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――どうして……だろう? 
シーツをぎゅっと握り締めても、悪夢が消えてしまうことはなくて。
 ――どうして……こうなってしまったんだろう?
 少女の胸に去来した想いは、消えることなく彼女を苛み続ける。
 目の前の光景が信じられなかった。――否。信じたくなかった、というべきか。
「はぁぁっ!」
「―――っ!」
 むせかえるほどに情事の残り香に満ちた部屋で、たった一人の青年が剣を持って、妖精たちに立ち向かっている。
 青年の名はラスク。少女が初めて愛した人。
 そして、彼が剣を振るっている相手は――少女の姉たち。
 どちらも大切な人だった。どちらか一方を切り捨てることなんて思考の片隅にすら浮かばないほどに大切な、大切な人たちだった。
 そんな大切な人たちが。剣を取って、殺しあっている。
 それは、ただひたすらに理解できなくて。不条理で。理不尽で……
 ……それでも少女――エスペリアにとっては、紛れもない現実だった。
「くっ……邪魔をしないでくれっ!!」
「…………」
 必死に叫ぶラスクの声も、ハイロゥを漆黒に染めたスピリットたちには届かない。心を失ってしまったスピリットにそれが戻ることは、決して――ない。
 そしてエスペリアも、できることなら心を失ってしまいたかった。
 心を失い、何も考えることが出来なくなったのなら。こうやって心を切り刻まれ、消えない苦痛を味わうことも、なかっただろうに。
 ――もう……イヤです、姉さま……
 ラスクが戦う姿を見るのも。
 心を失った姉を見るのも。
 シーツをぎゅ、と握り締める。きつくきつく自らを抱きしめた。
 ……それでも、消え去ってしまうことはできなくて……
 視界の端に目を向ける。そこには槍を構えるグリーンスピリットの姿があった。
 それは、相次いで心を失っていく姉たちに恐怖を覚えるエスペリアを、勇気付けてくれた人。
 初めての戦いに震えるエスペリアを、抱きしめてくれた人。
 自らの力のなさに涙するエスペリアに、大切なことを教えてくれた人。
 ――『陽光』のフィアナ。
『ふふっ、頑張りやさんなのね……偉いわ、エスペリア』
 そう言って。フィアナが頭を撫でてくれたのは、いつのことだっただろう?
『大丈夫。怖くたっていいの……私が絶対に、あなたを守ってあげるから』
 そう言って。フィアナが自分を抱きしめてくれたのは、いつのことだっただろう?
 こんなにも、記憶は鮮明なのに。記憶の中では、いつでも彼女が微笑んでいてくれるのに……でも、今の彼女の瞳に、昔の優しい笑みはない。あるのは、深い深い闇。それだけ。
 ――姉さま……っ!!
 どうして、こうなってしまったのだろう。何が運命を変えてしまったのだろう。
 辛すぎる運命は少女の胸に容赦なく襲い掛かり、心を押しつぶそうとする。幼いエスペリアは、その重圧に耐える術はもってはいない。
 しかし成す術もなく心が押しつぶされる……その、ほんの一瞬前に、彼女は気づいた。
 駆け出すフィアナ。その手に握られている神剣を振りかぶり、ラスクへと切りかかる。
 だが、しかし……あぁ、なんということだろう。
 ラスクは、フィアナの奇襲に気づいていない……!!
「――――っ!?」
 その時、弾けた。
 恐怖とか、想いとか、激情だとか。エスペリアを存在させている、全てのものが。
 反射的に走り出す。小さな手に、大きな大きな『献身』を握り締めて。
 駆け寄ってどうすればいいのだろう、なんて考えは今のエスペリアには全く浮かばなかった。
 ラスクを助けなければならない。
 フィアナの手を、罪で汚してはならない――!!
「ラスクさま、危ないっ!!」
「え……?」
 フィアナとラスクの間に滑り込む。間近に迫るは、フィアナが放つ凶刃。
 このままでは、エスペリアは間違いなく殺されてしまう。しかし彼女の胸に恐怖はなかった。あるのは決意にも似た激情、それだけ。
 フィアナの手を汚させはしない。
 そんなこと……自分がさせない!!
 知らずに手をかざす。意味も何も分からずに、記憶の中のフィアナの言葉に突き動かされて。
 ……確かにそれはもう二度とは戻ってこない日々だけど、それでもエスペリアは守っていたかった。
 この胸に残留している、暖かな想いを。


『私のことなんて、いいのよ。それよりもね、エスペリア―――』             









           ―――この想い、ハイロゥにこめて―――  








<過去のスピリットの館>

                  1

「えい、えい……えいっ!」
 館の庭に、エスペリアの掛け声が響き渡る。
 威勢のいい掛け声とは裏腹に、足下はよろよろとしておぼつかない。身長をはるかに越える長さの神剣を振るっているためだ。槍というカテゴリーに含めることすらためらわれてしまうほどの大きさを持つこの巨大武器を持つことが出来るだけでも、彼女はスピリットなのだという証明になるだろう。また、同時にこの大きさをもってすれば、スピリットたる彼女がよろめくのも無理からぬ話である。
 それでも生き生きと神剣を振り続けるエスペリアは、しかし戦うことが好きな訳ではなかった。どちらかと言えば彼女は内向的な性格で、花の世話をしたり本を読むことの方が好きなのだ。また、聡いエスペリアは幼いながら戦うということの意味が分かっていた、ということもある。
 そんな彼女が熱心に槍の練習をしていたのは、、一言に言ってしまえば戦いのためではない。
「……あら、エス。今日も槍の特訓?」
 そう言って顔を覗かせたのは、エスペリアがまさに待ち望んでいた人物だった。
 長く伸ばした髪は、目も覚めるような翡翠色。すらりと伸びた身長に、優しげな笑みを湛えた瞳。まるで母性がそのまま擬人化されたようなその姿は、エスペリアの先輩に当たるスピリット『陽光』のフィアナである。
 彼女もたった今訓練から帰ってきたのかうっすらと汗をかいてはいたが、それすらもエスペリアには魅力的に見えてしまうのだから不思議だった。
 ――姉さま、相変わらず綺麗……
 美しいことが当たり前であるスピリットの中でさえ、フィアナの美しさは群を抜いている。それどころかフィアナには、およそどこを探しても欠点と呼べるものがなかった。清廉潔白にして文武両道。そしてまさしく彼女の持つ神剣が指すような、陽光の如き優しさをもつ女性である。
 そんなフィアナのことを、エスペリアは密かに憧れていて。
 そして――気後れしてしまうのも確かなのだけれど――彼女の了解を得て、エスペリアは彼女のことを「姉さま」と呼んでいた。
「あなたの訓練は午前中だったはずだけど……自主練?」
「あっ、はい!え、と……少しでも強くなりたい、と思って」
「そう」
 フィアナはエスペリアに近寄ると、腰をかがめて頭を撫でてくれる。
「頑張りやさんなのね……偉いわ、エス」
 目前には、フィアナの温かい笑み。
 褒められたこととフィアナの笑みが見れたことにくすぐったい喜びを感じながらも、やはり頭を撫でられると照れてしまう。指を下向きに組んで、エスペリアは俯いていた。
 ……だって。
 フィアナに褒めてほしくて頑張っていたなんて、言えない。
「私、ここで少しあなたの練習を見ていていいかしら?」
 その言葉にもエスペリアは、頬を染めて俯くことしかできなかった。



「それじゃ、そろそろ終わりにしましょう」
 そのフィアナの言葉に、エスペリアは槍を下ろした。
 基本的な突きや斬りを一通りやり終えた頃だったと思う。他のスピリットと比べれば呆れるほどに遅く、不正確なエスペリアの訓練にフィアナはずっと付き合ってくれていた。
 ……だからエスペリアは、フィアナが自分に付き合うことに飽きて練習を中止したのだと思っていた。
「あの、姉さま……私まだ頑張れます。大丈夫ですから……」
 控えめながらも、力強い言葉。内気なエスペリアにもプライドはある。尊敬する姉を喜ばせたいと言う想いもあった。その為には休んでいる暇なんてない……
 しかしその想いも、フィアナにはとっくにお見通しだったらしい。くすくすと笑われてしまう。
「がむしゃらにやっても駄目よ、エス。あなたはまだ小さいんだもの。しっかり休むときは休まないと……ね?」
 そう言って、はい、とタオルを渡してくれる。
 ……それを受け取って、初めて。エスペリアは自分が汗でびっしょりなっていることに気づいた。そういえば腕も上がらなくなっている。あんなに大きい『献身』を振るっていたんだから当たり前と言えば当たり前だが、このまま振るっていたら腕を痛めてしまっていたに違いない。
「……あ」
 恥ずかしさに顔が真っ赤になる。こんなことに気づかないほど、興奮していたなんて。
「ふふふ……あなたはきっと、将来苦労するわね。頑張りやでまじめな上に、完璧主義者だもの」
「……ルゥ」
 そしてエスペリアは、「じゃぁ、そこの木陰で休みましょう?」というフィアナの言葉にこくこくと頷いた。


「……ふぅ」
 流れてくる風が気持ちいい。ドレスタイプのメイド服はきっちりとしていてあまり素肌にはふれないけれど、それでも火照った頬を冷ましてくれる。
 見上げてみれば夕方になっていたようで、西の空はもう茜がかっている。びっくりするくらいに綺麗な、オレンジ色の夕焼け。
「すっかり、夕方になっちゃったわね」
 横のフィアナがぽつりと呟き、それにエスペリアは「あ……はい」と追従した。
「ごめんなさい、こんなに遅くまで……姉さま、忙しいんでしょう?」
「いいえ、そんなことないわよ。むしろ今日は暇だったくらいだもの。あなたが気にすることはないの」
 軽やかに答えられるその言葉が、しかし嘘だと言うことをエスペリアは知っている。フィアナは実質上スピリット隊のまとめ役のようなポストにいる。当然、こなさなければならない仕事も他のスピリットの比ではないのだ。
 そのフィアナが自分の訓練に付き合ってくれたのが、なんだか申し訳なくて。そしてその一方で、とても嬉しくもある。
 そんな不思議な気分だった。
「さて……帰ったら、ご飯の支度をしなきゃいけないわね。あの子達はどうせ、何もしてはくれないだろうし」
「……あ」
 フィアナの呟いた言葉に反応して、エスペリアの肩がぴくんと震える。
 あの子達と言うのは同じ館で生活している三人のスピリット、『遺恨』のユリーシャ、『幇助』のレイチェル、『利他』のリシェリアのことだろう。フィアナからすれば後輩、エスペリアからすれば先輩にあたるスピリットたちである。
 である、のだが。エスペリアはどうしても、この三人のことが好きになれないでいた。
「……エスは」
「え?」
「エスは……あの子達のこと、嫌い?」
 まるでエスペリアの心を見透かしたかのように、フィアナ。
 どきっとしてしまった。
 フィアナの言葉がタイミングが良すぎたというのも勿論あったけれど……問いかけるフィアナの顔が、あまりにも悲しそうだったから。
 ……きっとフィアナは、あの三人のことが好きなのだろう。だからエスペリアに、三人のことを嫌っていてほしくないのだ。エスペリアはそう解釈することしか出来なかった。
「……嫌いと言うことは……ないです」
 そう、エスペリアは三人のことが決して嫌いではない。
 ……正確に言うならば、まだ嫌いにもなれてはいなかった。
「ただ……」
「ただ?」
「ただ。何だか……怖くて」
 フィアナの目が、すっと細まったのが見えた。
 怖い――。
 その想いは、三人を初めて見たときからずっと付きまとっている。ただ嫌な事をされただとか近寄りがたいというレベルの問題ではなかった。恐怖と言うよりは、拒絶反応である。
 彼女たちはエスペリアの『姉たち』なのだから、仲良くしなければならない。そんなことは分かっているのだけれども、無意識に体が強張ってしまうのだ――そう、彼女たちの姿を見るたびに。
 一言も言葉が紡がれることの無い唇。光の無い目。命令ならばどんなに冷酷なことも眉一つ動かさずやってのける残酷さ。そして、黒く染まったハイロゥ。
 それらは、幼いエスペリアを恐怖させるには十分すぎるものだったのだ。
 彼女たちは本当に、自分やフィアナと同じスピリットなのか。それにしては異質すぎる。彼女たちはスピリットと言うよりは、そう。
 まるで、人形のようで……。
「――悲しいことがあったの」
 ふと、フィアナが呟いた。
「……姉さま?」
「とてもとても悲しいことがあったの。悲しくて、痛くて、苦しくて……それなのに泣くことも許されなくて。血が流れ出るほど唇をかみ締めて、拳を握り締めて、あの子達は耐えていたの」
 淡々と紡がれていく、フィアナの言葉。
 その言葉は、エスペリアに向けられたものではない。さりとて自身に向けられたものでもなかった。誰にと言う訳でもなく、言葉は流れて黄昏に解けていく。
「きっとそれは、とても辛いことだったのね……だから、あの子達は……」
 ……不意に。エスペリアは、フィアナはこの言葉を世界に向けて発しているのではないかと思った。
 さらりと夏風が吹く。風にさらわれそうになる髪を、右手で押さえて。

「だからあの子達は……心を、壊してしまったの」

「……?」
 きょとん、としてエスペリアはフィアナを見つめる。
 分からなかった。
 彼女が言ったことの意味も、彼女にそれを言わせた感情の正体も、彼女がエスペリアに求めたものも。
 ただ、覚えておこうと思った。
 きっと姉が言ったこの言葉は、とてもとても大事なことだから――自分が生きている限り、決して忘れてはいけないのだと。
 ……熱心に自分を見つめるエスペリアの視線に気づいたのだろう。フィアナはふと我に返ったように、いつもの笑顔を作った。
「――ごめんなさい。エスには少し早すぎたわね……さ、戻ってごはんにしましょう?」
 その横顔はもう、いつものフィアナで。
 だから次の瞬間、エスペリアは胸に先程去来していた不安を忘れてしまう。
「あ……はいっ」
 短く頷いて、エスペリアは立ち上がった。


 エスペリアは、思うのだ。
 思えばあの時、フィアナの瞳の奥底にあった悲しみを感じ取ることが出来れば……姉は、本当の意味で死ぬことはなかったのではないか、と。

                  2

「ソーマ様……『陽光』のフィアナ、来ました」
 ノックをして数秒待つと、入りなさい、と中から返答が聞こえた。
 どうやらソーマは中にいるらしい。呼び出しておいていないなんてことは勿論有り得ないはずだったが、それでも、いなければ良かったのにとフィアナは思わずにはいられない。
「失礼します」
 中に入る。ソーマは椅子に腰掛けることも無く、部屋の中央に立っていた。
 ……だから、顔を上げればすぐにソーマの顔が目に入る。それがイヤで、フィアナは僅かに俯き加減に視線を落としていた。
「……何か、御用ですか。ソーマ様」
 その言葉は刺々しく、上の者に対する畏敬の念は全く無い。
 ソーマ・ル・ソーマはラキオス国スピリット隊隊長である。スピリットを操ることが異常に上手い男で、そのおかげで戦績も多くあげていた。訓練士としての評価も高い。
 だがしかしそれはあくまで人間たちの評価であって、フィアナはソーマのことを全く認めてはいない。
 ……絶対に。認めるわけになど、いかなかった。
 睨み付けんばかりに敵意を剥き出しにするフィアナ。その一方で、ソーマは下劣な笑みを浮かべる。
「おやおや、つれないですねぇ。知らない仲ではないというのに」
「…………っ」
 びくん。その言葉に、フィアナの肩が震えた。それは恐怖や動揺から来るものではない。
 彼女をそうさせたのは、紛れもない屈辱だった。
 恐らくソーマが言っているのは、かつてフィアナが無理やりソーマと性交渉を結ばされたことだろう。でもそれは、彼女がこの男に体を許したからではない。
 スピリットが人に逆らえないのを利用して他のスピリットを犯していたソーマだったが、フィアナだけは従わせることができなかった。その正確な理由はわからない。『教育』が不十分だったのか、それともフィアナの意志がとりわけ強かったのか。
 分からないながら、ソーマはフィアナのことを諦めなかった。妖精趣味を持つこの男にとって、とりわけ美しいながら自分が手に入れられないフィアナはこの上なく魅力的だったのである。
 そして……ついにこの男は、考えられる限り最も非道な手段に出た。

『おやおや、今日もエスペリアの世話ですか。微笑ましいですねぇ……さながら、小さな妹ができたようだ』
『しかし、エスペリアはまだ無邪気で人を疑わなさすぎる……しっかり守っていないと、誰かの毒牙にかかってしまうかもしれませんよ――フィアナ?』

 フィアナにはそれが一言で脅しだと分かった。この男はこう言っているのだ――自分の物になれ。さもなければお前の『妹』が代わりになるぞ、と。
 怒りに体が震えた。なんと卑劣な男なのだろう、これが人間のすることなのか、と。
 でも結局、彼女には選択権など元から無くて――
 ――エスペリアを守るために、フィアナは……ソーマに、抱かれた。
 その夜のことは、忘れようと思っても忘れられないだろう。凄まじい吐き気と胸の痛みをこらえながら蹂躙されていたこと。かみ締めた唇から流れた血が、シーツに紅い染みを残したこと。
 そして、悪夢は毎晩のように続いていた。ソーマの気の向いた時に、ただフィアナは体を貪られる。そこにフィアナの意志など介在しない。その時のフィアナはただの性欲処理人形であり、スピリットであるとすらも見なされていなかった。
 ……そんな状態が、もう二月も続いている。
 フィアナはもう神剣に心を呑まれても不思議でないほどにぼろぼろになっていたが、それでも気力だけで持ちこたえていた。ソーマの思い通りになるのがいやだったからではない。自我を失いたくない、というのも勿論あったが、しかしそれよりも大事な理由がフィアナにはあった。
 自分がいなくなれば、エスペリアを守れる者がいなくなる。そうなれば幼い彼女も、容赦なくソーマの毒牙にかかってしまうだろう。
 だから、フィアナは耐え続けていた。
 折れそうになる心を必死に縛り付けて……その瞳だけに、殺意さえも覗かせる闘志を燃やして。
「用件がないなら、私は帰らせていただきますが。ソーマ様?」
 叩きつけるような口調でフィアナは放った。
 その様子にソーマは肩をすくめる。
「分かりました。本題に入りましょう……任務の伝達です」
「……任務?」
 まるでオウムのように、フィアナは反芻する。
 スピリットに下される任務と言えば、大概が戦闘である。しかし今の国勢はどこも均衡状態にあって、ラキオスに手を出してくる国などないはずだ。ラキオスが敢えてその均衡を破る利点も無い。
 だがしかし、ソーマは「えぇ」と短く答えた。
「あなたには、バーンライトのスピリットと戦ってもらいます」
 ソーマの伝達は、次のようなものだった。
 最近、リクディウスの森で不穏な動きがあり、それがどうやらバーンライトのスピリットによるものらしいということ。
 そのバーンライトのスピリットはどうやら斥候目的で侵入したらしいということ。
 わが国の機密は最優先保守事項により、直ちに排除せよ、と……
「出立は明日です」
 そうしてソーマは、一方的に告げた。
 敵の数も戦力も詳しいことは何一つ分かっていない。相も変わらずこの国の情報部は無能ばかりかとフィアナは思うが、それも今に始まったことではない。
 フィアナとて、このような頼りにならない後方支援のもとに幾多の戦場を潜り抜けてきたのだ。情報の大小など、彼女にとってはさしたる問題ではない。それに……どちらにせよ彼女には拒否権などないのだ。
「……分かりました。バーンライト国スピリット、必ずや殲滅します」
 本当は、スピリット同士で殺し合いなどしたくないのだけど。
 その想いを押し殺しながら、フィアナは軽く頭を下げた。
「レイチェルかリシェリアを連れて行きます。森の中ではユリーシャの神剣魔法は使えませんから」
「……あぁ、心配なく。あなたに同行するメンバーなら、もう決まってますから」
 フィアナの言葉を、ソーマは笑いながら遮る。……誰だろう。あの三人のスピリット以外に誰か戦えるものがいるだろうか。もしかしたらラキオス本国から誰か送られてくるのかもしれない。
 そのフィアナの想像は、しかし最悪の形で破られた。

「エスペリアです」

「……っ!?」
 一瞬、フィアナの頭の中が真っ白に染まる。
 ――何……?
   この男は、何を言っているの?
 にわかには言っていることが信じられなかった。気でも狂ったのか、と思う。あんなに幼くあどけないエスペリアを戦場に連れて行くなんて。
「そんな……無理です!エスはまだ小さくて……ハイロゥを安定させることさえできないんです!!戦うなんて、とても……」
 今までの落ち着いた様子をかなぐり捨て、フィアナは反駁する。ソーマの意図が理解できなかった。エスペリアを連れて行ったところで得などなく、ただ足手まといなだけだというのに。
「分かっていますよ?……あの子はまだ、戦えないんでしょう?」
「だったら、何故……!」
 理由を言え。
 あの子が今、戦わなければならない理由を。
 きっと睨みつけるフィアナに向かって、ソーマは告げた。
 あの、下卑た笑みと共に。
「『教育』は、早いほうがいいでしょう?」
「―――――!!」
 息が詰まる。心臓が鼓動を早める。喉はからからに渇き、ともすれば意識さえも失ってしまいそうだった。
 その感覚の名は、『絶望』。
 つまり、ソーマは。
 幼いエスペリアに非常な現実を突きつけることで、ハイロゥを黒く染めようと言うのか……!?
「あなた、は……!!」
 ぎり、と歯を噛み締める。視線に力があるのならば、彼女はとっくにソーマを殺していただろう。
 もはや彼女は怒りだけではなく、殺意さえも押し隠そうとはしなかった。
「まだ、飽き足りないというのですか!?『妹』たちや私を弄んで……あんなに小さなエスペリアにまで手を出そうと!?」
「勘違いしてもらっては困りますよ、フィアナ。あなたの『妹』も……そしてあなたも、自ら望んでその体を差し出したのではないですか?」
 言葉に、詰まった。『妹』たちは知らないけれど、フィアナが自ら望んで体を差し出したのは事実だから。
 ……この男は、いつもそうだ。直接そうしろなんて言わない。ただ、そうなるように仕向ける。大切なものを楯にして、誰かの想いを踏みにじって。
 今回も、きっと。
「なに、あなたが守ればいいだけの話ですよ。『姉』が『妹』を守る……当たり前の話でしょう、フィアナ」
 笑いながら、哂いながらソーマは告げた。
 それが、宣告となった。もはや交渉など成立しない。会話としてだって成り立たない。これは譲歩ではなく、ただの命令なのだから。
「……分かり、ました」
 フィアナには従う選択肢しか残されていない。
 ……けれども。
 この男に抗うことなら、出来る。
「私が、エスを守って見せます。絶対に。この命を懸けて」
 恐怖から、絶望から。彼女の心が壊れてしまわないように。
 あなたの思い通りになんか、絶対にならないように。
 叩きつけるようにフィアナは言って、その身を翻した。
「お話がそれだけなら、私は帰らせていただきます。出立の準備をしなければなりませんから」
 そんなもの建前に過ぎない。本当はこの男と同じ空気を吸っていたくないだけだった。そのために、一刻でも早くこの部屋から出たかった。
 しかしそのフィアナの行動は、ソーマのわざとらしい言葉に遮られる。
「あぁ、そうだ……あなたにもう一つ、伝えなければならないことがあるんでした」
 ……まだ、何かあるのか。
 フィアナは半ば絶望的な気持ちで振り返った。
「何ですか、ソーマさ――」
 
 その瞬間。
 フィアナの唇が、ソーマのそれによって塞がれた。

「ん!!んんんぅっ!!」
 いきなりねじ込まれる舌。とっさのことで息がつまり、フィアナは目を白黒させる。
 突き飛ばそうかとも思ったが力がはいらない。……入ったところで一緒だった。
 程度の差こそあれ、スピリットは、人間に、抵抗できない。
「んぷっ!!……はぁ……はぁ……!」
 ようやく解放された。
 慌てて息を吸う。外気がこれほど美味しく感じられたことはなかった。しかしその空気も、今のフィアナには何の気休めにもならない。
 自分は、この男の唾液をどれだけ呑んでしまったのだろう?絶望と共に激しい胸のむかつきがフィアナを襲う。廃液を無理やり胃に流し込まされたような感覚。
 体を曲げて激しく咳き込もうとする。しかしそれすらもソーマは許しはしなかった。
 フィアナの顎に指を沿え、くい、と上げて無理やりに自分の方を向かせる。
「――今日も、あなたを抱こうと思います」
 そして、ソーマは笑った。
 苦痛に顔を歪めるフィアナを見て、哂っていた。
「嬉しいでしょう?」
「……………ッ!!」
 この男は――
 フィアナは、ぎり、と歯を噛み締める。
 どこまでクズなのだろう。誰かの想いを弄んで、踏みにじって、ボロボロにして。それを見て喜んでいる。薄汚い笑みを浮かべて。
 こんな男の思い通りにならなければならない自分が悔しい。叶うならばこの怒りのままにソーマを殺してやりたい。『陽光』は部屋の隅に立てかけてあるし、そんなもの使わなくても素手で殴り殺せるくらいの腕力も激情もフィアナは持ち合わせている。
 でも――
 フィアナはその激情とは裏腹に、全身の力を抜いた。
「―――はい」
 震えるような、搾り出すようなか細い声で、呟く。

「はい……嬉しい……です……」

 許せなかった。許したくもなかった。許せる理由さえなかった。
 でも……従うしかなかった。
 エスペリアを守るためにこの身が必要なら、フィアナはその身を差し出すしかない。
 それがフィアナの唯一の手段であり、贖罪でもあった。
「ふふ……二ヶ月前はまだ恥じらいもあったというのに。淫らなものですねぇ、フィアナ?」
「………」
 フィアナは、何も応えない。
 この男は、気づいていないのだろう。フィアナが潰れてしまいそうなくらいに手のひらを握り締めていることも、その手のひらから真っ赤な鮮血が滴り落ちていることも。
 きっと永遠に気づかない。フィアナの想いは。
 守りたいものがない、この男には。
 フィアナはきゅ、と目をつぶる。脳裏に幼いエスペリアの笑顔を思い浮かべた……それだけが、今のフィアナを支えている唯一のものであるが故に。
 確かにフィアナを徹底的な窮地に追い込んだのはエスペリアの存在だったけれども、それでも本当に楽しかった記憶はエスペリアと共にしかなかった。
 訓練を見守り、共に温かい食卓を取り、些細なことに一喜一憂しながら過ごす穏やかな日々。妹たちを相次いで失っていたフィアナにとって、彼女との生活は幸せだった。本当に、幸せだったのだ。
 だから――
 自分はその日々の名残を守らなければならない。例え、この命を賭したとしても。
 フィアナはゆっくりと目を開けた。広がっているのは一転して、非常な運命ばかりである。
 それを背負うのは……自分でなければならなかった。
 フィアナはつ、と一歩後ろに下がり、身を包んでいる服のボタンを外す。露になる白い肌。するすると滑り落ちていく服。

 ――きっと。
   今夜も夜闇は、私を捕らえて離さない。

                     *

 頭が痛い。
 胸や腰もだ。
 痛みはまだ我慢できるが、同時に感じる吐き気や寒気はどうしようもない。情事の残り香が残ったベッドに倒れているのはフィアナにとって耐え難いことだったけれど、今の彼女には立ち上がる気力さえもなくて、裸のまま、ただ胸を抑えて苦痛に耐えていた。
 ソーマは今はいない。一時間ほど彼女を好きにした後、部屋から出て行ってしまった。……それだけが今のフィアナには唯一の救いでもある。
 もう一秒だって、あの顔を見ていたくはなかったので。
「……く」
 顔が歪む。胸を貫いた鈍い痛み。
 もう、終わったはずだ。あの男は今、ここにはいない。……いない、はずなのに。
 どうしても思い出してしまう。人形のように犯されたあの悪夢を。

 ――人形の、ように?

「ふ……ふふっ……」
 次の瞬間、彼女の口から笑いが漏れ出した。
 人形のように?笑わせる。
 自分はもう、とっくの昔に人形ではないか。人形風情が何を感傷的な。
 だって。
 痛いのに。苦しいのに。
 こんなにも肉体的な感覚は鋭敏なのに……

 ――何も、感じない。
   生きてるなんて、感じない。

「ははは……はははははは……っ!」
 失笑は自嘲となり、自嘲は哄笑へと姿を変える。おかしいわけでもないのに、悲しくてたまらないはずなのに、何故だか笑いが後から後から溢れ出て止まらない。
 心がぼろぼろに罅割れて、壊れていく感覚。
 ……本当に、なんて勘違いだ。自分も今、この境地に至るまで気づかなかった。

『とてもとても辛いことがあったの。だからあの子達は、心を壊してしまったのよ……』

 違う。
 あの子達は、心を壊してなんか。

 ――壊されたんだ。

 どれだけ辛かっただろう。どれだけ苦しんだのだろう。
 声を上げることも泣き叫ぶことも、狂うことさえも許されなくて。結局、ココロを押しつぶすことしかできなかった彼女たち。
 フィアナさえその声に気づけたなら、まだ彼女たちを救うことが出来たかもしれないのに。

 ――私はあの子達の、『姉』だったはずなのに……

「……はは……は…………っ」
 フィアナは目を覆う。押さえつけようとする。そんな資格なんて自分にはないから。
 でも、それは勝手にあふれ出てきて。
 押さえつけようが無くて。
 彼女は『妹』たちにそっと詫びて……
 『それ』を押しやるように、そっと、まぶたを閉じた。
「…………、…………っ」
 頬を伝う冷たい感触。
 それは、悔恨の。
 慙愧の。
 自責の。
 ……決意の、涙。
 それと同時にフィアナの中から、狂気がゆっくりと引いていく。それはまるで、朝焼けの海に潮が引いていくように。
 ゆっくりと目を開ける。

 ――もう、涙は流さない。

 あの一雫で、全て終わりだ。狂気も自嘲も絶望も……全て洗い流してしまえたはずだ。
 きっと。心の中の『妹』たちが力を貸してくれたから。
 フィアナはぎこちなく笑みを浮かべ、小さく呟いた。
「ありがとう。ごめんなさい……不甲斐ない所を見せてしまって」
 でも、もう大丈夫。
 本当は、立ち上がるのさえ辛いけど。
 立ち上がらなければ、何も出来はしないから。
「く……っ」
 立ち上がった瞬間に駆け抜ける頭痛。
 本当に、自分はもうボロボロだ。自我はいつ崩壊してしまうか分からない。体だって汚れすぎていて、エスペリアを抱きしめることさえためらわれてしまう。
 でも。
 フィアナは頭を振って、頭痛と共に迷いを振り払う。
 こんな自分でも、やらなければならないことがある。
 エスペリアの為に。
 もうたった一人だけになってしまった、大切な大切な『妹』の為に――
 『陽光』のフィアナはすっかり汚れきってしまった服を胸に抱き、扉を開く。
 ためらいなど、あるはずもなかった。

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