「『画竜点睛を欠く』。とは、まさにこの事か・・・・・・」

 

 セツナはやや苦味を含んだ言葉で、呟いた。

 

 ここは、ラキオス王城、スピリット第二詰め所内にあるセツナの執務室兼私室。

 

 久しぶりにこの部屋に戻ってきたセツナは、書類に向き合いながら、帝国との最後の戦いに想いを馳せていた。

 

 この戦いに勝利したラキオス王国は、ついに長年の宿敵であったサーギオス神聖帝国を破り、その領地を傘下に組み入れることに成功した。

 

 だが、その為に払った代償は大きく、また取り逃がした物も大きかった。

 

 王城での最終決戦時、ついにシュンを破り、カオリを取り戻す事に成功したユウトであったが、倒れたシュンは最後の力を振り絞って執念の反撃に出た。

 

 その攻撃によって《求め》は砕け散り、それを吸収した《誓い》は、第二位永遠神剣《世界》へと変貌した。そして、シュンは、その触媒として精神を《世界》に乗っ取られ、ロウ・エターナル《統べし聖剣》シュンへとその姿を変えた。

 

 右腕が剣と同化し、6本の刃を従えたその姿は、おぞましいの一言に尽きた。

 

 その攻撃力は凄まじく、ユウトとセツナを除くラキオス軍全員で掛かったにも拘らず、傷1つ付ける事が出来なかった。

 

 もし、《求め》が最後の力を振り絞って門を開き、カオス・エターナル《時詠》のトキミをこの世界に召還しなかったなら、ラキオス軍は確実に全滅の憂き目を見ていた事だろう。

 

 トキミの介入により、状況不利と踏んだシュンは体勢を整えるべく一時後退した。

 

 これにより、ラキオス王国軍はサーギオス帝国領全土の制圧を宣言。ここに、永遠戦争第三幕「帝国戦争」は、ラキオス王国の勝利に終わった。

 

 確かに、ラキオスは勝利した。帝国を打倒し、大陸統一を成し遂げた。

 

 だが、ハーレイブ、シュンを取り逃がし、《求め》も失った。そして、この戦争における黒幕。ロウ・エターナル達が、ついにこの世界に現れはじめたのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 遠くの方で、賑やかな声が聞こえて来る。多分、年少組が外で遊んでいるのだ。カオリも戻って来たため、彼女達の嬉しさもひとしおであろう。

 

 だがセツナは、否、多くの者が既に気付いている。

 

 この平穏が、単なる予兆に過ぎない事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大地が謳う詩

 

 

 

第30話「陽だまりの中で」

 

 

 

 

 

 

 書き掛けの書類の手を止め、セツナは顔を上げた。

 

 下書きは全て終え、清書の方も大分完成に近付いている。このまま行けば、明日中には仕上げる事ができそうだ。

 

 セツナが顔を上げたのは、周囲の騒がしさが増したような気がしたからだ。

 

 先程までと比べて、明らかに喧騒の度合いが増している。

 

 セツナは椅子から立ち上がると、廊下に出てみる。

 

 だが、

 

「・・・・・・ん?」

 

 廊下に、と言うよりも屋敷の中に人の気配は無い。

 

 喧騒は、むしろ外の方から聞こえてきている。

 

「?」

 

 訝りながら、玄関の戸を開けて外に出てみる。

 

 すると、思った通り、そこに全員が集まっていた。

 

 そして、その真ん中には石が並べられて金網が敷かれ、火が焚かれている。

 

「何やってるんだ?」

「あ、これはセツナ殿。」

 

 セツナの呟きに、近くに佇んでいたウルカが答える。その手には、皿とフォークが握られている。

 

「何やらキョウコ様が、『ばーべきゅー』と言う物を行うらしいので、皆で集まった次第です。」

「バーベキュー?」

 

 周りを見渡す。

 

 確かに、この状況はバーベキューの準備だ。そう言えば、対帝国戦前に、キョウコが皆でバーベキューをやりたいと言っていたのを思い出した。となると、祝勝会も兼ねて、それを実行したと言う事だろうか。

 

「ふうん。」

 

 まあ、落ち込んでいられるよりはマシだろう。

 

 実際、詰め所前に集った面々に、暗い雰囲気は無く、和気合い合いとしている。

 

 そう考えた時だった。

 

 突然、横合いから腕を取られた。

 

「たいちょー、捕獲しました!!」

 

 妙に明るい声が響いて来る。

 

 見ると、ネリーがセツナの右腕にしがみついている。

 

「ウム、ご苦労ネリー隊員。それでは、連行してくれたまえ。」

 

 何やらキョウコが、楽しげに命じている。

 

「おい、何をする気だ?」

 

 訳が分からないまま、腕を引っ張る彼女さんに尋ねてみる。

 

「えっとね、セツナ、料理得意でしょ?」

「・・・いや?」

 

 これまで何度か必要に迫られて料理に手を付けた事はあるが、別に得意と言うわけではない。と言うか苦手な方だ、どちらかと言えば。

 

 だが、そんな事はお構い無しにネリーはセツナを引っ張っていく。

 

 やがて、連れて行かれた先では、キョウコを中心とした数名が、食材の準備をしていた。

 

「んじゃあ、セツナは取り合えずお肉切ってね。」

 

 そう言うとキョウコは、エプロンと包丁を差し出してくる。ようするに、暇なら手伝えと言いたいらしい。

 

「・・・・・・ちなみに尋ねるが、俺に拒否権は?」

「拒否権? 何それ? 美味しいの?」

 

 取り付く島も無い。

 

 セツナは溜息を吐くしかない。

 

「ほ〜らほら、忙しいんだから。チャッチャと動く!!」

 

 問答無用で話を進める。

 

 仕方無しにセツナは、作業に入った。

 

 

 

 やがて、全ての食材を切り終えて、火にくべられ始める。

 

 初めての経験なのか、スピリット達は皆、目を輝かせながら炙られていく肉や野菜を眺めている。

 

 その目はどれも生き生きとしている。

 

 今まで、食事と言えば厨房で作る物と相場が決まっていたのだろう。このように、屋外で作る事に、新鮮な楽しさを見出しているようだった。

 

 そんな中で、

 

「あ〜駄目駄目、それはまだ早いってば!!」

 

 何やら、傍迷惑なまでに煩い一画があった。

 

 その中心に居るのは、先程まで切る方でも音頭を取っていたキョウコだった。

 

「厚めの肉は火が通りにくいんだから、もっと中央に火力が強い所に寄せて寄せて!! 野菜は少し生でも良いから外側!!」

 

 目を向けてみる。

 

「あ〜ほらほら、それはまだだってばヒミカ!!」

「は、はあ、すいません・・・」

「ハリオン、肉のすぐ脇に野菜置いちゃ駄目!!」

「そうだったんですか〜?」

「シアー、茸を生で食べたら、お腹壊すわよ!!」

「あう〜」

「ネリー、野菜嫌いだからって戻さない!!」

「うげッ」

 

 その様子を、セツナは呆れた瞳で見ている。

 

『・・・・・・・・・・・・バーベキュー奉行?』

 

 そんな阿呆な単語が浮かんでくる。

 

 仕方なく、別の方向に視線を向けてみる。

 

 火を挟んだ反対側では、ヨーティア、イオ、コウインの3人がさっそく酒盛りを始めている。上座に目を転じてみれば、ユウトの姿を見ることも出来た。

 

 ユウトは、《求め》を失った事により、身体能力が普通の人間と同じ程度の物となっていた。しかも、それまでの激務の反動が一気に来たのか、サーギオス戦終了の直後、倒れてしまった。

 

 今も体がまともに動かないのか、椅子に座ったままあまり動こうとしない。カオリやエスペリアが時折気に掛けて世話をしてやっている。

 

『・・・・・・何にしても。』

 

 自分達は、あの激戦を潜り抜けて今日に至った。まだ何も終わっていないのは確かだが、こうして騒ぐ事もありなのでは、と思う。

 

「楽しんでるセツナ君?」

 

 不意に、横から声を掛けられた。

 

 聞き覚えのある声だが、どうも最近あまり聞いていない声だと思い、振り返ってみる。

 

 そして、絶句した。

 

「お久しぶり。」

 

 そこには、緑掛かった黒髪を団子状にした少女が居た。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「あ、食べないならそこのお肉貰うね。」

 

 レムリアはセツナの前にあった肉をひょいっと貰う。

 

「おい・・・・・・」

「ふぁに?」

 

 口に物を頬張りながら、レムリアは振り返る。

 

 セツナは声を低くする。

 

「何でお前がここに居る?」

「失礼ね、自分の家なんだから私がどこに居ようと私の勝手でしょ?」

 

 見事な理論武装だ。一点を除いては。

 

「だから、何でその格好で居るんだ?」

 

 100歩譲ってレスティーナがこの場に居る事は良い。だが、レムリアの格好をする必要が何処にあるというのだ?

 

「何言ってるの。今日は無礼講なのよ。いつもの格好で来たら、皆緊張して食事どころじゃないでしょうが。」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 セツナは溜息を吐いた。どうしてこう、こいつは自分の立場を理解しないのか。

 

「セリア、衛兵を呼んでくれ。不審者が紛れ込んでるぞ。」

「だァァァァァァァァァァァァ!!」

 

 慌ててセツナの口を塞ぐレムリア。

 

「お願い見逃して。私だってたまには息抜きがしたいんだから。」

「ったく。」

 

 セツナは珍しく悪態を吐いた。

 

 

 

 宴(と言うにはあまりにも喧騒に満ち溢れていたが)は、皆、酒も入って良い感じにテンションも上がっていった。

 

 そんな中でセツナはふと、見覚えのある少女が混じっている事に気付いた。

 

 向こうもセツナの視線に気付いたようだが、すぐに視線を逸らしてしまった。

 

 仕方なくセツナは、少女の方に歩み寄った。

 

「楽しんでいるか?」

「・・・・・・別に。」

 

 少女はそっぽを向く。

 

 少女の名はルル。つい先日まで、帝国軍に所属していた少女である。部隊長であるカチュアの遺言により、ラキオス軍に帰属してのだ。今は、ハリオンの元で保護を受けている身である。

 

「ルルは、まだお前を信用したわけじゃない。」

 

 その口から、素っ気無い言葉が零れる。

 

「ここに居るのだって、カチュアがそうしろって言ったからであって、お前の事を許したわけじゃないよ。」

 

 挑発的に言うルル。

 

 それに対して、セツナは口元に微笑を浮かべる。

 

「ああ、それで良いんじゃないか?」

 

 セツナは思う。

 

 この少女は、かつての自分に似ていると。

 

 母に裏切られ、その母を憎み、周りに居る全ての人間を信用せず、ただ己のみを見ていた自分。

 

 だが、仲間達との出会いがそんな自分を変えてくれた。

 

 愛する少女の言葉が、そんな自分を否定してくれた。

 

 それは違う、と。

 

 そんな事は無い、と。

 

 キョトンとした顔でこちらを見てくるルルに、セツナはもう一度微笑みかける。

 

 この少女にも、いつかそれが判る日が来ると思う。

 

「そら、早く食わないと取り分が無くなるぞ。何しろうちには欠食児童が多いからな。」

「そ、そんなに食べられないよ!!」

 

 これまで帝国の中にあってろくな食糧配給を受けられなかった。その為、ルルの体は非常にほっそりしている。成長がやや遅れがちなのだ。ラキオススピリット隊の年少組の少女達と比べても、食はやや細いほうだった。

 

「セ〜ツナ〜!!」

 

 突然、後ろから銅鑼声が響く。

 

「ちょっとこっち来て、付き合いなさいよ〜!!」

 

 キョウコがグラスを掲げて叫んでいる。

 

 セツナは溜息を吐く。

 

 どうやら喧騒は、まだまだ続きそうだった。

 

 

 

 宴は結局、深夜近くにまで及んだ。

 

 年少組やまだ体調の優れないユウトは、早い段階で各々の部屋に戻って言ったが年長組の面々はその後も騒ぎ続け、衛兵達が怒鳴り込んでくるまでドンチャン騒ぎが続いた。

 

 片付けは翌朝一番で手分けして行うと決め、お開きとなった。

 

「ふう。」

 

 セツナは深く息を吐いた。さすがに少し、飲み過ぎたようだ。

 

 セツナ自身、帝国戦が始まって以来、休む間も無く激務をこなして来た。その反動で、自分でも気付かない内にストレスが溜まっていたようだ。その為、あれだけ飲んだにも関わらず、酔いよりも開放感が勝っていた。

 

 ひと時の安らぎ。

 

 それがもたらす充足感。

 

 だが、

 

《そなたは、判っておる筈じゃ。》

 

 頭の中から、声が響いてくる。

 

 あの、声だ。

 

《最早、時が無い事をな。》

「・・・・・・・・・・・・」

 

 古風な、女性の声だ。

 

《セツナよ。今のそなたでは、あ奴等には敵わぬぞ。》

「ああ・・・判っている。」

 

 女性は、容赦無い声でセツナの精神を追い詰めていく。

 

《わらわを受け入れよ。さすれば、無限なる力がそなたの物となる。》

「・・・・・・・・・・・・」

 

 魅力的な誘惑だ。その対価さえ除けば。

 

《断る理由はあるまい? 色良き返事を待っておるぞ。》

 

 その言葉を最後に、女性の意識はセツナの中から消えて行った。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 無言。

 

 言っている事は、判る。

 

 判るのだが・・・・・・

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 だが、まだ、その時ではなかった。

 

 セツナは、部屋の扉を開いた。

 

「あ・・・・・・」

 

 思わず、驚きの声が突いて出た。

 

 ベッドの上で、ネリーが横になっている。多分、先に上がってから、ずっと待っていたのだろうが、待ち疲れて眠ってしまったのだろう。

 

 セツナはフッと笑うと、ネリーの足から靴を脱がせ、上から毛布を掛けてやる。

 

『そう言えば、初めてここに来た時も、こんな感じだったな。』

 

 ハイペリアの事をしきりに聞きたがったネリーに、判る範囲で説明してやっているうちに眠ってしまったのを、今のようにベッドに寝かせてやった事があった。

 

 あの時の自分と今の自分は、何と変わってしまった事だろう。

 

 ネリー。

 

 気が付けばいつも、自分の後ろをちょこちょこついて来た少女。いつしか惹かれ合い、恋人になった。世界で最も愛おしい少女。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 セツナが髪をそっと撫でてやると、ネリーは少しくすぐったそうに笑みを浮かべた。

 

 それを見届けてから、セツナは机に向かう。

 

 酔いは回っているが、ストレスを解消したおかげで頭の中はスッキリしている。

 

 机の上に残しておいた書類に向き直す。

 

 予定は狂ったが、別に悪い方ではない。何とか、今夜中に仕上げられるかもしれない。

 

 そう考え、セツナはペンを取った。

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 

 窓から差し込む光が、セツナの意識を徐々に覚醒して行く。

 

 いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。机に突っ伏し、目を閉じていた。

 

 と、

 

『ん?』

 

 何やら顔がこそばゆい気がした。

 

 誰かに、くすぐられているような・・・・・・

 

「・・・・・・何をやっているんだ?」

「あ、起きた?」

 

 目を開けると、ネリーの満面の笑顔があった。その手には、彼女のポニーテールの先が握られている。これが、セツナの鼻をくすぐっていたのだ。

 

「おはよう、セツナ。」

「ああ、おはよう。」

 

 つられるように、セツナも笑みを返した。

 

 どうやら、まだ相当早い時間らしかった。その為、館内に人が動き回っている気配は無い。

 

「昨日は楽しかったね。でもセツナ、なかなか帰って来なかったね。ネリー、ずっと待ってたんだよ。」

「ああ、それは済まなかった。何しろ、キョウコとヨーティアがなかなか放してくれなくてな。」

 

 事実、この2人のせいで、宴は深夜まで及んだようなものだ。

 

「アハッ」

 

 ネリーは、セツナの胸にガバッと抱きついた。

 

 しかし、

 

「むう・・・・・・」

「どうした?」

 

 すぐにネリーは不満そうな声を発した。

 

「セツナ、何か匂うよ。」

 

 それは仕方ない。昨夜は風呂に入る余裕も無かったのだから。

 

 そう言うネリーも風呂に入らずに寝たらしく充分匂うのだが、懸命にもセツナはその言葉を飲み込んだ。

 

 そこで、ネリーは名案を思いついたように顔を輝かせた。

 

「そうだ、お風呂入ろう!!」

 

 

 

 予想した通り、館内はまだ誰も起きていなかった。やはり、昨夜のドンチャン騒ぎの影響が、今だに残っているのだろう。

 

 セツナとネリーは、音を立てないようにして脱衣所に行くと、そそくさと準備して浴場に入った。

 

 適当に体を流してから、湯船に浸かる。

 

 湯は昨夜の内に入れてあったのだろう、少しぬるめだが、入るのに支障は無かった。

 

「ふい〜」

 

 ネリーはだれたような声を発した。

 

 髪を湯船に浸けないように、アップにして髪留で留めている。その頭の上に、タオルを畳んで置いている。

 

「気持ち良いね、セツナ。」

「ああ。」

 

 グッと、湯の中で手足を伸ばす。それだけで、残っていた疲れが飛んでいく。

 

 考えてみれば、ファンタズマゴリアに来てもう2年になるが、こうしてネリーと一緒に風呂に入るのは初めてだった。

 

 そこへ、ネリーが近付いてきた。

 

「ん?」

「えへへ。」

 

 ネリーはセツナの前にスペースを割って入ると、セツナの両足の間に陣取って座った。ちょうど、セツナがネリーを抱えているような格好だ。

 

 そのポジションが気に入ったのか、ネリーは満足そうに笑う。

 

 セツナはネリーの胸に手を回し、後ろから抱き締めた。

 

「あったかいね〜」

「ああ。」

 

 まだ、朝の早い時間。

 

 館内の誰も起きておらず、2人だけの時がまったりと過ぎて行く。

 

 2人とも無言のまま、たゆたう湯にその身を預けている。

 

 スッと、セツナは目を細める。

 

 もう、こうして楽しく過ごす時間は残されていない。

 

 対外的に、ではない。

 

 セツナ自身に残された時が、もう尽きようとしていたのだ。

 

「そうだ!!」

 

 そんなセツナの暗い思考を吹き飛ばすように、ネリーは湯の中で勢い良く振り返った。

 

「セツナ、背中流してあげる!!」

「背中?」

「そう。ファンタズマゴリアではね、女の人が好きな男の人の背中を流してあげるんだよ!!」

 

 そう言うとネリーは、強引にセツナの腕を引っ張って流し場の方へ向かう。

 

「セツナ、ここ座って。」

 

 言われるままに、ネリーの前に座るセツナ。

 

 やがて、ネリーが手にしたスポンジに石鹸を付け、セツナの背中を擦り始めた。

 

「セツナの背中、おっきいね。」

「そうか?」

 

 実際の話、セツナの背中はそれほど大きいわけではないが、それでもまだまだ子供といって良いネリーの手には余るようで、ネリーは全身を使って一生懸命に洗っていく。

 

 やがて、大体洗い終わると、ネリーは桶に湯を汲んで、セツナの背中を流した。

 

 それを見計らって、セツナは言った。

 

「よし、じゃあ今度はお前の番だ。」

「え?」

 

 この言葉は予想していなかったのだろう。ネリーは、戸惑うように立ち止まる。

 

「どうした?」

「い、いや、ネリーは良いよ。うん。」

 

 1人納得するように頷くネリー。だがセツナは、その腕を強引に引っ張って、自分の前に座らせた。

 

「キャッ!?」

「遠慮するな。」

 

 そう言うと、先程までネリーが使っていたスポンジに石鹸を付ける。

 

 その前では、ネリーが耳まで真っ赤になって縮こまっている。ここまでやっておいて何が恥ずかしいのか知らないが、ネリーのこういう反応も、見ていて面白い。

 

 アップした髪の下から見える首筋、そこから伸びる、翼を宿す白い背中、そして小さなお尻に掛けてのラインが、セツナの視界を埋める。

 

 セツナは石鹸を付けたスポンジで、ネリーの背中を擦り始める。

 

「ヒャッ!?」

 

 石鹸の冷たさに首を竦めるネリー。だがすぐに、大人しくセツナに背中を晒す。

 

 セツナは力はあまり入れず、ゆっくりと撫でるように擦っていく。

 

 その間ネリーは、俯いたまま一言も喋らなかった。

 

 洗い終えたセツナは、桶の湯を掛けてやる。

 

 流される石鹸の下から、ネリーの白い肌が現れた。

 

「終わったぞ。」

「う、うん。」

 

 調子を狂わされたネリーは、何やら夢見心地のような気分で髪を解き、洗い始める。

 

 その後、2人はもう1度湯船に浸かり、充分に暖まってから浴場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 午後になって皆が起き出してくると、セツナは1人、スピリット第1詰め所へと向かった。

 

 立場上、ここに来る事は珍しくも無いが、今日は職務で来た訳ではない。

 

 先の戦い以降体調を崩し、寝込んだままのユウトを見舞いに来たのだ。

 

 部屋の入ると、ユウトはベッドに入ったまま上体を起こしていた。数日前に比べて、血色も良いようだ。

 

「よう。」

 

 セツナが入ってきたのを見て、手を上げて迎え入れる。

 

 ユウトに挨拶を返しながらセツナは、部屋の中に先客が居るのに気付いた。

 

「こんにちは。」

 

 ハイペリアにおける巫女装束に、赤いリボン。

 

 カオス・エターナル《時詠》のトキミである。

 

 先日は、サーギオス最終決戦に介入し、間一髪のところでユウト達を救ってくれた女性である。

 

 セツナはトキミにも挨拶をし、ユウトに向き直った。

 

「どうだ、調子は?」

「ああ、お陰さまでな。」

 

 まあ、昨夜は多少だが皆と一緒に食べていたのだ。復調してきているのは確かなのだろう。

 

「なあ、セツナからも言ってやってくれよ。」

 

 ユウトは、呆れた調子で口を開いた。

 

「もう充分健康なのに、トキミもカオリもエスペリアもアセリアもベッドから離してくれないんだよ。」

「当然です。ユウトさんは病人なんですから。」

 

 トキミが少し強い調子で言う。

 

 何だか、姉が聞き分けの無い弟を嗜めているようにも見える。ユウトは長男であるから、こういう状況には慣れていないのだろう。どうやら、対応に困っているようだ。

 

「何が可笑しいんだよ?」

 

 ユウトがブスッとした口調で言ってくる。どうやら、知らずのうちに、苦笑してしまっていたらしい。

 

「いや。」

 

 それを誤魔化すように、視線を外した。

 

「だが、確かにその調子なら、もうすぐ全快と見ても良いんじゃないか?」

 

 そう言って、トキミに視線を向ける。

 

 対してトキミも、その視線に笑顔で答える。

 

「ええ。ですが、今は安静にしていてください。」

 

 そう言ってユウトの肩を押し、強引に寝かしつける。

 

 その様子を見ながら、セツナは2人に背を向ける。

 

「何だ、もう行くのか?」

「ああ、お前の見舞いのつもりだったんだが、その必要も無いくらい元気みたいだからな。」

 

 そう言って笑いかける。

 

 セツナにとって、恋人であるネリーが太陽なら、自分は、その光を受けて輝く月、そして、ユウトは地球その物と言えた。

 

 主星があって始めて成り立つ衛星。守り手たる衛星の主星。それが、ユウトとセツナの関係と言えた。

 

 だが今、その主星は役割を終えた。ならば今度は、衛星たる自分が主星の代わりを勤めねばならない。

 

「セツナさん。」

 

 館を出ようとした時、背後から声を掛けられた。

 

 振り返るとそこには、トキミが立っていた。

 

「少し、話しませんか?」

 

 呼び止めたトキミは、そう言って誘って来た。

 

 

 

 城壁の外周の道を並んで歩きながら、両者無言のうちに時が過ぎていく。

 

 考えてみれば、トキミとこうしてゆっくり話すのは初めての事だった。

 

 見れば、セツナとさほど歳も違うようには見えない。だが、その身の内に秘めた力は、あのハーレイブに匹敵するほどである事は、疑いない。

 

「セツナさん。」

 

 やがて、トキミの方から声を掛けてきた。

 

「まずは、ユウトさんを守ってくれて、ありがとうございます。」

「ユウトを?」

 

 意外な言葉だった。

 

 確かにユウトと供に戦ってきた事は、結果的に彼を守っていた事になる訳だが、この女性の口からそのような事を言われるとは思っていなかった。

 

 構わず、トキミは続ける。

 

「元々、《求め》にユウトさんが狙われていた事はこちらでも察知していました。そこで私を含む部隊は、ロウ・エターナル側に先手を打つべく、虚数空間内で彼等を急襲したのですが・・・」

「負けてしまったわけか?」

「はい。」

 

 トキミは、くやしそうに唇を噛む。あの戦いに勝っていれば、ここまで状況が悪化する事は防ぎ得たはずだった。

 

「要となるスピリットの奪取には成功したのですが、こちらも主戦力の大半を失い、以後の作戦行動が困難なほどの打撃を受けてしまいました。」

 

 戦闘後残ったのはトキミと伝令要員として連れて来ていた新人のエターナル。そして、後1人。

 

「そんな時でした。傭兵としてその戦いに参加していたキリスが、1つの作戦を私に提示してきたのは。」

「キリス?」

 

 記憶にある名前が出てきた。

 

「《鮮烈》のキリス。確か、会った事がありますよね。」

「ああ。」

 

 ハイペリアで会っている。そして、自分と奴との関係も聞いていた。

 

「その作戦と言うのは、本来ならこの世界に存在しないはずの永遠神剣を送り込んで、その強制力を使って本来なら存在しないはずのエトランジェ、言わばイレギュラー・エトランジェと言うべき存在を作り、ロウ・エターナルの作戦に、外部から間接的に介入しようと言うものでした。」

 

 ここら辺は、キリス本人から聞いて知っていた。

 

 トキミの話は続く。

 

「本来なら私達が直接介入できればよかったのですが、敗戦による態勢の立て直しと、この世界に新たに張られた結界の為、正規のルート以外の介入手段が封じられた為、事実上、手出しできなくなってしまったのです。」

 

 つまり、結界のせいで、それまでトキミ達が使っていたパスは全て無効にされてしまったため、ハイペリアに居たトキミ達は、ファンタズマゴリアへ渡る手段を一時的に凍結させられてしまったのだ。

 

 そこで、キリスが目を付けたのが《麒麟》だった。

 

 ロウ・エターナルが張った結界はほぼ完璧に近かったが、それでもいくつか裂け目ができてしまう事は避けられなかったようで、キリスはその裂け目を縫って《麒麟》をファンタズマゴリアに送り込んだのだ。

 

 後は《麒麟》自身の召還でエトランジェが強制的に現れると言うわけだ。

 

 ただ、キリスにも誤算があった。

 

 キリスがセツナと言う存在を作り出したのと同様、ロウ・エターナル側もハーレイブをその対抗手段として送り込んできたのだ。セツナと言うカードを抑える為に。

 

 ロウ側の作戦は、多少の誤算があったものの効を奏し、重要な局面においては常にハーレイブはセツナを抑える事に成功していた。

 

 そして今日、状況はこの上無いほど最悪な局面に達していた。

 

「はっきりと言います。セツナさん。」

 

 トキミは、セツナに向き直る。

 

「あのたの永遠神剣、《麒麟》は、普通の永遠神剣ではありません。そして、その事は既に、あなたにも判っている筈です。」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 判っている。

 

 だからこそ今、悩んでいるのだ。

 

「私には・・・結果的にあなたをこの戦いに巻き込んでしまった私には、あなたに強制する権利はありません。掴み取るのも、捨て去るのも、あなたの自由です。」

 

 トキミは、これが言いたかったのだ。

 

 セツナが《麒麟》の事で悩んでいるのを知り、その選択を迫って来たのだ。

 

 このまま朽ちるのか? それとも、新たな力を手に入れるのか? と。

 

「1つ、聞いて良いか?」

「何でしょう?」

 

 セツナは、トキミに向き直った。

 

「お前がエターナルになった時、どんな感じだった?」

 

 知りたかった。彼女とて、生まれついてのエターナルではあるまい。と言う事は、元は人間であったはずだ。そんな彼女が、何を思ってその力を得るに至ったのか。

 

 対して、トキミは淡々とした口調で答えた。

 

「私には、失う物は何一つとしてありませんでした。ですから《時詠》から誘いを受けた時、何の迷いも無く、それを受け入れました。」

「・・・・・・そうか。」

 

 自分はどうだろう。と、考える。

 

 かつての自分であるならば、トキミと同じで失う物など何一つとして無かった。

 

 だが、今は・・・・・・

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 無言のまま、黄昏の空を見上げる。

 

 上り始めた蒼き月が、そんなセツナを冷ややかに見下ろしていた。

 

 

 

第30話「陽だまりの中で」     おわり