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 千歳を見たものはまず、口を揃えて言う。
「可愛げのねぇ女」、と。
 また、彼女と一度会話をしたものは必ず、こう思う。
「ホント、ヘンな奴」、と。
 そして、彼女を取り巻く男たちの意見は一致していた。
「あれと付き合う様な物好きはいないよな」、と。


 まあ早い話が彼女、海野千歳と言う少女はとにかく周囲から浮いた存在であったのだ。












 永遠のアセリア二次創作            

龍の大地に眠れ

    序章 : 日常という現実







2008年12月16日   12:10  教室

 休み時間というものはどうも中途半端なものだと千歳は思っていた。
 頭を休めるには長すぎて脳細胞が弛んでしまい、体を動かすには短すぎて授業中に欲求不満さえ感じてしまう。
 どうせならまとめて一時間は休ませるか、すべて切り詰めてさっさと下校させてくれればいいのだが、どうせ頭の固い教育機関は耳を貸さないだろう。

「・・・・・・っていうか、そんなのどーでもいい事よね」

 まさしく、そんなどうでもいいことを考えながら、つい先ほど小テストを終えた千歳は廊下の外の景色を眺めていた。
 野暮ったい眼鏡を通して見える青空の雲は所々が霞んで見えるが、その景色に遜色を与えるものではない。 千歳は廊下側からしか見えない、青い山間が広が る 景色を見る のが好きだった。
 なぜ、と聞かれても答えようがない。 自然が好き、と言うほどエコロジストでもなく、別段あの山に深い思い入れがあるわけではない。 ただ、この中途半 端に 与えられた余白の時間に、こうしているのが自分には一番あっているからだ。

 大抵、この時間に終りを告げるのは無粋なチャイムだったが、今日は耳に入ってくる話し声に千歳は顔を上げさせた。

「また秋月が・・・・・・」
「・・・・・・それって演奏部の?」
「だれか先生に・・・・・・」

 廊下の隅で顔を見合わせている女子生徒たちから聞こえる声に、千歳は何を話しているのかを察した。
軽くため息をつくと、窓の桟にかけていた腕を下ろして千歳は彼女らに近づいていく。 細く編みこんだ髪が背中で揺れた。

「ちょっと」

 千歳が声をかけると、彼女たちは珍しい人間に声をかけられたことにひどく驚いた顔を見せた。
「どこ?」
「・・・え?どこ、って」
「今の話」

 そっけない千歳の言葉に気まずそうに顔を見合わせて、一人がおずおずと言う。
「あの、東棟の手前・・・・・・」
「そ、ありがと」
 千歳は心がこもっているとは思えない礼を残して、きびすを返し階段へと向かっていった。


 ※※※ 


 目的の人物たちはすぐに見つかった。
 彼らの周囲だけ、遠巻きに人が集まり始めている。 誰も止めようとしない事を責めるのは酷だろうか。
 色素の薄い髪の少年が赤毛の少女の腕を掴んだまま、強引に話しかけていた。 少年の顔には笑みが浮かんでいるが、少女は恐れと困惑の混じった表情でおろ お ろ としている。
 千歳は予想通りの光景にもう一度深くため息をついた。

 千歳は少女の腕をつかんでいる少年の顔をよく知っていた。
 秋月瞬。
 地元の有力者の息子で、本人もそれを鼻にかけているところがある典型的なエリート思想の持主。 周囲が一言いいたくても、それを黙らせるだけの権力は もっ ている奴だ。
 腕をつかまれているのは高嶺佳織。
 演奏部の期待の星、ともてはやされている少女。
 上級生に嫉妬を抱かせるような嫌味なところもない、今時珍しい優しい気質の持主だった。

 千歳が彼らの前に出ようとしたその時、くせっ毛の男子生徒が千歳のいる反対の廊下から現われて怒りの表情で瞬に怒声を浴びせた。
「瞬、なにしてるっ!」

 瞬も少年を見ると露骨に嫌悪を隠そうともせず、侮蔑の眼差しを向けた。 対して佳織の顔には一抹の安堵と不安が浮かんでいる。
 彼は高嶺悠人。
 千歳は彼が佳織の血の繋がらない兄である事と、瞬との険悪なまでの関係しか知らない。 強いてあげれば、顔見知りの碧光陰の友人である事くらいだが、さ ほ ど重要な事ではないだろう。

 高峰悠人と秋月瞬の不仲は、学園中に知れ渡る事だった。
 高嶺佳織は両親を無くして久しく、今では義理の兄である悠人と暮らしているのだが、それを良く思わないのが佳織を古くから知る瞬だ。
 彼らは佳織のことを最も大切に思っている。 悠人は唯一の家族として。 瞬はただ一人の女性として。
 両者はどちらも佳織の事を思うがゆえに、互いを疎ましく、あるいは憎んですらいる。
 そして最近では、所かまわずにこのような場所でも騒ぎを起こすようになったというのは有名な話だった。
 そして今日、千歳は彼らのいさかいの場に居合わせることができたのだ。

 千歳は軽くこめかみを指で押さえると、改めて彼らに近寄っていく。
 彼らの口論は次第に険悪さを増し、佳織が必死にとりなそうともかえって逆効果だった。
「こっちにくるんだっ!」
「う、うん・・・・・・」

 悠人が強い口調で佳織を瞬から引き離した。
 瞬の目が一段と鋭さを増し、悠人をねめつける。
「それが貴様の本性だな。佳織を強引に従わせる」
「・・・・・・なんだと?」

「貴様のしていることは自己満足だ。 佳織をつかって、自分を正当化しようとしている・・・・・・」

「お前がいえたことかっ!」

 ――――――パン!パン!

 激昂する二人の会話を打ち切って、良く響く様に千歳は両手を打ちつけた。
「そこまでよ、二人とも」
 千鶴は難しい顔で三人を睨む。
 瞬は千歳の顔を見ると、悠人を見るほどではないにせよ眉根にしわを寄せた。
「千歳か・・・・・・邪魔をするな」
「あんたが誰と喧嘩しようと勝手だけどね、瞬。 自分の勝手で佳織を困らせないで」
 佳織の顔をちらりと見た千歳は瞬にぴしゃりと言い放つと、悠人にも厳しい目を向けた。

「あんたもよ。 高嶺」
「なんだとっ、佳織を守るのは俺の役目だっ!」
 ・・・・・・この馬鹿。
千歳は悠人が頭に血が上っていると判断した。
「だったらなんで、あんた自分から佳織を泣きそうな顔にさせる訳?」
「!」

 かすかに震える佳織の肩を抱いて、悠人の顔が苦しげに歪む。
「守るって言うんならね。 そもそも自分からその子の悲しむような事して、いい筈ないでしょうが」
「・・・・・・っ」
「お兄ちゃん・・・・・・もうやめよ? ね?」
 佳織は反論しようとする悠人のそでを掴んで、必死に話しかける。
「そんな事を言っても無駄だ、千歳。 コイツは疫病神なんだからな」
 瞬はにやりと嘲りの笑みを浮かべた。

「自分の周りにいる人間を殺すのが習性なのさ。 汚らわしい本性は決して変えられない」

「・・・・・・黙れよ」
「いいかげんにしな、瞬!」
「うるさいっ!!」
 悠人は千歳の声も振り切り、その体を強く突き飛ばした。
 突然の事であり、受身も取る事ができなかった千歳は教室側の壁にしたたかに背中を打ち付けた。 頭も同時に撃ったせいで、眼鏡が床に落ちてしまった。
 兄の怒りにびくりと肩を震わせた佳織は目に涙を溜めて口をつぐみ、その様に瞬はさらに調子に乗って悠人を弾劾する。
「そうやって、自分に都合の悪い事は暴力で納めようとするのか。 人間にも値しない畜生のやり方だな!」
 苦しげに咳をする千歳を佳織が助けようとするが、千歳はそれを手で制した。
「貴様に佳織の側にいる資格などない。 地べたに這いつくばって生きているお前などな!」

「―――黙れ」

 強すぎる想いに感情の欠落した声が、酷く毛筋を寒くさせた。
「これ以上、佳織に近づくようなら・・・・・・」
 今の悠人の目が腐った魚のそれのように見えた千歳は、やはり自分はどこかおかしいのだろうと思った。

「お前、殺すぞ」

「はっ!それがお前の本性だ。 佳織、よく覚えておけ」
 これだけの負の感情を向けられても瞬は平然としていた。 が、それは同じものを二人が抱えている事の裏返しなのだろうか。
「疫病神の本性だ。 そうやって周りを殺していくのか?」
 にやり、と瞬が笑う。

「それだけか・・・・・・言いたい事はそれだけかぁッッ!」」
 悠人が体を前に倒す。
 ―――殴りかかる気か!
 千歳は息を抑えて背中を壁から引き離したが、悠人を止めたのは彼女ではなかった。

「だめぇーっ! お兄ちゃん! だめぇーっ!!」

 佳織が泣きながら兄の大きな背に取りすがっていた。 彼らがひるむ程の悲壮さを背負って、廊下に響き渡るぐらい大きな声で叫んでいた。

「だめだよ・・・・・・」

 こんなお兄ちゃん、見たくないよ・・・・・・
 そう、呟くように言うのがわずかに聞き取れた。 瞬の顔が、悔しそうに、そして苦しそうに歪む。
 多分、自分も同じような表情をしてると思う。

「秋月先輩、もう行って下さい・・・・・・」
 佳織は何とかはっきりと瞬に言った。
 悠人が佳織を見るべきか、瞬を睨むべきかと顔を振るのを制する様に佳織は二人を見ている。
「分かった、佳織がそういうのなら、僕は退こう」
 悠人を改めて侮辱するような事を言い捨ててから、ちらりとこちらを窺った瞬は最後に佳織に微笑みかけた。
「佳織・・・・・・僕はいつでも待っているよ」
 そして俯いてしまった悠人に一瞥をくれ、瞬は去っていった。

「・・・・・・お兄ちゃん、ごめんなさい。 またこんな事になって・・・・・・」
 佳織は悠人の背中からゆっくりと離れた。 口の中でごめんなさい、と何度も何度も繰り返す。 悠人は苦悩を顔ににじませて、「悪い、またやっちまった」 とぽ つりと言った。
 千歳はそんな麗しい兄妹愛の風景に脱力し、廊下に落ちた眼鏡を拾う。
 かちゃり、と床と金具が触れ合う音に佳織ははっとして千歳に駆け寄った。
「あ、う、海野先輩。 あの・・・・・・」

「こらーっ! そこ、なにモメているんだ!」

 佳織の声を遮るようにして、教師の一人がこちらに近づいてきた。
 多分、生徒の誰かが呼んだのだろう、彼は暗い影を背負った悠人とまだ目が赤い佳織を見、あらかたの状況は把握できたようだ。
 佳織が何とかごまかそうとしても、まるで裏目に出てしまっている。
「高嶺、また秋月じゃないだろうな?」

 二人には既に何が、といわなくても分かるほどこれが続いているのだろう。
「何でもありません。 軽い口論になっただけです」
 軽い口論、で殺すだの何だの言わないで欲しいものだ。 チンピラじゃあるまいし。
「ふぅ、あんまり校内でモメるんじゃないぞ。 他の生徒にも迷惑がかかる」
 若い教師は言いにくそうにしているが、すぐに顔をしかめて小さな声で言った。
「それにな・・・・・・秋月とはモメないほうがいい。 高嶺、お前だって解っているだろう?」
 千歳はその言葉に胸の奥がむかむかした。
 学校の出資者でもある秋月の家が黙っていないだろう、とでも言いたそうなその様は千歳にとって見れば厄介ごとをうとう卑屈さにしか見えない。 生徒を思 い やるように見せて、実際は面倒ごとを嫌い、学校の出資者の子供だから、貧乏学生だから、そんな理由で区別しようとするのに嫌悪を抱いた。

「そう思うのなら、先生が秋月にも注意して下さればよいと思うのですが」

 我ながら嫌みったらしい声をだすものだ。
 悠人と佳織が酷く驚いた顔でこちらを見ている。 教師は始めて千歳が居ることに気づいたのか、むっとした表情でこちらを見た。
「海野・・・・・・お前も知っているだろうが」
「秋月の家が何ですか。生徒の家がカネ蔓だろうとイモ蔓だろうと、建て前では等しく教育を行うのが学校でしょう」

 イモ蔓、というフレーズが壺に入ったのか、悠人がぶふ、と噴き出しかけて慌てて手を口に押し当てていた。周囲を取り巻いている生徒からも失笑が漏れてい る。
 教師は苦虫と油虫を思い切り噛み潰したような顔で言った。
「子供みたいな事を言うんじゃない!」
「大人の勝手に子供を振り回してご満足ですかっ!?」
 千歳も負けずに強い口調で言い放った。
 二人の言い争いが白熱しそうになるのを、佳織が必死に間に入る。

「海野先輩、もういいです、もういいんですから。 お兄ちゃん、いこ?お弁当、渡し損ねていたから。海野先輩も・・・・・・」
「あ、ああ・・・・・・そうだった」
 悠人が佳織の言葉に頷いて、教師に軽く一礼した。
「先生、お騒がせしました」
「―――失礼します」
 千歳もこのまま取り残されても損しかないので、その尻馬に乗る。 佳織は兄と同じく几帳面に頭を下げていた。
「・・・・・・以後、気をつけるように」
 教師はそう言うと、背後で群がっている生徒たちをどやしつけながら去っていった。 いつもより不機嫌そうなのは気のせいではないだろう。

「海野先輩。 あの、すみませんでした」
 教師の姿が見えなくなった後、佳織が千歳にぺこりと頭を下げた。
「―――別に、たまたま通りかかっただけだから」
「そ、それでも・・・・・・」
 また下手な嘘をと自分で思いながら、何か言いたそうな佳織の頭をぽんぽん、と叩く。
「名前」
「・・・・・・え?」
 きょとん、という表現が良く似合う表情で佳織が千歳を見上げた。
「昔みたいに呼んでよ」
 少しだけ、千歳は唇を曲げた。
 佳織は、あ、というと少し考えた後、先程よりも柔らかい表情で言った。

「ありがと―――ちぃちゃん」
「よし」
 昔の呼び名を覚えていてくれた事が少し嬉しかったので、とりあえず佳織の頭を少し乱暴になでた。

 ずっと昔、佳織の両親がまだ生きていた頃だが、千歳は瞬と佳織の三人でつるんでいた。
 みんな揃って泊りがけで遊んだ事もあったほどだが、今では良くぞここまでと言う程に三人はばらばらになっている。
 実際、千歳は佳織の両親が死んでしまった後、この学園で出会うまで一度も会うことが出来なかった。 始めて再開したときに二、三尋ねたが、千歳のことも 瞬 の事もほとんど覚えてはいないようだった。
 だが、佳織は良くも悪くもあの頃のままだ。 瞬や千歳のように変わってはいない。 きっとだからこそ、彼女には今の瞬の言動がひどく怖くも感じてしまう のだ ろう。

「佳織」
 旧交を温めている二人に無粋な邪魔は唐突に入った。
「弁当、頼む」
 少し硬い声の悠人が、千歳を横目で見ながら佳織に言う。
「あ、うん! ちょっと待ってて、いま持ってくるから!」
「じゃあね、佳織」
「あ、またね! ちぃちゃん」
 少しは元気になった様子でぶんぶん、と手を振る佳織に千歳は小さく手を上げて返した。

「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 とたん、廊下に残った二人の間に冷たい空気が走る。
 悠人は何か言いたそうにこちらを睨んでいたが、千歳に聞く気は皆無だった。
 とりあえず、誰かの所為で廊下に叩き付けられた眼鏡をこれ見よがしに拭き始めてみせる。
「うっ」
 案の定、加害者は解りやすく動揺してくれた。
 それにかまわずに、千歳は金具をかちゃかちゃと動かして、ねじが緩んだ箇所を確認する。
「―――今日日、眼鏡も高いのよね」
「悪い」
 ぼそりと呟いた千歳の言葉に、悠人は気まずい顔で頭を下げた。
 大方、彼の心の中では文句をいいたのと気まずいのが半々になっているのだろう。
「別に、あんたのためにした事じゃないわ」
 千歳は眼鏡をかけなおすと、怜悧な眼差しで悠人を睨んだ。

 可愛げの欠片もないこの顔も、大抵の男ならば見上げなくて済む170の身長も、こういうときだけは便利だ。
「それどころか、はっきり言って私はあんたが大嫌いよ。 高嶺悠人」
「なっ」
 突然のあんまりな言葉に悠人が絶句する。
 まあ、それほど面識が深いわけでもない相手にいきなりそんな事を言われれば、そうなってしまっても当たり前なのだが。
「私は佳織が今の生活が幸せだって言えるなら、瞬みたいにとやかく言わない。 別に、このままでもいいのよ。 でもね?」
 一拍の間をおいて千歳は一気に畳み掛けた。
「なんであんたは瞬に色々言われたくらいで、そんな苦しそうな顔してるのよ。だいたいね、バイトだ生活費だってあんたが苦労人気取ってる所為で、あの子が 普段からどれだけ引け目感じてると思っているわ け?」
「引け目・・・・・・だと」

 高嶺悠人のバイト生活はその筋では有名な噂だ。 義理の妹と共に自分たちで稼いだお金で慎ましい生活を送っている、なんて美談に心打たれているものも多 い が、佳織という少女を知る千歳はまったく反対の印象を抱いていた。
「いい、あの子は馬鹿みたいに純真な子よ。 自分の痛みも他人の痛みも、感じるのは人一倍。 それを、一緒に暮らしているあんたの『苦労』に気づいてない とで も思う?」
「お前に・・・・・・お前に俺達の何がわかる!」
「知らないわよ。 今の私が知っているのは・・・・・・」
 悠人は怒りを吐き出した。 しかし、千歳はそれにひるむ事はない。
「ひょっこり出てきた義理の『兄』とやらが佳織を独り占めにして、佳織が受けられる生活補償も自分の勝手で全部断って、挙句の果てに悲劇の主人公を気取っ てる馬 鹿者が今も佳織にまでいらない苦労と負担を与えているって事ぐらいのものよ!」

「・・・・・・・・・」
 千歳が言いたい事を言い終えた後に、悠人は雷に打たれたように立ち尽くしていた。
「高嶺、私にとってあんたの価値はね」
 調子を変えてゆっくりと、千歳は悠人に教え込むようにして言う。
「あんたが佳織を幸せにできるかどうか、それだけよ。 そして、今のあんたはそれにおいて瞬には到底およびつかないわ」
 瞬にはそれが出来る。 たとえ親の七光りだろうがなんだろうが、彼は自分が守ろうとするものはなにを使ってでも守るだろう。 佳織も何不自由なく暮らす こと ができ、おそらく瞬も、彼女と共にいれば昔のように戻る可能性が高いだろう。 始めはギクシャクしても、いずれはかつてのような関係を築けるはずだと、二 人 の過去を知る千歳は考えていた。

 悠人は、思うところがあったのか何も言わなかった。 ただ、きつくきつく手を握り締め、奥歯を噛んでいた。
 千歳はそんな悠人にそれ以上かける言葉はなく、別れの言葉もなしに自分の教室へと向けて足を進め始める。
 後方で明るさを取り戻した佳織の声がするのを聞きながら、千歳は階段を上りきったところでとたんに自己嫌悪で死にたくなった。


 2008年12月16日   18:30  道場

「始めっ!」
 高らかな声を合図に四方から男たちが襲いかかってきた。
 それぞれが殴りかかろうと、あるいはタックルを決めようと銘々の攻撃の準備が整っている。

 その中心に立つのは一人の少女。 墨染めの袴と使い込んだ胴着をまとい、構えもなく自然体のまま立ち尽くしていた。

 ――――――フッ
 短く呼気を吐き出すと共に、少女はすり足で大きく前に一歩を踏み出した。
 四人の内、右から来る男の繰り出した正拳突きを右手で払いのけ、同時に左手でその腕を取り、ねじる様にして男の動きに乗せてあらぬ方向に力を乗せる。  そ れだけの事で、男は突進してきた力を殺しきれないままにその場に倒れこんだ。

(一、)

 男が倒れこむと同時に少女はわずかに首をもたげ、そして勢いをつけて顔をそらせた。
 反動で短く編みこまれた髪が鞭のようにしなり、背後の男の目元を一撃した。 たまらずに、男の一瞬動きが鈍る。
 少女はそれを見逃さずに袖と襟をつかむと、一息に重心を崩して間近に迫っていたもう一人に向けてその身体を投げ飛ばした。
 鈍い音が聞こえ、二人が倒れ込んだ事を知る。

(二、三、)

 それと同時に頭が強い力に引っ張られた。 最後に残った男が髪をむんずと掴み、背後に引き寄せているのだ。
 一瞬バランスを崩した少女の動きに、男の顔にわずかに笑みが浮かぶ。
「く・・・・・・っ!」
 後ろに仰け反った少女は、次の刹那に後方へと素早く回転した。 背後を取った相手の向こう脛を起き上がる直前に蹴りつけ、膝をついた男の首に先端を掴ま れ たままの髪を巻きつける。
「ぐっ・・・・・・ぇ」
 息が詰まる音。
 少女は両手に巻きつけた髪を強く引き、相手の気道を潰した。 がくりと男の頭が落ちる。突然の呼気の乱れが失神を招いたのだ。

(・・・・・・四、)

「それまで!」

 試合終了の声が上がり、少女は髪をするりとほどいて立ち上がった。 その時少女はようやく軽く呼気が上がっていることに気がついた。
 周囲からは、感嘆の声と共にまばらな拍手があがっている。
「ありがとうございました」
 千歳はよろよろと起き上がった男たちに一礼すると、さっときびすを返した。

 ここは武術を嗜むものにとって、県内でも有数の『穴場』な道場だった。
 古い歴史を持つ神社を営む一方でその神主が代々取り持つ道場は、今では耐えて久しい古流武術を伝える今現代では珍しい場所だ。
 ただ、その修練方法がひどく荒っぽく、直接頭を竹刀で叩かれる、壁に叩きつけられるなどが当たり前なのでどうにも人気が出ない。
 道場主の孫娘である海野千歳は、そんな中で女である、という理由を省いても一人浮いた存在だった。

「いや、凄いもんだよ! 千歳ちゃん」
「まったく、男の子四人相手にあれだけやれるなんてねぇ」
「恐縮です」
 千歳は中高年者の世辞に軽い礼を返した。
 彼らにしてみれば二十にもならない小娘が男共をあしらえば愉快くらいにしか思わないのだろうが、彼女と同世代くらいの門下たちは皆遠巻きに千歳を薄気味 悪そうに見ている。

「千歳や」
 道場の上座から、低く落ち着いた声がかけられた。
 それは、臙脂色の座布団に腰掛けている道場主のものだった。 ふわふわの白髪に彫りの深い顔立ちの老人は、その目に穏やかさと老練された気迫を持ってい る。
 これで、本職は宮司であると言うのだから世の中は謎に満ちているものだとつくづく思う。
「・・・・・・なんでしょう」
 周囲の門下生たちは慌てて居住まいを正し、千歳もやや緊張した声で姿勢を直した。
 道場主は孫娘の目を射るように見抜き、深い声で語りかけた。
「気が、よどんでおるぞ」
「!」
 ぴく、と千歳の柳眉がわずかに上がった。

「なんの、事ですか?」
 冷たい声を出していると、千歳は自分でもよく分かった。
「悩むのは良い、答えを求めるのも良い。 じゃが、それを負の心の赴くままに人へと向けてはならぬ」
「・・・・・・・・・」
「分かるな?」
 千歳は己の祖父から目をそらせた。 何故か、なんて分かり切っているけど、やっぱり胸の奥がちりちりと痛む。

「―――気分が優れないので、今日は失礼します」
「千歳・・・・・・!」
 口について出たあまりにも下手糞な言い訳に自分で嫌気がさした。
「失礼します!」
 慇懃に上座へ一礼すると千歳は自分の眼鏡と荷物を取り、静止の声も聞かずに外へ飛び出した。


 2008年12月16日   19:45  神木神社

 ―――ばしゃばしゃばしゃ
 備え付けの蛇口から氷のような水がほとばしる。

 千歳はそれを頭から浴びていた。
 三編みをつたって胴着にぽたぽたと水滴がしみこんでいくのもかまわず、三分ほども水にさらされた後、やっと顔を持ち上げた。

 千歳がいるのは、道場にも近い神社の境内だ。 昼ごろや夕方は運動部の影がちらちらとするものだが、この時間帯にもなれば立ち寄るものは少ない。

 手ぬぐいで顔をごしごし抜く。
 化粧なんて生まれてこの方一度もしたことがないので、他の同世代の少女らと違って千歳はいつでも気軽に顔をぬぐう事が出来た。
「・・・・・・はぁ」
 色気のないため息を一つ吐き出して、千歳は境内の水場から離れた。
 しかし、どうにもすぐに帰る気になれずに途中石段の一つに座り込んでしまう。

 千歳にも分かってはいるのだ。
 高嶺悠人が佳織を大切にしている事ぐらい。 正規の仕事に就けない未成年の身で、家族二人を養うのはハードな生活なのだろう。 そう願わなくても疲れを 感じ る事は仕方がないのかもしれない。 しかし、それでも納得はできないものだ。

 佳織に志倉付属の推薦が入った。
 それは、たまたま職員室で目にした書類で知った事だった。
 佳織のフルートの腕は素晴らしいものだと、学校の音楽関係者は誰もが認めている事実。 本人もそちらの方面に進みたいと希望しているらしい。
 志倉付属に行けば、きっと佳織の腕は認められ、素晴らしい演奏者になる事は欲目を抜いても間違いない。

 だが、全寮制の志倉付属に、佳織は兄を残してまで入りたいとは思わないだろう。

「守るだなんて言って、結局は佳織の足を引っ張ってるんじゃないのよ・・・・・・」
 苛立たしげに爪を噛む。
 高嶺佳織、秋月瞬、そして海野千歳。
 三人はそれなりに良い友好関係をもっていたし、とりわけ瞬は今でも佳織に強い執着を見せている。
 千歳は瞬の家の事情をそれなりに知っていた。
 実力第一、血の繋がりよりも優脳さこそを貴び、人の上に立つ者としての姿勢を叩き込みながら、親子の間でも損得勘定の間柄でしかない現代社会の苛烈さを 見事に体現した家だ。
 そんな一辺の甘さもない中で、幼い頃の瞬が唯一知った純真で無垢な少女。 それが佳織だった。 千歳は幼い頃、そんな彼らに遊び場と称して神社の裏手に 招き いれてやり、誰にも見つからない場所でひっそりと遊んでいたものだ。

 佳織は自分が守る、そういう心構えでは悠人も瞬も同じ存在だと千歳は思う。
 ただ、佳織が選んだのは悠人で、その悠人には佳織の十分な助けとなるだけの力がない。 そして、それを持っている秋月にしてみれば、今の状況は腹立たし い 以外の何者でもないのだ。


「よう。こんなとこで何してるんだ?」


 そんなことを思っていると、やたら馴れ馴れしい声が聞こえた。 そして顔を上げて気がついたのだが、どうやら今の声は自分にかけられたものらしい。

「・・・・・・碧、と・・・・・・岬?」
 私服姿の大柄な無精ひげの青年と、本人に言ったら怒られそうだが針金頭、という表現がぴったりの少女が並んでこちらに近づいてきていた。
 快活な印象の少女は、はて、と言う顔でこちらを訝しそうに見る。
「ってあれ?あたしの事知ってるの?」
 碧光陰と岬今日子。 光陰はたまに千歳の道場にも顔を見せたことがあったのだが、今日子の方はさほど互いの事を知っているわけではない。 しかし彼らは ―――
「あんたたちって有名だから」

 変人カップルだし。

 そんな言葉を喉の奥に引っ込めて千歳は石段から立ち上がった。
 光陰は顎に指を乗せて重々しくうんうんと頷いている。 寺の住職の息子だけあって、歳不相応な貫禄がある。
「うむうむ、やはりこの俺の様な人徳あふれる人間は、自然に周囲に知れ渡っていくものなんだな。 おい、今日子。お前もこれからは俺を手本とし て・・・・・・」
「そこぉっ!」

 ―――すぱぁぁん!すぱぁぁん!

 容赦ないハリセンの一撃が光陰の頭に、続いて振り下ろされたそれが速度を緩めず跳ね上がって顎を打つ。
「ぬおっ」
 たまらずに巨体が仰向けにぶっ倒れた。
 突然始まった夫婦漫才に、流石の千歳もやや呆然となる。
「・・・・・・・・・」
「あ、こいつの事なら気にしないで。どーせすぐ生き返るんだから」
「そ、そう」
 ひきつった顔の千歳に、今日子は悪戯っ子特有の笑みで明るく笑った。

「昼休みの事、佳織ちゃんから聞いたわ。 あたしもお礼が言いたかったのよ」
 今日子の言葉を千歳は不思議に思った。
「礼?」
「ああ、担任から悠人のやつを庇ってくれたんだって? 佳織ちゃんもなんだか今日一日顔が明るかったしな」
 本当にすぐ生き返った光陰が話に加わった。
「別に、大した事をした訳じゃないわ」
 千歳は謙遜ではなく、単にそっけない声で礼を言われるような事じゃない、と言う。
「まぁまぁ、それでも俺らは感謝してるからよ。 礼だけは言わせてくれや」
 光陰は気を悪くした風もなく、妙に人懐っこい笑みを向けてきた。

「―――あー。 ところで、さ」
 今日子が少し言いにくそうに千歳の顔色をうかがう。
「代わりに悠の奴がさ、な〜んかこう暗い顔してたのよ。 ひょっとして・・・・・・なんか知らない?」
 少し気まずそうな問いかけに千歳はちらりと光陰の顔を窺い、すぐにそっけなく答えた。
「知らない」
「そ、そう」
 今日子は意外とすんなり引き下がった。
 どうやら悠人は千歳に言われた事を誰にも言っていないらしい。 千歳はそれに安堵が半分、そして言いようのない感情を半分ほど感じた。

「・・・・・・? 大丈夫か海野、少し顔色が悪いぞ?」
 光陰は千歳の顔を覗きこむ。
 さっと二人から距離をとって、千歳は少したどたどしく言いつくろった。
「べ、別に、なんでもないわ。 少し冷えただけよ」
 その言葉はまんざら嘘ではなかった。
 汗と水しぶきで濡れた胴着だけでは12月の夜風を防ぐには決して十分とは言えないのだから。
「ああ、道場の帰りか? って言ってもそれには少し早い気もするけどな」
「途中で切り上げたもの」
「―――また、爺さんになんか言われたのか」
「・・・・・・私、勘がよすぎる男って嫌い」
 苦々しげに千歳は目元にかかる前髪をはらった。 光陰はやや苦笑しながらも肩をすくめて見せる。

「ま、そりゃあ俺がとやかく言うことでもないけどな」
 話はそれだけか、と千歳はいうと自分の荷物を肩に引っ掛けて二人に別れを告げる。
「碧、師範たちがまた来いって言っていたわよ―――じゃあね」
「あ、うん・・・・・・じゃね」

 もっと可愛い娘がいれば毎日でも行くのになあ、という生臭坊主のぼやきと鋭いハリセンの音を背後に聞きながら、千歳は今さらになって本格的に冬場の寒さ に震え だした。


 2008年12月17日   17:15  千歳の教室

「はい、それではうちのクラスの出し物は『お好み焼き屋』という事になりました〜〜〜。 代表者に決まった人たちはこの後屋台配置の会議のため、ホーム ルー ムが終わり次第会議室に向かってくださ〜〜〜い」

 学級委員の声には〜い、と気のない返事がまばらに聞こえて、退屈なホームルームは終了となった。 今日の議題は、年明けの学園祭でのクラスの出し物だ。
 自分は売り子には向いていないし、適当なところに調理の枠に入ればよいかと千歳はぼんやり思う。 席を立ち、この後の用事もないのでさっさと帰ろうとし た 千歳は、ある教室から聞こえてきた大声に足を止めた。

「初主役! デビューおっめでとう!」

 先日も聞いた声の後に続いて、やんややんやと声援が沸き起こっていた。
 ちらり、と問題の教室を横目で覗くと、高嶺悠人が教師の呆れた視線と生徒たちの熱い拍手を受けて、席から立ち上がり目を白黒とさせている。
 黒板の様子から見るに、どうやら知らぬ間に出し物でやる劇の主役に持ち上げられて様だ。 名前に赤いチョークで花丸がついている。
「そんなわけだから、観念しなさいってば!」

 小悪魔の笑みで笑う今日子を、悠人は恨めしげな目で見ている。 しかしそれは、主役にさせられた事を不快に思うよりも、まんまとしてやられた事を悔し がっ ているように千歳には見えた。
 あの朴念仁が主役、ねぇ。
 それでもきっと、佳織は目を輝かせて喜ぶだろうと思う。 たったそれだけのことでも、悠人は佳織を喜ばせる事が出来るというのに。
「あの子が喜ぶ事、か・・・・・・」
 ぽつりと千歳は呟くと、再び廊下を歩き出した。

 最近の瞬は悪い意味でなりふり構わなくなっている。 ほとんど盲目的に佳織だけを求めて、それ以外の世界全てを不要と割り切ってしまいそうに。
 だが、佳織が瞬を選ばない現状では、それは悪循環を深めていくばかりだ。
 このままでは二人とも、望まぬ結果を招いてしまう日も近い。

 千歳はそれだけは避けたかった。
「私が、するしかないのかな・・・・・・?」
 自分には悠人の様に身を粉にして彼女を養う事は出来ない。 瞬の様に何を捨ててでも彼女を守るだけの力はない。
 けれど今、千歳がしようとしていることはあいつに憎まれている悠人にも、強く想われている佳織にもできない、自分一人にしかできない事だと思っている。

「・・・・・・そう、ね」
 旧友たちのためにも、そして自分のためにもと彼女は決意する。
 今までずっと悩んでいた。 この迷いに決着を着けるためにも、自分が行動するしかない。
 千歳は下駄箱に向かっていた足を止め、瞬の教室に向かった。


 ※※※


 運良く瞬のクラスも、ホームルームが終わったようだった。
 瞬は、誰よりも早く教室から出て、さっさと階段に向かっていた。 そのせいで、千歳は踊り場で簡単に彼を呼び止めることが出来た。
「瞬、」
 千歳の呼びかけに一瞬立ち止まり、瞬は気だるそうに振り返った。

「・・・・・・なんだ、千歳か」
 何もかもが面白くない、という顔で瞬が千歳を見る。 その慇懃無礼な言葉は他人ならばむっとするだろうが、千歳はその程度ではたじろがなかった。
「話があるの」
「僕は忙しいんだ」
 さしたる反応も見せず、瞬はまた歩き出そうとする。

「―――佳織の事でも?」
「・・・・・・・・・」
 千歳の言葉に、瞬は再び立ち止まった。
「大事な、話なのよ」
 言い含めるように語る千歳に、瞬は数秒黙り込んで言った。
「今日は本当に都合が悪い。 明日、必ず聞かせろ」
「・・・・・・分かった。 放課後に、屋上で。いい?」
「ああ」

 短く返答を帰すと、瞬は去っていった。
 佳織はその後姿を見送りながら、心の内に広がる暗い想いに一人肩を落とした。


 2008年12月18日   17:30  屋上

 千歳は今日ほど、一日が過ぎるのを早く感じた事はないと思っていた。
 腹も空かず、ろくに昼食も食べなかったというのに胃が重い。 コンディションはこれ以上ないほどに最悪。

 それでも、千歳はすでに屋上に来ていた。
 立ち入り禁止と言っても、階段前の柵を超えてしまえば、後は背の高いフェンスとろくに掃除の後もないコンクリートの床が広がる。
 千歳はフェンスの傍で、静かに町並みを眺めていた。 周囲には一切の生き物の気配がなく、廊下で見るよりも開けた世界が広がっている。
 ちょうど神木神社がある辺りの山間を見ながら、千歳はそっとポケットの中に手を忍ばせる。 指先に触れる小さな布包みが、しゃらしゃらと音を立てて指先 を 踊った。
 千歳はその感触を楽しみながら、昔のことを思い出していた。

 全く性格が違っていた子供たち三人は、あの頃は互いが互いを補い合っていた。
 おっちょこちょいの佳織が二人を和ませ、お兄さん風を吹かせた瞬が二人の手綱を取り、千歳が二人に色々な遊びを教えていた。 神社の倉に忍び込んだり、 ど れだけ森の奥までいけるかを探検したりした事もあった。
 あの頃が、もう一度戻ってくればと思いながら、そんな子供じみた感傷を馬鹿にする自分がいる。

「・・・・・・・・・?」

 ふと、千歳は神社の境内があるはずの一角に不思議な感覚を覚えた。
 景色はいつもと同じ、さして視覚に訴えるものもないのに、何かが引っかかる感じ。
「気のせい・・・・・・?」
 千歳がポツリと呟いた時、背後のドアが音を立てて開いた。

 ―――ぎぃぃぃぃぃ

 振り向いた千歳の前で、屋上に足を踏み入れたのは、間違いようもなく瞬。
 千歳はそっと目を細めて、瞬と目を合わせた。
「約束どおり、来てやったぞ」
 感謝しろ、とでも言い出しそうな様子に少し苦笑する。
「ええ・・・・・・ありがと」

 一つ、大きく息を吐き出した千歳が口を開こうとした正にその時。
 しかし、その場に響いたのは2人のものではない、全くの第三者のものであった。


「ふふふっ。 自分から一人になるなんて。手間が省けましたわ」


「!?」
 瞬が驚愕の表情を浮かべ、千歳は次の刹那背後を振り向いて、また同じ表情をした。

 白。
 汚れのない真白い服に身を包んだ幼女がいつの間にか千歳の背後に立っていた。
 その服装は、明らかに法衣の様なフォルムをしていたが、千歳の知るどの宗派のそれとも違っていた。 その頭髪も白く、幼い外見に似合わぬ印象を抱かせら れ た。

 そして何よりも、千歳はその幼女の黒い瞳に、明確な『恐怖』を抱いた。
 闇色の双眸、それは煙水晶のように光を受け入れぬものでありながら、それを映すものを蝕んでゆく、静かで壮絶な狂気をかもし出していた。

「・・・・・・ぁ、あっ・・・・・・」
 口から意味のない言葉がもれるのを、千歳は地人ごとのように聞いていた。 足に力を込めなければ、その場でへたり込んでしまいそうだった。
 そんな千歳の無様な様子に、幼女は暗い色の唇をくっと歪める。

「へぇ・・・・・・あなた、ずいぶんと勘の良い子ね。 聡明な子は嫌いじゃありませんわ」

 小さい唇から紡がれる言葉には字面通りの優しさなどなく、祖父に時折感じるのと同じ精錬し、老練された音の響きがあった。
「おい、なんだ貴様は。 はこいつと話があるんだ。目障りだから消えろよ」
 苛立たしげな瞬の声が背後から聞こえた。 彼は目の前の幼女に恐怖していない。 この感覚が分かっていない事は腹立たしくもあり、また僥倖でもある。

「逃げて、瞬・・・・・・」
「なに?」

「逃げろと言ってるのよ! はやく! 『あれ』から離れてっ!」
 声が上ずりそうになるのを必死に抑える。 千歳に出来る、精一杯の叫びに瞬は訝しくも戸惑うしかない。
 だが、千歳の必死の勇気に返ってきたものは更に無情な現実だった。

「それは、困るな・・・・・・」
「っ!」

 もう一度千歳が振り返ると、扉を開ける気配もなかったにも関わらず、瞬の背後には大柄な男が立っていた。
 獣の毛皮をあしらったコートを着た男の身長は、少なく見積もっても二メートルは超えている。 身体は巌のように、その気迫は荒波のように超然的な雰囲気 をもつ、 現代 社会から切り離された様な武者。

 ―――いや、切り離されたのは私たちの方か。

 何故か千歳は男よりも幼女の方により大きい危険性を感じ、改めて彼女へと視線を向けた。
 全身の血が下がっていくのを感じながら、妙に冷静な頭で思考する。 しかし千歳の理性は、もはや確定された死を前にあがきは無駄、とわずかな間に結論付 け た。

「・・・・・・テムオリン様。 もう一人はいかがなさいましょう?」
「殺す必要はないわ。 ただ殺してしまうより、この娘は生かしておいた方が面白そうですもの」
 異形二人は瞬と千歳を挟んで会話を続ける。
「では、マナを奪いますか。 この世界の人間のものでは大した足しにもならぬでしょうが」
「ふふっ。 それも面白そうだけれど、実は私、今回のゲームにはもう少し余興が欲しかったのですわ」
 白い少女が鈴を転がすようにころころと笑う。
 瞬もようやく2人の異質に気がついたのか、眉をひそめながら千歳の傍によった。 自然と、二人は背中合わせになっていた。

「余興、と申されますか?」
「そう。考えてごらんなさい、タキオス。 トキミは今日、駒たちの周囲の人間を可能な限り排除していたわ。 それなのに・・・・・・」
 テムオリンの瞳が舐めるように千歳の身体を見る。
「この娘は、今、この時、ここにいる。 つまり、時詠みの目をもってして、この一つの存在を見極める事が不可能だった。 この娘は奇跡的な確立のカードを 見事 引き当てたのよ」
「イリーガルたる素質・・・・・・と、いう事でしょうかな」
 タキオスはにやりと唇を歪める。 言葉尻には愉快そうな響きが混じっていた。

「選ばれた舞台、選ばれたキャスト、描かれないのはシナリオだけ。 最近ではその程度の芝居も面白くなくなってきましたもの」
 千歳は彼らの言葉の意味を知ることはなかったが、ただ、このものたちが気まぐれに腕を振り下ろすだけで、自分たちの命を容易く奪う事ができるのだと言う 確信に いまだ揺るぎなかった。
 自分に出来るのは、極力彼らを刺激せずにいることだけだ。


「清らかな水面にただ一滴のミルクを注ぎ込むだけで変化し、彩られる予測不能な模様。 ああ、考えただけでぞくぞくしますわ」


「・・・・・・?」
 千歳はその時ようやく、背中に感じる体が細かく震えている事に気がついた。
「・・・・・・瞬?」
 小声で聞くも、彼からかえる言葉はない。
「っく!?」
 背後を振り替えて千歳が見たものは、がたがたと震えながら頭を抑える瞬の姿。
「瞬っ!? いったい・・・・・・!」
「ぐぅぅ・・・ああぁぁぁぁああぁっ!」
 慌てて瞬の身体を引き寄せようとしたが、千歳の手は瞬の叫びと共に振り払われた。
 彼の額にはびっしりと細かい汗が浮かび、目は極限まで見開かれていた。
「瞬、瞬! しっかりしてよっ! 瞬!」
 苦しみ、もだえる瞬を取り押さえようとする千歳。 しかし、テムオリンたちはそんな千歳の行いを嘲笑う。

「思い出すがいい。 心の闇に潜む『剣』の存在を」

 タキオスの一言に、瞬の様子が更に悪化した。
「がああああぁぁああぁああぁっ!」
 喉をかきむしる瞬。 舌は口から飛び出し、目は白目を向きかけるほどに裏返っている。
「瞬・・・・・・くそっ! あんたら、瞬を殺す気なら私を先にやりなさい!」
 もはや恐れを忘れた千歳はテムオリンたちに怒鳴りつける。 瞬に何が起きているのかは分からない。
 だが、周囲に異様な気配が取り巻いているのを千歳は感じていた。
 何かが近づいてきている、それは、とてつもなくやばいものだと本能が告げている。

「さあ、門を開きますわ。 はたして今回のゲームはどちらに賞杯が上がるでしょうね」

 テムオリンの楽しげな言葉が、千歳が最後に聞いたものだった。
 幼女の小さな掌に、いつの間にか祭具と思われる杖が握られていた。 その身体は雲のように空に浮き上がり、笑みを浮かべて2人を見ている。
 そして、テムオリンは大きく杖を掲げ・・・・・・一息に、それを振り下ろした。


 ―――パアァァァァァァン―――


 その時、何かが『壊れた』。
「アアアアアァァアアアアアアアアアアァァァァッ!」
 瞬の絶叫が喉も破けよとばかりに響く。
 そして、その頭上の空間から、眩いばかりの光芒がほとばしった。
 金色の光は地上に落ちた太陽のように膨れ上がり、総てを飲み込んでいく。 二人が立っていた床も、広がっていた景色も、そして目の前の一人も、また。
「きゃ・・・・・・ああぁっ!」
 ポケットの裏地が強力な熱を腹むのを引き金に、千歳の身体が急激に熱を帯びる。 同時に、指先の感覚から始まり、全身の力が抜けていく。 
 ゆっくりと意識が霞んでいく中、千歳は最後に残った思考で呟いた。






 ―――身体が動かない―――



 ―――死ぬの、かな―――



 ―――はぁ。結局、わたし、最期ま、で―――



 ―――・・・・・・・・・。―――















  Somewhere.........

 ―――ぴちゃん

 冷たい。

 ―――ぴちゃん

 ・・・・・・冷たい?

 何が冷たいの?・・・・・・いや、冷たいって何?

 千歳は混乱する意識の中でうっすらと目を開けた。


 ―――ぴちゃん


 また、頬の上で水滴がはじける。
 千歳は自分がどこかに倒れているのだとぼんやりと思った。

 ―――ここ、は・・・・・・?

 周囲に目を巡らそうとするが、首はぴくりとも動かない。 仕方なく目だけを動かすことにした。
 ―――痛いっ・・・・・・!
 突然青い光に目を焼かれ、眼球の奥に響くような痛みが走る。
 何がそんなに眩しかったのか、確かめる為に千歳はもう一度うっすらと目を開けた。

 見渡す限りの青、それが千歳の前に広がっていた。

 それは硝子のように透明で、群青の深遠を宿した広い広い湖の水面である事を千歳は理解する。
「・・・・・・きれい」
 唇からぽろりとそんな言葉がもれた。
 千歳は硬い岩石の床の上にその身体を横たえていた。 彼女のは知る術がなかったが、千歳がいたのはドームのような形状の岩壁で包まれており、それに三日 月 状の地面と広大な湖が広がる洞窟のような場所だった。
 あたり一面にはコケのような植物が覆い、それらがいっせいに青白い輝きを放っている。 千歳の目を晦ませたのはどうやらこの光が原因らしい。
 だんだんと光にも慣れてきた千歳は、次に自分の身体が動くのかどうかを確かめ始めた。

―――私は、どうしてこんな所に・・・・・・?
 千歳は体中に広がる虚脱感と闘いながら、まだ頭の片隅に霞がかかった状態で思考する。
 ―――そうだ、瞬を学校の屋上に呼び出して、それから・・・・・・。
 ずきり、と頭に不快な痛みが走った。
 ―――だめ、思い出せない。

 千歳は渾身の努力をこめてどうにか首を動かす事が出来るようになったが、肩から下は依然として言う事を聞かなかった。
 ゆっくりと身体に言い聞かせるようにして、四肢の筋肉を意識する。
 右足、左足、右腕・・・・・・?
 ふと、利き腕でもある左腕の感覚を意識すると、自分の指が何かを握っている事に気がついた。 ぶ厚く、またすべらかな感触、しっくりと手に馴染む重 さ 。そんな印象を抱かせるものだったが、その正体を知ることは出来なかった。

「―――――――――!」
「―――――」
「・・・・・・―――? ――――――」
「―――」

 ―――人?
 幾人かの集団の会話を交わす声がかすかに聞こえた。
 だれか助けに来たのかとも思ったが、それには不自然なことに千歳は気がつく。

 声が、幼すぎるのだ。
 しかも、その声音から察するに近づいて来ているのはすべてまだ年端もいかない少女ばかり。 千歳は動く肩と首を使って、何とかその場で寝返りを打った。
 うっすらとコケの灯りに照らされて、3人の人影が見える。

「ここ、よ・・・・・・」
 大きく息を吐き出しながら、何とか彼女らに気がつくように千歳は声を振り絞った。
「だれでも、いい・・・・・・助け、て・・・・・・」
 なんとかその声は彼らに聞こえたようだった、彼女らの一人がぱたぱたとこちらに駆け寄ってくる音が聞こえる。

 ―――助かっ、た・・・・・・。

 不覚な事に、千歳が意識を保っていられたのはそこまでだった。
 自分の存在に気づいてもらえた事に安心して気が緩んだのか、自分の意識が急速に闇へと落ち込んでいく。
 千歳の視界に、真っ赤な髪がちらりとかすめたのを最後に、千歳は完全に気を失っていた。




・・・・・・To Be Continued



【後書き】

 初のSS投稿となります。
 このつたない物語をここまで読んでくださった方々に感謝と、よろしければこの後に続く物語にもお付き合いくださればと切に願っております。
 今回の設定はIF物。 もう一人の異邦者です。
 主人公の名前は他のエトランジェたちを参考にしました。つまり、

 苗字 → 地名に関する言葉 : 高嶺、岬、碧(森を連想)、秋月(同名の市が実在)
 名前 → 時間に関する言葉 : 『悠』人、『今日』子、光陰(矢の如し)、『瞬』

 と、いう感じですね。
 でも、他の登場人物(佳織や小鳥)などはこの法則に全然関係ないのですけれど(汗)。

 オリジナルキャラクターは彼女以外に出すつもりはありません。 永遠神剣にしても、オリジナルの追加は二本のみです。
 所々で独自の設定を加えていきますが、基本的に彼女以外の存在は原作そのままとお考えください。

 よろしければ感想、御意見などいただけましたらとても嬉しく思います。
 それでは、またお会いできる事を願って。

NIL   

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