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 最初にスピリットを殺したのは何時だったか――スピリットは戦う事が日常になっている、それ故その時の衝撃は日々の中に埋没し、忘れ去られる程度の瑣末事なのかもしれない。
 その点で言えば、彼女はその時を鮮明に覚えている希有なスピリットなのだろう。
 いや、彼女に関しては、自らの体験した死を全て覚えている。
 刃を突き立てられる瞬間の表情も、刃が骨を砕き臓腑を切り裂くその感触も、それと同時に吹き出す反り血の温かさも、逝く寸前に遺したいと願った想いも、骸が金色のマナに変わり行く儚くて美しい光景も、姿がすっかり無くなった頃感じるえも言えぬ高揚感も。
 そしてその後感じる悪寒混じりの鈍痛も全部。
 その時の記憶に比べれば、彼女の中には楽しい思い出など存在しないと言っていいのかもしれない。

 時々彼女は夢を見る。
 己に内包された死の何百分の一、しかし忘れ難く未だ痛みを伴って鮮明に蘇る記憶を。 
 夢の中ではあんなに苦しんでいるのに、その内容は弾ける泡のようにすっかりと消えてしまって、目が覚めた時には胸の痛みだけが残っている。
 その痛みを感じるたび、彼女は恐怖し、同時に安堵する。あぁよかった、まだ覚えていたと。
 死を忘れてしまえばこの胸の痛みも無くなるだろう。しかしそれは意味無く、理由無く殺した者に対する冒涜だ。
 何より己の犯した罪から目を反らしてしまえば、きっと彼女の心は剣に飲み込まれ、二度と戻る事は無い。
 自我が押し潰されて消えてしまう、それは何より恐ろしい事だと彼女は思っていた。
 だから痛くても、苦しくても、辛くても、悲しくても、彼女は傷を忘れる事は無い。
 人一倍傷を恐がっているくせに、傷を忘れる事の出来ない弱い存在、それが彼女だ。
 彼女がそんな恐れを抱く少女だと誰が知っていようか――彼女の親友も、戦友も、直属の上司すらも知りはしない。
 厳しく、気高く、常に毅然としているスピリット――それが周囲の抱く彼女の印象だった。
 或いは周りの抱く偶像を必死に演じようとしていたのかもしれない。
 しかし、彼女の中には確かに消えぬ痛みが存在しているのである。
 そして彼女がスピリットを殺すたび、その痛みは増していく。
 いつかその痛みに耐え切れなくなるのか、それともその前に身体がマナの霧と化すのか。
 どちらにしても、その時が彼女の最期なのだろう。







彼女のバランス

written by DU-JO






――1――

 エスペリアが倒れたと聞いたのは、レスティーナ女王陛下が同盟関係を結ぶ為に南方のマロリガン共和国へと赴く直前の事だった。
 皆が驚愕し、我先にと見舞いに走る中で、セリアは「やっぱりね」と、他人事のように思っていた。
 いくらスピリットが人より強靭な身体を持っているとしても、所詮は生き物。体調を崩す事もあれば、寝込む事もある。
 特にエスペリアはエトランジェがラキオスに現れてからこっち、不甲斐ない指揮官殿の補佐という名のお守りから家事全般まで、まさに獅子奮迅の活躍だったのだ。
 働き過ぎの彼女にとっては丁度良い骨休めとなるだろう。
 セリア達もこの機会に乗じて休息を……といきたい所だが、それは状況が許してくれそうに無い。
 ラキオス王国の急激な成長は、南の二大国――マロリガン、サーギオスに肩を並べるほどになり、結果三つ巴の睨み合いへと発展した。
 いつ戦端が開かれてもおかしくない一触即発の雰囲気が三国の間には流れてはいるが、いずれの国も大国であるが故にどの国も迂闊に手を出せないでいた。
 ならばこれ幸いと、ラキオスは最近になって併合した国々のインフラを整備する事に努めている。
 北方五国を統一する事ばかりに気を取られて、そういった占領国の内政はほとんどおざなりになっていたのだ。
 そういった雑事が山積みの状態でエスペリアの戦線離脱は痛い、痛すぎる。
 彼女は『求め』のユートの補佐――事実を言うとスピリット隊の訓練方針を決定する事から軍事関連の建築物全般を取り仕切る総元締めまで――要するに実務上一切の他に、政治の面でレスティーナの相談役までもこなしていたのだ。
 政はともかく、エスペリアがいなければスピリット隊の運営もままならない、下手を打てばまた何時ぞやの時のように王都を奇襲され、何ら有効な反撃手段を持たない――では流石にマズイので、代役として白羽の矢が立ったのはセリア。
 医師の見立てでは二、三日、大事を取っても一週間ほど休めばエスペリアは復帰できると言う。そのぐらいなら何とかなるでしょうと了承し、セリアは第二詰め所の面々に見送られて、ラキオス城を挟んで反対側に位置するここ第一詰め所にやってきていた。

 館をぐるっと囲っている植木の門を潜ってまず気づくのは、ガーデニングが施された庭と、匂い立つほどの濃密なハーブの香り。
 大抵こういった様々な種類のハーブが植えられている状態では、雑多な匂いが混じり合い、お互いの良さを打ち消しかねないのだが、調合でもされているように一つの方向性を持ってセリアの心に安らぎを与えてくれる。
 庭の方もセリアには詳しいことは分からないが、見ていて楽しく飽きないのは確かだ。
 基本的に詰め所の構造は変わらないのに、第二詰め所の方が何処となく殺伐とした印象を受けるのは、こういった趣味を持つスピリットがいないせいだろう。
 エスペリア自慢の庭園を視覚と嗅覚で楽しみながらセリアは考える。
 その内容は、副官代理として高嶺悠人にどういった姿勢で接するか、という非常に難しい問題だ。
 正直、セリアは悠人が好きでは無かった。
 オブラートに包み隠さず本音をぶちまければ、嫌いと言って差し支えないだろう。
 今まで意図的に接する機会が少なくなるよう行動してきたのだが、エスペリアの代役を務めるからにはそうはいかない。
 ここ数日は顔を合わせる機会が嫌でも増える事になるだろう。何せ一つ屋根の下で暮らすのだ。
 そういった日々の生活から副官の仕事まで、公私に渡って悠人とどう付き合うか、まだ決めかねていた。
 まぁ、何時も通りの任務と同様だと割り切って、セリアは館の角を曲がる。
 そこで目にしたものは、庭一面に縦横無尽と張り巡らされた洗濯ロープ、それに吊るされたタオル、Tシャツといった洗濯物の数々。

「うん、真っ白だ♪」

 そして、満足げな笑みを浮かべてパンパンとシーツの皺を取っている高嶺悠人。
 エスペリア愛用のエプロンを装備して気分は上々。鼻歌の一つでも口ずさむがごとしだ。

 …………帰ろう。

 一瞬の躊躇の後、セリアは素直にそう思った。
 ここには彼女が補佐すべきスピリット隊隊長は存在しない。いや、いるかもしれないけど認めたくない。
 帰って素直にこの事を報告して、その後しかるべき指示を仰ごう。それが最良の判断だ、うん。
 今もまたタライの中から洗濯物を取り出し、皺を丹念に延ばしてロープに引っ掛け、木製の洗濯バサミで留める。
 生地に皺を作らないよう、留める場所は当然ゴムの部分だ。
 大切に扱われ、風になびくぱんつは幸せそうだ。

 そう、今干されているものはぱんつである。
 飾り気も何も無い、木綿の女性用白ぱんつである。
 そして新たにタライから取り出されたのもぱんつである。
 ラキオス王国スピリット隊隊長、『求め』のユートが丹精込めて干しているものはぱんつである。

 プツンと、セリアの中でナニカがキレた。
 先ほどまで何事か頭を悩ませていた気がするが今は遥か忘却の彼方。
 力強く大地を踏み締め、ウイング・ハイロゥの力も併用しての爆発的な加速。
 背中から生えた翼は空気をかき混ぜるたび、セリアの身体を前へ前へと押し出していく。
 その瞳には一片の澱み無く、その行動には一分の無駄も無い。
 一瞬で最高速へと達したセリアはまさに一筋の閃光。
 戦場で出会った敵は熱に浮かされた時に見る悪夢の如く、一方的になぎ倒されていく。反撃さえ許されぬ絶望的なまでの力。
 所持する神剣と合わせて、彼女は『熱病』のセリアと呼ばれていた。
 悠人は身体を走る悪寒に気づいて慌てて身を翻すが――あまりにも遅い、遅すぎた。
 その手に握られたぱんつは既にセリアの手に移っていた。

「い、いきなり何するんだよセリア! ビックリしたじゃないか!」
「…………ケダモノ」
「……何だよそれ? 全然意味が分かんないぞ」

 悠人としては至極真面目に洗濯物を干していたのだ。
 褒められこそすれ不当に非難され貶される理由が分からない。
 正義は我にあり。あいむあじゃすてぃす。どぅーゆーあんだすたんど?

「ならばハッキリと、ユートさまにも分かるよう申させていただきますこの色ボケエトランジェ。よりにもよって男である貴方が婦女子の衣服を洗うとは何事ですかこの妖精趣味。それとも何ですか、スピリットは女では無く雌とでも言い切りやがりますか」
「いや、だってアセリアとかオルファは時々無断で風呂に入って来るんだぜ? あまつさえエスペリアはたまに洗い場でご奉仕してくれるし今更下着一つで騒ぎたてた所で……っとげふんげふんっ! と、とにかく、オルファには炊事を任せっきりで、アセリアも館の掃除をしてくれてるんだから洗濯ぐらい俺がやらなきゃ……」

 顔色を伺いつつ自分の正当性を主張しつつ弁解を試みる……が、無意識に色々と致命的な事を口走っていることに気づいていないっぽい。
 整ったセリアの眉は悠人が言葉を紡ぐ度に傾斜をきつくしていく。

「わかりました。以後、洗濯は私が担当しますので、ユートさまは何もなさらなくて結構です。特に私の洗濯物には近づかないように。いかなスピリットと言えども、このぐらいの権利は主張させていただきます」
「でもセリアだって大変じゃ……」
「い・い・で・す・ね?」
「…………はい」

 有無を言わせぬセリアの一睨み。
 それを押し通って反論する度胸を悠人が持っている訳は無かった。
 ヘタレと言う無かれ。
 外が何やら騒がしいと思って館から出てきたアセリアとオルファですら、余りの迫力に角から様子を伺うのが精一杯だったのだから。




――2――

 高圧的な態度と歯に絹を着せぬ物言いの反面、非常に仲間想いという一面も持つ彼女、その第一詰め所での生活は波風立たぬ穏やかなものだった。悠人に対する態度を除いては。
 毎日の訓練の後、当然のようにオルファの炊事を手伝い、アセリアと一緒に館の掃除をこなし、洗濯物を片付けていた。悠人には一切何もやらせなかったが。
 エスペリアも思ったより元気そうで、寝床から立ち上がって自分も手伝いをと訴えるのだが、厳重に注意して休息を取ってもらった。
 しかし元々セリアはこうやって家事手伝いをする為にこちらにやってきたわけではない。
 本来の目的、それはエスペリアが務めていたスピリット隊の副隊長――悠人の参謀役をすることに意味がある。
 時はレスティーナ・ダイ・ラキオスとマロリガン共和国の国家元首――クェドギンの会談が失敗に終わり、国家として正式に宣戦布告を受けた直後であった。
 マロリガンとの戦端が切られれば最前線になるであろう国境付近の街――ランサに防衛施設を建築する、各種祭壇を設置して属性を強化する、街の施設を接収して簡易指令所を作る、迅速な移動を行う為にエーテル・ジャンプ・クライアントを設置する、長期戦に備えて城から兵糧を運ぶ、周辺の地理――特にマナの分布状況を確認する……と、やることはたくさんある。
 それらで消費される軍資金、マナをレスティーナと折衝するのもエスペリアの代役であるセリアが行っていた。
 今日もランサへ赴き、現場で指揮を取り、夜の帳が下りる頃になってエーテル・ジャンプを使用して帰って来た。

「ユートさま、セリアです」
「おう。入ってくれ」

 日々の日課を全て終え、後は寝るだけといった様子でベッドに寝そべっていた悠人は起き上がってセリアを部屋に迎え入れる。
 紙束を小脇に抱えたセリアは扉の前に立ったまま事務的に口を開いた。

「この二枚が今日から着工された塔に関する報告書。これが接収した簡易指令所の改修案。各種祭壇に供給すべきマナの見積もり。ランサ周辺のマナの分布図に適当な交戦ポイントの選定。最後にランサの街全体の改修にかかる費用の見積もり書です」
「あ、あぁ。ご苦労さま……」

 一通りの説明を終えたセリアは書類を机の上に山積みにするとさっとドアの前に戻る。
 悠人の方はと言えば、そんなセリアの様子が気に回らないほど机の上の紙束の数々に面食らっていた。
 無理も無い、ハイ・ペリア、ファンタズマゴリア合わせても、これだけの文量と対面する機会は絶無だったのだから。

「では私はこれで」
「ちょ、ちょっと待った!」

 用事は済んだとばかりにそのまま部屋から出て行こうとしたセリアを慌てて引き止める。
 こんな物を俺に渡して何させたい? 何も出来るわけ無いだろ、とでも言いたげに。
 振り返ったセリアは明らかに不機嫌そうな顔だ。

「……何か書類に不備でもあったでしょうか?」

 思わずそのまま御退出してくださいと頭を下げそうになる心を叱咤して、言葉を搾り出す。
 言外に自らの無能さを責められても出来ないものはできないのだ。

「い、いや、そんな事はないんだけどさ! その……何だ、俺が読むよりセリアが口で説明してくれた方が早いと思うんだ」
「……軽く目を通していただくだけで結構です。ユートさまが今日やるべき事は全て終わっていますので、そのぐらいの時間はあるはずです」

 軽く目を通すだけと言っても、悠人がそれをやれば、ミミズの大群が紙の上を這い回る限りなく前衛的な抽象画を見るサルと大差ない。
 いや、サルでも何か感じ入る事があるかもしれない。しかし彼が見れば「何か書いてあるなぁ」で終わりである。それ以上の発展は何も無い。
出来ればこういう事は言いたくなかった。しかし言わなければ、正直に告白しなければ事態は好転しそうに無い。

「正直言うと、聖ヨト語喋れるけど書けないし読めないんだ。あははは……」
「…………」

 この刺々しい態度に耐え切れず、場を何とか和ませようと乾いた笑いを浮かべる悠人。
 対するセリアの視線は限りなく冷たい。
 ある程度の侮蔑の態度を取られる事は覚悟していたが、やはりそういう目で見られるのは堪える。

「それはユートさまの努力不足でしょう。私には関係ありません。これからレスティーナさまへ御報告しなければいけませんので失礼します」
「あ、ちょっと!」

 悠人の引止めに応じず、一礼して部屋から出る。
 最後にドアの隙間から顔を出して。

「さほど重要な書類ではありませんので捨ててくださってもかまいません。ただ私の仕事が増えるだけですから」

 トドメの言葉を残して去っていった。
 取り付く島も無いとはまさにこの事だ。
 あんまりと言えばあんまりな言葉。その言葉にはエスペリアと違って悠人に対する気遣いは微塵も感じられない。
 余りにも悠人と他者とでは応対の態度が違いすぎる。
 少なくとも味方スピリットと談笑している彼女は、満面の笑顔とは言わないまでも、時々微笑を浮かべて相槌を打つ程度の愛想はあるはずと記憶している。
 そういった態度の違いから悠人が出した結論は。

「……もしかして俺って嫌われてる……?」

 呆然と立ち竦んでいた悠人は言葉を返す事の無い扉に向かってそう呟いた。
 スピリット達との関係は概ね良好だと思っていただけに、彼女の悠人を無下にする態度は寝耳に水だった。
 そういう態度を取られる理由として唯一考えられるのが、悠人が人間だから。
 厳密に言えば彼はエトランジェであり、この世界の人間では無いのだが、それでもスピリットにとって彼は人間に違いなかった。
 佳織の「みんな善い人説」を肯定する気はさらさら無いし、世の中にはどうやってもいけ好かない奴がいる事ぐらい悠人にも分かっている。彼にとって秋月瞬がそうであるように。しかしこうあからさまに避けられてはたまらない。

「……どうしろって言うんだよ、くそっ」

 どうともし難い理由で避けられて、げんなりする量の書類を押し付けられて、悠人は悪態を吐かざるをえなかった。




――3――

 わんわんと泣きながら亡骸をその腕に抱く少女――それは幼き日の自分だった。
 今ではそのスピリットの顔も名前も思い出せない。思い出されるのはその死の光景だけ。そう思うと自分は存外に薄情なのかもしれない。
 自らの感じた痛みだけを、こうして胸に抱いているなんでその証拠だ。
 身勝手な自分をこれ以上見たくなくて、目を逸らしたくてもそれは叶わず。その光景は彼女の都合を弁えず進んでいく。
 少女は物言わぬ死体に必死に縋りついていた。
 既にスピリットだったものの身体は金色に輝き、一部では形を失い始めている。
 マナに生まれた者は何であれマナに還る。それが世界の理。
 或いは、スピリットというこの世界で最も美しい存在を、綺麗なままで終わらせたいという大きな意志が働いているのかもしれない。
 少女はそれを受け入れ難くて、世界の法則に刃向かいたくて、惨めにも空を漂う光のヴェールをかき集めようと手を突き出して足掻く。
 しかし捕まえたと思った光の粒子は、掌から零れて天に立ち上っていく。
 僅かに掌の中に残ったそれを持ち主に返そうと――既に骸のあった場所には何も無くなっていた。
 空の上にはね、もう一つの世界があって、マナに還ったスピリットはそこへ向かうの。そこでは毎日毎日楽しい事が沢山あって、美味しいものもいっぱいあって、とにかくそこはスピリットの楽園なのよ――彼女が生前教えてくれた事だ。
 だったらこれは悲しい事では無いのかもしれない。
 少女にとっては悲しい事だけど、彼女にとっては嬉しい事のはずだ。
 だったらどうして――死ぬ前の表情はあんなに苦しそうなの?
 楽しい事がいっぱいあるなら、辛い事なんか何も無いはずじゃないの?
 彼女がいるであろう空に問いかけた。でもその答えは返ってこない。
 耳に痛いぐらいの静寂が耐え切れなくて、また声を出して泣いた。
 酷く心が痛かった。

 少女が泣き止んだのは、人がやってくる気配がしたからだ。
 戦いが終わっても一向に戻ってこない二体を心配してやってきたのだろう。
 男は少女にもう一体のスピリットはどうしたと問うた。
 少女が答えると、苦虫を噛み潰した表情を浮かべて地面を――さっきまで彼女が伏していた場所の土を蹴り上げた。
 その口から彼女に対する弔いの言葉は発せられない。
 出てくるのは汚い罵りの言葉だけだ。

 どうして? あのスピリットヒトは一生懸命戦ったよ? 血がいっぱい流れてたけど、それでも剣を握り続けたよ? なんで褒めてあげないの? そんなの……そんなの可哀想だよ。

 嗚咽混じりに訴える少女に、男は拳で答えた。
 殴られ、地面を転がる少女に向けて、なおも暴行を加え、ありったけの罵声を浴びせる。

 下手したら俺の首が飛ぶって時に下らねぇ事聞きやがってこのクソガキ――死んだのはあいつが弱いからだ――クソッこんな国境付近の小競り合いで死にやがって使えねぇ――だから嫌だったんだ消耗品スピリットの隊長なんて畜生畜生畜生――。

 男はスピリット隊の隊長だった。
 スピリットは国の所有物であり、貴重な戦争の道具だ。
 スピリットの数、強さがその国の軍事力を示すと言っても過言ではない。
 スピリットが死ねば、その責は隊長が負うのは必然。
 男は自分の行っている行為が己の首を絞めているとも気づかず、一時の感情に任せて少女をなじり、傷つけた。
 いや、傷つけたと言っては語弊があるか。
 人間の腕力ではスピリットを傷つける事は叶わない、地面と擦れた部分に傷ができ、男のブーツが食い込んで唇が切れただけだ。
 男の行為は自己満足に過ぎなかった。
 では何を傷つけたのか?
 男は少女の哀悼の念を、人間はか弱く守るべきものという教えを傷つけたのだ。
 地面に伏して暴力を受けながら少女は考えた。






 何故スピリットには自由が無いのか。

 ――そう人間が決めたから。

 何故スピリットは疎まれるのか。

――人間とは違うから。

 何故スピリットは戦うのか。

――そうやって人間に教育されたから。

 何故スピリットはスピリットを殺すのか。

――それが人間の下した命令だから。






 ――なんて醜く、身勝手な人間。

 ――そんな人間を好けと、守れと言うのか?






 殴り疲れた男は、心地よい疲労感に満足して引き上げて行った。
 少女も立ち上がってそれに続く。
 瞳に新しく宿った昏い炎をひた隠しながら。
 次の日、その男は城に呼び出され、そのまま帰って来ることは無かった。
 そしてそれ以来、少女は人を信頼する事は無かった――そのはずだった。
 夢はそこで途切れる。
 少女は分かっているのだろうか?
 少女が敬意を持って接しているラキオス女王――レスティーナ・ダイ・ラキオスも、その頭脳には驚嘆を禁じえないヨーティア・リカリオンも同じ人間だという事を。
 既にそういった例外が存在している以上、悠人を人間だからと早計し、疎む理由にはなりえない事を。
 そのぐらい彼女だって分かっている。
 少女は成長し、良くも悪くも世の中というものを知った。
 あの頃の穢れを知らぬ純粋な少女のままではないのだ。
 世の中には良い人間も悪い人間もいる、ましてや高嶺悠人はエトランジェとしてスピリットに近い人間であると。
 だからこそ受け入れ難いのだ、高嶺悠人を――その理想を――突き詰めて言えば自らの弱い心を。
 少女は分かっているのだろうか?
 結局の所、少女は死が悲しいのではなく、それに伴う自らの痛みが恐いのだという事を。




――4――

 寝苦しさを覚えてセリアは目を覚ました。
 自らの周りにだけ薄い膜が張り、その中を湿気が充満しているような不快感。
 平時は穏やかな波が強風に煽られるように時化る心。
 いつもなら痛みにといっしょに感じられるはずの安堵感は無い。ただ著しく不快なだけだ。
 窓から見える青みがかった月は寝る前と殆ど位置を変えていない事から、セリアが床に入ってから幾ばくも時間は経っていないようだ。
 このまま寝直そうと思ったが、寝間着も下着もぐっしょりと湿った状態では快眠できそうに無いし、何故か心もささくれ立っている。
 寝間着の代えは持ってきていないのでせめて下着だけでも取り替えて、セリアは荒ぶった心を落ち着けようと夜風に当たる事にした。
 明日もランサへと赴き、陣頭指揮を執る立場を自覚しているので、一刻も早く身体を休めたいと思っている。
 ――いや、神剣からマナを供給されている身体は、二日や三日の徹夜作業をものともしないように出来ている。
 エスペリアが倒れたのは、あくまでも長期に蓄積された疲労が暫定的平穏で一気に表へ出たからだ。
 本当に休めたいのは身体では無く心。
 今のままの精神状態では、ランサで人間達が向ける奇異の視線に耐えられそうもない。
 自然と早くなる歩調を遮るように、薄暗い廊下に一筋の明かりが漏れていた。
 扉の隙間から漏れる僅かな明かり、それは悠人の部屋の中へと続いている。

 この時セリアが取るべき行動は、少しむっとした顔で扉を閉め、そして何事も無かったかのように通り過ぎる事だった。
 少なくとも昨日までのセリアだったら間違いなくそうしていた。
 ただでさえ、この部屋の主は自らに悪影響しか与えないのだ。これ以上の不快感の上乗せなど誰が望むものか。
 仕事以外は一切合切手を出さない、この男が死のうが生きようが無関心を貫く、そうあるべきだったのだ。
 しかし現実は、吸い寄せられるように、部屋の中を覗きこんでいた。
 この男が少しでも失敗する様を見て、僅かでも溜飲を下げようとしての行為だろうと、自らの無意識をそう分析した。
 エーテル技術の積極的な導入により、スピリットの館はオール電化ならぬオールエーテル化が施されている。
 天井から部屋全体を照らす光もその恩恵の一環である。
 そのエーテル灯の真下に備えられた机、それに向かうこの部屋の主。
 背中を丸め、机の上に置かれたものに熱中しているようだったが、場所の関係でセリアには悠人の背中しか見えなかった。
 うんうんと唸りながら何かに一心不乱に視線を注ぎ、突然天を仰いで頭を抱える。
 何度もその滑稽な動作を眺めていたセリアは、いつの間にか軽薄な笑みを浮かべていた。
 悠人が困惑の度合いを増すたびに、セリアの不快感は取り去られていく。
 気分は不快から快に向かっていると言っていいだろう。
 だが、それも悠人が格闘していたものの正体を知るまでだった。
 悠人が身体をずらした事で、手に持っているものを視界に納めることができる。
 彼がひたすら格闘していたものとは、夕方にセリアが渡した報告書の束だったのだ。
 彼は夕方からこの時間まで、必死に報告書を読もうと悪戦苦闘していたのだった。
 よく目をこらすと、所々ヨト語の上に見慣れぬ文字――平仮名だが――が振ってあった。
 その数は、全体を通しても両の指で数えられるほどしかない。
 霧散寸前だった不快感は、先ほど以上の重さを持ってセリアに圧し掛かる。
 時化程度だった心のざわめきは、いよいよその勢いを増して高波を生み出していた。
 美しく、残酷な笑みを浮かべていたその顔は、いつの間にか冷めた表情を見せ、爪の色が変色するほど拳は硬く握られていた。
 口の中から鉄錆の味がする。強く噛み絞めた歯が口内を傷付けたのだろう。

 セリアは全く迷う事無く扉の取っ手を掴み、光が漏れるだけの僅かな隙間を人が通るべき道に変えた。
 そして背後から突然現れた気配に狼狽している悠人に構う事無く、部屋に押し入った。

「あ〜……ごめん。まだちょっと読めてないや。明日までには読んどくからセリアはもう休んでてくれ」

 セリアの尋常ならざる様子に気づかず、報告書を早く読むよう催促に来たと勘違いした悠人は何とかそう取り繕う。
 極上に下手糞な嘘である事は明らかだ。
 そのペースで読んだとしても、明け方までには到底終わるはずはない。
 ましてや聖ヨト語が読めない悠人には天地がひっくり返っても無理だ。
 セリアは苛立つ心を押し留めつつ表面上は冷静を装う。

「……ユートさまは何をやっているのですか?」
「俺? 俺は見ての通り報告書を読んでる。なかなか量が多くてさ、ちょっと手こずってるんだ。けど、明日までには絶対に読んどくから安心してくれ」

 この男は全く分かっていない、その一言が、その愛想笑いが、どれだけセリアの心を揺さぶり、鍍金を剥がして地金を暴こうとしているのかを。
 既にセリアの瞳には完全なる敵意しか無い事を。
 他方悠人は、セリアが退出しない事を自分と話す為に来たと判断していた。

「あ、ちょうどいいや。悪いけど、ここの部分だけ教えてくれないか? さっきからずっとここで詰まっててさ」

 報告書の一枚を持ってセリアの傍まで歩み寄る。
 指差された箇所は序盤の序盤だった。

「それは命令ですか?」
「命令? いや、これはお願いだな、俺の。確かにセリアの言う通り、この期に及んで全く文字が読めないってのは少し恥ずかしいし」

 バツが悪そうに鼻を掻きながら、「佳織はかなり読めるのにな」と付け加える。
 確かに悠人の妹――高嶺佳織と同じ月日をファンタズマゴリアで過ごしていながら、学力――特に識字に関しては雲泥の差があった。
 しかしそれは、幽閉されている間の空白の時間を、読書などで懸命に埋めようとした佳織と、その佳織を取り戻す為に必死に戦っていた悠人の生活スタンスの違いであり、決して卑下するものではないのだが。

「お断りします。御自分の力でどうにかしてください」

 セリアはあっさりと要求を突っぱねる。
 しかしその冷たい態度は、自らの望む言葉を引き出そうという意図が込められていた。
 悠人にもセリアが不快に思っているぐらいの事は理解できた。
 また自分の発言が彼女の不快感を増大させた事も。
 それでも窺い知る事ができたのはそこまで。
 彼女の機微の裏まで読み取る事は出来なかった。
 ただ、セリアに理由無く無下に扱われるのはもう我慢できなかった。

「……なぁ、セリアが俺を嫌ってる事ぐらいは分かる。気に入らないなら気に入らないでいいから、どこが気に入らないか言ってくれないか? 俺に非があるのなら直すから。一緒に戦う仲間を、嫌ったままじゃ嫌だろう?」

 敵意の篭った視線を真正面から受け止め、そう問う。
 仲間――その一言が、セリアの琴線に激しく触れてしまった。
 常に大局を見る、冷静な態度を取り続ける為の何かが、完全に焼き切れたしまった。
 後ろ手で扉を閉め、自らの退路を断つ。
 相手を完全に打ち負かすか、自分が完膚なきまでに打ち負かされるか、その二つ以外の結果を拒んだのだ。

「……命令すればいいじゃないですか。俺に絶対服従しろと。そうすれば、全て事足りる。貴方がそんな苦労を背負う必要は無い」

 感情を押し殺した声でセリアは囁く。
 理知的に言動を発する回路が正常に働いているだけでも奇跡に近かった。
 人はスピリットに命令し、スピリットはそれに従って行動する、それはセリア達スピリットにとっても、人間にとっても暗黙の了解であり、絶対の不文律。
 そこに意志の介入する余地など無いし、してはいけないと教えられてきた。
 だから黙って従っていればよかったのだ。
 身体は言われる通りに動いて、心の中で舌を出して軽蔑して、人間とはこういうものだと罵っていればそれで。

「だから、前から言ってるように、俺の世界にスピリットなんていないんだって。それをいきなり見下すような態度が取れるかよ」
「なら慣れてください。人はスピリットを道具のように扱い、スピリットはそれを享受する。それがこの世界のルールです」
「そんなのまっぴら御免だ。俺は絶対にスピリットを戦争の道具だとは思わない。スピリットだって怒ったり笑ったり泣いたり、人間と同じなんだ。戦うためだけに生きるなんて、間違ってる。セリアだって、そんな扱いをされているから人間が嫌いなんだろ? だったら――」

 以前バーンライト王国主都サモドアで聞いた言葉と全く同じ内容。
 曰くスピリットの手は剣を握るためだけにあるのでは無い、戦い以外の生き方を見つけろと。人もスピリットも同じなのだから。
 その言葉を聞き、多くのスピリットは自らの戦うだけの奴隷としての生き方に疑問を持った。
 それと同時に、悠人を信頼するようになった。
 しかしセリアだけは、その言葉を受け入れる事が出来なかった。
 あの時はただ受け入れ難いと思っただけで、靄がかったその理由まで知る事は出来なかった。
 今なら分かる。
 その理論がどれだけ自らを追い詰め、苦しめる存在であるかを。
 セリアは初めて、故意にこの男を傷つけてやりたいと思った。
 彼女の気持ちを分かったような気になって、もっともらしい言葉を吐くこの高嶺悠人という存在を。
 異世界から来た人間が抱く甘い理想論を粉々に打ち砕かれた時、どんな表情を見せるのだろう? その時を想像して知らずに唇の端が歪む。
 口内に感じる鉄錆の味ですら今は甘美だった。

「……偽善者の講釈はそれで終わりですか?」
「……え?」
「やはり貴方は人間です。よく分かりました。貴方の言葉はスピリットに対して害しか及ぼさない」
「そんな事は無い。俺はみんなといっしょに今まで戦ってきた。スピリットの気持ちだって――」

 悠人はそれ以上言葉を紡ぐ事ができなかった。
 セリアの憎悪すら篭った眼差しが悠人を射抜いていた。

「分かっている、とは口が裂けても言わないでください。貴方は人間ですがエトランジェです。殺そうと思えばスピリットだって刃を向ける事ができるのですから」

 その言葉は嘘や冗談では無いと、瞳が語っていた。
 しかし黙って引き下がる訳にはいかないので、悠人はセリアの次の言葉を待った。

「ユートさまの言葉に真実味を持たせるには――そうですね、ハイ・ペリアで恒常的に人を殺して、それでもなおそんな世迷言が吐けるのならその言葉、信じてさしあげます」
「ふ、ふざけるな! そんな事出来る訳無いだろ! 何で俺が訳も分からずそんな事――」
「私達スピリットはそれを強要されているんですよ。訳も分からず、殺す理由も無いスピリットを、毎日殺している」

 激高して怒鳴り散らそうとした悠人を押し留めたのは、あまりにも冷たいセリアの声だった。
 悲しんでいるのでもなく怒っているのでもなく、事実を淡々と述べただけの言葉、ただそれだけで完全に勢いを挫かれてしまった。
 しかし悠人には沈黙は許されなかった。
 沈黙してしまえばセリアの言葉を肯定することになる。高嶺悠人の言葉はスピリットに幻想を抱かせる詭弁だと。

「――そんなの俺だって同じだ。誰が好き好んでスピリットを殺すものか。それ以外に佳織を助ける方法が無いから……」
「カオリさまの為にスピリットを切り捨てますか」

 切り捨てる――その物言いに反論したい気持ちをぐっと堪えた。
 確かにファンタズマゴリアに来たばかりの頃はそう考えていた。佳織を助けるために全てを犠牲にする覚悟があった。
 しかしセリア達と共に敵国のスピリットと戦うにつれて自分のやっている事に疑問を覚えた――俺は正しい事をやっているのか、と。
 だが実際の所、そう思っているだけで、やっている事は以前と何も変わっていない。
 どんな言葉で自らを弁護しようと、佳織の為にスピリットを切り捨てているのだ――敢えて避けていた事実を指摘されて、悠人は何とも言えない苦さを感じていた。

「なら、私達がスピリットを殺さなければならない理由って何ですか?」

 セリアの言葉は、悠人を打ちのめすに十分な威力を持っていた。
 自分は佳織の為に行為を正当化できる。決して自分の行動を正しいと胸を張って誇れはしないが、戦う目的を見失いそうな時、挫けそうな時、縋るものがある。
 ならスピリットは?
 何も縋るものの無いスピリットは、戦う目的を見失いそうな時、挫けそうな時、何に頼ればいい?
 そもそもスピリットが戦う目的って何だ?
 何故彼女達は戦っている?
 天秤の片方に重りを載せても、もう片方にそれと等価な重りを載せなければ決して釣り合いは取れない。激しく揺れ動いて、斜めに歪な形のまま止まるか、それとも天秤ごと倒れてしまうか、それと同じ事だ。

「剣に心を奪われず、正気を保ったままスピリットを殺せ。斬られる瞬間の凍りついた表情も、断末魔の叫びも、残した想いも、全て目を逸らさず受け入れろ。心を喪ってただ言われるまま殺すより、よほど残酷な選択だと思いませんか? 貴方の言っている事は、つまりはそういう事なんです」

 悠人はセリアの言葉に何も返す事は出来ない。
 ただただ俯き、拳を硬く握り締めるだけだ。
 彼女の言葉を真っ向から否定したい、俺はそんなつもりで言ったのでは無いと。
 しかしそれと同時に思う。
 あの言葉は、そんな状況に追いやられている彼女達を想っての言葉ではないのではないか?
 彼女達の立場を不憫に思って、戦うだけの彼女達が許せなくて出た言葉ではないのか?
 自己満足の独善に過ぎないのではないか?
 否定したくても言葉の出ない自分が悔しくて、涙が出そうだった。

「これで分かったでしょう。分かったなら私に命令してください、明日からもスピリットを殺せと。ユートさまを恨む事はあり得ませんよ、その命令が人間から出ている事は分かりきっていますから。ユートさまはカオリさまを助けるために、私達は命令だから、スピリットを殺す、それでいいじゃないですか。明日からはあるべきスピリットとエトランジェの形に戻りましょう、ね?」

 片方の秤にスピリットの命、もう片方に人間の命令。それで釣り合うこの世界の天秤。
 人の命令はそれだけ重く、スピリットの命はそれだけの重さしかない。
 それがファンタズマゴリアという世界だった。
 まるで喧嘩した友達に教え諭すような優しさをもって、セリアは悠人に向かって微笑む。
 ぞくりと身震いするような綺麗で、からっぽで、哀しい笑みだった。
 そのセリアの姿こそ、彼女の言葉を辿った者が辿り着くだろう末路だった。
 それが分かってしまうからこそ、受け入れる事など出来なかった。

「……嫌だ。そんなの命令できない」
「……まだそんな事をおっしゃるのですか? いい加減認めてください。貴方がどんな言葉を吐いた所で、現実は何も変わらない。寧ろその言葉に惑わされて不幸になる娘が増えてしまう。ならばせめて明日を生き残る選択をすべきです」
「……嫌だ。とにかく、嫌なんだ……」

 駄々をこねる子供のように、悠人は首をいやいやと横に振った。
 既に理論も何も無い、ただ受け入れ難いという感情だけが悠人を動かしていた。
 セリアは呆れ顔でため息を漏らす。
 己の信念を否定され、酷く落ち込んでいる事は理解できる。しかしそれを受け入れる潔さも悠人は持ち合わせていると思ったからだ。
 もはやここにいても時間の無駄だと決断し、さっさとこの部屋から出て行く事にした。

「ではお休みなさいませユートさま。お腹を出して寝て風邪などをお召しにならぬよう。貴方は貴重なエトランジェなのですから」

 慇懃無礼に頭を下げて退出しようとするセリアが、悠人には最後のチャンスに見えた。
 このまま彼女を返してしまえば、きっと取り返しの付かない事になる、そして自分は後悔する。絶対の確信だ。
 ぼろぼろに傷付いて何もしたく無いと弱音を吐く心を叱咤してどうにか足を動かすと、こちらに背中を向けてノブに手を掛けているセリアまでよろよろと近づき、不恰好にしがみ付いた。

「……まだ何かあるのですか? 私にはありませんけど」

 セリアは内心の棘を隠そうともせずそう告げる。
 悠人の理論は既に完膚なきまでに打ち崩され、欠片すら残っていない。
 何より自らの言葉に説得力が無いと自分自身が認めている、そんな男の口からまともな言葉で出てくるはずもなかった。
 そして出てきたのはセリアの予想通り感情論。
 彼女にとっては易々と看破し、反論できるものだった。
 しかし――出来なかった。




「……でも、スピリットを殺すのは痛いんだろ? 俺は痛い」




 痛い? 殺されたのは相手なのにどうして?

 ――相手の痛みが理解ってしまうから。




「……苦しいんだろ? 俺は苦しい」




 苦しい? 死ぬのは相手なのにどうして? 

 ――剣に心を奪われた苦しみを受け止めてしまうから。




「……恐いんだろ? 俺は恐い」




 恐い? スピリットがマナの塵と消えるのは必然なのにどうして?

 ――何時か仲間が、自分がそうなってしまうのが恐いから。




「……悲しいんだろ? 俺は悲しい」




 悲しい? 命令に従っているだけなのにどうして?

 ――理由があっても、命令されても、スピリットを殺さなければならないのが悲しいから。




 弱いのは誰?

 ――それらを必死に隠そうとするセリア・ブルースピリット。




 強いのは誰?

 ――それを告白できる高嶺悠人。




 悠人はただ囁くだけ。セリアは終始無言。
 会話のキャッチボールが成立しない、一方的な言葉の投げかけに過ぎなかった。
 しかし悠人の一言一言が、セリアの鍍金を剥いでいく。
 悠人の問いかけが終わる頃には、地金を晒したセリアがいた。
 高圧的で理知的なセリアはもういない、ただ傷付くことに怯えるひとりの少女がいた。

「……そうだとしたら、どうだというのですか? どうしたらいいのですか?」

 少女の心からの問い。
 まだ穢れを知らなかった頃から抱き続けていた、未だ答えの出ない問い。

「ねぇ、答えてくださいよ……」

 その問いは悠人に向けてのものだったのか、それともこの世界に問いかけるものだったのか。
 答えが返って来るはずもない。
 この世界は人間の為の世界、スピリットには優しくしてくれないのだから。

「……痛くても、苦しくても、恐くても、悲しくても、スピリットは戦いを止める事などできはしない。だったらいっそ、苦痛なんて感じなければいい。無痛症になってしまえば、こんなに苦しむ事もない……」

 それが少女の出した答えだった。
 相手の流す血も、自らの流す血も、全てから目を逸らして殻の中に閉じこもってしまえば痛くない。
 長年の謎が解けた後の瞳は澄み切っていて、まるでガラス玉が顔に填まっているようだ。
 その姿は妖精を模して作った人形のようだった。

「……それは違う……」

 悠人は腕に力を込める。
 殻の中で震える少女にもぬくもりが伝わるよう、ぎゅっと。

「苦痛から目を反らしても、心と身体は痛いって訴えてるんだ。それを無視し続けたら、いつか壊れちまう。痛いなら痛いって正直に言えばいいんだ」
「……言ってもきっと何も変わらない」
「……あぁ、スピリットがスピリットを殺さなきゃならない現実は変わらない。でも、セリアには傷を分かち合える仲間がいる。同じ事に苦しんでるアセリア達がいる。その声は、きっと届く。届かなくても、俺が必ず聞いてやる」

 それは傷を舐めあう馴れ合いだ。
 現実を嘆き悲しんでも変わる事は無い。
 それでも、己の中に溜め込むよりはましのはずだ。
 仲間に打ち明けて、一緒に苦しんで、悲しんで、泣いて。その後は少しでも痛みが和らぐと信じて。

「それに、レスティーナが新しい世界を作ろうとしている。スピリットにだけ痛みを強いる世界を捨てて、スピリットと人が平等に暮らせる世界を作ろうとしてる。セリアがその世界を望むなら、俺は全力で協力する。スピリットを殺すのは痛いけど、我慢できる。セリアはどうしたい?」
 
 自らがそう望むのならば、その為の努力をしろ。誰かが成すのを待っている限り、世界は何も変わらない。
 思えば、自分がどうしたいかなんて考えた事も無かった。
 己の為に戦うという発想すらなかった。
 痛みは消えない、忘れられない。
 でも、自らの望む世界を作るためだったら、この痛みも耐えられるのかもしれない。
 もし耐えられなかったとしても、その時はこの人は助けてくれるって、そう言っている。
 自分と同じ痛みを持つ人間なら、その言葉には力がある。
 だったら、信じられるはずだ。
 セリアは悠人の手を握った。
 人形では無い、生きているものの温かみだ。
 それが彼女の答えだった。




――5――

「……落ち着いたか?」
「はい、何とか……」

 ずっとそのままの体勢でセリアが落ち着くのを待つ事しばし、ようやくいつもの理知的な彼女が戻って来た。
 そしてその正気に戻った頭はうぅむと悩んでいた、これは致命的な弱みを握られたぞと。
 何せ先ほどの本音及び行動は、彼女と近しい間柄である第二詰め所の面々はおろか、親友であるヒミカやハリオンにさえ決して見せた事の無い生涯ワースト1の痴態だったのだ。
 まぁこの男がこれをネタにセリアを強請ろうという考え方が出来るほど要領の良い人間でないのは明らかだったが、かといってそれで安心できるほど能天気でも無い。
 これは他人に漏らさぬようしっかりと釘を刺しておくべきだ。できれば悠人の弱みを握り返して自らの立場をイーブンに持って行って――と、そこまで頭を回した所で、はたと気づく肌に感じる布越しの温かみ、しかも身体を覆うような。
 不快ではなく、むしろ何処か安心できるその温もりだが、気づいてしまえば違和感は拭えないし、何より探究心の方が勝る。
 ちらっと視線を落としてみると、とっくりのようなセリアのほっそりとしたウエストを後ろから包み込むように伸びている二本の腕。
 お腹のに回されている竹刀ダコだらけの手は明らかに彼女のものでは無い。
 硬質化した皮膚は最近になって剣を握るようになった事を示している。
 とゆーかその上に優しく添えられているのがセリアの手だ。
 そしてこの部屋にいる人物はセリアと悠人の二人だけ。
 そこから導き出される答えを自分なりに出してみる。
 ……………………駄目だ、どうやってもそれしか思いつかない。
 答えに納得して、現状を実感して。
 理知的なセリアは再び何処かにぶっ飛んでいた。

「―――――――――ッッ!!」
「お、おいどうした? 落ち着いたんじゃなかったのか?」

 腕の中でじたばたともがき出すセリアを諌めようと、より一層腕に力を込める。
 もはや誰がどう見ようと、完全無欠に、一片の疑う余地もなく、セリアは悠人に後ろから抱きしめられていた。
 ボンと爆発したような音を立ててセリアの顔が朱に染まる。まさに瞬間沸騰湯沸かし器。
 とりあえず寝間着にそっと鼻を近づけてみて汗の臭いに愕然として――何をやってるんだと激しくツッコミ。
 下着は替えてきたんだったまずは一安心とか思っている自分に張り手。
 先ほどまで嫌っていた人物の腕の中で抱きすくめられ、あまつさえそれを気持ち良いと思ってしまった自分。
 全てが認められない、認められるか!
 混乱の極みにある頭では、悠人の手が軽くセリアの形の整ったムネムネに触れている事すら気づくはずもなかった。

「……はぁ、はぁ、お、落ち着いたか……?」
「え、えぇ、お陰さまで……」

 それからさらに小一時間ばかりして、先ほどと全く同じ事を問い、答える悠人とセリアだが、息は切れ切れ、着衣は乱れていた。
 気分の盛り上がった二人が一線踏み越えて目くるめく官能の世界に旅立って――というわけでは無い、念のため。
 抱きしめられたセリアが狼狽し暴れれば、それを何とか抑えんと悠人がさらに強く抱きしめ、痛いぐらいに抱きしめられたセリアが余計に混乱して暴れ狂い――の悪循環。
 今はどうにか腕から脱出したセリアと、それを追う悠人が机を挟んでの睨み合いに移行していた。
 お互い血が頭に行き過ぎて思考能力を奪っていたが、血が胴体に戻って正常な流れに乗ると、今の状態に激しく疑問を抱く。
 もはや悠人にセリアを拘束する理由は無く、セリアにも悠人に構う理由は無いのだ。
 そもそもセリアはこの部屋にやって来た理由ですら今はおぼろげにしか覚えていない。
 馬鹿みたい、と無意味に張っていた気を緩めて悠人の脇を通り過ぎて部屋から退出しようとした。
 何より気恥ずかしさもあって一刻も早くここから逃げ出したかった。

「待てよ。ほら」
「……何ですかこれ?」

 悠人のポケットから出てきたのは手――ではなくてその上に乗ったハンカチ。
 意味を図りかねて小首を傾げているセリアに向かって悠人は自分の目尻を指差す。
 それに習って目尻の辺りを一撫で――妙にざらつく感触がした。

「拭いていけよ。このまま出て行かれると、俺が泣かしたみたいじゃないか」
「……泣かした? ――――涙……!」

 慌てて姿見の鏡を覗き込むと、そこに映るのは目の下にくっきりと浮かぶ涙の跡。
 悠人からひったくるようにハンカチを貰ってゴシゴシと目を擦ってどうにか消したが、ついでに赤く腫れた。
 そんな彼女を心配して顔を覗き込む悠人。

「大丈夫か? あんまり強く擦らない方が良いぞ?」
「な、何見てるんですか! 見ないでください!」
「あ、あぁ。悪い……」

 弱い自分をこれ以上他人に見せる事に耐えられなくて、慌ててそっぽを向いて顔を隠す。
 目の前の男に致命的な弱みを見せ、なおかつ涙まで見せた、その事実はセリアを再び混乱させると思われたが、くたっと脱力するだけだった。
 彼女は認めたのだ。
 どんな言葉で覆い隠しても、この高嶺悠人という人物に自分の心の最深部を暴き出され、涙ながらに吐露した言葉を全て受け止められたのだ。
 心情では満場一致で反対しているが、認めないわけにはいかない。
 むしろ大事なのは、これからセリアの中で悠人という存在をどのように位置づけるか。今まで通り相容れぬ人間とするか、それとも――。

 さわさわ。
 さわさわ。

「……何してるんですか?」
「いや、泣いた娘をあやすにはこれが一番だと思って。佳織が愚図ってた時もよくこうやってやったなぁ」

 悠人はセリアが思考に耽っているのを良い事に、彼女の頭を撫で回していた。
 頭頂部に手を当てて、髪を下ろして膝まで届こうかという長髪の流れに沿うようにゆっくりと梳く。
 ちょっとくすぐったくて、すごく気持ち良くて――って違う!

「誰も泣いてなんかいません! これは……目にゴミが入っただけです!」
「あーはいはい。そういう事にしとくよ」

 不機嫌そうに頭に置かれた手を払いのけるセリア。
 決して自分は気持ち良くなってなどいない、極めて不快な行為だと心に言い聞かせて。
 とゆーか悠人は余りに慣れ慣れし過ぎではないだろうか?
 確かに悠人との蟠りは解けた、その上で悠人を信頼すらし始めている。しかしこうも心を許した覚えは無い。
 一言文句を言ってやろう、そう思ってキッと睨みつける。
 この顔を見るだけで、第二詰め所のネリシア姉妹は震え上がったものだ。
 それだというのに、高嶺悠人に至っては、本当に嬉しそうな笑顔でこう言うのだ。

「そうそう。セリアはそうやって感情を表に出した方が良いと思うぞ」
「………………」

 …………前言撤回。
 この男はやはり嫌いだ。
 スピリット、人間の区別ではなく、高嶺悠人個人が。
 平気で人の心をかき乱す言葉と態度を、何の悪意もなく表せるその性格が。
 何より攻守が逆転されてからこっち、この男に振り回されっぱなしでは腹の虫が治まらない。
 どうにかしてこの男から主導権を握り返す種を探すべくセリアは視線を泳がせて――あった。
 視線の先には机の上に打ち捨てられた書類の束。
 今日の彼女の成果を示す文章の数々。

「ところでユートさま、報告書を読む目処は立ちましたでしょうか?」
「い、いや――だから、明日までには必ず読んどくから、うん。きっと、絶対」
「そうですか。もう少しで読めるという事ですね。なら読めるまで待っていますので改善点などを話し合いましょう」
「いや、だから明日だって……」
「ええ。だからもう少しなんです。…………………ほら、明日になりました。さて、話し合いましょうか」
「…………」

 確かに日は変わった。数分前を昨日と言うのならば今は確かに明日だ。
 それは屁理屈、揚げ足取りなのは明らかだったが、悠人には何も言い返せないのもまた事実だった。
 苦い苦い顔をして黙りこくっている悠人を見下ろすようにして、セリアは腕を組んで薄く微笑む。

「どうしても読めませんと泣いて頼むのなら、助けてさしあげてもかまいませんが?」
「くっ……」

 やはり自分はかくあるべきなのだ。厳しく、気高く、常に毅然としているスピリット――それが例え自分を騙すフェイクだとしても、その強がりもまた彼女の一部なのだ。
 そう在りたいと思い振舞う心は間違いでは無い。
 それに――。
 欠片ほどのプライドが邪魔して未だ答えを出しかねて煩悶としている悠人を見遣る。
 それに、困った時は人に相談しろと言われようと、自分の弱みをあまり沢山の友人に聞かせる気は毛頭無い。
 弱みをぶちまけてしまったのは仕方が無い。心の釣り合いを保つ為の重りに、せいぜい活用させてもらうとしよう。
 いや、人の秘密を知ってしまったのだ、その位の苦労は背負って然るべきなのだ。
 ……まぁ、その過程で少しだけ、この男に歩み寄ってしまうのは、不可抗力だろう。
 セリアが心のバランスを取り終えたのと、ほんのちょびっとのプライドから生まれる小指の先ほどの屈辱感を押し殺した悠人が平伏したのはほぼ同時だった。





 後書き またの名を甘さが足りないと言われてもボクは謝らない!(謎

 約4ヶ月ぶりのご無沙汰DU-JOさんです。
 ハイペリアの続きを期待していた人がいたらすみませんでした。セリアさんものです。自らを迸るツンデレを書きたいパッションには勝てませんでした。
 言わば最後1/4が本命で残りはオマケみたいなもんです。誰が何と言おうとそうなんです。ただセリアさんを書くにあたって、中途半端な話では私のツンデレ好きが疑われる! という事で、色々と無い頭を振り絞ってみました。
 別にこんな回りくどい話にしなくても、と思われるかもしれませんが、ツンデレというのはツンからデレになるまでの過程が重要なのであって、直にデレっとなるツンデレ、初めからデレを内包したツンには価値を見出せないのです。
 特にセリアさんの場合、原作中(PC版)にその過程が書かれていないので、その過程をすっ飛ばして甘々なお話になるのは不自然だろうと思います。甘々なお話書くの苦手だし。ツン→ツン→ツン→デレ→ツンぐらいがちょうど良いのかなと。
 ……これ以上ツンデレについて熱く語ると頭の可哀想な人だと思われるんでこの辺で止めときます。
 さて、世間様はPS2版アセリアに狂気乱舞して既に全ルートフルコンプなんて猛者もいるようですが、私は未所持です。
 PCゲーのコンシューマ移植はエロが無いから興味ねぇいや、綺麗になった佳織とか追加されたサブスピのイベントとか興味は尽きませんよ特にヘリオンとかヘリオンとかヘリオンとかセリアさんとか。
 しかしイチキュッパになるまで買わないと色々な所で豪語した以上、まだ買いません。
 だからどなたか、1980円で売ってるところを見かけたら、こっそりDU-JOに教えてください。全国何処へでも買いに出かけます。
 では今回はこの辺で。ここまで読んでいただきありがとうございました。




 ――追伸
 あ、なんか私の部屋が1万ヒット超えしてるみたいですね。こっちの方も重ねて御礼申し上げます。記念にこのメッセージに気づいた人先着1名に、SSのリクエスト権を差し上げます。掲示板か何かでツンデレ!って叫んだ後、ふてぶてしくこういうSSが読みたいにゃあとか言って下さい(笑

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