大地が謳う詩

 

 

 

 

 

最終話「蒼天遥か、高らかに響け」

 

 

 

 

 

 

 目を開くと同時に視界を射る日差しが眩しく、今が朝なのだと言う事を自覚した。

 

 今だ3分の2以上がまどろんでいる脳の中で、ポーッと視線を彷徨わせる。

 

 自分の部屋だ。うん、間違い無い。

 

 ゆっくりと巡らされる視線。

 

 その瞳が、部屋の中にある一点を差す。

 

 それは、部屋の中に備え付けた目覚まし時計。

 

 普段は枕元に置いてある筈の時計が、今はなぜか机の上にある。

 

 暫しの黙考の後、思い出したのは、昨夜宿題をやる為に向こうへ移動させ、そのままにしてしまったと言う事だった。

 

 その表示に、目をやる。

 

『AM 7:42』

 

 表示にはそうある。

 

「・・・・・・・・・・・・はい?」

 

 一気に目を見開く。

 

 それと同時に神経伝達が一気に加速し、脳に血液が巡りだす。

 

 始業は8時30分。今から準備して学校まで行く時間を考慮すると、完全に、

 

「ち、遅刻〜〜〜〜〜〜!!」

 

 一動作で布団を跳ね除けベッドから起き上がる。

 

 次の瞬間、

 

 ガツッ

 

 思いっきり足の小指を、机の足にぶつけてしまった。

 

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

 

 地味に痛い。

 

 そのまま足を抱え片足で飛び跳ねながら、暫しの間痛みにのた打ち回る。

 

 こんな事をしている場合ではない。

 

 目に涙を一杯浮かべながらも何とか痛みを堪え、慌しくパジャマを脱ぎ捨てると、壁に掛けておいた制服を取る。

 

 今は6月。ついこの間から冬服から夏服に変わり、清涼感溢れる白いブラウスと青いスカートが、未成熟な体を包む。軽装な分、個人的にはこちらの方が好みである。

 

 着替えを終えると、鏡台の前に座って髪を整える。長い髪というのは、こう言う時には考え物である。

 

 普段なら服装のチェックから何から入念にやるのだが、今日はそんな事をしている場合ではない。

 

 とにかく準備を整え、忘れ物が無いのを確認すると、そのまま部屋を出た。

 

 そこで、

 

「おはよう。」

 

 1人の少年が、リビングで待っていた。

 

 学生服の上からエプロンを着け、その手には用意された朝食がある。

 

 向けられる柔らかい微笑みに、こちらも自然と笑みが浮かんできた。

 

「おはよ、刹那!!」

 

 

 

 ファンタズマゴリアでの戦いが終わってから、刹那とネリーはハイペリアで暮らす事に決め、その為に入用な物を、参戦の報酬としてトキミに要求して用意してもらったのだ。

 

 必要だったのは、偽造の戸籍と引き受け先だった。

 

 ネリーは勿論の事、刹那もエターナルになってからはハイペリアの戸籍などは消滅している。そこでトキミに頼み、2人分の戸籍を用意してもらったのだ。

 

 そして、引く受け先は。

 

「おはよう。」

 

 奥から、1人の女性が身形を整えて出てきた。

 

 妙齢、と言って良い年齢ながら、その年齢を感じさせないほどの若々しい雰囲気を持つ女性である。

 

 朝倉千波。

 

 2人の身元引受人にして、かつて人間であった時の、刹那の実の母親である。

 

「おはよう、ママ!!」

 

 元気良く挨拶するネリー。

 

 戸籍を得る際に、ネリーは朝倉家の養女と言う形を取った為、ネリーは千波をママと呼ぶようにしている。

 

 そして、

 

「おはよう、母さん。」

 

 刹那もまた、自分の母親に笑みを向ける。

 

 かつて裏切り裏切られて、互いの間には憎悪と悔恨しかなかった両者。しかし今、両者の間に蟠りは無く、かつてこの場にあったのと同じ幸福が、再び取り戻されようとしていた。

 

「おはよう、2人共。」

 

 大手の商社に再就職が決まり、再びかつての辣腕振りを発揮し始めた千波は、毎日忙しいながらも溌剌とし、刹那の記憶の中にある陰鬱な影は完全に払拭していた。

 

 ちなみに今日は公休日らしく、朝からゆっくりしている。

 

「あらあら。」

 

 そんな千波の視線がネリーに向けられた時、その目は驚いたように見開かれた。

 

「すごい格好ね、ネリーちゃん。」

 

 指摘された通り、慌てて準備をしたネリーの格好は酷かった。髪はあちこち跳ねてボサボサ。胸のリボンは45度曲がり、顔はいかにも起きたてだとばかりに腫れぼったい。

 

 それを見て、千波はニッコリと微笑む。

 

「いらっしゃい、直してあげる。」

 

 そう言うと、ネリーの手を引っ張る。

 

 自分の部屋に引っ張りながら、首を巡らして刹那を見る。

 

「刹那、先に準備しててね。」

「ああ、判った。」

 

 そう言って、母の背中を見送る。

 

 千波の記憶はトキミに頼んで復元してもらってある。これは相等難しかったらしいが、どうにか成功したらしく、千波は刹那の母親であった頃の記憶を思い出していた。

 

 そして記憶を取り戻した千波に刹那が最初に言った事は、自分達が既に人間ではなくなってしまったと言う事実だった。

 

 だが、そんな刹那の言葉に千波は、ただ微笑んで見せたのだった。

 

 ところで、この家で刹那とネリーは別々の部屋で過ごしている。

 

 当初こそ、「既にそう言う仲なのだから気にしない」と主張した2人だったが、千波は断固たる「母親の権限」を持ち出してこれを却下。せめてネリーが高校を卒業するまでは、と言って無理やり2人を別々の部屋に放り込んだのだった。

 

 当代一級の実力を誇る2人のエターナルを、有無を言わさず従わせる母親。ある意味、彼女こそが最強の存在なのかもしれない。

 

 

 

「さ、そこ座って。」

 

 そう言ってネリーを鏡の前に座らせると、ブラシと櫛と新しいリボンを用意する。

 

「良いよ、これくらい。」

 

 天然野生児風味のネリーから見れば、この程度は無視できるレベルのものだったが、それでも千波は断固とした調子でネリーを押し留める。

 

「良いから、じっとしてて。」

「でも、」

 

 ネリーとしては、時間が気になるところである。

 

 そんなネリーの耳元で、そっと囁く。

 

「あんまり不精していると、刹那に嫌われちゃうわよ。良いの?」

「う・・・・・・」

 

 さすがに、それは嫌だった。

 

 大人しくなったネリーに満足したのか千波は、ネリーがいい加減に結んだリボンを解いてブラッシングを始める。

 

 寝癖を無理やり縛った為、ネリーの髪はところどころ不自然な方向に跳ねている。それを千波は、丁寧に直していく。

 

「・・・・・・ねえ、ママ。」

 

 暫くしてから、じっとしている事に耐えられなくなったのか、ネリーが口を開いた。

 

「ん、何?」

 

 千波に対し、ネリーは遠慮がちに尋ねる。

 

 千波も、手を止めて鏡越しにネリーを見る。この、新しく出来た娘がこのような口調で話す時は、何か深刻な事を聞いてくるときだと言う事は、既に千波にも判っていた。

 

「刹那から聞いてるんでしょ、あたしも、刹那も、もうママとは同じじゃないって事。」

「ええ。」

 

 何でも無いといった風に、淀み無く頷く。

 

 説明は既に受けていた。エターナルと言う存在、その人を超えた能力、永遠神剣等、かなりの細部に渡って、既に千波は2人の子供達の事を把握していた。

 

「ママは、平気なの?」

「何が?」

「だって、あたしも、刹那も、凄い力を持ってるんだよ。」

 

 それこそ、この世界を滅ぼせるくらいの。と言う事は暗に飲み込む。

 

「それに、あたし達はもう、このままずっと歳を取らない。ママが歳を取って、死んだ後も、ずっとこのままなんだよ。寂しくないの?」

 

 永遠の世界が定める時間の枠から外れた存在であるエターナル。

 

 たとえ大切な存在が目の前で老い衰えて行く中にあっても、自分達はその成長を止めて見守らねばならない。

 

 その事実が、ネリーの中に小さな棘となって刺さり、残っていた。

 

「・・・馬鹿ね。」

 

 そんなネリーの頭を、千波はそっと撫でる。

 

「あのね、ネリーちゃん。平和な世界では、親が子供より早く死ぬのは、当たり前の事なのよ。」

 

 それにね、と千波は続けながら、そっとネリーの細い体を抱き締める。

 

「私の可愛い2人の子供達は、絶対に他人を傷付けたりなんかしないって事は、世界中の誰よりも、私が一番良く判ってるから。」

「ママ・・・・・・」

 

 かつては望んでも得られなかった物。それは、母親の温もり。

 

 その温かくのくすぐったい感触が、ネリーを優しく包み込んでいた。

 

「さ、急いで準備しましょう。早くしないと刹那に怒られちゃうわよ。」

「うん。」

 

 頷くと2人は、再び髪を解かし始めた。

 

 

 

 

 

 

 慌しく朝食を終え、朝露に濡れた街の中へ飛び出す。

 

 現在8時5分。走る必要こそ無いが、それでも急ぎ足で行かねば完全に遅刻する時間である。

 

 朝倉刹那は高等部2年、朝倉ネリーは中等部の1年に在籍している。

 

 もっとも、ここに来るまでは多大な苦労があった。

 

 ネリーに一般常識と、中学生レベルに相当する学力を身に付けさせるのに、暫く時間が掛かった。それでも元々要領は良い方であるネリーは、真綿に水を吸わせるように知識を吸収していった。

 

 こうして、ハイペリアに順応できる程度に知識を身に付けたネリーは今、刹那と共に一学生としてハイペリアの中に潜り込んでいた。多くのニュートラリティ・エターナルがその身分を偽り隠れ暮らしている事から見ても、2人のあり方はある意味正しいのかもしれない。

 

 既に、あの戦いは、2人にとって記憶の回廊の中にある1ページに過ぎなくなっていた。

 

 かつての仲間達の顛末については、いくつかトキミから聞いていた。

 

 軍に残る者、退役する者、様々存在した。

 

 かつて、刹那がカチュアから託されたブラックスピリットの少女、ルルは軍を退役しパティシエの道へと進んだ。ハリオンの元で修行をした後、ハリオン、ヒミカと共に、ラキオス城下街で菓子屋「緑亭」を開店、以後は看板娘の1人として、その容姿、味共に大人気を誇ったという。

 

 ネリーの妹であるシアーもまた、軍を退役した。その後は、同じく退役したセリアと共に孤児院を経営し、子供達の良き姉として過ごしたという。

 

 中で奇妙だったのは、正規軍司令官のエリオスだった。

 

 大戦中は情報部を率いて刹那の耳目を努め、最終決戦時には王都の防衛、及び難民の収容に辣腕を振るったエリオスは、戦後は請われて軍を辞し、ガロ・リキュア王国の宰相としてレスティーナを補佐していた。しかしある時、反女王派のテロに巻き込まれ、レスティーナを庇って命を落とす事となる。

 

 奇妙なのは、彼が今際の際に残した言葉だった。

 

 駆けつけた救護班とレスティーナに見守られながら、薄れ行く意識の中でエリオスはこう言ったという。

 

『楽しかったです、参謀長』

 

 この時の参謀長と言うのが誰を指して言った言葉なのか、今もって謎とされている。

 

 だがこの話を聞いた時、刹那は僅かに顔を伏せて目を閉じ、かつての部下の死を悼んだ。

 

 と、

 

「刹那、待って〜!!」

 

 無意識の内に足を速めていたのか、刹那はネリーを置き去りにしていた。

 

 苦笑して、手を伸ばす。

 

「ほら、早く来い。」

「待って、今、キャッ!?」

 

 短い悲鳴と共に、ネリーはつまずいてよろける。どうやら、僅かに勾配になっていたらしく、目算を誤ってつまずいてしまったようだ。

 

 そのまま前のめりになるネリー。

 

 だが、

 

「よっと。」

 

 その前に刹那が手を伸ばし、ネリーを支えた。

 

 そのまま刹那の胸の中に飛び込むネリー。

 

「気を付けろよ。」

「あ、ありがと。」

 

 そう言って、ネリーは刹那から放れようとする。

 

 しかし、

 

「え?」

 

 掴んだ手を、刹那は放そうとしない。

 

「あ、あの、刹那?」

「また、転ぶかもしれないからな。」

 

 かなり苦しい言い訳だと思った。

 

「いや、さすがにそれは・・・」

 

 言い掛けて、やめる。

 

 見上げた刹那の瞳がどこまでも真っ直ぐ暖かで、何となく言いそびれてしまった。

 

「うん。」

 

 代わって笑顔で頷くと、そのまま刹那と並んで歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと見上げる空。

 

 雲ひとつ無い蒼穹は、吸い込まれそうなほど広く、高く、

 

 そこに響く歌声は、大地が奏でる英雄の詩。

 

 聞く者の絶えた叙事詩は、風の音と共に流れ行く。

 

 高く、高く、

 

 蒼天遥か、高らかに響き渡れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大好きだよ、刹那。」

「ああ、俺もだよ、ネリー。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大地が謳う詩     了