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 悠人、ナナルゥ、ヘリオンの三人は、ユウソカ攻略作戦の道中、味方と分断されてミスレ樹海に逃げ込んだ。
 日が沈み、闇に紛れて追っ手からは逃げ切る事が出来たのだが、そのまま森の中をさまよう事にもなってしまった。
 元来、ミスレ樹海が、方向感覚を失いやすい土地という事も一因だろう。

 サーギオスのスピリットが非常に強力な事は、ラキオス隊の全員が開戦前から覚悟はしていたし、実際、交戦を開始して直ぐにその覚悟が間違いでは無かったと痛感させられた。
 無論、これまでの戦いが楽だったなどという事は決して無いが、それでも数々の戦闘経験を重ねる中で、悠人も仲間のスピリット達も、戦闘技術面でも精神面でも格段にレベルアップしてきている。
 マロリガンとの戦いの後には、光陰、今日子という強力な仲間も増えている。
 そして何より、当初とは士気の桁が違う。
 前ラキオス国王が大陸統一戦争を開始した時、隊のメンバーは無理矢理に、或いは道具として『戦わされていた』。
 しかし今は違う。当時と異なり、悠人も、スピリットも、自らの意志として戦い、そして勝利する事を『望んでいる』。
 個々人の心技体においても、部隊としての結束力や行使しうる戦術戦略の次元においても、ラキオスの戦力は、数ヶ月前とはまるで比較にならない程アップしているのである。
 にも拘らず、サーギオスとの戦いは、ラキオスにとってこれまでに無い熾烈なものになっていた。
 サーギオスのスピリットは、ラキオスのスピリットとは全く異なる方向に純化されていた。
 意思を完全に抹消し、純然たる戦争の道具として鍛え上げる。
 その思想や在り方は、悠人達からすれば到底認められないものではあったけれど、その結果作り出されたスピリットの力が恐ろしく強いという事実は、嫌でも認めざるを得なかった。
 命の意味を知らぬがゆえ、微塵の躊躇も無く仲間の命をも、己の命をも捨石とする戦術。神剣と完璧に同調しての、機械の如き一糸乱れぬコンビネーション。そして、それらの消耗戦術を可能とする圧倒的なスピリットの数、数、数。
 ラキオス隊に覚悟や心構えがあったところで戦いが楽になる訳も無く、一戦一戦が常に命懸け。
 油断などせずとも、懸命に戦っていてすら天秤はどちらに傾くか判らない。
 覚悟や心構えが足りなければ、ただ殺されるだけ。その意味で、覚悟も心構えも、サーギオスとの戦いにおいては最低条件、前提条件でしか無い。
 そんな熾烈な戦いの中、今の悠人達の状況は不運というよりも、むしろ命を残して逃げきれた事を僥倖というべきなのだろう。
 しかし悠人達の疲弊しきった体と頭は、その幸運に感謝するよりも、まずは仲間との合流による安心を、ゆっくりの休息と体力の回復を欲していた。
 体を引きづる様に歩きながら、悠人は思わず一人ごちる。
「やれやれ、すっかり道に迷ったな」
「すいません……私が未熟なばっかりに」
 ヘリオンがしゅんとした様子で悠人の独り言に反応する。
「いや、ヘリオンのせいじゃない。それを言うなら俺のせいだ」
「そんな事ありません。私が飛び出さなかったら……」
「ヘリオンが行かなきゃ俺が行ってたさ。とにかく、今はそんな事言ってる場合じゃない。まずはこの状況を何とかしなきゃな!」
 笑って言い切り、悠人は不毛な会話を切り上げる。
 ヘリオンに向ける笑みは、ネガティブな思考しか出来無くなっているヘリオンを励ますのと同時に、自らを鼓舞し奮い立たせる意味もあった。悠人もそうでもしなくてはならないという状態にあった。
 後ろを歩くナナルゥは会話に入ってこない。話す事すら辛いのかも知れないが、普段が普段なのでそうとも言い切れない。
「とにかく、このまま歩いてても埒が明かない。もう少しだけ歩いてみて、それで駄目ならここらで野宿しよう。それでいいか、ヘリオン、ナナルゥ」
「はい」と、ヘリオン。
 ナナルゥもこくりと肯く。
 提案した悠人とて、可能な限り野宿は避けたい。
 この土地は敵の支配下。とりあえず先程は敵を撒くのに成功したが、まだこちらを探しているであろう事は想像に難く無い。悠人はこの戦争の行方を左右する力を有した存在であり、今がその悠人を殺すチャンスなのだから。
 寝込みを襲われたらひとたまりも無いから、誰かが見張りに立たねばならない。けれども、三人共疲弊しきっており、注意力も満足に発揮出来無いと考えた方が良い。
 休む方も、安心して眠る事は出来無い。何かあった時には直ぐに起きて対応出来る様に、頭のどこかに緊張を置いておかねばならない。
 そして出来得る限りの用心をしたとしても、今の状態で敵に出会ってしまって生き延びられるとは考え辛い。
 そんな危険な状況は一刻も早く終わりにしたくとも、現実は悠人達をあざ笑うかの様に、なんらの良い兆しをも見せはしない。
 晴れてさえいれば月や星の位置を頼りに、ナナルゥかヘリオンが戻るべき方角を示す事が出来るのだろうけれども、生憎と空は曇り、ほんの一つの星も見えない。
 敵地に深く食い込んだこの場所で、大声を上げての捜索や、煙を上げて自分の位置を知らせる事はそのまま自殺行為。神剣反応による探索など言わずもがな、逆探知されるのがオチ。
 幾度か、危険を承知でヘリオンのウイングハイロゥによる空からの偵察を試みもしたのだが、黒スピリットのウイングハイロゥは、それほど上空まで飛ぶ力を備えてはいない事もあり、結果は芳しくなかった。
 ラキオス隊の仲間が捜索に来る事も考えにくい。
 ラキオス隊の全員が悠人達同様に疲労し、休息を必要としているだろうし、生きているか死んでいるかすら定かで無い仲間の捜索に疲弊した戦力を分散し、敵に各個撃破され、結果敗北してしまったのでは本末転倒もいいところだ。
 でも、そうはならないだろう、と悠人は思う。
(エスペリアは優しさの裏に結構脆いところがあるから、取り乱しちまうかも知れないけれど、その時は光陰がメンバーをきっちりまとめてくれる。エスペリアも、それを見て内省出来無い程に愚かじゃ無い。
 第二詰め所の面々は、セリア達に任せて問題無い。内心はどうだったとしても、セリアは仲間に不安な姿を見せない強さを持ってるし、ヒミカとかハリオン達もそれをしっかりサポートしてくれる。
 みんな、俺達が帰る事を信じて、待っていてくれる)
 そんな一種傲慢とも言える確信が、悠人にはあった。それだけの信頼をラキオススピリット隊は築き上げていた。
 信じて待っていてくれるであろう仲間達の信頼に応える為にも、皆を早く安心させる為にも、三人揃って無事で帰らなければならない。
 その思いが、限界を越えた悠人達の体を動かしていた。
 だが現実は、悠人達に更なる追い討ちをかける。
「雨、か」
 ぽつり、と頬に感じた冷たさに悠人は漆黒の空を見上げる。
 雨は瞬く間に勢いを増し視界も満足に利かなくなる。伸ばした手の先すら見えない程に。
 木の陰の雨宿りでやり過ごせる雨量では無い。
 大粒の水滴があっという間に三人の体を濡らし、疲れきった体からどんどん体温を奪っていく。
 焦燥と疲労で頭がぼんやりし、言葉も無くなり、夢遊病者の歩みで三人は森を彷徨う。
 そろそろ歩いているのも限界だと、胡乱な頭で悠人が考えていた時、唐突にヘリオンが声を発した。
「ユート様、向こうに明かりが見えます!!」
「え?」
 ヘリオンの指差す方向を見れば、なるほど確かに光がある。
 とはいえ、敵地深くにくい込んだこの状況で明かりを見つけたという事実は、必ずしも手放しで喜べるものでは無い。
 危険の可能性がある。寧ろ、そうで無い確率の方が遥かに低いだろう。
「どうしましょう……」
「……とにかく、近づいてみよう。様子を見てみないと何とも言えない。ヘリオンもナナルゥも警戒を怠るなよ」
「は、はいっ」
(こくり)

 息を潜めながら三人は明かりに近づく。
 闇と雨が、視界を阻害し、音や匂いを消す。状況は気配を隠すのには適していた。
「家、ですね」
「家だな」
 そこにあったのは、森の中にあるにしては立派過ぎる家だった。
 大きさはかなりのもので、隅々まで手入れが行き届いているのが豪雨の中にも見て取れる。だが、佇まいは堂々というよりも慎ましやかな印象を悠人とヘリオンに与えた。
 誰も立ち入らない深い森の奥の、立派な一軒家。疲れで頭が上手く働かない事を差し引いても、目の前の現実を思わずそのまま口にしてしまう程に、違和感に満ちた光景だった。
「こんなところに家があるなんて……」
「明かりはついてるから、人はいるみたいだ。……ここにいても仕方無い。行ってみよう」
 言って歩き出そうとした悠人の服の裾を、ナナルゥがぎゅっと掴んで止めた。
「どうしたんだ、ナナルゥ?」
 悠人の問いかけに、先程から一言も発していなかったナナルゥがゆっくりと口を開いた。
「この家に関わるのは、止めた方がいいです」
「え? どうしてだ?」
「ここは悲しい場所です。……とてもとても悲しい場所です」
「悲しい?」
「はい……」
 悠人は目の前の家を見た。
 森の中に一軒だけぽつんと立っている家というのは確かに奇異ではあったが、ナナルゥの言う『悲しい』という単語はそこには上手く当てはまらなかった。
 悠人はヘリオンとナナルゥを振り返る。
 ヘリオンは体のいたるところに怪我を負い、疲れきってふらふらだった。早く休ませねばならない危険な状態と、一見して直ぐに判る。
 相変わらずなナナルゥの無表情も、心なしかいつもより疲れて見えた。
 実際、呼吸もかなり荒い。先の戦闘では敵に囲まれた悠人とヘリオンを救う為、敵の包囲網を切り裂き突破する為、追ってくる大量の敵を一気に倒す為、大魔法を連発したのだ。疲れていない筈が無い。
 そして何より、降り止む気配を全く見せないこの土砂降りに、全員がずぶ濡れだった。
 体が冷やされ、時に比例して残り少ない体力が奪われていく。
(分の悪い賭けにはなるけど、このままじゃジリ貧だ。地獄に仏となるか、泣きっ面に蜂となるか、運を天に任せてこの家の住人に接触してみるしかないな)
 悠人はその考えに、自嘲する。
(運を天に任せて、か。俺も追い詰められてるなー。運を天に任せて、まともな事なんて今まで無かったろうに)
 運命に翻弄されてきた悠人は、だから最後に頼るのはやはり天では無く自分自身。
(何かあっても、二人は俺が絶対に護らないとな。こればっかりは頼りにならない俺の天運には任せられない。俺自身の役目だ)
「行こう。何があっても、俺がどうにかするから」
 何をどうするのか自分でも解らなかったが、悠人はそう言った。今は考えている時では無く、決断と行動の時だと思ったから。
「解りました。ただ一つだけ」ナナルゥは悠人の目を見て言った。「御自身を強く持っていて下さい。自分の心を決して見失わない様に」
「……解った」
 ナナルゥの言葉の意味は、悠人にはやはりよく解らなかったけれども、それでもきっぱりと答え、運命を切り開くべく、目の前の家のドアへと足を向けた。


「大変!!」
 血の染みた服が雨に濡れ、緊張に漲る殺気を疲弊の余り抑える事も出来無い。
 幽鬼の如き足取り。顔色は悪いのに、目だけはぎらぎらと光る。
 普通の人間ならば一見するなり悲鳴を上げて逃げ出すであろう、そんな有様の三人を迎えたのは、一人の緑スピリット。
 その緑スピリットは悠人達を見て悲鳴を上げたが、それは自分の為の悲鳴ではなく、相手の為の悲鳴だった。
「酷い有様じゃ無いですか!! 早く家の中にお入り下さい!!」
 新緑を思わせる鮮やかな緑色の髪は緩やかにウェーブし、深緑色の瞳は色だけならばハリオンの瞳の色を更に濃くした印象。
 身長は悠人と同じくらいもある長身。胸も大きく、絶妙なプロポーションを有していた。
 ちなみに、緑スピリットにはグラマラスな者が多い。エスペリア然り、ハリオン然り。
 ニムントールも前途有望と思われる。
 閑話休題。

「偉大いなる大地よ、温もりをもってこの者を癒して下さい。アースプライヤー!!」
 ヘリオンの体が、温かな緑の光に包まれ、傷が見る間に回復していく。
 家の主と思しき緑スピリットが使ったのはエスペリアやハリオンに勝るとも劣らない、強力な回復魔法だった。
「あ、ありがとうございますっ」
 ヘリオンがぺこぺこと頭を下げる。
「いいえ、大した事はありません。お役に立てて何よりです。掛け替えの無いお体、万一にも傷が残ったりしては大変ですからね。次はそちらの方を」
「あ、俺より先にナナルゥをお願いします」
 悠人はナナルゥの肩に手をかける。ナナルゥは軽く頷いて前に足を出そうとし、そのままふらりと体を泳がせた。
「な、ナナルゥ!?」
 倒れかけたナナルゥを悠人が慌てて支え、ナナルゥの顔を覗き込む。ナナルゥは意識を失っていた。
 顔色は蒼白で、息は荒く、しかし浅い。呼吸をするのもままならない状態。
 気付けば、支える腕からはナナルゥの体温が全く感じられない。ひんやりとした不吉な感触に、悠人はぞくりと背を粟立てた。
「すいません!! 失礼します!!」
 緑スピリットが素早く歩み寄り、ナナルゥの前髪を上げて額に手を当てる。
 ナナルゥはもう汗もかいていなかった。
 緑スピリットが顔色を変えて、ナナルゥの体を悠人から奪う様にして抱きかかえた。
 一言の説明も無く、しかしそれが何よりも雄弁にナナルゥの状態を物語っていた。
「アースプライヤーッ!!」


「ナナルゥは大丈夫ですか?」
 部屋から出てきた緑スピリットに、ずっとそわそわしていた悠人は急ぎ質問をぶつけた。
「はい、何とか命は取り留めました」
「そうか……良かった……良かった……」
 そのまま悠人は、床に座り込んでしまう。
 ヘリオンも悠人の隣にへたり込む。安心のあまりに涙を流しながら。
 悠人はそのヘリオンの姿に、逆に落ち着きを取り戻し、優しくヘリオンの頭をなでて落ち着かせる。
 傍らに護るべき者がいれば、自分がどんなに辛い状況にあったとしても為すべきを考え、それを為す。悠人のそれは最早、条件反射の域にまで達している。
「ユート様……ぐすっ」
「良かったな、ヘリオン」
「はい……はい……」
 緑スピリットはそんな二人に優しく微笑んだ。
「まずは椅子に座って一息ついて下さい。お茶を入れますから。それと……」悠人とヘリオンにタオルを渡し、悠人にも回復魔法をかけた。「御自身の身もお案じ下さいね」
「あ、有難う御座います。そういえば……俺達、びしょ濡れだったな」
「足元に水溜り作っちゃってます。ど、どうしましょう?」
 緑スピリットの柔らかな笑みを受けて、悠人とヘリオンは自分達の惨状にようやく気付いた。


 借りた服に身を包んだ二人が、柔らかく湯気を立てるお茶を前にして机に座る。
 初対面の相手に衣服を借りるのは申し訳無いとは思っても、着ていた服は既に下着までずぶ濡れになっていて、そんな格好でいる方が憚られたのだ。
 この家の主である緑スピリットの長身ゆえに、ゆったりしたものを選んでもらえばシャツは悠人にも着る事が出来た。
 とはいえズボンは流石にサイズ的に無理だったし(足の長さはともかく、悠人にはかなり筋肉がついているのだ)、下着まで濡れてしまっていたので、巻きスカート状の服を借りてそれを纏っている。下着は付けていない。
 珍妙な格好ではあったが、ファンタズマゴリアに飛ばされる前の悠人ならばともかく、生活様式の全く違う異世界に飛ばされ、様々な国で多様な人々の生き方を見てきた今の悠人にとっては、その程度は抵抗らしい抵抗にもならない。
 それを笑う相手もいはしない。
 悠人は波乱に満ちた経験の中で、自らの常識や価値観が絶対唯一のものでは無いと認め、その上で自分の信念、価値基準を確立してきている。
 それに従えば、服装の如何など瑣末極まりないもの。助けの手を差し伸べてくれる相手に対する感謝の意こそが重要であり、それに比すれば自らの体面などどうでもいいレベルの話になる。
 まして、服を貸してくれる相手から「すいません、これしか用意出来ませんで」と、すまなそうに頭を下げられては。
 ファンタズマゴリアに飛ばされてからこちら、悠人がずっと着ている服も、自らと元の世界の繋がりを確認するという意味では重要な物であるが、それ以上にはなりえない。
 悠人は、頭を下げる緑スピリットに心からの謝意を伝え、借りた衣服を身に纏った。
 ヘリオンにも、少し小さめの服が用意された。それでもぶかぶかではあったが、袖と裾を折り返したヘリオンは、悠人の目から見てそれはそれで可愛かった。
 ヘリオンも、悠人の風変わりな姿を見て頬を染めたが、それも決して悪い意味では無い。最もヘリオンにとっては、悠人がどんな格好をしていても、ただそれが悠人だというだけで魅力的に映るのだろうけれども。

 悠人とヘリオンはお茶を一口含む。
 疲労の余り味も判らない一口目。それはしかし、疲労を溶かす温かみを持って二人の冷え切った体に染み渡った。
 つい先程までの硬質な呼吸とは全く質の異なる、暖かく柔らかい吐息を二人揃ってほうっと吐き出す。
 口の中に残る芳醇な香りと後味に、美味しいお茶であったとようやく気付く。
 ヘリオンには独特の味ながらとても美味しい、としか感じられなかったが、悠人にとってそれは日本茶を思わせる味で、それも又、悠人を安らがせる一助となった。

 緑スピリットはアンジェリンと名乗った。
 そこで初めて、今まで自己紹介すらもしていなかった事に二人は思い当たり、又も恐縮するが、それに対しても緑スピリットは穏やかに語る。
「皆様の会話からお名前は御推察致しました。ユウト様、ヘリオン様、そしてお休みになっているのがナナルゥ様、ですよね? ……あっ、すみません!! 余りにも思慮が足りませんで、御無礼を申しました。今更に大変不躾ではありますが、姓を教えて頂けますでしょうか?」
「高嶺です。高嶺悠人。ですが、名前で呼んで下さい。俺はそんなに大した者じゃないですし」
「では、僭越ながらユウト様と呼ばせて頂きますね」
「あ、いや、様付けも出来れば勘弁して下さい。恩人に様付けされるのも、何だか居心地が悪いですよ」
「そんな、恩人だなどと言われると恐縮してしまいます。……ええっと、では、ユウトさん、で宜しいですか?」
 さん付けも出来れば止めて欲しいと悠人は思ったが、初対面の相手に、ましてや異性に(差別意識の無い悠人の認識からすれば、スピリットもただの魅力的な女性としか映らない。なればこそ、その殺戮が辛くもなるのだが)名前を呼び捨ててもらうのも又憚られた。
 加え、敬語を使われるのも遠慮したいところではあったけれども、それは彼女の心の奥にまで根ざす謙譲精神の現れである様に悠人には感じられた。
 それゆえ、その否定は本人の否定に繋がるような気がし、砕けた物言いを無理強いする事は逆に失礼と思い、悠人はそう願い出る事を控えた。
 ヘリオンも悠人の言葉に続ける。
「えっと、私も様付けで呼ばれると落ち着かないので……」
「ではヘリオンさん、で宜しいですか?」
「あ、はい」
 他人に敬語を使われるのにも、さん付けされるのにも慣れていないヘリオンが、反射的に緊張のそぶりを見せて背筋を伸ばす。
 悠人は、そんなヘリオンの様子を微笑ましく思い、実際軽く笑いながらも、自分も背筋を伸ばしてアンジェリンに向き直り、表情を引き締めた。
「それでアンジェリンさん、今日は本当に有難う御座います。何と礼を言っていいか」
 悠人の言葉に、今度はアンジェリンはゆっくりと首を横に振った。一つ一つの行動、その全てがゆったりと優しい。
「いえ。私のした事にお礼など必要ありません。客人を精一杯もてなす事こそ当然の礼儀ですから。
 それと私には敬語は必要ありません。普通に話して下さい。お願いします。
 人間の方に、しかも殿方に丁寧に話されると、それだけで恐縮してしまいますので」
「それは悪いですよ」
「いいえ」アンジェリンは重ねてかぶりを振る。「ユウトさんがスピリットである私を、同等どころか敬意すらをも払って接して下さっているという事は、充分過ぎる程に感じられるのです。身に余る光栄です。
 ですから、これは私の側の身勝手な都合なのです。ただ私が落ち着かないというだけの。どうか私の我が侭を聞いて頂けませんでしょうか」
「我が侭だなんて……でも、あー、それじゃあ、うん。すまないけどそうさせてもらうよ。実を言うと敬語は苦手なんだ。そうも言ってられないとは思うんだけどね」
「はい。有難う御座います」
 苦笑いの悠人に、アンジェリンも慎ましやかな笑みを返しつつ言葉を続けた。
「敬語が苦手とおっしゃいましたが、言葉とは心を伝えるもの。とすれば、心に敬意を持って使うのならば少々の間違いは構わないのではないでしょうか。少なくとも私はそう思います。
 最も、それは私の下手な敬語の免罪符でもあるのですけれど」
 アンジェリンの言葉には説得力があった。
 同じ大陸とはいえ、北方にあるラキオスと南方に位置するサーギオスではまるで生活様式が異なる。
 風土が違うのだから当たり前ではあるのだが、文化風習も全く異なり、それは礼法の違いをも生み出す。
 言葉も同じ聖ヨト語とはいえ、かなりの部分で方言的な差異があり、当然敬語表現等にも違いは生じる。
 この家のあるミスレ樹海は地理的にはサーギオスに位置するが、アンジェリンの使う言葉や礼法は、寧ろマロリガンのものに近かった。
 悠人はファンタズマゴリアに来て言葉を覚えはしたものの、細かい方言の差異を理解出来るレベルには未だ達していないし、ヘリオンも、その辺りの知識はただの一兵士には必要とされないとされて教わる事も無かったので、はっきりとは判らなかったが、悠人達よりも詳しい者ならばアンジェリンの言葉や礼法は、砂漠にあるデオドガン地方のものだと直ぐに判っただろう。
 比較的涼しいながらも四季のあるラキオスと、乾燥地帯の多いマロリガンとではやはり文化も生活様式もまるで違い、言葉にもかなりの違いがある。
 まして、デオドガンは交易の中継をして生活を立てる者が多いので、様々な地方の文化が混ざり合い、かつ砂漠の真ん中という過酷な地域である事も加わって独自の発展を遂げている。
 それだけの差異があってもなお、アンジェリンの誠意は完璧に悠人達に伝わっている。説得力もあろうというものだ。

 ひとしきり自己紹介を交わし、話は自然とナナルゥの事に移る。
「ナナルゥがあんなになってるのに、倒れるまで全然気が付かなかった。やっぱり俺のせいだよな」
「ユート様のせいじゃないです!! ナナルゥさんが倒れるまで無理をしなくちゃならなかったのは、私のせいです。私がもっとしっかり出来てれば、こんな事にはならなかったんです……」
「ナナルゥ様は……お二人をさん付けなのにお一人だけ様付けというのも妙ですね。ナナルゥさん、と呼んでもお気を悪くなさらないでしょうか」
「ああ、ナナルゥはそういうの気にしないと思う。むしろ一人だけ様付けだと、疎外感を与えちゃうんじゃないかな」
「では、失礼してナナルゥさん、と呼ばせて頂きますね」
 アンジェリンは軽く目を瞑り、僅かに考えをまとめる様な仕草を見せてから、再び口を開いた。
「戦いの中では、体力が尽きていたり、大怪我を負ったりしていてすら、緊張感が持続する限り痛みも疲れも感じずに動き続ける事があります。
 ナナルゥさんもそうだったのでしょう。
 お二人の無事を確認するまで、ずっと気を張っていたのでしょうね。ただ……」
 アンジェリンは一旦言葉を切り、ナナルゥの寝ている部屋のドアを見た。
「あのような状態になってまで動いていただなど、自分で見ていなければ到底信じられません。いえ、この目で見てすらも、まだ信じきれていません。
 実際、ナナルゥさんはいつマナの霧と化していても不思議ではなかった。そんな状態だったんです。
 本当にナナルゥさんは、お二方を大切に思ってらっしゃるのですね」
 そう言うと、アンジェリンは再び悠人達の方に視線を戻した。
「やっぱり、ナナルゥがそんなになるまで無理しなきゃなんなかったのは、隊長の俺が不甲斐無いからだよな。情けないよ」
 うつむく悠人の言葉に、ヘリオンが反応するよりも早く、アンジェリンが言葉を返す。
「その通りです」
 アンジェリンの口調は、面伏せていた悠人にはっと顔を上げさせ、へリオンが思わず息を呑む程に強いものだった。
「弱さは罪です。言うまでも無い程に自明の事ですが、戦場では弱ければ殺されます。
 そして死ぬという事は、想ってくれている相手に対する最大の裏切りです。
 又、弱さはその本人のみならず仲間をも危険に晒します。結果、仲間が死する事もあり得ます。
 それは間接的にとは言えど、弱さが仲間を殺したという事に他なりません。
 それらの引き金たる『弱さ』。それを罪と呼ばずに何と呼ぶのでしょう。
 戦場に立つ以上、強くあらねばなりません。
 これはユウトさんだけでは無く、ヘリオンさんにも同じ事が言えます。そして誰よりナナルゥさんにこそ当てはまります。
 皆さんが亡くなったら、悲しむ人がおられるのでしょう。ならば、強くあらねばなりません。
 自分自身の為にも。想ってくれている相手の為にも」
 悠人は、アンジェリンの言葉に全く反論出来無かった。
 己の弱さが皆の迷惑にしかならないと、悠人は幾度と無く思い知らされているし、自らの力の無さに臍をかんだ事は一度や二度では無い。
 それに自分が死ねば泣いてくれる相手にもはっきりと心当たりがある。自分がそれに見合うだけの価値がある人間かどうかはさておくとしても、だ。
 ヘリオンも悠人同様に、寧ろそれ以上に、泣きたくなる位にアンジェリンの言葉をきつく感じながらも、同時に心にしっかり刻んでおかねばならない事と認識していた。
 実際にそうかどうかはともかく、仲間の足手纏いになっているという思いは、常にヘリオンの心に圧し掛かっている。
 今回の事にも又、ヘリオンは責任を感じていた。今の状況を生み出したのは自分の未熟さゆえだ、ナナルゥさんが死に瀕したのは自分の弱さが原因だ、と。
 だからこそ、アンジェリンの言葉の一つ一つがヘリオンの心に突き刺さる。自分の未熟さを直視するのは辛いけれど、それを糧として強くならなければと、ヘリオンはぐっと固く拳を握り締める。
 アンジェリンは、そんな悠人とヘリオンに向けてはっきりと言葉を紡いでいく。
「日常においても又然り。
 生きるとは戦いに酷似しています。戦いそのものと言っても良いかも知れません。
 弱ければ良い様に利用され、踏み躙られるだけ。悠人さんにもそんな経験がおありなのではないですか?
 それに対抗するには、自らも強くなる事。それ以外ありません。
 強さは腕力だけではありません。知識、経験、経済力、人脈、多種多様な強さがあるでしょう。
 しかし、いずれにせよ『強さ』という点では変わりありません。
 それらを身につけない限り、自分自身を、自分の大切な相手を護る事など出来ません」
「……覚えておく」
 噛み締める様に悠人は応えた。
 その悠人の固い声音に、アンジェリンははっと我に返り、深く頭を下げる。
「あっ! す、すいません!! 出過ぎた事を言ってしまいました。申し訳ありません」
「いや、本当の事だよ。俺は強くなくちゃいけないんだ。みんなを護りきれる位に」
「ユート様……わ、私も頑張りますっ!!」
 ヘリオンも、身を乗り出す。
 自分の大切な相手を護る。その明確なイメージが、今のヘリオンの中にはある。
「本当に申し訳ありませんでした。事情も良く知らない部外者の私如きが、偉そうな事を言ってしまって……」
「謝らないでくれよ。こっちがお礼を言わなきゃいけない側だし、実際アンジェリンの言う通りだと思うしさ」
「そ、そうですよ!! 私が頑張んなきゃいけないんですから」
「そうは申しましても……」
 なおもアンジェリンは恐縮していたが、そこで身を乗り出していたヘリオンが、ふぁ、と欠伸を噛み殺した。
 無理も無い。疲れきった身体が、ようやく安らげる場所を見つけたのだから。
 『武士道と云うは死ぬ事と見付たり』で有名な『葉隠』にも、欠伸の抑え方が書いてある程に、欠伸を抑えるというのは楽な事では無い。
 余談はさておき、それはある意味でタイミングも良かった。
 そのヘリオンの欠伸のお陰で、アンジェリンとの間に流れかけた微妙な雰囲気は、綺麗さっぱり無くなった。
 代わりに今度はヘリオンが、顔を真っ赤に染めて俯く事にはなったが、アンジェリンにも悠人にも笑顔が戻り、それを見てヘリオンも照れくさそうに笑った。
 気が付いてしまえば、猛烈な睡魔が襲い来る。
 悠人も、ヘリオンも、そしてナナルゥを含めた三人に回復魔法を駆使したアンジェリンも疲れきっていたから、これは至極当然の事。逆に今まで眠くならなかったのが不自然な位だ。
「お疲れのところを長々と話に付き合わせてしまい申し訳ありませんでした。
 粗末ではありますが御寝所の用意は出来ておりますので、今晩はゆっくりとお休みください。
 それと、大変失礼な話なのですが、私も少々疲れてしまいましたので今日はもう休ませて頂きます。満足にもてなす事も出来ずに、申し訳ありません。
 何かありましたら、遠慮無く起こして頂いて構いませんので」
「いや、うん、わかった。お休み、アンジェリン」
 滅多な事ではアンジェリンを起こすなどという事はしないだろうと自分で思いつつ、それでも悠人はアンジェリンに気を使わせない為に肯定の返事を返した。
 アンジェリンもその悠人の思考を察したのだろう、最後にまた優しく笑い、
「ではお休みなさいませ」
 言って、アンジェリンはナナルゥの寝ている部屋に入った。
 悠人もヘリオンも疲労の余り気付けなかったが、アンジェリンはナナルゥに付き添いながらの休息である。
 副因として、通常はエスペリアやハリオンが、今のアンジェリンの役割を完璧且つごく自然にこなしてしまっており、良くも悪くも二人がそれに慣れてしまっているという事もある。
 とはいえ仮に、それに二人が気付けたところで、悠人にもヘリオンにも、ナナルゥの付き添いを出来るだけの体力は残っていなかったけれども。

 体の怪我は魔法で回復出来ても、体力まではそうはいかない。
 逆に、回復魔法による新陳代謝の促進によって、体力は通常よりも余計に消費される。
 悠人は柔らかな布団にもぐりこむ。ベッドでは無い。普段は使っていない予備のシーツや毛布等を使って急造したものと思われたが、それでも戦場の簡易毛布や野宿の寝床とは比べるべくも無く立派な物だ。
 雨風を防げる場所を借りられるというだけでも、ありがたいというのに。
 と、そんな思考も布団に入る直前まで。
 布団に包まれるや、悠人は気を失う様に眠りに落ちた。
 窓の外に降り続く雨は、一向に止む気配を見せない。


 悠人が目覚めた時、外はまだ薄暗かった。
 ざあざあという雨音に、いまだ雨の止んでいない事を解する。
 普段は寝起きの良くない悠人だが、今日は流石に他人の家だし、何よりもナナルゥの様子が気にかかる。
 日も完全に明けていないうちに起きて出て行くのもどうかと思ったが、部屋の外からは既に誰かが起きて働いている物音が聞こえていた。
 きっとアンジェリンだろうと推測し、用意してもらっていた服に袖を通す。
 いつもの服は洗濯すると、アンジェリンが言っていた事を思い出す。
 昨日は、言われるままにアンジェリンの厚意に甘えてしまったが、よくよく考えてみれば会ったばかりの女性に服(下着含む)を洗濯してもらうというのも非常に心苦しいし恥ずかしい。
 元の世界とは違い、こっちでは大抵が手洗いなのだから、余計に。
 まぁ、いつもはエスペリアにやってもらっちゃってるけど。でも、こっちに来た時は状況が状況だったしなぁ。やっぱり今回は自分で洗濯させてもらうべきなんだろうな。他にも手伝える事があるなら手伝うべきだろうし。世話になりっぱなしじゃ申し訳無いからな……、そんな事を考えながら悠人はドアを開けた。
 と、物音の主はヘリオンだった。ぱたぱたと掃除をしている。
 悠人を起こさない様、極力物音を立てまいとしているようではあったが、その気持ちが上手く行動に反映されていないのもヘリオンらしい。
 そもそもアンジェリンならば、これほどあからさまな物音を立てはしなかっただろうと、悠人は自分の推理の外れに気付く。アンジェリンには昨日会ったばかりだが、当然の様にそう思った。
「お早う、ヘリオン」
「あ、ユート様!! おはようございますっ!! ……もしかして、起こしちゃいましたか?」
「いや、そんな事は無いよ。自然に目が覚めたんだ。それにしてもヘリオン、起きるの早いな」
「そんな事無いですよ。もう夕方ですよ?」
「え? 夕方?」
 悠人は夜明け前かと思っていたが、これは夕方の薄暗さだった。
 窓の外は雨が激しく降りしきり、灰色の厚い雲が空を暗く染めている。明けも宵も、これでは悠人ならずともいまいち判断がつかない。
 けれども、悠人が自分自身の体に意識を向ければ、確かに疲労はかなり回復していた。
 まだ体が多少重い気がするのは、先日の疲労が一日の睡眠でも追い付かない程に大きかった事と、後は寝過ぎの影響だろう。
 そして何より、凄く腹が減っていた。
「一日寝てたのか、俺は」
「はい。あ、私もお昼まで寝ちゃってたんですけどね、えへへ。アンジェリンさんが、今はゆっくり休むのが第一だ、って、起こさないでいて下さったみたいで」
「そっか。気を使わせちゃったな」
 そこにアンジェリンが姿を見せた。先程悠人が考えた通りに、気配を掻き立てる事の無い、物静かな足取りで。
 気配が薄いのでは無い。殊更に気配を消したりしている様子は無いのに、アンジェリンの気配は凪の用に穏やかだ。
「お早う御座います、ユウトさん」
「あ、お、お早う、アンジェリン」
 お早うと言うには遅すぎる起床に悠人は何と言うべきか僅かに逡巡し、結局朝の挨拶を返した。
 一夜の宿を借りるにとどまらず、豪快に寝坊までしてしまった気まずさに恥じ入る悠人に、アンジェリンは昨日と同じく温和な笑みを向けた。
「ゆっくり休んで頂けた様で何よりです。ちょうど食事の用意を始める所でした。空腹のところ申し訳無いのですけれども、少々お待ちになって頂けますでしょうか? それとも何か、簡単な物でも先にお作りした方が宜しいでしょうか?」
「いや、そんな、いいよ。ところで、ナナルゥの様子はどうかな?」
 悠人は起きた時から気になっている質問をぶつける。
「大分回復はしておられる様子ですが、まだ暫くの間は眠っているでしょう。体がまだまだ睡眠を欲している筈ですから」ほんの少し悪戯っぽく微笑する。「ユウトさんも体力の回復には睡眠が必要でしたでしょう?」
「あ、あははは……面目無い」
「いえ。それに私に聞くよりも、ナナルゥさんのところに直接行かれてはどうですか?」
「行っても大丈夫?」
 幼い頃の病院で、親や義妹のいる病室から閉め出された記憶がそうさせるのだろうか、悠人には昨日のナナルゥの絶対安静の様子に、ナナルゥの寝ている部屋に入るのが躊躇われていた。
 無意識にとはいえヘリオンにその事を聞かなかったのも、幼き日のトラウマの影響だろう。
 そうで無かったら、悠人の性格からしても、目を覚まして即ナナルゥの様子を見に行っていたに違いない。
「はい。今はもう状態も落ち着いておりますので」
「そうか。じゃあ」
 許可が下りたのならば一刻も早くナナルゥの無事をこの目で確認したい。
 そんなはやる気持ちを努めて抑えつつ、悠人はナナルゥの休んでいる部屋を音を立てるか立てないか程度にほんの軽くノックすると、極力音を立てない様にドアを開けた。
 ベッドの上では、ナナルゥがアンジェリンの物であろう寝巻きを纏い、すぅすぅと穏やかに寝息を立てていた。
 僅かに寝乱れたパジャマが、妙に色っぽくすらある。特に胸の辺りが。
(ナナルゥって、意外と着痩せするんだな)
 そんな邪な事をちょっぴり考えつつも、色っぽさを感じられる位にまでナナルゥの血色が戻っている事に安堵する。
 昨日のナナルゥの死体の様な青白さや、ひんやりとした不吉な感触は、悠人にとって到底思い出したくも無いものだ。
 シーツをナナルゥの肩までかけ直し、シーツを柔らかく持ち上げる双丘の上下に呼吸を改めて確認してから、後ろについて来ていたヘリオンを促しつつ、極力静かに部屋を出た。
 悠人は心から安堵していた。昨日からずっと引っかかっていたものがすうっと解けた感じだった。
「本当に有難う、アンジェリン」部屋のドアを閉めた悠人は、改めてアンジェリンに礼を言う。
「いいえ。私は当然の事をしたに過ぎません。それにお礼のお言葉でしたら昨日充分過ぎる程に頂きました」
「いや、うん。でも、有難う」
 アンジェリンは少し恥ずかしそうな、少し照れくさそうな微笑の一礼で、悠人の謝意に応じた。
「えっと、それではお食事の準備にかかりますね。ユウトさんも一日何も食べてらっしゃらないで空腹でしょうし」
「何から何まで……本当に幾ら感謝してもしきれないな。
 俺にも何か手伝わせてくれないか? 世話になってばっかりってのも何だしさ」
「それは非常に有り難い申し出なのですが、この家の厨房に三人入るのは少々きついですので……申し訳ありません」
「三人?」
「私ですっ!!」と、ぴょこりと顔を出すヘリオン。「私が先に、アンジェリンさんにお料理を教えて頂く約束したんです。ユート様は、楽しみに待ってて下さい!!」
「何だ、もうヘリオンが約束してたのか」
「はいっ!! お昼ご飯、すっごく美味しかったんですからっ!! ユート様もきっと驚く筈ですっ!!」
「じゃあ、楽しみに待たせてもらうとするかな」
「はいっ!! 頑張りますっ!!」
「ユウトさんはゆっくりお寛ぎになっていて下さい。恐らく御自身で思われている程には、ユウトさんの体は回復しておりませんから」
 そう言って、アンジェリンが軽く一礼し厨房に向かい、ヘリオンもその後をツインテールをピコピコさせながら付いていく。
 ヘリオンも、もうすっかりアンジェリンに懐いている様子だ。

 待つ。
 ただ待つというのも暇なものだ。
 何とはなしに部屋を見渡す。部屋は丁寧に整頓され、けれども硬質な感じは無く、寧ろどこか温かみが感じられた。それはアンジェリンの人となりを如実に表している様にも悠人には思えた。
 棚に数冊の本が置いてあるのを見つけたが、悠人はこの世界の文字は読めない。
 外は雨が降っているので散歩という訳にもいかない。
 夕方まで寝ていて、起きたら食事が出される。
 まるっきりどこぞの王侯貴族か、或いは典型的ダメ人間の生活だ。
 忙しい時には楽をしたいと思っても、いざ楽を与えられてしまうとそれはそれで逆に落ち着かない。
 これは贅沢慣れしていないというよりも、悠人の性格だろう。
 一旦席に座りかけた悠人だったが、やはり立ち上がり、厨房へと足を向けた。

 厨房ではアンジェリンとヘリオンが並んで作業をしていた。
 パタパタと忙しく働くヘリオンに比べ、ゆったりとすら見える動きで料理を作るアンジェリンは、しかし作業効率では遥かにヘリオンの上。
 ヘリオンに指示を出し、様々教授しながらも無駄の無いその動きは、洗練された美しさすら纏っている。
 と、アンジェリンが悠人に気付き、にこりと微笑んだ。
 悠人も笑みを返して、応接室に戻る。確かに、今の厨房に悠人の出番は無い。


 出された食事を一口食べて、悠人はその美味しさに嘆息した。なるほど、ヘリオンが目を輝かせて教えを請うのも頷ける。
「これは鳥の肉だよね?」
「はい。昨日、近くにある小さな湖で捕りました。
 本来ならば皆さんのもっと食べ慣れたものをお出しした方が宜しいのでしょうけれども、街には行かないものでして」
 今の悠人の舌は、そんじょそこいらの自称グルメなど背伸びしても届かないほどに肥えてしまっている。
 イオやエスペリアの料理は、その味を一度知ってしまっては他の料理を食べる気がしなくなってしまうと、宮廷料理を出されるヨーティアやレスティーナにすら言わしめるもの。それを悠人は食べなれてしまっているのだから。
 そのエスペリアやイオの料理と比べても遜色無い。
 いや、最早比較を語る次元では無い。
 どちらが美味しい、では無く、どちらも美味しい、と言うしかない。
 とても美味しい、と悠人が素直な感想を言うと、アンジェリンは光栄です、といって少し照れた様子で頭を下げた。
「ほっとしました。味付けにクセがありますから、正直ちょっと不安だったんです。
 そういうものをお客様に出すのもどうかとは思いましたし、ましてユウトさんは寝起きのお食事だったので、お肉はどうかとも思ったのですが、やはり栄養もありますし、本当の事を申しますと是非食べて頂きたかったというのもありますし」
 稚気を見せて微笑する。
 悠人は改めて食事を口にする。
 久しく味わっていなかったどこか懐かしい味、悠人にはそんな気がしていた。
 それが何か、スープを飲んだ時にようやく気付いた。
「そうか!! これは味噌汁の味なんだ!!」
「? ミソシル、ですか?」
「ああ」
 悠人は元いた世界で似たような味があった事を二人に話す。
 気付けば、鳥肉の味付けも、醤油に近いものを使っているのだろうと思えた。
「はい。これは近くで育てている豆を発酵させて造ったものなんです。ある地方に伝わっていたものを再現したのですが、そうですか。ユウトさんの昔居られた所にも同じものがあったんですか」
「全くおんなじ味って訳じゃ無いけどね、けど驚いた。こっちの世界に来てからずっと口にしてなかったもんだから、すっかり味を忘れちゃってたよ」
「私も驚いたんです」ヘリオンが、感心した声音で。「腐っちゃうんじゃないかって思ったんですけど、違うんですね。びっくりしました。
 作り方とかアンジェリンさんに教えて頂きましたし、原料も分けて頂いたんで、ラキオスでもきっと出来ますよ!!」
「へぇ、そりゃ楽しみだな。期待してるよ、ヘリオン」
「はいっ!!」
 エスペリアもイオも、その他の面々も持ち合わせていない大きな武器の獲得に、恋する少女はついついにやけた。

 その時、キィッと軽い音を立ててドアが開いた。
 そこに立っていたのは、まだ絶対安静の筈のナナルゥ。
「ナナルゥ!! 起きたのか!?」
 顔色も良く、視線もしっかりしている。元気いっぱいとまではいかずとも(とはいえ、ナナルゥが元気いっぱいかどうかを判断するのは非常に難しくはあるのだが)ナナルゥの立っている姿を見て悠人は破顔した。
 アンジェリンが素早く歩み寄り、肩を支える。
「駄目ですよ、まだ横になっていないと!! まだまだ起きられる状態ではないのですから」
 それで、悠人も『それもそうだ』と気付いた。自分ですらまだまだ体調が戻りきっていない。
 まして自分より遥かに危険な状態だったナナルゥが回復しきったとは到底思えない。
 しかし、
「嫌です」ナナルゥはアンジェリンの忠告を一断した。
「おいおい、ナナルゥ。我が侭言うなよ。死んでもおかしくない状態だったんだから。頼むから休んでいてくれ」
「嫌です」
 ナナルゥは恨みがましい目で悠人を見る。
「こんなにいい匂いがしているのに、一人で寝ていろだなどと」
 ナナルゥの視線は悠人を離れ、テーブルの上の料理に釘付けとなっていた。

「食べられるのか?」
「栄養があるのではないですか? 食べます」
 ナナルゥは待ちきれないといった風に席に着く。
「少しお待ち頂ければ、もう少し消化に良い物を御用意致しますよ?」
「いえ。これがいいです」
「無理したら……」
「食べます」
 いつもはなかなか感情を見せないナナルゥのこんな我が侭を見るのは、悠人にとってもヘリオンにとっても初めてだった。
 やはり本調子ではないのだろう。それが逆に感情を表出させる切っ掛けになっていた。

「美味いか?」
「美味しいです」
 むぐむぐと食べ、飲み込んで、ほんの僅かに眉根を寄せる。
「困りました」
「どうした? もう食べられないか?」
「食べられます」
 きっぱりと言い切ってからナナルゥは続けた。
「急いで食べるのは非常に勿体無いです。しっかり味わって食べないと。ですが、ゆっくり食べるとあまり沢山食べられないので、それはそれで勿体無いです」
 ナナルゥの言葉に、アンジェリンは嬉しそうに答えた。
「そこまで言って頂けて幸いです。明日も喜んで頂ける様に努力しますから、今晩は遠慮なさらず好きな様に、好きなだけ食べて下さい。ですけれども、くれぐれも無理はなさらないで下さいね」
「有難う御座います」
 ナナルゥは礼を言うと、後はいつも通りに淡々とした様子で、けれど心なしか普段よりも時間をかけて食事を取った。

 ナナルゥは料理を綺麗に平らげると、そのまま部屋に戻ってベッドに潜り込み、すやすやと寝息を立て始めた。
 食べて直ぐに寝ると太るのではないかと人間ならば思うところだが、そんな贅沢な概念はスピリットには無い。
 体も頭も酷使するスピリットの生活と肥満とはかけ離れている。
 何よりも今は、体力を回復させねばならない。
 その為には栄養のある食事と、穏やかな睡眠が何よりも重要であり、今のナナルゥの行動は非常に理に適っている。


 悠人達も食事を終え、お茶を飲んでいた。
 昨日も悠人は感じた事だったが、お茶も日本茶に近い味がした。
 悠人も独自にハーブをブレンドし、日本茶に近いものを淹れる事が出来る様になってはいたけれど、それとも格段の違いがあった。
 本物とそれに似せただけの物との違い、とでもいうのだろうか。
 その味は、悠人の心を安らがせる懐かしい味で、ヘリオンもその味をいたく気に入った様子だった。
 食後のお茶は、やっぱりこの味だよなー、と悠人は思う。
 人により感覚は異なるだろうけれども、慣れ親しんだ味というのはやはりどこかしっくり来るというか、ほっとするものだ。
 ヘリオンにとっては、菓子と合うのが良いらしい。その菓子も煎餅を思わせる醤油味の焼き菓子で、これまた悠人にとっての懐かしい味であり、同時にヘリオンの新たなお気に入りとなっていた。

 夜の帳が下りた窓の外では、やはり雨粒が木々をしとどに濡らし、激しい旋律を奏で続けていた。
「ナナルゥの事もあるし、おまけにこの雨じゃあ、今日もまだみんなのところには帰れないな」
「お仲間の皆さんを案じるのは解ります。けれども、ナナルゥさんは言うまでも無く、ユウトさんの体もヘリオンさんの体も、まだまだ万全とは程遠い状態です。それに病み上がりに……とはいっても病気ではなくて怪我ですけれど、それでも体力が完全で無い時に雨に濡れるのはお体に障ります。
 勿論、体力がある程度回復していたとしても油断をしては良いという訳では決してありませんけれども。
 無理にお引き止めしている様で申し訳無いのですが、もう一晩はこの家に留まっていって下さい。至らない点があれば、幾らでも申して頂いて構いませんので」
「至らないなんてそんな事全然無いけど……うん、じゃあ、すまないけど厚意に甘えさせてもらうよ」
 無論、悠人も仲間達が心配で無い訳は無い。
 皆が心配しているであろうと思うと焦燥に駆られるが、その一方で久しぶりに、本当に久しぶりに全てを忘れて寛げる時間と空間を得た今、それを手放すのが惜しくなっているというのも又、悠人の偽らざる本心であった。
 悠人も一人の人間であり、まだ年齢が20にも満たない事を鑑みると、それも仕方が無いというより、常に緊張を強いられる悠人の常態こそがかなり異常であると言えるだろう。
 まして一つの国の命運が、そこに住む全ての人間やスピリットの命運が、悠人に掛かっていると言っても過言では無いのだから、その重圧たるや並大抵のものでは無い。
「はい」アンジェリンは悠人の言葉に、本当に嬉しそうに顔をほころばせる。「正直申しまして、そうして頂けると私も嬉しいのです」
「世話になりっぱなしじゃ、こっちが落ち着かないって。俺にも何か手伝える事があったら言ってくれ」
「はい」
 アンジェリンはにこやかに応えるも、本当に悠人に手伝いを頼むとは思えなかった。
 こうして悠人達は、アンジェリンのところで暫く世話になる事になった。


 それから二日。
 ナナルゥの調子も殆ど戻ったのだが、生憎外は豪雨が続いており、悠人達は足止めを余儀無くされていた。
 いや、生憎と言うと今の悠人達の心とは齟齬がある。
 悠人も、ヘリオンも、ナナルゥも、楽しく心安らいだ時間を過ごしているのだから。
 実際に雨が止んでしまい、この家から出る事になったら、落胆する気持ちがあるだろう事は間違い無い。
 ナナルゥもアンジェリンから料理を習い、あっという間に上達してしまったのはヘリオンにとっての大誤算であったが、それも一度は死に瀕したナナルゥが二日も経たずに回復したという点から見れば、嬉しい誤算でもある。

 そんな中、回復したナナルゥを交えた四人での朝食を終え、お茶を飲みながらの団欒の中でアンジェリンは言った。
「ずっとここに居られてはいかがですか?」
「そうしたい気もするんだけどね、そうもいかないよ」
「どうしてですか? なぜ辛い事が在ると解っていながら、戻ろうとするのですか?」
 アンジェリンの表情も声も、いつも通りに優しく穏やかで、そしていつも通りにどこまでも真剣だった。
「けど俺は、佳織を瞬のヤツから助け出さなきゃいけないんだ」
「その……失礼なのですけれども、カオリさんが元気で過ごしてらっしゃるという事は無いのでしょうか?」
「え……?」
 悠人は反論しようとして、反論の論拠を自らの中に何故か見出せなかった。
 もやもやとした何かが、記憶を覆い隠しているかの様。何かがある気はするのだけれども、そこに届かない。
「ユウトさん達からお話を伺った限りですと、凄く立派なしっかりした方と思われるのですが、どうしても手元に置いておかねばならない程に弱いお方なのですか?」
「いや、佳織は確かにしっかり者だけど、さ」
「妹さんの事が信じられませんか?」
「改めてそう言われると……信じられないって訳じゃ無いんだけど……」
 言いながらも、悠人の中には言葉にならない違和感がある。
 それが悠人の口調をハッキリしないものにしていた。
 大切な事を忘れてしまっている様な、微かな焦燥感。
 思い出しそうでいて、思い出せないもどかしさ……。
 佳織の、仲間達の記憶が何故か遠く朧気に感じられる。
 突如、キンッ、と悠人に頭痛が走る。
「つぅっ!!」
「どうなされました!?」
「だ、大丈夫ですか、ユート様!?」
「……っと、大丈夫。バカ剣のヤツがまた悪さしただけだから。もう収まったよ」
 頭痛と共に、ほんの僅か、何かを思い出せた気がしたがそれも一瞬の事。
 『求め』は普段では考えられない位にあっさりと引き下がってしまう。
「でもさ」悠人は話を戻す。「エスペリア達が俺達を待ってる……筈なんだ。
 俺達は帝国を……瞬を倒さなきゃいけない。この世界の為にも」
「仲間の方々は、そんなに頼りにならないのですか?」
「う、いや、そういう訳じゃなくてだな……」
「信じられませんか? 仲間達の事が」
「いや、そういうふうに言われると何だけど……な、なぁ、ヘリオン」
「ふぇっ!?」
 何かが引っかかる。引っかかっている。
 しかし、それが何かが判らない。
 弱った悠人はヘリオンに振る。
「わ、私は……はぅ、私なんかがいても確かに足手纏いになるばっかりなんですけど……」
「そ、そんな事無いだろ?」
「うぅ……皆さん、私よりもお強いですし……」
 ヘリオンも悠人と同じ状態だった。何かが頭の片隅で強烈に自己主張をしている。けれども、その声が上手く聞こえない。
 今現在の思考から導き出されるのは、アンジェリンの言葉の肯定のみ。
 それでもやはり、アンジェリンの言葉に首肯し切れない。
 そんな二人に、重ねてアンジェリンは問う。
「仲間の方々が大陸統一を為すと信じ、カオリ様の一人で立つ強さを信じ、ユウトさん達がここに残る事は考えられませんか?」
 心が、揺れる。
「私は……私は、ユート様と一緒なら……」
「俺は……やっぱりみんなのところに帰らなきゃいけない……気がする」
「ユウトさんも、ヘリオンさんも、これまで命を賭けて戦ってらしたんでしょう? 辛い思いを沢山して来られたのでしょう?
 この世界は、辛く悲しい事が多すぎます。
 ならばここにずっといたら良いではないですか。
 ここには安らぎがあります。
 ここでは、強さを追い求めずとも生きていけます。
 もう戦いをやめて、ゆっくり、穏やかな毎日を過ごしたって良いじゃありませんか。
 これ以上罪重ね、重い十字架を背負わずとも良いじゃありませんか」
「でも……でも、俺は……」
 言い澱む悠人に代わり、今まで黙っていたナナルゥが口を開いた。
「今までがどんなに辛くとも、これからがどんなに苦しくとも、ユウト様はカオリ様を、そして仲間の皆を見捨てる事はありません」
 ナナルゥが当然の事として言う。
「家族、なのですから」
「……家族……」
「家族とはそういうものだと、私はユウト様に教えて頂きました。自分がいくら辛くとも、家族の為ならば頑張れる。それは決して切れない絆」
「切れない……絆」
「それに」ナナルゥは続ける。「私もユウト様や仲間の皆の喜ぶ顔を見る為であれば、労は厭いません。いえ、労や危険が在るとか無いとかではなく、ユウト様の幸せ、そして仲間達の幸せという目的がある以上、そこに至る過程は既に決定された道筋でしかないのです」
 ナナルゥはアンジェリンを見つめ、言う。
「アンジェリン。それは貴女にも解っているのではないですか?」
「っ!?」
 ナナルゥは悠人の額に手を伸ばした。
 ぼわっ、とナナルゥの指先が赤白い光を放った瞬間、悠人の記憶がクリアになる。まるで頭の中から、さっと霧が晴れたかの様に。
「え?」
 思い出す。
 自分達を心配し、待っているであろう仲間達を。
 さらわれる佳織の悲痛な叫びを。
 必ず佳織を救い出すと決めた自らの決意を。はっきりと。
「……何でだ? 何で俺はこんな大切な事を忘れてたんだ?」
 ナナルゥは、悠人と同じくヘリオンの記憶もクリアにする。
「上手くいきましたか?」
「あ、は、はい」
「どうなってたんだ、俺は」
「何でこんなに大事な事が、朧気にしか思い出せなくなってたんでしょう……」
「上手くいって良かったです。念の為ですが、頭の中で何かが焼き切れた感覚はありませんか?」
「いや、無いと思うけど……って、え!? そんなにヤバイ状態だったのか、俺達」
「いえ、私が心配しているのは、たった今、ユート様達にかかっていた魔法を、私の魔力で消し飛ばしたのですが、力加減がいまいち判りませんでしたし、元よりこの様に精密な作業は得意ではありませんので」
「って、ナナルゥさん!? 躊躇無くそんな危ない事をしてくれちゃったりしたんですか!?」
 ヘリオンが素っ頓狂な声を上げる。
 悠人も怒るべきか感謝すべきか、何か言おうとして結局やめた。
 ナナルゥはそんな二人を見て、一言。
「今私の言った事は忘れて下さい」
 悠人はがくりと肩を落としたが、次の瞬間、はっとある事実に気付いて顔を上げた。
 今の状況、自分達の記憶をぼやけさせた者、その犯人はアンジェリン以外いない。信じ難くとも、そうとしか考えられない。
「……アンジェリン、俺達を、ここに閉じ込めようとしたのか?」
「へ? ユート様、それってどういう……?」
 ヘリオンが小首を傾げて悠人に問う。根っから素直なヘリオンは、基本的に他人を疑う事が無い。というより、出来無い。
「そうとしか考えられないだろ。どんな理由があるのかは知らないけど、アンジェリンしかありえない」
「ち、違います。私は、そんな……」
 アンジェリンは、悠人の言葉にうろたえる。
 しかし、状況を考えれば、悠人達の記憶に魔法をかけたのがアンジェリンであるのは明白。
 悠人は自分の仲間を非常に大切にする。自分の大切な者に被害が及ぶとなれば本気で怒る。
 裏表の無さの一面。周りが見えなくなる程の激情もまた、悠人の本質。
「何が違う!!」
 アンジェリンのうろたえる様が、悠人を更に刺激した。
 ヘリオンは展開に頭が付いていかずにただおろおろとするばかり。
 激昂し立ち上がろうとした悠人を、ナナルゥが押さえた。
 押さえた、とはいっても、悠人の額を後ろに引いて上体を反らさせただけなのだが、それだけでも頭に血が上った悠人が立ちあがるのを制する事は充分に可能だった。
「んがっ!?」
 天井を向いてじたばたする悠人を容易に押さえ込みながら、ナナルゥはアンジェリンに言う。
「申し訳ありませんが、アンジェリンは少し部屋に戻っていて頂けますか?」
「で、ですが……」
「お互い、今の状態で話をしても実のある内容にはならないでしょう。
 まずはユート様を落ち着かせて、私達の方で話をまとめますから、それまでにアンジェリンも少し冷静になっていて下さい」
「え……あ、は、はい」
 ナナルゥに指摘され、アンジェリンも自らの内にある混乱に初めて気付く。
「解りました。少々席を外させて頂きます」
「話がまとまり次第そちらに行きますので」
「はい、それでは失礼します」
 心底申し訳無さそうに会釈し、アンジェリンは部屋に戻った。
 それを確認してナナルゥは、悠人の頭から手を離した。
 途端、悠人は立ち上がり、アンジェリンの部屋に向かおうとする。
「ユート様」
「ぐぇぇ」
 それをナナルゥが襟首を掴んで止めた。
「げほげほっ……ナナルゥ、何で止めるんだよ!!」
「ユート様、アンジェリンを追ってどうするおつもりですか?」
「決まってるだろ!! どうしてこんな事をしたのか問いただす!!」
「ユート様は今、頭に血が上っておられます。少々落ち着いて下さい」
「落ち着いてられるか!!」
「落ち着いて、下さい」
 ナナルゥの静かな視線に射抜かれ、悠人はようやく落ち着きを取り戻す。
 冷静な目は、時に百の言葉よりも強く相手を制する。
 最も、それは視線を受け止める側にもそれなりの感受性を要求はするが、少なくとも悠人は、相手の真っ直ぐな意図を見抜けない程に鈍くは無い。
 逆に真っ直ぐに相手を見過ぎるが故、感情の裏を読む術はからっきしなのも事実だが。
「……解った。俺が熱くなり過ぎてたよ。ごめん。悪かった」
「はい。ではまず深呼吸です」
「え? あ、ああ」
「息を吸って下さい」
「すぅ……」
「吐いて下さい」
「はぁ……」
「吸って下さい」
「すぅ……」
「吐いて下さい」
「はぁ……」
「吐いて下さい」
「はぁ……」
「吐いて下さい」
「……ぁ……」
「吐いて下さい」
「……っ……っ……っすぅ!! 息吐いてばっかじゃ死ぬって!!」
「なるほど。一概に呼吸が深ければ深い程、気分が落ち着くという訳でも無いのですね。
 さすが深呼吸と言うだけあって、奥が深いです」
「はぁーーーっ」
 悠人、更に溜息。
 冗談と本気の境目が無いナナルゥの語り口に、悠人はペースを大いに乱される。
 とはいえ、ナナルゥにとっては全てが本気なのかも知れないが。
 逆に冗談を言ってみろといったら、ナナルゥは困るかも知れないな、と悠人は思う。
 とりあえずは悠人の頭は冷めた。少なくとも、周囲の事に考えが至る程度には。
 力が抜けたとも言うが、余計な力みが取れた事には違いない。
 それを見ていたヘリオンも、悠人につられて同じく落ち着きを取り戻し、椅子にゆっくりと腰を下ろす。
 聞く姿勢に入った悠人とヘリオンに、ナナルゥは再び話し始める。
 ナナルゥが饒舌に語るのは珍しいが、普段無口なのは語るべきと判断される言葉が少ないからであり、語るべきと判断する事があれば必要なだけ語る。
 それを理解しているから、その事については悠人にもヘリオンにも違和感は無い。
「この場に足を踏み入れたのは、私達の側です」
「そりゃそうだけど、だから何をしてもいいって訳でも無いだろ?」
「ユート様。私がこの家に入る時に言った事を覚えてらっしゃいますか?」
「え? ……確か……ここは悲しい場所だ、とか」
 ほんの数日前なのに、妙に遠く感じる記憶を繰り寄せ、悠人は答えた。
「はい、その通りです。あの時私は、この家には関わらない方が良いです、もし関わるならば心を強く持って下さい、とも言いました」
「……もしかして、ナナルゥは初めからこうなる事が解っていたのか?」
「はっきりとではありませんが、薄々とは。本当の事を言えば、もっともっと悪い事態を想定していました」
「それならそうと言ってくれよ」
「一応この家に入る時に忠告はしたつもりだったのですが……ユート様も『わかった』と答えられましたし」
「……確かに。そう言われるとぐぅの音も出ないな……でも、どうしてナナルゥは危険があるって解ったんだ?」
「それは、あの時研ぎ澄ませていた感覚の違いでしょう。
 ユート様とヘリオンは、五感を研ぎ澄ませていました。私はマナ感覚、人間の方々の言うところの第六感を使って危機を察知しようとしていました。
 その違いと思われます」
「あ……確かにあの時は、周りを見るので精一杯だったかも知れないです」ヘリオンがナナルゥの言葉を肯定する。
「はい。ヘリオンは夜目が利きますし、この中では私が一番マナ感覚が利きますから、役割分担として正しかったと判断します」
「そっか……。でも、これが俺には一番解らない。
 何でアンジェリンはこんな……俺達の記憶を消すような真似をしたんだ?」
「私にも解りません……。アンジェリンさんがこんな事しただなんて、まだ信じられないです……」
 悠人が問い、ヘリオンが悲しげに俯く。
 ナナルゥはそれを受けて、淡々と言葉を返す。
「アンジェリンの言った事は、恐らく本当です。
 アンジェリンに、ユート様とヘリオンの……私達の記憶を消そうとする意図は無かったと思われます。少なくとも自覚的意識としては無かった筈です」
「じゃあ、何で?」
「外界の記憶を朧にするのは、私達に対するというよりも、この場に入った者全員に対する効果です。
 つまり前提として、私達をターゲットとして記憶消去が行われたのでは無く、記憶消去作用を持つ場に、私達の側が踏み込んだのだと言えるでしょう。
 そこにおきまして責の所在は、アンジェリンでは無く寧ろ私達の側にあると、言い換えれば自業自得であると言えるのではないでしょうか」
「この……場所? アンジェリンは『俺達に魔法をかけた』んじゃなくて、『そもそもこの場所に魔法をかけていた』って事か?」
「はい。だからこそ私がこの家に対して違和感を持てたのだとも言えます」
「だからこの家に来た時、ナナルゥは『この家に関わるのは止めた方がいい』って言ったのか」
「はい。どの様な作用を持った魔法なのかまでは、あの時は判りませんでしたが」
 それについては仕方が無いどころか、半死の状態で魔法を感受出来た事自体が奇跡的ですらある。
 悠人もヘリオンも、今の今までそれに気付けもしなかったのだ。
 警告を受けながら、それを理解出来無かった自分達にこそ問題があったと悠人とヘリオンは反省する。
 ナナルゥは椅子から立ち上がり、感触を確かめる様に壁に手をついた。
「場にかける神剣魔法。私達赤スピリットの使うヒートフロアや、青スピリットのサイレントフィールド、黒スピリットのダークスプリングなどと同じ系統です。
 ただ……」
 ナナルゥはぐるりと部屋を見渡して続けた。「ここまで高等なものは初見です」
 部屋を見るナナルゥは、感心している様にも見えた。
「魔法にはイメージが必須となります。
 思い描いたイメージ、それが魔法に反映されます。強固に描かれたイメージは、そのまま強力な魔法へと具象化します。
 逆に、しっかり思い描けないイメージでは、魔力は上手く具現化出来ずに霧散してしまい、それがそのまま魔力のロスとなります。
 例えば私でしたら、魔法を使う時には逆巻く炎柱、凝縮された火炎球、相手を貫く炎の光線といったイメージを思い浮かべます。
 そこで思い出して頂きたいのですが、私は広範囲型魔法であるアークフレアやアポカリプスなどはそれなりに扱えるのですが、集中型魔法のファイアボルトやフレイムレーザーなどは全くと言って良い程に扱えません。
 私は炎の爆散や炸裂のイメージはそれなりに思い描けるのですが、収束のイメージが不得手なのです。
 ヒミカなどは、話を聞くに丁度私と逆みたいです。ですからヒミカは集中型魔法は上手く使えても、広範囲魔法になると苦手らしいのです」
「そんなものなのか。あんまり意識した事は無かったけど」
「はい。ユート様はそれを無意識に行っているのでしょう。
 無意識ですから、魔法はあまり具体的な形を取らず、味方に作用しての回復や能力の上昇という形になっているものと思われます。
 あくまで推論ですが、『みんながんばれ』とか『ガンガンいこうぜ』とか、そんな抽象的なイメージで魔法を行使しているのではないですか?
 みんな元気になって頑張れ、と思えば、それがそのまま魔法の形となりますから」
「な、なるほど」
「御存知とは思いますが、スピリットは色によってイメージの得手不得手もある程度変わってきます。赤スピリットは炎、青スピリットは水や氷という様に。
 自分の慣れ親しんだ物質の方がより鮮明にイメージできるのは自明であり、自らの存在の根源にも関わる属性ともなれば、それは当然でもあるのでしょう」
「なるほどなぁ」
 悠人は頷き、ヘリオンも感心しきり。
「という事を、戦闘訓練の基礎魔法学で習ったのですが、ユート様達は習いませんでしたか?」
「え!? あ、い、いや。何というかあの講義聴いてると、妙に眠くなっちゃってさ、あはは……」
「ヘリオンもそうなのですか?」
「ふぇっ!? わ、私はちゃんと聞いてましたけど……はぅ、いまいちピンと来なかったと言うか……。
 何て言うか、その、講義では、今ナナルゥさんがおっしゃった様な具体例とか、一つもありませんでしたし……」
「……なるほど。確かに、訓練士の方の殆どは人間の方ですから、教壇に立つ方々にとっての神剣魔法はは机上の論に過ぎません。
 ユート様もヘリオンも、必要な事は実践から学んでいますし、それで良いのかも知れませんね」
「そ、そうそう。その通り!!」
「そこはあんまり肯定しすぎるところじゃ無いのでは……」
「私の知識も、重要な部分は講義で学んだものよりも、自ら学んだり、ヒミカやセリアから習ったものが主だったりします。
 ユート様も必要がありましたら、ヒミカ達に聞いてみると良いと思います。私は説明が下手ですが、ヒミカ達の説明はとても解り易いですから」
「あ、それ、私も保証します!!
 後、エスペリアさんとか、ウルカさんとか、ファーレーンさんとかも教えるのがとっても上手です。
 ナナルゥさんの説明も解り易いですけど」
「そうですか?」
「はい」
 褒めるヘリオンに、ナナルゥはほんの僅かに頬を赤らめた、様にも見えた。
「うん、そうだな。俺もみんなにもっと色々教えてもらう事にするよ」
 悠人は素直に反省する。
 独学、我流の限界は、ウルカや光陰に嫌という程思い知らされている。
 より強くならなければならない今、共に戦場に立つ仲間達から受けるアドバイスは間違い無く役に立つだろう。
 ヒミカやセリアは確かに教えるのが上手そうだし、エスペリアの聖ヨト語講座は実際とても解りやすかったと思う。
「ユート様も上手くイメージする事が出来れば、『びぃむ』とかも撃てる様になるかも知れませんよ」
「ビーム?」
「はい。『レーザービームとロケットパンチは男のロマンだ』と、コウイン様に教わりました」
「あ、それ私も聞きました」
「……あいつは、また訳のわからん事を」
 と言いつつも、悠人にもちょっぴり肯定の気持ちはある。
 普段の自分なら恥ずかしくて出来無いだろうけれども、本能爆発状態になったら「オーラフォトンビーーーーム!!」とかやってしまうかも知れない。(※PC版、低マインド時のみ使用可能)
「話を戻しまして、彼女は家を強烈にイメージしたのでしょう」
 ナナルゥは窓を軽く指先で弾く。かつんという硬質な音が鳴る。
 更に窓の木枠を軽く叩き、僅かに年輪の浮き出た表面に指を滑らせる。
 ナナルゥの言わんとしている事に気付き、悠人とヘリオンは驚きを隠せない。
「え? ちょっと待て、ナナルゥ。まさか、この家が全部、魔力で構成されてるって言うのか?」
「はい」
「……どう見たってこれは本物だぞ?」
 悠人とヘリオンも家を見、改めて実際に触れてみるが、それらが魔力で構成されているとはやはり俄かには信じがたい。
「それだけ強力に具現しているという事です。実際の物質と全く区別がつかない程にまで」
「……この家が全部偽物だっていうのか?」
「偽物ではありません」
 きっぱりとナナルゥは否定する。
「は? だって、魔法で作った物だって、ナナルゥが今言ったんじゃないか。頭が混乱してきたよ」
「この家は本物です」壁に手を触れながらナナルゥは言う。「何故なら、これを生み出している彼女の心は、紛れも無く本物なのですから」
「……けど、だとしてもだ、そもそもアンジェリンは何でこんな事をするんだ?
 これだけ精巧な魔法のかかった家を作って、一体アンジェリンは何がしたいんだ?
 この家を作ってるのは、アンジェリンなんだろ?」
「つい先程の、ユート様達の状態にようやくはっきりと確信しました。
 この家、というよりもこの空間は、足を踏み入れた者がこの場に帰属する様に在り方を変える。そんな力を有しています。
 この場所は、領域に足を踏み入れた存在を『外界の記憶を朧にし、ここに留まる』という点に向けます。
 それは、やはりアンジェリンがそう強烈に望んだからでしょう」
「だからその理由が俺には解らない。何でだ? 何でアンジェリンがそんな事をする必要があるんだ?」
「アンジェリンには、心の底から忘れてしまいたい事があったのです」
「忘れたい程に、辛い事?」
「先日私は死の淵に立ちました。そこからアンジェリンに救い上げて貰いました。
 その時、アンジェリンの魂に触れ、知ったのです。
 私の魂が無防備に拡散しかけ、心の壁が無くなっていた事も一つの要因かも知れません。
 とにかく、その時に感じたのです。アンジェリンの心の奥底にある痛みを。
 だからこそ、アンジェリンには自覚が無い。
 この場所にかかっているのは、その出来事自体を、アンジェリン本人から忘れさせる為の魔法ですから。
 ここは辛い外の世界から距離を置き、ずっと安らいでいられる場所。優しく暖かなアンジェリンの心の楽園であり、同時に檻なのです」
「でも、結局それって逃げじゃ無いか? 苦しい事から目を背けてても、問題は何も解決しないだろ?」
「逃げるのは、いけない事ですか?」
「え?」
 ナナルゥは、何時もの様に淡々と語る。
 けれど、何時もの、というのは、何時の事か。
 悠人はナナルゥの目を見た。
 初めて悠人と出会った頃のナナルゥは、こんなにも深い色を、瞳の奥に宿していただろうか。
「私はユート様のお陰で心というものが、少しずつではありますが解ってきている気がします。
 ですがそれは、決して嬉しい事や楽しい事ばかりでは無い。
 今まで気付かなかった辛い事や苦しい事、悲しい事や嫌な事も見える様になりました。
 現実というものが持つ底の知れない暗さ。その闇を直視する事の恐怖。
 その時に心があげる悲鳴、軋み。
 知ってしまった以上、「逃げるな」なんて無責任な事は言えません。
 「直視して立ち向かえ」だなんて、到底言えはしません。
 確かにユート様の仰る通りではあります。
 アンジェリンは、自らを騙し、現実から目を背けて逃げているに過ぎません。ユート様の言っている事は正しいです。
 けれど、ユート様は御自身に嘘をつきたかった事はありませんか? 現実から逃げ出したかった事は無いですか?
 私は、あります。
 仲間が戦場から戻って来なかった時、どこかで無事でいると思いたかった。
 目の前で仲間が死んだ時、これは夢だと思いたかった。
 最も、当時の私は自分を騙しきれるだけの心の強さすら持ち合わせていなかったので、私の出来た事はといえば、ただ何も考えぬ様、心を閉ざしたに過ぎないのですが。
 ユート様には、そんな経験はありませんか?」
 ナナルゥの言葉に、悠人は己を省みる。
 自分は、ずっと強くあろうとしてきた。
 苦難を乗り越えようと、理不尽を打破しようと。
 だがその一方で、逃げていたのも事実ではないか。
 自分や佳織を傷つける大人達とは極力関わるまいと。スピリットを殺すのは仕方の無い事だと。
 自らに言い訳し、目を背けてきた事柄が沢山ある。
 今考えれば、もっと違う方法があったかも知れないのに。
 けれども、それら全てを間違っていたと言い切る事も又出来はしない。
 あれは、当時の自らの心を護る為には仕方の無い事だったとも思える。
 今思い起こせば悔いる様な選択も、情けなくなる様な行動もあったけれど、当時の時点で、今考えられるベストの選択を選べたとは到底思えない。
 これまでの数々の選択、間違っていたものもあっただろう、正しかったものもあっただろう、未だ答えの出せない事柄だって沢山ある。それらを経てきた今だからこそ、過去を振り返ってもっと良い選択肢があったと思えるようになったのだと思う。
 それに、もし、幼き日。
 両親を失った二度目の日。
 もしもあの日佳織すらもがいなくなっていたら、自分は現実と向き合い、それを認められただろうか。
 現実を拒絶せずにいられただろうか。逃げ出さずにいられただろうか。
 無理だったろう。
 年を重ねた今の自分でも、佳織を失ったら現実から逃げ出さずにはいられないだろう。正気でいられるかどうかすら怪しいものだ。
 ある意味で、自分は佳織に救われたのだ。いや、あれからずっと、今も佳織に救われている。
 あの日からの辛い毎日も。
 ファンタズマゴリアに飛ばされて来てからも。
 一人で生きているのだと思っていた。でもそれは違うとファンタズマゴリアに来て気付いた。
 佳織だけじゃ無い、自分は沢山の仲間達に支えられていた。
 だから、自分は辛うじて踏み止まっていられたのだ。歯を食いしばってでも立っていられたのだ。皆の助けがあったから。
 そう考えれば、「逃げるな」という一言の、なんて無責任な事か。
 そんな事を言う位なら、どうにかして支えになれないか、協力する事は出来無いかを考えるべきだろうに。
 ヘリオンも考える。
 真に辛い事柄を想像する。
 真に辛い事柄、そう考えた時に今のヘリオンの頭には一つの事しか浮かばない。
 悠人が死ぬ事。
 ぞくり。
 総毛立つ恐怖に駆られ、ヘリオンは思わず悠人にしがみ付く。
「ヘリオン?」
「ご、ごめんなさい、ユート様……わた、私……私、急に怖くなっちゃって……」
 背筋を這い回る悪寒は止まず、震えが全く止まらない。
「何だか解んないけど、俺がいるからさ。な?」
 悠人はヘリオンの頭を優しく撫でる。
 それでようやく、ヘリオンは震えを収める事が出来た。
 想像以前。情景を思い描こうとしただけですらこうなのだ。
 現実であったならば、などと考えたくも無い。考える事すら出来無い。
 そんな事が起きれば、現実に立ち向かうのはおろか、逃げ出す事すらきっと出来無い。
 ただ立ち竦んで終焉を望む事しか出来無いだろう。
 そんな自分に気付いたらならば「直視して立ち向かえ」なんて、口が裂けても言えない。
 そもそもそんな事、言う権利すら無いと思える。

「結論は出ました」
 ナナルゥは悠人とヘリオンを見て、ゆっくりと言う。
「ですが、私もアンジェリンがこのままで良いとは思いません。
 少なくとも、受けた恩は返したく思います」
 ナナルゥは、アンジェリンの部屋に向く。
「アンジェリンと話をしてきます」
「俺も行くよ。アンジェリンに謝りたい」
「私も行きます!!」
 たった今、自らの弱さを思い知らされたばかりの悠人とヘリオンが言うが、ナナルゥは首を横に振った。
「ユート様は強い方です。ヘリオンも同じく。
 だから、今のアンジェリンと話をするのは、私の役目と思います」
「俺は強くなんか無い。そう改めて気付かされたばっかりだよ」
「いいえ。お二人は間違いなく強いですし、だからこそ、今のアンジェリンと話す役目には適さないと私は思うのです」
「?」
「今のアンジェリンに必要なのは、弱さをそのまま認める事だと思うからです」
 弱さ。それはアンジェリンが先日真っ向から否定したもの。
「弱さは決して悪い事では無い。
 変に無理をして歪んでしまう事の方が、遥かに自らの魂に対する冒涜だと私は思います。
 そこにおいては強い人の叱咤激励よりも、同様の弱い心の持ち主が、それでも自分を好きでいられているという実例を見せる方が効果的なのではないでしょうか」
「ナナルゥが、そうなのか?」
「はい」微塵の淀みも無く、ナナルゥは返事をする。「私はユート様や、仲間の皆に救い上げて貰った私の心、その強さも弱さも、賢さも愚かさも、美しさも醜さも、その全てが愛しい。
 在る。ただそれだけで無上の価値があると思えます。
 この思いは、一度心を失いかけたからこそ持ちえたものなのかも知れません」
「……そっか、わかった」
 悠人とヘリオンはその意味では、確かに強い部類に入るのだろう。
 自分の弱きを正面から見据え、それを否定し立ち向かい、自分を高めていこうと努力する。
 より強くあろうと、そうあらねばならないと自らに課す。
 それは、確かに強さかも知れない。
 しかしその一方で、自らの、或いは他者の、弱さをも含めたあるがままの姿を真正面から見据えながら、それをそのまま無条件に愛する事が出来る、そんなナナルゥの在り方が脆弱とも思えなかった。
 アンジェリンに言われた事を思い出す。
 『弱さは罪だ』とアンジェリンは言った。そのアンジェリンの言葉は、二人にとって心底共感のいくものだった。
 『弱さすらも愛しい』というナナルゥの言葉は、そのアンジェリンの言葉とは真っ向相反していたけれど、ナナルゥの言葉が間違っているとも、二人には思えなかった。どちらも正しい様に思えた。
 もしかしたらそれこそが……と言いかけ、悠人は止める。言っても詮無い事。結論は出ないだろう。
 今のアンジェリンと話す役割が、自分よりもナナルゥにこそ適任だという事が解った。今はそれで充分だった。
「ナナルゥ、宜しく頼む」
 悠人はナナルゥに思いを委ねる。
「アンジェリンに伝えるべき言葉は、何かありますか?」
「えっと……さっきは何にも考え無しに乱暴な事を言ってしまってすまない、と。
 それと、俺はアンジェリンに凄く感謝してんだって、伝えてくれるか」
「はい。では、ヘリオンは?」
「わ、私は……えと……凄くどうも有難う御座いますってお伝え下さい!!」
「了解しました。では」
 すっ、と身を翻し、ナナルゥはアンジェリンの部屋に向かい、ドアをノックすると、返事を受けてドアを開け、部屋の中に入っていった。
 ナナルゥが部屋に入ったのを見届け、ヘリオンは感嘆の息をついた。
「ナナルゥさん、凄いです。
 強いとか弱いとかじゃなくて……何て言うか……はぅ、上手く言葉に出来ません」
「そうだな。解るよ。ヘリオンの言いたい事は多分俺の今感じてる事と似てるんだと思う。
 俺も上手くは言えないけどさ。
 でも、これって言葉に出来るものじゃ無いんじゃないのかな。
 なんか誤魔化しっぽいけど、本当にそう思うよ」
「はい」
 悠人とヘリオンは、ナナルゥの入っていった部屋のドアを見た。
 瞳に感嘆と羨望、そしてあらん限りの負けん気を込めて。


 ナナルゥはアンジェリンの部屋の戸をノックした。
 規則正しく、どこかリズムめいた響きを持って正確に二回。
 中からのアンジェリンの返事を受けて戸を開ける。
 丁寧に戸を閉めて振り向いた先で、アンジェリンはどこか虚ろな目をして、ベッドに腰を下ろしていた。
 アンジェリンの腰掛けているベッドは、つい先日までナナルゥが横になっていた場所でもある。
 アンジェリンに向かい、開口一番、ナナルゥは言った。
「私はユート様が好きです」
「え?」
「好きになった理由は自分でも解りません。
 考えれば動機やきっかけなど幾つか列挙出来ますが、それらも結局後付けでしかない気がします」
 まるで予想だにしなかった言葉に、何時も落ち着いているアンジェリンも流石に困惑の色を浮かべた。
 しかしナナルゥはそんなアンジェリンに向かい、自ら言うべきと思う事を言う。
 言うべきと『思う』。心から生じるその事自体に、ナナルゥは無上の価値を認めている。
 だから、思った事は素直に口にするし、行動に起こす。
「アンジェリン。
 貴女の大切な相手は、自らの意思を持ち、自らの足で歩む存在ではなかったのですか?
 だからこそ、好きになったのではないのですか?」
「ナ、ナナルゥさん……」
 困惑の瞳の奥に、拒絶の色が見える。アンジェリンの身体が、細かく震えだすが、それでもナナルゥは言葉を止めない。
「確かに、アンジェリンには戦友として、或いはそれ以上の存在として相手を護りたいという想いがあったのでしょう。
 けれども、必要以上に相手の生き方を背負う事は、その相手にとって失礼な事では無いでしょうか。
 アンジェリンの大切な相手は、自分の意志で戦った。自らの決意を持って神剣を手にし、戦場に赴いたのではないのですか?
 信頼するという事は、愛するという事は、自らの願む姿を押し付ける事では無いでしょう。それでは結局のところ、自己愛に過ぎません。
 ありのままの相手をそのまま、強い部分も弱い部分も、長所も短所も、美点も欠点も、いいえ、全てを区別無しに、分かつ事の出来無い一つの存在として、あるがままに認めるという事。それが愛するという事ではないでしょうか。
 私は、ユート様に出会い、様々な事を教わり、その中で愛するという事をその様に認識しました。
 そしてこうも思う様になりました。
 愚かさ、不器用さ、そして優しさ。そういった弱さとも換言され得る部分があるからこそ、それゆえに相手を好きになれるのでは無いか、と」
 アンジェリンは目に見えて震えていた。
 自らの中の何かを必死で否定する様に、動揺もあらわにアンジェリンは叫ぶ。
「マイカは……帰って来るって、そう私に言ったんです。
 だから、だからマイカは帰って来るんです!!
 マイカは、約束してくれました。絶対に戻ってくると。
 どんなに無理に思える約束も、私が諦めてしまった約束すらも、マイカは果たしてくれました。
 今回だってそうなんです。
 マイカは戻って来ると言った。だから戻って来る。
 私は、マイカを信じているんです。信じているから、待っていなければならないんです!!」
 ナナルゥは静かに頭を振る。
「アンジェリン。貴女は逃げてもいい、私はそう思います。
 どうしても辛い時は、自分に嘘をつくのだって仕方の無い事だと思います。
 けれども貴女が、大切な誰かに対し、責任を感じ、それを背負い込もうとしているのならば、それは傲慢というものだとも思います。
 背負っては駄目です。
 それは相手の想いを軽んじています。
 他人の想いは、他人の生き方は、そう簡単に背負える程軽くはありませんし、又他人が背負って良いものでも無い。
 相手の全てをただ受け入れる事。まずはそれが一番大切なのではないでしょうか。
 私は、そう考えます」
 ナナルゥは一旦言葉をとぎる。
「……。
 …………。
 ……」
 アンジェリンは何か言おうとして口を開きかけ、けれども結局何も言葉に出来ぬままにうつむいた。
 ナナルゥはそれを見て、再び語りはじめる。
「死はいつだって私の隣にあります。
 先日だって、貴女に助けてもらえなければ私はマナの霧と化していたでしょうし、これからだっていつ死ぬかは分かりません。
 ですが、そもそも自らの意志で戦場に立つ以上、相手を殺す覚悟は自らが死ぬ覚悟と共にあらねばならないと、私は考えます。
 いえ、正確には、最近そう考えるようになりました。命、というものに気付き、その価値を考えた時、そうあらねばならないのではないかと思う様になったのです。
 自らの命を賭ける事、それが戦場に於ける相手の命に対する最大限の尊重であり、敬意である、と。
 それに、たとえ戦場に立たずとも、生は常に死と対なるものである事は変わらない事実です。
 いつ死ぬか分からないというのは何も変わりません。ただ日常の中ではそれが見えにくいというだけで」
 ナナルゥの言葉は、先日のアンジェリンの言葉と多分に重なる。
 日常とは戦いに酷似する。それはアンジェリンが悠人達に向けた言葉であった。
 しかしその一方で、ナナルゥの言葉はアンジェリンの言葉とは決定的に違う。
 アンジェリンの言葉が、立ちはだかるものを唯の敵と見なし、排斥すべきものとしか捉えていないのに対し、ナナルゥの言葉は障害を自らと同等の価値あるものと見なし、同じフィールドに置いた上で勝敗を決するものとする。
 勝敗はただ勝敗だけでしか無く、それは優劣を意味しない。
 そこには、アンジェリンの言葉にあった様な、絶対の強さを自らに課すという概念が無い。
 勝利も敗北も等価値だと、ナナルゥは言う。
 ただ自らが自らとしてそのままに在る事、それのみが重要だ、と。
「それで良いのですか?
 自分の命を失うかも知れないのですよ?
 愛する者の命を……失う事になるかも……知れないのですよ……」
 半ばうわごとの様にアンジェリンは言う。
 対するナナルゥの言葉に迷いは、無い。
「確かに、ユート様が死んでしまう可能性だって無いとは言い切れません。
 考えたくない事ではありますが。
 ですが、それでも私は責任を感じる事は無いでしょう」
 強い信頼の光を宿した瞳で、ナナルゥはアンジェリンを見つめたまま言葉を紡ぐ。
 迷い無く、淡々と。自分の中にあるものを言葉にして綴っていく。
「そう、ユート様の生はユート様自身のもの。私はユート様の生に責任を持つ事はしません。
 それは私がユート様を本当に好きだからです。
 ユート様がいなくなれば、確かに辛いでしょう。事実から目を背けたい程に。
 けれども、ユート様を信じるというのは、その生き方、在り方も全て含めて認めるという事。
 この世界に来た当初はそうではなかったかも知れませんが、今やユート様は自らの意志で戦っているのです。
 意志、そして心。それこそが、私の好きなユート様の存在証明ですから。
 ユート様に限らず、私は、自分以外の誰かの生に責任を持つ事はしませんし、したくありません。
 私の仲間達は皆、自分の意志で立ち、自分の意志で戦っているのです。
 それこそが、私の認める仲間の証明ですから。
 そしてそれは私自身にも当て嵌まる事。
 例え道半ばでマナの霧と化す事があっても、後悔はしないでしょう。これは、私が自分自身で定めた道なのですから。
 以前の私は、ただ戦わされていましたが、今の私は、自分の意志で戦っているのです。
 その道に立つ事を決め、事実立った以上、私のする事は自分の出来得る限りの事を精一杯にやる事。それだけです。
 私にはそれだけしか出来ません。それだけしか、したくありません」

 アンジェリンは、もう何も言わない。
 ただ静かにナナルゥの言葉を聴いていた。
 そこには激情も悲哀も無く。瞳が揺らぐ事も無く。

「彼女はアンジェリンの強きも弱きも愛した。全てを、あるがままの貴女を愛した。
 けれどもアンジェリン、今の貴女は彼女の愛した存在ではありません。
 今の貴女は自らを否定し、立ち止まっています。
 それは強さでも弱さでもない。ただの停滞です。
 違います。そうではないのです。
 何故に、アンジェリンは自分を放棄するのですか?
 貴女は愛されていた。
 その愛されていた自分自身を、どうして愛せないのですか?
 愛する人を心から信じるならば、その彼女の愛した貴女自身の事をもどうして愛せないのですか?
 アンジェリン、貴女はあるがままの存在を認められ、全てを愛されていたんです。
 信じるべきものを、信じて下さい。
 彼女が誰よりも強く愛した貴女自身の事を、信じて下さい。
 苦しみもがいてもいいんです。泣き叫んでもいいんです。
 それがアンジェリン自身なら」
 ナナルゥが手を伸ばし、アンジェリンの手を取る。優しく包み込む。
 その手に込められた思いは、励ましでは無い。
 アンジェリンがアンジェリンらしく在る事をのみ望む、ただの、そして純なる好意。
 その温もりは、以前にもこれと同じ真っ直ぐな情を向けられていた事を、アンジェリンに否応無く思い出させた。
「……」
 アンジェリンは静かに目を閉じ、そして語りだす。
 静かに、穏やかに、けれども、澱み無く。
 一言一言を慈しむ様に紡いでいく。
「……マイカは、優しかったんです。
 自分を平気で犠牲に出来る位に愚かな優しさだけれども。
 本当に馬鹿ですよね。それが信頼に対する、最大の裏切りであると知りつつも、それでも迷わない。躊躇しない。
 危なっかしくて、頑固で、我が侭。
 でも、だから。
 そんなマイカが、好きだった」
 一息つく。
 家全体が、そしてアンジェリンが金色の光を放つ。
 それは目映い命の光。
 アンジェリンは目を開け、ナナルゥを正面から見つめた。
「ユウトさんとヘリオンさんにも申し訳無かったとお伝え下さい。
 本当ならば私が言わねばならない事なのでしょうけれど、私は、もう……」
「お断りします」
 きっぱりと、ナナルゥはアンジェリンの頼みを断った。
「ユート様とヘリオンからの伝言をまずお伝えします。
 ユート様は『さっきは何にも考え無しに乱暴な事を言ってしまってすまない。それと、俺はアンジェリンに凄く感謝してんだって、伝えてくれるか』と、ヘリオンは『凄くどうも有難う御座いますってお伝え下さい』と言っていました」
 一拍置き、更にナナルゥは続ける。
「私はこの家に入るのは反対でした。
 ここは悲しみに満ちた場所だったからです。
 ですが今は、ここに来られて、アンジェリンに出会えて良かったと、そう心から思っています」
 アンジェリンは涙を抑える事も出来ずに、笑う。
「……私も皆様に感謝しています。
 ……ナナルゥさん、有難う御座います。
 では、お二人に『私も皆様に会えて良かった。有難う御座います』と、お伝え頂く事は出来ますでしょうか」
「はい。それでしたら喜んで」
 光の中、涙声の依頼を、ナナルゥは今度ははっきりと受けた。
「ナナルゥさん」
「はい」
「マイカは、私に『戻って来る』と約束し、結局戻って来なかった。
 それは仕方の無い事だったのでしょう。
 けれど、仕方が無かったとはいえ、半ば確信的に嘘をつき、私の信頼を裏切った行為は、マイカの弱さだったのでしょうか。
 それとも、身を挺し、自らをあらゆる意味で犠牲にしたとしても、心から相手を想えるという強さだったのでしょうか」
「……私には判断しかねますし、判断して良い事でも無いと考えます。
 加え、マイカさんをただ盲目的に信じ、待ち続けたアンジェリンの行為が、現実を認められない弱さの表れなのか、愛する者をどこまでも深く信じられるという強さの表れなのか、それすらも私には判断が付きかねますし、どちらだと断ずる気も又ありません。
 唯一つ、私がはっきりと言えるのは、私がそんなアンジェリン達を尊く、羨ましく、美しく感じているという事。
 端的に言えば、私はアンジェリン達が好きだという事だけです」
「……答えになっていません。
 全然答えになっていません。けれども、私が求めた以上のものをナナルゥさんの言葉から受け取る事が出来ました。
 感謝します」
 光の洪水が目に映る全てを押し流す。


 森の中に二人のスピリットがいた。
 一人はアンジェリン。もう一人は上背のあるアンジェリンよりも、更に背が高いスピリット。190cm近くはあるだろうか。
 肌は褐色。髪も墨で染め上げたような漆黒。黒スピリットであると一見して判る。
 長躯には女性としての脂肪を薄く残しながらも、しなやかな筋肉が見て取れる。本来であれば野生動物の美しさと強さを兼ね備えているのだろう。
 しかし、アンジェリンも、その黒スピリットも共に満身創痍で、互いに支えあってようやく立っているという状態だった。
 体力のみならず魔力も尽きているのであろう。この状態にあってアンジェリンが回復魔法を使っていない事がそれを雄弁に物語っていた。
「追っ手が、来る」黒スピリットはアンジェリンを木の下に座らせて、言った。「あたしが倒してくるから、アンジュはここで隠れてるんだ」
「そ、ごほっ!! ……っ、そんな事っ、出来る訳無いでしょう!?」
 血の混じった咳をしながらも、アンジェリンは黒スピリットの言葉に反論する。
「つっても、アンジュ、あんたもう一人じゃ立てもしないじゃ無いか」
 実際その通りだった。
 アンジェリンは、立ち上がろうとして、ふらつき、倒れかける。
 「おっと」黒スピリットがそれを支えた。「無理はダメ。ただ戦うだけでいいあたしと違って、アンジュは回復、防御、補助の役割まで全部こなしてたんだから。
 なのに、倒した敵の数はどっこいときてる。全く、あたしにもちょっとはカッコつけさせなさい」
 立つ事すらもままならない今の状態では、足手纏いにしかなれないと、アンジェリンにも解っている。
 だからこそ、どうしようもなく歯痒い。感情が事実の理解を拒絶する。
「……マイカ」
 今にも泣き出しそうな表情で相手の名を呼ぶアンジェリンに、マイカと呼ばれた黒スピリットは力強い笑みを見せる。
「大丈夫。あたしは戻ってくる。あたしが今まで、アンジュとの約束を違えた事があったかい?」
「……」
 今までは確かに無かった。一度たりとて、交わした約束が破られる事は無かった。
 けれど、なぜ今、そんな事を言うのか。
 他の誰も知らないだろうけれども、アンジェリンだけは、マイカが驚く程にロマンチストな事を知っている。
 非常に現実的な一面を持ちながら、同時に非現実的ともいえる明るい未来を夢見て、空想と希望の世界に心躍らせるマイカを知っている。
 そのマイカが、今までずっと根拠の無い未来をただ夢想し、笑って語ってきたマイカが、何故このタイミングで初めて、過去を根拠に未来を語るのか。
 過去を根拠に未来を語るのはタブー。なぜなら過去を根拠にすれば、ろくでも無い未来しか予想出来無いから。
 それが二人の間の、暗黙の了解事だった筈。
 アンジェリンの頭の中では、警鐘ががんがんと鳴り響いていた。
 けれどもマイカの切り札は、アンジェリンに強烈な不審感を与えながらも、その積み重ねてきた過去の完璧さ故に反論を許さなかった。
「じゃ、行ってくる。しっかり隠れてなよ」
 不安を口にすればそれが本当になってしまう気がして、結局アンジェリンは、ただ頷くしか出来無かった。

 心配ではあっても、一度横たえてしまった体はまともに動かす事も出来無い。
 神剣反応を探る事も出来無い。今の状態で神剣を行使するのは至難だし、仮令出来たとしてもこちらの位置を逆探知されるのが関の山。
 それほどにアンジェリンのダメージは深刻だった。
 体の傷もさる事ながら、限界を超えて魔法を連発した事で、体にはマナがもう殆ど残っていない。
 マナは命。今のアンジェリンの体は命の抜け殻、死体に限り無く近い状態にあった。
 それでもアンジェリンは待った。
 自らの状態に構いもせず、否、自らの状態など考える事も無くただアンジェリンはマイカを待った。待ち続けた。
 日が沈み、夜の暗闇の中でもアンジェリンは、幽かな月の光に目を凝らしてマイカの姿を求め、耳を澄ましてマイカの声を待ち続けた。
 ただ、ひたすらに待ち続けた。
 一夜が明けた時、そこには家があった。
 アンジェリンも又、強い想いを基盤とした魔力により構成される存在となっていた。
 それはアンジェリン一人だけの力によるものでは無く、マイカの想いとマナの力によるものでもあった。
 だからこそ彼女は、その事実からすら目を背けた。
 気付いてしまっては、全てが崩壊してしまうから。


「ただ自らの心の内に。真実は、そこに在ります。
 そこに在るのは辛い事だけでは無い。
 アンジェリンの大切な相手は、常にアンジェリンと共にあったんです」
 光の中にナナルゥの声が凛と響く。
 そして、もう一つの声が、光の中からうき上がって来る。
 その声はいつからそこにあったのか。
 それは、遥か以前から。この家が形を持ったときから既にそこにあって、ずっとずっとアンジェリンに呼びかけていた。
「アンジュ」
「……マイカ」
 アンジェリンも、その呼びかけに応えて相手の名を呼ぶ。
 相手を想う心に阻まれていた相手を想う声。
 それがようやくアンジェリンに届いた。


「やーっと気付いてもらえた」
「マイカ……この優し過ぎる大ウソツキ」
「あら。あたしは「戻って来る」とは言ったけど、「生きて」とは言ってなかったわよ?」
「全く、ものは言いようと言うか、詭弁ここに極まれりと言うか。大体、それより先に言うべき事があるでしょう?」
「……ごめんね」
「ふぅ、許すわよ。それに、私の方こそ御免なさい。随分待たせてしまったみたい」
「あはは。アンジュに待たされたのは初めてかな?」
「何言ってるの。貴女を待たせた事、沢山あったじゃない」
「そう? 覚えてないけど」
「貴女って、いつも約束の時間よりも早く行動するでしょ。約束の時間には間に合っても、相手が早く来る事を知っていたのなら、待たせた事に変わりないわ」
「あはははっ。相も変わらず真面目だねぇ」
「マイカみたいに自然と行動がとれる訳じゃ無いからね。考えるしかないのよ」
 二人、笑い合う。それだけで充分だった。
 すれ違いの時間を笑顔でチャラにした二人は、光の中、お互いに肩を預けながら話をする。
「私達、これからどうなるのかしら」
「マナとなり、拡散し交じり合って、この世界の一部、次の新しい命の一部になる、んだと思う」
「……じゃあ、こうやって私達という個として言葉を交わすのも最後になるのね」
「ホントなら、今こうして会話してるのもかなり反則なんだろうけどね」
「間も無く私もマイカも、この世界の一部となる。
 少し前まで……ほんの数日前までの私なら、そんな事、嫌で嫌で堪らなかったでしょうけど……」
「あたし達にとって、この世界はクソ以下、っていうかクソ未満だったからねぇ」
「マイカ。そういう品の無い物言いは止めなさいって、何度言えば解るのよ、もぅ」
「あはは。ゴメンゴメン。最後の最後まで直らんかったねぇ、あたしの品の無さも」
「全くよね」
「あ、酷い。そこは否定するトコじゃ無いの?」
「そうは思うのだけれど、否定出来無いんですもの」
「ちぇー。その言葉をこっちが否定しきれない時点であたしの負けか。
 でも、ま、そんだけ嫌いだったこの世界だけど、今はそんなに嫌いでもないかな、あたしも」
「ええ。あの方達が……ユウトさんやヘリオンさん、ナナルゥさん達がこの世界の未来を作り、担うというのなら、その一部になるのも悪くないと……いいえ、楽しみにすら思うわ」
「あるがまま、本来の自分らしく生きていける世界。強きも弱きも区別無く在るというだけで肯定され、祝福される世界、か……すっごい理想論だね」
「けれど、命を預け、信じるに足る理想だわ」
「……あたしに手痛い目に合わされた後だってのに、まだ『信じる』事が出来るんだね、アンジュは」
「ええ。これが『私』ですもの」
「なるほどね。
 確かに今のアンジュとその行為は、『愚か』とも『強い』とも取れる。
 けど、うん。そんな判断以前に、あたしはそんなアンジュが好きだね」
「私も、私を酷い目に合わせたという自覚がありながら、それでもさらりと好きだなんて言い放てる、傲慢なまでに私を信じてくれる、そんな貴女が大好きよ」
「……言うね」
「ちょっとした意趣返しよ。これくらい、いいでしょう? 最も、それが『貴女』なのだし。
 そんなところも含めて、私が貴女を好きだというのは紛れも無い事実なのだから」
「くすっ、じゃ、仕方ないか」
 二人、口付けを交わす。そのまま光の洪水に溶けていく。


 軽やかな旋律と共に、悠人とヘリオンは幻視から現実へ。
 目映い光が次第次第に薄れ、森の景色が返って来る。
「い、今のは……何だったんでしょう……」
 今だ混乱から抜け切れないヘリオンの表情に、悠人は、ヘリオンもまた自分と同じものを見たのだと確信する。
「……多分、アンジェリンの記憶だ。
 家とかアンジェリン自身を形作っていた強い想い。それが形の束縛を無くしてマナに返ったと同時に、俺達にその想いの断片を見せたんだろうな」
「私達、スピリットの体はマナで出来てます。
 だったら、マナから体を再構成する事も出来る、って事なのかも知れませんね……。
 強い、強い想い。あれだけの強い想いなら、ありえる気がします。
 緑スピリットの皆さんが使うリヴァイブの究極形みたいな……」
「アンジェリンは……あの時死んで……たんだな。
 でも、ずっと自分が死んだ事をすら認められなかったのか……。
 ただ、約束を信じて、待つ。それをずっと……ずっと続ける為だけに」
 ヘリオンは半ば放心した様に辺りを見回す。
「……何も無かったみたいです」
 ヘリオンの言葉通り、そこには元から何も無かったかの様だった。
 つい先程まで想い人を待ち続ける為の家があり、そこに一人のスピリットが住んでいた事などまるで嘘だったかの様に、ただ深い森の中の静かな空気だけがあった。
「夢を見ていたみたいです。道に迷ったあの時から、ずっと」
「夢、か。そうだったのかも知れないな。アンジェリンにとっては、長い長い夢だったんだろう。
 辛く認め難い現実じゃ無くて、優しい夢にアンジェリンは救いを求めた。
 マイカさんの事が本当に好きだったから、現実を受け入れられなかった。
 ……哀しいな」
「……はい。
 で、でも!! アンジェリンさんは、目を覚ましました!!
 それは、なんていうか、その……凄いと思います……」
「そうだな。アンジェリンは乗り越えたんだな。凄いよ。……本当に、凄い」
 いつもと少し違う悠人の声音に、ヘリオンは思わず悠人の顔を見た。
 悠人は、家のあった景色を見ている様でも、もっと遠くの何かを見ている様でもあった。
 アンジェリンの事に思いを馳せている様にも、ヘリオンの知らない記憶の中の誰かの姿を思い浮かべている様にも見えた。
「心、って、何だろうな」
 ぽつり、と悠人は漏らす。
「え?」
「俺、スピリットのみんなに、心を無くさないで欲しいと思ってきた。
 そのくせ自分自身は心を殺そうとかしてたんだけどな。情けない話だけどさ。
 けど、心って、何なんだろうな。自分でも実は良く解っちゃいないみたいだ」
 心があるという事は良い事ばかりでは無い。
 ナナルゥが言った様に、アンジェリンが体験した様に、そして悠人自身が体験している様に、辛い事や哀しい事だって沢山ある。
 嬉しい事や楽しい事だってそれは勿論ある。でも、それらが実際差し引きでプラスになるのかマイナスになるのかは解らない。
 それこそ心の持ちようだけで全く違ってしまう気もする。
 それでも、世界が辛い事や悲しい事、苦しい事や耐え難い事に満ちているのだとしても、悠人は心を持っていたいと思う。スピリットの仲間達に心を持ってもらいたいと思う。
 それは愚かな事なのだろうか。傲慢な事なのだろうか。
「私はっ!!」ヘリオンが悠人の言葉に応じる。
 その懸命な表情は、言わねばならない事、言うべき事を言おうという、意志有る者、心持つ者の表情。
「私は心を持っていられて良かったです!!
 サーギオスのスピリットの皆さんみたいになるのは……嫌です。
 私は、今の自分のこの気持ちを、無くしたくない、です」
 ヘリオンは自らの胸に手を置く。そこに詰まっている大切なものを慈しむかの様に。
 スピリット隊の仲間達の事。最近仲良くなった人間達の事。アンジェリンの事。そして、悠人の事。それら全てがヘリオンにとって、掛け替えの無い大事な大事な宝物だった。
「そっか」
 悠人はヘリオンの頭を撫でる。
「はわわわわっ!?」
 ヘリオンは突然の事に驚き、顔を赤らめ、体を固くしたが、その悠人の手はヘリオンを安心させる不思議な力を持っていた。
 ヘリオンは目を瞑り、頭を撫でてくれる悠人の手をただ感じる。
「はい。私は心があって、良かったです」
 ヘリオンは、心の底から、そう思った。
「最後に、アンジェリンに礼、言いたかったな」
「それは違いますよ、ユート様」
「え?」
「アンジェリンさんは、これからもずっとずーっと私達と一緒です。最後なんかじゃ無いです」
「……そっか。そうだな」
「はい」


「そういえば、ナナルゥは?」
「あ……そういえばどこに……」
 言ってから、悠人とヘリオンは、ずっと耳に届いている草笛の音を思い出す。
 それは存在を忘れてしまう程に、完全な調和を持って世界に流れていた。
 降り続いていた雨はいつの間にか止み、数日振りの太陽が顔を見せていた。
 さんざめく木漏れ日の下で、ナナルゥは草笛を吹く。
 楽しく、軽やかなリズムを乗せた草笛の音色は、森に吸い込まれていく。
 それは悲哀の欠片も無い葬送曲。
 出会いへの感謝と、友の新たな旅立ちの祝いを込めた葬送曲だった。


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