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第V章 暗闇に舞う花たち

 ――もし、運命を赤い糸に例えるのなら。
   人間も永遠者も、等しくその糸の上を歩くだけの存在に過ぎない――


<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・黄昏時>

 うんざりするような爆音が、ようやく止んだ。
 その威力を表しているのだろうか。幾重にも反響した轟音は、今もなお佳織の耳に反響を残している。きぃん、耳鳴りに支配されて、彼女の耳はまともに機能しようとしない。
 しかし。そんな状態にあってもなお、その声は佳織へと届いた。
「カオリちゃんのナイト役は……私が貰うわよ」
「え……?」
 カオリ?今彼女の口から、佳織という声が漏れただろうか。
 佳織というのは勿論自分の名前だが、しかし何故それを彼女が知っているのだろう。全く自分と面識が無く、それどころかまともに目を合わせたことすらないこの女性が。
「……私の、名前……どうして」
 呆けたように呟く佳織。
 その言葉に、女性は初めて振り返った。驚くほどに綺麗な顔が穏やかな笑みを作る。
「リアノおねーさんは、何でも知ってるのよ?」
 全く答えになどなってはいない。それどころか怪しくすらあった。ファンタジー小説に出てきそうな大剣も、男の放った矢を防いだ謎の障壁も、まるで佳織が襲われることを知っていたような言動も。
 しかし……何故だろう。佳織はこの女性のことが全く怖くはなかった。
 いや、と言うよりもむしろ……
 ――この人だったら、信じられる……
 佳織には生まれついての人を見る目があった。例え初対面の人でも、割とすんなりと信用することができた。よく小鳥に「佳織ってば、いつも無防備すぎなんだからぁ」と呆れられていたが、しかし佳織は何も闇雲に人を盲信していたわけではない。理屈では分からないながらも、彼女なりの確信を持って人と接していただけなのである。
 その、佳織の目は告げていた。目の前のリアノと名乗った女性は、少なくとも信頼に足る人物だ、と。
 ――きっと、いい人……だよね?
 今思えば、彼女は気づいていたのかもしれない。いつの間にか、状況の中心にいるのは彼女でも、追ってきている二人の敵でもなくなっていることに。
 『福音』のリアノ――。
 突然現れて全員を唖然とさせ、己のペースに全てを引き込んだ彼女の意志が、これからの状況を決していくことに……
 しかしどの道、佳織には彼女を信じるより他にない。佳織はもう一歩だけ、彼女に自分から近づいてみた。
「カオス・エターナルか。思ったよりも介入が早かったな……」
 男の顔が、明らかな嘲笑を形作る。
「しかし、たった一人で来るとはな。さても愚かな……永遠者同士の戦い、二対一で勝てる道理もあるまいに」
「……さぁ、どうかしら?」
 その嘲笑に、リアノも不敵な笑みで返す。
「この世の中、1+1でも2にならないことって案外多いわよ?」
 余裕の表情。余裕の言葉。しかし確かに状況としてはリアノに不利なことに変わりない。事実……焦らないまでも、彼女は存外真剣に思考せざるを得なかった。
 「ふぅ」、リアノは心の中だけでため息をつく。後ろにいる佳織に、決してそれが見えることがないように。
 ――正直キツいわね……この人数差は。
 戦力的に、ではない。一目見た瞬間に分かったが、弓を持った男も先ほどから黙して語らない女も、実力はそれほどではなかった。いつものリアノならば障害とはならず、力を振るうには十分すぎただろう。だが……今の最優先事項は、敵の全滅ではない。
 こちらには高嶺佳織がいるのだ。彼女を安全に、無傷で逃がすことができなければ意味がなかった。
 ……つまり、これはチェスのようなものなのだ。
 敵の狙いは佳織。彼女を取られたらこちらの負け。しかしこちらの陣地にはリアノしかいないから、自分一人の力で、チェックメイトされるまでに佳織を安全圏まで逃がさなければならない。
 ――っぅ〜〜〜……。
 頭が痛くなりそうな思考である。彼女は元来、こういうことを考えるのは得意ではない。
 だからリアノは今回も、いつの間にか戻ってきていた頼りになる相棒に任せることにした。
 ――『福音』、どうする?
【……困ったことがあったからといって、すぐに私に振らないでください。面倒な思考作業は全て、私に任せきりなのですから……】
 少しぼやきはするものの、『福音』に反抗の意志はない。早く行動を起こさなければ佳織を危険に巻き込むということを分かっているのだろう。最もそれ以上に、自分の契約者に反抗しても無駄だ、ということを分かっているのだろうが……
【そうですね。後の憂いを絶つためにも、高嶺佳織にはこの場を離脱してもらわねばなりません。それさえできれば貴女も存分に戦えますが……その際に障害となるのは、二人のロウ・エターナルです。高嶺佳織を狙っている以上、必ず妨害をしかけてくるでしょう。しかし……逆に言ってしまえば、それさえ何とかしてしまえば障害はありません】
 どんな時でも『福音』の思考は冷静で建設的だ。今回もこの相棒は、状況に応じたベストな回答を弾き出す。
 つまり、と『福音』は続けた。
【リアノ。一瞬でいいですから、二人のロウ・エターナルの動きを、同時に止めてください。最も狙われやすい、高嶺佳織の駆け出す瞬間さえやり過ごすことができれば、後はなんとか食い止めることができるでしょう。……もっとも、その方法が問題ですが……】
 ――上等よ。そこまで解れば釣りが来るわ。
 そこまでで会話を区切り、リアノは男へと視線を戻す。
 それを戦闘開始の合図と取ったのか。男は弓を、そして女は剣をそれぞれに構えた。
「ひとまず名乗りおこう。私の名は、『上弦』のシルフィード」
「ご丁寧にどうも。私は『福音』のリアノ……でも、覚えといてくれなくてもいいわよ?」
 不遜ともいえる態度で名乗り、そこでようやく彼女は動いた。
 今まで片手で持っていた大剣の柄に、そっともう一つの手を重ねる。腰の重心は僅かに低く。目前に構えた剣の柄は腹の前に固定し、刀身は真っ直ぐに前方の敵へと向いている。
 それは、正眼――基本にして最強とされる、戦いの体勢。
 リアノはそのままの姿勢で、そのままの笑みで、続けた。
「どうせ3分後には、揃ってマナの塵に変わってるもの」
 瞬間、弾けた。
 文字通り、前方で光が。弾け、弾け、弾け……そして瞬時に弓へと変わり、次々とリアノと佳織に襲い掛かる。
 男――シルフィードがオーラフォトンの矢を放つのは何回か見たことがあったが、複数撃てるとは知らなかった。無数に放たれた、もはや速射という領域に収まらない程に連射された矢は、さながら高速で迫る光の雨である。
 だが――遅い。
 この程度では『福音』のリアノの脅威とはなり得ない……!
「カオリちゃん、私の後ろに……離れるんじゃないわよっ!」
「は……はいっ!」
 即座に佳織に指示を飛ばし、リアノは無数の矢に対峙する。
 シールドを展開するまでもなく、神剣魔法を使って消し飛ばすまでもなかった。何より折角大量のオーラフォトンを使用して構成された矢なのだ、利用しなければ勿体無い。
「っ!」
 ひゅ、という笛のような呼吸音。
 常人ならば決して見切ることなどできぬ攻撃の奔流も、リアノにとっては欠伸が出るほどに緩慢な攻撃に過ぎなかった。呆れるほど大きな剣を振るい、呆れるほどの速度で矢を弾き返す。
 キン、キン、キィンッ!!
 つんざく様な音が、グラウンドへと響く。
 しかしよく見てみれば、彼女はただ無秩序に剣を振るっているわけではなかった。リアノの振るう剣は高速にして正確無比に、下から上へと剣で矢を上空高く弾き上げる。
 その行動に何の意味があるというのか。
 怪訝に思うシルフィードは……その意味を、驚愕と言う形で理解した。
「―――!」
 考えれば当たり前な話だ。弾き上げられた矢の末路。そんなもの、初めから決まっている。
 勿論、全ての世界に当てはまるわけではないが。
 この世界には、『万有引力の法則』というものがある……!
 次々と落下を始める無数の矢。それは雨となり、流星となり、大地へと降り注いだ。
 そこにはもはや、最初に矢を放ったシルフィードの意志など介在しない。リアノと佳織以外の万物に平等に、暴力的な光は破壊を与える。
「な――っ!?」
「!?」
 防御している間に距離を詰めようと思っていたのだろう。駆け出そうとしていた二人は、予想外の反撃に天を仰いだ。これではシールドを張るために足を止めざるを得ない。
 そう。リアノの足を止める為に放たれた光の矢が。
 皮肉にも、二人の足を同時に止めることとなった。
 佳織を逃がすための絶対条件が達成された瞬間である。リアノは勿論、この隙を逃すつもりはなかった。
「今よ!走ってっ!!」
「はいっ!」
 呆けていたとはいえ、やはり賢い子だと聞いていた以上に佳織の状況適応能力は高かった。リアノの言葉に即座に反応し、一目散に駆け出す。
 ――よしっ!!
 これで二人のロウ・エターナルは、佳織との間にリアノという壁を作ったことになる。そしてこの壁は絶対的だ。矢を飛ばそうと神剣魔法を飛ばそうと、直接斬りかかってこようとも、リアノには防ぎきる自信があった。
 そして……佳織さえ逃がしてしまえば、この程度のロウ・エターナルなど、宣言通りに3分以内で倒すことが出来る。
 リアノは、早くも勝利を確信した。
 しかし……
「え……?」
 彼女はすぐにある違和感に気づく。モヤモヤしたような煩わしさ。何かが胸に引っかかって取れない感覚。
 それが何であるか考える前に、彼女はその違和感の正体に気づいた。
 ――シルフィードの顔に焦燥がない。
 いや、それどころか笑っている――!
「………っ!?」
 その刹那に……まるでリアノが気づくのを待っていたかのようなタイミングで、背後で膨大なマナが膨れ上がる。位置にして約20メートル、佳織が駆けていった方向に。
 次いで神剣反応。邪悪な回帰性永遠神剣の反応がリアノの感覚で捉えられる。
 それはもはや疑いようのない、伏兵の存在。
 ――私としたことが……っ!
 リアノはほぞを噛む。やられたと、思った。姿を隠し気配を隠し、神剣反応すらも隠してしまう神剣魔法があることを彼女は知らなかった訳ではないのに。
 油断していた。だが、後悔している暇すら彼女には与えられない。
 もはや力の出し惜しみなどしている場合ではない。早くしなければカオリが死んでしまう……!
「『福音』!」
 リアノの行動は迅速だった。もはや一片の躊躇いも何もなく、彼女は構える。いつの間にか淡い光を放っている『福音』を。
 そして、叫んだ。
「変質せよッ!!」


<何処かの世界・焼野――飛翼竜の月12の日・夕刻>

「やれやれ……クソ暑い日だな、今日は」
 男はそう言うと、左手を使って面倒くさそうに頭を掻いた。明らかに手入れされていないと分かるピンピンにはねた髪が更にめちゃくちゃになるが、男はそんなことは意に介さない。
 右利きなのにも関わらず左手で頭を掻いていたのは、右手に剣を持っていたからで。
 彼が剣を持っていたのは……何のことはない。眼前に敵がいるからだった。
「……ウゥ……ルゥ……!」
 明らかに神剣に心を呑まれている、一人のエターナルミニオン。それが、男の眼前にいる敵である。敵意をむき出しにして隠そうともせずに、双剣型の永遠神剣を構えている。
 真っ赤な髪をしたエターナルミニオンは、闘気と同時に熱気も発しているようだ。実際のところ彼女の持っている神剣は炎の神剣魔法を操り、今まで男を一方的に攻め立てていた。
 しかし、それにもかかわらず彼女の顔は焦燥に歪んでいる。
 それはきっと、彼女が気づいていたからだろう。目の前にいる敵が、今の一度として本気を出して自分と戦っていないことに。
 だから彼女は更に闘気を猛らせる。目の前の敵を燃やし尽くすために。
「……あぁ、そうか。次こそ全力なんだな、おまえ」
 そのエターナルミニオンの様子を一瞥し、男は興味も無さそうに呟いた。彼女が発する闘気も熱気も、男はまるで歯牙にはかけていない。……いや、男にとっては彼女など最初から取るに足らない存在だったのか。
 どこか眠そうですらある口調で、男は続けた。
「いいぜ。不完全燃焼で終わりたくないんなら、全力で来い」
 言い切るか言い切らないかの間に、彼女は駆ける。驚くべき速さだ。男との間にあった間合いを一瞬でゼロにして、彼女は自らの持つ永遠神剣を振り上げる。
 灼熱色に染まる永遠神剣。それはありったけのマナを炎へと変換した……間違いなく全力のファイアエンチャントだ。しかしそれは、従来の威力で収まる代物ではない。触れるだけで岩は溶解し、大地には傷跡が刻まれることだろう。
 だが……
「――シィッ!?」
 彼女の表情が、驚愕に染まる。それもそのはずだった。
 渾身の、残存マナ量すら思考外に押しやって放ったファイアエンチャントは……いとも簡単に男に受け止められていた。しかしそれは右手に握られた剣にではない。右手は先ほどから、一度も動いてはいない。

 ――彼女の攻撃を受け止めていたのは……左手に持たれた、何の変哲もないタバコだった。

 ありえない。非現実的だと彼女の心の何処かで叫びが上がる。
 勿論、そのタバコはオーラフォトンでコーティングされているのだろう。しかしそれでも解せない。オーラフォトンによって強化されているとはいえ、所詮タバコはタバコである。剣戟を受け止め、ましてや渾身の炎を受けきれる道理などない。あるはずもない。
 理不尽だった。荒唐無稽だった。あまりの不条理さが滑稽ですらあった。
 しかし……目の前で繰り広げられているソレは、紛れもなく真実だった。
 その事実が、彼女を更に猛らせる。
「リィィィィィィィィ!」
 怒号と共に、更に双剣に力を込めた。彼女の怒りを象徴するかのように炎は更に激しくなり、陽炎が夕焼けの空を歪ませる。ぎちぎちと力を込めるあまり、双剣を持つ手が震えだした。
 なのに、男は微塵も揺らがない。ただ退屈そうに気だるそうに、彼女を見つめるだけである。
 やがて……その彼女の努力を認めるかのように、彼女の炎はほんの少しだけオーラフォトンの防御を上回った。ファイアエンチャントの炎はその威力のほんの少しだけを行使し、男が持ったタバコに火を灯す。
 そこまでだった。
 そこまでが彼女の限界だった。
「これが、炎だと?……笑わせるな」
 ふと、男の目つきが変わる。眠そうな目が一変、目前にいる彼女を睨みつけた。
 そこにはもはや、先ほどまでの何処か手を抜いた男はいない。いるのはただ一匹の猟犬のみである。
殺意と闘気を孕み、標的に絶対的な死を与える猟犬。
 それは静かに、だが確かに次の瞬間、吼えた。
「覚えとけ。炎ってのは、こういうものだ」
 ゆらりと男の右手が持ち上げられる。右手に握られた剣を彼女に突きつけて。
 男は有無を言わさぬという口調で、命じる。
「燃えろ」
 ドオォォンッ!
 瞬間、エターナルミニオンの体は命令どおりに燃え上がった。彼女の体を中心に長い火柱が上がる。
 刹那のうちの人体発火……男が放った神剣魔法は、まさしくインシネレートである。しかしその威力は半端ではない。通常はその瞬間性から攻撃開始時の先制攻撃にしか用いられないこの魔法でも、男が唱えれば必滅の術となる。
 これが、男と他のエターナルの差であり、格の違いだった。
「――――ッッッ!!」
 それは激しく、猛く、一片の慈悲すらも残さずに彼女を蹂躙していく。圧倒的な熱量に断末魔を上げることすら許されず、痛みすらも与えられず、彼女は炎に焦がされるのみである。
 そして思った。
 この男は……一体、何なのだろう?
 エターナルであったとしても、彼女たちを前にして無傷ですむはずなどないのに……手玉に取られるように一瞬で彼女を残して仲間たちは全滅させられ、そして自分も今こうやって殺されている。
 彼女はこの男について何も知らされていない。だが、この男の名さえ知っていれば彼女の疑問も解消されたことだろう。
 この男の名は、『双極』のクルト。
 カオスエターナルの中でローガスに認められた者だけが冠せられる『混沌の五覇』の名を持ち、炎と氷を自在に操る滅びの獣である。
 無論、彼女はそんなことは知らない。だが、分かることもあった。
 ――あぁ、そうか。
 彼女は滅びの刹那に、一つのことを悟った。
 この男は化け物だ。次元が違う。
 この男と相対した時点で、自分には滅びしか道はなかったのだ……と。
 それが彼女の最後の思考だった。
 次の瞬間、彼女の体は灰へと変わり、マナになって夕焼けに溶けた。

                   *

 夕陽に照らされ、マナ光が天へと上っていく。
 敵であったエターナルミニオンとはいえ、滅びの瞬間はただただ美しい。しかしクルトはそんなことも意に介さずに、彼女の炎によって灯されたタバコを口に含んだ。
「あ〜、くそっ。損な役割だっ」
 一人ごちながら、彼は煙を吐き出す。
 ロウ陣営のエターナルミニオンは日々進化している。エターナルであっても侮るべきではない……つい先日仲間のエターナルに忠告されて楽しみにしていた結果がこれだ。せっかく他のエターナルミニオンを秒殺して一対一に持ち込んだというのに、その戦力は期待外れもいいところだった。
 二本目を抜かせるどころか一本目もろくに使わせないのでは、話にならない。
 ――何が『くれぐれもヘマはしないように。気をつけたまえ』だよ、ルー姐……
 脳裏の中性的な美女に毒づきながら、彼は久しぶりのタバコを堪能する。相棒に強制されていた禁煙も今日を以って解禁だ。文句や嫌味その他もろもろが来るだろうが知ったことではない。
 彼はまさか、こんな退屈な任務になるとは思わなかったのである。これでは、タバコでも吸わなければやってられない……
 ……だが。
 くいっくぃっ。
「…………ん?」
 突然シャツの裾が引っ張られるような感覚。クルトは怪訝に思いながらもタバコを下ろし、後ろを振り返る。
 そこには、小さな腕でかき抱くように杖を持ち、こちらを見上げている少女の姿があった。見上げる、と形容するだけあって少女の身長はかなり小さい。オルファくらいの背格好、といったら分かりやすいだろうか。
 見慣れた、相棒の姿だった。
 クルトは火のついたままのタバコを――かなり危ない行為ではあるが――手の中で回しながら、少女へと声をかけた。
「よぉ、トワ。そっちの方も終わったのか?」
 こくり、と頷く。セミロングの髪が微かに揺れた。
 彼女の名は、『星辰』のトワ。クルトと同じくカオス・エターナルの一員にして、『混沌の五覇』の末席に名を連ねる者である。
 では、あるのだが。彼女を一目見ただけで『混沌の五覇』、ひいてはカオス・エターナルであることをどれだけの者が知れようか。肩までかかる銀髪と、紫と金の色ちがいの瞳――オッドアイが微かに彼女の神秘さをかもし出してはいるものの、他は全く普通の少女である。……いや、子供と言ってもいい。
 加えて。
「そっか。怪我とか無かったか?」
 ぷるぷる。
「………ま、ある訳ねぇか。敵方、面白みもないくらいにエターナルミニオンばっかだったしな。いくらダミーっていったって、手ぇ抜き過ぎだぜ」
 こくこく。
「で、これで俺たちも晴れて帰還できるわけだよな?」
 ふるふる、こくこくこく。ふるふるふる。
「次!?もう次の世界かよっ!?殺す気かぁ!!」
 ……トワは、驚くほどに無口だった。
 決して感情表現に乏しいというわけではない。うなずきを返すときもコロコロと表情が変わるし、かえっていつも気だるそうにしているクルトよりも感情豊かなのだが……どういうわけか、唯一の例外を除いて、一言も喋らないのである。
 本当にこの二人はどうやってコミュニケーションしているのか。双方の永遠神剣に、意思疎通に特化するような便利な特性はなかったのは確かなのだが。
「…………」
 いきなり不平を言い始めたクルトに、トワはむっと眉を寄せる。続いて表情が変化。クルトの目を、その色違いの瞳がじっと見つめる。そう、言うなれば「さぁ、これからお説教を始めますよ」と言う風に。
 エターナル同士であるのだから年など関係ないが、背格好などの関係から、トワに説教されると相当年下の子供に注意を受けている気になるのである。誰が見ているというわけではないが、やはりクルトとしては面白くない。
 なので、口火を切ってやった。
「大体よ。どうして『五覇』が二人揃って異世界くんだりまで来て、エターナルミニオン潰して回ってるんだよ。こんな任務、俺一人で釣りが来るぜ?」
 クルトの言動は正しくなかった。正確に言えば、彼らは奪われた『叢雲』の神剣反応を辿り、世界を巡っているのである。ところがテムオリンの策により『叢雲』本体の神剣反応が巧妙に隠された上に、ダミーの神剣反応を発する神剣がばらまかれてしまった。そこで彼らを初めとした追跡中のカオス・エターナルは、神剣反応のする世界をしらみつぶしに回らざるを得なかったのだ。エターナルミニオンを倒して回っているのは、言うならばそのおまけだった。
 クルトの発言に、トワはきっ、と彼を睨みつけた。
 目は口ほどに物を言う、とはまさにこのことである。おかげでクルトはいらぬことを思い出してしまう。
「あ〜、はいはい。覚えてるよ。おまえ、ルー姐から俺のお目付け役にされたんだったな」
 むっとした様子でトワは頷いた。分かりきったことをいちいち言うな、と言いたそうな顔だった。いや、決して彼女は言いはしないだろうが。
『トワ、悪いがこれから先、クルトとチームを組んでくれないかい?『五覇』は原則的一人で任務に当たることになってはいるが……何しろクルトは放っておくとすぐに怠けてしまうのでね……』
 そう、ルー姐こと『混沌の五覇』の実質的なまとめ役である『泡沫』のルーネットに言われたのがつい先日のこと。それから、こと『叢雲』がらみの任務ではクルトの後にちょこちょことついて来るようになったのだ。
 実質的にはパートナーなのだが、その容貌から、出向いた世界で親子に見間違えられてしまうこともあり、それがクルトには面白くない。かといって親子に見えなければ後はクルトが幼女趣味であるとしか見られることは無いわけで、どちらにしても閉口した。
 クルトは決して、トワが嫌いと言うわけではないのだが……。
 ――まぁ、色々と問題があるよな。
 ちらりとトワを見やる。容姿もだが、もっと面倒なのは鬼教師もかくやというほどの真面目さである。受け持った任務が終わったら次の任務へ、と進む姿勢は確かに賞賛に値するが、だからといって性格的に正反対なクルトに押し付けられても困るのであった。正直、やってられない。
 だから……彼は両手を合わせて、目前の少女へと懇願した。
「悪いトワ、見逃してくれっ!」
「〜〜〜っ!?」
 顔を真っ赤にしてぶるぶると首を振る。何を言うんですか、それじゃ私がいる意味がないじゃないですかクルトさん。
 トワの性格を考えれば、この反応も至極当然のことである。それを見越した上でクルトはにやりと不敵に笑った。
「分かってる。おまえだって俺を見逃したらルー姐に怒られるもんな……だからおまえの損になるようにはしないさ。ギブアンドテイクといこうじゃないか」
「……?」
 きょとん、と小首を傾げる。無垢な瞳が怪訝そうにクルトを捉える。
 その視線を一身に浴びながら、クルトは全世界に轟けとばかりに宣言した。
 拳を握り締めて。
「俺を見逃してくれたら、今度おまえにイチゴパフェを奢ってやろう!!」
「…………」
 ぴくん、とトワの肩が動いた。それっきりだった。彼女は困ったような泣きそうな顔をして、視線を彷徨わせる。
 ややあって。
「〜〜!!」
 ぶんぶんぶんぶんぶんぶん。
 トワは固く目をつぶり、更に顔を赤くしながら猛烈な勢いで頭を振り始めた。まるで何も考えまいとしているかのようだった。が……一瞬固まってしまった事実はいかんともしがたい。
 つまり。
「……いや、トワ。おまえ今、迷ったろ」
 冷静なツッコミ。
 その時、トワの羞恥心が臨界を越えた。
「―――っ!」
 きっ、と紅い顔のままにクルトを睨む。心なしかその色ちがいの瞳は潤んでいるようにも見えた。
 童顔で睨まれても大して怖くないはずなのに、その顔に妙な迫力を感じてしまい、うっと呻いてクルトは一歩後ずさってしまう。
 間違いなかった。羞恥の元凶であるクルトへ、トワの怒りのベクトルが向いているのだ。
「ちょ、トワ、やめっ……!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 ぽかぽかぽかぽかぽかっ。
 瞬間、クルトへとトワの攻撃が襲い掛かる。腕に抱いていた杖型永遠神剣『星辰』を手放し、両手をぶんぶん振り回しての駄々っ子パンチ。
 その擬音が示すとおり、普通ならばそんなもの痛くも痒くもないだろう。しかしトワはエターナルであり、その身体能力は常人とは比べるべくもなかった。加えて、トワの身長からパンチを放てば真っ先に当たるのはクルトの鳩尾である。それはもう痛い。どえらく痛い。
「だぁっ、タンマタンマっ!!シャレんなってないって!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかっっ!
 クルトの制止をまるで聞かず、トワの攻撃は続く。少し調子に乗ってからかいすぎたようだった。
 ――いや、俺だって今回は本気でサボろうと思ってたわけじゃないって……
 いつもは確かに任務をサボり、ルーネットから呆れられているクルトだが、それでも分別というものはある。第一位永遠神剣『叢雲』が奪われた今となっては迅速な対応が必要になることも分かっている。彼はただ、いつも真面目一辺倒なトワを和ませようと思っていただけなのだ。
 なのに、こんな目にあうとは。他の『五覇』が出払っており、緊張しているということもあるのだろうが。
 彼は背にトワの打撃を受けながら、ふとため息をついた。
 表面上はいいかげんな態度を取りつつも、クルトは内心他の仲間のことが気になっていた。何といっても、分散したチームのどこが一番先に本命にたどり着くかは分からないのだ。
 その中でも最も気になるのは、『福音』のリアノが指揮するチームである。勿論、指揮下にあるユウト、エスペリアの二人が新米だということもあったが、不安要素はそれだけではない。
 彼らが出向いたハイペリアは、何といっても『叢雲』が奪われた地なのである。まさかそこに留まっているとは考えにくかったから戦力的に劣る彼らを派遣した訳だが……何となくクルトには嫌な予感がしていた。
 ロウ・エターナルたちが『叢雲』を奪ったのは、『叢雲』本体に用があるというよりも、それが安置されていたハイペリア自体に用があったのではないか、と思えてならないのだ。
 無論、確証はない。しかし嫌な予感ほど当たってきたクルトとしては、気にならないわけがなかった。
 まぁ、どんな敵が来ても、リアノなら退けてしまうのだろうが……
 脳裏に翻る美しい金髪。それを思い浮かべながら、クルトは苦笑した。
 ――……まぁ、あの神剣はあらゆる意味で規定外だからなぁ……


<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・夜>

「……ちぃっ!!」
 ギリアムは短く舌打ちをすると、攻撃を断念した。突如空間から出てきた――ように見えたはずだ――彼に驚いている高嶺佳織の首を刈り落とすために振り上げた鎌を水平に構えなおし、シールドを展開する。
 ギィンッ!
 相殺。高出力のオーラフォトンの矢をシールドで防ぎきり、ギリアムは髪をなびかせて振り返った。
 ……本当は振り向くまでもない。分かっている。高出力で構成されたオーラフォトンの矢……こんなものが使えるエターナルは、ギリアムが知る限りたった一人しかいない。
「シルフィードッッ!!てめぇ、何やって……!?」
 しかし次の瞬間。ギリアムはその確信が裏切られたことを知る。
 弓を構えていたのは、『上弦』のシルフィードではない。もう一人の女性ですらなかった。
 ――それは一片の狂いもなく、間違いもなく『福音』のリアノだった。
「何ぃっ!?」
 ギリアムの神剣魔法『ミラージュフェイク』は他人からギリアムの存在を完全に隠し通す代わりに、彼自身の視覚をも奪ってしまう。だから彼はリアノの『福音』を直接見たわけではなかった。しかし、事前の情報では『福音』は大剣型のはずだ。なのに何故、リアノは弓型の永遠神剣を構えているのか。
 じっくり考えている暇など、あるはずもなかった。
「はあぁぁぁぁぁっ!!」
 リアノは弓をその手に持ったまま、疾走。ギリアムに向かって凄まじい速度で駆ける。
 金の弾丸。
 ギリアムには、猛スピードで迫る彼女が、そのように見えた。
 間合いはもうすぐ無へと変わる。その速さは恐るべきものがあったが、しかしギリアムはたじろがない。その必要もない。何故なら……
「馬鹿め……弓兵が、接近戦を選んだな……!!」
 獰猛な笑み。
 そう、なのだった。弓の真価はそのリーチの長さにある。相手の射程外から攻撃をするのがこの武器の本来のスタイルなのだ。接近戦では攻撃を放つために若干のタイムラグが発生する為に、その定石はますます必然のものとなる。
 だから、接近戦を挑んだリアノの愚かさを笑いこそすれ、恐れる必要は何もない。
 ……ない、はずだった。
 その時までリアノが握っていたのが、ただの弓であったのなら。
「……変質せよッ!!」
 肉薄の瞬間、リアノは鋭く叫ぶ。それを合図として……その刹那まで確かに弓型永遠神剣だった『福音』が、グニャリと形を変えた。
 長刃を携えた槍。
 それは……
「薙刀……だとぉっ!?」
 ――そして、間合いがゼロになる――
「はぁっ!!」
「ちぃぃぃっ!!」
 速さを乗せて繰り出される斬撃。それをギリアムは鎌で受け止める。一瞬の拮抗……しかしそれだけでは終わらない。くん、と薙刀が返され、再度攻撃が見舞われた。次に放たれるは、猛烈な突き。
 ……否、猛烈な突きの嵐。
 ガ、ガガッ、ガッ、キィン!!
 視界が霞み、感覚があやふやになる。それは次々と繰り出される攻撃に対処するために、彼自身の本能が関係のない感覚をシャットアウトしているためだ。視覚はただリアノの突きだけに集中し、聴覚が聞き取るのは一種舞のような剣戟のリズムだけである。
 しかし……それでもまだ、リアノの速さについていけない。直撃こそないものの、ギリアムの体には防御をかいくぐった攻撃が次々と襲い掛かり、傷が刻まれていく。
 一瞬集中が途切れる。視界の片隅に、背中を向けて駆けていく高嶺佳織の姿が見えた。
 ――くそっ……なんなんだよ、こいつは!
 確かにギリアムの永遠神剣『隠匿』は近接戦闘用ではない。それに反映されるように彼自身も接近戦は得意ではなかった。しかし、それはあくまで好まない、という意味であって戦えないという訳ではないのだ。むしろその鎌さばきは、他の追随を許さぬほどである。
 その自分が、ここまで押されていた。
 なのに……それだけで十分脅威だと言うのに……!!
 ――なんなんだよ……こいつの神剣はぁっ!!
 ギリアムの知る限り、永遠神剣には型というものが存在する。それは例えば剣であったり槍であったり、刀であったりするわけだが……決してその型は揺らぐことはない。形質が固定されている以上、それは当たり前のことである。
 しかし、リアノの『福音』は違っていた。
 大剣から、弓へ。弓から、薙刀へ。彼女の神剣はまるで神剣の常識を嘲笑うかのように変質し、自分たちを翻弄した。
 武器が変化するということは、それに合わせてバトルスタイルも変化するということである。そんな相手と、まともに勝負できるはずがない。
 ――何なのだ。
 ――この神剣は……一体、何なのだ?
 ギリアムが驚愕するのも無理はない。何故ならこれは永遠神剣の規定から外れた、イレギュラーな神剣なのだから。
 第三位・非形質固定型永遠神剣、『福音』。それがリアノの持つ永遠神剣の正確な名称であった。
 その特性は大きく分けて二つ。一つは光を操る神剣魔法の詠唱が可能なこと。
 そしてもう一つは――自分自身の形質を変化させてしまうことである。
 剣でも槍でも刀でも、『福音』が形質変化できないものは何もない。この神剣の前では質量保存の法則すら意味を失う。ただ純粋に契約者たるリアノの思い描いた形質となり、ただ純粋に敵を屠る。
 それが『福音』――恐らくは全世界でただ一本の、非形質固定型永遠神剣である。
 ギリアムは勿論そんなことは知らない。だがその脅威だけは本能的に、痛いほどに感じ取っている。
 だから彼は判断した。自分が倒されようとも……せめて標的である高嶺佳織だけは確実に仕留めなければならない、と。
「シルフィードッッ!!」
 振り返らずに、ギリアムは叫んだ。

                     *

 ここまでか、とシルフィードは悟っていた。
 『福音』のリアノの戦力は圧倒的であり、一対三でも思わぬ苦戦を強いられている。自分とクレオはあろうことか自身が放った矢に足止めされ、ギリアムは相手の非形質固定型永遠神剣の前に風前の灯火であった。
 ――現在確認されている唯一の非形質固定型を使うカオス・エターナルがいるとは聞いていたが……まさか、これほどのものとは。
 シルフィードはギリアムとはちがい、この特異な永遠神剣の存在を知っていた。しかし、だからといって対処できないことに変わりはない。何故ならば『福音』のリアノは今までに形質変化させてきた武器を完全に使いこなしているからだ。
 そして恐らく、いまだ出していない武器も完全に使いこなしていることだろう。いくら永遠者の時間が無限にあるとはいえ、複数の武器を極めるなど容易に出来ることではない。
 これでは、全くタイプの違う敵を同時に相手にしているのと、何が違おう。
 今ならば分かる。仲間が来るのを待たずに、リアノが単身佳織の救出にやってきた訳が。確かに急がなければ佳織の命が危なかった状況ではあったが、根源的な問題はそこではなかった。
 それが普通だったのだ。一対二で、もしくは一対三で。言うなればそれはハンデに過ぎず、そしてそのハンデをもってしてもリアノは十分過ぎる力を振るっている。
 シルフィードの心にはもはや、最初のうちの余裕など微塵もなかった。頭数も状況も彼女への勝算になりはしない。ましてや力など、出し惜しむべくもない。
 本来の自分の姿を晒してでも、高嶺佳織は始末しなければならない……!
「シルフィードッッ!!」
 折しもその時ギリアムの声が聞こえた。彼も相当に切羽詰っているようだ。直撃こそ無いものの、体の至る所に傷が刻まれている。
 ――あぁ、分かっている……分かっているさ、ギリアム。
 右手をかざし、シールドを強化。出力を増したシールドが最後の矢を弾き返した。
 そして彼は、佳織が逃げ去った方向へと視線を向ける。
 ――私ももう……この醜悪な姿を隠し通す余裕は無いようだな……
 心の中で軽く失笑し、背にほんの少しの力を込めて。
 彼はまるで重力から解放されたように、夜空へと舞い上がった。

                    *

「はぁぁっ!」
 裂帛の突き。それをギリアムは渾身の力で受け止める。ガチッという音が鳴り、オーラフォトンの火花が散った。
 何度目かの鍔迫り合いだった。しかしこれは人為的なものである。リアノはこの突きをギリアムが受け止めやすいように、わざとスピードを緩めて放ったのだから。
 くん、と刃を返し、ギリアムの鎌を弾く。それは大きく跳ね上がり、一瞬だけ彼の胴を防御するものは何も無くなる。
 それは、たったの一瞬。
 しかしリアノほどの速さを以ってすれば、一瞬は十分すぎる時間だった。
「……っ!」
 たん、と軸足を残したまま体を半回転させて、リアノは横薙ぎの一閃を放つ。短い呼気と共に発せられたそれは遠心力を借り、ギリアムの胴を薙いだ。
 ……嫌な手ごたえが、確かな実感としてリアノの手へ伝えられる。
「ぐっ……そ、がぁっ!」
 迸る鮮血。その向こうに苦痛に歪むギリアムの顔が見える。
 と、それは瞬く間に憤怒へと変わった。
 ひゅっ。空を切り裂き、リアノへと迫る鎌の刃。しかしそれは所詮理性の無い攻撃である。リアノは素早くバックステップを踏み、危なげなく鎌の一撃をかわす。
 再び開く、両者の間合い。
 ――やっぱり……大丈夫。この程度なら、いける!
 リアノはやや下がっていた薙刀を水平に構えなおし、眼前の敵を睨みつける。
 まだ敵は二人いるというのに、背後ががら空きだった。しかしこれで良い。背後に隙を作っているのは意図的なものだ。攻撃を誘い、逆に相手の隙をうかがうための。
 彼女の視線は前方にだけ向いているというのに、気は360°全方向へと向かっている。死角は無い。例え背後から放たれた銃弾でも発砲された後にかわす自信が、彼女にはあった。
 ……だと、いうのに。
【………!?リアノッ!】
 それでも『福音』は慌てたように、契約者に危険を告げる。
【後ろですっ!!】
「え……!?」
 リアノの全身に悪寒が走る。そこで振り向いた彼女は、更にその顔を驚愕の色に染めることになった。
 シルフィードが、飛んでいた。
 その背に、純白の翼を生やして……
 それは恐らくはスピリットのウイングハイロゥのように、神剣の能力とは無関係なものなのだろう。ならばシルフィードは翼を持つ人間――翼人ということになる。
 驚愕するリアノには一瞥もくれず、シルフィードはまるで天使のような翼を広げる。
 そこからオーラフォトンの爆風が吹き荒れ、爆音と同時に閃光が迸った。そして次の瞬間、弓を携えた翼人は中空を一気に翔けていく。まっすぐに……佳織の逃げていった方向に向かって。
 その目的など、考えるまでもなかった。呆然としている思考はそのままに、リアノの体は反射的にシルフィードの方向を向く。
「くっ!!変質――」

「……させません」

 『福音』を弓に変質させてシルフィードを撃ち落とそうとするリアノ。しかしそれは完全に変質する前に、突如眼前に現れた女によって弾かれてしまう。変質が不十分に終ってしまった『福音』は再度ぐにゃりと歪み、元の薙刀へと戻った。
 その間にシルフィードの姿は完全に見えなくなってしまう。
 攻撃を、阻まれてしまった。
「この……っ!」
 間髪をいれずに横薙ぎで薙刀を一閃。しかし女の姿は既にそこにはない。彼女は流れるような動きで体を移動させ、既にリアノの間合いの外へと脱出してしまっている。
 不十分な体勢からとはいえ、リアノの残撃が。
 彼女の反応に追いつかなかった。
 リアノは軽い驚きと共に女を見据えた。静かなたたずまいの中に、彼女はまごうかたなきプレッシャーを放っている。先程まではそんなもの、全く感じなかったのに。
 ――そういう事……
 その理由に気づき、リアノは顔をゆがめる。
 この女は、今まで本気を出していなかったのだ。力を抑えていたのか、それとも今初めて神剣の力を解放したのかは分からなかったが……今までの愚鈍な動きは全てフェイクに過ぎない。これほどの動きが出来たなら、リアノが返した無数の矢など全てかすりもせずにかわせたはずだ。
 ――やってくれるわね……!
 思わず女に追撃をかけようとして思いとどまる。こんなことをしている場合ではない。佳織は今一人きりなのだ。ただの一般人如き、永遠者たるシルフィードは簡単に殺してしまうだろう。
 何とかして、佳織のもとまで行ければ……
 思考が目に表れていたのだろう。彷徨う視線を捉え、女は静かに呟く。
「気持ちは分かりますが……出来れば貴女は、私の相手をしてほしいのですけどね」
「冗談。私はあなたの相手をしてる暇なんか無いのよ」
「……そうでしょうね」
 リアノの突き刺すような視線をいなして、しかし。
 笑むのでもなく敵意を燃やすのでもなく、女はただ無表情に、告げる。
「しかし、貴女は……私の相手をせざるを得ない」
「くっ……」
 リアノは呻き、そして薙刀をぎゅっと握り締めた。
 女の言うとおりだった。佳織の駆けて行った――つまりはリアノの向かうべき方向に女は立っている。佳織を救出しに行くのならば、それはこの女を倒したとき以外にない。

「…………」
 リアノは無言で一歩を踏み出し、薙刀を構える。
「――私に与えられしは、煉獄……『煉獄』のクレオ、参ります」
 女は呟き、その場で片手剣を構える。

 チェックメイトをかけられる前に自分はこの女を倒し、佳織のもとへ辿り付けるか。
 分の悪い、賭けだった。


<ハイペリア・校門前――8月4日・夜半>

 ――キィンッ!
「え?」
 つんざくような音と共に、目の前で青い光が弾けたような気がした。
 驚愕して、佳織は思わず足を止めてしまう。もうあの青い光は見えない。音も聞こえない。全ては一瞬のことだ。ならばあれは、疲弊している自身が見せた幻覚だったのか。
 しかし、あれは……佳織には、何かの警告のように見えたのだ――

 ――考えている暇は、佳織にはそこまでしか与えられなかった。

 ドオォォンッ!!
「きゃぁっ!?」
 突如聞こえた爆音に、佳織の身がすくむ。身を縮ませるのと同時にはるか前方で土塊が飛び散った。爆発によって粉々に粉砕されたそれは、故に佳織の肌を傷つけるまでには至らない。ぱらぱらと彼女に降り注ぎ、髪と服を汚すだけに終る。
 ……いや。
 その衝撃は同時に、狩りの再開を意味していたのかもしれない。
 ――なんなの、これ……?
 理性は理解できない。しかし本能は、とっくにこの衝撃の正体に気づいている。
 そしてこれほどの破壊を、誰が引き起こしたのかも。
 ばさっ、ばさっ。
 後ろから羽音が聞こえる。
 それは、普通の鳥が起こす音にしてはあまりにも大きすぎて。
 でも、佳織にはこれほどの音を出す羽根を持つ生物なんて見当もつかない。
 それとも……気づきたくないだけなのか。
「……ずいぶんと手を焼かせるものだ」
 後方からの、声。 
 違う。そんなことあるわけが無い。何故だか知らないが、しかし佳織は理解している。『福音』のリアノ、彼女は普通のことで突破されるような人ではない。
「しかし残念だったな。最後の頼みの綱も切らせてもらった。……『福音』のリアノは、もう来ない」
 つまり、彼女を突破する彼もまた、普通の存在であるはずも無く……
 いや、そんなことは認めない。認めてしまったら、高嶺佳織の日常は完全に崩れ去ってしまうから。
 本当は気づいているのかもしれない。弓を持った男、突然現れて自分を助けてくれたリアノという女性、金色の矢、爆発、轟音……そこにはもう、佳織が身をおいていた世界など、一かけらも残っていないのだということに。
 それでも、彼女は自分の世界を信じていたくて……
 しかし無情にも、男は続けていく。
「チェックメイトだ、高嶺佳織」
「っ!!」
 我慢できなくなって、佳織は振り向いた。
 振り向いてしまった。
 それが、決定打となって。

 その瞬間……ひびが入りかけていた高嶺佳織の日常は、完全に砕け散った。

「――――」
 羽根が――
 生えて――

「さて」
 驚愕のあまり硬直する佳織を気にかけることもなく、男――シルフィードは呟く。
「少しだけ、遊んでやる」

 ――今度先に訪れたのは、衝撃。
 続いて襲い掛かるは、鼓膜を破らんばかりの轟音。
 それはあまりに激しすぎ、佳織はどう形容していいのか分からなくて。
 でも、一つだけはっきりしているのは……自分は今、宙を舞っているのだということだけだった。

 どさっ
「〜〜〜〜っ!」
 一拍遅れの激痛。着地と言うよりも墜落と言ったような格好で地面と接した佳織は、その痛みに顔をしかめる。
 シルフィードの矢をくらったのは二度目だったが、この衝撃は先程のものとは段違いだった。それも、今度も前回もシルフィードは佳織に矢を直撃させたわけではない。
 自身が言ったとおり……シルフィードは遊んでいるに過ぎないのだ。
 まるで逃げ惑うアリを潰そうとしている子供のように……
 でも、自分はその遊び相手にすらなれそうにない。
 だって、もうこんなに胸が苦しい。
 ……立てない。動くことなんか、できっこない。
「ぁ、はっ……!」
 空気を求めて、喘ぐ。
 落下の衝撃か、それとも佳織の絶望を感じ取ってか、彼女の足はぴくりとも動こうとはしない。
 ……そもそも、動けたところで何にもならない。男から……忍び寄る死から逃れることなんかできるはずがない。
 それは限りなく理不尽で――それでも、絶対的な死。
 あがいたってどうにもならない。
 全ては……無駄だ。
「は…………」
 日常を破壊された彼女にとって、諦めは限りなく甘美だった。
 強張っていた足をだらんと弛緩させ、佳織は全てを諦めて――


『危ないな、転んだら大変だぞ』


 ――次の瞬間、思わず、しかし確かに佳織は目を開いた。
 脳裏に浮かんだのは、名も知らない初恋の人の笑顔。それを思い浮かべただけで、佳織の胸に決意と勇気が流れ込んでくる。
 抗う力が湧いて来る。
 ……確かに佳織にとって、諦めは甘美なものではあったけれど。
 それでも……あの笑顔を諦められるほど、彼女は潔くなかった。
「ん……!」
 弛緩させた手足に再び力を送り込む。やはり先程彼女の動きを封じていたものは絶望であったのか、今の佳織の手足は痺れはするものの普通に動く。
 彼女はその痺れを意識の外に追いやり、立ち上がった。
 ――うん、まだ動ける。
 まだ、立つことが出来る。
 まだ、抗える。
 まだ……生きている。
 諦める時ではない。だって自分はまだ死ねない。
 どうしても――自分はあの人に再会しなければならない――!!
「……ほう、まだそんな目ができるか」
 名も知らぬ、絶対的な狩人が感心したように目を細める。
「ならば、次の一撃も耐えて見せろ」
 望むところだった。
 本気のこの男に抗えるとは思っていない。この男は遊んでいて、やっぱり自分は生かされているだけだ。男が本気になった瞬間、自分は間違いなく殺されるだろう。
 ……でも。きっと『できないこと』と『しないこと』は一緒ではないはずだ。
 男が弓を引く。ひたひたと迫る死の感覚。
 息を乱しながらも、佳織はそれを直視し――
「………っ!!」
 そして、はるか先に見える校門に向けて駆け出した。


<ハイペリア・校舎のグラウンド――8月4日・黄昏時>

 女――『煉獄』のクレオの実力は、リアノの予想以上だった。
 そして、ハイペリアのマナの薄さによる身体制限も、リアノの予想を――こちらは遥かに、超えていた。
 故に、戦闘は長期戦となった。
「はぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ふっ!はっ!」
 交わり、火花を散らす剣撃。それは間隙を縫い、一撃、また一撃と交わされる。しかし互いの刃が敵に届くことはまだ無い。
 ただ、リアノの斬撃がクレオの剣撃を僅かに押している。このまま勢いに乗せて押し切れば、あるいはこの女を突破できるかもしれなかった。
 ……そう。
 クレオ一人なら、突破できるのだ。
「オラァッ!こっちにもいるってこと、忘れてんじゃねぇぞ!!」
 瞬間、怒声と共に横から鎌の一閃が来た。何もなかったはずの空間からの一閃は、有り得るはずの無い攻撃だ。しかし攻撃が来ることを予期していたリアノは、僅かに体を逸らしただけでそれを避けきってしまう。
 だが、逆に言ってしまえば……この攻撃を予期していたからこそ、リアノはクレオへの攻めに集中できなかったのだ。
 『隠匿』のギリアム。それこそがリアノに全力攻撃を踏みとどまらせていた存在だった。
 確かに対峙しているのはクレオのみだが、しかし彼女と斬り合っているとどこからかギリアムの攻撃が飛んでくる。これでは背後が気になって、まともにクレオと斬りあう事もできない。
 ――いいかげん、こいつを潰しとかないとやばいわね……
 そうは思っているのだが、彼は攻撃時以外は姑息にも『ミラージュフェイク』を使って、姿どころか神剣反応までもを完璧に消し去っている。攻撃を仕掛けてきた瞬間にカウンターを決めようとしたこともあったが、今度はクレオに阻まれてしまう。
 ただ時間を稼げばいいだけの二人に対し、拙速が求められるリアノにこの布陣は痛い。事実、シルフィードが佳織の後を追ってからもう二分ほどがたっている。
 確かにリアノは傷一つ負ってはいない。
 しかし、どう考えてもこの状態は……考えうる限り最悪だった。
 ――くっ!
 リアノは唇を噛み締め、そして苦渋の決断をする。
 確かに、自分は体の構成マナを幾許か失うかもしれない。しかし……
 ……守るべき存在を失うことに比べれば、そんなことどれほどのものだというのか。
 ――『福音』、一次開放……第三級近接攻撃技能『バルムンク』を使用するわ。
   あれの突貫力なら、この布陣からも抜け出せるはず……
【……!?】
 『福音』が信じられない、というように息を呑んだ。……分かっている。きっと相棒なら、そんな反応をすると思っていた。長い付き合いだから。
 当然、反対するだろうということも。
【正気なのですか、リアノ!?このマナが薄い世界であんな技を使えばどうなるか、分からない貴女ではないでしょう!?】
 ――分かってる……でも、他に方法が無い!
【落ち着きなさい!あの技は禁じ手です!!私の権限において、使用することは許しません!!】
 ――今使わずに、いつ使うっていうのよ!!
 神剣との会話はほんの一瞬だ。しかしリアノは焦燥を隠せない。
 早く、早く、早く。
 一刻も早く『バルムンク』を使用しなくては。
 もう二度と……大切な誰かを失うのは御免だ!!
【……私は落ち着きなさい、と言っています。リアノ】
 しかし、『福音』の声は限りなく冷静で、そして優しかった。まるで子供に諭すように、ゆっくりとリアノに語りかける。
【ふぅ……貴女はいつも一人で何もかも背負い込んでしまうのですから……】
 ――何を言って……!?
【落ち着きなさい。心を静かにし、焦りを抑えなさい】
 ゆっくりと、だが強い声で。
 『福音』は、告げる。
【感じられないのですか?私たちの希望が……今、ここに向かっているのを?】
 ――え……?
 呟いた瞬間。それは、リアノの感覚に飛び込んできた。
 希望は二つ。まるで寄り添うように並び、確かに今ここに向かっているそれは……
 ……どうして今まで気づかなかったのか馬鹿馬鹿しくなるくらいに馴染み深く、そして力強い神剣反応。
 ――エスペリア……ユウト!
 そうだ。自分はたった一人で戦っていたわけではなかった。
 まだ彼らがいる。三人で同じ敵に立ち向かう――それがチームの意味なのだから。
【そうです。……ですから、彼らは彼らの務めを。私たちは私たちの務めを】
 そう静かに告げる『福音』の声は、荒立っていたリアノの心を静めるには十分すぎた。
「……ふぅ」
 一つ息をつく。心を落ち着け、いつの間にか下がっていた薙刀の矛先を僅かに上げて。
 その時にはリアノは余裕を取り戻し、いつもの笑みを浮かべていた。
「……ったく、遅すぎるじゃない勇者様。囚われの姫君は、現在進行形で大ピンチよ?」


<ハイペリア・校門前――8月4日・夜半>

「はぁっ……はぁっ……」
 掠れる吐息が、意識とは無関係に零れ出る。
 それを必死に押さえつけようと、佳織は軽く唇を噛み締めた。
 なんだか吐息と一緒に、勇気までも漏れ出してしまうような気がして。
 それでも息は止まらない。当たり前だった。あれだけ走って、転んで、吹き飛ばされて。特別に体を鍛えていたわけでもない佳織が、それで息が上がらないわけが無い。
 それに……
「ぁぅ……く、……」
 体中を駆け抜ける痛みに、佳織は顔をしかめた。呼吸によって傷が刺激されたのだろう。
 今や佳織の体は、全身が痣や切り傷に覆われていた。
 男の放つ矢に吹き飛ばされた結果である。それらの傷は容赦なく佳織の体を苛んでいたが、まだ善戦した方だった。未だに佳織は男の矢の直撃を一回もくらっていない。
 いや、お情けでくらっていないだけなのか。そうだとしてもゴールはもう見えている。
 矢に吹き飛ばされ、それでもまだ立ち上がって……ついに佳織の前方には、校門が見えていた。
 あそこまで、辿りつければ。あるいは……
 後方には男がいる。完全に背を向けた形になっているが構わない。佳織は意を決し、足に力を込めた。

 ――気持ちだけは、前に進もうとした。

 でも、限界に達した足は微塵も動かなくて……
 結果、重心を崩してしまった佳織は、成す術もなく地面へと倒れこむ。
「あ゛っ……!!」
 何度目かの地面の感触。何度目かの激痛。
 それでも佳織は先程までのように腕に力を込め、立ち上がろうとした。
 立ち上がれると思った。
 しかし、動かない。
 疲労が限界に達したのか、それとも何度もの衝撃で体のどこかが損傷したのかは分からなかったが、今度こそ佳織の体はぴくりとも動かない。
 動かない。動けない――
「ついに、限界か……まぁいい。よくやった方だ。永遠者相手にここまで抵抗を見せるとは、高嶺の血を引いていることだけは認めてやろう」
 羽ばたき、佳織の前方へと回り込んで。男は佳織に、いくらか感心したように告げる。
 しかし、よく聞こえない。視界までもが霞んできた。目の前に霧が広がるかのように、佳織の目の前があやふやになっていく。
 それでも無情なことに、男が眼前で弓を引き絞るのだけは見えた。
「今度こそ……苦しまぬよう、一撃のもとに止めをさしてやる」

 ――そして、死は放たれた。

 迫り来る光。それは限りなく暴力的だった。まるで全てを飲み込むように、佳織へと襲い掛かる。
 それでも佳織は力を込める。立ち上がろうとして。
 今度の光は前までの比ではない。その行動に何の意味があったとしても関係なく、容赦なく佳織を含めた一切を無に返すだろう。ただただ理不尽に、不条理に。
 佳織へと押し寄せる。押し寄せる。
 ――あぁ。結局、名前も知らないままだったな……
 こんな刹那にあっても、やはり浮かんでいるのはあの青年のことだった。佳織の初恋の人。生まれて初めて、恋心を覚えた人。
 きっとあの人は、自分が思っている以上に大切な人だったに違いない。だって彼のことを思うだけで、こんなにも心が安らいでいくのだから。
 ――……会いたかったな。
 でも、暴虐的な光は佳織の想いなど全く意に介さず。

「消えろ」

 大音声を響かせて、佳織へと食らいついた。

 …………………………………
 ………………………
 ……………
 ………
 …。

 不意に、辺りが静まり返った。
 光が上げる轟音も、風の音すらも止んでいる。
 やけに静かだった。
 何も聞こえず、感じない。
 世界が制止しているようだった。
 ――死んだ、のかな……
 そう考えると、全てが納得がいく。
 その証拠に、佳織の眼前にはあの青年の姿があった。
 ぼさぼさの髪に青い外套を羽織った青年。懐かしい、その背中。
 勿論、彼も死んだということは無いだろうけど。
 死したものを幸せに迎え入れるという点では、ここも天国には違いなかった。
 ――あぁ……
 佳織は、一つ息をこぼす。
 だが――
「……よくがんばったな、佳織」
 青年は労わるように佳織に声をかけた。
「あとは俺に任せて、ゆっくり休んでくれ」
 その優しい声音が、佳織の胸に染み込んでくる。それと同時に、彼女に現実を認識させた。
 不意に戻る痛覚。激しい痛みが再び佳織の全身を駆け回る。だがしかし、それは同時に命の証でもあった。
 生が実感できる。死んだわけではない。
 ――まさか……でも、こんなことって……
 胸の中に感情が吹き荒れ、佳織の心を乱していく。
 混乱があった。戸惑いがあった。不審が、疑問があった。
 でも、なおそれ以上に強い喜びが、そこにはあった。
「あ……ぅ……」
 涙で視界が霞んだ。
 涙腺が壊れてしまったのか、涙が次から次へと溢れ出てくる。しかし佳織はそれを拭うことさえ忘れていた。
 ――やっと、逢えた……


 そこには佳織を守るようにオーラフォトンを展開し、優しく微笑むユウトの姿があった。


                      †

 ――それは物語の始まりを告げる凱歌。
   それは運命を加速させる旋律。
   有り得るはずのない運命。
   有り得るはずのない物語。
   一度は完全に途切れてしまった糸は、ここに再び紡がれる。
   高峰佳織という少女の大切な大切な、忘れ去った記憶の果てに――



                ――to be continued for the Fourth
      『The Thundercrap At Nine』

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