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第W章 九時の雷鳴―前編―


<ハイペリア・校門前――8月4日・PM8:10>

 佳織は、目の前の出来事を疑った。
 にわかには信じられなかった。初恋の人がこんなにかっこよく現れて、自分の危機を救ってくれるなんて。
 確かに彼が来てくれればいいとは、ずっと思っていたのだと思う。だがそれは深く考えるまでもなく有り得ないことだと分かっていた。彼がまだこの街にいるのかも分からなかったし……何より、彼は争いなど知らないような優しい瞳をしていたから。
 何度も目を疑った。月明かりの中にたたずむ彼の姿が、幻のように見えた。
 それでも……やっぱり青年は、佳織の目の前に立っていた。
 あの時のように強く、優しい笑みを瞳に湛えて。
 ――やっと、逢えた……。
 そのとき、ふわりと佳織の髪が誰かに撫でられた。優しく、優しく……まるで赤子を寝かしつけるように。
 もう体力も気力も尽き果てていて、そちらの方を向くことは出来なかったけれども、佳織にはその人物が優しい人だということが分かる。間違いない。だってこんなにも、温かい手をしているのだから……。
「――もう大丈夫ですよ、カオリさま」
 その人物は、そう言って微笑んだ。
 よくやった。あなたは勝ったのだ、と。
「後は私たちに任せて、しばしの間、お休みくださいませ」
 言われるまでもなく佳織は目を閉じる。きっと緊張の糸がぷっつりと切れてしまったのだろう、佳織の意識はまるで転落するように落ちていく。
 しかし彼女の胸に恐怖はなかった。
 この二人なら自分を守り通してくれると、何故だか知っていたから。

                 *

「『聖賢者』ユウトと『聖緑』のエスペリアか……流石に『福音』のリアノ一人のはずはないとは思っていたがな。まだ、伏兵がいたか」
 そう、目の前の翼人が漏らす。対して、ユウトは無言であった。
 様々な想いが胸の中で渦巻いていた。
 また佳織を戦いに巻き込んでしまったという自己嫌悪。
 そして佳織を傷つけたシルフィードへの怒り。
 けれども……
【……ユウトよ】
 ――あぁ。分かってるよ、『聖賢』。
 それらの雑念を振り払い、ユウトは一直線に自分の敵を見つめた。
 『聖賢』が、そして自分の永遠者としての本能が告げている。目前の敵、『上弦』のシルフィードは恐らく三周期以上は生きたエターナルだ。感じるプレッシャーが並大抵のものではない。
 対してユウトはまだ永遠者になったばかりのひよっこだ。『聖賢』とのコンビネーションも、不自由でない程度にしか取れていない。エスペリアと力をあわせたとしても、勝てるかどうかは分からない。
 だが、さりとて負けるわけにもいかない。その為には怒りに任せて攻撃することなどできなかった。
「ユートさま」
 その傍に寄り添うように、エスペリアは歩み寄った。彼女は今、今日ユウトに買ってもらったばかりのワンピースを身に着けている。
 奇しくも、他の誰でもない佳織を守ることが、このワンピースを着たエスペリアの初陣となるのだ。
「佳織は?」
「気を失われています。ですが、命に別状はありません」
「そうか……良かった」
 本当はあまり喜べる状況でもないのだけど。それでもユウトは思わず安堵してしまう。もう大切な人を失うのなんて、二度と御免だから。
 無言で『聖賢』を構える。
 エスペリアも既に『聖緑』を構えている。その構えには一分の隙もない。戦闘準備は万全である。
 大丈夫。……いつでも、いける。
「エスペリア」
 そしてユウトは告げた。共に長い間を戦ってきたパートナーに、目前の敵に、何より自分自身に。
 自分の故郷の地を舞台とした、戦いの合図を……
「援護を、頼む」
 
 ――シルフィードの羽根が舞う。
   エスペリアの、そしてユウトの神剣がオーラフォトンで煌めく。
   それらは決して混ざり合うことはなく。
   不協和音のまま、戦いのファンファーレとなる――

「うおぉぉぉっ!!」
 ユウトは怒号を響かせて疾走。『聖賢』を握り締め、シルフィードへの間合いを詰めるべく踏破する。
 弓兵がその真価を発揮するのは長射程においてのみ。近接戦闘ではその戦闘能力は激減、いや、皆無となる。
 だから、シルフィードへ近づくことが出来れば……!
「……甘いな」
 しかしユウトがシルフィードへと肉薄するよりもほんの少し早く。弓を携えし翼人は軽く地を蹴る。
 そして、逃げた。
 前、後ろ、右、左……二次元上のどこへでもなく、三次元……上空へと。
「!?」
 そう。自分とエスペリアになく、この男に有るもの……それはこの翼に他ならない。
 翼をはためかせてユウトの間合いから抜け出したシルフィードは、不敵に笑い、弓を引き絞った。
 放つ――その数、二発!!
「こんなものっ!!」
 矢の速度はさして速いものではない。避けるにしろ弾くにしろ、時間ならば十分間に合うほどにある。
 ユウトは『聖賢』で迎撃するほうを選んだ。
 ……あるいは。
 このとき既に、ユウトは一手遅れをとっていた、と言うべきかもしれない。
【――っ!!やめよ、ユウト!!】
 その事に先に気づいたのは『聖賢』だった。
【その矢は……】
 しかし忠告も間に合わず、ユウトの斬撃が矢を捉える。
 瞬間。
 矢を中心として、オーラフォトンの爆発が起こった。
「ぐっ……!」
 轟音。同時に伝わる衝撃。
 体ではなく神剣で爆発したせいか、その攻撃もユウトを傷つけるには至らない。しかし……爆発の衝撃によってユウトの体勢は大きく崩れてしまう。
 ――しまっ……!!
 歯噛みするユウト。隙がさらけ出されてしまった彼に、すかさず第二撃が迫る……!
「――させませんっ!!」
 必中の一撃。それを防いだのはエスペリアのシールドだった。彼女の叩きつけるような声によって展開されたそれはぎりぎりの所で間に合い、ユウトの身を守る。今回も爆発は起こるが、その程度で彼女の護りは崩せない。
「……さんきゅっ!」
 叫びつつ、跳躍。シルフィードへ向かい上空へと跳ぶ。
 しかし、届かない。届くはずがないのだ。いくらエターナルの身体能力が常人とは桁外れだとはいえ、四階建ての校舎の三階ほどの高さにいるシルフィードの所まで跳ぶなど、ユウトには出来ない。
 だが。エスペリアと二人ならば、あるいは。
「エスペリアッ!!」
 下方にいるはずの少女の名を呼ぶ。それだけで彼女は、ユウトが何をしようとしているのか分かったようだった。
「はい、ユートさまっ!!」
 間髪を入れずに、ユウトの足下にシールドが顕現。
 そのシールドは、次なる跳躍を生み出すための土台となる!!
「なん、だとっ!?」
 今度驚くのはシルフィードの方だ。しかしそれも当然のことである。こんなシールドの使い方、一体誰が想像できようか。
「おおおぉぉっ!!」
 驚愕に表情を染めるシルフィードに、ユウトは猛烈な勢いで迫る。
 とっさにオーラフォトンの矢を形成しようとするが無駄だ。この間合いでは弓は使えない。それに……どちらにせよ、間に合わなかった。
 ざんっ。ユウトの一撃が、すれ違いざまにシルフィードの腹を薙ぐ。
 しかし、それは。
 お世辞にも深いとは言えない、ただのかすり傷。
 ――くそっ……ぎりぎりの所で、避けられた!
 殺すつもりの一撃だった。しかし寸での所でシルフィードに体をひねられてしまったのだ。地上でならばそれでも十分な致命傷を負わせることが出来ただろうが、不慣れな空中戦ということもあって攻撃の微調整が効かない。
 早期決着を告げるはずの斬撃が、薄皮一枚を裂くだけに終わってしまった。しかし追撃など放てるはずもなく、ユウトの体はいたずらに落下するだけである。
 すたっ。さほどの時間をおかずに、彼は軽やかに着地する。
 攻撃が本来の意味で失敗したのは、エスペリアの位置からも見えたのだろう。彼女は緊張の面持ちで叫んだ。
「ユートさま、すぐに次のシールドを……!」
「いや……いい」
 その提案を、ユウトは即座に却下する。
 こんな攻撃、何度も出来るものではない。地上を発ち、エスペリアが顕現したシールドを蹴り、シルフィードへと斬撃を見舞う。このタイムラグの間に、ユウトは間違いなく撃墜されるだろうから。
 先ほどの攻撃がかすり傷とはいえ当たったのは、言うなれば不意打ちだったからに過ぎない。手の内を明かしてしまった今、通じるとは思えなかった。
 しかし、この距離からは通常の斬撃など届きはしない。攻撃系神剣魔法を不得意とする二人は、いきなりその戦力の大部分を削がれてしまったことになる。
「……く」
 下から上へ。焦燥に顔を歪ませるようにしてシルフィードを見上げるユウト。
「……ふ」
 上から下へ。余裕の表情を浮かべながらユウトを見下ろすシルフィード。
 約10メートル。地上でならば取るに足らないその距離が今、絶対的な壁となって二人の若きエターナルを阻んでいた。

 ――いつからか。
   雲は黒く染まり、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めていた。


<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・PM8:13>

 ――いつからか、雨が降り始めていた。
   しかしそんなことは、剣を交える二人にはほんの瑣末なことだった。

 これが何度目の衝突だろうか。灼熱する意識の中、リアノはふとそう思う。
 十撃、百撃……いや、もっとか。記憶している限りはそのくらいだったが、リアノにはそんなこと全く興味がなかった。
 何より、意味がない。
 それだけ打ち込んでもなお、目前の敵――『煉獄』のクレオを倒せていない。その、事実以外は。
「――っ!!」
 小さい呼気を響かせ、クレオは大上段からの振り下ろしを放った。
 一見、隙だらけの攻撃である。しかしリアノは薙刀を使って受け止めることはせず、すばやく後退する。ひゅん、という間抜けな音がして、刃が目の前を通り過ぎた。
 あからさまなフェイントだった。リアノが剣を受け止めるか迎撃していたならば、その隙にクレオの蹴りが炸裂していたに違いない。
 フェイントを交えた剣技と、オーラフォトンを纏わせた脚での蹴りの多用。これが今までに掴んだ、クレオのバトルスタイルだった。
 言うなれば、剣術と拳術の融合のようなものである。どこかでそんな流派があったのかと思ってもみたが、クレオの動きを見る限り違うらしい。
 流派として確立された武術なら、もう少し洗練された動きをする。しかしクレオの動きは滅茶苦茶だ。それでいて、隙がない。
 つまり、彼女は何の流派も学んでなどいない。
 ――メチャクチャ戦い慣れてる、だけ……!?
 やはり彼女は只者ではない。我流とはいえ技のキレもあるし、とっさの判断も出来る。徐々に神剣の開放を高めているのか、体の動きにいたっては速さを増してきてすらいた。
 でも、まだ。
 ――大丈夫。まだ……私の方が、強い。
 防がれているとはいえ、状況はリアノの攻勢一方だった。このまま短期決着をつけてしまえれば、リアノの勝機は十分にある。
 リアノは、ほんの少し間合いを取ったクレオを見据える。彼女の横顔はやはり、生命を感じさせない無表情……
「……え?」
 ……では、なかった。
 リアノには見えたのだ。一瞬……ほんの一瞬だけ、悲しそうに歪んだクレオの顔が。
 その感情がどこに向けられていたかは分からない。それはもしかしたら自分自身に向けられていたのかもしれないし、敵であるリアノに向けられていたのかもしれない。
 ただ、ひとつ分かったのは……クレオは今にも泣き出しそうな顔をしていた、ということだけだった。
 ――どういう……こと?
 次の瞬間にはクレオの表情からは一切の感情が消えていたが、しかしリアノの脳裏には、道に迷ってしまった子供のようなクレオの顔が離れない。
 そういえばクレオの回帰性永遠神剣『煉獄』からは禍々しい殺気が溢れ出していたが、彼女からはそんなものは全く感じない。攻撃は全て本気ではあったが、しかし致命傷を極力避けていた印象すら受けた。
 ――私を殺したくない、ってこと?でも……
 柄を握る手に力がこもる。ちゃき、と刃が鳴った。
 クレオの意図は分からない。だが、容赦はしない。
 彼女の想いなど知ったことではなかった。回帰性永遠神剣を持つ限り、クレオはロウ・エターナル。リアノにとって倒すべき相手に違いないのだから。
 ――私は……ロウ・エターナルを許さないっ!!
「やぁぁっ!!」
 リアノの脚が地を蹴る。流れる体。踏み出した一歩は、同時に必殺の斬撃を繰り出すための踏み込みとなる。
 地を這うような斬撃。下から上へ、降りしきる雨垂れを跳ね飛ばすようにして、猛烈な勢いで光は跳ね上がる。
 目標は胸。心臓を破壊し、クレオの生命を停止させる……!

「…………」
 その、迫り来る死を。
 しかしクレオは何もせずに、呆、と見ている――

「なっ……っ!?」
 ぞぶ、という不快な音がして、刃の半分ほどがクレオの胸に突き刺さった。リアノの狙いは正確無比だ。恐らくは完全に、クレオの心臓は破壊されているだろう。
 しかし……
「……あぁ、やっぱり」
「!?」
 完全に生命活動が停止されたはずのクレオの口から、吐息ともつかぬ声が漏れる。その気だるげな声はしかしはっきりとしていて、とても胸を貫かれた者とは思えない。
 何か本能的な恐怖を感じ、リアノは薙刀を抜いて後ずさった。あらわになった傷跡は、やはり目を背けたくなるほどに深い。間違いなく致命傷だ。
 でも。
「やっぱり……『混沌の五覇』に名を連ねる貴女でも、私を殺すことは出来ない……」
 諦めにも似た言葉を吐き出すクレオ。瞬間、怪異は起こった。
「―――っ!?」
 みるみるうちに、傷が塞がっていく。
 息を呑むリアノの前で致命傷は重傷となり、重傷は軽傷となって、最後には消えてしまった。
 ――なんなの……これ……!?
 一瞬、クレオが治癒魔法を使ったのかとも思う。しかしそれは有り得なかった。詠唱もなしに行使される魔法など、もはや魔法ではなく奇跡である。
 ならば、何故。
 リアノには分からない。
 ただひとつ分かっていること、それは……
「……はい」
 クレオは胸に手を置き、初めて微笑んだ。
 でも、それは――限りなく悲しげで、虚ろな笑み――
「私は……死ぬことが出来ないのです」

                  *

 戦いは佳境へと突入しようとしている。
 それを確認し、ギリアムは薄く笑った。
 彼は今、対峙している二人からは少し離れた所で事の成り行きを見守っていた。『ミラージュフェイク』は纏っていない。リアノにこちらを気にする余裕は無いだろう、と見越してのことである。
 ――いよいよ、『超再生』の発動か……クレオの本領発揮だな。
 クレオのあの異常な再生能力は、ロウ・エターナルたちの間では『超再生』の名で通り、同時に恐れられていた。あのように心臓を刺されても死なないし、四肢がもがれても生えてくる。
 なぜならばクレオの『超再生』は、全ての生物が持つ自己治癒力を恐ろしいまでに高めたものだからだ。
 つまり、『煉獄』とはそういう神剣なのだった。神剣魔法など一つとして使えないくせに、身体能力全般を飛躍的に向上させる。腕力、脚力、動体視力、聴力、自己治癒力……全てを例外なく、である。
 それは、例えるのならば。
 常人をいきなりエトランジェにしてしまうに等しい向上率である。エターナルであるクレオがその力を解放すればどうなるか、想像に難くはなかった。
 実際、半分程度の開放である今の時点で、もうギリアムはその速さについていけなくなっている。故に邪魔にならないように一線を退いているが、大丈夫だ。全能力を開放したクレオであれば、たとえ『福音』のリアノといえども無傷ではすまないだろう。
 『煉獄』の力はそれほどまでに恐ろしく、その加護を受けたクレオは、それほどまでに強い。
 しかし。
 しかしそれでももし、仮にクレオがリアノを仕留められなかった場合には。
 ギリアムは鎌を構えなおし、初めて笑いに顔を歪ませた。
 でも、それは――限りなく残虐で、邪悪な笑み――
「ま……何事にも犠牲はつきものだよなぁ?」


<ハイペリア・校門前――8月4日・PM8:24>

 今度は、10本だった。
「っ!!」
 指の間に10本ものオーラフォトンの矢を顕現させたシルフィードが、一斉に放ってきたのである。無軌道に撃たれた矢は、しかし正確に二人を捉え、迫る。
 さしものエスペリアのシールドでも、高出力のオーラフォトンの矢を10本も防ぎきることは出来ない。そう判断した彼女は、とっさに指を組んだ。
 防げないなら、迎撃するまでだ。
「聖霊よ、私に力を貸して……」
 呟きつつ、向かってくる矢を視認。何もない空間に意識を集中する。
 それは例えるなら座標だ。意識が研ぎ澄まされた一点。その極一点に向かってありったけのマナをぶつけ……
 ……爆砕する!
「エレメンタルブラストッッ!!」
 刹那。轟音を響かせて、四本の矢が爆発した。
 グリーンスピリットが習得できる唯一の攻撃系神剣魔法、『エレメンタルブラスト』。マナそのもののエネルギーを利用して放たれるその破壊力たるや絶大である。四本の矢は更に三本の矢を誘爆させる。
 だが、しかし。
 攻撃系神剣魔法を不得手とするエスペリアには、それが限界だった。
 全てを打ち落とすには威力が足りない。爆撃を潜り抜け、なお三本の矢がエスペリアへと襲い掛かる。
 シールドを張るには時間が足りず、槍で打ち落とすとしても爆撃のダメージを食らってしまう。絶体絶命のこの状況……しかし彼女の顔には絶望の色はない。
 大丈夫。この場にいるのは、自分だけではない。
「オーラフォトンビームッ!!」
 闇夜を切り裂き現れるは、一閃の光条。その正体はユウトの放った神剣魔法、『オーラフォトンビーム』である。名が指すとおりオーラフォトンに指向性を持たせて撃ち出した光は易々と三本の矢を呑み込んだ。
 それだけでは終わらない。矢だけでは飽き足りぬと言うかのように、その威力のままに光条はシルフィードへと飛翔する。
「……愚かな」
 夜気を白く染め、閃光が轟く。半瞬遅れて爆砕。シルフィードが爆音と爆煙の中に消えていく。
 確かな手ごたえ。だが――
「愚かな。その程度で、我が翼の防御は崩せない」
 降りしきる雨にかき消されるように爆煙が散る。その中から浮かび上がってくるのは、自分の翼で体を包み込んだ翼人の姿である。
 ――また、あの翼に阻まれた……!
 エスペリアの顔に焦燥が浮かぶ。
 神剣魔法をシルフィードへと放ったのは、これが初めてではない。しかし言ってしまうのならば、防がれたのも初めてではなかった。
 エスペリアのエレメンタルブラスト。ユウトのオーラフォトンビーム。いずれも、あの翼の防御に阻まれてしまったのである。恐らくはオーラフォトンを纏い、攻撃を相殺しているのだろう。神剣以外のものをオーラフォトンでコーティングするのは、かなりの難度だというのに。
 『聖緑』を握る手に、思わず力がこもる。エスペリアの唯一の飛び道具であるエレメンタルブラストは、そのコントロールの難しさから二発までしか放つことは出来ない。しかし先ほどの直接攻撃に一発、そして矢を打ち落とすことに残りの一発を使ってしまった。
 これでエスペリアは弾切れだ。もう遠距離攻撃を放つことは出来ない。
「さて」
 シルフィードが、身を護っていた翼を広げた。それと同時に猛風が巻き起こり、爆煙は完全に吹き飛ばされる。
 故に、それははっきりと確認することが出来た。
 シルフィードの右手が空を掴み、そこから膨大な光量を発する矢を引きずり出す、その瞬間が。
「返礼しよう」
 呟き、彼は極光の矢を弓につがえる。その矢の禍々しさは今までのものの比ではない。放つ光量、プレッシャー、オーラフォトンの規模が放たれる前からエスペリアを威圧する。
「エスペリア!」
 前方にいたユウトが振り向き、叫んだ。
「俺も手伝う!防げるか!?」
「分かりません!」
 とっさにそう答えてしまう。この矢は「防げる」と安請け合いできるような代物ではない。
 だから、代わりにこう答えた。
「でも……やってみます!!」

 そう、言い放ったのと。
「リジェクティング・アロー」
 シルフィードが静かな殺意を放ったのは、ほぼ同時だった。

 風が狂い、地が震える。
 大気を切り裂いて響く音は、さながら巨龍の咆哮のようである。ならばこの攻撃――リジェクティング・アローは、大きな顎を開けて二人に襲い掛からんとする巨龍に他ならない。
 直撃すれば、刹那とかからずに二人を消し飛ばしてしまうだろう。それほどの攻撃を、しかしエスペリアは慌ても怯えもせずに直視する。
「オーラフォトンバリアッ!!」
 金色のオーラフォトンが舞う。それは瞬間的に形を成し、シールドとなって二人を包み込んだ。
 これがユウトのオーラフォトンバリア。一つ目のシールド。
 エスペリアはそっと目を閉じ、指を組んだ。ユウトの聖霊光に護られているという確かな安心感。
 生きなければという想い。それが彼女の力を増す。
 そっと目を開けて。そしてエスペリアは静かに、だが力強く、唱える。
「デボテッドブロック」
 緑色のオーラフォトンが、舞う。
 それは瞬く間に広がり、ユウトのシールドよりもほんの一回り大きくなって二人を包み込んだ。
 護るように、慈しむように。
 これがエスペリアのデボテッドブロック。二つ目のシールド――
 展開された刹那に、リジェクティング・アローがデボテッドブロックへと激突する。突破を許さぬ防御。突破を諦めぬ攻撃。故にそれは拮抗となり、互いの行使者の命を果たさんと火花を散らす。
 大地はひび割れて土塊を飛び散らせ、大気はきしんで悲鳴を上げた。
 護ろうとする想い。壊そうとする欲望。想いの力でいえば、シルフィードはエスペリアに遠く及ばない。
 しかしそれを補って余りあるほどの力が、シルフィードにはあった。
 ぴしり。
「―――――!?」
 エスペリアはその緑色の瞳を、驚愕と戦慄に見開いた。
 均衡を保っていたデボテッドブロック。まるで限界を告げるように、それにわずかなヒビが入ったのだ。
 直後、極光の矢と翡翠の障壁との対決に決着がついた。蜘蛛の巣状に広がったヒビが、一気にエスペリアの護りを瓦解させる――
 学校中を揺さぶるような大爆発。
 その凄まじい爆圧に、エスペリアは成す術もなく吹き飛ばされた。
「〜〜〜〜っ!!」
 ひび割れた石畳に全身をしたたかに打ちつける。長槍型である『聖緑』をしっかりと握り締めていたために、中途半端な受身しか取れなかった。
 ユウトのシールドには、エスペリアのそれほどの防御力はない。故に抗せずして破られてしまったが、それでも多少なりの効果はあったようだ。あの二重の防御によってリジェスティング・アローの威力が殺がれていなければ、吹き飛ばされるだけではすまなかっただろう。
 それほどの威力だったのだ。
「くぅ……っ」
 『聖緑』を杖にして立ち上がる。軽い火傷と打撲。傷もそれほどのものではない。ただ、ユウトに買ってもらったワンピースは煤と泥に汚れてしまったが。
 ――ぼろぼろに破けなかっただけ良かった、ということなんでしょうね……きっと。
 それに、雨に濡れているんだから今更だ。
 もうもうと立ち込める爆煙の向こうにいるであろうシルフィードへの警戒は怠ることなく、エスペリアは『聖緑』を構えなおした。ユウトは彼女よりも少し早く立ち上がり、『聖賢』を構えている。
 構えてはいた、が……実際のところ、二人に打つ手はなかった。
 遠距離攻撃は翼に阻まれてダメージを与えられないし、しかし唯一ダメージを与えられる近距離攻撃は空へは届かない。相手の攻撃も今のところ防いではいたが、このままでは敗北は免れない。
 一撃。せめて一撃切りつけることさえできれば、こちらの勝ちだというのに……
「エスペリア」
 ユウトが声をかける。エスペリアはいつも通り「はい」と返事をし、耳を傾けて。
 ……そして、耳を疑った。


<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・PM8:48>

 あぁ、まただ。クレオはどこか虚ろな思考でそう思う。
 胸をぽっかりと抉られたような虚無感。つい先ほどまで本当に穴が開いていたのだからそれも当たり前のことだが、しかし傷が塞がった今でも痛みは消えない。
 死ぬほど痛い。
 でも、死ねない。
「死なないって、あなた……」
 リアノが呆然と呟くのが聞こえる。クレオはそれに、静かにうなずきを返した。
「……言葉のとおりです。私は死にません」
 その証拠が、先ほどの『超再生』だ。あれは心臓を破壊されただけだったが、別段脳を破壊されても再生できる。
 そこにクレオの意思は必要ない。例え意識を失っていようとも『煉獄』はその能力を発揮し、失われた部分を完全に再生するだろう。まるで、トカゲの尻尾が生え変わるように。
 なんて……おぞましい、この体。
 知らず、クレオは怨嗟の言葉を吐いていた。
「いっそ……こんな力、無ければ良かったのに……」
 ぎり、と歯を噛み締める。
 それと同時にクレオは駆けた。今度は『煉獄』の開放を先ほどよりも高め、更なる速さを以って。一瞬にしてリアノへの間合いを詰めたクレオは、その勢いのままに刃をリアノへと叩きつける。
「っ!!」
 クレオのスピードが上がったことに気づかなかったリアノは、反応が少し遅れてしまう。それでもギリギリで顔を背けたが、完全に避けるまでは至らなかった。ぴっと何かが裂けるような音がして、リアノの頬に赤い線が走る。
 しかし、リアノは揺るがない。
「ずいぶん、おかしなことを言うのね……」
 彼女は薄い笑いを浮かべ、言う。まるでクレオを嘲るように。
「その再生能力だって、契約によって手に入れたものでしょう?自業自得じゃない」
「私、は……」
 知った風な口を聞くな。抑制されたクレオの心が叫ぶ。
 クレオは自分の意思で『煉獄』と契約を結んだわけではなかった。気づいたときには握らされていた。テムオリンという名の少女に。
『喜びなさい。あなたはこの神剣――『煉獄』に選ばれたのですわ』
 彼女は、そう言った。
 たったそれだけの為に……クレオは気が遠くなるほどの悠久を戦い続けさせられた……。
「私は……違う」
「違わないわよ」
 クレオの言葉をかき消すように、リアノは告げる。
「その力を使って、殺したんでしょう?たくさんの、数え切れない人たちを」
 それと同時に、彼女の笑みが掻き消えた。
 その代わりに現れたのは、凍てつくような敵意。
「そして……これからも、殺していくんでしょう?中立のエターナルや、カオスエターナル……それに、無辜の人たちだって」
「…………」
 知らず、クレオは『煉獄』を握り締めていた。
 ――でも、それは仕方のないことだ。
 クレオは戦いなど望んではいない。ただ、『煉獄』がマナを求めているから、マナを吸わせなければ耐え難い苦痛に襲われるから。
 だから、殺していただけ。自分は悪くない。……悪くなんか、ない。
 そう、思っているはずなのに。
 『煉獄』を握り締める手が震えるのを、どうしても止められない。
 震えが激しくなっていくのを、どうしても止められない……。
「私は……違う」
 必死に自分に言い聞かせる。そうしなければ壊れてしまうから。
 私は違う。他のロウ・エターナルとは違う。私は破壊を楽しんでなんかいない。起源の永遠神剣への回帰だってどうでもいい。ただ、そうするしかなかったから、殺すしかなかったから、だから、だから―――――っ!!
「私は、違うッッッッ!」
 全ての理性が、吹き飛んだ。
 『煉獄』の開放を最大にして、クレオはリアノへと突進する。
 目にも留まらぬ速さで剣を振るった。思考も行動理念も何もない。ただ感情のままにリアノを斬りつける、斬りつける、斬りつける。
「つっ!!」
 リアノはそれを弾き、避け、必死になってかわしているようだった。しかし『煉獄』の最大開放についていけるものなどそうはいない。浅くはあるが、彼女の体にはみるみるうちに傷が刻まれていく。
 傷。それさえもクレオには無縁なもの。
「貴女には分からない!!傷つき、死ぬことが出来る貴女には!!死ぬことも生きることも出来ない私の気持ちなんか、絶対にッ!!」
 知らず、叫んでいた。
 知らず、涙をこぼして泣いていた。
 それは冷酷なロウ・エターナルの姿ではなく。
 道を見失ってしまった、幼い少女そのもの……。
「私は殺したいと思ったことなんか一度もなかった!!代わりに自分が死ねればいいのにって、ずっと思ってた!!殺すたびに苦しくて、辛くて、堪らなかった!!」
 それは、リアノに向けた言葉だったのか。
 それとも、自分に向けた言葉だったのか。
 そんなことさえも分からぬまま、クレオは刃を振るい続ける。
 髪を振り乱し、苦痛に顔をゆがめるリアノを斬りつけ続ける。
「でも、仕方ないじゃない!!マナを奪わなきゃもっと苦しいから……だから殺したの!!好きで殺したわけじゃないっ!!」
 きぃんっ!
 『煉獄』がリアノの持つ薙刀を弾く。一瞬、無防備になるリアノ。
 そこにクレオは、迷わずに全力で『煉獄』を振り下ろした。
「私は……悪くなんかないーーーっ!!」
 全開放、全力の一撃だった。
 今のクレオは『煉獄』によって金剛力とも呼べるほどの力を手に入れており、速さは限りなく神速に近づきつつあった。この一撃は反応すらも許さず、受けられたとしても肩の骨ごと頭を砕くほどの威力がある。
 防御など、出来るはずがない。
 だが……しかし。
「〜〜〜〜っ!?」
 クレオは、見た。

 リアノの薙刀が、『煉獄』を軽く受け止めた瞬間を。

「不幸自慢は、これで終わり?」
 リアノが呟くのが、聞こえる。
 彼女の表情には、もはや敵意すらもない。あるのは静かで純粋な怒り、ただそれだけ。
 ――そんな、どうして……っ!?
 まるで呪うように、クレオは心の中で叫ぶ。
 どうして受け止められるの。
 どうして、死んでくれないの。
 貴女が死んでくれなきゃ、私はもっと辛いのに……
 勿論、そんな問いにリアノが答えるはずもない。
 しかし代わりに、瞳だけでクレオを睨みつけた。
「甘えてるんじゃないわよっ!!」
 裂帛。
 閃光とも見間違うほどの速さで下から上へと光が走る。同時に腕が勝手に跳ね上がり、無防備な胴をさらす。
 それが目にも止まらぬ速さで『煉獄』を弾きあげられたのだと理解するよりも早く、次の斬撃がやってきた。
 様々な方向からクレオへと襲い掛かる、光、光、光。
 ――何、これ……!?
 視認、できない。
 『煉獄』によって限界まで引き出されているはずの動体視力を以ってしても、リアノの攻撃の軌道を捉えることが出来ない。
 こんなもの……避けられるはずがない……っ!!
「殺す気がなかった?傷つけたくなかった?それでも結局同じじゃない!あなたが殺したことには変わりないんだから!!」
 それはまるで、ビデオの逆再生だった。先ほどまでリアノを圧倒的な力で攻め立てていたクレオが、今度は逆にリアノに蹂躙されている。
 唯一違うといえばスピードか。
 生身のはずのリアノは、全ての力を引き出したはずのクレオよりなお速い。
 避けることもままならず、クレオはその斬撃を体で受けていく。
「あなたは一度でも抗おうとしたの!?自分を支配しようとする神剣と!!
 戦いもしなかった奴が、『仕方なかった』なんて偉そうに吠えるなっっ!!」
 リアノの言葉一つ一つが攻撃となり、クレオの体を傷つけていく。
 それはあまりに速く、再生すらも間に合わない。一つの傷を塞ぐ間に三回斬りつけられ、三つの傷を再生する間に五つの傷が刻まれていく。
 このままでは死んでしまう。
 ……死ぬ?
 ――『超再生』を持つ、私が?
「ひっ……」
 有り得ない。そんなことは有り得ない。クレオは必死にそう思うが、しかしリアノの攻撃は確実にクレオを死に追いやっていた。
 だって……もうこんなに、痛い。
 痛くて、怖い。
 あぁ。
 ――死ぬって事は、こんなに痛くて、怖いことなんだ……。
 ふと思った。あの時斬った彼も、こんなに痛かったのだろうか。
 あの時殺した彼女も、こんなに怖かったんだろうか。
 あの時の私は、こんなにも辛いことを……
 体の再生は、依然追いつかない。どうしてなのだろう。『煉獄』の能力が、『福音』に負けている?
 いや、きっとそれは違う。
 ――私が弱い、だけ……。
 リアノに斬りつけられながら、いつしかクレオはまた涙を流していた。しかしそれは先ほどのものとは違う涙。今のクレオが泣いているのは、傷の痛みからでも自分への不条理を嘆いているわけでもない。
 今の彼女は、それがどんなに傲慢なものか知っているから。
 今の彼女には、自分が犯した罪の重さが分かるから。
 ――あぁ、そうか。
 今の瞬間に至って。
 クレオは本当に、自分が殺してきた人たちを悼んで泣いていた。
 ――どんな理由があっても、人殺しはいけないことなんだ……
 それは、とっくに知っていたことだったのに。
 そんなこと、とっくに分かっていたはずだったのに。
 クレオの頬を、新たな涙が伝っていく。
 ――どうして、この涙をあの時流せなかったんだろう?……うぅん、どうして私は、あの時に殺してしまったんだろう?
 『煉獄』に抗うことが出来れば、強い意志さえあれば、未来は変えられたはずなのに……
 しかしクレオには後悔の時間も、懺悔の時間すらも残されてはいなかった。
「第四級近接攻撃技能」
 リアノが、その名を告げるから。
「『グラム』」
 瞬間、薙刀に眩いばかりの光が収束された。光は鋭く、気高く輝き、強固な刃へと変わる。
 恐らくこの刃は、クレオの『超再生』すらも無視し、彼女に絶対的な死を与えるだろう。そしてその傷が再生することはもう、ない。
 それが本能的に分かっているのに、クレオは少しも動かなかった。
 それは。
 自分を殺しにくる光が、あまりにも美しすぎたから。
 ふと目を閉じる。整った睫毛にひっかかり、最後の涙が零れ落ちる。
 もう、死ぬことへの恐怖はない。あるはずもない。だってこれが、クレオの願いだったのだから。
 でも、もし許されるのならば……
 クレオは断罪の光を待ちながら、一言、呟いた。
「ごめんなさい」


 しゃぁん、という澄んだ鈴のような音がして。
 何かが、粉々に砕け散った。

                   *

「ぇ……」
 何かが砕け散った音に驚いて、クレオははっと目を開いた。
 そしてもう一度呟く。何故自分は目を開けることが出来る?
 答えは次の瞬間に、くぐもった音となって現れた。
 ざんっ、と地面に何かが突き刺さる音。
 そう、それは……『グラム』に砕かれた『煉獄』の刃が、地面へと突き刺さる音……
 それを知覚した瞬間に、クレオの体から急に力が抜ける。体を支える力すらも無くしてしまった彼女は、そのまま地面へとへたり込んでしまった。
 ぴしゃり。水溜りの上で、しぶきが跳ねる。
「どうして……」
 クレオは呆然と呟く。冷たい夏の雨に打たれながら。
 どうして力が抜けたのかなんて分かりきっている。『煉獄』を破壊されたことによって強制的に契約が破棄され、クレオがエターナルから人間へと戻っただけの話。
 でも……クレオの言うことは、そういうことではなくて。
「……どうして!」
 地を掴み、リアノを見上げて、クレオは反駁する。
「どうして、私を殺さなかったんですか!?私は罪人なのに……何故、裁きを下さないんですか!?」
 そう。あの時リアノが斬ったのがクレオ本体であったのならば、その時点で全ては終わっていた。クレオは死に、その愚かしい生涯に幕を下ろしたことだろう。
 それなのに、何故。
「死ねば……楽になれた?」
 クレオを見下ろしながら、リアノは呟く。
「そんな勝手な死に方、私が許さない。自分の罪を知り、悔いることができるなら……それを償うことが出来ないはずがないでしょう?」
 その言葉に優しさはない。
 リアノが与えたのは安易な同情や救いなどではない。また罪を背負って生きる苦行。永遠に消えない罪を償いながら生きる有限。
 でも……それは、煉獄ではないはずだから。
「生きなさい。生きて、償いなさい。自分の犯した罪を。……苦しくても辛くても、あなたにはそれが出来るはずだから」
 それが出来ると信じたから……リアノは彼女を生かしておこうと決めたのだ。
「…………」
 クレオは俯き、水溜りを見つめる。雨は万物に平等に降り注いだ。自分が壊そうとした大地の上へ、自分を生かしたリアノの上へ、そして……生かされた自分の上へ。
 叩きつける雨だれは激しく、狂おしく、彼女を打ちのめす。人間へと戻ってしまった彼女には、それはとても重過ぎて。いっそのことこの雨が自分を殺してくれればいいのに、と思ってしまう。
 しかし、皮肉なことに彼女はまた、ささやかに、本当にささやかに『生きたい』という想いを同時に抱き始めていた。
 罪を抱えて生きることは、確かに辛い。だが生きることで自分が殺してしまった命に報いたい、贖いたいと思い始めていたのだ。
 でも……
 クレオはゆっくりと震える手を広げ、見る。今もなお血に汚れているようにさえ感じられる自分の手を。
「でも……それでも私は、ロウ・エターナルです」
 この手は汚れすぎている。何人もの人を切った。何人もの人を殺した。そして、いくつもの世界を壊してきた。
 そんな自分が、罪を償うことが出来るのだろうか?
 殺してしまった命に報いることはできるのだろうか?
「……違うわよ」
 俯き苦悩するクレオに、リアノはふと微笑みかける。それはロウ・エターナルを憎んでいる彼女が見せる、初めての優しい笑み。
 それも当然だ。だってクレオはもう、ロウ・エターナルではない。
「神剣はもう私が破壊したから、あなたはもうロウ・エターナルじゃない。『煉獄』のクレオじゃなくてただのクレオよ。何者にだってなれる……どこにだって行けるわ」
「…………」
 リアノの言葉にクレオは気恥ずかしそうな、それでいて泣き出してしまいそうな……そんな微妙な表情で弱々しく笑った。
 静かに首を振る。
「私は、そんな風には割り切れません……それは、傲慢な考えですし」
「そうね」
 その言葉をあっさりと肯定してしまうのは、どんなに繕ってもクレオの過去は消えないから。
 でも、クレオの未来はここから始まるのだ。
 ――こんなところで、へたりこんでなんかいられない。
「でも、あなたがそう言ってくれるのなら……」
 まだ力が抜け切っている足を無理やりにでも動かし、クレオは立ち上がる。
「……私は生きてみます」
 空を見上げる。遥か彼方に広がるは立ち込める暗黒の雲。
 そう、まだ雨は止んでいないけど。
 それでも自分は、生きる力を取り戻したから。
 そろそろ本気で、走り始めなきゃ―――















「―――やれやれ。本当に使えねぇなぁ、おまえは」















 ―――瞬間、下卑た笑い声がして。
 クレオの胸を、耐え難い苦痛が貫いた。

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