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第X章 きみのたたかいのうた ―後編―


 ――ぴちゃん、ぴちゃん
 静寂に包まれた空間の中で、どこからか聞こえる水音が大きく響く。
 空間を支配する音はそれともう一つだけ。リアノの震えるような吐息。対して目の前に立っている乙女からは呼吸音は聞こえない。
 それも当たり前だった。彼女は永遠神剣。人に在らざる者ならば、なるほど、呼吸などはすまい。
 ウェディングドレスにも似た純白の衣装を身に纏い、それに負けぬほど白い髪を腰まで垂らす清廉なる乙女。
 彼女の名を『福音』といった。己が形質を自由自在に変質する非形質固定型永遠神剣にして光を司るもの。リアノを主とする高位永遠神剣である。
 そんな彼女は、しかしほんの少し悲しそうな顔をしながら、リアノを見ていた。
 だがリアノには何故彼女がそんな顔をしているのかが分からない。何が彼女を悲しませているのだろう?
 ――あぁ、そうか。
 そんなことは、考えるまでもなかった。
 リアノが戦うことを放棄したから。『福音』と共に歩くことを拒絶したから。それがきっと、彼女には悲しかったのだ。
 それは分かった……けれど。
 分かったところで、リアノにはどうしようもなかった。
 だってもう、リアノは戦うことなどできはしない。『福音』の望みをかなえることもできない。
 ただ彼女にできることは、『諦める』ことだけだった。
「『福音』」
 伏せていた顔を上げ、リアノが呟く。
「私ね、もう駄目なの」
 それはまるで、泣き笑いのような表情だった。
 いや、笑いにすらなってはいない。そこには何の人間らしい感情もなかった。あるのは諦観と、それよりもなお強い虚無ばかりである。
 こんなリアノの表情は初めて見る。故郷の村が焼き払われた時も彼女は歯を食いしばって、それでも前を向いていたというのに。
「戦えない。戦いたくない……もう、嫌なの。傷つくのも、傷つけるのも」
 戦うことなんて大嫌いだった。
 誰かを傷つけて、血にまみれて。殺して、殺されて。憎んで、憎まれて、また殺して。
 何も生み出さず、何も癒されない。そんなことを限りない悠久の間、リアノはずっと繰り返してきた。
 もう嫌だ。戦いたくなんかない。イリスとならば尚更だ。
「……ごめん、『福音』」
 その瞬間、確かにリアノは……
 『福音』を、拒絶した。
「………」
 『福音』は何も言わない。そしてリアノも何も言わなかった。二人の間を、ただ鋭い静寂のみが訪れる。
 ……その静寂を破ったのは、意外にも『福音』だった。
「分かりました」
 彼女は顔を上げて、リアノを見据えた。
 空色の瞳が、彼女を怖いくらいにまっすぐに捉える。
「――泣き言は、それで終わりですか?」


 ぱぁん、という乾いた音が響いた。


「え………」
 次の瞬間、リアノの右頬に訪れる鈍い痛み。
 ……それはあまりにも予想外の出来事過ぎて。
 彼女は『福音』に頬を張られたのだということに、すぐには気づかない。
「甘ったれるのもいい加減にしなさい、リアノ」
 呆然とするリアノに、『福音』は右手を下ろすこともせずに言い放った。今までの慈愛に満ちたものではなく、鋭さすらも感じられる声で。
「いつまで逃げているつもりですか?背負った想いから逃げ続けて、貴女は何処へ行こうとしているんですか?」
 そして、彼女は言った。
「戦わなければ……貴女は何も取り戻せないんじゃないですか?」
「〜〜〜〜っ!!」
 リアノの瞳に、じわっと涙が浮かぶ。
 ――それはまるで限界まで膨れ上がった水風船のように。
 せき止められた感情は行き場をなくし。
 ……そして、爆発する。
「知ったようなこと言わないでっ!!」
 涙が、零れ落ちる。
 一粒落ちてしまえば後は止めようがなかった。まるでこの数え切れない悠久の中で押し殺してきた分のように、涙が後から後から止まらない。
 ――ぴちゃん、ぴちゃん。
 水滴が落ちるような音。それはまるでリアノの涙のようで。
「あなたは大切な人を失ったことがある!?大事に守っていたものを踏みにじられて、めちゃくちゃにされたことがあるっ!?」
 守りたい人がいた。
 それでも、守れない人がいた。
 親しかった友人。
 同じ村に住む人々。
 たった一人の肉親。
 そして、イリス……
 今のこの刹那に至ってリアノは全てを失ってしまった。もう取り戻せはしない。
 ――それでも、戦えというのか。
「あなたはまだ戦えって言うの!?この手でイリスを斬れっていうの!?」
 そんなの……
「そんなの……できるわけ、ないじゃない……」
 終に、力が抜けた。
 へたり込んだ格好のまま、リアノは顔を覆って泣きじゃくる。こうなってしまうともう終わりだった。もはや立ち上がることも、ましてや戦うことなどできるはずがない。
 悲しくて、苦しくて。
 理不尽な怒りを『福音』にぶつけてしまう自分が情けなくて、また涙が流れてしまう。
 でも……そうだ。もう自分は戦うことなどできはしない。
元からリアノは世界を救うとか、理不尽な悪が許せないとか言う理由の為に戦っていた訳ではなかった。たった一つ残されていた、イリスという希望にしがみついていただけなのだ。それだけがリアノの戦う唯一の理由だったのだ。
 それが破れてしまった今、リアノの手の中には剣はない。ここにいるのは『混沌の五覇』ではなく、ただ傷つき、打ち捨てられた少女だけである。
 ――もう……嫌だよ……
 傷つけるのも、傷つけられるのも。
 殺されるのも……殺すのも。
「もう……放っておいて……」
 枯れそうな声で、リアノは呟く。
「勝手なこと言わないで……消えさせて……私のことなんて、何も……」

「知ってますよ」
 
 リアノの言葉を、『福音』が遮った。
 優しくも温かくもない。だがしかし力強い声で。
「え……」
 驚きに手を下ろし、リアノは潤む瞳で『福音』を見つめる。
 『福音』もまた彼女を見つめていた。空のように蒼い瞳に自分の姿が映りこむ。
 ……きっと、『福音』はリアノが目を覆っていた時も彼女だけを見つめ続けていたのだろう、とリアノはふと思った。目を背けることも、見捨てることもなく。
 彼女はリアノの、神剣だから。
「貴女の苦しみとか、しがらみとか、絶望とか……戦うことへの恐怖とか、葛藤とか、あの青年への想いだとか。貴女のことなら、何でも知っています」
 静かに胸に手を添えて、『福音』は呟く。
「私は、貴女の神剣ですから」
 神剣。
 契約者と生死を、運命を、感情すらも共にするもの。
「だから私は、今貴女がどれだけ傷つき、絶望しているかも知っています」
「だったら……!!」
「でも」
 『福音』はリアノの声を妨げるように強く告げた。
「でも……だからこそ私は言うんです。『立ち上がりなさい』と」
 リアノが戦ってきた過去を無駄にする訳にはいかないから。
 震える手を押えつけ、血にまみれた剣を振るい続けてきた彼女の想いを尊いと思うから。
 ……だから、希望がついえてもいないのに彼女を諦めさせることはできない。断じて。
 瞳を潤ませて見上げるリアノに、『福音』はやんわりと微笑みかけた。
「……失ってしまったなんて、どうして言えるんです?」
 大切なものとか、守りたいものだとか。
 確かに失ってしまったものもあるだろうけど、全てを失ってしまったわけではない。
「トキミもトワもルーネットも、エスペリアもユウトも……貴女を支えてくれる人は、こんなにもたくさんいます。それに……あの青年だって」
 彼はロウ・エターナルになってしまったけれども、神剣に心を飲まれてしまったわけではない。
 彼を取り戻す手立てはあるのだ……まだ。
 『福音』の温かな手がリアノの頬に触れる。
 冷たいリアノの頬が、熱を帯びていく。
「貴女の誇りを取り戻して。貴女はまだ戦える。……諦めるなんて、貴女らしくないです」
「……『福音』……」
 『福音』の言葉一つ一つがリアノの心を揺さぶり、補完していく。
 彼女は頷き、そして言った。
「貴女の剣は、ここにあります。私は貴女の剣となり、貴女を守ります」
 
 『リアニール・フォーリングスノゥ。貴女を私、『福音』の主として認めます。私は貴女の剣となり、この身が折れるまで貴女を守り続けましょう』

 それは、契約を交わした際に『福音』が言った言葉。
 その祝詞を結んでから『福音』は、契約どおりにリアノを守り続けてくれた。
 襲い掛かるロウ・エターナルから。
 そして、何度もリアノの心を砕こうとする絶望から……
 全てを投げ出したくなった時も、寂しさに囚われた時も。気がつけば『福音』が傍にいてくれた。守っていてくれた。
 ――独りなどでは、なかった。
 こんなに大切なことを、どうして忘れてしまっていたのだろう。彼女はこんなにも、傍にいてくれたのに。
「……『福音』」
 呟くリアノの瞳から、また涙が零れ落ちる。
 ……でも、涙はこれで終わりだ。
 まだ涙は尽きた訳ではないし、悲しみも同じことだけど。
 今のリアノには為さなければならないことがあると分かったから。
 ――泣いている場合では、ない。
「ごめん。私、どうかしてた」
 リアノは涙をぬぐって呟いた。
 本当に自分らしくない。どれだけ打ちのめされても立ち上がる――それが『福音』のリアノのスタイルだというのに。
 失われた全てを取り戻すために、戦わなくては、ならないというのに。
「大丈夫。もう迷わない……戦ってやるわ。全てを取り戻すまで」
 ……例えどんな悲しみが待っていようとも、それでも戦う。歯を食いしばって、拳を握り締めて戦ってやる。
 それはリアノの、復活宣言だった。
「……ふぅ」
 それを見て、『福音』が安堵にも似たため息を漏らす。ほっとしたような疲れたような、そんな表情を浮かべた。
 自分の役目を全うした達成感のようにも見える。
「本当に世話の焼ける人ですね、貴女は」
 『福音』が一人ごちる。まったくな話だった。今までにどれだけ彼女に迷惑をかけてきたことか。
「そうね。私、あなたに迷惑かけてばっかりで……」
「本当です。意地っ張りで負けず嫌いで、そのくせ脆くて。こんなに扱いづらい契約者は初めてでした」
 彼女の言葉に、リアノは微笑みかけようとする。
 だが、それは敵わなかった。突然、胸をずきんとした痛みに襲われたからである。
 その痛みの正体は、違和感。

 何かが違う。
 それに気づかなければならない。
 気づかなければ……何か取り返しのつかないことが起こる。

 それは分かるのに、何が違うのかが分からない。
「でも……」 
 リアノを見つめながら、『福音』は呟いた。


「貴女といた日々は……ちっとも、退屈しませんでした……」


 ふとリアノは気づく。彼女の胸を苛んでいた違和感の片鱗に。
 微笑を湛えている『福音』の顔が、しかし悲しそうに歪んでいることに。
「え……?」
 『福音』。
 どうしてあなたはそんなに悲しそうなの?
 それにどうして『でした』なんて過去形で言うの?
 知らずに速くなっていく鼓動。それを抑えようと、リアノは知らずに胸を掴む。
 膨れ上がっていく嫌な予感を否定したくてたまらない。だって嫌な予感は嫌な現実を引き寄せるものだから。
「何、言って……」
 ――あなたはこれからも、私と一緒にいてくれるんでしょう?
 笑えないわよ?
 これじゃ、まるで……
「何、遺言みたいなこと言ってるのよ……?」
 『福音』は答えない。
 ただ、寂しそうに笑って言った。
「貴女とは、此処でお別れです」
「っ……!?」
 リアノが息を呑む音が、いやに大きく空間内に響く。
 お別れ?
 どうして私が『福音』と別れなきゃいけないの?
 そんなの……
「訳分かんないわよっ!」
 思わず、リアノは叫んでいた。
 あんなに身近にいると思っていた『福音』の心が今では分からなかった。
 情けない自分に愛想を尽かしてしまったのだろうか。それならば良い。だが、『福音』の口調は明らかにそうではなくて。
「あ……」
 そして彼女は気づく。この訳の分からない不安の正体が既視感だったことに。
 ――私、前にもこんなこと思ったことある……?

 ぴちゃん

 もはや何度目になるかも分からない水音が、空間内に響く。
 ――否。
 これは水音などでは、ない。
 微かに粘っこく不快感すら感じるこの音は、戦場に立つリアノが最も聞きなれたこの音は……

 血

「あぁっ……」
 震える手を口元に運ぶ。
 今までどうして気づかなかったのか。冷静になってみればこんなにも明らかであるというのに。
 僅かにだが、確かに震えている吐息も。
 血の気を失った頬が白を通り越して青白くなっているのも。
「ふく……いん……?あなた、まさか……!?」

「…………」

 『福音』は少し目を伏せると、くるりと振り返った。
 白いスカートがふわりと揺れる。それは場の緊張に似つきもしもしない、愛らしい仕草。
 だが……
「ぁ……っ」
 リアノは息を呑み、そしてその口を押さえる。そこに最悪の光景が広がっていたが故に。

  ――白から、紅へ。

 『福音』の背中には、まるでペンキでもぶちまけられたように紅い液体がべっとりと付着していた。それは今もなお滴り落ちており、ぴちゃん、ぴちゃんと音を立てて背中から地面へと落下する。
 いや……最初から彼女には背中などありはしない。かつてそうだったものはざっくりと切り刻まれ、骨さえも覗いている。
 並みの精神の持ち主ならば三秒と制止していられないようなその傷は、確かに見覚えがあった。
 深い深い、平行して何本も付けられている傷跡。こんなに鋭利な、残酷な凶器は他にはありはしない。そう。それはまるで……

 『断罪者』の、爪。

「〜〜〜っ!」
 頭が、真っ白に染められる。
 これは……私がつけた、傷?
 でも、今の今まで、『福音』はそんなそぶりすら見せなくて。
 痛みだって並みのものではなかったはずなのに。
 私の為に?
 私に罪の意識を背負わせないために、彼女は耐え続けていた――?

「――少し、長居をしすぎてしまったようです」

 空白になるリアノの意識を、その声が呼び戻した。
 我に返って視線を前に戻す。その視線を優しく受け止め、『福音』は微かに笑った。
 ――気にしないで下さい。貴女は、悪くなんてありませんから……
 まるで、そうリアノを諭すように。
 そして、彼女は足を踏み出した。一歩、また一歩と歩いていく……リアノに背を向けたままで。
 傷だらけの背中が遠ざかっていく。その度に傷口から滴る血が、微かな光となって虚空へと消えていく。
 否、それだけではなかった。よく見ると彼女の指先も徐々に光となって消えていっている。
 それは、つまり彼女の末路。
 遠くない将来、いや、ひょっとしたら数秒後にも彼女は……
「『福音』ッ!!」
「………」
 リアノの叫びに、ぴくんと彼女の足が止まった。
 その足が微かに震える。
 さらりと白い髪をなびかせて、彼女が振り返った。
 その瞳は熱く潤み、今にも雫が零れ落ちそうになっていた。
 それでも彼女はその顔を無理やり笑顔に変えて。

「溺れて立ち止まらないで。道は見えているから……その道を、まっすぐに進んで……」

 けれど。
 そこまでが限界だった。その言葉を紡いだ途端、『福音』の目から大粒の涙が零れ落ちていく。
 ……ぽろぽろ。ぽろぽろ。

「私はずっと貴女の傍にいるから……例え心をなくしてしまっても、ずっとずっと貴女の傍にいるから……っ!!」

 『福音』の瞳から零れていく涙。しかしそれさえも、光となって溶けていく。
 融けていく。熔けていく……
「――っ!!」
 リアノは思わず立ち上がっていた。
 思考も何もありはしない。ただ『福音』を繋ぎ止めていたい一心で彼女は手を伸ばす。
 でも……
 伸ばされた手が届くよりも、ほんの一瞬だけ早く。
 『福音』は確かに、最期の笑みを浮かべた。
「私、は……」









             ――……貴女の神剣で、よかった……――









 瞬間、彼女は
 彼女の体は
 温かな
 本当に温かな笑みだけを残して

 ぱぁっと、光になって散った

「あ……あぁっ……」

 空を掴むリアノの手
 確かに触れる『福音』の温もり
 でも、それはただの残滓
 それはただの思い出
 彼女が確かにそこにいたのだという証明にしか過ぎなくて
 彼女の存在では、決してなくて

「あぁ……、あ、ああぁぁ……」

 リアノの瞳から悔恨の涙が零れ落ちる
 もう少し
 もう少し自分が早く立ち上がっていれば
 彼女を繋ぎ止めておくことが出来たかも知れないのに

「あああああああぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!」



 リアノの絶叫が、限りなく空虚な空間の中を木霊した。



<ハイペリア・廃ビルの屋上――8月5日・PM3:52>

 失ってしまった。
 あんなにも、大事だったものを。
 意識が戻ってもなお、リアノは立ち上がることができないでいた。
「………っ………」
 震える手で手の中にある短槍を撫でる。神剣反応もマナも、ちゃんと失われることなくそこにある。
 ただ、声だけがない。
 たったそれだけの――しかし、絶対的な違い。
 その意味は、リアノにはとても重過ぎて……
 彼女は叫びに喉を枯らす事も、涙で頬を濡らすこともできない。
 ――福……音……
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 何がこんなに残酷な運命を作ったと言うのだろう。
 ――……あいつの、せいだ。
 心の中に巣くう『断罪者』が呻いた。
 ゴシックロリータのドレスに身を包む魔女。
 『光姫』のミルディーヌ。
 あいつさえ現れなければここで戦闘になることもなく、『福音』の自我に負担をかけることもなかった。
 あいつさえ現れなければ……『福音』が死ぬこともなかった。
 憎い。
 『福音』を殺したあいつが憎い。
 壊せ。
 壊せ、壊せ、壊せ、壊せ、壊せ!!



「――戯れるな」



 ぐしゃり。
 リアノの拳が、思いっきりモルタルの床に叩きつけられた。
 鈍い音がして拳から血が迸る。骨にまで亀裂が入ったのか、瞬く間に鈍痛がリアノの体の中を駆け抜けた。
 それでも。『福音』が死んでしまった時の千分の一も痛みは感じない。
「逃げるな……卑怯者……っ!!」
 『多段変質』の傷を負いながらもリアノの精神に自身を投影するという無茶をすれば、すぐに自我は砕け散ってしまう。そのことを知りながらも、『福音』はそうせざるを得なかった。リアノが、戦うことから逃げてしまっていたから。
 『福音』を濫用したときだって同じだ。リアノが自分の感情を制御できていれば『福音』を濫用することもなく、彼女の自我に大きな傷を刻む事だってなかったのだ。
 ――全部……私が、弱かったから……っ!
 『福音』を殺したのは、自分だ。
 その上また彼女を濫用し、辱めようというのか。
 ふざけるな。
 次は何に己の弱さを許す気だ。
 リアノは強く、強く唇を噛み締める。
 『『福音』の名を名乗るならばもう少し強くなってもらわなければ困りますよ、リアノ?』
 脳裏によみがえる、『福音』の声。
 そうだ。
 こんなに弱い自分でも、彼女は選んでくれたのだ。
 今までの契約者とは比べ物にならないほど弱い自分を。
 後悔したこともあっただろう。見限ろうとしたこともあったに違いない。
 それでも、助けてくれたのだ。
 温かく見守ってくれたのだ。
 剣となって戦ってくれたのだ。
 応えなければならない。
 誰にでもない。自分にですらない。
 ただ、自分に福音をくれた彼女のために。
「………っ!!」
 全身に力を込める。駆け抜ける激痛。
 だがしかしそれはただの感覚であり、リアノを止める枷にはなりはしない。
 歯を食いしばれ。
 拳を握り締めろ。
 今しなければならないのは、絶望に打ちひしがれることではない。
 立ち上がれ。
 立ち上がれ。
「立ち上がれ……『福音』のリアノッッ!!」
 その言葉に後押しされるように、リアノはゆらりと立ち上がった。
 ……呼吸が、荒い。ミルディーヌの蹴りは内臓まで傷つけているのか、立ち上がっただけで息がつまり、激痛が走る。
 しかしリアノは揺るがない。
 ただ、短槍に両手を添えて、一言、呟いた。

「――変質、せよ」

 ぐにゃり。その言葉に『福音』は応え、ぐにゃりと二つに分かれる。右手と左手に収まる、『福音』の温もり。
 それぞれの手の中で、二つの『福音』はそれぞれの変質を遂げた。右手に握られるは、鈍色の光を放つ回転式拳銃。
 そして――左手に握られるは、金色の光を放つ一発の弾丸。
「……銃弾、ですの!?」
 ミルディーヌの驚愕をよそにリアノの手は素早く動き、回転式拳銃に金の銃弾を装填する。回転倉にたった一発の弾丸を押し込み、撃鉄を落とすまで0.5秒。
 ミルディーヌに狙いを付けるまで、1秒もかからない。
 ――征くよ……『福音』。
「第三級特殊攻撃技能・改」
 厳かに呟くリアノの髪を、湿気を孕んだ風がさらう。
 永劫の刹那。その間隙を、静寂を、迷いを打ち破るようにして。


               「『バルムンク・フォース』」

 
 『福音』のリアノは、引き金を引いた。

                    *

 奔る。
 金の弾丸が極光を纏いながら、己が敵へと迫る。
 その威圧感は、迸るオーラフォトンの量は『バルムンク』の比ではない。廃ビルの床を根こそぎ吹き飛ばして、今まさに凶悪な光はミルディーヌへと食らいつこうとしていた。
 ――まさか『福音』そのものにオーラフォトンを纏わせて放つなんて……っ!
 『バルムンク』はオーラフォトンに方向性を持たせて射出しただけの、言わば垂れ流しの力に過ぎない。不定形であるが故に力が他方向に分散してしまい、受け止めることも受け流すことも容易である。
 しかし、そこに核が与えられてしまえば話は別だ。オーラフォトンを核たる『福音』に纏わせることで力が分散することなく一点に集中し、その分突貫力が増す。同じ力を込めるにしても、槍と金属棒では全く突貫力が違うのと同じ原理である。
 ミルディーヌは、悟った。
 この弾丸を――『バルムンク・フォース』を先程と同じ攻撃と侮ってはならない。
 ほんの一瞬でも気を抜けば、その時点で自分はマナの塵となる。
「『光姫』っ!!」
 とっさに彼女は『光姫』を交差させて突き出し、シールドを展開する。銀色のオーラフォトンが膨れ上がり、瞬時に彼女を守る楯となった。
 金の弾丸と、銀の楯。
 二つの光は壊すために、守るために真っ向から激突する――!
「くぅぅぅぅっ!?」
 その瞬間、大地に激震が走った。
 突き出した腕に痺れるような痛みを感じる間もなく、突き上げるような揺れに耐えるためにミルディーヌは必死に足に力を込める。
 リアノの『バルムンク・フォース』とミルディーヌのシールドは、ミルディーヌのやや手前と言った所でせめぎあっていた。床は彼女の護りに守護されているところ以外消し飛び、さらに余波は見えない刃となって彼女のスカートをずたずたに引き裂く。
 苦痛に、ミルディーヌの美しい顔が歪んだ。
「っ……消えなさいっ!!」
 ミルディーヌの裂帛とともにシールドは輝きを増し、大きさを倍増させた。瞬間、大きな爆発を起こして二つの光が消え去る。
 相殺。
 だがしかし、彼女に安堵している暇などない。
 『バルムンク』と『バルムンク・フォース』を一発ずつ。今のリアノには、もはや長射程武器を放つ余力はないはずだ。
 必ずや追撃が……来る!

「はぁぁぁぁっ!!」

 ミルディーヌが振り仰いだ時にはもう、リアノは彼女に肉薄していた。中空に静止する弾丸を銃を持っていない手で掴みとり、叫ぶ。
「変質せよっ!!」
 短槍に変質するまでに、わずかなタイムラグ。
 やはりこれは、『福音』の自我がなくなってしまったことによるものなのか。自動式拳銃と弾丸という形を失ってから短槍の形を形成するまでの時間が、ほんの多少ではあるが長くなっている。
 接近戦においてその時間は大きい。完全に不意をつかれたはずのミルディーヌは短槍による刺突を察知し……
 ……だがしかし次の瞬間、驚愕に目を見開いた。
 ――避け切れない!?

 繰り出される第一撃。
 この攻撃をミルディーヌは初めて『光姫』で受けざるを得なくなった。
 リアノの刺突を横から弾くようにしての一閃。
 ――オーラフォトンの火花が、散る。

「……くっ!」
 『光姫』は円輪型のために、本来受けには向いていない。舞のステップを用いてよけに徹していたのもその為である。
 それでも受けざるを得なかったのは、リアノの攻撃を避けられないと瞬時に判断したからだった。
 リアノの動きは依然単調なままだ。先読みだってできる。
 だがしかし、先程とは比べ物にならないほど速くなっているのだ――そう、動きを読んでも避けるのが間に合わないくらいに。
 ――今まで余力を残していたとでも言いますの!?
 いや、違う。
 『福音』の死によって、リアノの力が完全に解放されたのだ。
 リアノとミルディーヌの戦闘スタイルは対極にある。ミルディーヌが相手の動きを見極めて攻撃を繰り出す『静』のタイプだとすれば、リアノはとにかく相手を攻め立てる『動』のタイプだ。
 ならば彼女が真に力を発揮する時は、激情に駆られたとき以外にない。
 リアノはいなされた刺突を引き戻すことなく、横薙ぎの一閃に転じる。
 ……今度も。ミルディーヌはリアノの攻撃を避けることはできない。

 繰り出される第二撃。
 首へと迫る刃を受け止める『光姫』に衝撃が走る。
 彼女の斬撃は鋭く、そして重い。
 ――オーラフォトンの火花が、散る。

 あまりの速さであるが故に、逆にスローモーションで時が流れているような感覚。
 その一種超常時間とも呼べる時の中で、ミルディーヌは冷静に思考の糸を紡いでいた。
 ――動きに呑まれていては、あちらの思う壺ですわ……!
 確かにリアノの動きは速い。短槍による連撃も十分な脅威だ。
 しかしそれを恐れて攻めあぐねていれば、ミルディーヌに勝機は、ない。
 ――リズムは変わらない。ただ速さが変わっただけ。なら、動きにさえ気をつければ……!
 槍はその形状から刺突に重点を置かれがちだが、その真価は薙ぎ払いにこそある。刺突が軽くいなされたのなら再度突きを食らわせてやればいいし、大きく弾かれたのなら引き戻す勢いを利用して斬撃を放てばよい。
 その恐るべき連続攻撃は、完全に勢いを殺してしまわない限り止らない。受けに向いていない円輪ではそれは不可能だ。
 ならば。
「はっ!!」
 ミルディーヌは再び放たれるリアノの斬撃に合わせて円輪を振るう。

 繰り出される第三撃。
 ぎりぎりで大きく弾かれた刃先が、ミルディーヌの頬を掠める。
 切り裂かれた頬から舞う、赤い鮮血。
 ――オーラフォトンの火花が、散る。

 渾身の力を込めて振るった円輪は、槍の刃先を大きく弾く。まるでリアノの手を中心に刃先に円を描かせるように。
 そしてその瞬間、ミルディーヌは大きく一歩を踏み込んでいた。槍を弾いた右はそのままに、左手に残っていた円輪を突き出す。
 ――これで……っ!!
 大きく弾かれた刃先を引き戻す間に、リアノにはほんの僅かなタイムラグが発生するはずだ。ならば防御と攻撃を同時に行ったミルディーヌの速さに敵うはずがない。
 いかにリアノが素早く引き戻そうとも、このタイミングでならば確実にリアノを捉えられる!
 ミルディーヌは、勝利を確信した。
 しかし。
「………っ!?」
 彼女の目が捉えるは、全く予想だにしていなかった光景。
 リアノは刃先を引き戻さなかった。
 いや、むしろ弾かれた勢いに任せるかのように槍を半回転させたのだ。
 後方に向けられる刃先。つまりミルディーヌに向けられているのはその対極。流れるような動きで突き出されたのは、刃先ではなく……

 ――石突、ですのっ!?

 ミルディーヌはほぞを噛んだ。ミルディーヌの攻撃が咲きに届くのはあくまで槍の刃先を引き戻す隙が発生した場合のみだ。リアノの攻撃はミルディーヌのそれよりも遥かに速く、同時に攻撃を放つとなると確実にリアノの方が先に着弾する。
 これでは、タイムラグは発生しない。
 コンマ1秒、リアノの攻撃の方が速い……!

 そして、繰り出される第四撃。
 今度こそ――オーラフォトンの火花は飛び散らない!!

 攻撃に全精力を傾けていたミルディーヌに、避けられるはずもなく。
 リアノの攻撃はミルディーヌの鳩尾を打ち据え、そして先程の戦闘の再現のように彼女の軽い体を吹き飛ばした。
  

                    †


 少女の濡れた体に毛布をかけて、ホットミルクを淹れてやって。
 その次に青年がしたことは、目を丸くして驚くことだった。
「名前……ないの?」
 少女はホットミルクの入ったマグカップを両手で抱えて、こくこくと頷く。
 青年――確か、イリスと名乗った――が言ったとおり確かに彼の家は温かかったが、少女の体は芯の芯から冷え切っており、体はまだ小刻みに震えていた。濡れたドレスはとっくに暖炉の上で乾かされており、今の彼女はイリスから渡されたシャツだけを羽織っている。
 扇情的といえば扇情的な格好ではあるが、しかしイリスという青年は全く意に介していないらしく、ただただ別の要因において「う〜ん……」と唸っていた。
 イリスが頭を悩ませているのは、少女の名前がないことである。
 元々イリスは少女のことを君としか呼んでいなかったのだから名前がなくても困らないのだが、しかし思わず顔をしかめずにはいられない。名前のない人生と言うのは、一体どのようなものだったのだろう。
「不便じゃなかった?」
「……別に」
 そっけない、少女の声。
 彼女はホットミルクを上品に一口すすると、「便宜上の名前だけならありましたの」と言った。
「識別番号と同じですわ。無いと不便だから付けただけの……とても無機質な名前」
「……なんて名前だったんだい?」
 もしかしたら、それは聞いてはいけないことだったのかもしれないけれど。
 気がついた時には、イリスはそう尋ねていた。好奇心からではない。この家に連れてきて、彼女に関わった以上、どうしても自分は知っておかなければならないことだと思ったからだった。
「…………」
 少女はしばらくの間目を伏せていたが、ややあって、ぽつりと呟いた。
「『フィロ』ですわ」
「……そっか」
 イリスにはそうとしか応えられなかった。
 『フィロ』。この世界で『6』を表す言葉。
 すなわち、6番目の娼婦。
 6番目にやってきた商品。
 だから、『フィロ』。
 ……思った以上に、彼女が過ごしていた環境は劣悪だったらしい。否、こんな表現も生温いだろう。彼女に言わせれば、地獄か。
 なるほど。少女が逃げ出してくるのも、至極当然のことであった。
 ――本当に。辛い目にあってきたんだな、彼女……
「軽蔑、なさいます?」
 唐突に、少女が尋ねてきた。
「……え?」
 いきなりの質問に面食らってしまい、イリスはまじまじと少女を見る。
 少女はじっとイリスを見上げていた。一直線に、睨みつけるように……しかしそれでいて、すがるような目つきで。
「私は何人もの殿方に抱かれてきましたの。愛もなく、温もりもなく、ただ生きるためにというだけで」
「それは――」
 仕方のないことだ、と言いかけてイリスはその口をつぐんだ。
 ……マグカップを持つ手が震えている。それはきっと、寒さのせいではないのだろう。
 少女は否定されることを望んでいるのだろうか?
 本当は、責めて欲しいのではないだろうか?
 しかし、そうだとしてもイリスはその願いに応える訳にはいかない。
「私は、汚れてますの」
「――違うよ」
 少女の言葉を、イリスはきっぱりと否定する。
 ……少女は、肯定しか知らない。肯定しか許されない環境で生きざるを得なかったのだ。
 だから自分が否定しなければ、少女は何も否定できない。少女の過去も、少女自身に与えられた存在意義も。
「君は汚れてなんか、いない」
「……どうして、言い切れるんですの?」
 少女の目が、ほんの少し険しくなった。
「貴方は私の何を知っていまして?貴方は……私の何を信じられると言うんですの?」
 まくしたてる、という口調ではなかった。ただ、冷たい芯のこもった声で少女は告げる。
 ――何を信じられる、か。
 そう言われると何も信じられはしなかった。だってイリスは、少女の過去など何も知りはしない。今日会ったばかりの、赤の他人にすぎない。
 でも、何故か信じていたかった。
 少女自身ですら信じられない、少女のことを。
「……分かりました」
 イリスをしばらくの間じっと見据えていた少女が、ぽつりとそう呟いた。マグカップをことりと置く。
 分かったって何を、とイリスが言うよりも早く、少女は妖艶に笑った。

「私を『信じられなく』して差し上げますわ」

「何を……っ!?」
 イリスの言葉は最後までは響かなかった。発しようとした瞬間に出口を塞がれ、彼の声は途中で閉ざされてしまう。
 イリスの言葉を奪ったのは少女の突然のくちづけだった。
 身を乗り出してきた少女が、何の前触れもなくイリスの唇を奪ったのだ。
「はぁ……ん……ちゅっ」
「〜〜〜っ!?」
 少女の舌は驚愕するイリスの唇を割り、口腔を蹂躙する。イリスの舌を無理やり絡めとり、執拗に吸いたてる。
 それは少女の幼さの残る姿からは想像もできないほどの濃厚な愛撫だった。
「……ちゅ、ん……ぷはぁ」
 やがて、少女は唇を離した。それと一緒に唾液が銀色の橋を作り、すぐに途切れる。
 それと同時に、少女はイリスを押し倒した。
「どうして、こんな……」
 呆然と呟くイリスに、少女は妖艶な笑顔を作って、言った。
「言いましたわよ?私は汚れていると。……こういうのが大好きなんですの、私は」
 自嘲の言葉を吐きながら、しかしその笑顔は崩さない。まるでそれが、作られた彼女の仮面であるかのように。
 彼女の白い手が、イリスのシャツにかかった。
「殿方を喜ばせる方法は熟知しておりますわ……今は私に、全てをゆだねてくださいませ」
 そう言って、少女は一つずつボタンを外していく。……ぎこちない手つきで。
 その様をイリスは、悲しそうに見ていた。
 こういうのが好き?
 違うよ。君はそう思いたいだけだ。
 だって。もしそうなら――
 ――どうして、君の手は震えているんだい?
 それは少女が、心の底では誰かと関係を持つことを否定しているから以外にない。
 でも……それならば何故彼女は、このように振舞っているのだろう?
「……そうか」
 それまで為されるままになっていたイリスが、ポツリと呟いた。
 それに刺激されたように、服のボタンに手をかけていた少女の手がぴくりと震えて止まる。……いや、止まってはいない。彼女の手を苛む震えは止まることなく、今も彼女を責め立てている。
 それは彼女の心だ。とても不安定で、今もなお振り子のように揺れている。
「君は、こんな生き方しか知らなかったんだね」
 誰が教えたのかは知らないけれど、とても不器用で、残酷で……それが違うと分かっていても、その生き方を変えることができなかった。
 なんて酷いことをするのだろう。
 人は教えられたことだけしかできないというのに。
『死んだって、構いませんの』
『私は、モノに過ぎないのですから』
 少女の言葉が、イリスの脳裏をかすめる。
 今までこの少女はどれだけ傷ついてきたのだろう。逃げ出したいと思った事だって一度や二度ではなかったはずだ。
 それでも、少女は耐えてきたのだ。
 血が出るほど唇を噛み締めて……
 自分は彼女に何ができるのだろう。
 彼女を癒してやることができるだろうか。
 そんなことは分からない。
 でも、気づいた時にはイリスは彼女に微笑みかけていた。彼女を傷つけないように優しく、温かく。
「でも……もう、そんなことをする必要はないんだよ」
 呟いて、イリスは彼女を静かに抱き寄せた。呆けたようにイリスを見つめていた少女は、いとも簡単に彼の胸に身を寄せる形となる。
「ぁ……」
 少女の震えが全身へと伝わっていく。しかしそれは恐れから来るものではないとイリスは知っていた。
 彼は手を少女の頭にやると、綺麗な銀髪をくしゃくしゃっと撫でてやった。
「今まで、よくがんばったね」
 それが、合図になった。
「ぁ……ぅ……」
 少女の目がじわりと潤む。
 それは、目を閉じた瞬間に押し出されるように零れ落ちた。銀色の雫が一滴、イリスの胸に染み込む。
 それは、少女の涙。
 長い間溜め込まれていたであろうそれは一粒、また一粒と瞬く間にイリスの胸を濡らしていく。
 ――泣いたって、いいんだ。
 少女はそれを、ずっと我慢してきたのだから。
「ぁう……えぐっ……!」
 イリスの胸板に顔を埋めるようにして、少女は泣きじゃくる。まるで張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまったように。
 ……当たり前だ。彼女はただの少女に過ぎないのだから。
 強くなんかない。支えてくれる仲間もいない。
 傷だらけになって、血まみれになって、彼女はどれだけ歩いてきたのだろう。
 ――僕にこんなこと思う資格、あるのか分からないけど。
 もし、許されるならば。
 この傷ついて折れそうになっている心を、守っていたいと想った……

「……私は……汚れてますの……」
 少女は呟く。
「違う。本当に汚れている人間なら、涙なんか流さない」
 イリスは否定する。
 少女の過去を。

「私は……これでしか生きられないんですの……」
 少女は嗚咽する。
「違う。君はそれしか知らなかっただけだ」
 イリスは否定する。
 少女の偽りの存在意義を。

「私は……未来なんかないんですの……」
 少女は自嘲する。
「違う。君が生きている限りそんなこと、ない」
 イリスは否定する。
 少女を縛る絶望を。

「……私は」
 少女は問いかける。顔を上げて、イリスの瞳をじっと見つめて。
「私は……ずっとここに、いてもいいんですの……?」
 そしてイリスは肯定した。少女を抱きしめる手に力を込めて。
 少女の、新しい存在意義を――

「――当たり前だ」

                     

 少女は生まれて初めて、穏やかなまどろみの中にいた。
 男に抱きしめられるのは初めてではなかったが、性交渉を結んでいない男に抱きしめられたのは初めてだった。恐れがあり、戸惑いがあった……だがしかし、それよりもなお強い安らぎがあった。
 何故だろう。
 今まではこんなこと感じなかったのに。
 少女はイリスのシャツをきゅっと握り締める。微かに紅潮した手で。
 そして……何だろう。この胸の鼓動は。
 どきどきして、ざわざわして――それでいて温かな感情。
 これが、愛というものなのだろうか?
 なら……と少女はイリスの胸に頬を寄せて、想う。
 愛というのもきっと、悪くはない――
「――ミルディーヌ」
 ふと、イリスが呟いた。
 胡乱げに少女は顔を上げる。初めて聞く奇妙な言葉の意味を尋ねるようにして、彼女は首を傾げた。
「何ですの?それ」
「僕の故郷に咲く花の名前だよ」
 イリスは笑って、少女の問いに答えた。
「強い花でね……例え雪の中でも決して枯れることなく、芽を出すんだ。冬の間じっと耐えて、そして春に白い花を咲かせる。小さいけど、美しい花をね」
 故郷を懐かしむように、イリスは目を細める。
 雪の代わりに地を覆う、白いミルディーヌの花。それはきっと、とても美しい光景に違いない。
 少女はそう、見たこともない光景を夢想する。
「君の名前にぴったりだと思うんだけど、どうかな?」
「………」
 ミルディーヌ。
 少女は己に与えられた名を、心の中で反芻する。そっと静かに、まるで大切な宝物のように。
 悪い名前ではない。少なくとも彼女の前の名前である『フィロ』よりは。
 ミルディーヌ。
 強くて美しい花。
 自分がその名に相応しいのかは分からないけれど。
 そうなろう、と思った。
 彼が望むのであれば、たった一人の大切な人の為に、強く、美しく。
「……変な名前ですわ」
 少女はそう言い、ふふっと笑う。しかしそれは言外の肯定だった。少女に与えられた新しい名が、ミルディーヌという福音が彼女を微笑ませたのである。
 イリスはその少女の笑みを驚いて見ていたが、やがて微苦笑して言った。
「なんだ。君、笑ったほうが全然綺麗じゃないか」
「……ぇ?」
 少女は両手で頬に触れて考える。そう……なのだろうか?よく分からない。
 だって、人とまともに話したのだって数年ぶりで。
 こんなに自然に笑ったことなんて、きっと初めてのことだったから。


<ハイペリア・廃ビルの屋上――8月5日・PM3:58>

 今度こそ――勝敗は、決した。
 リアノは荒い息を吐きながら、槍を収めずに突き出したままの体勢で立っていた。
 限界全ての力を出してしまった体には、もう一秒だって立っているのは辛すぎて。しかしある一つの懸念が、リアノの膝を着かせないでいた。
 ――あの子、もしかしてまだ……!?
 リアノの打突によって吹き飛ばされたミルディーヌは、仰向けになったままぴくりとも動かない。あのスピードで鳩尾に突きを入れられたのだから当然のことだが、しかしそれはリアノにとって何の安心材料にもなりはしなかった。
 ミルディーヌは恐らく、自分と同じタイプだ。どこまでもまっすぐな目をしている。何か大事なものを守るためならいくらでも立ち上がり、戦い続けるだろう。
 そして……リアノにははっきりと分かる。
 『全ては、父さまの為に』
 『何故父さまが貴女のような方を選んだのか……理解に苦しみますわね』
 ミルディーヌは、イリスを愛している。それは身を焦がすほど激しく、他の一切を寄せ付けないほどに。
 なら、ミルディーヌはきっと――
「――が……はっ!」
 突然の、むせ返るような呼吸音。
 それを発したのは他の誰でもない、仰向けに倒れていたミルディーヌだった。彼女は体を横にくの字に曲げて、血と唾液を撒き散らしながらもなんとか立ち上がろうとする。
 ――やはり。
 リアノは槍を油断なく構えながら、口をきゅっと結んだ。
 イリスを愛しているのならば、ミルディーヌはきっと――自分を叩き潰すことに全力をかけるだろう。同じ、イリスを愛する自分を。
 例え、その身を滅ぼそうとも。
「私は……負けるわけにはいきませんの……」
 ミルディーヌは震える手で必死に体を支えながら、涙に滲む目でリアノを睨みつけた。
 ふらつきながらも立ち上がり、決意の程を示すようにその手で『光姫』をしっかりと握り締める。
「貴女にだけは……貴女にだけは、絶対に……っ!!」
「……そう」
 その言葉を受けて、リアノはそっと静かに目を閉じる。
 激突は避けられない。絶対に。
 ならば……
 リアノは目を見開き、『福音』を握る手にくっと力を込めた。
「それなら、私も全力を以ってあなたを倒すわ」
 ミルディーヌはもう、戦える状態ではない。
 リアノの打突は確実にミルディーヌの内臓を傷つけ、彼女の足をふらつかせている。しかしそれならばリアノとて同じことだった。自ら地面に叩き付けた手は血にまみれて握力など無いに等しいし、ミルディーヌからもらった蹴りは器官を傷つけている。
 両者とももう、持久戦のできる体ではない。
 次の一撃が……勝敗を、決める!!

「……」
 リアノは僅かに槍を引く。ミルディーヌが隙を見せた瞬間に走り出せるように。
「………っ」
 ミルディーヌは円輪を握り締めたまま僅かに体を落とす。リアノの斬撃を受け流し、その瞬間に攻撃を放てるように。
 両者の間で闘気が膨れ上がっていく。刹那が永劫へと引き伸ばされ、空間さえも凍りついていく。
 だが、その時間もやがて終わりを告げた。
「――征くわよ」
 リアノが呟き、足に力を込める。そうなってしまえば事は易しい。今のリアノであればミルディーヌの位置まで到達するのに1秒もかからない。
 恐らくは刹那という表現さえも陳腐と思える時間で、互いは互いを否定しあう――

 ――はずだった。

「……っ!?」
 しかし、それをミルディーヌに訪れた突然の異変が押しとどめる。
 彼女はいきなり体をびくんと震わせると、顔面を蒼白にして手を耳に当てた。『光姫』を握り締めたままの彼女は、図らずしもそれを耳に押し当てるような形になる。
 その突然の行為をリアノが不審に思う間もなく、突如ミルディーヌは、
 声を荒げて、叫んだ。
「なっ……聞けませんっ!!
 ――黙っていてくださいませ!私は今更退く訳にはいきませんのっ!」
 その目にはもはやリアノは映っていない。だからといって独り言と片付けるにはその言葉は異質すぎ、リアリティがありすぎた。
 そう。まるで、遠い空間を隔てて誰かと話しているかのような……?
「そんなこと知りませんわっ!あと一撃なんですの!
 ――でもっ!でも……っ」
 言葉を重ねるごとにミルディーヌの声は小さくなり、弱々しくなっていく。
 やがて彼女は俯いた。その声の主に、諭されたかのように。
「……分かりましたわ。ご心配をおかけして申し訳ありません――」
 きゅっと唇を噛み締めて。
 そして彼女は言った。

「――父さま」

「な――!?」
 父さま。確かに彼女はそう言ったのか。
 ならば、彼女が話しているのは……
「イリスっ!!そこにいるの!?」
「………っ」
 ミルディーヌの口の端が、きゅっと噛み締められる。
 それと同時に、彼女は焦点をリアノに戻す。それは睨みつけるような射抜くような激しい眼差し。
 今を除いてイリスに接触できるチャンスはないかもしれない。それが分かっていてもなお、彼女は二の句を告げることができなかった。
 ミルディーヌの眼光が、あまりにも苛烈だったから。
「―――!?」
 リアノは息を呑み、体を硬直させる。
 ミルディーヌはまるで視線でリアノを圧殺しようとするかのように、じっとリアノを睨み続ける。
 ――そんな剣のように鋭い静寂が、どれだけ続いたのだろう。
「……ここは、退かせていただきますわ」
 先に静寂を破ったのは、ミルディーヌのほうだった。
 彼女は搾り出すようにして呟き、そして『光姫』を留め金に止める。ぱちん、という音が静かな空間に響いた。
 それがまるで戦闘終了の宣告だったかのように、ミルディーヌは踵を返してリアノに背を向ける。
 ――去ろうとしている。イリスへと繋がる唯一の手がかりが。
「逃げるつもり!?」
「……………」
 思わず叫んだ言葉に、ミルディーヌの体がぴくんと震えて止まる。
 しかし、彼女をそうさせたものは図星を突かれた事への驚愕ではない。もっと別の感情である。そしてその感情はゆらりと、まるで視認できるくらいに膨れ上がっていくように感じられた。
「……今はそう思っていただいても、構いませんわ」
 ミルディーヌが震えるような吐息で呟く。いや、実際に彼女の体は僅かに震えていた。肩も足も、そして握り締められ今なお血を滴らせている拳も。
「でも私はいつか必ず貴女を追い詰める。今は互角でも、もっともっと強くなる。
 ――父さまは、絶対に渡さない……!!」
 そして、彼女は顔だけで後ろを振り向いた。歯を食いしばり、涙が滲む瞳で無理やりリアノを睨みつけている。
 その顔は……どこか、故郷を失った時のリアノに似ていた。

「三度目はありませんわよ、『福音』のリアノ」

 ミルディーヌはそのまま地を蹴る。それだけだった。たったそれだけのことで、ミルディーヌの姿は眼前から掻き消える。
 その超越された身体能力で屋上から飛び降りたのだろう。漠然と神剣反応を探ると、今も『光姫』――ミルディーヌはここから離れていっていることが分かる。
「……………」
 リアノはしかし、ミルディーヌが去った後も槍を構えて立ち続けていた。
 ミルディーヌが戻ってくることを危惧していた訳ではない。彼女を立たせていたのは、否、彼女に膝をつくことを許さなかったのは、彼女さえも分からない何かである。
 だがしかし、ミルディーヌが去ってきっちり一分が立った後……彼女の体から、全ての力が抜けた。
「ぁ……」
 すとん、と拍子抜けするほどの弱々しさでへたり込むリアノ。それはまるで糸の切れてしまったマリオネットのようだった。『福音』を握り締めた手を地面に置き、彼女は下を向いて俯いている。
 下唇を、きゅっと噛み締めた。
 今の彼女は勝利の高揚感も安堵もなかった。ただ空虚感だけが胸を占める。大切な大切なものを失ってしまった鈍い痛み。
 それは初めてではなかったけれど、決して慣れる痛みではなくて。
「『福音』……」
 失ってしまった。
 ずっと一緒に戦ってきた仲間。
 誰よりも傍で支えてくれていた存在を。
 それを思うと、あまりの虚無感で立ち上がれなくなってしまいそうだけど。
「………っ」
 それでも彼女の瞳から力は消えない。
 ――誓ったんだ。
 他の誰でもない、彼女の永遠のパートナーに。
 ――もう二度と、私は自分には負けない。
   もう二度と、私は膝を折らない。
   もう二度と、誰も死なせない。
 だからお願い。
 私はもう、後ろを振り向かないから。
 感覚がなくなった手で『福音』を手繰り寄せる。もう声をかけてくれることも、笑いかけてくれることもないけど。
 きゅっと、『福音』を抱きしめた。
 だからお願い。
 今だけは、抱きしめさせていて。
 いずれ消えてしまうことは分かってるけど。

 ただせめて――あなたの温もりが、残留している間は。

                  †

 イリスと少女の奇妙な同居は、一週間ほど続いた。
 初めのうちこそ無表情で何事にも無感情だった少女だが、三日も経つとイリスに代わって家事などを手伝ってくれるようになった。
 炊事、洗濯、皿洗い。
 少女は何をやらせても不器用で、失敗ばかりしていた。イリスが困った顔をするたびに彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
「別に気にしなくてもいいよ。これから慣れていけばいいさ」
 その度にイリスはそう言って笑った。
 やがて割る皿の量も減り、食事もマシなものになっていくになるにつれて、少女の笑顔も増えていった。本当に少しづつではあったけれども、イリスといる日々は彼女の心を溶かしていったのだ。
 娼館にいた頃と比べてイリスといる日々は幸福そのものであり、約束された楽園である。いつしか少女は、こんな日々がずっと続くようにと祈るようになっていた。
 ……まったく、気楽と言う他ない。
 自分の未来にハッピーエンドが用意されていないなんて、初めから分かっていたのに。

 それは八日目の夕方、唐突過ぎるほど唐突に訪れたのだった。


「……遅いな、ミル」
 イリスは読みかけの文庫本をぱたんと閉じると、眉根を寄せて呟いた。
 少女が買い物に出かけてから、もう二時間にもなる。道草癖のある子だから今までも帰りが遅いことは多かったのだが、流石に二時間経っても帰らないということはなかった。
 あまりにも、遅すぎる。
【行くのか、契約者】
 クローゼットから外套を取り出していると、『境界』が声をかけてきた。
 野太く、高慢な声。『境界』とは長い付き合いになるが、未だにイリスはこの神剣が好きになれない。
「あぁ。こんな時間になっても帰らないなんて信じられない。何かあったのかもしれない」
【捨て置けばよいものを】
 ふん、と鼻を鳴らす『境界』。その声は冷たく、侮蔑の色を隠そうともしていなかった。
【汚れた者同士、相憐れむといった所か?なぁ『名づけられし闇』よ】
「……黙れ」
 イリスの声が、殺気を孕む。
 『名づけられし闇』。
 イリスに付けられた、忌まわしい二つ名。しかしイリスが怒りを覚えたのは、そこではない。
「僕はともかく、ミルは汚れてなんかいない。口を慎め」
【これは蒙昧】
 くくく、と『境界』は笑う。彼が発するのは紛れもない嘲笑である。
 契約関係にあるイリスと『境界』だが、その関係は決して良好ではない。使い、使われる。ただそれだけの関係。
【ならば、あの小娘に想い人を重ねたか?】
「……そんなんじゃ、ない」
 イリスは『境界』の声を振り切るように、ドアへと手をかける。
 確かにリアノと少女は良く似ている。どこまでもまっすぐな瞳とか、激しい気性を秘めているところとか、反面とても脆くて折れやすいところとか。
 でも、それ以上に。
「……」
 イリスは、少女に自分の姿を重ねていた。
 街角で雨に打たれて座り込んでいる姿を見た時、イリスは真っ先に自分だと思った。どうしようもなく現実に打ちのめされて、泣き出してしまいそうで、辛くて苦しくてたまらないくせに、助けを求めることができない自分。
 自分にはリアノがいてくれた。結局離れ離れになってしまったけれど、リアノは自分に、勇気と希望と福音をくれた。
 だから、自分に似ている少女を見ると放っておけない。助けたくてどうしようもない。たとえ自分にその資格がなかったとしても。
 ――そう、たったそれだけのこと。口に出せば軽蔑されてしまいそうな自己満足だ。
 だからイリスは何も言わない。言わなくてもきっと、『境界』には伝わってしまっているのだろうけど。
 代わりに、イリスは言った。
「行って来る」
 『境界』の返事も待たずに飛び出す。手に掴んだままの外套を、身に纏いながら。
 胸がざわざわする。
 急がずにはいられなかった。
 嫌な予感が、どうしても消えなかった。


 嫌な予感は、していた。
 本当の事を言うと、数日前から。いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。
 ……だから、憎むのなら運命の残酷さよりも自分の間抜けさ加減だろう。何故そんな予感を感じながら少女を一人で行かせたのか。何故自分が付き添わなかったのか。
 そんな後悔が、呆然とするイリスの頭の中を渦巻き続けていた。
「見な……いで……」
 薄暗い裏路地で、少女は泣いていた。
 肩を震わせ、倒れたままの姿で泣いていた。
「こんな姿……見ないでくださいませ……」
 彼女のドレスは、もはや衣服としての用を成さないほどにずたずたに引き裂かれている。代わりにおびただしい量の白濁液が彼女の体に降りかかっていた。
 それはまるで、悪夢の再現。
 そう。彼女は――
「遅かったな、王子さまよぉ」
 前方から、男の声がした。
 今まで少女にばかり気が向いていて気づかなかったが、彼女を挟んだ向かい側に二人の男が立っていた。服装からすると、娼館で働く下男か。二人とも口に下卑た笑みを浮かべている。
 彼らはその笑みのまま、言った。
「あんまり遅かったもんだからよ……こいつ、二人してヤッちまったぜ?」
「……っ!!」
 少女が悲痛な表情を浮かべる。彼女はその絶望のせいなのか、指一本すらも動かせずにいた。ただ嗚咽が彼女の喉を震わせるのみである。
 イリスにだけは、知られたくなかったのだ。
 ……イリスの顔が、僅かに強張った。
「……君たちが、やったのか」
 静かな声で、しかし彼が詰問する。
「だからそう言ってんだよ。なかなかに具合良かったぜ?流石は高級娼婦だよな、フィロちゃん」
「……彼女を、返してもらう」
「はっ、そんな道理が通用すると思ってんのかよ」
 そして、笑いを浮かべながら男は言った。
 ……言ってしまった。
「こいつは大事な『商品』だぜ?」
「………っ」
 ――『商品』?
 『私は、汚れていますの……』
 イリスの脳裏に、少女の悲壮な言葉が蘇る
 ――たった、それだけ?
 『私は、ここにいてもいいんですの……?』
 彼女はあんなにも、必死に生きようとしているのに。
 ――たったそれだけの理由で、ミルは否定されたのか?
 『変な名前、ですわ』
 彼女の意志とか、希望とか、微笑とか。否定されて壊されて陵辱されてぼろぼろにされてしまったのか?
 ――こんな奴らに……
 『見ないで……』
 ――こんな奴らに……
 『見ないで……っ!』
 ――こんな奴らに……っ!!

 その瞬間。
 イリスの中で。
 何かが。
 大切な何かが、音を立てて灼き切れた。

「……のか……」
「あ?」
 イリスは俯き、何事かを呟く。しかしそれは小さすぎて、男の耳では聞き取ることができない。
 男は不審に眉根を寄せて……
 そして、その言葉を聞いた。

「貴様に、壊される者の気持ちが分かるのか?」

 ゆらりと顔を上げるイリス。
 その顔に二つ、在る。
 黒く光る目。
 闇色の、凶眼。
「―――っ!?」
 本能的に恐怖を察知した時には、致命的に遅かった。
 イリスの右足が光のように閃き、男の脇腹に突き刺さる。それまでの間合いなど全く関係なかった。視認すらできぬ速さで接近と攻撃を一息に行った彼の足は、叫ぶことさえ許さず、ただ胸骨をへし折る音だけを引き連れて、男を軽々と吹き飛ばす。
 それはあまりに速すぎて、まるで夢のような光景。
 しかしそれが現実であることの証明のように、男は凄まじい勢いで壁に叩きつけられ、がは、と血を吐いて倒れた。
 へし折れた胸骨が内臓に突き刺さり、出血したのだ。いや、それ以前に壁に叩きつけられた衝撃で内臓が破裂してしまったのかもしれない。
 いずれにしろ、医療のさほど進んでいないこの世界では紛れもなく致命傷である。この命、恐らく助かるまい。
「てっめえぇぇぇっ!」
 その光景に我に返ったもう一人の男が、叫び声を上げつつイリスへと殴りかかる。激昂が恐怖を押しのけ、彼に戦いを選ばせたのだろう。ならばそれは愚かしい選択だと言う他ない。
 振り下ろされた拳がイリスに当たるより、千倍速い。
 ぱし、と間抜けなほど軽い音がして、男の拳が受け止められる。それだけではない。受け止めたいリスの手に更に力が加わり、骨がみしみしと嫌な音をたててきしむ。
 めきめきめきめき、めき、
「う……うわぁぁぁっ!?」
 激痛に半狂乱になりながら男はイリスを振り払おうとするが、しかし彼はびくともしない。細身の体のどこにそんな力があるのか不思議なほどの握力で拳を握りながら、眉一つ動かさずに男を見つめる。
「痛いか」
「〜〜〜〜〜っ!!」
 もはや声にならない声を上げながら猛烈な勢いで頷く。許しを請おうとでも思っているのか、涙を流す目にはすがるような色さえあった。
 だがしかし、そんなものでイリスは揺るがない。
 何故なら。
「でも、ミルが味わった痛みはこんなものじゃない」
 冷酷な目で男を見ながら、更に力を込める。
 ばきん。
「ひぎゃあぁぁぁっ!?」
「そして」
 男の指をへし折って。
 イリスは――否、イリスであったものは、続けた。
「貴様がこれから味わう痛みも、こんなものじゃない……こんなものじゃ済まさない」
 彼は拳を離すと、代わりに手を伸ばして頭を鷲掴みにする。
「あっ、あぅっ!!」
 男が発する、情けない悲鳴。
 彼は――イリスというエターナルは、たとえ敵のカオス・エターナルと戦う時であっても極力殺さないようにしていた。イリスは『殺すこと』の意味を知っていたから。その罪を知っていたから。
 殺しをしないことはイリスの束縛であり、信条だった。
 だが、そんなものはもうどうでもいい。
 少女を汚した、傷つけたこの男たちが許せない。
 この男にはもう何も必要ない。
 ――情けも、命も。
「ぶっ壊れろ」
 その言葉を合図に、男の脇腹がべがんとへこんだ。
「あひっ!?」
 それを皮切りにして、次々に男の体で怪異は続いていく。足首、腹、二の腕……しまいには、頭まで。
 イリスは頭以外、男には指一本触れていない。しかし、まるで空気に圧縮されていくかのように男の体はへこんでいく。
 骨の、器官の、内臓の破壊を道連れにして。
「ぐああぁぁぁぁぁっ!?」
 絶叫を上げて、しかし身もだえさえできずに男は悶え苦しむ。
「あぁあぁぁっ!んぎゃああぁぁぁっ!!」
 聴覚を狂わせるような凄まじい音量だったが、長くは続かなかった。
 辺りが静寂を取り戻した時、その男という存在は骨の欠片すらも残さずにこの世から消え去っていた。

                     *

 戦いが、終わった。
 否、圧倒的な戦力差を以って相手をねじ伏せた場合、それは戦いではない。虐殺か、もしくは処刑である。
 その様を少女は、震えながら見つめていた。
 自分が陵辱されていた時も恐れはあったが、しかし彼女を恐れさせていたものはそれではない。
 イリスは、少女の髪を撫で、抱きしめたその手で男たちを虐殺したのだ。眉一つしかめずに。
 その変容が、恐ろしかった。
「……………」
 イリスは無言のまま動かない。いかなる手段を以ってか男たちを消滅させたその手は、だらんと力なくぶら下げられたままである。
 二人の間には何の会話もなく、ただ雨音が響くのみだった。
 ――そんな静寂が、いったいどれだけ続いたのだろう。
「……すまなかった」
 静寂を打ち破るようにして、イリスは呟く。突然かけられた声に、少女の肩がぴくんと震えた。
 無表情で無機質なその声は、まるで以前までの少女のようだった。
「……え?」
「怖がらせるつもりは、なかった」
 イリスは、振り向かない。
 背中を向けたまま、ただ一方的に別れの言葉を告げる。
「もう二度と、君の前には現れないから」
 そして、彼は歩き出した。彼の足は一歩、また一歩と静かに、だが確かに少女の元から遠ざかっていく。
 少女の胸に、ちくりと痛みが刺した。
「あ……」
 彼の背中が遠ざかっていくにつれ、生まれた胸の痛みは増していく。
 イリスに別離を決意させたもの。それはきっと、少女に残忍な面を見せたことへの慙愧の念なのだろう。実際に少女はこの上なく怯えきっていた。今まで慕っていた、イリス自身に。
 でも、このまま別れてしまってもいいのだろうかとも思う。彼は自分の全てを受け入れてくれた。ならば自分も、彼の全てを受け入れるべきではないか。
 でも、彼が怖い。
 でも、彼が愛しい。
 でも。
 でも……
 でも…………
「…………っ」
 『でも』ばかりになってしまった思考。それを振り払うように少女は頭を振ると、胸に手を当てて考えてみる。
 思えば、イリスとの出会いはこんな雨の中。
 こんな路地裏で、少女は彼に拾われることになった。
 それから、泣いたり怒ったり笑ったり。随分と遠回りをした。決して器用ではない少女は、本当に彼に迷惑をかけてしまったように思う。
 それでも、イリスは笑っていて。
 どんなに辛い時も、苦しくて死んでしまいたくなる時も、そこにはイリスの笑顔があった。いつでも必ず傍で笑っていてくれた。
 いつの間にか少女は、そこにあるのが当たり前になっていたイリスの笑顔が好きになっていた。
 いつの間にか少女は、そこにいるのが当たり前になっていたイリスのことが……
「――待ってくださいませっ!」
 気がつけば少女は立ち上がっていた。叫んでいた。そしてイリスに駆け寄っていた。今の少女にできる限りの速さで。
 それは理屈でも打算でもない、彼女の剥き出しの感情。
「……」
 イリスの足が、ぴたりと止まる。
 でも、彼は振り返らない。二人の視線は交わることはなく、互いの心まで届くこともない。
 ふと、少女は思った。イリスは振り返らないのではなく、振り返れないのではないかと。まるで泣き顔を見られまいとする子供のように。
 それは所詮、少女の想像だ。当たっているかどうかなんて知りはしない。けれど……
 彼の背中は、それくらい悲しそうに見えた。
「どうして、行ってしまわれるんですの?」
 少女は尋ねる。彼の背中に向かって。
 この言葉が彼に届くかどうかは分からないけれども。
「……っ」
 イリスが少し俯くのが、背中越しにでも分かった。
 やがてイリスは答える。きゅっと拳を握り締めて。
「僕は君を、守れなかった」
 守れなかったというのはつまり、少女が陵辱されたことを言っているのか。
「………」
 少女は静かに我が身を抱きしめた。雨によって体の表面の穢れは落とされているものの、彼女の体内にはまだ悪夢の残滓が残っている。
 でもそれは決して、イリスのせいではなくて。
 それでも彼はそう自分に都合よく割り切ることはできないのだろう。
 彼は、そういう人だから。
「いつだってそうだ。僕の周りにいる人はみんな不幸になっていく。……君だって同じだ。僕は君を、傷つけることしかできない」
 だったら、遠ざけるしかない。
 幸せにできないのなら、一緒にいる資格などない。
 イリスはそう思っているのだろう。でも……違う。
 違うのに。
 少女は、何も言うことができない。
 想いは確かなのに、それに相応しい言葉を見つけることができない自分がもどかしかった。
 ……どうしたら伝えることができるのだろう。この、あふれる想いを。
 少女には分からない。
 分からないけれども、少女はその想いに突き動かされるように動いた。
「こちらを……向いてくださいませ」
 意を決して、イリスに声をかける。
「……?」
 不審げに振り返るイリス。
 その瞬間に、少女は。

 イリスの唇に、自分の唇を押し付けた。

「……!?」
 なびく髪。それは雨の中にあってもなお、甘い香りとなってイリスを包む。
 イリスの唇を奪うのは、これで二度目。しかしそれは最初の妖艶な愛撫ではなく、本当に少女らしい、ただ唇を触れ合わせるだけのキス。
 相手のすべてを貪るのではなく、相手の全てを優しく受け入れるようなキスだった。
 ――それは少女がやっと手に入れた、当たり前すぎる愛の形。
「……ん」
 少女はややあって唇を離すと、胸に手を当てた。
 そのまま、呆然とするイリスを見る。
「私……不幸になど、なっておりませんわよ?」
 イリスを傷つけまいとするように、優しく告げる。
 彼が気に病む必要などない。
 傷つく必要など、ないのだ。
 だって。だって私は、こんなにも……

 こんなにも貴方のこと、愛してる。

 それは祈りにも似た幸せで。
 とても小さな、ささやかな福音で。
 この想いが胸にある限り自分は不幸になどなりはしないのだと、胸を張っていえる。
 それは勿論、これからだって同じ。
「それでも貴方といることでこれから傷つくというのなら……私はきっと、その痛みさえも喜びだと思えますわ」
 その痛みは、つまり少女がイリスという青年を愛している証拠だから。
「でも……」
「私は」
 イリスの声を遮って、少女は言う。
 その顔に、限りなく優しい微笑を湛えて。
「私は、ミルディーヌですわ」
 美しくて、強い花。
 どんなに厳しい冬でも耐え抜いて、春に花を咲かせる。
 それが少女が、イリスから与えられた存在意義。
「……貴方の、『ミルディーヌ』ですわ」
 ――貴方は笑顔で何でもできてしまって。
 でもそのくせ、悲しいくらいにひとりぼっちで。まるで神様のようだって、ずっと思っていた。
 どれだけ人を幸せに幸せにできたとしても、自分は幸せにすることはできない。誰にも幸せを願ってもらえない。
 それはあまりにも悲しいことだと思った。
 ならば私は、貴方の幸せだけを願おう。貴方のためだけに生きよう。
 どんなに孤独な夜でも、私だけは貴方の傍にいて、微笑んでいよう。
 貴方がくれた、ミルディーヌの名のように。
 貴方が私を支えてくれた分だけ……いや、それよりももっと。
「……ミル」
 イリスの腕が、そっと少女を包む。それは抱きしめたのだとやっと分かるくらいの、静かで穏やかな力。
 それでもその手には、しっかりとした意志が宿っていた。
「君を、連れて行く」
「……はい」
 静かに、呟く。
 その言葉に少女は、目を閉じて頷いた。
「君は、今日から僕の娘だ。僕の家族だ。ずっと傍にいて欲しい。その代わりに僕は、何があっても君を守る」
 ぎゅっ。抱きしめる手に、力がこもる。
「――守って、みせるよ」
「はい……」
 少女は、イリスの背中にそっと手を回す。
 同じ空の下、同じ雨に打たれ、同じ温もりを共有している。その幸せに、彼女はそっと想う。
 あぁ、きっとこれは許されないことなんだろうな、と。
 何故かは分からない。だがこの青年についていくということは罪を背負うことと同義なのだと、少女は本能的に知っている。でも、迷いはなかった。初めて愛した人だから。
 たとえ自分が向かう道が許されないものであったとしても、きっと贖いの時は前を向いて迎えられる……

 最後に少女――否、ミルディーヌは、祈るように呟いた。

「連れて行ってくださいませ、父さま。
            終わりの、その先まで……」


<ハイペリア・裏路地――8月5日・PM4:21>

「……ぁ」
 ミルディーヌの僅かな邂逅は、落ちてきた一粒の雨垂れによって途切れてしまう。暗い路地の中、灰色の空の下。
 彼女は壁にもたれかかって座っていた。
 戦闘の興奮が冷めやった今では、『バルムンク・フォース』の余波にずたずたにされてしまった足はあまりにも重すぎて。戦いが終わってから大分経つ今となっても、満足に歩くことができない。
 彼女は何にも遮られることのない空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「もうすぐ雨が降ってきますのね……」
 雨は嫌いではない。見ているのも、実際に浴びるのも。
 でも……雨に濡れて帰ってくれば、イリスを困らせてしまう。きっと、あの時と同じように。
『――助けが、必要かな?』
 そしたら、また手を差し伸べてくれるだろうか。
 凍えた体を温めてくれるだろうか。
 『福音』のリアノと同じ世界にいる、今となっても……
「…………」
 時々、思う。
 自分はリアノには敵わない。少なくとも、イリスに想われている量では。
 それをミルディーヌは、思えばイリスと共に道を歩くのを決めたあの時から思い知らされていた。
『今日から君は、僕の娘だ』
 故郷の世界を出る際に、イリスはミルディーヌにそう告げた。
 今ならば分かる。あれはミルディーヌではなく、イリス自身に告げた言葉だったのだと言うことが。
 ミルディーヌはあの日を境に、誰よりもイリスと共に行動するようになった。イリスを振り向かせる為にやっきになって行動するようになった。イリス自身もきっとそのことが分かっていたのだろう。
 だから言ったのだ。「ミルディーヌは自分の娘だ」と。
 父と娘は決して恋に落ちることはない。想いを注ぐことはあっても、その想いは恋人に向けるものとは決定的に違う。
 イリスは絶対に、ミルディーヌを本当の意味で愛さないと誓ったのだ。リアノへの愛を守るために。
 決して彼女を、裏切ることがないように。
「父さま……」
 どれだけ想ったとしても、この想いなお遠く。
 イリスに想いが届く日は、決してない。
 それでも自分は、イリスを愛し続けていられるのだろうか?
 イリスの為に戦い続けられるだろうか?
 答えなど……勿論最初から、決まっていた。
「……父さま」
 ミルディーヌは、きゅ、とその手を握り締めた。
 ――愛されなくても、いい。
 自分はイリスを守る。イリスを愛する。どんなに孤独な夜も、自分だけはいつもイリスに一番近いところにいる。
 ……自分はイリスの為だけに、在る。
 それがミルディーヌの決意だ。どんなに時間が経ったとしても、薄れることなど決してない。
 ――例え父さまが私を愛してくれなかったとしても。
   私が父さまを想い続けるのは、自由ですわよね……
 その為に突き進まなければならない。
 汚れてしまうのは分かってる。
 大切なものを失ってしまうのも。
 それはイリスが守ってくれたものとか、好きだといってくれたものとか。もしかしたらイリスはミルディーヌがそんなことしても、ちっとも喜ばないのかもしれないけれど。
 それでも構わなかった。
 ――私はこの世界を……滅ぼす。
 永遠神剣の回帰など知ったことではない。しかしイリスを救う為にそれしかないのだとしたら。
 ためらいなど、ありはしなかった。
 ……ぽつり、ぽつり。
 少女の胸のうちを表しているかのように、雨垂れは徐々に勢いを増していく。この調子では、本降りになるまであと一分もかからない。
 猫の仔一匹すらいない暗い裏路地を、ただミルディーヌの荒い吐息だけが響く。

 にゃーん。

 いや、猫一匹だけはいた。
「……え?」
 驚いて一瞥すると、いつの間にいたのか、ミルディーヌの足下に小さな黒猫が座っていた。
 まだ仔猫なのだろう。つやのいい毛並みを雨に濡らして、小さな黒猫はちょこんと座っている。首輪を付けていないところを見ると、野良猫か。
 下を向いたミルディーヌと、彼女をまっすぐに見つめる仔猫の視線がぶつかる。その人懐っこさそうな目に、彼女は思わず微笑んでいた。
「あなたも……捨て猫ですの?」
 にゃぁ、と仔猫は返事をする。本当にミルディーヌの質問に答えたようなタイミングだ。勿論彼女には、肯定なのか否定なのかも分かりはしないが。
 仔猫は一歩二歩ミルディーヌの方へと歩み寄ると、投げ出された彼女の足に口先を寄せる。途端、ぴちゃぴちゃという音と共に足に湿った感触が走った。
「ひゃぅっ」
 ぴくん、とミルディーヌの背筋にかすかな震えが走る。
 たまらなく、くすぐったい。だがしかし、彼女に不快感はなかった。
 仔猫はミルディーヌの傷口を、舐めてくれているのだ。
 ……仔猫の舌が動くごとに、少しずつではあるが痛みが和らいでくるような気がする。
 その様子が、彼女をもう一度微笑ませた。
 ミルディーヌは仔猫を優しく抱き上げると、膝の上に乗せた。仔猫の方も彼女の膝の居心地がいいのか、くぅーっと気持ちよさそうに伸びをしてみせる。
「ありがとう。いい仔ですわね」
「にゃぁ」
 仔猫の背中を撫でると、気持ちよさそうに目を細めてみせる。
 ミルディーヌは特に猫が好きな訳でもなかったが、この仔猫とは初めて会った気がしない。気持ちいいのならと、彼女はもっと背中を撫でてやった。
 ……この猫は自分に似ている、と思う。
 全身が黒ずくめなのも、一人っきりで雨に打たれているのも。イリスに会う前の自分にそっくりだ。仔猫の方もそれを感じているのか、自分に懐いてくるのだろう。
「あなたも、良いご主人様が見つかると良いですわね」
「にゃぁ〜」
「ふふっ」
 ゆっくりとした時間が、流れていく。それは久しぶりの安息で、彼女の心を癒していく。
 だからミルディーヌは……気づけば、こう呟いてしまっていた。

「あなたのお家は、どこですの?」

 ――何だ?
   自分は、何を言っている?
 口に出してすぐに、彼女はいかに自分が傲慢なことを言っているのか気づく。
 この仔猫の家がどこであろうと関係ない。
 だって、この世界は……この猫が生きている世界は……

 自分が壊そうと、しているのに。

「………っ」
 ミルディーヌの唇が、ぎゅっと噛み締められた。
 この猫だけではない。
 この世界には、数え切れないほどの命が息づいている。
 今この瞬間にも、誰かを愛して、憎んで、笑って、悲しんで、足掻いている。
 叶えたい夢があって、守りたい人がいて、一生懸命に生きている。
 そんな命たちを自分は、根こそぎ否定しようと言うのだ。
 許されることではない。許されてはいけない。
 けれども――
「……ごめんなさい」
 仔猫を包み込むようにして抱きしめ、ミルディーヌは呟く。そこに何の意味もないことは分かっているけれども。
 ――それでも、やらなければならなかった。
 誰でもない、イリスを救うために。
「私は……私の愛する人の為に、あなたたちの世界を壊さなければなりませんの……」
 きゅ。
 仔猫を抱きしめる手に、僅かな力がこもる。
 ……ためらいは、ない。躊躇も葛藤も、ミルディーヌは最初から切り捨てている。
 ただ、悲哀だけがあった。
 命を踏みにじることしかできない自分が、猛烈に憎かった。
「許して……許してくださいませ、ね……」
 やがて手に込められた力は、震えとなって体中を伝っていく。
 ミルディーヌは全身を震わせながら、何度も何度も謝罪の言葉を呟き続けた。
 分かっている。
 仔猫はミルディーヌを責めたりはしない。誰もミルディーヌを責める者はいない。責める者がいないから、許してくれる者もいない。
 ――誰も許してくれないから、自分ですらも許せない。
 罪はいつまでも少女の胸を抉り続ける。その傷から滴る血が乾くことはない。
 雨に打たれながら、少女はいつまでも、いつまでも嗚咽し続ける。
 永遠に報われない愛に。
 永遠に許されない罪に……
 撫でてくれなくなった少女を不審げに仔猫が見上げた。
 きっと、仔猫は永遠に気づかない。少女が言っている意味も、何の許しを請うているのかも。
 ただ、上から落ちてくる水滴も、きっと雨粒だと思ったのだろう。
 仔猫は鼻先に落ちてくる雫を受けて、くすぐったそうに――



 ――ただ、にゃぁ、とだけ、鳴いた。



        ――to be continued for the sixth
                    『In the time,On the place』


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