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第W章 九時の雷鳴―後編―

<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・PM8:45>

 ―― 一切の音が、消えてなくなる。
 それは雨音は言うに及ばず、互いの呼吸音や鼓動さえも。まるで辺り一帯にサイレントフィールドでもかけられてしまったかのように全ての音が、全ての運動が静止する。
 その中にあって、唯一クレオの体だけが動いていた。
 背後から光に貫かれ、今度こそ本当に立つ力を奪われた彼女の体はゆっくりと、本当にゆっくりと傾いでいく。まるでビデオのスロー再生のように、その動きはとても緩慢で。
 しかしリアノは、それを見ていることしか出来なかった。
 ――刹那の時間が、永遠へと引き延ばされる。
 それは、大切なものをなくしてしまった寂寥感に似ていて。
 それは、道を見失ってしまったときの喪失感に似ていて。
 そして、そのどちらも及びつかないほど、切なくて……。
 リアノはその感情を知っていた。
 忘れるはずもない。だってそれは、最愛の妹を失ってしまった時と同じ感覚だったから。

「イリュー………シア?」

 たった一人の肉親。大切だった妹。親を奪われ、光さえも奪われた彼女を守りたかった。無邪気な笑顔を守りたかった。その為に強く、誰よりも強くなりたかった。
 でも、その手はイリューシアへは届かなかった。
 目の前で貫かれた小さな体。舞い散る花弁。形のいい唇が動く。義兄さんをお願い。微かな笑み。流れる金色の髪。遠ざかっていく。失われていく。栗色の瞳が。温もりが。もっとも大切で失いたくなかったものが。嫌だ、嫌だ、嫌だ―――!!
「――――っ!!」
 そこでリアノは我に返り、渾身の力で手を伸ばした。
 倒れ行くクレオの体を抱きとめる。勢いを殺しきれずに自分もへたり込んでしまったが、クレオの体が地面へと激突してしまうことはなかった。
 しかしそんなことではどうにもならないことくらい、リアノだって分かっている。彼女からは熱が消え、代わりにおびただしいほどの血が流れ出していたから。
 ギリアムの神剣魔法でクレオが受けた傷は、十分すぎる程に致命傷だった。心臓に近い部分が深く傷つけられている。荒い吐息がまだ彼女の生きている証拠であったが、それさえも風前の灯火である。この命、恐らく助かるまい。
 ……そう。致命傷が一瞬にして回復してしまうなど、ありはしない。クレオは今となっては、ただの人間なのだから。
 だがそうは分かっていても、リアノは諦めずにはいられなかった。
「……何、やってるのよ」
 搾り出すようにして呟く。その声は知らず、震えていた。
「生きるんでしょう!?生きて罪を償うんでしょう!?だったらこんな所で殺されるなっ!」
 無駄だということは分かっていた。血は淡いマナ光へと変わり、宙へと溶けていってる。その現象はクレオの体の至る所で起こっていた。腕が、脚が……光となって溶けていく。
 それはクレオが死の間際に放つ、最後の命の証。
 ふと、リアノの頬に消えかかっているクレオの手が触れた。それは優しく、頬を撫でる。
 驚き、思わず下を向いてクレオの顔を見た。
「……ありがとう」
 彼女は、微笑んでいた。
 死の間際にありながら、クレオは確かに笑っていた。
「私は、貴女に会えて……」
 ――良かった。
 そう呟く前に、彼女の体は限界を迎えて。
 ぱぁっと光になって、散った。
「あっ………」
 空を抱くリアノの腕。
 薄れていく。
 重みとか、温もりとか、想いだとか。クレオが確かにここにいたのだという、証が。
 だけど、まだほのかに残っているから。
 クレオの存在が、腕の中に残留しているから。
 だからリアノは、まるでクレオがそこにいるかのように、腕を放さなかった。
 ――少し遅れて、雨音が戻ってくる。
「……どうして」
 下を向いたまま、リアノは呟く。
 どうして、彼女は死んでしまったのだろう?
 どうして、死ななければならなかったのだろう?
 せっかく死ぬことも、生きることだって出来るようになったのに、与えられたのがただ「死」だけだなんて理不尽すぎる。
 ……あったのに。
 彼女には叶えたい想いがあったのに……どうして。
 クレオは応えない。彼女はもう、ここにはいないから。
 代わりに、ギリアムが答えた。
「どうしても何もねぇだろ?あいつが死にたがっていたから殺してやったんだよ」
 ひひひ、と後ろから笑い声が聞こえてくる。
 ……違う。彼女は確かに死にたがっていたけれども、それ以上に生きたいと願っていたはずだ。
 なのに。
「あんたがあいつ殺しときゃ、わざわざ俺がしゃしゃり出るまでもなかったんだぜ?なぁ?」
 ――雨の音が、うるさい。
 リアノは無意識のうちに薙刀を握り締めていた。ぶるぶると震える手を、まるで抑えようともせずに。
 それは恐れからくるものでも、怒りからくるものでもなかった。今の彼女を支配しているのはもっとおぞましくて、どす黒いものだ。
【……リアノ……?】
 異変を感じ、『福音』が不安そうな声を上げる。しかしもはや手遅れだった。リアノ自身も止めようのないこの衝動を、どうして『福音』が止められるというのか。
 無言のまま立ち上がり、ぎり、と歯を鳴らす。
 許さない。許せない。許す必要など、ない。
 あぁ。
 ――私は、こんなにも……こんなにもこいつらのことが許せない……!
 それは。とてつもなく甘美な、憎悪のうずき。
 ふ、と震えが止まる。それと同時に、リアノは言葉を漏らした。
「……あぁ、そうか」
 まるで、なるほど、というように頷いて。
 リアノは怒りでも悲しみでも憎しみでもなく。
「私は、あなたたちのしていることが許せないんじゃない……ただ、あなたたちの存在自体が許せないだけなんだわ」
 限りなく邪悪な微笑みに、顔を歪める……。


 ギリアムは、クレオを殺したことによって一つの致命的な過ちを犯した。
 クレオを殺したことによってリアノの憎しみに火をつけ、彼女のもう一つの側面を引き出してしまったのだ。
 そのたった一つの過ちが修正不可能な狂いとなり、彼を破滅させることになるのだが、そんなことは勿論、彼は知らない。
 『断罪者』リアノを敵に回すということがどんなに恐ろしいか、彼は知らなかったのである――。

                    *

 彼女が立ち上がり、微笑んだ。
 たったそれだけで、何の変わり映えもないグラウンドは血戦場へと姿を変える。……否。圧倒的な暴虐を血戦とは呼ばない。
 そこはまさに処刑場であり、それを一番よく理解しているのはギリアムに他ならなかった。
 だって。
 彼女の微笑を見ただけで、もう、全身の震えが止まらない。
 ――く、くそっ……どうしちまったんだ、俺はっ!!
 体を包む悪寒。それはまるで神経そのものを冷水につけられたかのような強烈さである。慌てて自分を叱咤し、その感覚を取り除こうとしたが無駄だった。この悪寒は神剣魔法などの類ではなく、生存本能が発する警鐘そのものである。一介の意思ごときでどうにかなるものではない。
「…………」
 無言で、ゆっくりと彼女は歩み寄る。まるで彼女が一歩近寄るごとにプレッシャーが襲い掛かってくるかのようだ。膝はがくがくと震え、ともすればすぐに崩れ落ちてしまいそうである。
「な……んなんだよ……」
 がちがちと音を鳴らす歯の隙間から、ようやく声を漏らす。
「なんなんだよ、おまえはぁっ!!」
 それは、叫びというよりは悲鳴に近い声。
 彼女はその声に反応して立ち止まった。ギリアムから10メートル程はなれた位置。十分に離れていながら、彼女にとっては取るに足らないのではないかと思わせる距離で。
 リアノであったモノは、ふふ、と笑う。
「――あなたはそれに、何て答えてほしいの?」
 その、冷たすぎる微笑を崩さずに。

「『福音』――多段変質」

 瞬間、怪異は起きた。
 薙刀状だった『福音』がぐにゃりと歪み、形を変えたのである。そこまでは先程と全く一緒だった。
 しかし、ギリアムは見ることになる。その、おぞましいモノを。
 『福音』は彼女の腕に巻きつき、変形する。そして……!!
「ぁ……ぁぁっ……」
 それは、<腕>だった。
 彼女の右腕部分に絡みつき、正常な腕を覆うようにして肥大化した『福音』の腕が生えている。まるで獣を思わせるようなフォルムのその腕は、正常な腕に比べて不自然なまでに大きい。そして決定的なのが、獣の如く生えている五本の鋭く長い爪。
 否、それはむしろ<腕>ではなく<爪>なのだろう。
 『福音』はただ純粋に、契約者の思い描いた姿に形を変える。
 ならばこれは、狩人の爪に違いない。
 彼女は緩慢ともいえる動きでゆっくりと爪を振り上げる。まるで逃げたいのなら勝手にすればいい、とでも言っているように。
 しかし、その瞳は同時にこうも言っている。――でも、絶対に逃がさない、と。
 そして爪は振り下ろされる。
 その様子を見て、ギリアムに始めて余裕が生まれた。
 ――ば、馬鹿め……全然届かないぞ!
 ギリアムと彼女の間の10メートルの間合いは、未だ縮められてはいない。いかに彼女の爪が大きかろうとも、その間合いを越えてギリアムを切り裂くなど有りえなかった。
 ギリアムは、そう思っていた。
 ……浅慮である。彼女の永遠神剣の能力を、彼は知らなかったわけではないのに。

 ――形容しがたい激痛が、彼の全身を貫く――

「がっ……っっっ!?」
 意思とは無関係に、喉の奥からうめき声が漏れた。それとほぼ同時に、半開きになった口から血があふれ出る。
 その激痛と目の前の現実に、ギリアムは目を見開いた。
 ……届いた。
 絶対に届かないと思っていた爪は振り下ろされた瞬間にぐにゃりと伸び、自分の体を刺し貫いた……!!
「ぐ……あっ……」
 『断罪者』の爪は深々とギリアムの腹を突き刺し、穿っている。それだけでも十分なほど重傷だったのだが、それだけでは彼女は満足しなかったようだ。
 彼女は爪をぎゅるんと引き戻すのと同時に、その勢いのままにギリアムを放り投げる。
 成す術など、あろうはずもなかった。ギリアムはまるで投げ上げられたボールのように宙を舞い、そして重力によって地面へと叩きつけられる。
 硬くて、鈍い音がした。
「ぐ……」
 視界が黒く染まる。ともすればこのまま意識が消えかねない衝撃……しかしギリアムはそれを良しとせず、無理やりに体を起こす。
 彼女に抗おうなどという意思はない。それは単に恐怖に駆られての行動。
「………」
 それを見た彼女は、静かに目を細めた。しかしそこにはギリアムが立ったことへの不快感はない。
 というよりも、むしろこれは……
「……良かった。あなたにまだ、立つ力があって」
 彼女が浮かべるは、歓喜の表情。
 限りなくグロテスクな爪を持つ狩人は獲物を前にして、限りなく穏やかに微笑む。
「だって。一瞬で終わってしまったら、つまらないでしょう?」
 それは。
 混じりけのない、純粋で透明な――狂気。
「………!!」
 それを見た瞬間、ギリアムの恐怖は最高潮に達した。
 理性のたがが外れる。
 殺される――!?
「うあぁぁぁぁぁぁ!!」
 動けない、という恐怖心を。
 死にたくない、という生存本能が上回った。
 ギリアムは鎌を構え、走る。血を流し、『ミラージュフェイク』さえも纏わないで。
 それは、確かにギリアムにとっては決死の行動。
 しかしそこには、何の意味もない。
 そんなことだけで、狩られるモノと狩るモノの立場が逆転することなど、あるはずがない……。
 がっ、という音を立てて、ギリアムの鎌は『断罪者』の爪に阻まれる。慌てて力を込めるが無駄だった。外見に比べて遥かに硬質な彼女の爪は、ギリアムにほんのわずかな抵抗すらも許さない。
 そういう、絶対的な、力。
「……たった、これだけ?」
 彼女はぽつりと呟いた。その言葉はギリアムの闘志を凍らせ、根こそぎ奪い去っていく。
「こんな脆弱な力を得るために……数え切れないほどの人たちを殺したの?」
 それは、本来ならば怒りと共に発せられるべき言葉だったのだろう。実際、先程までのリアノならそうしていたはずだ。
 しかし、今の彼女は違っていた。
 まるで『しょうがないわね』と言わんばかりにくすっと笑って、言った。
「悪い子ね」
 ――どちゅっ。
 嫌な音がして、再度爪がギリアムの体に叩き込まれる――

                    *

 『断罪者』と化したリアノは自らの衝動に突き動かされるままに、ただひたすらにギリアムに爪をつきたてていた。
 もはや何度目かということは忘れてしまった。その中の何度目で彼が死んでしまったのかということも、今ではどうでも良かった。
 一突きするごとに、むせかえるほどの血の匂いがあたりに立ち込める。それは彼女の鼻腔をくすぐり、彼女に性的興奮にも似た快楽を与えた。
 たまらなく――気持ちいい。
 だから彼女は、死んでしまった獲物になお爪を突き立てる。
 嬉々として。
 鬼気として。
【……っ!やめなさい……リアノ……!!】
 その時、頭の奥から声が響いた。
 『福音』の声だ。その声はまるで絞り出すように苦しそうだった。
 あぁ、そんなに私を止めたいんだ、とリアノは思う。しかしそれは所詮無駄なことだ。
 契約において、『福音』はあくまでリアノに使われる立場にある。だからリアノが『福音』の動きを支配し、自分の望むように形を変えさせるなど造作もない。
 それを分かっているはずなのに、『福音』は抵抗をやめなかった。
【正気に戻りなさいっ!!私の権限において……こんなことは、許し――あぐぅっ!?】
 苦しそうな声が、本物の悲鳴に変わる。
 それも当然だろう……『福音』は今、実際に体がバラバラになるほどの苦痛を味わっているはずだから。
 そもそも変質とは、『福音』の構成を書き換えることを言う。それは一歩間違えれば自身の破滅を招くほど危険なことだ。だから自在に形を変える能力がありながら、変質させるたびに一つ一つの形に固定するしかなかった。
 だが、『多段変質』においてリアノはそれをしていない。一応の形は爪ということになっているが、それは見た目だけの話である。爪が伸びたことを見れば分かるように、構成は書き換えられ続けているのだ。
 それは。
 体を引き裂かれ、つなげられ続けているのと何が違おう。
【やめて……リアノ……貴女は……っ、こんなことしちゃ駄目……!!】
 悲痛な『福音』の声に、リアノの手が止まる。
 痛いのだ。苦しいのだ。その苦痛を与えているのが自分だと思うと、身が張り裂けそうに悲しかった。
「……ごめんなさいね、『福音』」
 一瞬、正気に戻ったように、リアノ。
「痛かったでしょう?私のせいで……でも、もう少しだけ待って。もう少ししたら、痛くなくなるから……」
【……リアノ……】
 初めて自分の言葉に反応した契約者に、『福音』は安堵を隠せない。彼女がやっと正気に戻ったと、信じて疑わなかった。
 でも。その期待を裏切るように、『断罪者』は薄く笑う。
「あなたにいっぱいマナをあげる。快楽をあげる。だから……私にもマナを頂戴?いっぱいいっぱい、快楽を頂戴?」
【……っ!?リアノッ!!】
 彼女は、元に戻ってなどいなかった。
 それを示すかのように、彼女は再度爪を振り上げる。もう一度、惨劇を繰り返すために。
 もう一度、快楽を――
 ――……?
 その時、『断罪者』の胸にある違和感がよぎった。その違和感は次第に拡大し、彼女の胸をかき乱していく。
 限りなく『殺し』たいのに。
 でも、心のどこかで『殺し』てはならないと叫んでいる……?
【こんなの、貴女らしくないっ……!!貴女は確かにいいかげんだけど……それでも!!こんなこと……する人じゃない!!】
 それは、この神剣の声に自分の一部が応えたということなのだろうか。
 くだらない。
 『断罪者』の中に初めて焦燥がよぎる。しかしその感情の正体を知るよりも早く、彼女は呟いていた。
「……黙りなさい」
【っっっっっ!?】
 『福音』を変質させる。これにより、また『福音』には耐え難い激痛が走ったはずだ。
 だが、彼女の切なる叫びは止まらない。
【憎んでは駄目!怒っては駄目!!壊しては駄目!!失っては、駄目ぇっ!!】
 その叫びが、『断罪者』の――否、リアノの壊れかけていた心を補完していく。彼女の瞳から狂気が消え、理性の輝きを取り戻していく。
 そして……
【私を……濫用しないでぇぇぇぇっ!!】
「――――――――――――――っ!?」
 意識が、砕け散った。
 光が、砕け散った。
 闇が、砕け散った。
 『断罪者』としてのリアノの意識。それが消え去るのと同時に、緩やかに『福音』のリアノの意識が戻ってくる。とたん、まるで悪い夢は忘れろと言わんばかりに、右手を覆っていた『福音』の変質が解けた。爪はぐにゃりと崩れ、ベースとなっているブレスレット型に戻る。
「ぁ……」
 しかしリアノは、夢から完全に覚めることは出来なかった。
 何故なら……そこに、ギリアムの死体が転がっているから。
「あぁっ…………」
 がたがたと震え始める腕。リアノは自分の体を必死に抱きしめ、押さえつけようとするが無駄だった。すぐに震えは全身へと広がり、凍えそうな悪寒となって彼女を苛む。
 ――楽しんでいた。
   楽しんでいた。私は殺人を楽しんでいた。
   肉を裂き、血を流すことを楽しんでいた……っ!!
 それは、自分が憎み、嫌悪しているロウ・エターナルと何が違うというのだろう。
 リアノの手も彼らの手も、等しく血に汚れているというのに?
「あああぁっ………………」
 ――違う。私は、ロウ・エターナルとは違う……。違う……わよね、『福音』?『福音』……!?
 彼女の問いに『福音』は応えない。先程意識が戻ってからずっと呼びかけ続けているというのに、『福音』は何も応えない。
 声が、聞こえない。
 何の波動も送られてこない。
 ……神剣反応すら、感じない。
 それらが意味することは、つまり………。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」
 打ち付ける雨の中、リアノの絶叫が反響した。


<ハイペリア・校門前――8月4日・PM8:53>

 ――いつの間にか、緑の妖精は戦場から姿を消していた。
   しかし圧倒的優位に立つシルフィードには、そんなことは瑣末なことだった。


【ユウト、上だっ!】
「!?ちぃぃっ!!」
 『聖賢』の声に促され、ユウトは咄嗟に横っ飛びに飛んだ。真上から稲妻が如く垂直に降り注ぐ矢。それは半瞬前にユウトが立っていた場所へ突き刺さる。
 ぎりぎりのタイミングだった。もし『聖賢』の助言がなければ、絶対に直撃を食らっていただろう。
 しかし無傷で回避することを考えれば、判瞬前の反応はむしろ遅すぎた。
 次の瞬間に巻き起こった爆風に、ユウトは軽く吹き飛ばされる。
「ぐっ……」
 凄まじい勢いで校舎に叩きつけられ、彼は短く喘いだ。肺から搾り出されるように空気が逃げていく。それと同時に口から鮮血が滴り落ちた。
 何度も食らった攻撃だ。しかし慣れることはない。
 ――エスペリアのシールドなら、こんな攻撃大したことないのに……!
 だが、今は彼女の助力は期待できない。
 だからユウトはすぐに立ち上がり、次の攻撃に備える。
【ユウトよ。お主が食らったダメージは相当なはず……大丈夫か?】
 ――あぁ、今のは直接食らったらやばかった。さんきゅ、『聖賢』。
 結局『聖賢』の問いをうやむやにして、ユウトは構えた。『聖賢』の不満そうな意思は伝わってくるが、応えている暇はない。そう、少なくとも今は。
 だって。次なる攻撃は放たれている。
「………っ!!」
 空間を切り裂き迫る殺気。それを敏感に感じ取り、ユウトは次なる回避行動をとる。バックステップを踏み、後方へ。向きを変えなかったのが信じられないくらいの跳躍で、ユウトは攻撃を回避する。
「ふ……」
 しかし、それまでもシルフィードの策略に過ぎなかった。
 追い討ちをかけるかのように、すかさず第二撃が放たれる。今度はなお速く、ユウトに着地させる暇を与えないほどのスピードで。
 ユウトを宙に浮かせる。それが第一撃の目的だったのだ。空中へと逃げてしまったが最後、それ以上回避行動はとれない。
 はめられた、とユウトは思った。これでは迎撃するより他にない。
「くっ……!」
 愚行だと知りつつ、ユウトは矢に『聖賢』を叩きつける。刹那の爆砕。予想された攻撃は予想されたとおりに彼に襲い掛かり。
 しかし予想外に、ユウトの手から『聖賢』を奪った。
 ――しまった……!!
 地面へと叩きつけられる痛みよりもまず早く、焦燥がユウトへと訪れる。
 しっかりと握り締めたはずだったが、だいぶ体にがたが来ていたらしい。爆発の衝撃に耐えられず、思わず柄を手放してしまったのだ。
 から……からん。
 一拍おいて、『聖賢』が石畳の上を滑っていく音がする。距離にして約40メートル、拾い上げる時間でいえば約3秒。
 駄目だ。
 とても、間に合わない……!!
「『聖緑』のエスペリアが逃げ出してから四半時……予想外に手こずったが、これでようやく終劇か」
 シルフィードは面白くなさそうに呟く。さらりと言い放った言葉だったが、それはまさしく死刑宣告だった。
 神剣を手放し、丸裸同然になってしまったユウトに出来ることといえば。
 そう、今のようにシルフィードをにらみつけることだけ。
 最後まで闘争心は消えない。そんなユウトを見て、シルフィードはせせら笑う。
「何、悔しがることはないさ」
 いまとなっては絶対的になってしまった死を、その弓につがえながら。
「仲間に見捨てられた無様なお前には、似合いの死に様だ」

 矢は迫る。大気を切り裂いて。一直線に。無防備なユウトのもとへ。
 もはやユウトが生き残れる可能性など万に一つもなかった。ユウトのシールドでは、この矢は防げない。『聖賢』を使って迎撃することも出来ない。シルフィードの矢はただただ絶対的に彼に死を与え、マナの塵へと姿を変える。
 ……はず、だったのに。
「―――!?」
 爆音は轟かない。
 死は、ユウトへは届かない。
 その訳は、すぐにシルフィードにも分かった。
 何故なら、彼も見たからだ。
 オーラフォトンを纏った手で矢を掴んでいる、ユウトの姿を……!
「あぁ……無様だよ、俺は」

 ――いつの間にか、雨は止んでいた。

                *

「あぁ。無様だよ、俺は」
 オーラフォトンの矢を掴みながら、ユウトは呟いた。
 その手の中ではばちばちと矢が火花をあげて暴れ狂っている。しかしそれもユウトは全く意に介さない。立っているのもやっとのはずなのに、闘志は微塵も衰えていない。……いや、むしろ増している、というべきか。
 その闘志に、シルフィードは気おされる。
 ……何なのだろう。
 相手は神剣を持っていないのに。
 状況はこちらが圧倒的なはずなのに。
 ――何故こんなにも……『聖賢者』を恐ろしく感じるのだ……!?
「俺に力が無かったから、いろんな人が死んだ。俺に力が無かったから、大勢の人を守れなかった。いまだって俺の力が足りないから、お前を倒すことが出来ない。でも……」
「何だ!?何を言っている、『聖賢者』ユウトッ!!」
 呟くユウトに、恐慌に駆られたシルフィードは詰問する。何を恐れているのか、自分でも分からぬままに。
 ユウトは矢を投げ捨てると、シルフィードを一直線に見据えた。
「それでも、俺は足掻いてやる!!泥まみれになったって、血まみれになったって構わない!!どんな無様な姿をさらしたって構わない!!それで大切な人が守れるなら、そうしてやる!!」
「ほざけ!!」
 わけの分からぬ衝動に、シルフィードは唾棄する。
 とにかく目の前の敵を否定しつくしたかった。
「戯言だ!貴様に何が出来る!?地べたを這い蹲る貴様に!!私に一撃も与えられなかった貴様に、何が出来るというのだッッ!!」
 何も出来るはずが無い。
 ユウトにできることなど何一つ無い。直接攻撃を与えることも、神剣魔法を使って傷をつけることも……何も出来るはずは無いのに。
 誰も守れるはずは無いのに。
 それでもユウトは、動いた。
 ゆらりと右腕を上げ、まるで樹のように天を指す。

「これが……俺の、答えだ」

「何、だと……?」
 それに指し示されるがままに、シルフィードは夜空を仰ぐ。瞬間、表情を面白いように歪ませた。
 それは、シルフィードが初めて……そして恐らく最後に感じる、恐怖という名の感情。
 風によって吹き飛ばされた暗雲の合間からは、宝石を散りばめたように星星がきらめいている。
 月は穴。夜空という黒い画用紙に穿たれた、一つの大きい穴にしか見えない。
 曰く、月は異界よりの門だという。
 そして、その門より光臨したかのように……

 『聖緑』のエスペリアが、夜空を舞っていた。

「―――……!?」
 その瞬間、シルフィードは自分が大きな勘違いをしていたことに気づいた。
 どうして、こんな単純なことに気づかなかったのだ?
 確かに、翼を持たぬものに飛翔することは出来ない。
 しかし、逆に……落下することなら、誰にでも出来る。
 校舎の屋上へと駆け上り、そこから飛び降りれば……シルフィードのいる位置にも、到達できる!!
『それでも、俺は足掻いてやる!!泥まみれになったって、血まみれになったって構わない!!どんな無様な姿をさらしたって構わない!!それで大切な人が守れるなら、そうしてやる!!』
 ふと、ユウトの言葉がよぎった。
 あの言葉は……つまり、そういうことだったのか?
 自分があえて囮役になり、敵の注意をひきつける事も厭わない、と?
 確かに、シルフィードは今まで失念していた。逃げ出したと思っていたエスペリアの存在を。いや、させられていた。ユウトの決死の行動によって。
 その結果が、エスペリアのこの一撃へと結びついたのだ。
「はあぁぁぁぁぁっ!!」
 ぬばたまの髪がなびき、ワンピースが風になびいた。彼女が浴びた雨粒が風圧に散り、月光に反射して一瞬だけ宙に淡い燐光を残す。
 その様は、まるで月の女神がこの地に舞い降りたようで。
 エスペリアは緩やかに降下し、シルフィードへと迫る。
 ……その攻撃を。
 シルフィードがどうして、避けることが出来ようか。
「――ライトニングストライクッッ!!」
 それはまさしく雷が如く。
 鋭く激しく、シルフィードを貫く――!!

 勝敗は一瞬で決した。シルフィードの意識はただ一方的に断絶される。
 その刹那に、シルフィードは思った。
 ユウトがいなければ、エスペリアのこの攻撃が成功することも無かった。高峰佳織があそこまで時間を稼がなければ、ユウトが間に合うことも無かった。
 ――なんという、間抜けよ……
 つまり、『上弦』のシルフィードは。
 永遠神剣も持たない少女、高峰佳織に負けたのだ、と。

                    *

「ん……」
 混沌とした意識が、急に鮮明になる。
 今までに気を失ったことの無かった佳織は、転じて自分が意識の戻る瞬間も分からなかった。ただクリアになっていく視界に、呆然としている。
 しかし、いつまでも呆然としてはいられなかった。
 だって、最初に映った姿は、紛れも無い……
「良かった。……目、覚めたみたいだな」
 自分を覗き込んでいた青年はほっとしたように、明るく微笑む。それにつられて、横のワンピース姿の女性も微笑んだ。
「佳織さま、ご気分はいかがですか?」
「え、えと……」
 青年……の方は分かる。なんといっても、初恋の相手だから。
 しかし、こちらの女性は誰なのだろう?なんとなく、会ったことがあるような気がするのだが……
 疑問に思ったが、壁に上体を預けたままでは何なのでとりあえず立ち上がった。いつの間にか雨が降っていたようで、体はすっかり冷え込んでいた。
「くしゅん」
 思わずくしゃみが出てしまう。
「おい、大丈……うっ」
 心配そうに佳織のほうに視線をやった青年が、突然うめき声を上げた。横の女性が青年へと声をかける。
「ユートさま、大丈夫ですか?私がいない間、無理をするから……」
「いや、違う……そういうことじゃなくて」
「?」
 ユート、と呼ばれた青年の呻きは、苦痛のそれではなかったらしい。ならば何だったのだろう。
 そう言えばユウトは様子が変だった。顔を真っ赤にし、顔を背けて、決して佳織の方を見ようとしない。
 しげしげと、自分の様子を眺めて。
「……ぁ」
 佳織はようやく、ユウトの異変の元凶に気づいた。
 濡れて、透けて、張り付いていた。
 辛うじてデッドラインには達していなかったが、それでも輪郭ははっきりと分かる。
 ……何が、と聞かれても佳織は困ってしまうのだけど。
「〜〜〜〜〜!!」
 途端に佳織も顔を真っ赤にし、両腕で胸を隠して半身をひねった。
 その様子にワンピースの女性もどういうことか分かったのか、顔を真っ赤にさせる。
 目をつぶり、大声で叫んだ。
「ユ、ユートさまのエッチ!知りません!」
「いや待てエスペリア!これは不可抗力だ!」
 そして目の前の二人は、佳織をほっぽって盛大な痴話喧嘩を始めた。
「第一、俺はちゃんと目をそらしたって!」
「言い訳なんて聞きたくありません!私ならまだしも、佳織さまのあられもない姿で興奮されるなんて!」
「あの……」
「……エスペリアのなら良かったのか?」
「〜〜〜〜〜!不潔ですっ!!」
「ちょっと……」
 二人は、聞いてはいなかった。愚にもつかない言い争いを続けている。
 ふ、とおかしくなって佳織は微笑んだ。
 聞きたいことが色々とあった。手に持っている剣のこと、常人離れした身体能力、そして羽の生えた敵のこと。
 しかし、今はとりあえず諦めよう、と思った。
 とりあえず、この懐かしいような二人を見て、笑っている間は。


<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・PM9:13>

「ねぇ、『福音』……私、またやっちゃった」
【………】
 リアノのぼやきに、『福音』は答えない。
 まだ、『多段変質』によって与えられた苦痛が癒えていないのだろう。それともクレオを殺されて逆上した自分に、愛想をつかしてしまったのだろうか。
 後者は自業自得だから、まだ良かった。しかし前者ならば……リアノの胸に、ずきりとした痛みが走る。
 『断罪者』。それがリアノの中に巣くう、もう一つの側面だった。
 いつの頃からいたのかは分からない。しかしリアノが強い憎しみを感じたとき、彼女は現れ、暴虐の限りを尽くしてきた。
 それはどうやっても止めることは出来なくて。
 だからこそリアノは思う。『断罪者』は、リアノの願いそのものなのではないか、と。ロウ・エターナルを憎む、リアノの。
 膝を抱える手に、ぎゅっと力がこもる。
「ごめんね……『福音』」
 声も次第に、震えてきた。
「私が……こんな、魔女で」
 『それでも結局同じじゃない!あなたが殺したことには変わりないんだから!!』
 クレオに偉そうなことなど言えなかった。リアノも結局は、人殺しだ。
 いや、それを楽しんでいる分、リアノのほうが……
 『あはは、無理だって。リアノは騎士になんかなれないよ』
 ふと、耳の奥で声がする。それは遠い昔、ある男性に言われた言葉。
 『だって、君は優しすぎるから。人なんか、傷つけられないだろ?』
 ――違う。違うわ……イリス。
 軽く頭を振る。鮮血に所々赤く染まった金の髪が、緩やかにゆれた。
 ――私はそんなに綺麗じゃない……綺麗じゃないの……
【……過去の自分も】
 突然、『福音』が呟いた。
【現在の自分も、一人】
「……『福音』?」
 誰何の声を上げるリアノに、『福音』は続ける。
【でも、未来の自分はたくさんいます。……そして、その未来の自分を決めるのは、現在の自分です】
「…………」
 『福音』の意思が、伝わってくる。
 そうだ。ここで座り込んでいるわけにはいかない。
 クレオの想いを背負って。これからもリアノは戦わなければならないのだから。
【ともあれ、『福音』の主が魔女では困ります。……今後一切、『断罪者』になることは許しません。いいですね、リアノ?】
 彼女も、『福音』も、こう言ってくれている。
 ならばリアノに、ためらう理由は無かった。
「……えぇ」
 『福音』の言葉に、リアノは二度うなずいた。
 一度は浅く。
 二度目は深く。
 ……戦い続けよう、と思う。自分を恐れながら、自分を信じながら、それでも仲間たちと共に。
 そしていつか、迎えに行くのだ。
 ロウ・エターナルに奪われた恋人……イリスを。

                  †

「……綺麗だな」
 神木神社に降り立った青年は、目を細めた。
 眼下に佇むは、無数の明かりを携える街。きらきらと光る様は、まるで小銀河のようだった。
 その明かり一つ一つは、つまり人々の生活の火だ。命の灯火だ。なればこそ、この風景は美しいのだろう……
 そう想い、だがしかし青年は顔を歪める。
 こんなにも、この世界は綺麗なのに……

「――それでも壊さなきゃいけないのかな、この世界――」

 青年の手が携えるは、青年の背丈を大きく越える大剣。
 第二位回帰性永遠神剣『境界』。
 そう、彼は。
 陣営内でも十指に入るロウ・エターナル。
 『境界』のイリス、その者である――

      
        ――to be continued for the fifth
      『Your Conflict Song』
       

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