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                  3

「あれ……?」
 ふと見ると、家の前に誰かが立っている。青年――ラスク・ロードは目を細め、立ち止まった。
 逆光でよくは見えないが、どうやら女のようだ。……否、スピリットである。腰ほどまである髪を無造作にたらし、腰の前で手を下向きに組んでいるその姿は、それだけで十分すぎるほどに美しい。
 そのスピリットは緩く目を閉じ、何かを待っているようだった。それが何かの瞬間なのか、それとも誰かなのかはラスクには分からない。ただ確かに何かを待ちわびるようにスピリットは立っている。おそらくは何時間もの間を、まるで恋人を待つ初々しい乙女のように。
 ――だが、その長い時間も次の瞬間に、終わる。
「あ……」
 ふと目を開ける。そこでラスクが立っていることに気づいたようだ。
 長い髪を僅かに揺らしてラスクに向き直ると、彼女は僅かに微笑んで、言った。
「ラスク・ロード様ですね?」
 どうやらスピリットは自分の名前を知っているらしい。一瞬驚くが、よくよく考えればそれほど驚くべきことでもなかった。
 ラスクは来月からこの国のスピリット隊に戦術指南役として配属されることになっている。一足先に自分の名前が知らされていても不思議ではない。
 彼は「あぁ」と短く答え、そして
「君は?」
 やはり短く、尋ねる。
 たったそれだけのごく普通のやりとりだったが、しかしその瞬間確かにスピリットは困ったような表情を浮かべた。
 少しの間をおいて、彼女はゆっくりと首を振る。
「名前は……ありません」
「え?」
 一瞬ラスクは己の耳を疑った。
 名前が無い?確かにこの国のスピリットの扱いは目に余るものがあるけれども、それでも名前を与えないというのは少しおかしい。それはスピリットたちに言わせれば名前と言うよりは判別番号のようなものなのかもしれないけれど、無ければ何かと不都合が生じてくるはずだ。
 目前のスピリットは「もうすぐ、無くなってしまうんです」と小声で付け足して、相好を崩した。
「名前とは……つまり、存在証明ですから」

 落陽が、彼女の姿を遮る。

 その瞬間、ラスクは胸を突かれたかのような痛みを覚えた。彼は感覚的に気づいたのだ――目の前のスピリットの儚いような美しさは、その胸にある悲しみによって成り立っていることを。それは絶望といっても良いほどに痛々しいものであり、ラスクには想像だにできないものであることを。
 どういうことか問いたい気持ちは勿論ある。しかしそれを彼女が望んでいないことは、その目が語っていた――どうか聞かないでくださいませ、と。
 だからラスクは彼女の言葉も、その意味についても問いただすことができないでいた。

 冬の風が駆け抜ける。彼女の髪がなびく。さらさらさらり、黄昏に染まる細い坂道。

「今日は、お願いしたいことがあって参りました」
 彼女が呟く。瞳を閉じて、まるで祈るように、願うように。
「貴方が配属されることになるスピリット隊に、一人の女の子がいます。……まだハイロゥを安定させることも出来ない、小さな小さな女の子です」
「うん」
「その子を……守ってあげてほしいんです」
 流石に、その言葉には面食らってしまった。
 ラスクだから良かったようなものを、他の人間に言ったならば厳罰されてもおかしくはなかっただろう。人間がスピリットを守れ、などと。
 ラスクは頬を掻き、困ったような表情を浮かべる。
「う〜ん……確かにたしなみ程度には剣を学んではいるけど、俺はスピリットを守れるほどの腕は無いよ」
 くすっとスピリットは笑った。……その瞬間だけ、彼女の背負っていた世界が消えたような気がする。まるで荒野に咲く一輪の花のような、その笑顔。
「物理的に、じゃありません」

 風になびく髪をそっと抑えて、彼女は言う。

「あの子を、寂しさから守ってほしいんです。一人きりで泣いてしまうことがないように、寂しさに胸を切り裂かれてしまうことがないように……」
 まるであふれ出る感情を抑えるかのように、彼女はそこでいったん区切った。
 目を開ける。それが映しだすのは、愛しさと慈愛に満ち溢れた笑み。
「……優しくしてあげてほしいんです。幸せになれるように」
 幸せに、なれるように。
 その言葉を紡ぎだし、彼女は問う。胸に手を当て、真摯な眼差しをラスクに向けて。
「スピリットが幸せを望むのは、傲慢でしょうか?」
「…………」
 ラスクには、分からない。
 傲慢だ、と答えるのがこの世界での模範的な解答なのだろう。道具が幸せなど望むな、ココロなど持つな、と突き放したように答えるのが。彼女の願いなどすっぱりと切り捨ててしまうのが。
 それが出来ないラスクはこの世界では間違った存在であり、異端者でしかない。
 ――だけど。
「……いや」
 ラスクは小さく、だがしかし強く告げた。
「傲慢だと言うのなら、それは君たちにそう思わせている人間たちが傲慢なんだと、俺は思う」
「え……」
 驚いたようにラスクを見るスピリット。彼女にラスクは小さく微笑みかけた。
 ――あぁ、そうか。
 どうしてこんなにも初めて会った彼女に共感するのか、ずっと不思議に思っていた。
 でも、難しいことではない。不思議なことでもない。
 スピリットの幸せを願う彼女と、スピリットを守りたいと思う自分。
 何のことはない。自分と彼女は異端者同士なのだ。
 だから……
 「うん」と自分自身に確認するように呟いて、ラスクは宣言した。
「確かに、君の願いは聞き遂げた。俺は……その子を、守るよ」

 陽光が、彼女の顔を照らし出す。

 彼女と自分は初めて会ったもの同士だ。この会話だって、二、三分程度しか交わしていない。
 でも、共感するものはあった。
 彼女の心の中の想いは、確かに伝わった。
 それが何なのか具体的には分からなかったけれど、守りたいものは同じだと分かった。
 ……だから。
 それが自分に守れるものならば、守りたいと思っただけなのだ。
「貴方が……」
「え?」
「貴方がここにいてくれて、良かった」
 自分の手のひらを、きゅっと握り締める彼女。
「本当は、きっと無理だと思ってたんです。貴方もきっと、私の願いを聞き入れてはくれないって。私たちは所詮スピリットなんだからって。でも……」
「そんなこと、なかったろ」
「はい」
 瞳に涙を浮かべて、呟く。
「想いは、貴方にも響きました」

 風に吹かれて涙が飛び散る。さらさらさらり、中空に一瞬光る淡い燐光。

 その彼女の笑顔は、本当に綺麗で。
 そう、それはきっと。
 彼女が、悲しみにではなく喜びになら涙を流しても構わないんだ、と気づいたからなのだろう。

 ………………
 ………
 …

 しばらく経って、彼女は言った。
「もう、帰らなきゃいけません。……エスに、ご飯を作ってあげないと」
「うん」
 エス、というのが彼女の『妹』の愛称なのだということは、ラスクはなんとなく察していた。だってこんなにも彼女の言葉に喜びが満ち溢れているから。
 どれだけ彼女が『エス』のことを愛しているのかが、その言葉だけで分かった。
「君は……」
「え?」
「君は本当に、その子のことが好きなんだね」
 一瞬きょとんとする彼女。
 だけどすぐにその顔を笑顔に変えて。
「……はい」
 小さく頷いて、そして彼女は誇らしげに言った。
「私の、自慢の『妹』ですから」

 軽く頭を下げて、彼女は坂道を下っていく。
 ラスクは立っている。もう何も交わさなければならない言葉などないから、無言のままで。
 一瞬、二人はすれ違った。
 ……本当は、聞かなければならなかったのだろう。そこまで愛している彼女の『妹』を、他人のラスクに任せなければならなかった訳を。
 彼女ではいけなかった訳を。
 でも結局、ラスクがそのことを問うことはなかった。
 すれ違った後、ラスクもまた歩き出す。彼女とは別の方向へ。
 もう、二人が振り返ることはなかった。

 夕陽だけが、長い長い坂道を照らしている。

 そしてもう二度と、『二人』が会うことはなかった。
 
                  4

 早朝、リクディウスの森にフィアナとエスペリアの姿はあった。
 ラキオスから森まで一日でくることなど勿論出来ないから、途中にエルスサ−オに一泊している。ラキオスから出発して、二日のことであった。
 今日の天気は昨日とは打って変わって、空は今にも泣き出しそうである。それはさながらエスペリアの今の心を映し出しているかのようだった。
 心臓はラキオスを出発してからはちきれそうなほどに暴れまわっているし、胸に巣くう不安は一向に消えてくれない。むしろそれはこの森についてから、一層強くなっている。
 まるで森の木々が一斉に化け物に替わってしまったかのような感覚。隣にフィアナがいてくれなかったら、エスペリアはとっくの昔にこの場から逃げ出していただろう。それも、情けない悲鳴を上げて。
 ……でも、震える手は隠しようがない。
 エスペリアの胸に不安がよぎる。この手の震えをフィアナが見たら、きっと失望するだろう。まだ敵を前にしている訳でもないのに震えているエスペリアを軽蔑さえするかもしれない。
 だから……恐怖は絶対に隠しておかなければならない。たった一人の姉に、嫌われてしまわないように。
 だから彼女はきゅっと手を握り締める。震えと共に不安さえも押しつぶしてしまおうとするように。
「エス?」
「は、はいっ!」
 突然声をかけられ、エスペリアは思わず飛び上がってしまった。
 どうしよう。自分の反応は、不自然ではなかっただろうか。
 フィアナは怪訝そうな顔をしながら、言った。
「えっと……大分奥まで進んだわ。ここからはいつ敵が出てくるか分からない。戦う準備と逃げる準備は、忘れないでね」
「……はい」
 その優しいはずの姉の言葉が、エスペリアにはまるで死刑宣告のように聞こえた。
 ……理屈では分かっている。戦いは避けられないのだということは。だけど感情は納得しようとはしない。
 戦うということは、殺しあうということだ。互いが刃を取り、血とマナを流す。死ぬのはもしかしたらエスペリアかもしれなかったし、大事なフィアナかもしれなかった。
 それが、とてもとても恐ろしい。
 自分の意志とは無関係に戦わざるを得ないことへの不安が、疑問が、怒りが、そして何より恐怖が、エスペリアの胸を締め付けていた。
「……エス」
 と、フィアナが腰を屈めた。自分の頭とフィアナの頭の高さが、ぴったりと同じになる。フィアナの瞳がじっとエスペリアを見つめた。こんな場所には似つかわしくない、いたずらっぽい笑み。
「すぐに済むから、少し動かないでね」
 訳が分からなくてエスペリアは顔を上げたが、それでも彼女が本気なのか冗談なのかは分からなかった。
 傍らに膝をついて、フィアナは続けた。
「おまじないをしてあげる。私の持つ運が、あなたに授かるように」
 言葉で聞くと何のことかと思うが、そういうことは目が語るものである。エスペリアは今までの緊張も何もあったものではなく、顔を赤らめてしまった。
「え、でも姉さま、こんな時に……!?」
「こんなときだから、よ。おまじないなんだから。ことが終わってからじゃ遅いでしょう?」
「〜〜〜〜……」
 三秒ほどせわしなく心が駆け巡ったが、やがてエスペリアは、自分がそれをさほど嫌がっていないということに気づいた。
「それなら……お願いします」
「えぇ」
 フィアナの顔がエスペリアの額にゆっくり近づき、そしてそっと離れた。
 額に残る暖かな温もり。
 とても優しく、隅々まで思いやりに満ち溢れたキス。
 ……気がつけば、エスペリアの手の震えは止まっていた。
「ねぇ、エス……『怖い』と思うことは、決して悪いことではないのよ?」
 フィアナがそっと呟く。
 エスペリアが驚いて見上げると、フィアナは優しい笑みを浮かべていた。エスペリアの恐怖も何もかも全て見通して、許してくれるかのように。
 ……最初から『姉』は全て分かっていたのだ。胸の中にある恐怖も、彼女の手のひらがそっと隠そうとした手の震えも。
「大丈夫。怖くたっていいの……私が、あなたのことを守るから」
 フィアナがその身をそっと離して立ち上がった。
 
 ……その時、フィアナの目がすっと細まる。
 それと同時に、エスペリアは気づいた――いつの間にか、聞こえていた鳥の鳴き声が聞こえなくなっている。辺りがしんと静まり返って、何の声も聞こえない。
 なのに、何故だろう。
 こんなにも、周囲から殺気を感じるのは……
 ――まさか、敵のスピリット!?
 驚いてフィアナを見上げる。
 彼女はもはやいつもの彼女ではなかった。優しい『姉』ではなく、そこにいるのは有能な戦士だけである。
 そして、戦士としての『姉』は呟いた。
「絶対にあなたは……あなただけは絶対に、守るから」

 一陣の風が吹く。それが戦いの合図となった。
 フィアナは『陽光』を構え、そして強く地を蹴った。

                  *

「……ごめんなさい」
 呟いて、フィアナは二人目のスピリットを貫いた。が、と短い呻きを残してスピリットは地へと倒れる。腕に残るのは、確かにスピリットを貫いたのだという不快な感触。
 森に潜んでいたスピリットは、たったの二人だった。それも青と赤の。それなりの訓練はつんでいるようだったが、森の中でならフィアナの敵ではない。
 対峙は、わずか三分の間でしかなかった。
 約束された勝利。だが、フィアナの胸に勝利の高揚感はない。
「く……」
 同属をこの手で殺した痛み。それがフィアナを攻め立て、苛む。
 それはきっと、許しがたい罪。
 だけど……
「姉さまっ!」
 今まで木の陰に隠れていたエスペリアが、駆け寄ってきた。その目には僅かに涙が滲んでいる。彼女にとっては初めてのスピリットの死だったのだ、それも無理はない。
「……エス」
 フィアナは片膝をついて、エスペリアを抱きしめた。
 ――失ったものもあったけど、大切なものはちゃんと守ることができた。
 ならば、それ以上何を望むことがあろうか。
 フィアナは目を閉じて、呟く。
「帰りましょう、エス。もう、終わったから……」

 ――フィアナのうなじを、電流のような刺激が駆け抜けた。

「―――っ!?」
 ばっと振り返るフィアナ。笑顔を湛えていた顔が、その瞬間痛恨に歪む。
 油断していた……エスペリアも、自分も。
 自分一人ならば逃れることも出来よう。だが、エスペリアはそうもいかない。
 自分の身を守るか、エスペリアを守るか。
 答えなど――勿論、最初から決まっていた。
「エスッ!!」
「え……?」
 状況が把握できていないエスペリアを力一杯に突き飛ばす。それがフィアナに出来た最後の、そして唯一の抵抗だった。強引に突き飛ばされたエスペリアは惰性によって、地面を転がっていく。
 それと同時に、フィアナの背中で耐え難い痛みが弾けた。
「ぁ………ッ!」
 肺から吐息が搾り出され、喉から呻きとなって溢れ出す。半瞬後に激痛は爆風へと変わり、フィアナの軽い体を易々と吹き飛ばした。『陽光』を強く握っていることさえも出来ず、彼女の神剣は手を離れ、音を立てて転がっていく。
 もはや成す術などあるはずもなく、彼女は容赦なく地面に叩きつけられる。
 鈍くて、嫌な音がした。
「う……」
 意識が薄れていく。体が鉛のように重くなって、ぴくりとも動かない。
 エスペリアを守らなければと思ったが、叶わなかった。
 霞んでいく意識の中で、急襲者――最期の力を振り絞ってフィアナに神剣魔法を放ったスピリットが、嘲りに口を歪ませているのが見えた。

                   *

 エスペリアは呆けたように、倒れているフィアナを見つめ続けていた。
 立ち上がることも、フィアナの名を呼ぶことも出来なかった。
 頭が真っ白になってしまって、何も考えることが出来ない。
 早く立ち上がってフィアナを守らなければ、と頭のどこかが叫んだが、体は動かなかった。
「ぁ……」
 目の前で、スピリットの神剣魔法――『ファイアボール』を食らったフィアナが倒れている。
 うつ伏せになって倒れているフィアナは、酷い状態だった。服は背中一面焼け焦げていて、エスペリアの鼻腔にも焦げた匂いが感じられる。
 焦げた服で肌は見えないものの、彼女のダメージが深刻なものだということは痛いほどに分かった。倒れ伏しているフィアナの体からは、白煙が立ち上っている。
 ぴくりともしないその姿は、まるで。
 ――打ち捨てられた、蝋人形のようだった。
「ぅ……」
 辛うじて呻きとも悲鳴ともつかない声が漏れ出る。
 ――どうして、こんなことになってしまったんだろう?
 頭の片隅でそんなことを考えるが、原因は分かりきっていた。
 フィアナは直前になって神剣魔法に気づいた。だから当然、彼女一人ならば避ける事だって容易だったはずだ。
 だが彼女は避けられたはずの攻撃を食らってしまった。
 エスペリアを庇わなければならなかったから。
 ――私の、せい……?
 エスペリアがスピリットの奇襲を察知できていれば、フィアナがこんなことにはならなかった。
 エスペリアがスピリットの奇襲を察知できていなかったから、フィアナがこんなことになってしまった。
 ――私のせいで、姉さまが……?
「あ……あぁ……っ」
 『献身』をぎゅっと握り締める。その手はいつの間にか震えだしていた。
 頭は分かりきっている。これは自分のせいなのだということを。自分さえいなければフィアナが攻撃を食らうことも無かったのだということを。
 それでも、幼いエスペリアはそれを認めたくなくて……
 それを認めたら、自分が壊れてしまうような気がして……

 ……もっと分かりやすい意味を、求めた。

「あぁぁぁぁぁぁっ!」
 絶叫が、ほとばしる。
 否、それは絶叫というカテゴリーに収まるものではなかった。激情が行き場をなくして破裂したような声。幼いエスペリアが出していいものではないほどに悲痛で、狂気じみたその声は――。
 ――敢えて言うのならば、咆哮だった。
 次の瞬間、エスペリアは弾き上げられたかのように駆け出す。その手に、大きな大きな『献身』を持って。
 その先には……フィアナを撃った、スピリット。
 許さない。
 許せない。
 許す必要など、ない。
 壊せ。
 壊せ。壊せ。
 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ!!
「あなたがぁぁぁぁァァァッ!!」
 切り裂いた。
 駆けるスピードそのままが乗った斬撃で。スピリットの身を、何のためらいも無く。
 がくん、とスピリットの体が衝撃で一瞬跳ね上がる。フィアナを撃つことに全力をつぎ込んだスピリットはもはや抵抗する力もないらしく、だらりと手足を垂らしていた。
 明らかに、この傷は致命傷である。
 だが……それが一体、何の免罪符になるというのか。
 ぎり、と歯を鳴らしながら、エスペリアは『献身』を逆手に持ち替えた。
「あぁぁぁああぁあぁぁぁっ!」
 もはや動こうともしないスピリットの体に刃を突き立てる。何度も。何度も何度も。
 その目は涙と憤怒と憎悪に満ち、殺意で溢れかえっている。
 幼いエスペリアが、浮かべていい表情ではなかった。
 ――あんなに優しい人だったのに。
   殺された。このスピリットのせいで。
「絶対に!絶対に許さないッ!!死んじゃえ!!死んじゃえぇぇっ!!」
 血が舞い、エスペリアの頬に張り付く。
 だが、まだだ。フィアナの苦しみはこんなものではない。
 フィアナを奪われたエスペリアの痛みは、こんなものではない。
「うわあぁぁぁぁっ!!」
 狂乱の声を上げて、エスペリアは『献身』を高く振り上げた。
 理由は、ただ一つ。
 振り下ろすためだ――


「エスッ!!」


 声。
 声が聞こえた。
 懐かしい声。
 エスペリアが大好きだった声。
 声がするのと同時に、エスペリアはほのかな温もりに包まれる。
 甘い髪の匂い。
 自分がここにいるのだという、確かな安心感。
 それは、
 確かな……フィアナの、温もり。
「エス……エスッ!!」
 自分は、抱きしめられている。
 フィアナが、抱きしめてくれている。
 ――生きてる。
「私は、生きてるから……」
 耳元で、フィアナが呟く。
 ……鼓動が、聞こえる。
「私は、ここにいるから……っ」
 ぎゅっとエスペリアを抱きしめる手に力がこもった。まるで自分の残り少ない力の全てを振り絞って、彼女に自分の存在を伝えようとしているかのように。
「だから……だからあなたは、こんなことする必要なんてないのよ、エス……」
「あ……あぁ……っ」
 ――姉さまは……生きてる。
 声にならない声が漏れ出していく。それと同時に、エスペリアの全身を震えが伝わっていった。
 力が抜けていく。フィアナの手から『献身』が滑り落ちて、からんと音を立てた。
 血にまみれた、『献身』。
 違う。
 自分は、こんなことをしたかったのではなくて。
 自分は、ただ姉を失ってしまうのが怖かっただけで……
「あ……ぅ……」
 叫んで、走って、切り裂いて。
 最後には、涙が出てきた。
 涙はエスペリアの頬を伝い、フィアナの手へと落ちる。
 その瞬間に、エスペリアは崩れ落ちた。
「あっ……く……ぅ……えぐっ………」
 涙が止まらない。
 後から後から涙があふれ出てきて、止まらない――
 もう、どうすることもできなかった。
 エスペリアはそのまま、フィアナの温もりの中で、声がかれるまで泣きじゃくっていた。

                      *

「……ぅ、くぅ……」
 短く喘ぐ。
 呼吸が荒い。何とか近くの幹に体を預けて呼吸を楽にしたものの、溢れる吐息は速くなって行く一方だ。どうやらあの神剣魔法で、呼吸機器すらやられてしまったらしい。
 立ち上がろうとして何度も全身に力を込めるが、体はぴくりとも反応しない。
 ――もう何度も同じ事を考えたものだけど……
 今度こそもう一歩たりとも、動けそうになかった。
 しかしだからといって、フィアナは死にそうになっているのではない。彼女が負っているのは重傷ではあるけれども致命傷ではなかった。エスペリアに助けを呼んできてもらい、その間を安静に待っていれば彼女は助かる。……そう、少なくとも肉体だけは。
 だが、ココロはもう駄目だ。あまりにもマナを失いすぎてしまった。今はまだ気力だけで自我を保ってはいるが、一日、いやあと数時間も経ってしまえば、今度こそフィアナの自我は消え去ってしまうだろう。
 ソーマの目論見は成功してしまったな、とぼんやりとした意識で考える。だがそんなことは、もはやどうだっていいことだ。
 フィアナが倒れても、まだ彼がいる。ラスク・ロードという強く、優しい青年が。彼ならばフィアナが出来なかった分だけエスペリアを守り、愛してくれるだろう。
 はぅ、と息を吐き出す。白い息が空気を細く、長く染めていく。
 やるべきことはすべてやった。心残りなどもう何も無い。
 ……いや。
 正直に告白するのなら、本当はもう一つだけ。
「……ねぇ、エス」
 辛うじて首だけを動かし、彼女はエスペリアの方に向き直る。
 エスペリアの涙はまだ止まっていなかった。さすがに先程までのように大声をあげて泣きじゃくってはいないものの、下を向いて声を抑えるようにして、彼女は泣いている。
 それだけが、唯一の心残り。
 誰よりも笑顔が似合う彼女を泣かしてしまったことが。
 最期に見える彼女の顔を涙で汚してしまったことが。
 何よりも悲しくて、悔しかった。
「泣かないで……あぁ、私困ってしまうわ。私が大丈夫だと言っているんだもの、あなたが気にするだけおかしいじゃない」
 困ったように微笑む。
「泣かないで。笑っていて……それがあなたの、一番素敵なところなんだから」
「でも……!」
 エスペリアが叫ぶ。綺麗な翡翠色の瞳が、じわっと潤むのが見えた。
「私のせいでっ!姉さま、こんなことになっちゃって……!」
 その顔に浮かぶのは、哀哭。
 もしかしたら聡い彼女は、感覚的にフィアナの最期が近いことを感じ取っているのかもしれない。それを誘発したのが、自分の存在だということも。
「私に神剣魔法が使えたら、姉さまを癒してあげられたのに……私に、ハイロゥが使えたら……、姉さまを、守って、あげられたのに………っ」
 漏れ出る嗚咽に、後ろの方は言葉になっていない。痛々しいほどに自分を責め、償えない罪に涙を流すだけだった。
 ――あぁ。
 フィアナの胸が痛む。それは鋭く鈍く、彼女を苛む。
 ――違うのに。
   エスが重荷を背負う必要なんて、ないのに……
 でも、どうやったら伝えられるだろう。
 泣きじゃくる妹に。
 最後の、大切な人に。
 フィアナには分からない。残り少ない時間の中で何を残せるのか、何を残すべきなのか。
 分からなかったけれども、時間が無かった。
「……エス」
 最後の力を振り絞って、エスペリアを抱きしめる。
 言葉すらも満足に紡げなくなっている。口を開いても、出るべき声が音として出てこない。
 ならば、温もりで伝えよう。鼓動で伝えよう。私の想いを、大切な大切な貴女へ。
 ……きっとこの子は、とても辛い道を歩くことになる。それはもしかしたら死すら甘美と思えるほどの、夜闇に覆われた世界。
 でも、いつか夜は終わるから。
 きっと朝はやってくるから。
 だからあなたに、あなたの未来に、せめてもの福音になることを願って……

 フィアナはゆっくりと、本当にゆっくりと、その言葉を紡いだ。




         「私のことなんて、いいのよ。それよりもね、エス……」
 

                      †

 それはフィアナがエスペリアに宛てた、最期の言葉だった。
 限りある僅かな時間、本当に最期になるであろうことを覚悟して紡がれたはずの言葉だった。
 でも――
 急いだ風も、取り乱した風も無かった。
 恐怖も悔恨も、絶望も無かった。
 ただ、ただそこには――
 大切な者へ贈る――
 純粋な――世界一美しい言葉があった。

                          

 ――ねぇ、エス?
   ハイロゥなんてね。いつもは出せなくたって、ちっとも構わないの。
   ハイロゥは再生の剣が私たちに与えてくれた、きっかけに過ぎないんだから。

「……きっかけ?」

 ――そう。大切な人を守るための。
   ……きっとあなたは、これからとても多くの人を守っていくと思うの。
   だってあなたは優しくて、傷ついてる人を放っておけない……私の、自慢の妹なんだから。

「……守る……」

 ――だからね、エス?
   あなたが本当に守りたい人が出来たとき、その人を守りたいと心から願うとき……

 ――その時こそ……

 ――勇気を出して……

                          



「勇気を出して……その力を、使いなさい」



<現在・スピリットの館>

 世界が、静止していた。
 フィアナが切り裂くはずだった世界が。ただただ理不尽によって塗りつぶされるはずだった世界が。
 受け止められていた。
 フィアナが放った凶刃が。エスペリアを貫くはずだった刃が。
 エスペリアの顕現させた、小さな小さな……翡翠色のシールドハイロゥによって。
「エス、それ……」
 背後からラスクの驚嘆の声が聞こえた。それも無理からぬことである。エスペリアほどの年齢でハイロゥを具現化させるなんてことは、常識では考えられないことだったから。
 とはいってもエスペリアのシールドハイロゥは、フィアナの攻撃を受け止められていることが信じられないくらいに貧弱であった。他のスピリットの、黒く染まったハイロゥとは比べるべくもない。すぐにでもフィアナの槍に押されて消えてしまいそうである。
 でも……
 エスペリアは深く息を吸い、強く『献身』を握り締めた。
 ここに、いたから。
 誰よりも優しいフィアナが、ここにいたから。
 自分に勇気をくれたから――
「……守ってみせるんだから……」
 かすれた声。だけどそれは同時に、何よりも強い聖なる宣言となる。
 壊される訳にはいかない。
 フィアナが守ろうとしていたものを、他ならぬフィアナの手で壊させるわけには、絶対にいかない。
 時は流れ、季節は移ろう。楽しかった日々も、暖かな思い出でさえもそのまま止まってはいてくれない。そのままではいられない。
 こんなにも強い想いが、ここにあるから。
 ぐん、と感じる衝撃。フィアナが押し切ろうと腕に力を込めたのだ。それだけで貧弱なエスペリアのシールドハイロゥはぎしぎしと悲鳴をたてる。
 だが、エスペリアは揺るがない。
「……やらせない」
 自分に温もりをくれたラスクを守るために。
 自分に勇気をくれたフィアナとの約束のために――
「やらせない――やらせるもんかぁぁっ!!」
 エスペリアは、咆哮した。

                    †

 彼女は、気づかない。
 彼女の決意を以ってしても、ラスクを守ることは出来ないことを。
 彼女は、気づかない。
 しかし彼女のハイロゥは、姉の言葉どおり後に数え切れないほど多くの人を守る存在になっていくことを。
 彼女は気づかない。彼女は気づかない。
 ただ、愛する人を守り続ける。

 ――この強く美しい想いを、ハイロゥにこめて。

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