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 戦争が終結し、建国された統一王国ガロ・リキュアで、私は恐怖に囚われた。
 戦時中にも感じなかった恐怖に。
 それはスピリットの力をようやく正しく理解したが故に。

 レスティーナ女王はエーテル技術の放棄と同時に、スピリットと人間の共生の端緒を開いた。
 今やスピリットには人間と同様の権利が保障され、同時に納税等の義務も賦課された。
 スピリットが子を産んだという話は聞いた事が無かったが、もし子を生せば、普通教育を受けさせる権利も発生する筈である。
 加え、まだ普通教育を受けていないスピリットが望むならば、年齢を問わず就学する事も可能とされた。
 差別する者は未だ根強く残っていたが、スピリットを英雄視する者も決して少なくは無い。
 過去、この世界の戦争には暗黙の了解事があった。
 それは、人間を直接の犠牲としないという事。
 それを裏付けるのがスピリットの教育。スピリットは戦争の為の道具ではあったけれども、人間には殺意を向けない様に教育されていた。
 ソーマの率いる帝国妖精部隊が恐れられたのはこの一点。ソーマはこの『スピリットは人を殺さない』という枠を無視した。
 結果、帝国妖精部隊は恐怖の代名詞と呼ばれるに至った。
 しかしそれでも、民間の者はその脅威をリアルに感じていた訳では無かった。
 街に住む殆どの人間にとって、戦争とは命の危険を意味しないものだったのだ。
 ロウ・エターナルがこの状況を一変させた。根拠も無く信じていられた安心感は、完膚無きまでに崩壊した。
 人間は、無力だった。蹂躙に対し、何一つとして為す術を持たなかった。
 その状況下、多くのスピリット達は、エターナルによって人間の束縛から解放されていたのにも拘らずに自分達の意志で、今まで自分達を虐げて来た人間達の事を命懸けで護ったのだ。
 無力感に苛まれながら祈り、逃げ惑うしか出来無い人間と違い、スピリットはこの世界の全てを消し去ろうとしたロウ・エターナルやその眷属と果敢に戦い、これを見事に追い返したのだ。
 この事実を経てなお、スピリットに命救われながらそれを当然と思い、未だスピリットを蔑視している人間の方をこそ、寧ろ恩知らずの愚者と呼ぶべきであると私は思う。
 こうして黒幕であったロウ・エターナルは撃退され、長きに渡る戦いが終結し、統一王国ガロ・リキュアが建国された。
 今後数千年、この世界は、大賢者ヨーティア=リカリオン様の発明によって、エターナルの脅威から護られるという。
 鼓腹撃壌の祝祭が三日三晩続いた後は、エーテル技術が使えなくなった不便さと、それに伴う文明の後退、技術転換の困難さに不満も少なからず出たものの、相互扶助の精神がその中から自然と生まれ、私達の間には以前より多くの笑顔が見られるようになったのも紛れの無い事実だった。
 エーテル技術を捨てる理由である『エーテルの元となるマナは、生命の源である』という事実は、人々の間に意外なほどにすんなりと受け入れられた。
 元々スピリットが純粋なマナから構成される生命体である事は周知であり、これが大きな説得力となった。(この世界の物質もマナより作られ、役割を終えればマナに還る。この事が、スピリットを物として見るという価値観の一因であった様にも思う)
 又、人間を含むその他の生命種にしても、エーテル技術の拡大に比例する様に、人間の出生率、家畜をはじめとする動物の繁殖率、作物の収穫量等が漸減してきていたのには皆気付いていた。
 次々と提示される様になった(今までは黙殺されていたのであろう)各種データも、実際にそれを裏付けた。
 マナ消失地帯であるダスカトロン砂漠の拡大も、厳然たる事実として存在していた。
 これら全ての問題の要因が、マナを消費していくエーテル技術にあるとすれば、その放棄は当然といえる。
 ましてや、エーテル技術が世界を滅ぼそうとしたロウ・エターナルの、策略の一手であったと知った今ならば尚更に。
 一度手にした文明を捨てる決意は容易ならざるものではあったけれども、さりとて、明らかな衰滅の未来を諭されてなお選択すべき道に気付けない程には、この世界の人間は愚鈍では無かったという事だろう。
 最も、レスティーナ女王という偉大な指導者と、大賢者ヨーティアという大いなる知者が先鞭を切ってくれたという事実が、非常に大きくあるとはいえ。
 この様に、五風十雨とまではいかないものの、女王レスティーナ様の理想は多くの者に受け入れられ、少なくとも女王の膝元である旧ラキオス領は平穏であると言って良かった。
 生活の利便性は著しく後退したものの、今まで忘れかけていた生活、隣に助け合う知人がおり、自然と共に生きるという生活は決して悪いものではなかった。

 けれども、その未来への希望溢れる筈の場所で、私は絶望を見た。

 以前の私はスピリットを単なる戦いの道具としてしか見ておらず、つまりは自らの生活には関係の薄い物としか認識していなかった。
 故、目を向ければ直ぐに判る筈の自明の事柄に、私は今になって漸く気付いたのだ。
 スピリットは強く、賢く、美しい。
 今までは人間がスピリットを支配していたから、その強大な力は人間という生命種に対する脅威にはなり得ず、非常に便利な道具というだけでしかなかった。
 しかし。
 人間とスピリットが同一の地点に立ったとしたらどうだろう?
 そう考えてしまった。そして気付いてしまった。
 人間は、スピリットに勝れるものがどれだけあるのか。
 今現在の立ち位置こそ同じであっても、人間はスピリットにどれ程の勝負を挑めるというのだろう?
 力で? 容姿で? 技術で? 頭脳で?
 今の私はスピリットに心から感謝している。その力に驚嘆している。そのあり方を尊敬している。
 ありとあらゆる点で到底敵わないと思っている。
 そう、まるで勝負にならないだろう。
 そもそも基本となる心の持ちようがまるで違う。
 死ぬ事など意識もせずにのうのうと生きてきた(全員では無いにしろ殆どと言って良いだろう)人間と、一日一日を死を身近に置きながら文字通り必死に生きてきたスピリットでは、違い過ぎるのだ。
 差が付くのも当然だ。流れゆく時間、その常に積み重ねられていく瞬間瞬間の重み自体が違うのだから。時に比例して差は広がる一方だろう。
 身体能力は、それ以前の問題だ。基礎能力に天地ほども差がある。大人と子供の差などという、努力でどうこう出来るレベルでは無い。
 ならば。
 より強い者が上に立つのが世の理ならば、スピリットが人間の上に立つのもまた必然では無かろうか。
 ついこの前までの支配被支配の構図が逆転されるのは、明日かも知れない、今日かも知れない。
 自分達が今までスピリット達にしてきた仕打ちが、そっくりそのまま自分達に返ってくるかも知れない。
 人間が、私がスピリット達に隷属する。いや、そんな事すら生温い。道具として使い捨てられる。そんな自分の未来の可能性。
 脳髄に戦慄が走った。
 そこに救いは見えない。
 今までのスピリットに救いが無かった様に。
 そして、スピリットと人間の新たな主従が確定してしまえば、今度こそ逆転は有り得ない。
 生命種としての格が違う。それこそ鳥や獣が、人間との立場を逆転する位に有り得ない。
 慈悲に期待する? 寛恕を乞う? 無意味だし無駄だ。考える事すら愚かな事だ。
 自分達が言ってきた事では無いか。「人間とスピリットは違う」と。
 違う存在。今までスピリットは家畜や道具と同列だった。
 家畜に慈悲を与える者が、どれだけいるだろうか?
 身近で無い道具が壊れる事を悲しむ者が、どれだけいるだろうか?
 今までそう扱われてきたスピリットを、哀れと思った者がどれだけいただろうか?
 そしてそれを僅かなりとも思ったとて、その思いを行動に移した者が、果たしてどれだけいただろうか?
 少なくとも私は、過去の道具としてのスピリットの在り方に、スピリットを道具として扱う事に、何の疑念すらも抱かなかった。
 私だけが特殊であり、逸脱した思考の持ち主であったとは考え難い。
 仮に私が例外であったなら、スピリットを囲む世界はとっくに変わっていたに違い無いのだから。
 だとすれば、今度は人間の上に立つスピリットが、人間を家畜や道具同然に見ても何ら不思議は無いだろう。
 スピリットには、その権利があるとも言える。
 何しろ人間がスピリットに対して、ずっとしてきた事なのだから。スピリットが同様の事を行うのを、当の人間が否定する事は出来まい。
 私は、スピリットを自らの及ばぬ程に優れた存在だと思っている。
 だからこそ、スピリットの下の存在として、支配されるという恐怖がリアリティを持って私を蝕んだ。

 自分達のやって来た事の結果であり因果応報である、などと言って納得出来るものでは無かった。
 身勝手だと言うならば言うといい。自分でもそう思う。それでも受け入れられないものは、受け入れられないのだ。
 隷属し、搾取され、犯され、殺され、捨て置かれ、まるで最初から何も無かったかの様に忘れ去られる。
 それはスピリットに対して自らが今までしてきた、或いは当然と認めてきた歴然たる事実ではあっても、それを受ける側に回る覚悟など到底出来はしない。
 何はともあれ、恐怖は閑却する事も出来ず、その日から常に私についてまわる事となり、安閑とした日々は終焉を迎えた。

 恐怖はふとした拍子に、何の前触れも無く噴出した。
 活況した市の中、肉屋の店先に並ぶ品物が自分と重なった。
 人と家畜の関係は、そのままスピリットと人間の未来の関係に思われ、並ぶ肉のカタマリが自らの前途と思えた。
 いつしか私は在る筈の無い視線を感じていた。
 それは人が肉屋に並ぶ商品を見る視線と同じものだった。
 思い出す。私がどういう目でこれまでこの店に並ぶ肉片を見てきたのかを。
 そこに命在りしものへの尊重など無く、視線の先に認識していたものはただの食料、ただのモノ。
 同じく、私を見る視線には何の感情も無かった。喜悦も憐憫も何も無かった。
 今や私は、目の前に並ぶ肉の塊と同義であり、ただのエサだった。
 私は無い筈の視線から逃げ出して店のトイレに駆け込み、激しく嘔吐した。
 その日から私は、肉が食べられなくなった。

 一事が万事。このような事が幾度と無くあった。
 やがて昼だけで無く、夜も悪夢にうなされる様になった。
 毎夜恐怖に目を覚まし、昼もいつ表出するか判らない不安に怯えて過ごす。
 背後には常に絶望の足音が付いて回り、何時も私を狙っていた。その様な中で今迄通りの生活を送れる筈も無い。
 払暁に憂い、黄昏に怯えた。
 精神も肉体も、磨耗し疲弊しきっていた。
 最早精神の病。だがそれを自覚したところでどうにもならない。
 半ば絶望めいた感情が私を支配していた。
 皮肉な事に、恐怖の根源でもある私の臆病さが、死ぬ事すら怖いという形で辛うじて私の命を繋いでいた。

 そんなある日、私は街で一人の女性とぶつかった。
 何処かの国の民族衣装の様な、変わった衣服を纏った女性だった。
 女性と言うにもまだ年若い、少女や女の子と表現した方が適切かも知れない。肉付きの薄い華奢な体つきが、その印象を更に助長する。
 最近ろくに眠れず、ものをも満足に口にしていない私とぶつかってすら、倒れたのは彼女の方だった。
 無論、ぶつかり方の問題でもあるのだろうけれども。
「いたたた……」
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
 地面にお尻をくっつけたままの彼女に手を差し出す。
「ええ。大丈夫です。こっちこそごめんなさい。周りも良く見ないでスキップなんてしちゃって。貴方は大丈夫でしたか?」
 彼女はしっかりとヨフアルの袋を確認すると立ち上がる。
 どうやらヨフアルが無事だったから、という意味で、私の問いに大丈夫と返答した様子だ。
 そういう意味で訊ねたのでは無かったのだけれども。
 彼女はヨフアルを沢山買えた事が嬉しくて、周りがよく見えていなかったらしい。
 尻餅をつく時も、ヨフアルの袋だけは死守していた。もしかしたら以前にも、ヨフアルを手にした嬉しさに周りが見えず、他人とぶつかって転倒した事があったのかも知れない。そう思わせる反応の良さだった。
 とは言えその俊敏な反応は、ぶつかりそうな人を回避するという方向や、ましてそれ以前に周囲を注視するという方向には全く働かずに、ヨフアルを守る、という点にのみ遺憾無く発揮された訳だが。
 まるで人とぶつかったという事そのものには、何らの反省も無いかの様に。……と、これはちょっと穿ち過ぎか。
 彼女は外見だけでは無く、内面も少女らしさがまだ抜けきっていないらしい。それが何となく微笑ましかった。
 けれど、一見おてんば(或いは奇天烈)とも見える反面、彼女の何気無い行為の端々には育ちの良さ、隠し切れない気品が含まれていた。いや、何気無い行為だからこそだろう。付け焼刃では無い、本質にまでなっている立ち振る舞いの優雅さが現れていた。
 何処かの富豪の、世間知らずの御令嬢だろうか。
「はい。私も大丈夫です」
「良かった」
 お尻に付いた埃を払いながら、彼女はにっこりと笑う。その笑みに、私は我を忘れて引き込まれた。
 カリスマ、とでも言うのだろうか。その笑みには見る人を引き付ける何かがあった。
 ふと既視感めいたものを感じた。
 この輝く魅力を持つ人間を、どこかで見た事がある気がした。
「あの……失礼ですが、どこかでお会いした事がありましたか?」
「え!? い、いいえ!! 全然、全く、完璧に心当たりが無いですにょっ!?」
 彼女は怪しさ爆発の返事を返す。あまりに慌てていて最後には舌を噛んでしまったらしく、口を押さえて涙目になっている。
 確かにこんなにも特徴的な(見た目も、中身も)相手ならば、覚えている筈なのだが、終ぞ記憶に無い。
 それでもどこかで見た様な気がするのは変わらない。頭の中にある点と点が繋がらないのがもどかしい。
 その時、こちらに向かって駆け寄ってくる一人の女性の姿が見えた。
 はっとするほど整った顔。美しい光を湛える翡翠の瞳。

 心臓が、一拍飛ばしてから早鐘を打ち始めた。

「やっと見つけました。今日という今日は逃がしませんよ!!」
 荒く激しい呼吸が喉に詰まる。
 頭にがんがんと響く太鼓のような音は何かと思い、自分の心音だと胡乱な頭が気付いて忘れる。
 足が無くなった様な感覚。汗が全身から吹き出る。
 世界は揺れる底無し沼。ぐらぐら。ゆらゆら。
「やばっ、見つかっちゃった!! じゃあ私はこれで……って、ちょっと!? 本当に大丈夫ですか!?」
 声が聞こえる。どこから? 内から? 外から? それすら判らず。
 思考は無尽に錯綜し、なのに何処にも繋がらず。
 体内を溶岩が巡り、氷柱が貫き。
「ちょ……、大丈…………!? …………し…………!!」
 頭蓋の中は白く輝く真っ暗闇。
「…………!? ……!!」
「……!! ………………!!」
 ……。

 喪神から回復して、最初に感じたのは違和感だった。
 自分はどうしたのかと考えて目に意識を集中すると、そこは全く見覚えの無い天井があった。
 直ぐに自分が肌触りの良いまっさらなシーツに包まれ、固すぎも柔らかすぎもしないベッドに横になっている事に気付く。
 私の身じろぎに目覚めを察したのか、横から優しい声がした。
「気が付きましたか?」
 刹那、私はまたも動転した。
 それは意識の途切れる直前に聞こえていた声だったから。
 訳が解らない。自分が解らない。
 私は何か叫んでいる、らしい。
 暴れている、みたい。
 よく、わからない。

 発作的に半狂乱になった私を置いて、彼女は部屋から退出した。
 聡明な彼女は、スピリットである自分の存在こそが、私を怯えさせている原因なのだと直ぐに気付いたのだろう。
 彼女が部屋からいなくなり、私は僅かずつではあるが、やっと思考を取り戻す。
 激しい動悸を感じる胸を押さえ、乱れた息を整える。
 暫くそのままの姿勢で呼吸を落ち着け、漸く人心地がついて部屋を見回す。
 豪華でしっかりした造りの部屋。
 壁に掛けられた絵画の、本物のみが持つ美しさと迫力に瞠目する。
 調度品も、殊更な審美眼など無くとも、それどころか良し悪しを判断しようとすらせずとも、一見して判る高級な物ばかりが揃っており、それら全てが見事な調和を持って、空間に高貴で洗練された雰囲気を与えていた。
 豪奢ではあるものの趣味の悪い成金趣味的な金のかけ方では無い。
 明るく開かれた窓からは、午後の日差しと、緑の薫りを乗せた涼やかな風が入って来て、私の頬をさらさらと撫でていく。
 それにしても……全く見覚えが無いこの部屋は、一体何処なのだろうか。
 もしかしたら……私は……スピリットに……。
 悪い考えばかりが浮かぶ。
 先程の彼女の態度一つとってもそれは有り得ない事だと、そう自分に言い聞かせつつ不安を拭いきれない。

 コンコン、とノックの音がした。
 反射的に身構えたものの、部屋に入ってきたのはそれこそ全く予想だにしない人物だった。
 レスティーナ=ダイ=ラキオス。
 元ラキオス王国女王にして、現ガロ・リキュア王国の女王。
 若くして優れた政治手腕を発揮する、紛れも無いこの大陸の中心人物。その人だった。
 瞬間、絢爛たる部屋の全ては女王陛下の背景となった。
 顔や身体のパーツのどうこうでは無い。当然身に纏っている数々の宝石をあしらったティアラや、絹の衣等が理由でも決して無い。
 女王陛下は確かに佳人ではあるにしろ、姿形だけであれば、もっと美しい者もいるだろう。
 私を引き付けたのは優しい微笑。
 外面だけのものでは無い、内面からの笑顔。自然に引き込まれる様な深く優しい魅力的な笑み。
 それがどこまでも美しかった。
 またも僅かに既視感めいたものを感じたが、今はそれを気にかける心の余裕が無かった。
 女王陛下が、淑徳を具現化したような振る舞いで優雅に一礼してから、物柔らかに語りかけてくる。
「返事が無いので勝手に入ってしまいました。申し訳ありません。具合はいかがですか?」
「は、はい。何ともありません」
 声がひっくり返ってしまうのも、我ながら無理なからぬ事だろう。
 女王陛下には恭敬と同時に、スピリットを解放した人物と言う事もあって、今となっては多少なりとも含んだ感情を持ってもいたのだが、本人を目の前にしてそんな感情は全て吹き飛んだ。
 何の覚悟も、心の準備も無いままに、突然にしてこの大陸で最も高い身分の相手に、一対一で拝謁する事になったのだ。これで動じないほど私は肝が大きくも、鈍くも無い。
 先とは種類の異なる惑乱に陥っている私に、女王陛下は安心させる様に又も優しく微笑む。そして実際にそれだけで、私の肩からはふっと余計な力が抜けた。まるで魔法の様に。
「それは良かった。長く気を失っておられたから心配していたのですよ」
 一般に王侯にイメージされる様な見下した態度は微塵も無く、真っ直ぐ私に向ける視線の穏やかさは、知己に向けるそれと変わらない。
「いえ……御心配をおかけしてしまい申し訳ありません。ですが、なぜ私はここに?」
「え、ええ。街で貴方が倒れるのを偶然見かけたのです」
「女王陛下が街に来ておられたのですか」
「ええと、まぁ、そんなところです」
 少々歯切れが悪い気もしたが、詳しく聞くのも躊躇われた。
 何しろ相手はこの国の女王。市井の者に知られたく無い事や、知られてはまずい事も当然あるのだろう。
 そう考えると、何を喋っていいのやら、それすらも見失ってしまう。
 沈黙した私に向かい、女王陛下が再びゆっくりと口を開いた。
「……宜しければ、理由を話して下さいますか?」
「理由……と申しますと?」
「はい。貴方がエスペリア……先程のスピリットを見て取り乱した理由です。勿論、無理にとは申しませんが」
「いえ。無理だなどと………」
 いつしか私は、自分を捉えて離さない恐怖の全てを話していた。話すのが上手な人間には何人か会った事があるが、これほどに聞き上手な相手は初めてだった。
 話しながら恐怖に囚われかけ、錯乱しかける私に、レスティーナ女王陛下は優しく微笑みかけ、安心させて下さった。
 本来話すという行為があまり得意では無く、今一つ要領を得ないであろう私の話に、時折相槌を打ち、時に質問を挟みながら真剣に耳を傾けて下さった。
 すると、不思議と私の心は静まり、自分でも見えていなかった話の道筋が、明かりに照らされでもしたかの様にはっきりと見えてくるのだった。
 自分でも知らなかった自分の中に眠っていた真実が、浮き彫りになってくると言っても良い。それほどに陛下は、人の話を聞くのが上手かった。
 人の語る話や美しい文章に、我を忘れて引き込まれた経験はあれど、人が聞く姿勢に我を忘れて引き込まれ、自らをここまで素直に語ったのは初めての経験だった。まるで詐欺にでもあっているかの様だった。
 私の論は女王陛下の、人間とスピリットとの共生という理想に対するアンチテーゼでもあり、斟酌すべきとも思いはしたがしかし、女王陛下の懐は、私の言葉を全て受け入れて余りある程に深かった。
 憚り、本心を言わぬ事こそ無礼にあたると思わせる程に。
 それは年若い女王の非凡な才覚を私に示し、文治の国に於いて人の上に立つべき人間である事を問答無用に、同時にどこまでも自然に納得させるに足るものだった。
 それはある一面でとても怖い才かも知れない。
 その才の前にあって、巧言令色はその意味を失う。空疎な話にしかならないという形で如実に現れてしまう。
 女王陛下の前では、話すだけで自分の内面までが抉り出され、浅さも軽さも愚かさも醜さも全て露呈してしまうのだから。
 薄っぺらな表面だけの言動は全て見透かされ、軽薄な輩は居た堪れなくなる事だろう。
 何れにせよ、それも後から気付いた事で、その時はただただ心の澱を話し続けていたのだが。
 途中、一度だけ陛下自らお茶を入れ、私に勧めて下さった時以外(元からベッド脇には水が置いてあったのだけれど、それに私が全然手を付けない事に気付いたのだろう)、私はずっと話し続けた。
 一通り話し終えた時、窓からは既に茜色の光が差し込んでいた。
 レスティーナ陛下は話を聞き終えると、一つ頷き、ゆっくりと話し始めた。

 貴方の言う事はある面で正しく、ある面でまるで的外れです。
 確かにスピリット達は、私達人間の罪を忘れ去った訳ではありません。私達人間に迫害され、奴隷として、道具として扱われた事実をはっきりと覚えています。
 けれども、その残酷な現実を直視してなお、彼女達は私達人間を許したのです。
 大いなる寛容を持って、私達に手を差し伸べているのですよ。それも上からでは無く、対等な友人として、です。
 私達が今まだ自由に生きている事、それが証拠としては足りませんか?
 もしもあなたの不安が真実とすれば、私達は既に彼女達に隷属している事でしょう。
 彼女達はその気になりさえすれば直ぐにでも、この世界のヒエラルキーの頂点に立てる。ラキオスだけならば、ほんの数日で充分支配下におけるでしょう。実際彼女達は、それだけの力を有していますよ。
 ですがそれは杞憂に過ぎません。
 彼女達の瞳を一度しっかりと御覧なさい。それが何よりも雄弁に事実を物語りますから。
 私達人間の矮小な価値観や常識。それは人間が世界の頂点であるという傲慢な思い込みに立脚したものです。故に、上位の存在は下位に位置した他の全てを自由にする権利を有する、と。
 しかし実際には、スピリットの方が人間よりも多くの点で優れた存在でした。
 その人間の常識や論理に照らし合わせれば、彼女達スピリットは私達人間よりも遥か高次の存在である以上、弱肉強食の掟に従い、私達人間は確かにスピリット達の餌となる事でしょう。
 今まで迫害に迫害を重ねて来た歴史も、それを助長する筈でしょう。
 ですが、彼女達は真の意味で、私達よりも高次の存在だったのです。
 私達人間が続けてきた、強者が弱者を支配するという常識。そんな次元に彼女達は無い。
 強者が弱者を護る。そんな優しい強さを彼女達は持っているのです。
 ……いえ、それも正しく無いですね。
 彼女達にとっては強さも弱さもさしたる意味は無い。力の強弱は決して優劣を意味しない。
 そもそも同じ世界の住人として、全てに優劣は存在しないと彼女達は言いました。
 スピリットも、人間も、獣も、鳥も、虫も、草木も、大気も、大地も、全てはマナより生まれ、マナに帰る。
 全ては等価値だと。全ての根源は同一だと。私達は一にして全、全にして一なる世界そのものであると。
 自分と自分を比較し優劣を競う事が出来るでしょうかと、彼女達は言いました。
 例えるならば……『私』という一つの生命の中にある数々の器官、そのどれがより重要かの優劣を比較する事には全く意味が無いでしょう?
 心臓がいかに重要な役割を担う大切な器官だとて、心臓それだけでは生命足り得ない。脳も、肺も、肝も、腎も同じく。
 そこに優劣は無く、ただ役割の違いが在るだけです。
 その沢山の異なる役割を持った器官が集まり、互いに繋がり合い、支え合い、それぞれが自らの役割を果たし、その全てがあって初めて私という一つの生命を構成し得るのです。
 今の例えの『私』に相当するのがこの世界、そして器官の一つ一つが、人間やスピリット、獣や草木や大地や大気の様に各々が異なる役割を持ちながら互いに繋がり合う私達個々の存在……と言えば、イメージ出来るでしょうか。
 そんな価値観を彼女達は有しているのです。
 純粋なマナによって構成され、死すればマナとなって世界に還る。
 そんな彼女達だからこそ、実感として習得し得た価値観なのかも知れません。
 最も、私も全てのスピリットと話をした訳では無いので、皆が皆今話した様な考えを持っているとは限りませんが、それでも私の身近にいる者達は、皆一様に今語った事を教えてくれました。
 そしてこれは、何も根拠の無い荒唐無稽な話という訳では無いのです。
 ヨーティア様も仰っていました。マナとは命そのものなのだと。
 これは私達がエーテル技術を捨てた理由の一つでもありますよね。
 だとすれば、確かに私達は世界の大きなマナサイクルの一部なのです。
 人間も、スピリットも、その他の全てのものをも含めて一つの命なのです。私達は大いなる命の流れの中の一滴の雫と言えるかも知れません。
 彼女達の言っている事は恐らくは正しいのでしょう。私達の本質は、皆同じものなのでしょう。
 ともすればこの世界のみならず、宇宙全てが、その森羅万象が一つの大きな命なのかも知れません。
 それと、先程彼女達は過去を忘れてはいない、と言いましたが、それもまた彼女達の強さに起因するもの。
 同族同士で殺し合いをし、血濡れの道を歩んだ事実を忘れてしまえば、或いは自分達は望んでもいなかったのに無理矢理人間に殺し合いをさせられたのだと納得してしまえば、彼女達はどんなにか楽になる事でしょう。
 実際私などから見れば、それは私達人間の……いえ、それを命じた私の罪に他ならない訳ですが……しかし彼女達はそれをしない。
 罪を自分達の背に負い、その上で自分達の生き方を定めています。
 如何な理由があろうとも、彼女達は自分達のしてきた事に責を持って生きています。
 そもそも、私はガロ・リキュア建国時にスピリット解放を宣言したとはいえ、スピリットはそれ以前からエターナルの手により人間から解放され、自由になっていました。
 にも拘らず彼女達は私の残酷極まりない命令に従い、今まで自分達を虐げてきた人間を救う為にその美しい手を血で汚し、掛け替えの無い命を賭して戦ってくれたのです。
 私はスピリットにとって、一般に言われている様な恩人などでは決して無く、多くのスピリット達を死地に赴かせ、同族を殺させた大罪人でしか無いのですよ。
 その大罪人であり、大勢のスピリット達の仇である私が未だに生きて、しかも女王などという立場にいるのも証拠の一つになるでしょうか。
 彼女達は……この私をも許してくれたのです……。
 私も彼女達の強さに準じたいと思っています。
 血で汚れた自分を忘れず、その上で自分に出来る事をしていきたいと考えています。
 これもまた、私が彼女達から教わった強さです。
 私達は彼女達に多くを学ばねばなりません。
 そこに、私達人間とスピリット達が共に歩む道があると、私は考えています。

 女王陛下はほんの少し悲しげに、しかし凛と揺るがぬ強さで微笑むと、そこで一端言葉を切った。
 陛下が大きな罪を感じている事は、話している時のその悲痛な表情と声の震えから容易に見て取れた。
 先の戦いで死した敵も味方も、人間もスピリットも、全ての命を罪と背負い。
 自分が自らの手を直接血で染め得なかった事、それすらも罪に数えて。
 如何な強さを持てば、それだけの重圧に耐え切れるのだろう。
 果たして、この世界を護ろうとした女王やスピリット達を罪人とするならば、それに護ってもらった、護られるだけでしか無かった私は一体何なのだろう。
 私には、女王陛下やスピリット達を罪人と呼ぶ事など出来はしない。そんな資格有る筈が無い。
 今一度、女王陛下を正面から見る。
 そこには、私の確信通りに、笑みがあった。どこまでも深く、優しい笑みが。
 愁眉は開かれた。
 境涯は違えども、私も女王陛下もスピリット達も含めた全てが、共にこの世界と一体として在る事を、私達の存在には何の隔たりも無い事を理解した。
 私の雰囲気から、女王陛下は私の心を賢察されたのだろう。更に穏やかに言葉を紡いだ。

 貴方がスピリット達に強く恐怖したという事は、そのままスピリット達の事を深く理解したという事に他なりません。
 貴方の様な人こそが、人間とスピリットとの架け橋になってくれると信じています。
 それと、先程のスピリット……エスペリアにも貴方のお話を少しばかり説明しても良いでしょうか。
 多分彼女は酷く落ち込んでいるでしょうから。
 人に憎まれるに充分な事をしてきたと、彼女自身は思っていますから。

 それは駄目だと私は答えた。
 それは、私自身が謝罪すべき事だと思ったから。
 何の非も無い、寧ろ恩人である相手を目の前にして取り乱し、その心を酷く傷付けたという事実は、しくじたる思いを自身に強く感じさせはしたけれども。
 私が気まずい思いをせずとも、女王陛下がフォローをして下さるという提案は、正直なところ非常に有難かったけれども。
 それでも自らのした事の結果をしっかりと見据え、それを自ら乗り越えようと思うこの決意こそが、私の第一歩であると思ったから。

 送って下さるという陛下とエスペリアさんの厚意を辞退し城を出た私は、一度振り返り大きく頭を下げた。
 帰り道を歩く私の足は、もう重くは無かった。

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