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第X章 きみのたたかいのうた ―前編―


 ――初めて手を伸ばしてくれたのが、貴方だったから。
   だから私は、初めての温もりを愛しいと感じられた――


<ハイペリア・マンションの一室――8月5日・AM9:15>

 あてがわれた部屋は、なかなかに悪くなかった。
 マンスリーマンション、というものらしく、部屋の中には最初から家具が一式そろっている。家電からインテリアまで、どれも飛びぬけて豪華というわけではなかったが、細部にセンスが感じられた。
「僕一人には勿体無いな、ここは」
 イリスはそう呟くが、かと言って誰かと住むには狭すぎるだろう。それにイリスは単独行動のはずだから、この部屋を訪れるものがいるかどうかも分からない。
 ――彼女も、今は他の任務に当たっているはずだしね。
 イリスと別行動になることを、目に見えて嫌がっていたようだったが。
 その様を思い出し、微苦笑しながらイリスはカーテンを開けた。まぶしい光が部屋いっぱいに差し込んでくる。
 この光はつまり、お日様ががんばっている証拠だ。
 イリスは元来肌が弱く、夏の強い日差しは体に好ましくない。しかしこの生命力あふれる光は好意に値する。
 この世界は……こんなにも、光に満ちている。
 できるならこのままぼーっと一日中過ごしていたかったが、そういう訳にもいかなかった。一つ大きく伸びをして、彼は大きく伸びをした。
 テレビのスイッチを入れる。
 この世界には「ニュース」という便利な情報媒体があるらしい。勿論カオス・エターナルの所在その他もろもろの情報まで手に入るわけではないだろうが、昨日の一軒もある。何かしらのヒントは掴める筈だ。
『――高校の前からお送りしています。見てください、この現場を。何か巨大な怪獣が暴れまわったような――』
 ……ビンゴ。
 そこへ映し出されたのは、無数のクレーターに穿たれた、どこかの高校の校庭だった。余波が方々に飛び散ったのか、校庭どころか校舎にも所々ひびが入っている。
 それはつまり、昨夜の戦いの名残だった。
 『隠匿』のギリアム、『上弦』のシルフィード、『煉獄』のクレオ。この三人が人数、正体共に不明なカオス・エターナルたちと交戦し、倒されたのがこの学校なのだ。
 ――主な被害はグラウンドと校門前の二箇所……二手に分かれた?だとすると、相手は二人以上か……
 そう考えるのが妥当だろう。もっともそれは戦いに参加したカオス・エターナルがであり、この世界に潜入している人数は依然分からないままなのだが。
 それから5分ほどそのニュースを見ていたが、特に有益な情報は何も無かった。リモコンで電源を落とし、そのままイリスはソファーにごろんと横になる。
「ふわ〜〜〜……」
 軽い空腹感。そういえば昨日ここに着てから何も食べていなかったのだ、と思う。何か作って食べようかとも思ったが、面倒くさいのでやめておいた。いざとなったらパンでも焼けばいい。
 ――情報は何もなし、か。敵の正体ぐらいは知りたかったんだけどな……
 あるいは、この戦いに彼女が関わっているのか、だけでも。
 今では確か、『福音』のリアノと名乗っているはずだった。イリスが今まで生きた中で唯一愛した女性は。
 この位置からだと照明がじかに目に入って眩しい。右手をかざしながら、イリスは緩やかに彼女を思い出していた。

                    *

 彼女――リアノは、幼い頃から正義感の強くて明るい少女だった。
 戦災によって両親を亡くし、また視力を失ってしまった妹を抱えていたからだろう。子供の頃から面倒見もよく、また悪を放っておけない性格だったように思う。
 そんなリアノであるのだから、同じように戦争で父親を亡くし、いじめられていた気弱なイリスが放っておかれるはずも無かった。
『あ・ん・た・た・ち〜!そこでなにやってんのよっ!!』
 イリスがいじめられているとき、リアノは必ず助けてくれた。多数対一だったこともある。相手がリアノよりも大きく年長だったこともあった。
 でも、リアノは決して怯まずに。
 必ず全員を倒してイリスを守ってくれた。
 いつだったか、イリスは彼女に訪ねたことがある。
『ねぇ、リアノ。リアノは怖くないの?いっぱい相手にしても、いっぱい傷ができても平気なの?』
 それは子供らしく、ぶしつけな質問だったがリアノは笑って答えた。
『そりゃ、怖いよ……でも、イリスを守るためだもん。怖いって事も、何だか嬉しいよ』
 そして小さな拳を握り締めて、言った。
『だから安心して!隣の子もその隣の子もそのまた隣の子も、イリスをいじめる奴はみ〜んな私がやっつけてあげるから!!』
『四軒先の子まで僕をいじめに来たら?』
『う』
『村長様の所の子供までいじめに来たら?』
『うぅ』
『村中の子供が僕をいじめに来たら?』
『うぅ〜……』
 きっとその様子を想像したのだろう。リアノは頭を抱えてうなりだす。
 それでも結局、彼女はどこまでも彼女らしく、顔を上げていうのだった。
『大丈夫!パン屋の子も水車小屋の子も村長様の所の子も、みーんな私がやっつける!片っ端からボコボコにしてやるんだから!!』
『……それはただの通り魔だよ、リアノ……』
 不穏当なリアノの発言に、イリスは微苦笑する。
 けれども、嬉しかった。
 胸を張って自分を守ってくれると言ってくれた君が。
 明るく、優しく、太陽のように笑う君が。
 ずっと一緒にいられると信じて疑わなかった。
 きっと、それは。
 もう二度とは戻ってこない、大切な大切な日々の欠片――

                      *

 ――ぴーんぽーん
「ん……」
 突然に間の抜けた音が響き、そこでイリスの邂逅は断絶された。
 何の音だろう……少し考えてから、この音が『インターフォン』という物の音だったことを思い出す。確かこの世界の呼び鈴のようなものだったはずだ。
 ――早いな……
 呼び鈴が鳴ったということは、来客が来たということに他ならない。こんなに早くに誰だろう……
 そう考える時間は、しかしイリスには与えられなかった。
 ――ぴーんぽーんぴんぽんぴんぽんぴーんぽーんぴんぽんぴんぽんぴーんぽーん
「…………」
 連打。
 どうやら来客は、なかなかにこらえ性がないらしい。呼び鈴の音に急かされるように、イリスはぱっと立ち上がった。
「はーい、今出ます!」
 スリッパをひっかけるように履き、ぱたぱたと走っていく。鍵を外し、無防備にドアを開けた。
 と……。
「と・う・さ・まぁっ!!」
「わあぁぁっ!?」
 瞬間、腹に走る衝撃。それを覚えたのと同時に、彼は突然の訪問者に押し倒された。腹の痛みが治まるのと同時に背中に鈍い痛みが駆け抜ける。
 訪問者はイリスの上に馬乗りになっているようで、胸に圧迫感があった。
 あわや急襲者かカオス・エターナルの刺客か、といったところだったが、イリスは寸での所で防衛反応には移らない。それはイリスが訪問者の「父さま」という言葉を聞いていたからで。
 何のことは無い。自分をそのように呼ぶたった一人の人物を知っていたからだった。
「……やぁ、ミルディーヌ」
 何が「やぁ」なのかは分からなかったが、イリスは押し倒された格好のままそう言った。
 その途端、馬乗りになっている少女――そう、少女なのだ――の相好が崩れる。傍から見ればイリスを絞め殺そうとしているかいかがわしい行為をしようとしているようにしか見えない体勢のまま、ミルディーヌと呼ばれた少女は無邪気に微笑んだ。
「やっと逢えましたわ、父さまっ!」
 そう言って、ちょこんと小首を傾げる。ウェーブのかかった銀色の髪が、甘い香りを連れてふわりと揺れた。
 リボンで結ばれた髪に、ゴシックロリータの黒いドレス。その愛らしい姿は、こんな世界でなければどこの姫君かと思うだろう。しかし両方の腰に吊るされた対のリングが、その予想を見事に裏切っていた。
 これが彼女の永遠神剣『光姫』。彼女の真名は、『光姫』のミルディーヌである。
「私、父さまに逢いたくて早く任務を終わらせてきたんですのっ。この日が来るのを、一日千秋の想いで待っておりましたのよ!」
 よほどイリスに会えたのが嬉しかったらしく、体をゆすって全身で喜びを表現している。その様子に、イリスは微苦笑した。
 確かに、彼女が来てくれたのは嬉しい。嬉しいのだけど……
「……ミル。喜んでくれたのは嬉しいんだけど」
「……はい?」
「気が済んだら、どいてくれるかな?その……女の子がいちゃいけない場所だと思うんだ、そこ」
「あっ……」
 瞬間、面白いようにミルディーヌの顔が紅くなった。
 ようやく彼女にも、今の状況のまずさが分かってきたらしい。なんといっても、玄関先で男性を押し倒しているのである。しかもドアは開けたままだった。これではいつ他人に見られて、あらぬ誤解を招くことやら。
「ご、ごめんなさい……今どきますわっ」
 真っ赤な顔のまま、彼女はイリスの上から降りる。しっかりとドアを閉め、鍵をかけることも忘れなかった。
 ……なぜ鍵をかけるのか、疑問は残るけれども。
 ――少し、汚れちゃったかな……
「あの……父さま?」
「ん?」
 パンパンと背中をはたいていると、ミルディーヌが尋ねてきた。上目遣いに、頬を染めたまま。
「ごめんなさい。その……苦しかったですの?」
「え?」
 イリスはほんの少しの間きょとんとしたが、やがて彼女が問わんとすることに気づき、吹き出してしまった。
 彼女らしいといえば、彼女らしい不安だ。
「ははは、大丈夫。ミルは女の子なんだから、そんなに重くなかったよ。不安だったの?」
「はい。その……最近食べ過ぎてしまったので、太ったんじゃないかって心配していましたの」
 俯き、消え入るような声でミルディーヌ。
 太ったかも、と言われて改めてミルディーヌの姿を見てみるが、相変わらずそのプロポーションは完璧である。程よく伸びた身長、ぽっちゃりとしている訳でもなく、かと言ってやせぎすな訳でもないスタイル。これで太ったかもなどと言っては、全国の婦女子の皆さんが暴動を起こしかねない。
「――あぁっ、笑わないでくださいまし、父さま!私にとっては真剣な問題ですわ!」
 くすくすと笑っていると、流石にミルディーヌが憤慨した。
 まぁ、確かに女性のスタイルに関して笑うというのは紳士として失礼に当たるかもしれない。
 ただ、エターナルが体重を気にするというのはいかがなものだろう?意味があるのだろうか?まぁ、計ったことがないからイリスには何とも言えないが。
「ごめんごめん。でも、ミルはもう少し食べて太ったって全然平気だよ。うん」
「……それって、フォローになってるんですの?」
 ほんの少し恨みがましそうに、ミルディーヌはジト目でイリスを見た。
 と。
 ぴくん、と何かに反応したように彼女の肩が震える。
「にゃぁぁぁっ!そうでしたわっ!」
「へっ!?」
 ミルディーヌの猫のような叫び声に驚き、イリスもびくっとする。
「食べる、という単語で思い出しましたわ!私、父さまのお食事を作りに来たんでしたの!」
 すっかり忘れてましたわ、などと言いながら、ミルディーヌは大急ぎで靴を脱ぎ始める。
「あ、いや別にいいよ。簡単な物で済ませるつもりだったから」
「ダメですわ、父さま。父さまったら、本当に簡単な物で済ませてしまうんですから」
 ミルディーヌは上品に靴を並べ終えた後、イリスのほうを向いて、こほん、とせきをしてみせた。さぁ、お説教を始めますわよ、という風に。
「よろしいですの、父さま?戦場ならばいざ知らず、食事というのは最低限、パンとサラダ、温かいスープに、何より家族の団欒が揃っていなければならないんですのよ。父さまのようにトーストを焼いてただ一人何もつけずに食す、というのは食事とは言いませんの。栄養も偏りますし、何より見るに耐えませんわ」
「ははは……」
 見るに耐えない、というのはひどい物言いだ。それでイリスは毎日を過ごしていて、なかなかに満ち足りているというのに。
 何かにつけてミルディーヌは、イリスの食生活に口を挟んでくる。彼女には何か食に対する哲学のようなものがあるのだろうか?それはよく分からないが、実際彼女の作る料理はかなりのものである。
 そこまで言って一転、ミルディーヌは顔に花のような笑みを咲かせた。
「ですから、お食事は私が作りますわ。よろしいですわね、父さま?」
 こうなれば、イリスに拒否権はない。もっとも、拒否する理由もないが。
 ミルディーヌの気迫に押されるように、イリスはこくこくと頷いた。
「あ、あぁ。じゃぁ頼むよ、ミル」
「はい。しばしお待ちくださいませね、父さまっ」
 まるでイリスの朝食を作れることが嬉しくて堪らないというようにミルディーヌはぱたぱたと走っていく。その後をついていくような感じでイリスもリビングへと戻った。
 彼女は奥の戸棚を開けたり閉めたりして、なにやらごそごそやっている。
「エプロン、エプロン、と……あ、やっぱりありましたわ。これがなければ始まりませんものね」
 そして嬉しそうにエプロンを引っ張り出し、手早くこれを身に着ける。ドレスの上にエプロンという奇妙な格好ではあるが、これが不思議と似合ってもいた……
 ……いや、ちょっと待ってほしい。
 どうして賃貸マンションの男の部屋に、フリルの付いたそれはまぁ可愛らしいエプロンがあるのだ?
 勿論これはイリスの持ち物ではない。
 となると……これも家具のように、マンションの備品なのだろうか?
 ――すごいなぁ、ハイペリア……
 そんな間違った感想を抱きながら、イリスはソファーに腰を下ろした。
 しばらくの間待ってろと言われたものの、しかし彼には何もすることがない。何とはなしに、冷蔵庫で品定めをしているミルディーヌの背中を見つめる。
「冷凍食品ばっかり……本当に仕方ないんですから、父さまは……」
 そんな呟きが聞こえてくる。
 ふと、自然に笑みが浮かんだ。
 ――本当に。いい子だな、ミルは……
 多少、強引なところはあるけれども。
 ミルディーヌはイリスのことを「父さま」と呼ぶが、勿論血が繋がっている訳ではない。彼女はある世界でイリスが拾ってきた少女――つまり彼女にとってイリスは、養父と呼ぶべき存在なのだ。
 なのにミルディーヌはイリスのことを「父さま」と呼び、無邪気に慕ってくれている。こんなに不甲斐ない、自分を。
 自分の娘にしておくには、本当に勿体無い……
 しかしそう思う反面、イリスはこうも思う。ミルディーヌが本当に自分の娘だったら良かったのに、と。
 ミルディーヌを見ていると、どうしてかリアノを思い出してしまうのだ。あの微笑を見るたびに。太陽のように笑う少女を見るたびに。
 そして、思ってしまう。ミルディーヌが自分と――リアノの娘なら良かったのに、と。
『母さま、母さま!起きてくださいな、こ〜んなにいいお天気ですわよ?』
『ふなっ?……何よミル、まだこんな時間じゃない……休みぐらいゆっくり寝かせなさい……』
『母さまはいつもゆっくり寝てますわ。それより……こんなにお日様ががんばって下さっているんですもの、どこかにお出かけしませんこと?』
『却下。無理。眠い』
『母さま〜っ!』
『そんなにどっか行きたいんなら、イリスに連れてってもらえばいいじゃない……』
『ダメですわ。母さまも一緒に行かないと意味ありませんのっ!』
 そんなことを言って。二人はなにやら言い争いをしていて、自分はそれを笑いながら見ている。
 そんな穏やかな時間が有れば……自分は、どんなに……


【無駄なことだ、契約者よ】


 刹那、頭の中で響いた声がイリスを嘲笑う。
 イリスを苛む。重く、苦しく、まるで枷のように。
【分かっているのだろう?汝はもう元には戻れぬ。残された道は――ひたすら暴虐を繰り返すのみ】
 ――……『境界』……ッッ!
【さぁ、我にマナを……更なる力をよこせッ!!】

    ど      く      ん     。

「がっ……っ!?」
 心臓が跳ね上がる。
 血が逆流する。
 神経が音を立てて引きちぎられる……!!
 それらが全てイリスの感じたことであり、そっくりそのまま彼の苦痛であった。傷を刻まれた痛みのようでもあり、病魔に冒された苦しみのようでもある。しかし原因はどちらでもないことをイリスは知っていた。
 ――またか……またなのか、『境界』ッ!
 これはつまり、『境界』の強制力であった。マナを求め、そうせざるを得ないようにイリスを苦しめているのだ。
 第二位永遠神剣の力は並大抵のものではない。その苦痛は常識の範疇を遥かに越えている。皮を引きちぎられ、針の上を転がされた方が遥かにマシだという代物である。
 それは、例えるのならば。
 ユウトが耐え続けた『求め』の強制力など、蚊に指された程度にしか感じない程の。
 常人ならば数秒と経たないうちに発狂してしまうほどの……激痛。
「がぁぁぁァァぁァァッ!!?」
「っ!?と、父さま!?」
 獣のようなイリスの咆哮に、ようやくミルディーヌが異変に気づいた。かすむ視界の中、必死に駆け寄ってくる彼女の姿が見える。
「この神剣反応……『境界』ですの!?父さま、しっかりして下さいませ!!」
 のたうちまわるイリスの前にひざまずき、彼女は叫んだ。決して手は触れない。その刺激が『境界』によって何百倍にも増幅され、槍で刺されるが如き苦痛を与えることを知っているからである。
 ――ミル、ディーヌ……ッ
「あっあァァぁaaaァァッ!!」
 少女を呼ぶ声も、獣じみたうめきにしかならない。
「くっ……『光姫』!『光姫』!!なんとか……なんとかなりませんの!?」
 必死に神剣に呼びかけるミルディーヌだが、しかし彼女も無駄だということは分かっているのだろう。『境界』が満足するマナを与えない限り、イリスの苦痛は終わらない。
 でも、一体どうやって?
 耐え難い苦痛に襲われながら、イリスは必死に思考の糸を紡ぐ。
 この世界のマナはとても希薄で、何を壊そうとも視認できる量のマナなど発生しない。たとえ『境界』の力を振るってこの街を消し去ろうとも、『境界』の満足する量には遥かに及ばない。敵のエターナルでもいれば殺してマナを吸収することもできるが、そんな存在もいない。マナを奪えるものなど、ここにいはしない。

 いや――いる
 目の前に――たった一人だけ。

「?」

 目前で、心配そうに自分を覗き込んでいる少女。
 銀髪を対のリボンで結び、黒のドレスを纏う少女。
 唯一愛した人の面影を、どことなく持つ少女。
 
 ミルディーヌ

 その存在を認識した瞬間、イリスの世界はミルディーヌへと固定された。

                   *

 かすむ視界。体が熱く火照る。呼吸が荒い。思考能力が極端に低下し、深く考えることを拒絶している。
 しかしそんな状態にあってもなお、ミルディーヌの姿は驚くほどに鮮明だった。
「どうしましたの!?大丈夫ですの、父さま!?」
 ミルディーヌの――娘のような存在だった少女の声が、麻薬のように感じられた。
 薄紅をひいたような唇。耳を打つ透明な声音。髪の甘い香り……イリスの五感全てが、ミルディーヌの存在を意識している。
 ふと、イリスはミルディーヌの全てが愛しくなった。
 彼女を壊すのは自分でなければならないと思うほどに激しく、狂おしく。
「とう、さま……?」
 イリスの異変に気づいたのか、ミルディーヌは怯えたような声を漏らした。だがそれも、今のイリスには嗜虐心を満たすものに過ぎない。
【さぁ、目の前の永遠者を犯せ……マナを奪うのだ!】
 『境界』も、そう言っている。
 体を走っていた激痛が、そのまま欲望へと変わっていくのが分かった。イリスはその衝動のままに、ミルディーヌへと手を伸ばして……

 ……ふと、リアノの優しい微笑が頭をよぎった。

『大丈夫。きっと大丈夫だよ。イリスは、イリスが思ってるよりもずっと強いんだから……ね?』
 そう言って。彼女が自分に微笑みかけてくれたのは、いつのことだっただろう。
 自分を信じてくれたのは、いつのことだっただろう。
 分からないけど、でも覚えている。
 リアノが自分を信じてくれたことを。
 自分に力をくれたことを。
 覚えているから。

 自分はまだ、全てを……『境界』に奪われた訳ではない。


 ――くっ!!駄目だぁぁっ!!

 辛うじて、意識が間に合った。
 イリスはミルディーヌへと伸ばした手をぐっと握り締め、後ろの壁へと叩きつけた。
 拳が裂け、血が飛び散る。
「……っ!?父さま!?」
 ミルディーヌが息を呑む音さえも、やけに生々しい。だがそれは、神剣によって無理やり植えつけられたまやかしの感情である。
「ふざけるなぁぁぁっっ!!」
 『境界』の強制力に抗うように、一層の力を込めて拳を叩きつける。ぐしゃり。嫌な音がして、拳が砕けた。
 この程度で神剣の支配から抜けられはしない。だが、痛みによって時間を稼ぐことくらいはできたはずだ。
「……リアノ……ッ」
 今度は口に出して、呟く。それだけで体を走る激痛が、弱まるような気がした。
 力をもらえるような気がした。
「ミルは……僕の仲間だ!!大切な僕の娘だっ!!お前なんかに!!いいようにされてたまるかぁぁぁぁっっ!!」
 壁に頭をぶつける。何度も何度も。
 自らを痛めつけることだけが唯一、自己を保つ術であるが故に。
「や……やめてくださいませっっ!」
 悲痛な声を上げて、ミルディーヌがイリスの肩を掴んだ。そのままもつれ合うように強引に、床に引き倒される。
 壁には赤黒く、血の染みができていた。
「やめて下さいませ、父さま……このままでは、死んでしまいますわっ!!」
 いつの間にか、彼女の目には大粒の涙が溜まっている。
 ……まだ、イリスの意思が足りないのか。そんなミルディーヌの姿でさえ、彼は綺麗だと感じてしまう。
 でも、彼女には泣いていてほしくないから。
「…………大丈夫、だよ………耐えて、みせるさ…………」
 ようやく、声を出すことができた。
 かすれるような小さな、本当に小さな声。しかしその声は、何よりも力強かった。
「君を……『境界』、の、好きには……させない……だって、君、は……僕の……大切な……娘、だから……」
 弱々しく笑いかける。大切な娘に心配をかけまいとして。
 ……きっと、笑えたと思う。
 本当に、自分は大嘘つきだった。大丈夫なはずはない。こんな状態があと三分でも続けば、自分の体は耐え切れずに、マナの塵へと変わってしまうだろう。
 しかし、それでも。それでも、イリスは……


「……いいえ。耐える必要なんてありませんわ、父さま」


 ふと、ミルディーヌが呟いた。
 微かに震える声音で。でも、誰よりも他の何よりも力強く。
 まるでそれが、イリスを守ろうとする聖なる宣言のように。
「ぇ……」
 驚いて彼女を見上げる。
 笑っていた。
 涙が浮かんではいたけれども、それでも優しく、美しく……その瞳に微笑をたたえて。
「父さまが大丈夫でも、私が大丈夫ではありませんわ。父さまの苦しみは、私の苦しみですもの……」
 しゅる、という衣擦れの音が聞こえる。……それは、あまりにも非現実的すぎて。ミルディーヌがドレスのリボンを解いたのだということに気づくまでに、だいぶ時間がかかってしまう。
 リボンが解かれたドレスはもはや衣服の用を成さず、辛うじて片肩に引っかかっている状態である。それを彼女は静かに、手で払い落とした。
 ぱさり。
「……ミル……ディーヌ?」
 不思議と今は痛みを感じない。きっとそれは、目の前の非現実的な光景を受け入れられないからだろう。
 ……今のミルディーヌは、ただ裸体に下着を纏っただけの姿で。イリスはその透き通るような白い肌から、目を逸らせないでいる。
 それはきっと、今のミルディーヌの姿が、あまりにも美しすぎるから。
「……私は」
 決意と悲壮と歓喜と羞恥に頬を染め、ミルディーヌは少し腰を浮かせる。前のめりになり、仰向けになっているイリスに覆いかぶさるようにして、四つん這いの姿勢をとった。
 だからミルディーヌが少しでも腕の力を抜けば、それだけでもう二人の体は触れる。
 見上げる少年と、見下ろす少女。
 恐らくは永遠の、惜しむらくは刹那の静寂。
 それを破るようにして、ミルディーヌは熱を帯びた声で、言った。
「私は……父さまのものですわ……」

 少女の唇が、そっとイリスに触れた。



<ハイペリア・高峰家――8月5日・AM9:00>

 あてがわれた部屋は、なかなかに悪くなかった。
 というよりも、元々ここは自分の部屋だったはずの場所である。居心地悪く感じようはずもない。
 ……勿論、まだ若干の違和感はあるけれども。
「くぅ………くぅ………んぅ、ユートさまぁ………」
 隣ではエスペリアが寝ている。こんな時間になっても目を覚まさないのは、働き者の彼女には珍しいことだ。よほど昨日の戦いの疲れが残っていたのだろう。
 ――いい夢……見てるみたいだな。
 その証拠に、とても幸せそうな顔をしている。それがなんとなく嬉しい。
 ユウトは微笑んで、もう一度視線を上に向けた。見慣れた天井の見慣れたシミが目に入ってくる。
 ここは高嶺家の、元ユウトの部屋――そして現佳織の両親の部屋であった。トキミによって過去が変わった今では、行き場を失ったユウトの部屋も有効活用されているらしい。とは言っても、今現在のユウトは勿論この部屋とは無関係である。
 何故この部屋で、しかもエスペリアと一緒に寝ていたのか?
 それは、昨夜の戦闘終了直後までさかのぼる。

                  *

「という訳で」
 第一声が、それだった。
 佳織に「大事な話があるから、悪いけど席を外してくれる?」と言った上で、何を言い出すのかと思えばこのセリフだった。
 当然ユウトとエスペリアは訳が分からず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「ということになっちゃった訳なのよ」
「はぁ……」
「だから、よろしく頼んだわよ?」
 そう言って、リアノは疲れたようなため息を零した。彼女もまた、今日の戦いの疲労を色濃く残している。
 その彼女には悪いのだが、これでしかし……
「……あの、リアノさま?僭越ですが、私には何のことだかさっぱり……」
 ――ナイス、エスペリア。
 ユウトは心の中で、そっとエスペリアに声援を送った。いくらリアノが疲れているとはいっても、この説明では全く訳が分からない。
 リアノは一つため息をつくと、「決まっちゃったことなんだけどね」、前置きをした上で言った。
「私たち。カオリちゃんと一緒に生活することになったわ」
『……は?』
 素っ頓狂な声が、二人の間に上がる。「まぁ、当然の反応よね……」リアノはもう一度ため息をついて見せた。
 彼女が言うに、つまりこれは上からの命令なのである。高峰佳織が狙われたのが分かった以上、それが放っておかれるはずもない。可能な限り一緒に生活し、彼女の命を守るように――それが先程リアノが連絡を取った際に下された命令であった。
 なるほど、確かに一緒に生活をしていれば佳織は格段に守りやすくなるだろう。ユウトとしても義妹の命の危機を放っておく気など毛頭ない。
 なかったが、しかし……
「それって少し、強引過ぎないか?」
 戦いが終わった後、佳織には大体のことを話している。永遠神剣、永遠者、カオス・エターナルとロウ・エターナルの対立、そしてユウトたちがその永遠者なのだということも。ユウトと佳織の関係と、ファンタズマゴリアでのことを除いた全てと言っても良いだろう。その全てを佳織は取り乱すことも無く聞き入れ、驚いたことに理解を示してもくれた。
 しかし、今となってはユウトたちと佳織は全く無関係な他人なのだ。守ってやるから一緒に住ませろ、というのはいささか強引すぎはしないだろうか。
 その言葉に、リアノは頷いてみせる。
「勿論、カオリちゃんの意思も尊重するわよ。こんなこと無理強いできる訳ないもの。全ては、彼女の意見を聞いてからよ」
「意見を聞いてからって……そんなのもう、分かりきってるじゃないか……」
 ユウトは、少々げんなりしたように言った。
 エスペリアとリアノは無論知らないだろうが、ユウトには佳織の返事が手に取るように分かる。何年も長い間一緒に暮らしてきたのだ、分からない方がどうかしてる。
 この世に悪人なんていないという、佳織理論。
 そう。彼女はその問いに笑顔で、こう答えるはずなのだ。

「……あ、はい。どうぞ♪」(思考時間、0.3秒)

 即答だった。
 ついでに言うなら、音符マーク付きだった。

                  *

 トキミによって、両親が生き残り自分がいなくなっている現在に修正されて、佳織はいろいろと変わっている部分があった。はにかむようではなく、朗らかに笑う笑顔。快活な表情。それはユウトに寂しさを感じさせると共に、喜びと誇りを同時に感じさせていた。
 しかし、どうやら歴史が変わってしまっても変わらないものもあるらしい。これでは、いつになったらユウトが安心できるようになるのやら。『お菓子上げるからおじさんについておいで』と言われたらすぐについていってしまうのではないだろうか?
 その様子が容易に想像されてしまい、ユウトは苦笑してしまった。
 ……そうだ。過去が変わって佳織の記憶が消えてしまっても、佳織そのものがいなくなってしまう訳ではない。
 ならば自分はあくまで自分らしく、佳織を守り抜けばいいのだ。佳織と、彼女が住む世界を守る……それが、自分がエターナルになった理由なのだから。
 いや、それともう一つ……
「ふふ……まだダメですよ、ユートさま……まだこのシチュー、出来上がってないんですから……」
 ユウトは隣のベッドで可愛らしい寝言を言っている恋人へと目をやる。
 エスペリア。もう一人の、大切な女性。
 自分なんかよりも遥かに強い彼女を守る力が自分にあるのかどうかは分からないけれども、全ての力を賭して彼女を守り抜こうと思う。それが、不器用な自分が唯一エスペリアに出来ることだから。
 決意を新たにしながら、ユウトはカーテンの合間から差し込んでくる光に目を細める。
 ハイペリアの光は相変わらず温かく、変わらずに彼を迎えていた。


<ハイペリア・イリスの部屋――8月5日・AM11:20>

 夢を、見ていたようだった。
 どんな夢かは覚えていない。
 でも、それがあまりにも幸せすぎて……
 目覚めたとき、少女の頬を涙が伝っていた。

 こんこんこん、と台所から軽快な音が聞こえてくる。
 包丁で何かを切っている音。どうやらここで誰かが料理をしているらしい。
 ……では、誰が?
「…………ん……」
 緩やかに、ミルディーヌの意識が覚醒していく。
 「覚醒していく」ということは、今まで自分は眠っていた、もしくは気絶していたということに他ならない。だが、彼女には全く思い当たる節がなかった。寝起きだからかどうかは知らないが、記憶がひどく乱れているのが分かる。
 どうやらミルディーヌは、ソファーの上に寝かされているようだった。
 ――ここは……
 天井を見上げて数秒の思案。その結果、ここがイリスの部屋であったことが思い出される。
 ――父さまの、部屋……
「やぁ、ミル。目、覚めたみたいだね」
 すると、目の前を何かを持ったイリスが通りすがって行った。よくよく目を凝らすと、それは皿のようである。そしてその皿の上に載っているのは、美味しそうに焼けたプレーンオムレツ。
 ミルディーヌの好きな半熟だった。
 先程台所から聞こえてきた包丁の音の音源は、どうやらイリスであったらしい。ミルディーヌの位置からは見えないが、彼の動作からするとテーブルの上には他の料理も並んでいるようだ。
 ――……父さまが、料理?
 どこぞの流星群が飛来してくることよりも珍しいことである。この永劫の中、流星など何回も見たが、イリスが料理をしている姿を見るのは初めてだったから。
 更に、数秒の思案。
「……父さま」
「なんだい?」
「悪い風邪でもひきましたの?」
 出した答えが、それだった。
 愛娘の心無い発言に、イリスは少々憮然とする。
「失礼な。僕だって料理くらいできるよ」
 「ただ……そう。今までやらなかっただけなんだ。うん」と、後はミルディーヌというより自分に言い聞かせるように弁明した。……本当に何なのだろう、一体。
 ミルディーヌがいぶかしむ中、朝食の準備は着々と進んでいく。
「ん?フォークが一本しかないんだな。まぁいいか、僕はスプーンだけでも……よし。ミル、ご飯だよ」
 そう言ってから、しかし「……あ〜」とイリスは顔をしかめる。
「……悪い。前言撤回」
「………え?」
「ミルはまだ動かない方が、いい。というよりも、今はまだまともに動けないはずだから」
「????」
 ミルディーヌの頭の中が、一瞬にしてクエスチョンマークでいっぱいになる。動けない?誰が?どうして?
 反論しようとして、ミルディーヌはふらふらと立ち上がった。
「何言ってるんですの?ほら、現にこうやって……」
 立てた。でも……極端に、頭が重い。
 ぼーっとする。そのくせ、体がいやに軽い。
 何だか、ふわふわとしていて……
「!?危ないよ、ミル!」
 気づいたときには、イリスに受け止められていた。
 受け止められた、と言えば曖昧だが、要するに抱きとめられた訳である。いつものミルディーヌなら歓喜に頬を染めるところだが、今はうまく働かない頭を総動員して状況把握をするのが精一杯である。
 ――えっと……
 自分が倒れかけたのだ、ということに気づくのに数秒。
 それをイリスが抱きとめてくれたのだ、ということに気づくのに更に数秒を要する。
 ……全く。今のこの状態は、思考に時間がかかるのが面倒くさくてしょうがない。
「……だから、言ったんだよ?」
 はぁ、と耳元でイリスのため息が聞こえる。その音で、ミルディーヌははっと我に返った。
「ぁ……も、申し訳ありません父さま!すぐ、どきますから……」
「そんなこと言っても、今のミルじゃ立つ事だってまともにできないだろう?」
 イリスにしては珍しく、諌めるような口調で言う。
「あんなに大量のマナが、一度に流れ出したんだよ?今は安静にしていなきゃ、ダメだ」
「え……?」
 大量の、マナ?
 その場にそぐわない単語に、彼女は軽く小首を傾げて……
「あ」
 ……やっと、思い出した。
 『境界』の暴走。イリスが激痛にのたうち回る姿。
 そして――そのイリスの苦痛を取り除くために、自分はイリスと契りを結んだのだ、ということを。
「〜〜〜〜〜〜っ!!!???」
 極限の羞恥心から、ぼっ、と紅くなる顔。それはレッドスピリットの髪もかくや、と言うほどのものである。
「あ、あぁぁぁぁあの父さま」
「何?」
「私、どのくらい気をやってたんですの?」
 イリスは少し思案して、言った。
「ん、一時間くらいかな。でも大丈夫。服を着せておいたから、風邪の心配はないはずだよ?」
 いや、ミルディーヌの言いたいのはそんなことではなくて。
 ミルディーヌが目を覚ましたとき、服はきちんと着せられていたし、体はどこも汚れていなかった。勿論床もである。
 つまり彼女は、後処理を全てイリスに任せきりで、行為を終えた後、のんきに気を失っていたことになる。
 恥ずかしさに、ミルディーヌは思わず両手で顔を覆った。
「なんて、はしたない……」
 穴があったら入りたかった。そのくらい恥ずかしかった。
 それでも、その羞恥心さえイリスは笑って受け止めてくれる。
「……いいんだよ。女の子なんだから、別に気にしなくても。……ね?」
「―――」
 ……どうやら、先程感じていたのは『極限の羞恥心』ではなかったらしい。顔の紅潮が、全身にまで広がっていく。
 ふと。自分を抱きしめているイリスの手が猛烈に意識されて、ミルディーヌは身じろぎをした。嬉しい。確かにこの状況は嬉しいのだが……このままここにいたら、歓喜と羞恥心できっと死んでしまう。
「あぁ、ああぁぁぁぁぁぁあの父さま?」
「何?」
「えとあの抱きとめて下さったのは嬉しいんですけれどもありがたいんですけれどもでももう大丈夫ですから手を離してくださっても結構ですというかその離して下さらないと私困りますというか」
 ……そのセリフ一つとっても『大丈夫』でないのは明白だった。勿論、別の意味でだが。
「でも、今は動いたら」
「だ、大丈夫ですわ!」
 イリスの言葉をさえぎり、ミルディーヌは声を上げる。
 マナ欠乏も思うように動かない体も、一体どれほどのものだというのだ。今イリスに抱きしめられて感じている、この苦しいほどの胸の動悸に比べれば。
 とにかく今は離れてほしい。そういうつもりで言ったのだが、所詮イリスにはそんな複雑な乙女心の解釈は不可能だった。
 こんなミルディーヌをどうしたものかと彼は少し思案していたようだったが、何か納得したようで、ひとつ自分で頷く。
「うん。ミルは軽いから、だいじょうぶかな?」 
「……え?何をする気なんです父さまってにゃぁぁ!」
 彼の言葉にミルディーヌが誰何の声を上げるよりもはやく。「よいせっ」という間の抜けた声を上げて、イリスはミルディーヌを抱えあげた。
「―――――――」
 つまりは。
 これは。
 お姫様抱っこ、である。
「うん、やっぱり軽い軽い。じゃ、テーブルまで行くから、そこでご飯だけは食べよう。ミル、座って食べるくらいなら何とかなるだろう?」
 問いかけられるが、その言葉はミルディーヌへは届いていない。今まさに本当に極限まで達してしまった羞恥心によって、彼女の脳はメルトダウン寸前である。
 というか、今、した。
 あぁ、今死んだな、と思った。
「ふにゃぁぁぁ……」
 かくん、と力が抜けてしまう体。しかし今回のそれは明らかにマナ欠乏のせいではない。正真正銘、完全無欠にイリスのせいである。
 だが、イリスがそんなことに気づくはずもなく。
「え?ミル?大丈夫かい!?ちょっと!?」
 イリスが情けなくうろたえる声を聞きながら、ミルディーヌは本日二回目の失神を迎えた。

                     *

「えっと……体の方、もう大丈夫?」
「……はい。もう、足腰も立つようになりました」
「本当に……大丈夫?」
「大丈夫ですわ。あの……その、『睡眠』もたっぷりとりましたし」
「………」
「………………」
 気まずい沈黙が、リビングを包んでいた。
 ミルディーヌが、彼女の言う『睡眠』に入ってから約一時間の時間がたっていた。二人は同じテーブルに座り、もはや朝昼兼用となってしまった食事を取っている。
 テーブルの上にはなかなかに豪勢な食事が並んでいた。フレッシュサラダにオニオンスープ、半熟のプレーンオムレツに買い置きらしいロールパンまである。普段全く料理をしないイリスが何処で料理のスキルを磨いたのかは知らないが、その料理はいずれも例外なく美味しいものであった。
 しかし、その美味しさもこの雰囲気を和ませるものにはなってくれない。
 それはある意味で当然のことともいえるだろう。つい先程、はっきりと意図せずして契りを結んでしまった男女が顔をつき合わせて食事をしているのだ。それも、義理とは言え親子という関係だった二人が。
 会話もなくなろうと言うものである。
 はぁ。イリスに見えないように、ミルディーヌはひとつため息をついてみせた。
 ――気分が重いですわ。
 もっとも体も重いが、これはマナ欠乏の後遺症なので大したことはない。
 大したことはないのだが……イリスは、そうは思っていなかったらしい。
「ミル」
 イリスは手に持っていたスプーンをおき、ミルディーヌに声をかけた。
「はい」
「その……さっきは、ごめん」
「……え?」
 きょとん、とした声を上げる彼女の前で、イリスが深々と頭を下げるのが見えた。
 ごめん、というのは先程ミルディーヌを気絶させたことではなく、マナを補充するために彼女と契りを結んだことだろう。でなければ、こんなに深刻な表情はしない。
 ……彼なりに、いつ切り出そうかと思っていたのだろう。その表情には痛切と、悲哀と、何より自己嫌悪が隠されることなく表れている。
 見るに忍びない表情だった。
「ちょ、ちょっと……顔を上げてくださいまし、父さま!私は、別に……」
「僕は」
 静止の言葉を遮り、イリスは続けた。
「僕は――『境界』の強制力に、負けた」
 ぎゅ、と眉根が寄せられる。
 深い悔恨が彼の胸を占めているのだろう。いつのまにか、彼の手はきつく、きつく握り締められていた。
「ミルに手を出しちゃいけないって分かってたのに……それでも僕は手を出してしまった。僕の、自分勝手な理由で」
「…………」
「僕は……ミルを、傷つけた……」
 違う。
 違うのに。
 ミルディーヌは心の中で激しくかぶりを振る。今のミルディーヌとイリスの間には決定的な勘違いがあった。だからミルディーヌは平穏でも、イリスは自分の罪に苦しんでいるのだ。きっと。
 だから……
「父さま」
 今度は、ミルディーヌがイリスに語りかけた。優しく、優しく……イリスを傷つけまいとするように。
 イリスの顔が、やっと上がる。自分を責めきった、その表情。彼のそんな顔を見るたびに、ミルディーヌは胸に苦しみを覚える。
『父さまが大丈夫でも、私が大丈夫ではありませんわ。父さまの苦しみは、私の苦しみですもの……』
 その言葉には、嘘偽りなど一つもなかった。
 傷と共に生きてきた人だから、これからはもう苦しまないでいてほしい。その苦しみを、できることなら自分にも分けてほしい。
 ミルディーヌはずっと、そう思っていたのだ。
 彼女は一つ息をつき、胸に手を置いてイリスへと呼びかける。
「私……傷ついたなんて、思っていませんわよ?」
 マナ欠乏もイリスに体をささげたことも、ミルディーヌにとっては苦しみなどではなかった。
 彼女はもっと辛い仕打ちを受けてきた。死さえも甘美に思えるような、地獄のような日々。それに比べれば、イリスといる毎日は至福そのものであり、約束された楽園だった。
 彼女はただ、手を差し伸べてくれた大切な人を、守りたかっただけなのだ。そこにイリスの罪悪感が介在する理由などない。
 それに……イリスは『境界』の強制力に負けてなんかいない。
 ミルディーヌは知っている。行為の途中、イリスは一度たりとも『境界』に意識を明け渡さなかった。マナだって、自我を崩壊させるほど奪い去ることだって出来たのに、必要最小限の分だけを奪っていった。
 あんな極限状態にあってすら、イリスは優しいイリスのままで……だからこそミルディーヌはこの程度のマナ欠乏ですんだのだ。
 何より――
「私……嬉しかったんですの。私が、父さまのお役に立つことができて……」
 ほんの少し頬を染め、彼女ははにかむように笑む。
 ミルディーヌにとってイリスは大切な、本当に大切な人である。恩人として、父として、そしてそれを越えて。彼を守ることができたのならば、自分は何を失っても怖くはなかった。
 それは、そう。ミルディーヌという少女がイリスに抱く、密やかな愛という感情――。
「だから、そんなに罪悪感を感じないで下さいませ。私が気にしていないのですから、父様が気にするだけおかしいですわ……こんなに一杯の食事だって、作ってくださらなくても良かったんですのよ」
「え?」
「私に引け目を感じてたんでしょう?だから食事を作ってくださったんじゃありませんの?」
 滅多に料理をしないイリスが今日に限って料理をしていたのは、きっとそのせいだろう。全く、気にするだけ無駄だと言うのに……
 そう思っていたミルディーヌだったが、しかしイリスの回答は意外なものだった。
 イリスはきょとんとしていたが、すぐにくすっと笑って言った。
「あぁ。半分は、ね」
「半分?」
 そう言われて心当たりを探してみるが、特に思い当たる節はない。
「あとの半分は、何なんですの?」
「『食事というのは最低限、パンとサラダ、温かいスープに、何より家族の団欒を』」
 イリスの口から、どこかで聞いたようなセリフが漏れる。
 この家に来たときにミルディーヌが言った言葉。それを今、イリスが口にしている。それは彼女にとって驚きでもあり、喜びでもあった。
「せっかく娘が来てくれたのに、パン一枚で済ましてしまう訳にもいかないだろう?」
「…………父さま」
 ミルディーヌは何故か彼とまともに顔を合わせられなくなって、急いで顔を伏せた。
 偉そうに言った言葉だったが、そんな食卓をミルディーヌはそう何度も囲んだことがあるわけではない。彼女がイリスに言ったのは、ただの彼女の願望に過ぎなかった。
 その願望をイリスが叶えてくれたのが、嬉しい。
 何より――イリスが今こうやって微笑みかけてくれているのが、嬉しい。
 夢みたい、とは言えなかった。
 ありがとう、とも言えなかった。
 だから、代わりにミルディーヌは皿に乗っている料理を口に運んで。
 万感の想いを込めて、言った。
「本当に。美味しいですわ、このプレーンオムレツ……」
 それだけで、十分だった。
「……うん。自信作だからね」
「こんなに美味しいなら、いつも作ってくださればいいのに」
「ダメだよ。僕はどうしたってミルの味には敵わないからね。今回は、特別」
「まぁ、お上手」
 まるで今までの気まずかった雰囲気が嘘のように溶けていく。残ったのは、ミルディーヌが望んだ、温かい食卓である。
 イリスの笑顔がそこにあり、いつまでも眺めていられる。そんな些細なことが、少女にとってはこの上なく幸せなことだった。
 そして、ぼんやりと願う。それは、ロウ・エターナルには似つかわしくない願いなのかもしれないけれども。
 ――神様。もし、いるのなら。
   このささやかな幸せを、奪わないで下さい……

「……なんだけど。頼めるかい、ミル?」
 唐突に、その言葉で我に返った。
 どうやら、ぼけっとしてしまっていたらしい。どうも目覚めてからというもの、集中力がなくなっていて困る。
 おかげで、イリスがなんと言っていたのか聞き取れなかった。
「は、はい、父さま?」
 急いで返事だけしてみるが、慌てっぷりから聞いていなかったことは明白である。その様子がおかしかったらしく、イリスにはまた笑われてしまう。
「ははは。ミル、聞いてなかったね?」
「あ、はい……申し訳ありません、父さま。もう一度言っていただけないでしょうか?」
「うん。別に、大したことじゃないんだけどね」
 そう前置きして、イリスは本日二度目になるらしい言葉を口にした。
「僕はこれから出かけなきゃいけないから、ミルには少し留守番をしていてほしいんだ」
「留守番?父さま、どこか用事でもあるんですの?」
「うん。……明確に、どこ、というのは分からないけどね」
 イリスの不明瞭な言葉に、ミルディーヌは整った眉根を寄せる。イリスがこういった言い方をするのはいつものことなのだが、どことなく緊張の色が見え隠れしている。
 そして長年イリスと一緒にいるミルディーヌには、その理由が分かっていた。
「任務……ですの?」
 ……そこにどことなく非難じみた口調が混ざってしまうのは、ミルディーヌの意図ではなかった。
 それはイリスへの非難ではない。戦いを望みもしないイリスに無理やり任務を押し付ける、上のものたちへの非難である。しかし、それは結局のところどちらでも違いはなかった。カオスと違い、ロウ側では任務の拒否は許されない。そんなことをすれば、待っているのは抹殺のみである。
 もっともミルディーヌは命令を拒否したところで並のエターナルには殺される気はしなかったが、並以上のエターナルをひっぱりだす危険性は出来るだけ避けるべきだろう。
 ――『秩序の七星』……
 ミルディーヌの脳裏に、苦々しい記憶がよみがえってきた。
 『混沌の五覇』と対を成す、ロウ・エターナルの猛者たちである。『法皇』テムオリンを筆頭とした最強の軍団とも呼ばれていた。単体の戦闘能力はエターナル10人を軽く凌駕し、その腕の一振りは軽く世界を破壊する。
 あんなものと関わるのは二度と御免だった。……もっともイリスも『七星』の一人で、こちらとはしっかり関わってしまっているのだけど。
 ――父さまだけは、例外ですわ。あんな邪悪な人たちとは一緒にできませんもの……
 なんにせよ、任務は受けるに越したことはない。『七星』であるイリスも、他の『七星』に追われることだけは避けているようだった。
 しかし、さりとてその任務を快く思っている訳でもない。それは容易に、彼の表情から読み取ることが出来る。
 ……本当に。イリスはロウ・エターナルに向かないと、つくづく思う。
「うん。……先にこの世界に潜入した三人が、正体不明のカオス・エターナルに消滅させられたことは知っているね?そのカオス・エターナルを見つけ出して……消滅させなきゃいけない」
 それは、つまり――
 分かっている。見つけ次第、殺さなければならないのだろう。
 イリスが、誰かを殺す……想像しただけで、怖気がした。
「父さま……」
「……そんなに心配そうな顔しなくても大丈夫だよ、ミル。『境界』の力は知ってるだろう?他のエターナルなんかに負けたりなんか、しないさ」
 それは分かっている。けれども……イリスの強さを誰よりも知っているミルディーヌだからこそ、不安を隠すことは出来ない。
 イリスと相対した者は、必ず、死ぬ。
 ……イリスがまた一人、殺すことになる。
 そんなことは耐えられなかった。
 そんなことになるくらいなら、いっそのこと……

「その任務、私に任せてくれませんこと?」

 気づいたとき、ミルディーヌはそう言っていた。それははっきりと意図して言ったことではない。しかし、それはミルディーヌの偽らざる本心である。
 イリスの手を汚させるくらいなら、自分が、やる。
 そのミルディーヌの発言に、イリスは少なからず驚いたようだった。食事の手を止め、唖然とこちらを見ている。
「え、でも君はまだ――」
「大丈夫ですわ、父さま」
 ――マナ欠乏の後遺症が残っているんだろう?
 そう言いかけたイリスの言葉を遮り、ミルディーヌは微笑んだ。
 確かにマナは、依然足りていない状態である。その代わりに気力なら溢れんばかりに満ち溢れている。
 今ならば、誰と戦おうとも負ける気がしなかった。
「大丈夫ですわ。正直を言うと、私、戦いたくてうずうずしていたんですの。……ねぇ、いいでしょう?父さま」
 無邪気を装いながら、それでも力強くミルディーヌがねだる。……こうなればミルディーヌが絶対に退かないことを、イリスは知っているはずだった。
 その証拠に、イリスは少し渋っただけで簡単に了承してくれた。
「……ただし、一つだけ条件がある」
 その言葉を付け加えて。
「?……条件、ですの?」
「あぁ。
 ……『福音』のリアノにだけは、絶対に、手を出すな」
 『福音』のリアノ――その単語が出てきた瞬間に、ミルディーヌの顔がぴくりと歪んだ。
 できるのならば、一生聞きたくなかった言葉だ。少なくとも、イリスの口からは、絶対に。
 それでもできるだけ平静を保ちながら、彼女は続けた。
「……『福音』のリアノがこの世界に来ているんですの?」
「それは分からない。けど、可能性としてはありえる。いいかい、ミル?他のエターナルとなら交戦しても構わない。でも、リアノとだけは戦わないでくれ」
 ……あぁ、まただ。そうミルディーヌは思う。
 イリスが、『福音』のリアノのことを呼び捨てで呼んだ。それはまだ、イリスの中に、リアノという女性が残っているからに他ならない。
 限りなき悠久を引き裂かれながらも、二人の絆はこんなにも固く……それはミルディーヌに、羨望と共に嫉妬を感じさせていた。
 そして。嫉妬も年月を重ねれば、憎しみへと変わる。
「それは……『福音』のリアノが、父さまの想い人だからですの?」
「…………」
 思わず尋ねてしまった言葉にイリスは言葉をなくし、黙り込んでしまった。
 彼とて分かっているのだ。永い永劫は二人を引き離し、全く別の道に進ませてしまったことを。二人はもう、元の二人には戻れないのだ、ということも。
 それでもイリスは、リアノを求めずにはいられない。それほどにもイリスのリアノへの想いは、強い。
 ……そんなことは、とっくの昔に分かっている。
「――それも、ある」
 結局イリスが口にしたのは、当たり障りのないことだった。
「でもね、ミル。それ以上に……マナが足りていない君では、『五覇』レベルの敵をあいてにできないんだよ。リアノと戦えばミルは必ず負ける。だから……そうなる前に退くんだ。いいね?」
「………」
 言いたいことは色々とあった。心配をかけて申し訳ありません、とも。お心遣い感謝します、とも。
 ……それでも私は『福音』のリアノにだけは絶対に負けませんわ、とも。
 しかし、それを言ってしまえばイリスは絶対に悲しい顔をする。だからミルディーヌはそれらの答えを胸にしまい、代わりにこう答えた。
「分かりました……『福音』のリアノとは、極力、戦いませんわ」
「……うん。それさえ分かってくれればいいよ」
 彼もまた、言いたいことはあるのだろう。しかし彼もまた、胸のうちを語らない。
 代わりに、こうとだけ、ぽつりと呟いた。
「本当は。ミルを戦わせたくなんか、ないんだけどね……」
「父さま……」
 イリスの優しさが伝わってきて、ミルディーヌはふと微笑んだ。
 心配なんかしなくても、自分は負けない。イリスが待っていてくれる。愛する人が待っていてくれるのだ。
 負ける道理など、一片だってありはしなかった。
「大丈夫ですわ、父さま。私は絶対に負けません」
 そう言って。ミルディーヌは胸に手を置き、無邪気に……本当に無邪気に微笑んだ。
「父さまの為なら……私、どんな方だって殺して差し上げますわっ!」


                               ――中編と続く

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