにいたが、そこでレムリアが急にぐいぐいと悠人を階段へと押し始めた。

「そうそう、セーネの言うとおり! ささ、ユートくんは帰った帰った。お城の人に怒られちゃうよ。もう少し遅くなると門番の人が、うるさい人になるから ね。ほら、早く早く!」
「へ、へぇ。ホント、随分と詳しいんだな」
 町娘が門番の性格すら知っている不自然に気づかない鈍感一号は、ついに階段まで追い立てられた。
「ま、まぁね〜。この町のことなら任せといてよ。さ、行った、行ったぁ!」
「わ、わかったから押すなって! もう帰るよ!」
 悠人は階段の始めの段を危なっかしく降りながら、こちらにもう一度振り返った。

「あ、今度ワッフル代は弁償するよ。ご馳走にもなったし。どこかで待ち合わせる方がいいかな?」
「ほう。人の妹をこの私の目の前でナンパするとは、随分といい度胸じゃないか?」
「ナっ・・・・・・ば、馬鹿、そんなんじゃないって!!」
 冷や汗を流す悠人に、レムリアは人差し指を左右に振った。
「ちっちっち。約束なんて無粋だよ。会えるときには会えるもんだから」
「う〜ん、そんなもんかな・・・・・・?」
「これっきりなら、所詮その程度の縁だったということだろう」
「もう、セーネったら!」
 軽口を叩くセーネの肩を、レムリアは怒った風にぺしぺし叩いた。

「んじゃ。また会ったら、何か埋め合わせするよ」
 悠人は軽く笑ってそう言うと、レムリアは満足そうに、そして送り出すように悠人を見送った。
「うんうん。そうそう。じゃ〜ね! ユートくん」
「ほら。さっさと行け、さっさと」
「こ、こら! 危ないって!」
 セーネが上から蹴り落とすぞとばかりに足を降ると、慌てて悠人は階段を駆け下りていった。

「ばいば〜い。ユートくん。また会えたらね〜!」
「・・・・・・じゃあ、な」
 レムリアは大きく手を振って、セーネはひょいと腕を上げて別れを告げる。向こうからは、こちらは逆光になって表情は見えていないことだろう。
 悠人がこちらに手を振り返し、そして街路を走り出して見えなくなるまで、レムリアはずっと、ずっと手を振っていた。

「・・・・・・行っちゃった、ね」
「・・・・・・えぇ」
 しばらくしてからレムリアがそうぽつりと呟いて、セーネは静かに返事をした。もう男言葉を使う必要もなく、口調は元に戻している。
「ありがとう、セーネ。今日も、わたしの我がままにつきあってくれて」
「・・・・・・ま、始めはかなり驚いたけど。あなたがそうしたかったなら、気にすることじゃないわよ」
「あはっ・・・・・・やっぱり、セーネは優しいね」
 レムリアは笑顔のまま、けれども今までとは違った笑みを浮かべた。

「ねぇ、セーネ。わたし、ユートくんに会った時、ほんとに凄く驚いて・・・・・・でも、わたしのことに全然、気がついてないってわかった時・・・・・・ ちょっと、期待しちゃったんだ」
「・・・・・・・・」
「『レスティーナ』にできなかったことを『レムリア』ならできるかも、って・・・・・・」
「そう・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 二人はほんの少しの間黙って、それから、レムリアはくるりと振り返った。

「行こ、セーネ」
「いいの?」
「うん。今日は、もう帰らなくちゃいけないから・・・・・・」
 レムリアはセーネの返事を待たず、ぴょんと階段の始めの段を飛び降りた。
「―――それと、ね」
 背を向けたまま、レムリアはセーネに話しかける。
「さっきセーネ、ユートくんに言ったよね。『知らなかったではすまされない』って」
「えっ? ・・・・・・えぇ」
「わたしもね、そう思うよ・・・・・・うん。だから、決めたの」
 セーネは何をかとは聞かなかったが、そのレムリアの様子から何となく予想がついてしまった。

「わたし、あの娘にちゃんと話すことにするよ。今、この世界がどうなっているのか。二人がどうなっていくか―――ずっと迷ってたけど、やっと心が決まった の」
 レムリアは空を見上げながら言う。
「ほんとは、あの娘に話したくない・・・・・・嫌われたくない。でも、同じくらいあの娘に嘘をついてもいたくない。でもわたしは、わたしのしなくちゃいけ ないことから逃げちゃダメだって、やっと思いきれたよ」
「レムリア・・・・・・」
 顔も表情も見えない、けれどセーネにはレムリアがどんな顔をしているのかが分かってしまう。

「ありがとう、レムリア」
「・・・・・・・・・・」
「きっと、これからの戦いは格段につらくなっていく・・・・・・。その中で、佳織が何も知らされずにいるのは、きっとあの娘のためにならないって、私も思 う。だから、決心してくれて、本当にありがとう」
「・・・・・・うん」
「でも、ね」
 セーネは、背後からそっとレムリアを抱き寄せた。
 階段の段差もあり、かがんだセーネの胸がレムリアの後頭に押し付けられた。

「つらい時は、我慢しなくていいのよ。レスティーナ王女を今の私が支えることはできないけれど、レムリアは・・・・・・私の、可愛い妹なんだから」
「セーネ・・・・・・」
「―――あなたが味方を必要とするなら、私は決してあなたを拒絶しない。あなたが開く道を、私が守るわ」
「うん・・・・・・うん・・・・・・」
 ぎゅっと、レムリアはセーネの腕を握り締める。
 顔をうずめて、そのぬくもりを確かめるように顔をこすり付けてきた。

「セーネ、わたし・・・・・・」
 レムリアは万感の思いを抱き、背後のセーネに顔を向けようとした。
「あなたがいてくれて、本当によかっ・・・・・・!?」

 ―――ふに。

 突然。
 こちらに顔を向けかけていたレムリアの動きが止まった。
 上着にちょうど頬が当たる位置で、ぴしりと固まったレムリアの不自然な体勢に、セーネははてと不思議に思う。
「レムリア?」
「・・・・・・・・・」
 セーネの問いに答えず、とある一点をじいっと凝視していたレムリアは、突然右手を伸ばした。

 ―――がしっ!!
「え!? わ、ちょ、ちょっと!?」
「・・・・・・っ!」
 セーネは自分のとある部分をいきなり鷲づかみにされて、かなり驚く。
 が、何故か加害者であるレムリアの方が、より驚愕の大きい表情をしていた。あまつさえ、何度もにぎにぎとその感触を確かめるように指を開閉するものだか らたちが悪い。
「や、やめてよ、レムリア! 嫌だって・・・・・・ばっ!」
「・・・・・・・・・」

 ―――すっ。
 また唐突に、レムリアの右腕が離された。
 セーネは赤くなりかけた顔を、必死にごまかそうとしながらレムリアから距離をとる。
「なっ・・・・・・なっ・・・・・・いきなり、なにをするかと思えばっ! ・・・・・・って、え?」
「・・・・・・セーネ・・・・・・・・・」
 ふと見れば、レムリアはじっと静かに、そしてどことなく怨念じみた瘴気を背負っていた。
「・・・・・・信じてたのに・・・・・・・・・」
「え、っど、どうしたのよ、一体!?」
 レムリアの豹変ぶりについていけずに、セーネはただただ混乱する。
 だがそんな彼女の戸惑いもそっちのけで、レムリアはきっとセーネを一睨みすると、あふれる涙をぬぐいもせずに駆け出した。


「セーネの・・・・・・裏切り者ぉぉおおぉぉぉおおおおっ!」


「ちょ、ちょっと! レムリア、何を言ってる・・・・・・って、それより何処に行くつもりなの!? ま、待ちなさいっ!!」
 セーネは慌てて『追憶』の入った鞄を肩にかけ、少し遅れてレムリアの後を追い始めた。
 ―――あの小娘、何を泣き叫んでおるのだの?―――
「知らないわよっ! あんたはちょっと黙ってなさい、駄剣!」
 セーネは先ほどのレムリアの奇行、それによって思い切りつかまれた自分の胸―――長身のせいで気づきにくいが、形良く育っているそれを抑えて、『追憶』 を怒鳴りつけた。
 結局セーネは神剣の力を出すわけにもいかぬまま、驚異的な脚力を見せるレムリアを半刻あまり必死に追いかけるはめになる。



 その後、なんとかレムリアを捕まえたセーネは、彼女のお怒りの原因を知ってかなり脱力することになったのはまったくの余談であった。




・・・・・・To Be Continued



 【後書き】

 今回は短めのものとなりましたが、今までにない速度で仕上がりました。いかがでしたでしょうか?
 舞台はつかの間の平和の中ということで、自分ではいつもよりかなり作風が変わった気がいたします。・・・・・・オチも多かったですし。
 今後は再びシリアス&戦闘へと戻りますので、その息抜きとしてお楽しみください。

 さて、次回は次なる敵、ダーツィ大公国戦です。
 オリジナルから外れた、やや意外なターニングポイントとなる可能性が大きいですので、どうぞ期待してお待ちください。
 ・・・・・・それだけ、書きにくいってことでもありますけれど・・・・・・・・・。

 とにかく、またスランプに落ち込まぬよう、がんばっていきたいと思っております。
 そのためにも、皆様の感想をお願いいたします。
 もちろん、誤字脱字の指摘なども、発見された方が随時報告してくださるととても嬉しいです。
 それでは、また。




NIL