大地が謳う詩
第16話「天上国にて」
1
「・・・・・・・・・・・・ん・・・・・・うん?」
気だるい感覚と共に、セツナは目を覚ます。
次いで、そこが詰め所にある、見慣れた自分の部屋ではないことに気付く。
『そうか、確か、ハイペリアに戻ったんだったな・・・・・・』
徐々に覚醒していく頭の中で、自身の置かれた状況に対する答えを見付け出す。
ここはハイペリアにある自分のアパート。その居間に置かれているソファーの上で、毛布に包まって眠っていた。
自分のベッドは、一緒に来たネリーに貸した為、自分は止む無く、居間で寝たのだった。
「・・・・・・・・・・・・」
覚醒し始めた目を、テーブルの上に置いてある時計に目をやった。
『PM 0:21』
「・・・・・・・・・・・・は?」
思わず目を見開いた。
目を擦って、もう一度時計を見てみる。
『PM 0:22』
先程よりも時間が更新したようだ。
「・・・・・・やれやれ。」
思わず、溜息が吐いて出た。
昨夜寝たのが10時前だったはずだから、実に半日以上も寝ていた計算になる。
自分はいつからこれ程、深く睡眠を取る様になったのだろう?
『いや、違うな。』
今まで、あまりにも緊張感溢れる場所に身を浸からせていたせいで、そこから抜けた途端、気が緩んでしまったのだろう。
何だかんだ言いつつも、自分自身、戦争の連続で気を張り詰めていたのだろう。
その時、続きの間の扉が開き、見慣れた青い髪が出て来るのが見えた。
「うみゅ・・・セツナ・・・おはよ〜」
サファイアのように青い瞳を半開きにしたネリーが出てきた。
見て分かる通り、ネリーも今起きた所のようだ。まあ、彼女の場合、夜更かし朝寝坊は常習なのだが。
「玄関に続く廊下の左手に扉があるだろ。そこに入れば洗面所があるから、顔洗って来い。」
「ん・・・そうする。」
おぼつかない足取りで洗面所に向かうネリーを見送りながら、セツナは完全に頭を叩き起こす。
まず、昨日の時点で驚いたのは、自分がファンタズマゴリアに行ってから、ほとんど時間が経っていない事だった。
正確にはおよそ数分の時間が過ぎていただけ。
『時間の流れが一定でないと言うのは予想していた事ではあるが、まさかここまでとは。』
ソファーに身を預けながら、考える。
『と、言う事は、こちらで数分過ごせば、向こうでは何日も過ぎている計算になるのか。』
セツナはそっと唇を噛む。
今ラキオス軍は、エトランジェ1人が不在となっている。もしそれをマロリガンが察知すれば、決して放っては置かないだろう。
『どうにか、戻る方法を探らないと。』
こちらに戻る事は出来たのだから、もう一度行く方法も必ずどこかにあるはずだ。
『それを探り、一刻も早く戻らないと・・・』
セツナの中には既に、せっかく戻ることの出来たハイペリアに残ると言う選択肢は存在していなかった。
元々、負けず嫌いで、物事を途中で投げ出す事を嫌うセツナである。この考えへの帰結は当然と言えた。
とは言え今回、セツナがそう決断させたことには、もう1つ理由があった。
思案するセツナの耳に、玄関の扉を開ける音が聞こえて来た。
無意識の内に、セツナは眉をしかめる。
そして、居間の扉が開き、予想通りの人物が入ってくるのが見えた。
「あら、おはよう刹那。」
「・・・・・・・・・・・・」
産みの母、千波の笑顔に、しかしセツナは憮然とした顔で応じる。
それに気付いていないのか、それともあえて触れないで居るのか、買い物に行っていたであろう千波は、買ってきた荷物をテーブルの上に置く。
「そう言えば、昨夜一緒に居たあの娘は?」
「・・・・・・今、顔洗ってる。」
「そう。」
チラッと洗面所のほうを見ながら、言葉を続ける。
「それにしても、変わった髪した娘ね。それに、目も青かったし。ひょっとして、外国の娘? でも、きれいな娘よね。」
「・・・・・・お前に関係無いだろ。」
「・・・・・・・・・・・・」
明らかにぶつけられた悪意。
それまで明るく喋っていた千波も、さすがに言葉を止める。
そんな千波に背を向けて、セツナも顔を洗うべく立ち上がる。
「何で、今頃戻ってきたんだよ。」
そう言って、後ろ手に扉を閉める。
それが、今のセツナの心の代弁であった。
と、廊下に出たセツナは、突然耳を劈くような悲鳴を聞いた。
「ん?」
何気なく、洗面所の扉を開けてみる。
すると、
「うえ〜〜〜セツナ〜〜〜」
何をどうやったのか、全身濡れ鼠になったネリーが、床に蹲っていた。
「・・・・・・・・・・・・」
セツナは黙って溜息を吐いた。
どうにもネリーと居ると、テンションを維持できずに困った。
取り合えずネリーを風呂場に放り込み、自分は自室に戻って、先ほどの思考の続きを行う。
『とにかくだ、手掛かりは、ハーレイブと戦ってるときに聞こえて来た声の主。あいつが俺達をこの世界に連れてきた事は間違いない。と言う事は、奴に接触できれば、望みはある。』
声の感じからして、若い、恐らくは20代前半程と思われる男の声だった。
だが、どうすれば接触できるか、それを考える必要がある。
「・・・そう言えば、声の感じからして、俺達の事を知っている感じがあったな。」
となると、放っておいても向こうから接触してくる可能性もある。
『なら、今は動かないで居るのも1つの選択肢か。』
そう呟いて、ベッドの上に寝転んだ。
先程までネリーが眠っていたベッドの脇には、2本の永遠神剣が立て掛けられている。
自分の《麒麟》と、ネリーの《静寂》だ。
「そう言えば、」
セツナはふと、こちらの世界に来てから《麒麟》が一度も話し掛けて来ていない事に気付いた。
『どうしたんだ?』
《麒麟》を手にとって、目の前に掲げる。
鯉口を切り、刀身を拳ひとつ分程、鞘から引き抜いて見る。
あちらの世界での戦いで既に、自分の体の一部のように手に馴染んだ感触を持つ刀。その刀身は、一点の曇りも無く、網膜を染め上げる。
『死んだ、訳では無いだろうが。何か、積極的に意思を表せない理由でもあるのか?』
刀身を鞘に戻し、傍らに置いた。
『何にしても、』
頭の下で両掌を組む。
『早いとこ戻る方法を見付けないとな。』
そう呟いて、そっと目を閉じる。
暫くそのまま、寝転がっていると、何やら居間の方で笑い声がするのに気付いた。
「ん?」
目を開けてみる。
声の主は間違い無くネリーと千波だ。
しかし、2人は言葉が通じないはず。どうやって意思の疎通をしているのだろう?
不思議に思って扉を開けてみた。
すると、
視界の中に飛び込んできたのは、テーブル一杯に広げられたご馳走の山だった。
千波はこれを作る為の材料を買いに行っていたらしい。
ネリーは椅子の1つに腰掛け、満面の笑顔を浮かべている。
「あ、セツナ。」
料理を口に運びながら、ネリーが手を振る。
「セツナのママが作った料理、美味しいよ。セツナも早く来なよ。」
その様子を、千波も微笑ましそうに眺めている。
確かに2人は言葉が通じ合わないが、常にオーバーリアクションのネリーの動きから、感情を読み取っているのだろう。
笑顔を浮かべながら、千波はセツナに向き直る。
「ねえ刹那、この娘、名前何って言うの?」
尋ねられて、まだ教えていない事を気付いた。
「・・・・・・ネリーだ。」
「そう、ネリーちゃんって言うんだ。」
そう言うと、ネリーの頭をそっと撫でる。
「たくさん食べてねネリーちゃん。」
意味は、やはり分かっていないのだろうが、それでも態度から友好的と取ったのだろう。くすぐったそうに笑顔を浮かべるネリー。
その顔を満足そうに見ながら、千波はセツナに向き直る。
「さあほら刹那。あなたも座って座って。」
「・・・・・・・・・・・・」
「早くしないと料理冷めちゃうわ。」
「・・・・・・・・・・・・」
セツナは無言のまま、自分をこの世に産み落とした存在を見る。
その視界の中から、どす黒い感情が沸き立ち、自身を包んでいこうとするのを感じる。
幼い頃、とても優しかった母。
いつも朗らかに笑い、幸せをくれた母。
そして、自分を裏切った母。
欲の為に、自分を捨てた母。
それらが、感情の中で渦を巻く。
拳は知らぬ内に握り締められ、腕は筋肉を攣らせて震える。
「・・・・・・・・・・・・何、なんだよ?」
搾り出すようなセツナの声に、千波は顔を上げる。
その顔目掛けて、セツナは激情を迸らせた。
「一体、何のつもりなんだ?」
「刹那・・・・・・」
激する息子に、沈痛な声を発する。
そんな千波を、セツナは容赦なく糾弾する。
「勝手に人の前から消えておいて、今度は勝手に戻ってきて。人を舐めるのも大概にしろ!!」
料理を食べていたネリーも、何事かと目を見開いてセツナを見る。
日本語で喋っているので、言葉は分からないだろうが、それでも雰囲気からセツナが怒っていることは分かったようだ。
千波は、無言のままセツナから顔を背けた。
今から5年程前、まだセツナが小学生だった頃、千波は男を作って失踪した。
当時千波は、精神的に参っていた。
頼るべき存在である夫を交通事故により失い、国家権力によってその行為を断罪する機会すら奪われた千波は、完全に生ける屍と化していた。
そんな折だった。
夫の会社で夫の秘書を務めていた若い男が、言葉巧みに千波に近付いて来たのだ。
セツナには、始めからその男が何か裏があって千波に近付いたのでは、と言う疑念があった。
と言うのも、あまりにもタイミングが良過ぎたのだ。
父が死んで1年もしないうちに母に言い寄ってくるのだから、疑って当然である。
そして不幸な事に、その予想は的中した。
男は、母から金を借り出したのだ。それも、半端な額ではなかった。
それが数度に及んだ時、ついにセツナは男に食って掛かった。
金を借りるのは止めろ。母にもう近付くな、と。
返事は、ナイフの一閃で返された。
その一撃が頬をモロに掠め、傷は口腔内達する重傷となった。
流血する息子を見て、さすがに母は血相を変えた。
だが男は、そんな母に泣き落としを始めた。
自分は暴力団に借金がある。早く返さないと命が危ないのだ、と。
セツナは、それも嘘だと思った。
あまりにも芝居が臭過ぎる。小学生の学芸会の方がまだマシに思えた。
だが、母はそうでなかったらしい。
血を流す息子と泣き崩れる愛人。
母が選んだのは、後者だった。
セツナは、母に絶望した。
それから暫くして、母が男と共に失踪した時も、セツナは何の感慨も覚える事は無かった。
幸いにして父が残してくれた遺産は莫大に残っており、取り合えず自分が成人するまでは持つと予想できた。
会社の方は、父の側近重役で最も信頼できる人物に譲り、自分は一学生として野に下る道を選んだ。
そして、紆余曲折を経て、今に至った訳である。
失望はしていた。
だが正直セツナは、母の事を怒っていたわけではない。
ただ、2度と再び、自分の前には現われて欲しくなかった。
だと言うのに、
だと言うのに、
「・・・・・・どうして、戻ってきた?」
「・・・・・・・・・・・・」
視線を背けるセツナに、無言で目を伏せる千波。
やがて、
「ごめん、なさい・・・・・・刹那。」
千波の方から沈黙を破った。
「あなたが、私のせいで傷付いていると言うのは、分かっていた。けど、」
「けど、何だ? 結局お前は、自分の夫と息子を裏切り、愛人にも捨てられ、行く場所も無く、裏切った息子を頼ってここに逃げて来た。違うか?」
「・・・・・・そう、ね。」
図星だった。
愛人だった男は、千波が持ち出した金を持って姿を消し、千波はまさに、身1つでここに戻ってくるのが精一杯だったのだ。
「・・・・・・・・・・・・勝手、だよな。」
静かに言い置くと、セツナは部屋を出て行く。
「刹那!」
「・・・・・・・・・・・・2度と、俺の前に顔を出すな。」
それだけ言うと、セツナは振り返らずに出て行った。
2
何をするでもなく、
何処へ行くでもなく、
ただ、気の向くままに、歩き続けた。
その結果、行き着いたのは近所の公園であった。
寒い季節である為か、比較的広い公園であるにもかかわらず、人の影はまばらにしかない。
一角にある公園のベンチに腰を下ろすと、セツナは溜息を吐いた。
疲れた。
これ程感情的になったのは、何年ぶりだろうか?
やり慣れない事をしたせいか、疲労がドッと押し寄せてきた。
だが、
『これで・・・良いんだ。』
半ば、自分に言い聞かせるような台詞が脳裏を過ぎった。
あいつは、自分を裏切り、捨て去った女だ。
被害者である自分には、それを断罪する権利がある。
これは、当然の報いなんだ。
心の中で、自分自身が叫ぶ。
感情がそれに同調し、自己弁護を図る。
だが・・・
己の内で、疑問符の泉に石を投げ掛ける存在が居る。
お前は、本当にそれで良いのか?
お前は、本当にそれで満足なのか?
本当に、後悔は無いのか?
と、
「・・・・・・・・・・・・何を馬鹿な。」
その疑問を、鼻で笑う。
これで良いに決まっている。何を迷う必要性があると言うのだ。
その時だった。
「あ、居た!!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、ネリーが走ってくるのが見えた。
「もう、探したよセツナ。セツナが飛んじゃいけないって言うから、苦労したんだからね。」
そう言うとネリーは、セツナの前に立った。
「ね、どうしたの? セツナのママ、泣いてたよ。」
「・・・・・・だから何だ?」
冷たい声で応じる。
だがネリーは、そんな事は気にせずに話を続ける。
「何だって、セツナが泣かしたんじゃない。だったら、謝らないと。」
「何で俺が謝らなければいけない?」
年下の女の子相手にムキになるのは大人気ないとは思ったが、その一言を看過することはセツナには出来なかった。
「良いか、あいつはな、俺を捨てた女なんだ。それを今更ノコノコ戻ってきて、勝手に悲劇を気取って、それで何で俺が謝らなくちゃいけない?」
「でもママなんでしょ、セツナの?」
「産んでくれた存在以上には思っていない。」
素っ気無く言い放ち、セツナは視線を逸らす。
これ以上、この話題を続ける気は無く、早々に切り上げるつもりだった。
だが、
「馬鹿じゃないの。」
「・・・・・・何?」
ネリーはしつこく食い下がってきた。
「何ムキになってんのセツナ。格好悪い。」
「ムキになるだって?」
セツナは顔を上げてネリーを睨み付ける。
殺気こそ放っていないものの、歴戦のエトランジェの眼光を浴びれば大抵の人間は怯むだろう。
だがネリーは、その視線を真っ向から受け止めて言い返した。
「だってそうじゃない。ママと喧嘩して、こんなトコに逃げてきて。格好悪いよセツナ。」
「・・・・・・・・・・・・」
セツナの中で、徐々に感情が沸騰し始めるのが分かった。
なぜ、自分がこんな事を言われねばならない。
被害者である自分が糾弾される謂れが、一体どこにある?
感情はやがて、無形の刃となって口を突いて出た。
「・・・・・・お前に、何が分かる?」
「セツナ・・・・・・」
「お前に一体何が分かるって言うんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「信じていた、とても大切に思っていた母親に、突然裏切られ捨てられた俺の気持ちが、お前に分かるって言うのか?」
セツナは一拍置いて、言った。
「スピリットの、お前に。」
「・・・・・・・・・・・・」
「再生の剣から生まれ、肉親とも言える存在が居ないお前に、俺の何が分かるって言うんだ?」
ネリーは、その言葉に無言のまま俯いている。
そんなネリーを放って、セツナはベンチから立ち上がる。
「とにかく、この事でこれ以上お前と言い合う気は無い。それでなくても、俺達は早くファンタズマゴリアに戻らなければいけないんだ。あんな女を気にしている余裕は無いだろ。」
そう言って立ち去ろうとした。
その時、
「・・・・・・・・・・・・からないよ。」
「・・・え?」
か細く掠れたネリーの声に、セツナは振り返る。
ネリーは俯いたまま、掠れる様な声で言葉を紡ぐ。
「分から・・・ないよ・・・・・・だって、ネリーには一生手に入らない物だもん。」
「ネリー?」
「だって・・・・・・だって・・・・・・」
ネリーは顔を上げる。
その顔は、流れた涙でグッショリと濡れている。
「ネリーはセツナが羨ましいよ!! あんなに優しいママがいて、おいしいご飯作ってくれて!! ネリーには一生手に入らないんだよ、あんなママは!! それなのに、どうしてセツナはいらないなんて言うの!?」
「ッ!?」
その段になって、セツナはようやく自分の失言に気付いた。
ネリーはスピリットだ。先程セツナが言った通り、親が居なければ兄弟姉妹も存在しない。
双子のように扱われているシアーですら、真の意味での血縁ではない。
だからこそ、ネリーのように幼いスピリットは、肉親と言う物に強い憧憬を感じるのだ。例えば、オルファがユウトの事をパパと呼ぶように、例え擬似的な物であったとしても、その温もりを求めようとする。
ネリーも又同様な憧れを、セツナと千波の間に抱いていたのだろう。
「分かんないよ・・・・・・セツナが何考えてるのか、ネリーには分かんないよ・・・・・・」
そのまま顔を抑えて泣きじゃくるネリー。
憧れるからこそ、それを簡単に捨て去ろうとするセツナを、ネリーは許せなかったのだ。
「・・・・・・・・・・・・ネリー。」
戸惑いと共に、その名を呼ぶ。
いつも奔放に、走り回っている少女。
自分の欲求に忠実で、どんな事でもストレートに表現する少女。
そんな少女が今、感情も露に泣きじゃくっている光景を見て、セツナは戸惑いながらもそっと近付き、
「・・・・・・・・・・・・え?」
そっと、抱き締めた。
「・・・・・・セツナ?」
「・・・・・・済まなかった。」
搾り出すように、セツナは言った。
「お前の気持ちも考えずに、俺は・・・・・・」
「・・・・・・」
ネリーは涙を必死に拭って言った。
「ネリーの事はいいよ。」
「え?」
「けど、ママとは仲直りしてあげて。」
「それは・・・・・・」
セツナは顔を背ける。
いかにネリーがこう言ったとは言え、5年に渡るわだかまりは、早々消える物ではない。
「お願いセツナ。」
「・・・・・・・・・・・・」
葛藤が、感情を埋め尽くす。
母を許すのか、それとも許さないのか、
セツナは、
千波は、自分の荷物を纏め終えた。
元々、身一つで戻って来たに等しい千波の荷物は少ない。バッグ1つで全ての事は足りた。
居間の扉まで行き、もう一度視線を巡らせる。
息子と夫、そして自分、3人で営んだ、この幸せの空間に、自分は2度と戻る事は無いだろう。
「・・・・・・・・・・・・」
しかし、それを責める権利は自分には無い。
初めに息子を捨てたのは、自分なのだから。
「・・・・・・刹那。」
愛しい息子の名をもう一度呼んでみる。
声は、誰も居ない空間に虚しく反響する。
千波はゆっくりと首を振り、扉を開けた。
もう、振り返らない。
そのまま淀みの無い足取りで部屋を辞し、階下へと降りて行く。
そして、一階フロアまで来た時、
「・・・え?」
足を止めた。
その視界の先に、人影が2つある。
2人とも急いで来たのだろう。息が上がっている。
「刹那・・・・・・」
息子の名を、呼ぶ。
その息子が、息を整えながら、自分の前まで歩いてくる。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
両者無言のまま、立ち尽くす。
「あの、」
その沈黙に耐え切れず、千波は口を開く。
だが、それを制するように、セツナが言った。
「時間は、掛かると思う。」
「・・・・・・え?」
セツナが何を言っているのか、千波には一瞬分からなかった。
「でも、努力はする。」
「刹那・・・・・・」
しっかりと目を見据え、セツナは言った。
「・・・・・・戻って、来てくれ。」
「ッ!?」
その一言に、千波は胸を打ち抜かれた。
全てを捨てて逃げたあの日から、決して心が晴れる日は無かった。
息子が自分を糾弾した時、それは当然の事だと半ば諦めた。
だが、セツナのその一言で、それら全てが洗い流されたかのようだった。
「あり・・・がとう・・・・・・刹那。」
千波はその場に膝を突くと、人目も憚らずに泣き出した。
3
「準備できたか?」
セツナは振り返って尋ねる。
その視界の先にはネリーが立っている。
ただしその格好は、常に着ているスピリット隊の隊服ではなく、白いブラウスにチェック地のスカート、青いジャケットと言うこの世界格好をし、髪留めも、普段無造作に縛ってある紐ではなく、白い大きめのリボンになっている。
そこへ、千波がやってきた。
「準備はできたようね。」
そう言ってネリーの方を見る。
「うん、とっても似合ってる。」
ネリーの服を買って来たのは彼女だった。
これからセツナは、ネリーを連れて街に行く予定になっている。
と言うのも、ネリーがどうしてもハイペリアを見てみたいとせがんで来たからだった。
セツナとしても、これは良い気分転換になるのではと思った。
どの道今は、下手に動く事が出来ない。ならば今のうちに、戦いの疲れを癒して心身共にコンディションを整えておいた方が良いだろう。
そんな訳で、セツナはネリーの散歩に付き合う事にしたのだった。まあ、ついて行くのは、勝手に歩かれて迷子になられても困るからなのだが。
「刹那も、準備できた?」
「ああ。」
素っ気無く頷くセツナ。
和解したとは言え、わだかまりはそうそうの事では消えはしない。
だがそれでも、3人での外出に同意した辺りに、努力の成果が見られる。
「さ、行きましょうか。」
そう言うと、千波が先頭に立って部屋を出る。
それに、セツナとネリーも続く。
2人とも細長いバックを持ち、中にそれぞれの神剣を入れている。
この剣に関して、千波は何も聞いては来ない。気にはなっているのだろうが、それでも尋ねて来ないのは、恐らく千波なりの気遣いなのだろう。
そんな訳で3人は、本物の家族のように揃って出掛ける事となった。
向かった先は、2駅先にあるテーマパーク。
近隣にある観光名所では最大の規模を誇り、子供から大人まで、多大な人気を誇っている場所である。
「さて・・・・・・」
セツナは少し、テーマパークの門をくぐるなり、少し疲れ気味に呟いた。
いや、実際に疲れている。まだ、始まってもいないのに、である。
理由は、まあ、説明するまでもなかろう。
誰あろう、隣でニコニコと笑っているネリーのせいだった。
ここまで当然電車で来たのだが、その間、ひっきりに無しにセツナを質問攻めにしてくれたのだ。
「わ、セツナ! 床が動いてるよ!!」(電車に乗っていた)
「あ、セツナ、あのお城何!?」(ただの、どっかの会社のビルである)
「な、何あの大きな鳥!?」(飛行機を見つけたらしい)
「すこーい、馬も無いのに馬車が走ってる!!」(だから車だって)
何と言うか、疲れた。精神的に。
「・・・・・・帰るか。」
「いや、まだ来たばっかりでしょ。」
事情を知っているだけに、苦笑しながらも突っ込みを入れる千波。もちろん彼女はネリーとは言葉が通じないので、終始微笑ましく見守っているしかなかったわけだが。
「さ、時間が惜しいから、色々と回りましょう。」
そう言うと千波は、ネリーの手を握って歩き出す。
その後に、セツナもコートのポケットに手を突っ込んで続く。
周囲を見ると、家族連れやカップルが多数見られる。休日である為、訪れる客も多いようだ。
絶叫系のアトラクションが多いこのテーマパークは、ハイテンションなネリーの好奇心を大きく満足させる事となった。
はじめに乗ったジェットコースターで、好奇心に火が付いたネリーは、あれもこれもと、セツナ達の腕を引っ張って走り回った。
そんな感じで、精神的に続いて肉体的にも酷使される事となったセツナは、昼頃になってネリーが腹を空かせて止まるまで、片っ端から絶叫マシンに付き合わされる事となった。
「あ〜面白かった。」
満面に満足げな笑みを浮かべて、ネリーは正面の席に座った。
ここはテーマパークの一角にあるレストラン。取り合えず、ここで食事にしようと言うことになった。
「・・・・・・それは良かったな。」
テーブルに肘を突きながらセツナは答えた。
そんなセツナを、ネリーは不思議そうに眺める。
「セツナ、何か疲れてない?」
「ああ、誰かのお陰でな。」
「そう、大変だね。」
完全に人事な調子のネリーに、セツナは溜息を吐いた。
暫くして、頼んだ料理が運ばれてきた。
セツナとネリーはハンバーガーのセット。千波は魚のフライとサラダのセットとなった。
ちなみにセツナとネリーが一緒の物なのは、ネリーが「セツナと一緒のものが良い。」と言ったためであり、セツナ自身は、軽く食べられる物が欲しかったためである。
運ばれて来たハンバーガーを、セツナがしているように両手で掴むと、その小さい口いっぱいに頬張った。
次の瞬間、
「ッ!?」
これまでに感じた事も無いような触感がネリーの口中を満たす。
「お・・・・・・」
「お?」
セツナが怪訝な顔で覗き込んだ瞬間、
「美味しい〜〜〜!!」
ネリーの絶叫が木霊する。
「セツナ、これ、とっても美味しいよ!!」
目が輝いている。
まあ、無理も無い。異文化を手っ取り早く体験する方法は、その土地の料理を食べてみる事らしいから。
料理ほど、その土地の感覚を如実に表す物は無いだろう。ましてそれが、次元の隔てた向こうの世界であるならばなおの事だ。
「ねね、セツナセツナ!!」
「分かった。分かったから、落ち着いて食え。」
セツナがそう言うと、ネリーは貪る様にハンバーガーを食べ始める。
「はぐはぐ、あむあむあむあむ、」
「ああほら、ネリーちゃん。そんなに慌てて食べたら、」
「ん、んぐ、んぐぐぐぐぐぐ!?」
千波の警告も虚しく、言ってる傍から喉を詰まらせるネリー。
「ほら、飲め。」
そう言ってセツナは、ネリーの分の紙カップを差し出す。
そのストローの先に口を付けて、中の飲料を吸い込むネリー。
しかし、今カップの中に入っている物は、コーク。アルコール飲料を除けば、恐らくハイペリアで最も刺激性の強い飲み物の1つ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
声にならない叫びを上げるネリー。
まあ、吐き出さなかっただけ立派と言えよう。
そんな騒動もひと段落し、午後もネリーに引っ張りまわされる中、時が過ぎていく。
ネリーは、買ってやったソフトクリームを、嬉しそうに舐めている。
「可愛いわね。」
その様子を眺めながら、千波が呟いた。
黄昏時が迫り、その横顔に傾きかけた日が落ちている。
その横顔を眺めながら、セツナはずっと思っていた事を尋ねてみた。
「・・・・・・聞かないのか、あいつの事?」
「ん?」
振り返る千波。
セツナは顔を向けずに、言葉を続ける。
「あいつが何者で、『あれ』が何なのか、聞かなくて良いのか?」
『あれ』と言うのが、2人が持っていた剣の事を指していると、千波はすぐに察した。
だが、それを億尾にも出さず、質問で返す。
「聞いたら、答えてくれるの?」
「・・・・・・・・・・・・」
黙り込むセツナ。
確かに事が事だけに、尋ねられたからと言って、素直に話すかどうかは分からない。ましてか、ネリーは人間ではなく異世界の妖精で、あの剣は永遠神剣と言う不思議な力と意思を持った剣だ。などと、話したところで、俄かには信じてもらえないだろう。
そんなセツナの様子が可笑しかったのか、千波はクスリと笑って言った。
「今は、聞かないで置く。そのうち、刹那が話したくなったら、話してくれればそれで良いよ。」
そう言って、少し歩調を強め、セツナよりも前に出て歩いて行く。
「・・・・・・・・・・・・」
セツナはそんな千波の背中を、無言のまま見据えて歩く。
懐かしい
そんな気がした。
久しく忘れていた、母の強さを、今の千波は持っている気がした。
その時、
「セツナ!!」
先を進んでいたネリーが、駆け戻ってくるのが見えた。
「ねえねえセツナ、あれ乗ろうあれ!!」
ネリーが指した先には、観覧車の姿があった。
それを見て、セツナが少し呆れる。
「あのなあ、あれは、お前に向かないと思うぞ。」
「何で?」
「お前、飛べるだろ。」
観覧車は知っての通り、ただゆっくりと回り、景色を楽しむだけの乗り物である。ウィング・ハイロゥを持ち、空を飛ぶ事の出来るネリーには、少し味気無いような気がした。
「でも、セツナと一緒に乗りたいの!!」
そう言って、セツナの腕を引っ張ろうとする。
「あら、良いじゃない。」
ネリーの様子から事情を察したのだろう。千波が間に入って来た。
「今、丁度夕方だし、きっと景色も綺麗よ。」
「・・・・・・・・・・・・」
セツナは溜息混じりに、2人を交互に見る。
「・・・・・・仕方ないな。」
セツナはネリーの頭にポンと手を置くと、千波に向き直った。
「すまないが、待っててくれ。こいつと行って来る。」
「はい、行ってらっしゃい。」
そう言うとセツナは、嬉しそうなネリーを連れて、観覧車に向かって歩き出した。
誰もが考える事は同じなのか、観覧車乗り場は長蛇の列になっており、2人が乗る頃には、日は水平線に沈もうとしていた。
「うわぁ。」
ネリーは感嘆の声を上げて、窓の外を見ている。
考えてみれば、ネリーはこの世界の物が何でも珍しいのだから、何をしてもつまらないことは無いのかもしれない。
「・・・・・・・・・・・・」
そんなネリーの横顔を、セツナは無言のまま見詰める。
普段の、スピリットとしての顔ではない。どこにでもいる、女の子の顔だ。
「ねえ、セツナ。」
と、見詰めるセツナに、ネリーの方から話し掛けた。
「シアーも、連れて来てあげたかったね。」
「・・・・・・そうだな。」
頷くセツナに振り向き、寂しそうに笑うネリー。
「今度来る時は、連れて来てあげようね。」
「また無茶を言う。」
セツナは苦笑した。
笑いながらセツナは、先程から自分がネリーの顔ばかり見ている事に気づいた。
「・・・・・・・・・・・・」
《麒麟》に召還されてファンタズマゴリアに行きラキオスで剣を振るい、多くのスピリット達と出合った。
そんな中で最も親しくなったのは、
やはりネリーだと思う。
奔放で旺盛、貪欲で一途。
ネリーは、これまでセツナが持てなかった物を全て持っていた。
だからこそ、
であるからこそ、
「何?」
視線に気付いたのか、ネリーが振り返る。
その声に、セツナは自身の意識を急いで正気に戻す。
「・・・・・・いや、何でもない。」
平静を装ったように言うが、内心では僅かに動悸しているのが、自分でも分かった。
「あ〜何それ、教えてよ!!」
身を乗り出してくるネリー。
その瞬間、体重移動によってゴンドラが揺れた。
「あ、馬鹿!!」
次の瞬間、揺れる室内でネリーはバランスを崩して倒れ込んで来た。
「わわ!?」
それを辛うじて受け止めるセツナ。
図らずも、2人の顔は至近距離まで近付いていた。
「あ・・・」
「・・・・・・」
2人は無言のまま見詰め合う。
「・・・・・・・・・・・・」
ネリーは無言のまま瞳を閉じ、ゆっくりと顔を近付けて来る。
幼いとは言え、こう言う知識はあるのだろう。あるいは誰かが教えたか。
無言のまま近付いて来る、ネリーの幼さの残る顔。
妖精と言う括りに漏れず、整った、儚げな顔立ちは、未完成ながらこの世界には無い美しさを持っている。
その顔が、ゆっくりと近付いてきて、
バチンッ
「痛っ!?」
雰囲気に浸っているネリーのおでこを、セツナが指で弾いた。
「な、何すんの!?」
「お前には10年早い。」
そう言うと、セツナは風景を眺め渡すようにそっぽを向く。
その様子に、ネリーは頬を膨らませる。
「むう、セツナの馬鹿!!」
そう言うと、足取りも荒く向かいの席に戻る。
「良いもん。その内絶対、『くーる』で『ぐらまー』な女になってやる。そしたらセツナなんかネリーにメロメロになるんだから。」
「良いから少し黙れ。」
ピシャリと言い放つ。
だが、膨れっ面になったネリーは気付いていなかった。
外を眺めるセツナの顔。
夕日に当てられたか、それとも何か他の事情か、
ほんのりと、赤く染まっている事に。
観覧車から降りると、ネリーは足取りも荒く千波の待っている場所に向かう。
『やれやれ。』
その背中を、苦笑気味に見詰めるセツナ。
とは言え、先程自分自身、ネリーの姿に見惚れていたのは事実である為、あえてその事で口を開こうとはしない。
その時だった。
「・・・あれ?」
前を歩いていたネリーが、足を止めた。
「どうした?」
「ママは?」
言われて気付く。
先程の場所に、千波が居ないことに、
「何か買いにでも言ったか?」
そう言って首を巡らした瞬間、
「ッ!?」
有り得ない物が、視界に飛び込んで来た。
金髪碧眼に白い法衣を着た痩身の青年。そして、手にした杖。
「ハーレイブ・・・・・・」
《冥界の賢者》が、常の如く笑みを湛えてその場に立っていた。
「これはこれは、久しぶりですねセツナ君、ネリーさん。」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言のままハーレイブを睨む2人。
だが、今の2人は永遠神剣を持っていない。パークの外の貸しロッカーに預けてある。
どう戦う?
焦燥に駆られる2人に。ハーレイブは告げる。
「あなた方のお知り合いは私が招待してあります。助けたければ、そうですね・・・」
少し考えてから、指を指す。
「あそこまで、来てください。」
指差した先には、テーマパークのシンボルとも言うべき白亜の城があった。
「どういう、つもりだ?」
「分かりませんか?」
口元に笑みを浮かべたまま、言う。
「反撃のチャンスをあげると言ってるんです。」
「何?」
「神剣を取ってくる時間を差し上げます。待っていますよ。」
そう言うと、ハーレイブは空間に溶ける様に消え去る。
「セツナ。」
ハーレイブが消えた空間を凝視しているセツナに、ネリーが話し掛ける。
が、それには答えずにセツナは踵を返す。
「行くぞ。」
まずは《麒麟》と《静寂》を取ってくる。話はそれからだ。
慌てて付いてくるネリーを伴って、セツナは駆ける。
今再び取り戻した大切な物を、今度こそ守り通す為に。
第16話「天上国にて」 おわり