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少女は孤高で、孤独で、気高かった。
他者を決してもたれ掛かる対象とは見なかった。
弱い自分を押し隠して、必死に前だけを見て生きていた。
そんな強がりに気づいて、他者にもたれ掛かってもいいと教えてくれる少年がいて。
少女も自らの重さを支えてくれると、少年を認めて。
その時、少女ははたと自覚する。
どうやってもたれ掛かればいいのだろう、と。
人一倍臆病な少女は、もたれ掛かる時に感じる温もりすら怖くて、近づき過ぎる距離に怯えて。
ただ腰を下ろして体重を任せるだけなのに、少女はそれができないのだ。
少女が腰の下ろし方を覚えて少年と正しく付き合えるようになる――これはただそれだけの話。
彼氏の痴情、彼女の事情
written by DU-JO
――友人たちの見解――
足先を水面に触れさせて、感じる温度は少し熱いぐらい。右足で撫でるようにかき混ぜながら考える。入ろうか入るまいか、少しだけ逡巡して思い切って身体を湯船に沈める。
やはり熱い。全身を針で突付かれるような痛みが走るが目を瞑って我慢我慢――。
ようやく身体が熱さに慣れ、全身を突付く痛みが程よい刺激に変わる頃、ふぅ、と私は肺の中で暖められた熱気を外に排出する。
身体の力を抜いて浴槽の縁にもたれ掛かると、今日一日で凝り固まった疲労が白濁色のお湯に溶け出していくようだ。
心身ともにゆったりとくつろいだところで、自分をねぎらう。
――お疲れ様、私。
マロリガン共和国との同盟が決裂した事に端を発した此度の戦争は、まずランサに攻め込んでくるマロリガンのスピリットを迎撃する事から始められた。
ラキオス王国、マロリガン共和国を隔てる山脈の切れ目に存在し、お互いの首都からほぼ等距離にあり、加えて大陸中央部と北方を結ぶ唯一の道であるヘリヤの道上に位置するランサは、前哨基地とするには最適なのである。
故に大量の物資とエーテルを使い、ラキオスは自国の領土内にあるランサを半ば要塞化し、万全の態勢を整えてきたつもりだったが、攻防戦は想像以上に過酷だった。
戦闘が、ではなく気候が、である。
ダスカトロン大砂漠からランサに向かって吹いてくる、砂混じりの乾いた熱風が、容赦なく私達の体力を奪っていく。
火の加護を受ける赤スピリットや、ハイロゥを身の回りに薄く展開して防護膜を形成できる私のような青スピリットはさほど苦でもないが、草木を力の源とする緑スピリット、夜と月の加護を受ける黒スピリット達はかなり辛そうだ。
幸い相手が未だ様子見の格好で、致命傷を受ける前にさっと引き上げてくれるので本格的な戦闘には至ってないが、守る側としては四六時中気を張っていなければならないので心労も馬鹿にならない。
そんな私たちの疲れを少しでも癒す為に、レスティーナさまがわざわざ建設してくださったのが、この出張版スピリットの館と言うべき私たちの宿舎だ。
この宿舎は、普段は第一、第二詰め所に分かれて生活しているスピリット達が一緒に寝泊りできるよう、ラキオスにあるそれと比べても倍ほどの大きさがある。
私が今いるこの浴場だって、普段使っているものよりもいくらか大きく、皆が楽々足を伸ばして浴槽に浸かれるほどの広さがある。
戦場で身体を張る者の特権だと、レスティーナさまは笑っておっしゃっていたけど……。
こういう所だけ見ても、他国のスピリットに比べてラキオスのスピリットは恵まれていると思う。
私達は他国のスピリットのように剣に心を奪われず、己の意思で剣を振るっている。それが幸せな事かどうかはともかくとして。
今まで戦ってきた敵国のスピリットは、大部分はハイロウが黒く染まり、神剣に心が飲まれている状態だった。
退く事を知らず、力尽き、己がマナの露と消えるまで戦いを止めない、そんな命の投げ捨てに等しい行為を嬉々として行うのがスピリット――スピリットだったものなのだ。
剣に自我を支配された彼女たちは剣の意志――低位の神剣が持つ、他の剣を砕こうとする本能的な破壊衝動に従って行動しているにすぎない。
しかしマロリガンのスピリット達はそうなっていない。自らの意思で剣を握り、仲間と連携を取り、自身や仲間の命が危険に晒されれば躊躇なく退く。
技量と練度も相まって、マロリガンのスピリットは今まで戦ったどの国のスピリットよりも強敵だった。
今はまだお互いに余裕があるから退く事が出来る。しかしどちらかの首都が攻め込まれ、お互いが命を賭して戦う時が来てしまえば、その時は――。
愚にも付かない思考に耽っている私の上に降り注ぐ、大粒の雨ほどの飛沫、ちゃぽんという音。
この場における二大悪癖――だと私は思っている、他者の迷惑になる行動を取らない、浴槽を汚さない、の二つを問答無用で守らないスピリット。
顔にかかった雫を縁に置いておいたタオルでふき取った私は、ぐっと伸びをするその人物を一瞥して苦言を漏らした。
「……ヒミカ、湯船に入るときは他者を気遣うよう、いつも言ってるでしょ。最低限の礼儀ぐらい守りなさい」
「いーのいーの。お風呂に入る時のコレが一番の楽しみなんだから。あ゛〜〜〜気持ちいい」
私の親友は礼節を重んじ、断じてこんな親父臭い唸り声をあげるようなスピリットではないと明言しておく。
これがお風呂の魔力といったところか。
しかし魔力云々の話は別にしても、私はヒミカを諌めなければいけない。
先ほどの件は私ひとりが我慢すれば事足りるが、今度の件はこの浴場を使う者全てに関わる問題である。
今さら相手に遠慮して文句の一つも言えないような関係ではない。
「それから、タオルを取りなさい。ゴミが入るわ」
「絶対に嫌。死んでも取らない」
即答して胸の辺りのタオルをぎゅっと握り締める。
言っても聞かないヒミカには実力行使。強引に取り払ってしまおうと彼女のタオルに手を伸ばすのだが、巧みにいなされ、距離を取られ、一向に届かない。
そもそも基礎腕力からして私とヒミカでは大きな差があるのだ。彼女が頑なに拒めばそれを突き破る事ができるはずもない。
ヒミカに向かってやれやれと肩を竦めて攻撃の意志が無い事を示すと、やっと威嚇するように睨みつけるヒミカの視線が緩んだ。
さしあたっての話題が無くなった私達は、湯船にゆっくりと浸かって今日の疲れを癒す。
洗い場の方ではネリーとシアー、ファーレーンとニムントールの両姉妹がお互いの頭を洗い合いなどしている。
第二詰め所とランサという違いはあるものの、浴場の和気藹々とした様子はいつもと変わらない。
私とヒミカの先ほどのやり取りでさえ日々の通過儀礼のようなものだ。
世は事も無くただ淡々と流れていく。そして今日も何事も無く終わるのだろう――と思ったら唐突にヒミカが口火を切った。
彼女らしく余計な修飾語を挟まず、単刀直入に。
「第一詰め所の方で何か良い事でもあったの?」
「…………え?」
「ほらやっぱり何か隠してる。こうやってランサに来るちょっと前に、エスペリアの代わりで第一詰め所に移ってた事があるでしょ? あれ以来、憑き物が落ちたって言うか、喉に引っ掛かった小骨が取れたと言うか。何があったのか教えなさいよ」
あまりにぶしつけな問いにその意を掴みかねている私を放置して、我が意を得たりと言わんばかりの得意げな表情で持論に確信を持たれてはたまらない。
しかもそれが全くの出鱈目でも、巡り巡って真実に突き当たっているのだからさらに性質が悪い。
間違いを正していくと墓穴を掘りかねないのでここはさっさと逃げるに限る。
「もう上がるわ。お先に」
「待ちなさいって。詳しく聞かせてもらうわよ」
……撤退失敗。
ヒミカに肩をがっちり掴まれて、ざっぷりと湯船に浸けられてしまった。
単純のスピリット代表のような彼女が、こんな他人の機微に敏感であるはずがない事は私が良く知っている。誰か他に黒幕が――ヒミカに余計な事を吹き込んだ者がいるはずだ。
私の予想を肯定するように、洗い場から近づいてくる一体のスピリットがいた。
前だけ隠したタオルから零れるほどの豊満な双丘をゆらゆら揺らしながら近づいてくる彼女――ハリオン・グリーンスピリットだ。
ごめん私が悪かったわ、さようなら私の主張、などと心の中で自分に対して謝りつつタオルを身体に巻く。
外見が人間に似ているからといって、生殖機能を有していない以上、雌として欠陥種であるスピリット。
その山脈に等しい豊満な乳房も、きゅっと絞り込まれたようにくびれた腰も、ゆったりとした稜線を描くお尻も、その機能を全うし異性を惹きつける求心力を持ちはしないのだ。
しかし半ば本能とも言っていい、より完璧な女になろうとする向上心が、その事実を隠蔽し、自らより優秀な雌としての存在に対する一種の嫉妬のような感情を駆り立てる。
要するに、負けた、くそ……、ということだ。
「……あの胸は剣を振るとき邪魔になるだけ。あの腰は鍛え方の足りない証拠。あのお尻は無駄な重り……」
……いや、でも暗示をかけないと自己を保てないヒミカほどじゃないけど。
「あれぇ? ヒミカにセリアさん、何の話をしてたんですかぁ?」
「あ、ハリオンちょうどいい所に。貴女もセリアが変わったと思うわよね?」
「わたしもそう思いますぅ。特に表情が柔らかくなりました〜。第一詰め所に行ってる間に何があったんでしょうねぇ?」
わざとらしく驚くハリオンに眩暈がする。
恐らく事前に打ち合わせをして、話をその方向に持っていく予定だったのだろう。
ずずぃっと寄って来る二人の圧力に負けてじりじりと後退する――事もできず背中を浴槽の縁に押し付ける形になってしまう。
洗い場を挟んだ反対側にある出口の前では、いつの間にか移動した全身泡だらけのネリシア姉妹がお互いの背中を洗い合っていた。
同じくさっきまで洗い場で髪を洗っていたファーレーン、ニムントール姉妹も今は湯に浸かり、ちらちらとこちらの様子を伺っている。
何のことはない、全員で結託して私を問い詰めようと画策していたのだ。
「「さぁさぁさぁさぁっ」」
にやりと嗜虐的な笑みを浮かべて迫りくるヒミカとハリオン。
浴場に何時もの喧騒はない。全員が私達のやりとりに耳をそばだてている。
観念して本当の事を言うべきか――。
――ユート様の腕の中で涙ながらに自分の弱さを吐露していました。
そんな事言えるわけないじゃない!
そんな事を暴露してしまえばこれまで私が隊内で培ってきた幻想が一瞬の元に崩壊するのは明白。
よって私はこの危機を何としても切り抜けなければならないのだ。
「もしかしてぇ、言えないぐらい凄い事してたんですかぁ〜?」
「い、言えない事ってどんな事よ?」
「それはぁ……うふふふ、わたしの口からじゃとても言えませんよぉ。本人の口から直接聞きたいですし〜」
ハリオンとヒミカの半ば煽るようなやり取りで、お風呂場の温度がここにきてぐっと上がった事を感じる。
なんでこんな緊迫した雰囲気が漂っているのだろう。
そもそも入浴という行為は今日一日の疲れを汚れと共に綺麗さっぱり洗い流す行為だと思うのだけど。
私が頑なに口を割らない事に早くも痺れを切らしたのか、短絡思考のヒミカは芝居がかった動作で大げさに肩を竦める。
「しょうがないわねぇ。できれば自首して欲しかったんだけど……こうなったら実力行使! ファーレーン! ニム!」
「本人が喋りたがらない事を強要するのは本意ではありませんけど……」
「はぁ……。めんどくさいけど協力してあげる」
ざばざばとお湯を掻き分けて、両脇から私の両腕を掴まえるふたり。
ハイロゥが展開できれば引き剥がせない事もないだろうが、神剣を持っていない現状では抵抗すらままならず、身動きできないようにされてしまう。
「ちょ、ちょっとふたりとも……」
「ちょっと興味あるの。セリアが珍しく取り乱してるから」
「初めはびっくりしたりくすぐったかったりする思いますけど、すぐに気持ち良くなると思いますから……」
「何する気よ!?」
「何するって……ナニ?」
意味有り気な流し目をニムントールに向けるファーレーン。
それを受けて彼女がポッと頬を赤らめるのは……私の知らない世界だから気にしないでおこう。世の中には知らなくても問題ない事だって沢山あるのだ。
微妙な空気が漂い始めたのを、咳払いと共にヒミカが霧散させる。
「……コホン、とにかく、私だって好きでやってるわけじゃないのよ。隊内に隠し事があっては士気に関わるという正当な理由の元に……」
「絶対楽しんでるでしょ貴女たち! 後で覚えときなさいよ!」
「じゃあ〜、セリアさんが忘れてしまえばぁ〜、何も問題ナシですぅ♪」
ハリオンの手が首筋を撫でる。耳の後ろから鎖骨辺りまでを強過ぎず弱過ぎずの絶妙な強さで。
「――――きゃっ!」
その瞬間、湯船に浸かっているというのに私の身体を耐えようもない震えが走る。
身を捩ろうともがいても、左右をガッチリと固められているのでそれもままならない。
「ふふ〜、相変わらず敏感ですねぇ」
私の身体に付いた未成熟の果実を思わせる二つの膨らみをを丹念に指先で弄ぶ。
「んっ…………」
その程よい刺激は耐えられない程ではないが、私を高ぶらせるには十分だった。
私の口から甘い吐息が漏れるのが分かって、慌てて口を噤む。
「耳たぶは大丈夫みたいですねぇ〜。こっちの方はどうでしょう?」
今度は穴の上にある充血した突起を、指の腹で弧を描くように撫で始める。
「――――あふぅっ!」
強すぎる刺激に、私の身体はびくんと痙攣したようにしゃくり上げる。
悔しい。歯を食いしばって耐えているはずなのに身体が反応して声が漏れてしまう。
「耳の穴の上にある突起が弱点でしたか〜。じゃあ〜前戯は〜これぐらいにしてぇ〜本番いってみましょうかぁ〜」
調子に乗ったハリオンは、その存在を見せびらかすように誇立したモノを突きつける。
その先端からはしきりに乳白色の汁が滴り落ちていた。
「や、止めて……。お願いだからそれだけは……」
「話してくれますかぁ〜?」
「……………」
「なら駄目ですねぇ♪」
懇願する様を何処か楽しむような目で見ていた彼女は、私にまだ抵抗の意志があることが分かると、蕩けるような笑みで、無慈悲にそれを私の身体に突き立てた。
「――――ひぐっ!」
白濁した液で濡れそぼった肉棒を使ってを無理やり肉と肉の隙間をこじ開け、中に侵入していく。
限界まで突き進み、ギリギリまで引き抜いてまた突き刺す。
時折リズムを変えて打ち込み、引き抜く時に内壁を引っ掻いていく。
「んあっ! あっ! あっ! あぁ―――っ!!」
肉の針と化したそれが身体を貫くたび、意識は飛び、抵抗する気力を奪い去っていく。
理性を焼き尽くすほどの快楽に翻弄された私は、もはや従順な肉人形でしかなかった。
「わかった! わかったわよ! 話せばいいんでしょ、話せば!」
「あら? もう吐いちゃうんですかぁ……? 残念ですぅ」
「目的と手段が入れ替わってるわよ……」
「だってぇ、あんまりにもセリアさんが可愛い声で鳴くものでぇ……」
心底残念そうに言うハリオンに対して、仲間、そして親友という垣根を越えて爪の先ほどの殺意が芽生えたとしても、今なら許されるはずだ。
それを諌めるヒミカにしても画策した時点で同罪だ。
私だって、ただされるがままになっていたわけじゃないのである。
「でも、流石にみんなに言うのは恥ずかしいから、耳を貸して」
ハリオンとヒミカが耳を寄せる間に身じろぎするふりをして、両脇を固めるふたりの力の加減を確認する。
ファーレーンの方は私を信用しきって力を緩めているようだけど、ニムントールは用心深く警戒を続けていた。
「実はあの日の夜……」
私が小声で喋ると、殆ど密着する距離まで近づくふたり。
「……ユートさまに抱きしめられた」
ぽつりと私の口から零れた言葉と共に、ぽちゃんと天井から雫が落ちてくる。
雫は円状の波面を作り出し、湯船にいる四人の脇を通り過ぎていくも、縁にぶつかるか、より大きな波に飲み込まれるかして消えてしまう。
しかし確かに波紋は四人に伝わり――警戒心が別の思考に埋め尽くされ生じた一瞬の隙。
それこそが私の待ち望んだ唯一無二の勝機。
「――――あっ!」
「な、しまっ――――」
私は固められた両腕を抜き。
「「――――ッッ!!」」
ヒミカ、ハリオンの頭を掴んで思いきり湯船の中に突っ込み。
「ふっ――――!」
二人の頭を支えにしてその背中に飛び乗り、足蹴にして一息に浴槽を飛び越えた。
盛大な飛沫を上げて縺れ合うヒミカ、ハリオンとファーレーン、ニムントール――構っている暇はない。
絡み合った四人が体勢を立て直して追いかけてくる前に洗い場を走る走る走る!
一瞬呆けていたネリシア姉妹だが、私の接近に気づくと慌てて出口の前に立ち塞がった。
「ふたりとも、怪我したくないのならそこを退きなさい」
「ネリーたちにも教えてくれたら退いてあげるよっ!」
「よ〜!」
「なら……押し通らせてもらうわ」
私はスピードを殺さぬよう身を屈め床に手を付いて方向転換、先ほどまで身体を洗うのに使っていたのだろう、落ちていた二個の石鹸と湯を張った桶を拾い上げる。
出口に向かいつつも手の中の石鹸を桶の湯の中で擦り、十分なぬめりを持った事を確認して前方に向けて走らせる。
木目の上を滑りながら石鹸はふたりに猛烈な勢いで迫る――。
「痛い……」
「はずれー♪ “くーる”で“あだると”なネリーにはそんな子供騙し、効かないもんね!」
シアーの方は見事石鹸に足を取られて尻餅をつくが、ネリーは直前で跳躍して石鹸を避ける。
得意げに私をびしりと指差して……はぁ、最後まで油断しちゃ駄目だって常日頃から言っているはずなのに。
私は構わず突進、桶の中に溜まったお湯を空中のネリーに浴びせかける。
「うわっ――――い……痛いイタイいたいぃぃぃぃっ!! し、染みるぅ〜〜〜〜っ!!」
桶の中で作っていた石鹸水は見事ネリーの顔に直撃、目を押さえてゴロゴロと床の上を転げ回る。
ちょっと哀れに思った私は髪をまとめる為に頭に巻いていたタオルを解き、ネリーの顔の上に被せる。
「これで顔を拭きなさい。じゃあね」
「う、うんセリア、ありがとう…………じゃなくてこらぁーーっ! ネリーたちにも教えろぉ〜〜っ!」
ふたりの上を飛び越え、ネリーの恨み言を綺麗に無視して、脱衣所で着替えを取る時間ももどかしく、私はバスタオル一枚のまま風呂場から脱出した。
――彼氏の痴情――
「……『求め』のユートです……。邪魔だと言われて食堂を追い出されたとです……」
世のお父さんがたまの休みに味わう疎外感を、俺もまた味わっていた。
……少しだけ時間を戻そう。
ランサの郊外でマロリガンのスピリットを迎え撃っていた俺達は、相手が撤退をしたのを確認した後、街中に建てられた宿舎に戻って来ていた。
戦埃にまみれた身体を洗い清めたいと思うのは当然の事で、皆が一斉に風呂に入りたがるのだが、こういう事を見越して順番は前もって決めてある。
一番初めに入るのは今日の食事当番、次に入るのはそれ以外のスピリット達、そして最後が俺、という風に。
俺は風呂の順番待ちでやることもなく、宿舎の中を散歩するなどして時間を潰すしかなかったのだ。
その内に食堂で夕食の準備が始まったので、ぼけーっと椅子に座って台所で忙しなく動き回るエスペリア達を見ていたのだが――。
――……ユート、邪魔。
――パパ……ちょっと臭いよ。
必死にフォローを入れてくれるエスペリア達に泣き笑いのような表情で気にしないでいいと告げ、食堂を出るのが精一杯だった。
っく、思い出したら目から汗が……。
でも確かに……俺の戦闘服からはちょっと近づくのは勘弁願いたい臭いが漂っている。今日一日の戦闘の結果だった。
ガシガシと頭を掻くとポロポロと砂が落ちる。きっと頭だけじゃなく体中埃だらけだろう。
戦闘中に汗をかいても瞬時に蒸発してくれるから、服が濡れてて気持ち悪いということは無いんだけど、俺の服には砂とは違う白い粒がこびり付いていた。汗が蒸発した後に残った塩である。
「ぶぇくしゅっ!」
オッサン臭いくしゃみと共に鼻をすする。
ランサにこうやって滞在して初めて気が付いたのだが、砂漠地帯だからといって一日中暑いという訳ではないのだ。
むしろ植物が少なく砂や岩が多い分保温性が低く、直射日光が当たる日中は気温が高くなり、夜は冷え込むというのが一般的らしい。
らしいというのは、ラキオスが誇る自称天才サマであるヨーティアにその事を教わったからだ(ついでに「そんな事も知らなかったのか。だからボンクラはぁ……」とありがたいお言葉も頂戴した)
そんな苛酷な環境を踏破して、マロリガンのスピリット達はランサまで攻め込んで来るのだが、長旅の疲れが出ているのか大した攻撃もせずに、日の入りと共にさっさと引き上げてしまう。この調子で早々に諦めてダスカトロン大砂漠の西端にあるスレギトの街まで撤退してくれれば良いのだが。
しかし撤退したらしたで、今度は俺達がダスカトロン大砂漠を横断しなければならないのだ。とても一日で渡り切れる距離ではないので、行軍は数日に及ぶだろう。日中の酷暑と夜間の厳寒の中を進軍しなければならない。考えただけでもウンザリする。
まぁそんな先の事を考えてもしょうがないので、とりあえずは早くみんな風呂から上がって欲しいものだと思いつつ待つ。
「……ん?」
床が細かく震え、ドドドドドッという足音が廊下の向こうから聞こえる。
直後、バスタオル一枚巻いただけの女の子が曲がり角から現れた。
「お、セリア出たのか。ってことはみんなももうすぐ――」
普段は一つにまとめてある膝までの長髪を振り乱して走るセリア――重要なのはそこではない。
濡れそぼったバスタオルは肌に張り付き、彼女の身体のラインをくっきりと浮かび上がらせている。
そして大股で全力疾走する彼女の太ももの付け根がチラチラと。
もちろん穿いてないです。
普段は魅惑のデルタゾーンに阻まれた女体の神秘が垣間見えていた。
……うん、思ったより薄い。
「……ゴクリ」
俺は知らず生唾を飲み込んでいた。
何を破廉恥な! 目を逸らせ! とちっぽけな良心が頭の片隅でがなり立てるが知ったこっちゃない。
この光景を刹那たりとも見逃さぬ覚悟で瞬きひとつせずその場に立ち尽くす。
いや、知らず知らずのうちにベストポジションを確保すべくどんどん腰が下がり、そのうちに床に這いつくばるような格好になっていた。
セリアは後ろを振り返ったままで俺の存在に気づいてない。俺も夢中で気づかない。
あ、ぶつかると思ったのは既にセリアのすらりと長い脚線美がほんの目と鼻の先に迫った時だった。
その結果――。
めきょっ
よく分からない脳内物質が思考を加速させ、知りたくもない惨劇の一部始終を鮮明に俺に感じ取らせようとする。
まず、セリアの膝頭が俺の頬にめり込んだ。
その瞬間、視界が反転し目の中で火花が走る。
奥歯を二、三本巻き込みながら無理やり膝が頬肉を抉り、半開きの口内に侵入してくるのが感覚として理解できる。
その内に衝撃が頬骨にぶつかり、横殴りの力に従って首がその稼動範囲を超えて回ろうとする。
ごりっっ
閃光の魔術師爆誕――。
高嶺悠人は周囲にコミック力場――ニュートン力学では考えられない現象を可能にする特殊力場の意――を発生させてキリモミ三回転しつつ床に叩き付けられた。
無機質な床の冷たさと、鼻から流れ出る温かいもの、そして仄かに匂う石鹸の香り。それらに浸る間もなく、プッツリと俺の意識は刈り取られた。
…………………………
……………………
………………
…………
……
鼻腔を擽る爽やかな花の薫り。それはちょっと前に嗅いだ匂いだと気づく。
後頭部に感じる温かな弾力。それを感じている俺はどうしようもなく安らいでいて。
そして、火照った頬を冷やすひんやりとしたなにか。壊れ物を慈しむようにゆっくりと優しく動く感触は少しくすぐったい。
嗅覚と触覚を刺激されて、俺の意識が深層から浮かび上がる。
「気がつきましたか?」
「……あれ? セリア?」
気がつくと、俺はバスタオル一枚のセリアに膝枕されていた。
仄かに香る石鹸の匂いは彼女から発せられていて。
後頭部に感じられる感触は彼女の太ももで。
「……良かった、なかなか目を覚まさないから心配していたんですよ」
「俺は……」
「ごめんなさい。私が前を見ていなかったせいでこんな怪我まで……」
泣きそうな顔で俺に詫びるセリア。
ひんやりとした掌が俺の頬を撫でる。冷たくて気持ちいい。
「いや、それはいいんだけど……」
「痛みませんか?」
「あぁ、大丈夫だ。だからそんな顔するな」
何だろうこの違和感は。
いつも言葉の節々に感じた棘が無いというか、頑なに張られている壁が取り去られているというか。
でも何よりの違和感は、そんな不思議なセリアを当然のように受け入れている俺がいて。
「でも、手は気持ちいいから止めないでくれ」
普段は絶対にやってくれないような事でも、こうやって頼んでしまっている。
怒ったかなと思って目線だけで様子を伺ってみると、セリアはちょっと困った顔をしつつも応じてくれた。
きめの細かい肌が火照った頬の上を滑る。
頬の熱さは腫れているせいなのか、それとも別の何かなのか。
しばらくそうやってもらっていると、セリアの手の冷たさを疑問に思う。
確か彼女は風呂上がりだったはずだ。
「セリア、寒くないか?」
「大丈夫ですよ。スピリットですから」
俺を安心させるように笑ってみせるが、そんな事で安心できるはずがない。
スピリットだから、人間だから、そういった理由は俺に通用しないと、もうそろそろ理解して欲しいものだ。
「馬鹿、そんなの関係あるか。俺の看病してたから湯冷めしちまったんだろ?」
「あっ……」
俺の頬を撫でていた手を両手で掴んで、よっと身を起こしてセリアと向かい合わせの格好になる。
か細い声が虚空に消えて、セリアの頬にうっすらと朱が混じった。
「じゃあ、一つだけお願いしていいですか?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、サファイアのような蒼い瞳が俺を見つめている。
底のない深さを湛えたそれに吸い込まれるように、俺は頷き返していた。
「ユートさまが暖めてください」
「――えっ……」
戸惑う暇も与えず胸に倒れ込んでくるセリア。
俺の手は抱きしめる事も拒む事もできず、だらしなく中を泳ぐばかりだ。
心臓があり得ないぐらいバクバクいっている。
緊張しすぎてセリアの柔らかさとか温かさとか匂いとか、一切感じられなかった。
「……駄目ですか?」
胸の中から上目遣いで懇願するような顔を見せるセリア。
……反則だ。そんな顔されたら断れる訳ないじゃないか。
俺はおっかなびっくり彼女の腰に手を回して、不恰好に抱きしめる。
以前もこんな状況になった覚えがあるけど、その時とは感じ方がまるで違う。
今はひとりの女の子を抱きしめているのだと、はっきりとした自覚があった。
「ユートさま、温かいです……」
俺の胸板にぐりぐりと、頭を押し付けてくる。
なんか猫みたいで可愛いなと、飼ったことはないけど直感的に思って少しおかしくなってしまった。
「どうしましたユートさま?」
「いや、セリアは可愛いなぁって思っただけ」
「…………ありがとうございます」
こんな台詞を恥ずかしげもなく吐けるようになるとは、どうやらおかしいのはセリアだけじゃないらしい。
俺の方も完全に何処かがおかしくなっている。
真っ赤になって消え入りそうな声でお礼を言う彼女を、どうしようもなくいとおしいと思っている。
そんな気分を紛らわせるように、腕の中の艶やかな髪を弄くったり、その中に顔を埋めたり。
気持ち良さそうに目を細めるセリアの様子は、まさに猫そのものだ。
「ねぇユートさま……」
「ん? どうした?」
「私の事、どう思ってます?」
「どうって……」
胸の中で真摯な眼差しを送るセリアに対して真剣に答えるために、俺は言葉を選びながら慎重に答えた。
「……正直、初めは何で嫌われてるか分からなかったよ。一方的に目の敵にされて、腹の立つこともあった。でも、そうやってセリアは人間を憎むことで自分を保ってたんだって打ち明けてくれたから、それほど腹も立たなくなった。むしろ肩肘張ってひとりで気を張って強がって、俺とちょっと似てるとさえ思ったよ」
元の世界にいた時の俺がそうだった。
大人はみんな汚いと決め付けて、俺独りで佳織を守るんだって息巻いて強がって、どんなに頑張っても独りじゃどうもならない事だって気づかないフリで。
それで強くなった、佳織とふたりだけで生きていけると勘違いした存在が、俺だった。
俺は強くなったんじゃない、困難に立ち向かわず忌諱して見ないフリをしていただけだったんだ。
そんな俺の嘘偽りない気持ちを言葉に込めたつもりだったが、セリアには不満だったらしい。
「そうじゃなくて、私のこと好きですか?」
「――え?」
「嫌いなんですか?」
「いや、嫌いじゃないけど……」
「じゃ、好きなんだ?」
「そりゃ好きか嫌いかって聞かれたら好きだけど……でもそれは……」
最後まで言う事が出来なかった。
セリアが俺に体重をかけたことで、俺は再び仰向けになって倒れてしまう。
いつの間にか場面は転換し、俺はベッドに寝かされている。
彼女は腕をベッドに付いて俺を上から見下ろす。
毎日が戦いの連続だというのに、バスタオルから露出した真っ白な肌は傷一つ、一点の染みすらない。
「私は、ユートさまのこと好きですよ」
戸惑いも驚きも、その一言で全て霧散してしまった。
何も言えない、考えられない。
先ほど言葉を紡いだ唇に、目が釘づけになる。
セリアが俺との距離を少しずつ、縮めていく。
でも唇は触れず。鼻がくっつき合いそうな距離で、セリアは静止する。
焦らされた俺は、さぞ恨めしげな表情をしていた事だろう。
そんな俺を小悪魔的な微笑みで挑発するように、彼女は再び問いかける。
「ねぇ、私の事、好き?」
捕らえられた、本能的にそう思った。
猫? とんでもない、彼女はもっと獰猛で狡猾で、それでいて美しい何か――そう、例えるなら女豹だ。
彼女を前にして、首を横に振れる男がいるはずがない。かく言う俺もそのひとりだ。
いや、初めからセリアに狂わされていた俺が、拒める道理など初めからなかったのだ。
「……あぁ。俺はセリアが大好きだ」
バスタオルが取れて、セリアの全てが露になる。
石鹸の香りとは別の甘い匂い、それはセリアの匂いだと、今さらながら気づいた――。
――彼女の事情――
「…………ふぅ」
昏倒したユートさまをご自身の部屋に運び込む。
心の片隅ではあのまま放置していこうかと思ったのだが、流石に良心の呵責に耐え切れそうになかった。
非は明らかに廊下の真ん中に突っ立っていたユートさまの方にあるのだけど。
部屋の外からは引っ切りなしに足音が聞こえる。おそらくまだ私を探し回っているのだろう。
ユートさまの部屋など真っ先に探索の対象になると思ったのだが、うまい具合に勘違いしているかそれとも入れ違いになったのか、私の部屋から着替えを持ち出せた事も含めて僥倖だった。
こんな所を見つかれば、今度こそあらぬ疑いを掛けられかねない。
それにしても、今日も戦闘があったというのに、みんな元気なものだ。
……いや、この先の戦いがかつてないほどの激戦だと心の何処かでは感じているから、こうやって元気なように振舞っているのか。
相手側もエトランジェを有しているという情報がある以上、ユートさまの活躍如何がそのまま戦争の勝敗に繋がると見て間違いないだろう。
ちらりとベッドの方を見遣る。
よほど楽しい夢でも見ているのか、ユートさまの寝顔は笑顔だった。
ふと、どんな夢を見ているのか興味が湧いた。
妹であるカオリさまの夢? それとも故郷であるハイ・ペリアの夢?
ファンタズマゴリアに来てからの事を夢に見るはずはない。
この世界での記憶は、即ち戦いの記憶だ。ユートさまにとって悪夢でしかないからだ。私にとってそうであるように。
それでも私は戦うと決めたのだ。この痛みを伴う闇の先に、精霊光すら灯らぬ澱んだ世界の先に、確かに光があると信じて。
しかしそれと同時に思う、私にとって光――希望とは何なのかと。
戦争の終結。人とスピリットが平等に暮らせる社会。生命を消費して得られる仮初めの豊かな生活から脱却する。それがレスティーナさまの掲げる大儀であり、私達はそれに賛同した。
だが、その思い描く未来に私が生きられるという展望が全く湧かないのだ。
それは初めて得られる自由であり、私自身が戸惑っているという事もある。
しかしそれ以上に、戦いが不要となった世界で、私を初めとしたスピリットが何の役に立つのだという漠然とした不安が付いて回るのだ。
神剣と共に生き、剣と共に死ぬスピリットという存在。剣が不要になった時、それは己の半身を否定される事に等しい。果たして半身を否定された世界で、スピリットが生きられるのだろうか。
戦う事を嫌っていながら、戦いしか能がないとは、まさに皮肉としか言い様がない。
「うぅ〜ん……」
……止めよう、まだ戦争が終結していないのに先の事を考えるのは。
今は未来の為に明日を生きる努力をすべきだ。
不安に駆られるのは平和になった後でいい。
その先に何が待っていたとしても、それは私が望んだ世界なのだ。待ち受けるものが希望だろうと絶望だろうと、受け入れなければならないのだ――。
「……せりぁ……」
ビクッ!
急に名前を呼ばれた私は、思わず身を固くしてしまう。
恐る恐る声の出所に目を向けると、ベッドで寝返りを打つユートさまの姿があった。
「……なんだ寝言か。びっくりさせないでください――」
――そこではたと気づく。どうしてユートさまの夢に私が出ているのだろう、と。
私が出ているという事はこの世界にやってきてからの夢なのだろうけど、私が夢に出る理由が分からない。
ユートさまの顔は相変わらず笑顔。さっぱり分からない。
枕を強く強く抱きしめたりしている。
「……セリアは……可愛いなぁ……」
枕をさも愛しい物のように頬擦りなどしているユートさま。
何やら極めて不適当な発言があった気がするので、先ほどのユートさまの寝言を、頭の中で反芻してみる。
――――セリアは、可愛い。
――――私は、可愛い。
――――私が、可愛い?
「…………………はぁ?」
正直、一番初めに感じたのは困惑、だった。
私自身、自分が可愛げのないスピリットだと思っている。
ハリオンのように誰に対しても愛想良く接するなどできるはずもないし、したいとも思わない。
私は常に強くなければならないのだ、少なくともスピリット隊の中では。
他者を頼るのではなく、他者に頼られる存在であり続けなければならないと、常に自覚している。
――憑き物が落ちたって言うか、喉に引っ掛かった小骨が取れたと言うか。
――特に表情が柔らかくなりました〜。第一詰め所に行ってる間に何があったんでしょうねぇ?
ふたりの言っていた言葉がふと思い出される。
ヒミカもハリオンも、常に顔をつき合わせているふたりがそう思うのなら、本当に私は変わってしまったのかもしれない。
私の本質は昔と変わらない弱いままだと、認める事はできるようになった。
しかし私はそれを是としない、弱いままでいたくない。
何より弱い心のままでは、これから先、戦い続ける事なんてできはしない。
次に感じたのは、怒りだった。
強くありたいと願い、そうあろうとしている私を夢の中とはいえ理不尽に貶め、歪めている事に対しての、純粋な憤慨。
その奥であの夜に生まれたほんの僅かな感情が何かを訴えかけているのは――きっと気のせいだ。
「ユートさま! 勝手に私を夢に出さないでください! 聞いてますか!」
ガクガクと肩を揺さぶってみても一向に起きる気配がない。
それどころか――。
「あっ、ちょ、ちょっと――!」
枕に伸ばしていた腕を今度は私の方に伸ばして来て、強引に抱き寄せられてしまう。
埃っぽくて汗臭い。これが男の人の匂いだとしたら、ちょっと嫌だな……じゃなくて!
なんかこんなことがちょっと前にもあったような――。
悪い事は重なるもので、扉を叩くノックの音。
どうする事もできず、私はただ呆然と扉が開く様を見ているしかなかった。
「ユートさまぁ、セリアさんを見ませんでしたかぁ? 恥ずかしがって何処かに隠れちゃったみたいなんですけどぉ――」
「あれは私達が調子に乗り過ぎたせいよ。会ったらきちんと謝っておかないと――」
固まる私とハリオン、ヒミカ。
ふたりの目には私がユートさまに抱きしめられているように見えるのだろう。
……いや、事実そうなんだけど。
目をぱちくりさせているハリオン。
そういえば彼女の驚く様を初めて見た気がする。だからなんだと言われても困るのだけど。
ヒミカの方はといえば、この光景がよほど衝撃的だったのか、先ほどから可哀想なぐらい微動だにしていない。
彼女は、私がユートさまと不仲である事を最後まで気に病んでいたのだ。
私がようやく和解して、心底ほっとしたのではないだろうか。だからああやって多少強引にも(面白がっていた事は否定しないが)聞き出そうとしていた、と。
信頼を裏切ってゴメンなさい。でもね、それは貴女の勘違いだからね。
まず私の弁解を聞いて、それで冷静になってこの状況を確認してね。
「……大好きだぁ……」
今度こそ、空気が固まる音を聞いた。
全てが静止した世界で、視覚も思考も触覚も嗅覚も、全てが凍り付いてしまった。
だからすっかりと自身が置かれている状況も忘れてしまって、唯一この部屋の中で動ける存在――空気が読めてないとも言う――の対処に遅れてしまった。
「むぅ〜〜〜〜ちゅうぅぅぅぅうぅぅぅぅぅ…………」
テミ――茹でると赤くなる八本足の軟体生物だ――のように口を吸盤よろしく尖らせて、私の顔――正確に狙い済ましたかのように唇に迫る。
その光景は……一言で言って悪夢だった。
私の今まで培ってきた理性という名の防波堤は、思考が働いていない状況で正常に稼動するはずもなく、このおぞましい光景に晒された本心は、あっけなく濁流に飲み込まれてしまった。
「い……嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
目の前に迫り来る恐怖を打ち払おうと、渾身の力を込めて掌底を突き出す。
ちょうど手の平で一番硬い箇所が化け物の顎にあたる部分に当たり、ごりっという骨の軋む音が掌越しに伝わる。
「ぐべらべっっ!!」
私を戒めていた両手が解け、その持ち主が再び仰臥したところで――それがユートさまだったと、再認した。
――――イマコノオトハコナニヲシヨウトシタ?
――――ワタシヲダキシメ、ソノアトナニヲシヨウトシタ?
……落ち着け、落ち着け私。
私は、セリア・ブルースピリットは厳しく気高く常に毅然としているスピリットのはずだ。こんな事で己の弱さを露見してはいけない、いけないとは思うのだけど――。
知識として知っている相手を抱きしめる事の意味、そしてその後の行為の意味が私の心を乱し、かき集めた欠片ほどの理性を片っ端から蹴散らしていく。
「いつつつ…………あれ? セリア、服、着てる……」
「当たり前です! 何するんですかいきなり!」
顎を押さえて顔を顰めるユートさまの姿に微塵の罪悪感が浮かぶが、それよりも今は油断無くこの男の一挙一投足に注意を払う事が何より重要だった。
私にとっては敵国のスピリットよりこの大地を守護する龍より、この男の存在が危険だった。
暴れた事ではだけた胸元を寄り合わせ、ベッドの上から後ずさる。
頬が僅かに熱いのは――興奮し頭に血が上っているからだと思いたい。
「お、おいどうした? 親の仇を見るような目で俺を睨んで……」
「私に襲い掛かってきたじゃないですか! いきなり抱き付いてきて……あまつさえあんな事まで!」
「そ、そうなのか……? いやその……ごめん」
私の方をちらりと見て、目が合うと俯き、もごもごと口の中でハッキリしない謝罪を口にする。
そんな態度に――私は激高した。
「謝って済む問題ですか!? 貴方はいきなり私を押し倒したんですよ!」
「だからゴメンって……俺だって寝惚けてたんだからしょうがないだろ」
「ええそうでしょうね! 私はどうせスピリットですから! エトランジェさまがそう望めばそれを拒む権利なんてありませんよ!」
「だから……そうやってエトランジェだとかスピリットだとかって話を持ち出すのは止めろよな!」
売り言葉に買い言葉、わざとユートさまが嫌う物言いをして、相手に不快感を与えて。
お互い気が高ぶっている事もあって殆ど感情をぶつけ合うだけの不毛なやり取り。でも止められない、止まらない。
お互いに粗方言葉をぶつけ合って、ほどよく血が下がってきた頃、馬鹿な会話をしたと、理性が冷たく諭す。
よくよく理由も聞かずに、事実を認められなくて喚き散らして、みっともないと思わないか、と。
でもそうでもしなければ、きっと私はこの人との距離を測り違えてしまう。
自らの弱みを見せて、それを受け止めてもらって、信頼するに足る人間だと理解して、それでも未だユートさまとの適正な距離を掴みかねている私では。
そんな状態で事故とはいえ、抱き付かれて好きだと囁かれてキスされそうになって。彼を必要とする私の弱い心が何か別の答えを導き出してしまうのを、私は恐れている。
だからきっと、この儀式も必要なのだ、ユートさまとの正しい付き合い方、適正距離を知る為には。
「……ユートさま、こっち向いてください。スピリットとエトランジェは対等だって言いながらその態度、失礼ですよ」
努めて冷静に、言葉を紡ぎ出す。
ユートさまも大きく息を吐き、私を見返した。
「話して……くれますよね? どうしてあんな事をしたのか。私には聞く権利があるはずです」
「…………夢を、見てたんだ」
「どんな?」
よくよく考えもせずに問うてしまったと思った。
仮に、もし仮に万が一にも在り得ないが夢の内容が寝言の通りだったとして、私はどういう反応を取れば良いのだろう?
嫌がれば良いのだろうか、それとも喜べば良いのだろうか――いや私個人としてはもちろん嫌な気持ちになる事は確実なのだが、突っぱねてしまってユートさまと疎遠になってしまってはそもそも本末転倒であって――とにかく、やっかいな事になるのは確実だ。
しかし幸運にもその答えを聞く事はなかった。
予想外の方向から私達へ声がかかったからだ。
「それはぁ、わたし達も聞いて良いんですよねぇ?」
その間延びした声を聞いて、先ほどまで頭に上っていた血の余韻を含めて完全に血の気が引いた。
自身がどういう状態に置かれていたのか、すっかりと失念していた。
ドアの脇でにこやかに私に向かって手を振るハリオン。
その隣で、目だけでものが言えるならきっと雄弁に語っているだろう、というほどの目で私を凝視するヒミカ。
廊下には部屋の中を伺うスピリット達の姿も見える。
現状は最悪だった。みんなから既に取り返しのつかない誤解を受けている確信があった。
何をしても無駄だ、素直に降伏しろ、それが最善の選択だと声高に訴える理性をうっちゃって、現状を打開する為にはどうすればいいのか、ただそれだけを考える。
「……ユートさま?」
「……何だ?」
「先ほどのお話ですけど、ここから無事逃げ切れたら聞かないでおく、そんな条件でどうですか?」
「……オーケー。その案、乗った。どうすればいい?」
「みんなの注意を引いてください。その隙に神剣の力で窓から逃げましょう」
小声でユートさまに提案すると、即答が返って来た。
ユートさまは素早く目だけで部屋の様子と全員の様子を伺う。この辺りは幾多の戦いを潜り抜けているだけあって手馴れたものだ。
部屋の外にいたスピリットは全員が部屋の中に入ってベッドを遠巻きに囲んでいる。
幸い帯剣している者は誰一人いなかった。
対して『求め』はベッドの後ろ、窓側の壁際に立てかけてある。
月の光を反射して、鈍い光を放っていた。
「注意って、どうやって?」
「何でもいいんです。貴方の行動は逐一スピリット隊の注目の的なのですから」
だからこそ私が執拗な追求を受けてこんなに苦労しているのだ。
何でもいいが一番困るんだぞクソ、と吐き捨てて、頭を乱暴にガシガシと掻いてからユートさまはベッドから降り立ち、一歩前に出る。
全員の視線が自分に注がれるのを確認してから、静かに宣言するように言った。
「俺は夢の中じゃセリアに……惚れてたよ」
「「「「……………………」」」」
何やらトンデモナイ発言が飛び出した気もするが、強引に意識の外に締め出して窓際の『求め』を掴む。
――その瞬間、総毛立つ悪寒が私を襲った。
持つ者の心を食らい尽くし、その身体を奪い取ろうとする凶暴なまでの思念。きっと私にこの剣は扱えない。もし無理に使おうとすれば瞬く間に心を壊され、私は私でなくなってしまうに違いない。
気を強く持って『求め』をユートさまに投げ渡した。
ユートさまは剣の力を解放し、ラキオスが誇るエトランジェ、『求め』のユートへと姿を変えた。
超人的な跳躍力で軽々とベッドを飛び越し、私の傍に降り立つ。
抱き寄せられて咄嗟に身を硬くするが、今更なので素直に身を預ける。
「行くぞ。いいか?」
最後に後ろを振り返ると、全員がベッドを取り囲んだままぽかんと口を開けて呆然としていた。
私だって同じ気持ちだ。
私だって頭の中がぐちゃぐちゃで、自分自身が何をやっているかさっぱり分からないのだ。
だから――このはっきりしない気持ちに何かしらの回答が欲しい。それが偽らざる気持ちだった。そのためにも今は時間が欲しかった。
ユートさまに頷き返し、私達は窓から夜の闇へと身を投げ出した。
――彼と彼女の距離――
砂漠の澄んだ空気が俺の脇を駆け抜けていく。
空を見上げれば、満天の星。ラキオスから見える星空よりも、さらに数が多い。まさに星が降るような夜空とは、このような事を指すのだろう。
民家の屋根から屋根へ次々と飛び移り、宿舎から漏れる明かりが遠く離れた頃、石畳で作られた歩道の上に着地、セリアを地面に下ろす。
先ほどまで無言で俺に身を委ねていた彼女は街の明かりをぼんやりと眺め、ポツリと言葉を漏らした。
「……なにやってるんでしょうね私達。戦争の真っ只中なのにこんな事してて……」
「夜襲を警戒して哨戒に出てましたって事で、何とかなるだろ」
「……仮にもスピリット隊の隊長が無責任な発言は謹んでください」
「元はと言えば、セリアが提案した事だろ……」
「そもそもユートさまが私に寝惚けて抱き付いたりしなければ、こんな事にはならなかったんです」
「…………」
きっかけを責めるならセリアが俺を蹴っ飛ばしたからだ、とは懸命にも口に出さなかった。
ただでさえ高嶺悠人株は大暴落しているのに、廊下の真ん中でしゃがみ込んでいた理由を問われたら、きっと一生口きいてもらえなくなる、そりゃもう確実に。
ちなみに『求め』は、この無意味な逃走劇の片棒を担がされた事が腹に据えかねたのか、俺の腰で不貞腐れていた。
「それから、勝手に私を夢に出さないでください。不当に貶められた気分です」
「追求しないんじゃなかったのかよ……?」
「聞かないと言っただけです。それに、寝言で私の名前を言ってましたから――」
うわ、俺ってば何口走ってんだよ……。頭を抱えるがそれ以上の非難は無かった。
セリアは不自然に言葉を切り、そのまま口を閉ざしてしまったので、具体的に何を口走っていたのかは分からず終いだ。
横目で表情を伺う限り、激怒して声も出ないという事ではないらしいものの、不機嫌そうに眉根を寄せている。
夢の中の雰囲気など欠片も無い、いつも通りにツンケンしたセリアだった。
だけどその態度が、俺をかえって安心させる。
今だからこそあれが夢だと理解しているけど、その中で見せた妖艶とした笑顔は頭にこびり付いて離れない。
さっきだって、まともにセリアの顔が見れなくて――目がふっくらとした唇にしか行かなくて、それで口喧嘩になって。
何かの弾みでセリアが夢の中のようなしおらしい態度を取ったら、俺だって弾みで何を言い出すかわかったもんじゃなかった。
それから俺達は暫く歩道に沿って歩いていく。
何処に行こうという明確な宛がある訳じゃない、そうする以外にやる事がないだけだ。
ただ、沈黙が果てしなく重い。
セリアはずっと前を睨んで黙々と歩いているので、先に耐えられなくなった俺が口火を切るしかなかった。
俺だってこんな事になったのは自分の責任だって、少しぐらいは自覚してる。
「……寝惚けてたとは言え、抱き付いてゴメンな」
「済んだ事ですからもういいです。事故だって理解してます。だからって事実は覆りませんが」
「でもみんなに色々と誤解させちゃっただろ?」
「あくまでもあれは事故だったってちゃんと説明すれば解ってくれますよ。散々からかわれるとは思いますけど」
言葉の端々に物凄く鋭い棘を感じる。
このまま謝り続けても、針の筵に座らされるようにチクチクと嫌味を言われ続ける事は間違いない。
でも、嫌悪の視線を向けられていた時とは決定的に何かが違う気がする。
何よりあの時は間違ってもセリアがこうやって隣を歩くなんて事はなかった。
強いて言えば俺は拒絶されているのではなく――そう、セリアが拗ねているというか、現状を認めていないというか、往生際が悪いというか。
それが分かったからといって、俺にはただ許されるまで平謝りするしか手はないのだが。
「俺も頑張ってみんなの誤解を解くよう努力するからさ……」
「だいだいですねぇ、ユートさまは迂闊で突飛な行動が多いんです。相手が自身の行動でどう感じるかも考えず、思いつきで行動する。寝惚けて私に抱き付いた事もそうですし、寝言とは言えその……好きだと言った事もそうです。もっと相手の気持ちを考えてですねえ――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんか鼻がおかしい……っくしゅん!」
今更ながら夜の砂漠は冷えるという事を思い出した。
違和感を感じて袖口で鼻の下を擦ると、赤黒い塊がそこから零れ落ちる。
それを見たセリアは、途端にバツの悪そうな顔をして俺から目を反らす。
とりあえずじっと凝視すると、観念したようでポツリポツリと語り始めた。
「……しょうがないじゃないですか。私には癒しの魔法なんか使えないし、自然に止まるのを待つしか手段がなかったんですから。それでも一応早く止まるよう努力はしました。頭の位置が少しでも高くなるよう膝の上に乗せて――」
「わかった! わかったからそれ以上言わなくていい!」
一方的に話を打ち切ると、今度は俺が顔を逸らす番だった。
自分は散々抱き付かれた事を気にしてたくせに自分自身がやるのはいいのかよとかあの夢は途中まで真実だったのかとか膝の弾力とか温かみとか石鹸の薫りとか、とにかく色々なものがぐるぐると頭の中を回っててどうにもならない。
彼女がそうしてくれたのは信頼から出た厚意なのか信頼からはみ出た好意なのか――それを確かめなければ、きっと俺はこのままずっと彼女を意識してしまう。
セリアがどう思っているか知りたくて、それを知る手段がなくて煩悶してる俺を他所に、彼女は歩みを止めた。胸に手を当て、深く深く瞑目する。
暫く待っても一向に動き出さないので声を掛けようとして振り返り、再び開かれた目を見て――息を呑んだ。
濃い蒼色をした瞳は澄み切っていて、凪いだ海のようだった。
月明かりを浴びて薄く微笑む彼女はとても綺麗で、俺は――。
「……しょうがないから許してあげます。結局、スピリット隊にも私にも、ユートさまは必要なんですから、多少の不満は許容しますよ」
「あ、あぁ。ありがとう……」
俺は圧倒されてそう返事をするのが精一杯だった。
さっさと踵を返す彼女は元通りで、神々しささえ含んだ姿は一瞬で消えてしまったけど。
だけどその時の姿は、深く俺の魂に刻み込まれた。
……必要、ね。
好きでも嫌いでもなく必要。それがセリアが俺に対して抱いている気持ちだ。俺が踏み込んで良い限界のラインだ。
「さて、みんなも心配しているでしょうし、そろそろ帰りますか。ユートさま、今のうちにみんなが納得する説明、考えといてくださいね」
「……そうだな。帰るか」
俺はセリアに追いつくついでに、彼女の湯冷めした手をぎゅっと握った。
俺の頬を冷やしていてくれたはずの手は、やはりひんやりしてすべすべしていた。
振り解きはされなかったけど、非難混じりの理由を問う目で俺を見つめている。
「気休めだけど、湯冷めしてエスペリアみたいに体調を崩されると困るしな」
だから俺は冗句めかして誤魔化す。
俺が惚れたのは俺の幻想が作り出した都合の良いセリアだから。現実の彼女と混同視するのは良くない。
でももし、こうやって肩肘張って息巻いて強がっている彼女にも同じ感情を抱いたなら――その時は受け入れよう、さっき感じたどうしようもない想いを。
だからそれまでは、ちょっと前の自分と似ている、意地っ張りな彼女を少しでも支えてあげれられれば、それで十分じゃないか。
「……余計なお世話ですけど、一応受け取っておきます」
いつもの棘のある口調に少しだけの柔らかさを含めて俺の手を握り返した。
そうやって素直じゃない辺り、やっぱり猫に似てるなと、俺は漠然と思った。
――ボーナストラック 彼女はエゴイスト――
私達は無言で来た道を取って返す。
だけどその沈黙は先ほどのように重苦しくない。どこか心地良い静寂だった。
何が変わったという訳じゃない。私が事実を認め、ユートさまを正しい距離に置く事ができた、ただそれだけの事だ。
これからもレスティーナさまが掲げる理想を担う剣として、私は屍の山を歩くのだろう。理想が達成されるか、それともこの身体がマナの霧と消えるまで。
どんなに私が喚いても、否定しても、己の中の弱さは変わらない。強がっていても私の心は痛みを訴え続けている。
その痛みを我慢し続けていれば、その内に心から溢れ出してしまう。殺めた命の重さに耐えかねて、心が壊れてしまう。
そうなる前にそれを吐き出し、受け止めてくれる相手が必要なのだ。
私にとってはその相手がたまたまユートさまだった、それだけの事だ。
だから多少の不満――例えば埃だらけの格好でも平気で外を歩き回ったり、スピリットとはいえ女性にみだりに抱き付いたり、不意に私の心を乱す発言をしたり、優柔不断で何考えているのか解らなかったり――とにかくそういう至らない点は目を瞑らなければならない。だからと言って好き放題させる気はさらさらないが。
気持ちの整理がつき、心の安定を得てしまえば、自分でも驚くほど気が楽になった。
宿舎に帰った後に待っているであろう怒涛の質問攻めと冷やかしも、切って捨てる自信さえあった。
待っていなさい貴女達と言わんばかりに、遠目に見える宿舎の明かりを睨みつける。
私はやられたら倍にして返す性質なのだ。
視線を上げたついでに何気なくユートさまの方を伺うと、ちょうど目が合った。
思考に浸っていて憮然とした顔をしていたのだろうか、ユートさまは私に包み込むような笑顔を向けて、私も自然と微笑み返して――それが不快だった。
そういう動作が自然にできてしまう私自身にも腹が立ったけど、それ以上に、ユートさまがああいう笑顔――エスペリアがオルファに向けるような、ハリオンがネリーとシアーに向けるような、そういう微笑ましいものを見るような目で見られたのが甚だ心外だった。
しかし今の一方的な依存関係を鑑みるに、それを否定できないのもまた事実だ。
私は彼を必要としている、言わば特別な存在になった。それはあまり喜ばしい事ではないけど、純然たる事実だ。
ならばユートさまは? 私をどういうスピリットとして位置づけている?
寝言で好きと言った? 寝惚けて抱き付いた? それらはユートさまの中での私の価値を決める値札にはなり得ない。ユートさまの本意から出た行動ではない。
私はエトランジェを特別視しない。エトランジェ、スピリットの垣根を越えて、私はユートさまと対等な立場でいたいのだ。
はっきり言ってしまえば、私の中でユートさまは特別な存在になった。しかしユートさまの中で私はいちスピリットに過ぎない。それは不公平だ。
私にユートさまが必要であるように、ユートさまの中で私がそうありたいと願うのは、至極当然の事だった。
「ど、どうしたセリア、俺の顔に何か付いてるか……?」
「別に。ただの決意表明です」
私は再び顔を上げ、ユートさまに向けて不敵な笑みを浮かべた。
困惑顔のユートさまを尻目に、私は決意と共に触れ合う手に力を込めた。
いつか必ず、あの笑みをそっくりそのままお返しします、と。
後書き もしくは駄目書きOTL
4049氏にリクエストを頂いたのがかれこれ半年前、もう既に忘れ去られている感がありますが、こうやって何とか完成にこぎつけたので投稿します。4049様、どうぞお納めくださいませませ。
……何処にデレ期のセリアさんがいるんだ金返せ! ってツッコミは無しの方向でお願いします。むしろ私にとっちゃ口喧嘩してる悠人とセリアさんはイチャついてるようにしか見えな(以下略
……コホン。今回のお話は時系列的に『彼女のバランス』後のお話となっています。今考えれば過程をすっ飛ばして悠人、セリア夫妻のラブっぷりを娘(ツンデレ予備軍)の視点から書く、というのが手っ取り早かったかなぁと……。
でも私の考えるセリアさんルートって、決してハッピーエンドにはならないんだよねぇ……。
一般的にデレ期に入ったツンデレは大きく二つに分かれます。初めはツンツン、後にデレデレというタイプ、口調はツンツン、態度はデレデレというタイプです(私の提唱するデレ期など存在しない! ひたすらツンツンし続ける中に垣間見せるデレこそ。至高の価値があるのだ! という説は一般じゃないそうなので除外)。
じゃあセリアさんはどっちのタイプだ? と数人に聞いてみたところ、見事に意見が分かれまして、両方とも書いてみましたが、どうでしょうか? どっちがデレ期のセリアらしいでしょうか。(そしてツンデレについて熱く語ってる私は既に人として駄目な部類なのでしょうか……Σ(´д`lll))
まぁそんな事は置いておいて、この無駄に長い(半分は私の悪ノリの責任ですOTL)お話に付き合って頂き、ありがとうございました。
私の部屋を訪れてくれた皆様に、この作品を捧げます。
ではこの辺で失礼します。
私の部屋が2万ヒット越えてるからって、今回も記念SSがあると思ったら大間違いだお(・∀・)
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