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第X章 きみのたたかいのうた―中編―


 ――私は、此処にいる。
   でも、あなたは何処にいるの?


<ハイペリア・オープンカフェ――8月5日・PM3:15>

【人ごみは、どうも苦手です。様々な感情が入り混じり、溢れかえっているというのに、誰も他人に関心を持とうとしない……】
 そう言うと、その頭の中の乙女の声は、はぅ、とため息をついた。
 本当は彼女は、ため息どころか呼吸すらする必要はないのだけど。それはどこまでも人間らしい彼女のこだわりなのだろう、きっと。
【そうは思いませんか、リアノ?】
 彼女の名は、第三位・非形質固定型永遠神剣『福音』である。いかなる武器にでも変質することが出来るという特性を持つ彼女は、しかし今はただのブレスレットとして契約者の手首に巻きついている。
 非戦当時には『福音』も無理に武器である必要はない。そもそも目立たないようにするためにはアクセサリーは適任なのだ。常に身に付けることができ、契約者とのコンタクトがとりやすいというメリットもある。
 ――……うん、そうね。
 しかし、その契約者――リアノとの会話は上手くいっているとは言いがたい。肝心のリアノが何を言っても同じ返事しか返さないのだ。
 なんと言うか、上の空、なのである。
【というか、こんなに早くやめてしまっても良かったんですか?まだ一時間も経っていませんよ、リアノ?】
 ――……うん、そうね。
【この体たらくではロウ・エターナルどころか虫一匹見つけられませんね】
 ――……うん、そうね。
 ぽけっと頬杖をつきながら、リアノはあさっての方向を向いている。その視線が向かうのは、大通りを通り越して暗雲の湧く曇り空。
 美人と言って、いい顔立ちのリアノに見つめられていると勘違いした男たちがうろたえながら立ち止まっては、数秒してから肩を落として帰っていく。
 これで、五人目だった。
【まったく。捜索に身が入らないのなら、せめて家でゆっくりしていればよかったのに】
 ――……うん、そうね。
【………】
 ――……。
【――あぁっ、あんなところに未確認な空飛ぶ円盤がっ!】
 ――……うん、そうね。
【……………】
 ――…………。
 キャラを投げ打ってまで実行した秘策も、放心状態の契約者には通用しない。
 何だかちょっぴり悔しくてとても恥ずかしかった。
【……っていうかわざとやっていませんか?】
 ――……うん、そうね。
【分かりました。貴女がそのつもりなら私も最終兵器を出します】
 ――……うん、そうね。
 その言葉を肯定ととり、『福音』は最終兵器の使用を決定した。これはよほどのことがない限り使いたくなかったのだが、この際仕方がない。
 ――後悔しますよ……
 いつもらしからぬ敵対心を燃やしながら、彼女は
【いい加減、しゃきっとしなさいっ、リアノッッ!】
 きいぃぃぃぃんっ!!
 精一杯の怒声と共に、契約者の頭の中に強制力を叩き込んだ。
 神剣の強力な思念波は、意図して契約者に向ければ相応の苦痛を与えることが出来る。それを一般的に強制力と呼ぶのだが、『福音』自体はそういう無理やりなやり方は嫌いなため、今まであまり使ってこなかった。
 よもやこんなことに使う羽目になるとは思わなかったが、効果は上場のようである。
「ふなっ!?ふぇっ……って、わぁぁぁぁっ!?」
 がしゃん、ばたん、からからから。
 左から順に、ジュースをひっくり返した音、自らもバランスを崩してひっくり返った音、そしてどこか切なさを引き連れてグラスが転がっていく音である。
 客が一人残らず振り返り、クラシックタイプの制服に身を包んだウェイトレスに怪訝な表情で見られる。
「あの……お客様、大丈夫ですか?」
「あぁいや大丈夫なのよ頭痛がしただけ」
 あまつさえ心配までされる。
 ……なんと言うか。効きすぎた様であった。
 ――いきなり何してくれるのよ、『福音』っ!!
 何とか椅子に座りなおしたリアノから抗議が来る。それは最もなことであったけれども、『福音』としては微妙に認めるわけにはいかなかった。素直に謝るには、意地とかプライドとかが邪魔するのだ。
【呼びかけてもぼーっとして応えない貴女が悪いんです。ガラにもなく黄昏て、格好付けているつもりですか?】
 ――考え事をしてたのよっ!じゃぁ何、私には考え事をする権利もないっていうの?
【ありません。ついでに言うなら過ぎ去りしちょっぴり切ないあの日に想いをはせる権利も過去のことでうだうだ悩む権利もありません】
 即答する。
 これは流石に酷すぎるような気もしたが、いつもリアノに振り回されて迷惑しているのも事実である。これを機に言ってやることにした。
【だいたい……リアノは過去を引きずりすぎなんですよ】
 ――な……っ私のどこが過去を引きずってるってのよ!
【引きずってますよ】
 ほんの少し、咎めるような声。もし『福音』が人間の形をとっていたのならば、じろりと睨みつけていたに違いない。
【今だって……あの子の事を考えていたんでしょう?】

 ――……っ

 リアノが言葉に詰まる。それが言外の肯定だった。本当に……自分の契約者はすぐに感情が表に出てしまって困る。
 あの子というのは、昨日戦ったロウ・エターナル『煉獄』のクレオのことである。……否、この呼び方は正しくない。
 彼女は最後の瞬間、確かにロウ・エターナルではなかったのだから。
 回帰性永遠神剣『煉獄』に運命を、生命さえも縛られていたクレオ。『煉獄』を砕いたことで彼女を解放できたと思った。……それともただ、そう思いたかっただけなのか。
 でも結果は、あまりにも無情で――
「……」
 リアノの顔が、悔恨に歪んだ。
 『煉獄』を砕かなければ、クレオは運命を縛られたままだったけれど。
 『煉獄』を砕かなければ、クレオは生きていられた。
 ならば自分がしたことは間違いだったのか。ただの欺瞞に過ぎなかったのか。
【……悔やんでいるのですか、リアノ】
 問いかける『福音』。
 ――分からない。
 応えるリアノ。
 でも……それは答えではなくて。
 きゅ、と手を握り締める。無理やりにでも答えを出すことが出来たなら、どんなに良かっただろう。あれは仕方のなかったことなのだと。クレオを救うことなど最初から出来なかったのだと。
 そう思えたら……少なくとも、いつも通りに笑っていられたのに。
【……仕方のない人ですね】
 『福音』の嘆息が聞こえた。
 呆れているのか、哀れんでいるのか。それともまたいつも通りに小馬鹿にされるのだろうか。『そんな意気地なしを契約者に選んだつもりはありませんよ』などと言って。
 しかし、『福音』の言葉はリアノの予想していなかったものだった。
【そんなことでは……クレオは本当に『死んで』しまいますよ?】
 ――……え?
 予想外の言葉に、リアノの思考が止まる。
 今、『福音』は何といったのだろう。クレオはとっくに『死んで』いる。だから今リアノは悩み、苦しんでいるというのに……
 しかし彼女には、考える時間は与えられなかった。

「――お話は、終わりましたの?」

 突然に上から降りかかってきた、あどけない声。
「え?」
 振り返ってみると、そこには一人の少女が居た。
 外見から察するに、17,8歳といったところだろうか。少しウェーブのかかった銀髪を腰の位置まで垂らし、ゴシックロリータの黒いドレスを纏っている。
 顔立ちや服装からしてこの国の生まれでないことは確かだったが、しかしそれにしてもこの容姿は整いすぎていた。女性であるリアノからしても思わずはっとしてしまうほどの可愛らしさである。
 きょとんとした顔のリアノが面白かったのか、少女は口元に手を当ててくすくすと笑った。
「驚かしてしまったようで申し訳ございません。初対面にしてはぶしつけすぎましたわね……でも、お友達との会話がなかなか終わらないものですから」
「…………?」
 何だ?
 この少女は、何を言っている?
 今のリアノに連れはいない……少なくとも、目に見える範囲では。本当はリアノの腕に巻きつくようにして『福音』がいるのだけど、それは一般人には分からないことのはずだ。
 ならばこの少女は、リアノと同じエターナルなのか。
 ――まさか。
 心の中で慌てて否定する。彼女の周囲からは全く神剣反応は感じない。威圧感も殺気もありはしなかった。目の前にいるのは、ただのあどけない少女である。
 リアノはいつの間にかかいていた冷や汗を隠すように笑みを作った。
「あら、私に友達なんかいた?あなたみたいな可愛い子が友達になってくれるなら大歓迎だけど」
 少女が『福音』の存在に気づいたはずはない。なら彼女は表面どおり、ただ単にリアノと話をしようとしていただけなのだろう。彼女には人通りを眺めていた自分が話しかけていたように見えたに違いない――そう思っての言動である。
 しかしリアノの予想は、見事に裏切られた。
「嘘はよくありませんわよ?」
 少女は笑みを崩さなかった。
 あどけない笑みのまま、まるで彼女はそれが当然であるかのように、その言葉を紡いだ。

「今はブレスレットに変質させているんですの……随分と変わった神剣と契約しているんですのね、『福音』のリアノ?」

 瞬間――それは訪れた。
 きぃぃいぃぃぃぃんっっ!!
「なっ……!?」
 頭を揺さぶるような鈍痛。それはリアノが先程味わった、永遠神剣が放つ思念波である。
 しかし今回は先程とはまるで事情が違った。
 この思念波は『福音』のものではない。
 だって、この思念波は……
「あなた、まさか……!?」
 少女は答えなかった。たおやかな笑みのまま、たん、と脚を鳴らす。
 ……それはまるで舞の一部のようで。
 リアノは少女が地を蹴ったのだということに、姿を消すまで気づかなかった。
「くっ……!!」
 リアノは歯噛みし、今までのんきに話しをしていた自分を呪う。熟練のエターナルともなれば自分の神剣反応を隠すことなど訳ないことなのだ。
 それよりもこの運動能力、間違いない。
 彼女は、エターナルだ――!!
 ――『福音』、追うわよっ!
【はいっ!】
 数瞬遅れてリアノもまた跳躍する。人間離れした彼女の運動神経はいっきに彼女の体を中空、地上数十mの位置にまで押し上げた。
 無論、それに気づいた者はいない。少女がそうであったように、リアノの速度もまた人間の反射神経の領域内に納まるものではなかった。恐らく人間たちからは、突然彼女が消えてしまったようにしか見えなかったに違いない。
 すた、と手ごろなビルの屋上に着地する。少女の姿は既になかった。しかしこれはどう考えても、リアノに見つかってしまったから逃げた、といった感じではない。
 むしろこれは、そう、リアノを挑発しているような……
 ――かくれんぼでもしているつもり?いや……鬼ごっこ、かしら?
 考えてすぐ、そう自分の思考を訂正する。
 彼女がそう考えたのは、リアノの感覚は依然として少女の神剣反応を捉えていたからであった。それも彼女の感覚が感じ取れるか否か、というくらいの微弱なものを。それはやはりリアノが追いつけるか否かというくらいのスピードで今も動いている。
 あからさまに、リアノを誘っていた。
【露骨な罠です。正面から飛び込むのは、愚行と思いますが】
「でしょうね」
 今度は声に出して肯定する。少女の行く先に何が待っているかは全く分からない。ユウトたちがいない以上、軽はずみに行動するのは避けるべきだろう。
「でも……」
 きゅ、と口を結ぶ。
 この機会を逃せば、少女の正体は永遠に分からなくなってしまう。この世界に自分たち以外のエターナルが存在していることすら重要な問題なのに、それが正体不明となれば尚更のことだ。せめて敵であるのかどうかだけでも確かめなければならない。
 そして。敵だと分かれば、戦闘もやむをえない。
 不満を露に、リアノは舌を鳴らす。そういえばこの世界には『虎穴に入らずんば虎児を得ず』ということわざがあったな、などと思いながら。
 そう、リアノが赴くはまさに虎穴。
 ごく一瞬の対峙で感じ取った少女の力は、しかし半端ではない。もしかしたらクレオと同等かそれ以上。
 刹那の間であったから、それさえも定かではないが……
【……リアノ?】
「……あ、と。ごめん」
 相棒に促され、リアノは頭を振った。今はこんなことを考えている場合ではない。
 少女の神剣反応は、今もなおここから遠ざかっている。早く行かなければじきに追いつけなくなってしまう。
「――征くわよ、『福音』っ!!」
 ときの声を上げ、リアノは強く地を蹴る。心の中のもやもやを押し殺しながら。
 敵でなければ、戦う理由さえなければ少女と戦う必要はない。
 ……しかし、何故だろう。
 あの少女とは今回のみならず、幾度も剣を交えることになるだろうと、リアノは確信にも近い形で予期していたのである……。


                       †

 もう、一歩だって動けそうになかった。
 少女は糸の切れてしまったマリオネットのようにその場にぺたんとへたり込んでしまう。街の中、広い路地の上。
 マリオネットという表現はまんざら間違いでもなく、少女の容姿は美しかった。ゴシックロリータの黒いドレスに身を纏い、神に選ばれたような容姿を際立てている。ただ……もう少し顔に生気があって、ドレスが雨と血に汚れていなければ、彼女はもっと美しかったろうに。
 時々通りすがる人々は皆自分のことで精一杯らしく、誰も少女のことなど気にも留めない。時々邪魔そうに少女を見るものの、対して興味もなさそうに立ち去っていく。声をかける者も、助ける者もいなかった。
 こんなにも私は一人だ、と少女は想う。
 それがどうしたのか、と少女は思う。
 そんなことは最初から分かりきっていたことだ。外の世界に自分の居場所などない。だから少女にとって、自分が引き取られていった娼館の中だけが世界の全てだったというのに。
 ……大体、自分は娼館から逃げ出して何がしたかったというのか。
 そんなこと分からない。ただ、耐え切れなかっただけだ。人形のように使いまわされ、壊れていく自分が。
 便宜上の名前だけを与えられ、ただ一人ぼっちで死んでいく自分が。
 ――でもそれなら、今だって結果は同じ。
 少女は壁にもたれ、空を見上げる。また神様は少女の上に雨を落とそうというらしく、灰色の雲が空の一面を覆っていた。
 あぁ。
 いつだって世界は灰色だ。灰色の世界で、自分はこんなにも一人きりだ。誰も自分の存在を知らない。誰も自分に関心を示さない。
 ――いてもいなくても、変わらない。
 ならばいっそ消えてしまおうかと思う。こんなにも一人ぼっちの世界なら。誰も少女を必要としてくれないのなら。
 私なんか、要らない――

「――必要かな?」

「え……?」
 唐突にかけられた声。その声は少女の心に大きく響く。
 その瞬間、少女の世界は空虚でも一人でもなくなった。間違いない。少女の存在を認識し、興味をもってくれる人が彼女の前に現れたのだから……
 ……いつの間に、そこにいたのか。少女の目の前には、一人の青年が立っていた。
 見れば見るほど奇妙な青年だった。この世界ではおよそ見られないような服を着ているし、鞘に収めてはいるものの青年の背丈を遥かに越えるような巨大県を背負っている。とても青年の腕力では振り回せそうにない。
 そして何よりも奇妙だったのは、青年がその顔に微笑を湛えていたことだった。
 ……どういう、ことだろう。
 今まで少女に笑みを向ける人なんて、まるでいなかったというのに。
「……助けは、必要かな?」
 きょとんと見上げる少女の仕草を聞こえなかったととったのか、青年はもう一度繰り返した。少女に向ける笑みはそのままに、優しく。
 ……ふと。少女の胸にあった不審が、そっくりそのまま怒りへと変わった。
 何の怒りかは少女にも分からない。ただそれは幸せそうな笑みを浮かべる青年への反発であり、初めて向けられた優しさへの反発だったのだろう。
「……要りませんわ」
 搾り出すようにして呟く。湧き上がってくる苛立ちを、まるで抑えようともせずに。
 一方の青年はというと、手を差し伸べようとした仔猫に引っかかれたような困った顔を浮かべるだけだった。
「うーん……でも君、ずぶ濡れだろう?風邪だけならまだしも、肺炎をこじらせでもしたら最悪死んでしまう。元医者としては、お勧めできないけど」
「それでも、構いませんの」
 確かに今年の冬は寒さが厳しく、雨に濡れたドレスでは死んでしまいそうなくらいに寒い。体温はとっくに下がりきっていて、下手をすれば肺炎など起こさなくても今すぐ死んでしまいそうである。
 だが、少女は頑なだった。それで死ねるのならばいっそ死なせてくれればいい。死んでしまえばいい――男に抱かれることにしか価値のない自分なんて。
 そう思ってふと気づく。先程覚えた感覚は男への反発ではなく、自分を生かそうとするものへの反発だったのだと。
 生きていたって、惨めなだけなのに。
「死んだって構いませんの。私が死んだところで誰も悲しまない……私自身ですら」
 少女の言葉はどこまでも他人事のようで。
「私は、モノに過ぎないのですから」
 どこまでも、冷淡だった。
 ……実際、モノに過ぎないのだ。自分の存在など。
 少女はずっとそう思い続けてきた。それは感傷でも自虐でもなく、動かすことの出来ない絶対の事実としてである。
 それはきっと、これから先だってそう。
 ……そうだと、思っていた。
 でも。
「駄目だよ」
 それでも青年は否定した。
 笑顔を真剣な顔に変えて。まるで少女を諭すように。
「……うん、駄目だ」
 青年の瞳が、一直線に少女を見据える。その瞳はあまりにもまっすぐすぎて、心の奥底まで覗かれてしまいそうだ。
 ……頑なだった少女の世界が、崩されていく。
「そんな下手な嘘じゃ、誰も騙せない……僕も、君自身でさえも」
 青年の声だけが、心の中にすぅっと染み込んでいく。
 少女の世界が否定される。今まで誰も否定しなかった世界が。その中でしか生きることが許されなかった世界が。
 それは限りなく残酷で、優しい破壊。
 壊されてしまえば――少女はもう、そこにはいられない。
「分かっているんだろう?君はモノなんかじゃない。ただの女の子だよ。感情を押し殺す必要も、絶望する必要もない。だから……『痛い』なら、『痛い』って言えばいいんだ」
「…………」
 少女は、俯く。
 この青年は、生きろというのか。モノに過ぎないと信じ、男に抱かれることにしか価値を見出せなかった少女に。生きる意志を捨てた少女に……今までの世界を、完全に破壊して。
 あぁ、そうだ。少女は気づいてしまった。
 モノなら、『死にたい』なんて思わない。死を望むということはつまり生きる希望が失われたということで、それならば少なからず生きる意志を持っていたということなのだから。
 そう思っていたのは、余計な希望を持ちたくなかったから。希望をもたなければ、絶望することもない。
 でも……
「おいで。僕の家はあったかいよ」
 ――それでも、あなたは笑うんだ。
 笑って、手を差し伸べるんだ。笑うことの出来ない私に、手を差し伸べるんだ。諦めの世界に、微かな光を灯して。
 差し伸べられた手は希望。自ら捨てようとしたシアワセの欠片。それを掴むことは、もしかしたら絶望へと繋がっているのかもしれないけれど。
 私は……ひとりでは生きることができないくらい、弱いから。
 少女はおずおずと、その手に自分の手を重ねた。
「あっ……」
 繋がった手を通して、青年から少女へと流れ込んでくるような感覚。濡れた手がじんわりとほころんで、そこだけ切れるような寒さが和らいでくるような気がする。
 この感覚は……
 ――あぁ、そうか。
 これはきっと『温かい』という感覚なのだろう、と考えた末に少女は合点した。まるで今まで味わったことのない、奇妙な感覚。
 それはとても奇妙な感覚ではあったけれども、不思議と嫌ではなかった。それどころか、これが『温もり』ならもっと触れていたいという、そんな想いさえ湧いてくる。
 そう。

 ――手を差し伸べてくれたのが、貴方だったから。
   だから私は初めての温もりを、『愛しい』と思えた――


<ハイペリア・廃ビルの屋上――8月5日・PM3:32>

 フリルのスカートをはためかせて、ミルディーヌは踊っていた。
 彼女の足さばきは軽い。羽を得たように跳び、世界を抱きしめようとするかのように両手を大きく広げてくるくると回っている。一部の乱れもない舞を舞いながら、しかし彼女の顔は緊張ではなく無邪気な喜びに満ちていた。
 彼女は待っていた。焦がれていた。舞いながら、謳いながら、微笑みながら……つまりは恋人を待つ、純粋な乙女のように。
 ――そう。今日はあの日を思い出すには、とてもぴったりの日。
 季節こそ違うけれども、今にも泣き出しそうな空はまるで父さまに会ったあの日のよう。
 ならきっと、このまま雨に打たれていたって私はとても幸せに違いない。
 静かなモルタル張りの屋上を、ミルディーヌがステップを踏む音だけが響く。曲がない状態にも関わらず、彼女の舞は流麗にして完璧である。しかし惜しいかな、そこには彼女をたたえる見物人はいても、純粋に彼女の舞を楽しむ観客はいなかった。
 一人は彼女の待つ円輪型永遠神剣『光姫』。
 そしてもう一人――否、もう二人。
 『光姫』を一人と数えるのならば、『彼女』もまた同様にして然るべきだろうから。
 ……不意にぱちぱちという音がして、ミルディーヌは足を止めた。
 そこで彼女の舞は終わりとなる。最後まで踊れなかったことを不満に思いながら、彼女はまたこうも思う――存外早かったものだ、と。
 振り返ると、遠巻きに手を叩く『福音』のリアノの姿があった。
 その間、この世界の単位に直すのならば約25m。正方形の形をしたこの陣地の対角線。距離を詰めるには一瞬しか要さず、しかし一瞬もかかってしまう、そんな距離。
 そこに彼女は、金髪に夏風を孕ませながら佇んでいた。
「ブラボー、と言うべきなのかしら?あなた、踊りも出来るのね……しかもなかなか上手じゃない、名前も知らない舞姫さん?」
 手を叩いているということは、それは拍手をしているということなのだろうけど。しかし彼女の表情と声は硬質なままである。
 一方のミルディーヌは拍手に応える舞姫らしく、笑顔を浮かべてスカートの端をつまみ、膝を曲げる挨拶――レヴェランスをして見せた。
「『光姫』のミルディーヌと申します。お褒めにあずかり光栄ですわ、『福音』のリアノ」
 ぴくり。彼女の名前を出したとたんに、リアノの眉が動いた。
 思わず失笑してしまう。本当に分かりやすい人だ、と思いながら。
「さっきもそうだったけど。あなた、どうして私のこと知ってるのかしら?私にはあなたみたいな可愛らしい知り合いはいないわよ」
「自覚、ないんですのね」
 少し呆れたように呟く。
 他人に鋭い者ほど自分に鈍感だというが、リアノはその典型か。『混沌の五覇』まで上り詰めておきながら「どうして知っているのか」とは恐れ入る。
「あなた、ロウ陣営では有名ですわよ?現在発見されている唯一の非形質固定型永遠神剣を使いこなし、緻密にして大胆な戦いでロウ・エターナルを翻弄する金髪の乙女と、ね」
「――」
 リアノの表情が露骨に歪む。恐らくは『ロウ・エターナル』という単語をちらつかせたせいだろう。イリスの一件で、リアノがロウ・エターナルに憎悪とも呼べる感情を持っていることをミルディーヌは知っている。
 ほんの少しだけ、リアノの殺気が膨れ上がる。不審と疑念、そして敵意……この会話を経て、これらの割合が高くなったようだ。未だ確信には至っていないが、しかし彼女の心のどこかで、確かに眼前の少女を相容れない敵だと認識したのだろう。
 ならば話は早い。ミルディーヌはその笑顔を、ほんの少しだけ獰猛なものにする。
 彼女にとっては、リアノはその名を聞いたときから既に、相容れない、敵だ。
「……それで。私がその『福音』のリアノだったらどうするの?デートにでも誘ってくれるのかしら」
 リアノが呟いた。恐らくは引き金となるであろうと分かっている言葉を。
 だから、ミルディーヌも応えた。
「いえ、デートというものでもありませんけれど――」
 言いながら、ミルディーヌは両腰へと手を滑らせる。ぱちんと留め金が外れ、彼女の手は慣れ親しんだ冷たい感触へと触れた。
「――私と、遊んでくれませんこと?」
 彼女が掴むは、第三位・非形質固定型永遠神剣『光姫』。
 その様子を見ても、リアノは全く驚かなかった。ただ一つだけ、ため息をつく。
「……悪いわね」
 対して、リアノは右腕を覆うようにして顔の前へと運ぶ。「変質せよ」、その一言だけで彼女の腕にあったブレスレットは巨大剣へと姿を変えた。
「私、ダンスは踊れないのよ」
 彼女が掴むは、第三位・非形質固定型永遠神剣『福音』。

 たった一分にも満たない会話。それによって二人は、互いを敵だと認識する。
 そうなってしまえば事は易しい。
 後は両者に出来る限り速やかに、敵を倒すだけなのだから。

                     *

 瞬き一つ。
 それがリアノがミルディーヌに肉薄するのに要した時間だった。
 呆れた速さである。いかにリアノがエターナルであるとは言っても、それが一瞬にしてビルの対角線への移動を可能にした理由の全てとはならない。
 まさに疾風迅雷。電光石火。
 そしてその速度から繰り出される斬撃もまた当然にして、通常の範囲に収まるようなものではなかった。
「はあぁぁぁっ!!」
「――っ」
 大剣が振り上げられ、鮮血が宙に咲く。この血は、言うまでもなくミルディーヌのものだ。リアノの斬撃が回避行動をとっていたミルディーヌの腕を捉え、浅く切り裂いたのである。
 避け切れなかったミルディーヌであるが、決して彼女の反応が悪かった訳ではない。むしろ褒めるべきであろう。だってリアノは本来、彼女のわき腹を切り裂くつもりだったのだから。
 流れた体から更にステップを踏み、間合いを取ろうとするミルディーヌ。しかしそれを許すリアノではない。たん、と一歩を踏み込んで追い討ちをかける。振り上げた勢いはそのままに、猛烈な振り下ろしを仕掛けた。
 今度は、避けられた。
 ひゅ、という音がして彼女のウェーブがかった銀髪の先端が舞い散る。半瞬前まで腕があったところだ。リアノの斬撃がもう一瞬速く……否、ミルディーヌの回避がもう半瞬遅ければ、その時点で勝敗は決していただろう。
 まさしく紙一重である。しかしミルディーヌの笑みは崩れていない。
 そう……それはまるで、予定調和だ、とでも言うかのように。
「―――!?」
 言い知れぬ不安を感じ、リアノは急に足を止めた。
 本来ならばここは一気に畳み掛ける場面である。彼女の理性もそうしろと告げている。しかし本能は、ここで踏みとどまれと強く警告していた。
 その予感は正しかった。
 目前を、一条の閃光が通り過ぎた。
 それはミルディーヌの神剣、『光姫』による斬撃であった。体勢を崩しながらもミルディーヌは円輪を振るい、反撃を繰り出したのである。
 円輪と形容したものの、『光姫』の外側は鋭利な刃のようになっている。あのまま追撃を仕掛けていれば、間違いなくリアノの首は飛んでいた。
「くっ……」
 無意識の恐怖がリアノにバックステップを踏ませた。すばやく間合いを取って、彼女はもう一度大剣を正眼に構えなおす。
 ミルディーヌの速さは大したものではない。リアノとは比べるべくもないし、クレオと比較しても数段遅い。厄介なのはただ一つ、その並外れた反応スピードだ。リアノの動きを見てからでも回避や反撃が出来たのはその為である。
 円輪のリーチは他の武器と比べて絶対的に短い。よってもっとも有効な戦い方は、敵を十分に引き付けてからのカウンターとなる。至近距離から繰り出される一撃は距離の心配もないし、なにより避けにくい。
 それは確かに厄介な戦法だが、しかしそれだけならなんとかなる。カウンターを繰り出す暇を与えないほど連続で攻撃を仕掛ければいいだけの話だ。リアノのスピードを以ってすれば、それも十分に可能である。
 可能……なのに。
「……っ」
 短く舌打ちをする。勿論、ミルディーヌに見えないように。
 彼女は強い。だが決して負ける相手ではないはずだ。それなのに何故、こんなにも胸が騒ぐのか。
 リアノは知っている。この胸騒ぎは、すなわち本能の警告。全力を以って相手を叩き潰せ、でないとお前は死ぬ――彼女はこんな胸騒ぎをこれまでにも何回か経験していた。
 いずれも、自分よりも格上の敵を相手にしている時に……
「……ふふっ」
 苦虫を噛み潰したようなリアノの表情とは対称的に、ミルディーヌの声には楽しそうな響きさえ混ざっている。
 白鮎のような指を口元に寄せて、彼女はくすくすと笑っていた。敵と戦っている最中だというのにその様子には微塵も緊張の色は見られない。そう、まるで彼女の言うとおり、ただ「遊んで」いるだけだというかのように。
 彼女はその声のまま、笑みのまま、告げた。
「貴女のリズム。粗雑過ぎますわ……なるほど、これではダンスは踊れませんわね」
「何を――っ!?」
 言いかけて、しかしリアノははたと口をつぐむ。
 ミルディーヌの笑みが変わっている。無邪気な微笑から、冷たい笑みへと。
「これで全力ですの?それなら……」
 すぅっと、口元に寄せられた手が落ちた。
「それなら……私にはこれ以降、指一本たりとも触れられませんことよ?」

 たん、たたん、たん

 ミルディーヌが動いた。
 同時に、高らかに響く音。それはモルタルの床に反響し、たっぷりと湿気を含んだ空気に浸透していく。単純な音の羅列に過ぎないはずのその音は、不思議と何かの音楽のようにリアノの耳に届く。
 そのピアニストのカデンツァじみた連続音は、実際にはミルディーヌの足下から奏でられていた。彼女が細かく刻んでいるステップ、それがその音の発信源である。
 しかしそのステップは、戦うためのものとは程遠い優雅さを含んでいた。ふわりと舞うスカート、空気の抵抗になびく髪。そう、それはまるで、先程見たような……
 舞を舞っている、ように見えた。
「……私、もしかして馬鹿にされてるのかしら」
 怒りと言うよりも苛立ちを込めてリアノは呟く。それと同時に、彼女は大剣を深く引いた。前傾姿勢をとり、いつでも走り出せる体勢をとる。
 余裕があると言うのならそれに便乗させてもらうまでだ。
 一気にたたみかけ、この戦いに早期決着をつける。
「そう思うのなら、かかってきてはいかがですの?」
「そうね。じゃぁ、そうさせてもらうわ……っ!」
 言うか言わないかといった瞬間に、リアノは地を蹴った。
 ミルディーヌとの距離を詰めるのはやはり一瞬。その間にリアノは素早く『福音』を大剣から短槍へと変質させる。
 先程の大剣の一撃はどうしても大振りにならざるを得ず、それが原因で目測を違えてしまったのだ。だからまず軽く当てて距離を確かめる。
「っ!!」
 渾身の刺突がミルディーヌを襲う。しかし肝心の手ごたえがない。リアノが貫いたのはミルディーヌの耳元から数センチの暑気だけである。
 ――はずした?
「はっ!!」
 そのまま、引き戻すことなく横薙ぎに一閃。だが、肉を切り裂く手ごたえはやはりない。
 またしても当たらない。先程と同じく、紙一重で。
 ――くっ!!
 リアノは目にも留まらぬ速さで連撃を繰り出す。薙ぎ、払い、突き、切り上げ、振り下ろし。あらゆる攻撃があらゆる角度からミルディーヌへと襲い掛かる。――当たらない。
 最速のはずの攻撃はただ空だけを斬り続ける。いずれもあと数センチ、あるいは数ミリといった距離で。
「どうして……」
 疑問の声を上げながらも、リアノは誰に教えられることなくその答えを理解していた。
 何故、自分の斬撃がかすりもしないのか。
 何のことはない。ミルディーヌが避けているのだ。それも、最小の動きで。
 ミルディーヌが刻んでいた、細かなステップ。それはリアノを挑発するためのものではない。
 リアノの目測を誤らせ、攻撃を避けやすくするためのものだ。
 ミルディーヌが踏むリズムは不規則なものだ。そのリズムでステップを踏めば、相手の攻撃リズムはいやでも狂う。結果的に相手は舞のリズムに飲み込まれ、翻弄され、目測を誤ることになる。
 リアノは接近戦を得意としている。しかしそのリアノが危機を感じていた。
 接近戦は不利、と。
「なら……っ!!」
 決断するやいないや、リアノはすぐさまバックステップを踏んだ。大上段に槍を振りかぶり、斬撃へのモーションに入る。
 このまま振り下ろしても、まるでミルディーヌには届かないような間合い・・・・・・しかし、リアノにはそれでよかった。
 シャァン!
 リアノが槍を振りかぶった瞬間に、彼女の槍が鋭い音をたてる。例えて言うならば、澄んだ鈴のような音。それと同時に、彼女の槍から淡い光が漏れる。
 彼女の光は、オーラフォトンの光。全身に巡っているオーラフォトンを槍に集中させているのだ。
 そして、オーラフォトンが極限に達したとき、リアノはその槍を振り下ろした。
「第三級特殊攻撃技能……『バルムンク』ッ!!」
 リアノの槍が、空中に弧を描く。だがしかし、それだけでは終わらない。その弧に沿うかのように、刀身から黄金色の光が放出された。
 それは破壊の象徴。対象が何であろうと関係なく、一切合財を無に返す。
 凶暴な光は迷わず一直線に飛翔する。行使者の命に従い、敵を撃ち滅ぼさんが為に……
 そして光は、狙い違わずミルディーヌへと食らいついた。
 炸裂する光。鼓膜も破れよというほどの轟音と衝撃波がリアノへと襲い掛かり、彼女はとっさに防御姿勢をとった――『バルムンク』の破壊力なら、リアノをここから弾き飛ばすことなど訳ないのである。
 リアノが編み出した、四つの特殊攻撃技能。『バルムンク』はその中でも、単純な破壊力だけでなら第二位に匹敵する。光を極限まで圧縮して剣気もろとも放つこの一撃は無闇に強力で、並みのエターナルなら例え何人いようとも弾き飛ばすことが可能だった。
 だが……
 「……ははっ」、砂塵の向こうに立っているミルディーヌの姿を見やり、リアノは笑った。だが決してその笑みは勝者のものではない。
「そよ風、ですわね」
 ――無傷。その白い肌にも、ドレスにさえも傷は見当たらない。余裕を崩すことすら出来なかった。未だにミルディーヌは、その顔に微笑を湛えたままである。
 笑みを浮かべる両者だが、その笑みの質は決定的に違っていた。ミルディーヌの笑顔が相手の渾身の一撃を受け止めた余裕の表情であるのに対し、リアノのそれには何の意味もない。笑うしかないから笑っただけだ。
 『バルムンク』の破壊力は、この世界の基準でいうのならダイナマイト数十発分に相当する。それを苦もなく受け止めてしまったのだから、もう笑えないのを通り越して笑うしかない。
「第三級特殊攻撃技能『バルムンク』……ふふっ、四つしかない切り札の一つをこんなに早く切ってくるなんて、意外とせっかちなんですのね?」
「……それは」
 背中に詰めたい汗を感じながら、リアノは呟いた。
「あなたの強さを評価した戦略よ」
「あら、光栄ですわ。……でもそれなら、もっと評価を上げていただきませんと」
 すっと切れ長の目が細まる。肉食獣さえも思わせる、冷たい殺気。
「私と『光姫』は、もっともっと強いですわよ?」
 
 瞬間、リアノの両脇を光刃が駆け抜けた。

「っ――!」
 遅れてやってくる鋭い痛み。それは両の上腕部を浅く切り裂き、オフホワイトのシャツにじわりと血を滲ませる。しかしこの程度の傷、なんら戦闘に支障はない。それよりもまず早く、リアノは次の行動をとらなければならなかった。
 一見ただの光にしか見えない先程の攻撃も、リアノの卓越した動体視力はその正体を捉えていた。目にも留まらぬ速さで動いたミルディーヌの両腕。やはり閃光のような速さで投擲された二本の『光姫』。
 ――チャクラムにもなるっていうの……あの神剣はっ!?
 そしてチャクラムならば、すかさず第二撃が来る。
 リアノは背後を振り仰いだ。彼女の予想通りに光は途中で弧を描き、再度リアノへと迫る。フェンス、床、給水タンク――その途中にある全てのものを切断しながら。
 ……なんという破壊力か。あんなものを食らってしまえばリアノなどひとたまりもない。
 横っ飛びに跳んで凶暴な光を避ける。光はそのまま真っ直ぐに飛び、そしてミルディーヌに難なく受け止められた。やはりチャクラムだというリアノの予想は外れていなかったのだ。
 全身がすーっと冷えていくような感覚。リアノは頬へと流れた汗をぬぐいながら、ミルディーヌを見据えた。
 ――本当、なんて子なの……
 得意の接近戦で一気にたたみかけようと思っていた。しかしミルディーヌの巧みなステップに翻弄され、一撃たりとも攻撃を与えることは叶わなかった。
 ならばと距離を引き離し、遠距離攻撃を試みた。しかし懇親の『バルムンク』はなんなく受け止められ、代わりにミルディーヌのチャクラムの威力をまざまざと見せ付けられた。
 遠近ともに隙がない。どこを攻めていいのか、全く分からない。
 ……いや。
 綱渡りとも呼べる方法が、一つだけ。
 リアノは闘気と共に下がりつつある刃先を上げた。ミルディーヌが追撃をかけてくる様子はない。
「あなたの神剣……非回帰性永遠神剣よね?」
 呼吸を整えつつ、尋ねる。
「えぇ、そうですわよ」
「なら、声にしたがって永遠神剣を一つにしようとしている訳じゃないのよね?」
「勿論。そんなものに興味はありませんもの」
「じゃぁ……」
 リアノは呟く。ミルディーヌを見据える目を、ほんの少し鋭くして。
「じゃぁ、あなたをロウ・エターナルたらしめているものは何?あなたは一体、この世界で何をしようとしているの?」
 目の前の少女は神剣の声にしたがっているわけでも、破壊欲求に取り付かれているわけでもない。ならば何故ロウ・エターナルに属し、自分に剣を向けるのか。
 分からなかった。
「…………」
 その問いに、ミルディーヌはそっと目を閉じる。何が彼女をそうさせたのかは、はっきりとは分からないけれども。
 しかしリアノはその様子に、微かな悲哀を感じ取ったような気がした。
 まもなくミルディーヌは目を開ける。
 その時にはもう悲哀は消し去られていた。代わりに現れるのは、揺ぎ無い決意だけである。
「私の願いは、この世界の全てをマナに返すこと」
「……そう」
 その答えを受けてリアノは変質する。全身に闘気と殺気をくゆらせて。
「結局あなたも同じってことね……好き勝手命を弄んで、踏みにじって、何が楽しいって言うのよ?」
「……何とでも言うがいいですわ。どうせ後戻りは出来ませんの。とうに覚悟はできていますわ」
 呟き、ミルディーヌは両手に『光姫』を構える。投擲の準備だ。彼女はもう一度、チャクラムを放とうとしていた。
 また、あの凄まじい攻撃が来る。しかし逆を言えば、リアノに与えられるチャンスはそこしかない。
 リアノもまた短槍を両手で握り締め、構えを取った。
「全ては、父さまの為に」
 ――ミルディーヌの手が、殺意を放った。
 円輪は光となり、一直線にリアノへと迫る。凄まじいスピードだ。だというのにリアノは受けようとも避けようともしない。
 受けようとも避けようともしなかったが、しかしその時には既にリアノは行動を起こしていた。
「変質せよっ!!」
 短槍を握りつつ、叫ぶ。その瞬間に短槍はぐにゃりと分かれ、両の手に収まった。それらはそれぞれ別の得物へと変質を遂げる。
 一つは自動式拳銃に。
 そしてもう一つは回転式拳銃に。
 変質するや否や、リアノは二つの銃口を定めた。今まさにリアノへと襲い掛からんとする二つの脅威。
 ここまで近づけば、外さない。
「当たれぇぇっ!!」
 引き金が引かれ、二つの閃光が連続して暑気を灼いた。
 それは即ち、マズルフラッシュとオーラフォトンの光。オーラフォトンの弾丸が放たれ、『光姫』に着弾し爆発した姿である。
 勿論この程度の攻撃で神剣を砕くことはできない。しかし、大分勢いを殺すことはできたはずだ。いかに凄まじい威力とは言えど、所詮は投擲武器。撃ち落すことなど造作もない。
 力強い反動に両腕の傷が開き、血が吹き出す。しかしそんなことに構っている暇などなかった。二丁拳銃を短槍に変質しなおし、韋駄天の如くミルディーヌへの間合いを詰める。
 これでミルディーヌは丸裸だ。彼女を守る神剣は既にない。
 リアノは自らの勝利を確信しながら地を駆ける。
 ――この時の彼女は、一つの決定的な違和感と一つの絶対的な間違いに気づいてはいなかった。


<『福音』の精神世界――8月5日・PM3:38>

 『福音』は気づいていた。リアノが犯してしまった絶対的な間違いに。
 叫び続けていた。己が契約者に迫る危険を知らせるために。
 しかし、その声は契約者には届かない。
 それも仕方のないことである。だってその声は、声として出されてはいなかったのだから。
 ――まさか、    の傷がこんなに悪化するなんて……っ!
 リアノに心配をかけまいと、必死で痛みをこらえてきた。しかし『福音』の自我に刻まれた傷は治るどころか度重なる変質でとめどなく悪化し、一部ではあるが自己崩壊すら進んでいる。
 声が出なくなったのもそのせいだった。リアノは戦いに集中していたために気づいてはいなかったが、声が出なくなってからしばらく経つ今でも『福音』の声は治る気配はない。恐らく直に、ゆっくりと自我は崩壊していくだろう。しかしそれを待たずともほんの少し無茶をしただけで自我など崩壊してしまいそうなほどの激痛が『福音』を襲っていた。
 だが、彼女は叫ぶのをやめない。リアノが気づかなければ全てが手遅れになる。今、このときを除いて救いへの光明はなかった。
 ――お願い、気づいて……気づいてぇっ!
 決して出ない声を枯らして、涙さえ流して彼女は叫ぶ。
 しかしその声が届くことはなく、目の前で契約者は足掻き続けるばかりだった。


<ハイペリア・廃ビルの屋上――8月5日・PM3:41>

 リアノは必死に短槍を振るっていた。
 凄まじい勢いで、縦横無尽に振るわれる槍。圧倒的な力でリアノはミルディーヌを一方的に攻め立てる。だが、その表情には一片たりとも余裕の色はない。
 ……だって。
 その攻撃は、一発たりとも当たってはいない。
「どうして――!!」
 当たらないの、とリアノは意図せずに漏らす。パワーでもスピードでも、リアノはミルディーヌを上回っていた。いかにミルディーヌのリズムがリアノを翻弄するとはいっても、その動きにも直に慣れる。いつまでも避け続けていられるものではない。
 ならば、何故。
 リアノは叫びだしたい衝動に駆られていた。
「……本当にお馬鹿さん。まだ気づいてなかったんですのね」
 ミルディーヌの声が聞こえる。そこにはもう微笑の色はなく、ただひたすらに侮蔑の響きだけが混ざっていた。
 彼女は依然としてリアノの斬撃を避け続けていたが、しかし回避で精一杯という訳でもない。それなのに反撃してこないのは神剣がないからか、それとも反撃するまでもないと思っているからか。
 悔しいことに、間違いなく後者だった。
「言ったでしょう?貴女のリズムは粗雑過ぎると……単調すぎますのよ、貴女の攻撃」
「……っ」
 理由が――全て、分かった。何故こうもミルディーヌが、リアノの攻撃の一切をかわすことができるのか。速さでも力でも勝っているのにリアノが攻撃を当てられないのには、ミルディーヌの反射神経よりもステップよりも重要な要因があったのだ。
 ミルディーヌはリアノの動きを予測しているのだ。予測して、リアノよりも一瞬早く動き出している。だからスピードで劣っているにもかかわらず、回避が間に合うのだ。
 そして、ミルディーヌにリアノの予測を可能にさせたもの――それはリアノが抑えずに放ち続けてきた、丸出しの殺気に他ならない。
 ミルディーヌとリアノでは接近戦の質が全く違う。リアノがひたすら己の速さと威力を武器としているのに対して、ミルディーヌの武器は技術と洞察力だ。相手の動きを瞬時にして見極め、分析し、その動きさえも利用してしまう。相性は最悪だった。
 リアノは『光姫』を撃ち落した刹那の選択を誤った。己の実力を過信して接近戦を仕掛けるのではなく、遠距離攻撃に踏みとどまれば良かったのだ。神剣を失ってしまえばミルディーヌといえどもただのエターナル、オーラフォトンの弾丸の掃射を受けて無事ですむ道理はない。
「何故父さまが貴女のような方を選んだのか……理解に苦しみますわね」 
 心底忌々しそうに言うミルディーヌ。
 怒りと悔しさにリアノはぐっと歯を噛み締めて、大振りに短槍を薙ぎ払った。
「あなたの父親なんか知らないわよっ!!」
 避けてくださいと言わんばかりの一撃。しかし激情に囚われたリアノは、それが愚行だと気づかない。
 当然の如くミルディーヌは身を翻し、その攻撃を避けた。素早く踏まれるバックステップ。ふわりと浮く彼女の体。
 ――着地した瞬間に……斬る!!
 そう思っていた。
 確かに、そのつもりだった。
 しかし、リアノは次の瞬間、その意志に反して静止してしまう。ミルディーヌが放った、たった一言に妨げられて。

「本当に、知らないと言い切れますの?――リアニール・フォーリングスノゥ?」

 攻撃の手が。
 止まった。
「な――」
 リアノの声は驚愕によって塞がれ、疑問の声が外に出ることはない。
 なんで。
 どうしてあなたがその名前を知っているの。
 だって。
 だってその名前は……
「……捨ててしまった、あなたの本当の名前」
 まるで思考を読んだかのように、ミルディーヌが呟く。
 そうだ。
 リアニール・フォーリングスノゥ。それがリアノがエターナルになる前の名前。
 しかし何故それを、ミルディーヌが知っている?
 エターナルになった瞬間、その名前は世界から否定される。そしてそれを待つまでもなくリアノの生まれた世界は滅んでいた。ロウ・エターナルたちの襲撃を受けて。
 ミルディーヌが名前を知っているはずはない。
 知っているとするならば、それはリアノと同じ存在。
 リアノと同じ世界に生まれ、リアノと同じ村で育ち、そしてエターナルになったもう一人の存在――
「……まさか」
 リアノは震える声で呟く。そんなはずはない――心がどんなに必死に叫んでも、次の瞬間にはもう彼女の口からその言葉が漏れ出ていた。
「まさか、その『父さま』って……」
 誤解なら、どんなに良かったことだろう。
 しかしリアノの目の前で、ミルディーヌはしっかりと頷いたのだった。
「えぇ。貴女の予想通り――」
 そして、リアノの世界は崩壊する。

「イリスレイド・グローランス。『秩序の七星』の一人にして、私の『父さま』ですわ」

 時間が。
 止まった。
 それと同時に呼吸も止まる。思考さえも静止し、まるでリアノだけがその瞬間、世界から取り残されたかのようだ。
 その中で、唯一心臓の音だけが、リアノの時を刻んでいた。
 どくん、どくん、どくん
 胸が焼けるように痛い。それは動悸ゆえなのか、それとも。
『あはは、無理だって。君は騎士になんかなれないよ。だって……君は、優しすぎるから』
 ふと、懐かしい声が浮かんできた。リアノが唯一愛した人の声。それはしかし、重く鈍くリアノへと襲い掛かってきた。
『僕の、家族になってほしい。その……君を守れるかどうかは、分からないけど』
『行っておいで、リアノ。僕はずっと、君を待っているから』
『見ないでくれ……僕の、こんな姿を……っ!!』
 どうして……?
 どうしてイリスが、ロウ・エターナルに?
 あんなに優しかったあなたが、どうして人を傷つけることができるの?
 約束したよ。いつか必ずめぐり合うって。どんなに離れていても、どんなに時が経っても……私たちは必ず、同じ道を歩いていけるって。
 なのに……

「隙だらけ、ですわよ?」

 ミルディーヌの声が、思考を切り裂く。
 しかしその声に危機を感じるよりも戦闘中に思考を放棄していたことを悔やむよりも早く、リアノの鳩尾で耐え難い苦痛が弾けた。

「がっ……!!」
 体がくの字に折れ曲がり、唾液が撒き散らされる。無論、それだけで済むはずもなかった。リアノはその衝撃のまま成す術もなく吹き飛ばされ、フェンスへと打ち付けられる。
 受身など、取れるはずもなかった。
「ぐ……」
 衝撃が内臓を痛めつけ、容赦なくリアノの意識を奪う。暗転していく視界。意識が……薄れていく。
 でも今のリアノには、それを抑えることすらできなくて。
 ――意識は、すぐに闇の中へと落ちていった。

                       *


 勝敗は、決した。
 決してしまった――こんなにも、短時間で。
 ミルディーヌはしばらく倒れているリアノを眺めていたが、やがて、ふんと鼻を鳴らした。
 ――いつまで、そうしているつもりですの?
 起き上がれるようになるまでか。それとも自分が殺しに来るまでか。
 前者はありえなかった。ミルディーヌの蹴りは確かに鳩尾を打ち抜いた鋭いものではあったけれど、立ち上がれなくなるほどのものではない。先程までのリアノならすぐさま立ち上がり、ミルディーヌと相対していただろう。
 だとすれば、危険なのはむしろ体よりも精神の方か。
 恐らくリアノは、イリスと別離してからは彼との再会のみを心の支えとして生きてきたはずである。イリスと再会するまでは死ねない。気の遠くなるような年月の中、その信念だけで彼女は戦いぬけてきたのだ。
 永遠とも呼べる時間をかけて培われたそれは確かに強固なものではあるけれども、反面ガラスのように繊細でもある。その信念が打ち砕かれてしまえば、彼女はもう立ち上がることは出来ない。
 リアノはイリスが敵になったという事実を受け入れられなかった。だから目を背けた。否、今も背け続けている。他の何でもない、自分の大切な想い出を守るために。
 それは、なんて……
「……なんてよわい、ひと」
 ミルディーヌは今度こそ怒りと苛立ちに、ぎり、と歯を鳴らした。
 イリスを愛しているのなら、何故彼の全てを受け入れてやらない。
 何故拒絶する。彼はあんなにも、貴女に焦がれて苦しんでいるというのに。
 ミルディーヌはイリスの全てを受け入れることが出来る。愛している。彼の罪も、痛みも、過去も、ロウ・エターナルであることも全て。だから彼の後を追ってロウ・エターナルになることもできたし、彼にマナを捧げることも出来た。
 イリスを愛する気持ちでならば誰にも負けない。確かにミルディーヌには幾星霜も重ねた想いはないけれど、その分イリスと共に過ごした歳月がある。こんなにも強い気持ちがある。ならばこの想いは誰にも負けはしない。
 ……負けはしない、のに。
 知らず、ミルディーヌは下唇をきつく噛み締めていた。
 ――あぁ。行き着く先は、いつも同じ。
 それでもイリスはリアノを選ぶだろう。どれだけ自分がイリスを思っていようと、愛していようと全く無関係に。そして自分には見向きもしなくなる。彼にとって最も光り輝く存在がそこにいるのだから。
 イリスの御手でその髪を撫でられるのはリアノであり自分ではない。イリスの心を手に入れられるのはリアノであり自分ではない。
 どれだけ想ったところで、イリスにとって自分はやはり娘でしかなく……
 許せなかった。
 自分から大切なものを奪おうとするリアノが。
 ――貴女は、こんなにも多くのものを持っているのに……
 少女の心が嫉妬で塗りつぶされていく。純白が限りなくどす黒く汚されていく。
 でも。誰が少女のことを責められると言うのだろう。
 ――私には、父さましかいないのに……
 噛み締めた唇から、つぅっと血が垂れていく。どこか虚ろだった焦点が、ぴたりとリアノに合った。
 それは。生まれて初めて少女が抱く、正真正銘の殺意。
『何があっても……リアノにだけは、手を出しちゃいけないよ』
 頭の中に響く、イリスとの約束。それを破ることはきっと、大切なものを失うことを意味するのだろうけど。
 知ったことか、と思った。
 リアノの想いなんて――イリスの想いなんて、知らない。
「私、貴女に生きていてほしくありませんの……貴女だって、父さまが敵である世界なんて嫌なんでしょう?」
 リアノは応えない。
 だからミルディーヌは、自分で答えを定めた。
「なら、お死になさいな」
 少女は呟き、手に持つ凶器を痛いほどに握り締めた。


<何処か――8月5日・何時か>

 リアノは、何もない空間を漂っていた。
 何も見ず。
 何も聞かず。
 何にも触れずに。
 何もすることなく、膝を抱えて宙を浮いていた。
 その彼女の行為には何の意味もない。だからこれはただの逃避だ。やるべきこと、やらなければならないことがあるに、そこから目を背けてしまっているのだから。
 早く立ち上がらなければ、と心のどこかが叫ぶ。為すべきことを為せ、その為に自分は剣を執ったのだから、と。
 しかしその一方で、心はこうも言っていた。――立ち上がってどうする、お前はその剣を最愛の人に向けられるのか、と。
「………っ」
 きっと、無理だった。
 リアノはこれまで、イリスと再会するためだけに戦い続けていた。イリスだけが彼女が生きる理由の全てだった。
 そんな存在に剣を向けられるはずがない。
 ――そうなるくらいならいっそ……消えてしまった方が、いい。
 決定は、為された。
 リアノは両手に力を込めて、静かに目を閉じる。そうなってしまえば、後は消えてしまうのを待つだけのはずだった。
 しかし……
【………リアノ】
「――?」
 その声が、届いた。
 それは聞くことを放棄した耳にではなく、思考を放棄した頭の中に。湖面をそよぐ風のように、清廉な乙女の声は優しく響く。
 リアノは腕を解き、目を開ける。そこには一人の少女が立っていた。
 美しい少女だった。ウェディングドレスにも似た純白の衣装に身を包み、肌も腰まで垂れている髪もそれ以上に白い。少女と言うよりも乙女と言った表現の方があうような、まさに「清廉」を具現化したような存在。
 リアノは息を呑んだ。
 白の乙女の容姿に該当する容姿を持つ人物をリアノは知らない。しかしリアノが息を呑んだのは、紛れもなくリアノがその乙女を知っていたからである。
 容姿など関係ない。リアノには気配だけで彼女だと分かる。
 だって、この人物は――否、この乙女は……
「『福音』………?」
 乙女はその言葉に、ほんの少しだけ悲しそうに微笑んだ


                          

                         ――後編へ続く

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