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日常。それは人が冠する当然の事象。
日が昇っては沈み、光が闇に変わりて一日を成す。
世界は止め処なく周り続け、時という名の次元を織り成す。

人はそれを日常をと呼び、当たり前として世界に在り続けている。
しかし、初まりがあれば終わりがあるのも時の成せる業。
日常を求めた人の、罪深き変化し続ける世界を否定する想い故に災いと成す――


Before Act - Aselia The Eternal -
三章 サルドバルト  終 章 - 黄昏の日常 -


「オメガーーーーーー!!!!?」

今日も今日とて、クレス老人は元気に吹き飛ばされていた。
家の中に響き渡る絶叫に食堂でくつろいでいた面々は和む。

「今日も元気にやってますなー」

「――同意」

リアナの言葉にエリシアも同調しつつ、のほほんとお茶を啜る。

「――あのご老体の何処にあれを成す気力と体力、技術が存在するのか常々疑問に思う…」

「それはお爺さんだからだよー。お爺さんはいつも満ち満ちてる不思議パワーを持っているからねー」

「…その意見には根拠は無いけど賛成するが――それはそれでまた謎である」

少し遠くでドタバタと物音が未だにするのは話のご老体がまだ粘っているからであろう。
一日の内に最低一回は発生するこのイベントに今日も平穏である事を象徴させる。

「おっ。終わったみたいだね」

「その様で」

少しすると物音は無くなり、変わりに荒い足音が近づいてきている。
徐々に大きくなってきているその音の主であるシルスが憤慨した様子で姿を現した。
そのまま見た目通りの勢いで席につき、エリシアが差し出したお茶を手に取って一気に飲み干す。
注ぎ立てのお茶は非常に熱いのは当たり前なのだが、熱がる様子が全くない。

「――ぷはぁ!! 全くあの変態爺さんはいつもいつも――!!」

「とりあえずよくアツアツのお茶を飲み干せたのかは置いとくけど、今日は何をしでかしたのお爺さんは?」

熱ーいお湯が入っているポットの中身を確かめながらリアナは尋ねる。
顔を中に覗き込んでいるだけでも熱気で顔がかなり熱く感じているのだから、舌が火傷していてもおかしくはないのだが…。
そんなご様子を一向に見せずシルスは待ってましたとばかりに健在な舌で言葉を発した。

「あたしが部屋で着替えをしている時に覗きをしようとしたのよ。
それも天井からよ! 誰も気が付かれない様に時間を掛けて穴を開けて、開いた所を栓留めで隠してる用意周到さでね!!」

「それはまた壮大な事で…」

「それを成すまでも一ヶ月は掛かってたそうよっ。聞かされた時には呆れて物も言えなかったわよ!」

シルスたちに気が付かれぬ様に隙を見て除き穴を作るのには時間と気力、そして用心深さが必要となる。
仕事で昼間は出かけている彼女たちとはいえ、誰一人とていない時間は多くないので動きを取れる時間はほとほと少ない。
レイヴン仕込みの観察眼と察知能力は台所に出没する黒い悪魔(コードネームG)即時抹殺・完全駆除で誇る。

些細な日常の中での変化や違和感に察知されて監視されてしまえば、さらに動きが取れない。
しかし、彼女たちの目を欺きかつ、決行するまでに自室の天井の変化にすら気が付けさせなかったのは驚愕に値する。
人の身であり、ましてや全盛期をとうの昔に通り越しているその身体でスピリットを越えた事に他ならない。

…ちなみにその事に関してレイヴンが知っているかの有無は判断の領域ではない。

「つまり私たちの部屋を今まで好きな時に覗いていたのかー」

「さっきのが始めてだそうよ。被害が出る前でよかったわ…。
さっき穴の開いている部屋と場所を全部吐かせたから直ぐに板交換の掛かるわよ」

そしていざ彼が決行しようとすると高確率でそれがバレてしまうのもお約束の域にある。
今回の様に手の込んだものであればある程に失敗率は高くなる。
それでも諦めずに挑戦し続けるのは、男の欲望に忠実であり続けているからだそうだ(本人談)。

「了解」

「今日はいつもより音の継続時間が長かったのはそのためだったんだ。なるほど」

天井修理のためにエリシアが席を立ち、リアナも先ほどの物音の違和感に納得して同じく立ってお茶の片付けに入る。
お茶菓子を一通り食べ終えたシルスも再度立ち上がって自分の分も台所に運ぶ。

「――クレスご老体に責任を取らせて修理させるのは処罰にならないのか?」

「そんな事をさせたらまた何か仕掛けられるわよ」

「…納得」

当然の責任処罰を利用してまた何かを企むかも知れない逞しさにエリシアとて舌を巻く。
彼女も此処の生活を始めてかなりになるが、あの老人のパワフルさに驚かされ続けている。
スピリットの対して性的な行為を強行してくるのだが、その接し方が人と人とのそれと変わらなかった。
つまりクレス老人は彼女たちを“感情のある人”であるかの様に扱っていたのだ。

何処までも規格外な人物像にエリシアはそういった行為に当初から無防備であったがシルスたちに彼への対応を仕込まれた。
別段必要性を感じなかったのだが今ではシルスたちの様に応対している。
例えば今の様に洗い場と対面しているままにお茶菓子を食べる際に用いたフォークを肩越しにクイックスナイプ。

――カッ

「………」

見やればフォークは床板に軽く突き刺さっている。
オマケとして顎鬚の付け根近くを床に固定させるかの如く、
地面に這い蹲ってエリシアの背後から接近していたクレス老人は冷や汗をかいている。

「何を、しておいでで?」

「………床の冷たさが無性に感じたくなっての。寝っ転がっていたのじゃ」

自前の髭を完全に床に縫い付けられたために身動きが取れなくなって苦しい言い訳を述べる。
少しでも動かそうにも根本からしっかりと固定されているので動きようが無い。

「そう」

言い訳に納得したのか、傍に寄ってフォークを引き抜いて解放させる。
接近した事で彼の目的であるエリシアのスカートの中身を覗く事が叶った。
しかし引き抜かれるフォークの速度が抜刀に域で、掠った鼻先の皮が剥けてしまった。

「…………………」

「――どうかしたか?」

「……何でもありませんのじゃ」

最も成功率が高いのがエリシアであるが、それに比例して危険度も高いのである。
元々性的な行為に関して無頓着かつ無防備なので容易に実行できる。
しかし、シルスたちの教えに忠実なために反撃は事務的かつ容赦がない。
それも今の様に少しでも変な動きをしていたら生死の境を彷徨っている可能性もある程に。

――まさに DEAD OR ARIVE!!




クレス老人の朝はほのぼのとしている。
朝日が昇り、フィリスたちの誰かが朝食当番で食堂にて朝飯の準備をする。
包丁がまな板をリズム良く叩き、火で炙る薄肉と煮込まれるスープの香りが鼻を擽る。
程よい空腹感と朝日、そして流れてくる香ばしい匂いに眠気が覚醒していく。

「――おいっち、にー、さん、しー、ごー、ろく……」

起き上がって程よいまどろみの中で日課の柔軟体操を行なう。
昔はそこいら一帯を走り込んでいたが、年なので今では体操のみ。
それでも念入りに身体を解し、程よく身体を温めたら寝巻きを一気に脱ぎ捨てる。
その下より露わるは赤の褌一丁の老体の神秘! 温まった身体には朝の冷たい外気がとても気持ち良い!

「ふむ。今日もないすばでぃじゃな…」

女性がすれば非常に魅惑的なポーズをこのご老体が行なって肉体美チェック。
老体としては肉つきの良く、衰えが如実に出ているが未だに現役が出来る(?)領域を維持していた。

「よし、それでは今日も女体の美の探究に参るかのう」

そして普段着を着込み、部屋を後にする。
数分もしない内に今日も朝からクレス老人のお茶目な悪戯は元気な悲鳴となって家中の響き渡る――。


――フィリスの場合。

「おはよう御座います、お爺様」

「うむ、おはようじゃ。今日もいい腰つきをしておるのう……ちょっと触らしてくれぬか♪」

「お爺様の朝食だけには毒キノコの胞子を混ぜ込んでおきますね♪」

「ゴメンナサイ。オチャメガスギマシタ」

軽くあしらわれて撃退される。
強行するとフィリスは言った事を本当に実行するので引き下がる他無い。
死ぬ事は無いが、死ぬギリギリスレスレは当たり前にやる。
エリシアに次ぐある意味シルスよりも手難しいダークフォースな娘なのだ。


――リアナの場合。

「おはようじゃ、リアナよ」

「あ。おはよう、お爺さん。今日も元気で何よりですよー」

「それが今のわしの唯一の取り得じゃからな」

「そんな事言ってー。お茶目が今の生きがいじゃないのかなー?」

「ほっほっほっ。そうじゃな、それではそのバインバインのお胸をパフパフさせてくれんかのう?」

「もうー、相変わらず現金だねー♪

――今日の朝ご飯って何かお爺さん知ってる?」

「うむ。どうやらベーコンサンドとシチューの様じゃ」

「おおー。それはとっても楽しみだね♪」

「うむ。そうじゃのう… orz 」

軽やかに話題を変えられて実現ならず。
シルスならば即座に鉄拳が飛んで来る台詞でも、リアナは何の抵抗もなく会話が成立する。
しかし、それと同時にその話題を逸らすのが上手く、実現する事が非常に困難なのだ。
話術さえもレイヴンより教えられているためか、成功率が非常に低い。


――シルスの場合。

「朝から盛ってるんじゃないのー!!」

「エアバーーーーク!!?」

リアナとの会話だけでこの被害。
彼女が一番の天敵であり、積極的に手を出してくる唯一の存在。
表立って行動できないのは全て彼女の監視下にあるため、逆にそれが燃え上がらせるのだ。
簡単に成功しては面白くない。彼のポリシーの火がつi「盛るな!」あべし?!


――エリシアの場合。

「今日のご飯は何じゃろな〜♪」

「?」

きらーん

「………お茶っ葉は何処じゃったかのう?」

「――そこに」

「すまぬの」

「いえ」

成功率が最も高いのがエリシアである事は前述しているが、危険でもあった。
今の様に意気揚々と配膳の手伝いの最中に接近していたのだが彼女は手にしていた光り物を光らせる。
そのまま接近して身体に触れるコミュニケーションを取る事は出来るが、あのナイフの餌食になってしまう。
しかも指の間に挟み込んでいる数が四本なのは老眼の所為では決して無いだろう…。

……

日が沈むのと同時に一日の生活が終わりを迎える。
クレス宅も同じく、灯火の灯った食堂で食後のまったりとした時間を過ごす。
暗くなれば人の足も極端に減り、何処もかしこも(酒場は例外)自分の家へと帰っていく。

「今日も良い一日じゃったのう…」

「今日も一杯お茶目だったもんねー」

のほほんとお茶を啜るクレス老人にリアナは事実をありのまま言葉にする。
今日も元気に悲鳴を上げていたご老体は彼女たちの懲りずにアタックをしていた。

「ほっほっほっほっ。それほどでもないがのうっ」

「そう言いながら手の動きを止めないのは何でかしら?」

「気のせいじゃ」

テーブルの下という死角から隣のリアナへと伸ばされていた手を引っ込める。
気配すら悟らせないクレス老人の隠密をシルスが破るのも日常の一コマ。
お互いに笑いあっているものの、一方は冷や汗をかいて一方は青筋を立ててひくつかせていたが。

「――しかし、本当に大きくなったものじゃのう、お主達は……」

「何よ、突然。いくら年だからってその台詞はより一層老けて見せるわよ」

いきなりの言葉に呆れ顔でシルスが返す。
普段から老人らしく大人しくしているはずもない助平な老人から出るとは思えない台詞。
年寄りでありながら全く年寄りではない言葉に違和感があり過ぎた。

「まぁ、そう言うでない。お主達が突然わしの所を尋ねてきたのはまだまだめんこい(死語)魅力で詰まっておったのに…。
いつの間にかこんな立派に成長して(一部発育不良が…)わしは感激じゃ(女子と生活できて)」

「何やら言葉の中に意味深な意味が篭められていたのは気のせいでしょうか?」

「気のせいじゃ(キッパリ)」

フィルスの正確な指摘を間を置かずに答え、もう一人が目を細めて言葉に思いを込める。

「…あたしを貶している含みがあったのは間違いはないわね(怒)」

「それこそシルスの妄想と願望がわしの言葉を勘繰っているだけの事じゃ。
おぬしの胸は数年前より本当に成長していn「排除っ!」ouchi!?」

いつも通りにシルスにまた叩きのめされていくクレス老人を背景に他の面々は会話に花を咲かせる。

「エリシアは幼少の頃には既に坑道で?」

「……小さな頃の記憶は曖昧。記憶が出来始めた頃には既に働いていたのは確か」

「そっかー。私はレイナと一緒のいつも居たのしかあんまり覚えていないかな。
私たちを訓練していた訓練士がスピリットの自我を求めない手法を取ってたからその点はエリシアと同じかもね」

「――フィリスとシルスとは共のあったのはないのか? ましてやレイヴンとは…」

意外な事実にエリシアは首を傾げ、夜風に当たりながらいつも通りに読書しているレイヴンに目を向けた。
エリシアが存在を知った数年前より長い付き合いのはずのリアナが元々が国の所有物だった事には驚きを隠せないでいる。
表面的にはなんら変化のなさそうなエリシアの表情だが、目をいつもよりほんの少し見開いているを二人は見逃さない。

「私とレイナは残念な事に途中参加。確かフィリスは初めからだっけ?」

「そうですね。私が初めて出会った人がレイヴンでした。…あの時食べたエヒグゥの串焼きは今も忘れません」

出会いの時はフィリスがその焼ける香ばしい匂いに誘われて近づいたのが切っ掛け。
その時にレイヴンが食事を取っていなければフィルスはレイヴンと出会わなかったのか?
少し無駄な思考ではあるが、レイヴンとの出会いは必然だとフィリスとリアナ、そしてシルスも思っていた。
無論、エリシアとて同様か近似した考えを持っているである。

「フィリスは今も好物だもんねー。
その直ぐ次の日の朝に私がその訓練士と一緒に引き取りに行って、そのまた直ぐ後にレイヴンが訓練士になったんだよね」

「初めての訓練ならば、という事で私たちがレイヴンの初めての人になったんです」

「初めての人―――それは何とも言い難い甘美なる言葉じゃのう…」

「アンタが言うと卑猥に聞こえるから黙ってなさい!!」

そして新たな罪状を携えて審判が下され、クレス老人のその有様はフィリスとリアナに苦笑を誘った。
小さな頃には様々な出来事があり、その度にレイヴンと共あって生き延びてきた。
そうして今という日常を手に入れて平和に生きている。世界は相も変わらずに均衡を保ったままに…。

「…ホント、お馬鹿さん」

こういうエリシアの誰に向けたとも知れない突っ込みも日常である。




「………」

夜も深けた夜空を見上げ、クレス老人は一人自室の椅子に座って眺めていた。
いつもならば明日の英気を養うため、もしくはそのための工作を練っているのが常である。
しかし今宵はそのいずれかでもなく夜空の星々を見ているだけであった。

表情は常に細められた視線から放たれるお気楽な雰囲気は影を潜め、無表情に近い。
本来あるべきともいえる老人らしく哀愁すら感じられ、静を醸し出している。
見上げていた視線を落とし、思い立ったかの様に書棚に歩み寄って一つの冊子を手に取った。

冊子の題名は何ら記述されいなかったが、眺め読みで捲られていく頁の中身は癖のある文字が沢山詰っている。
本は印判などという便利な物はこの世界にはなく、人の手による複製で成っているので書き方に各々の癖が出るのは当然。
そしてこの冊子の文字は彼が、クレス老人特有の丁寧さと流麗さが備わっていた所を見ると、日記の様であった。

やがて捲られていく頁が文章が途切れた頁に辿り付くと、その頁を見開いたまま近くの筆を手にする。
闇に小さく抗おうとして煌々と輝く灯火を傍らに筆の切っ先を紙につける様とし、ふと止まった。

「………ふむ」

小さく唸ってみたものの、書くことが思い浮かばない模様。筆を置いて日記を見下ろすが何も出てこない。
はてどうしたものかと思っていた矢先に部屋の扉をノックする音が響く。
こんな夜更けの来訪に眉を顰めるも、扉を開けてみるとそこにはレイヴンが居た。

「餞別だ」

そう言って手に持った酒瓶とグラス二つを見せた。



レイヴンを部屋に招き入れて酒飲みと相成った。
お互いに会話らしい会話はなく、グラスの中身が無くなったら相手に酒を注ぐという行為を何回も繰り返している。
小鳥や人の生活の躍動が鳴りを潜めている世界ではグラスを傾ける毎に中の氷が壁面に接してくぐもった高い音を鳴らすだけ。
中身の入ったグラスを掲げて中身を眺めると、黄土で透明色な輝きを持った水が灯火の灯りで映える。
一口を喉に通すと甘い香りとともに酸味の効いた強い刺激が頭を突き、それは一瞬の事でその後に甘味が広がって口の中を潤わす。

「…この様な美酒は初めてじゃ。お主の作じゃな?」

「ネネの果実から抽出した果汁を蒸留し、時を掛けて寝かせた一品だ。これはその中でも最も古い十年物」

「よいのか? こんな所で開けてしまって。市場に出せばかなりの値がつくのは保障できそうだがのう…」

「問題ない。物の価値は人によって決まるものだが、それが“個”か“多”であるかの違いだけだ。
今回のこれは今此処で価値を出しているだけの事」

「…そうか、嬉しいものじゃ――」

頬を緩ませてまた一口つける。口に残る甘味は粘りつく類のものではない洗練された味わい。
飲む回数を増やしていくに従って舌が馴染むとその味も更に濃く、深い味わいを出してくれる。
この様な十年という歳月を掛けて熟成された酒を自身ために振る舞われているのは嬉しい限りであった。
だがそれと同時に、漠然とした思いも確信に変わっていく――。

「お主らがわしの所に突然押しかけてきてもうそんなになるのか…時というのは早いものじゃな」

「………」

独白に近いその言葉をレイヴンは目を伏して聞いている。
クレス老人もそれが分かって言葉を続けていく。

「妻には先立たれ、娘夫婦も事故で他界して残されたのはわしと娘夫婦の残した男の子の孫が一人。
今となってはその孫も隣国で事故死したと聞いてわしはもう一人となっておかしくはなかった。
じゃからお主らには本当に助けられたのぅ。

嘗ての親友であったウィリアムの紹介でやってきた時は…。
わし一人では孫を育て切れる自信がほとほとなかったのじゃから、今思えば本当に恥かしい限りじゃ。
そんな孫も巣立った時にはわしの役目も終わったとばかり思っておったのに。

昔の職場に再び合い間見えたり昔の知識がお主らの役に立てられたりと、本当に退屈せん毎日じゃった」

言葉が途切れる。少しの間が空いて、レイヴンが席を立つ。

「楽しい日々に感謝を。お主らには感謝し切れん程に恩を貰った。ありがとう」

自身が使っていたグラスのみを手に持ち、部屋を出て行こうとした背中にかけられる深みの篭った言葉を受ける。
死角なのでレイヴンには直接見えないでいるが、クレス老人は頭を深く下げていた。

「礼を言うのはこちらとて同じ事。クレス・ロードという存在が居たからこそ、今の俺達が居る。
終わりはやがて確実に訪れる。それまでの間に如何にして生を育むかはその者次第。
俺はクレス・ロードという人物の居る場所で貴様の幾ばくか時を共有したに過ぎない。

だがそれとて確かな絆と思いがある。彼女らにも同じ事だが――」

「――そうじゃな。…彼女らには済まないのが心残りと言えばこの身の未練かのう。
じゃがそれも杞憂な事じゃ。何せお主という存在がおるからの――泣かせるでないぞ?」

細い瞼より覗く強い眼光。並みの人間ならば居竦められてしまう圧力が込められていた。

「泣かせるのは貴様が先であろう?」

「ほっほっほっ。それは光栄な事じゃ」

不敵な笑みを軽く振り返って見せ付けてくるのを、お返しとばかりにいつものお気楽な笑いで返す。
最後の最後でいつもの雰囲気に戻ってしまい、相手のペースに根負けをしてしまった。

「やはり無理はするものではないのかのぅ…」

「貴様にその度量があったのかどうか後世に残る疑問だな」

「これは一本取られてしまったのう」

初めからこのつもりで訪ねて来たのか、と思わせるほどに意味深なレイヴンのやり口に最後まで敵わなかったとまた笑う。
だが、これで書く事は決まった。テーブルに見開いていたままの空白の頁。今ならば出来る自信がある。
扉に手をかけて廊下への道が開かれる。出て行くレイヴンの背に向けて最後の言葉を投げ掛けた。

「マナの導きがあらん事を――」

――ぱたん…

そして閉められる扉。闇夜の静寂がまたこの部屋を包み込み、クレス老人は何かが変わったのを感じた。
それが何を意味するのかなど今となっては考えずとも理解でき、筆を手に取る。
傍らに置いてあるグラスの氷が形を崩して落ちるのをグラスを擦る音が鳴るが、それが心まで直に伝わって来た。
今の自身の心をありのままに、クレス老人は先ほどまで埋まらせる事が出来なかった空白の頁をすらすらと埋めていく。

グラスの中の氷がまた鳴った――。



……

………

「今日も元気なあっさだぞ〜♪」

台所で朝食の準備をするリアナの鼻歌が食堂に響く。
とろみのある液体の煮詰まる音と包丁がまな板を叩く音を効果音にして小気味好い音色となっている。
朝食当番によってクレス宅の朝に奏でられる音が異なるのはその人物の特性である。

リアナは先の通りに軽やかなテンポの鼻歌が聞こえ、フィリスでは控えめな鼻歌が小鳥すら聞きに来る。
シルスは歌の代わりに小さく踊る様な動きで食事を作り、エリシアは穏やかな静を体現する朝を醸し出す。
朝食の準備は順当ではないが、大抵が順当に近いために朝は常に異なる雰囲気で過ごしていた。

「ビ〜フ、シっチュ〜が朝のメインっ♪ ミールクたっぷりお肉がもっちもち〜♪」

煮込みを終えたビーフシチューがスープ皿によそわれてテーブルに並べられていく。
肉入りスープの独特な香りが立ち昇り、型崩れをしていないシチューの具が程よく蕩けていた。
他にも並べられるサラダにパン。そのままシチューとして食すのも良し、パンに和えるのもまた一つの楽しみ方を呈する。

「? 今日はお爺様がまだの様ですね…」

食器やスプーンなどの食事用具の準備を手伝っていたフィリスが未だに起きて来ない年長者に周りを見渡す。
リアナも気が付いており、いつもの朝の物足りなさに鼻歌交じりに反応する。

「そうだね〜。いつのならもう朝一番の絶叫が響き渡っててもいいはずなのにー」

「…つまりそれはあたしがいつも泣かせているって言いたいの?」

「違うの?」「違うんですか?」「――否定不可?」

「――別にいいけどね…」

三者三様の返答でも意味は全て同じ。
否定する気もないので曖昧に返答をして少しシルスが少し不貞腐れた。

「――ワタシが起こしてくる」

手持ち無沙汰なエリシアが自ら立候補し、座って朝食を待っていた椅子より立ち上がって食堂から出る。
その場に手持ち無沙汰な者がシルスとレイヴンも居たがシルスは不貞腐れて、レイヴンは我関せずなので消去法であった。
クレス宅はそれほど広くはないものの、上の階が存在する木製の家。そんな中でクレス老人の部屋は日当たりの良い一階の最奥である。

――コンコン…

エリシアの性格を顕著に現す控えめながらもしっかりと鳴らす音。
一回目の数秒後に再度ドアをノックして中からの返答を待つ。
この時点でエリシアは少し首を傾げるが、中に気配がある以上居るのは確かだと感じている。

再度ノックをする。少し強めにしたが、反応は全くない。
違和感を拭えないままにドアノブを捻って入室する。
風が横髪と首を撫でる。窓が開いていたためにドアを開けた事によって通気が成されたのだ。

調度品や本棚などが老人らしく控えめに主張をし、テーブルに置いてある本がその古さを光の下に映える。
窓に添えられている純白のカーテンが朝日を和らげるが、風で靡かせている今はその役割を果たせずに強い光を部屋中に注いでいた。
瞬間的に目を細めるが、直ぐに適応して何度か瞬いて目を開く。最奥の窓の下に常備されているベッドの上に、目的の人は静かに眠っていた。

「――朝です。起きて下さい、クレスお爺さん…」

近くに寄って静かに言葉をかける。黒髪が朝日に照らされて艶やかな漆黒を醸し出し、風によって絹のような前髪と横髪を流す。
第一声でクレス老人はなんら反応がない。テーブルに置いてある酒瓶からかなり夜更けまで酒を飲んでいたためだと少し推測した。
手を伸ばして、身体を揺する。違和感が増大するが、目的を果たすために軽く揺すった。

「――起きて下さい。朝食が出来てます」

反応が未だにない。揺する強さを強め、声色も強めていくが何ら反応を呈さない。

「……………」

違和感は、不快感を伴って焦燥に駆られる。
理由はあまり明確ではないが、予感にも似た思いが前面に出てくる。
片手を目を伏したまま穏やかな表情のままのクレス老人の口元に沿え、もう片手を手首に添えた。

―結果――…

全く“反応が無い”理由が判明した。



少ししてエリシアが食堂に戻り、それにいち早く気が付いたリアナが声をかける。

「遅ーい。お爺さん寝惚けてたのかな? あれ、お爺さんはま、だ、…?」

起こしたのならば共に来ているはずのもう一人の姿が確認できない。
それよりもリアナに強烈な印象を与えたのが姿を見せたエリシアの雰囲気。
無力感や失望感、そんなモノに似た印象を持たされ、無表情であるがリアナにはエリシアが今にも泣きそうなのを感じた。
その雰囲気に身に覚えがあり、胸が一気に締め付けられる思いに駆られる。

「―――!!」

朝食の準備を終えて座っていた椅子を勢い良く立ち上がって食堂を駆けて出て行く。
シルスとフィリスがその突然の行動に驚き、疾風が通った脇に居たエリシアは沈痛な雰囲気で見送りもしない。

「「…………、――?!」」

二人はお互いに顔を見合わせて少し思考をするも、エリシアの雰囲気にリアナほどではないが感じ取って数瞬後は目を見開く。
そしてリアナと同じく駆け出し、一直線に目的の部屋へと向かう。
その間もエリシアは食堂を少し入った所で立ち竦み続け、背後の足音を聞き続ける。

食堂にいるのはエリシアとレイヴンの二人のみ。
レイヴンは静かに目を伏して温かなビーフシチューを口にし、パンにも和えて食す。
エリシアは唯一動く彼に自然と目が行き、いつもの賑やかとは異なる静かな朝の食卓を心に残す。


フィリスとシルスが目的の部屋に辿り付くとベッドの傍で膝をつくリアナの姿が目に入った。
後姿でどの様な顔をしているか見えないが、ベッドの中で安らかな寝顔のクレス老人のその様子に顔を歪める。
ベッドに歩み寄ると、リアナが今気が付いてかの様な反応を示して振り返る。
哀愁が漂い、悲しみの顔にひと筋の涙が流れていた――。

「……息、してなかった」

その一言が全てを理解させるのに十分であった。
エリシアが来た時に感じた違和感。“居るのに居ない”部屋の中の気配。
それが少し前まで生きていたモノがあれば、そう感じるのは無理もない事である。

クレス老人の寝顔からはリアナが言っている事を否定するかの様に生を感じる人の顔であった。
しかし、長年培われた感性があった事によって彼が呼吸をせず、血が通っていないのを分からせる。
昨日まで彼と変わらない日常を過ごしていたというどんなに残酷な現実に目を背けたくなったとしても、それを自身が否定する。

「…リアナ」

シルスはリアナが泣く姿を見たのは実質これで二回目であった。
幼き時にその身に宿した半身を失った悲しみを露呈したあの瞬間を今も鮮明に覚えている。
あの時から自分がリアナの姉である事を決意し、今まで共に過ごして来た。
それが今、再び彼女が泣く瞬間を垣間見てしまった。

リアナの傍らに歩み寄り、膝をついてリアナの頭を抱き寄せる。
抵抗なく彼女はシルスの胸に頭を抱かれて、優しく撫でられる。
リアナはシルスの服を掻き抱き、嗚咽を漏らして雫を垂らして泣き出した。
普段の戯けた言動は彼女の活発さで隠れさせているが、今はその小柄な身体相応の想いを露呈させる。

漏れ聞こえる泣き声にフィリスも目を落として涙を堪えようとし、目に入るテーブルの本。
そんな中で栞の挟まれた部分が気になった。手を伸ばして本を見開き、栞の挟んである頁を見開いた。
捲る際にこの本が日記であるのが判ったが、目的の頁を読み始めてその思考は消え去る。

「――…!!」

空いている手をテーブルの端に掴ませて震える。
スピリットの力強さでテーブルの端が悲鳴を上げるが、現状で気にしていられない。
そうでもしないと声を漏らしてしまうから。
涙腺より雫が出され、目元に溜まって重力に従って溢れて零れ落ちる。

その頁丸々には彼女たち宛とも言える文が書かれていた。
今までの事、それに対する感謝の意、これからへの侘び、後の事への思いが綴られていた。
インクの匂いの新しさからそう遠くない過去に書かれた文章である事を窺わせる。

――『遺書』がその頁には書かれていた。



「――――」

エリシアはレイヴンの横の席について食事を取っている。
三人が食堂を出て行って少し経つが、一向に帰って来ない。
お陰でいつもの賑やかな食事風景ではない静かで寂れて食事なっている。
だが例え帰って来たとしても、いつもの食事にはならないのは分かっていた。

――いつもの食事人数に一人が欠けているのだから。

エリシア自身、判断をつけられずにいる。
スピリットならば鉱山で不慮の事故で死ぬ瞬間を見る事も少なくなかった。
姿形共にマナの霧へと帰っていくとはいえ、同じ死である人間の死にも抵抗があるはずだった。
しかし“姿を残した死”に、その感覚に大きな変動をもたらす。

人が死ねば姿形が残る。姿を消すのはスピリットだけなのだ。

「………」

温かな料理も、今は温かく感じない。美味しいはずなのに、美味しく感じられない。
口にしていたシチューをよそっていたスプーンを降ろし、沈黙してしまう。
喪失感が空虚な心を作り出すが、本当ならばその感覚は過去に自分が知っている、慣れているはずの感覚であった。
それが今、再来して自身の心を蝕んでいる。

慣れているはずなのに、知っているはずなのに、どうしようもなく心が痛む。
失うというのがこんなにも苦しいものなのか? 顔を下に降ろして、エリシアは歯を喰いしばる。
目を閉じて、胸の何とも言えない苦しさにもがこうとする。

ふいに横に傾く自身の身体。目を開ける時には傾いた方から程よい柔らかさと硬さがエリシアに襲い掛かった。
目を向けずとも慣れ親しんだその感触に目を細め、スプーンを手放して縋りつく。
地面に落ちて甲高い音が静かな食堂に響くが、エリシアは気にせずに今の感覚を求める。

レイヴンに抱き寄せられ、その胸の中で静かに涙をした。
満たされる訳ではないが自傷に似た思いに囚われた心を静めるには十分な行為となった。
この日初めてエリシアは失う悲しみと、それに対する涙を流すという感性を知る。



――この日、クレス・ロードはこの世を去った…。





脈々と続くミスル山脈は国を跨り、北はサルドバルトから南へイースペリア、そして山脈の向こうにはソーン・リーム台地が広がっている。
高い山々は東の大地の日照時間を減らし、地平線へと沈んでからの赤い空の残光時間が非常に長い。
茜色の空は炎の様に赤く、黄昏は全てのモノの存在を赤へと変貌させる。

山脈の麓となれば真っ赤な夕闇による陰影が生まれ、燃える空を飲み込んで自らを形作る。
黄金色の輝きが山脈の頂上一帯をそれがこの世界の日の入りの地平線を示す様に光が綴られる。
その輝きと影を一心に受けて疾走する乙女達がいた。
今の影に相応しい黒に染まった翼を背負いし者達は、風を切って駆け抜ける。

走り続けた先には外套を羽織った複数の人だかり。
彼女たちはそれを即座に肉薄し、先回りをして行く手を塞いだ。
その手に獲物を持ち、さきほどの疾走のままに斬りかからんと構えを取っている。

やがて前後左右を完全に囲まれて外套を頭までの被っている彼ら五人は立ち止まる。
突然の襲来に驚いた様子もなく、沈黙を保ったまま包囲網の中心で立ち尽くす。
周りの彼女たちはそれを気にせずにただただ包囲を徐々に狭めていき、もはや目と鼻の先となって前進を止めた。

「クレス・ロードの庇護下に居た国家反逆者が。ついに本性を現したな」

先の彼女たちより送れてやって来た男は開閉一言にそう述べた。
外套の者達はそれでも何ら反応を見せない。

「厄介な存在だったよクレス・ロードという老い耄れは。顔だけは効くのだから使える妖精に手出しが出来なかったからな。
だが奴が消えた今となってはそんな話は意味を成さない。妖精だけを置いていくのならば貴様だけは見逃してもいいが、どうする?」

完全に上からの物言いと見下した視線にも沈黙で答える。
それを拒否と取った男は片手を上げて包囲しているスピリットたちに攻撃準備を合図を示す。
此処に来て先頭に立っている一人の外套の者の頭部が左右に軽く動いた。

「――黒いハイロゥ…。ここまでの黒さは完成されていないはずだが、“某国の介入”があれば可能だな」

漆黒に染まったハイロゥに己の意志のない瞳。外套を羽織る声の主が知らぬこの国のスピリットがそこには居る。

「いいのか、そんな事を言っていても?」

「貴様こそいいのか? この程度の戦力でこちらに対抗しようなどど」

「問題などない。そのための力をこちらは手にしているのだからな」

振り降ろされた手とともに一瞬の間を置いて包囲していたスピリットたちの青と黒が迫る。
数歩で看破して外套の一行に惨殺という名のワルツを披露すべく、曇りの無い牙を突きつけて食い破る――!

――…ィン

しかし、澄んだ音色とともに先行していたスピリットたちの刃全てが赤く染まる事はなかった。
ある者は振り抜かれた刃に残る微かな振動の痺れをその手に感じ、ある者は振り抜く途中で動きが止まっている。
声を唯一出した外套の存在に迫る二つの刃が滑らかな太刀の鞘と西洋の剣の鞘によって交差するように背後の外套の者によって防がれ、他の自らの身体に迫った刃は剣・太刀・槍斧(そうふ:著者造語)によって完全に防がれていた。
一瞬の攻防に彼らの被っていた外套が頭より滑り落ち、中より麗しい女性たちの顔が浮き彫りになる。

攻撃を受けて微動だにしない彼女らの獲物と腕前に襲い掛かった青と黒のスピリットは一旦全員後退する。
そして後方に控えて詠唱を開始している赤のスピリット。例えどんなに相手が強くとも、一撃で決め切らなければ次撃の間に完膚なきまでに消し炭と化す。
スピリットたちの背後に控えている指揮者は深い笑みを浮かべて命乞いをしてくるのを待っている。
相手が縋りつき、地べたを這いずり、形振り構わず命乞いをするその瞬間を…。

「――アイスバニッシャ…」

瞬時に一帯の空気は凍て付き、詠唱者は全て氷で凍りついた。
一瞬の間を置いて術者の抵抗すらする前に氷は弾け飛び、詠唱者たちは崩れる様に地に伏す。
この事象が発する直前に蒼い髪の女性、フィリスの背中より美しきウイングハイロゥが顕現していた。
男は驚き、一瞬の内にこちらの二撃目が容易く防がれた事に追撃命令の際に聞いた相手の手強さの領域に震撼する。

それでもスピリットの方はお構いなしに緑を先頭に青と黒が後に続き、接近戦に持ち込もうとする。
残りの赤のスピリットたちも詠唱を開始し、遠近のコンビネーションによってキャンセルを防ごうとする。
その動きに緑の女性、リアナと。漆黒の女性、シルスとエリシアはフィリスともども穏やかな呼吸を一息。

「――邪魔は、させない」

その呟きは誰のものだったのか。姿が掻き消える直前に強き意志を秘めた瞳で誰かが呟いた。
言葉よりも風が舞うのが早く、『雪影』『彼方』『連環』『静慮』が主の思いを体現していく。


男は確保もしくは殲滅を命じられた際に相手の戦力は少数だが強力だと聞かされてはいたが、余裕だと感じていた。
どんなに強かろうと、この与えられてた戦力と物量の前にはそう難しくは無いのだから。
しかし目の前に広がっている戦闘からは、例え油断してなくとも勝てるはずがなかった。

男の目から外套のスピリットたちが掻き消えると、切り結ぶこちらのスピリットたちから黄金色の霧が舞い、直上から閃光が赤のスピリット全員を貫いた。
これだけの間に半数以上が行動不能に。どう見ても考えても死んでいてもおかしくはない結果なのだが、攻撃を受けたスピリットたちは健在のまま地に伏している。
人間の目に追いつけないスピリットの戦闘は、戦闘不能になって崩れ落ちる、吹き飛ばされて地面を跳ねる此方のスピリットばかりが見えるのみ。

此方が動員した全てのスピリットが地に伏したのを確認する前に全てが終わっていた。
相手のスピリットは全て健在。外套にすら切り傷がなく、戦闘があった事を窺わせない。
男は思い知った。国が彼らに、ひいてはあの妖精らに手を出せなかったのはクレス・ロードの影響だけではないのだと。
子供の遊び相手にすらさせて貰えない圧倒的なまでの強さ。手を出せるはずもない。

「――貴様に用は無い」

背後から男の声。首を圧迫する何かも伴っていたために、苦悶の声が出ない。

「寝てろ」

さらに圧迫され、男の意識は意図も簡単に落ちた。
背後にいた外套の男は気絶した男を手放して地面に無造作に落とす。
被っていた外套を取り、その下から漆黒の瞳で空を見上げた。

赤と紺と黒が共演する空。闇の前の逢間が刻が世界を覆っている。
彼女たちはその人物――レイヴンの姿を悲しい目で見つめ、周囲に伏す年端もいかぬ少女たちにも目を向けた。
遅かれ早かれ、こうなる事は分かっていたのだが、それでも心の嘆きは掻き消えない。

クレス・ロードという存在を失った事は、この国での全てを失った事に等しい。
彼の存在が日常――正確にどれ程までに影響していたのかが推し量れるほどに現状の変化が目紛しい。
これからというはずのレイヴンの酒作りはアルヘストの全てを委託され、彼女たち自身は手掛けた幼いスピリットたちの事が気になる。
しかし、それすら予断を許さない国の追撃に、長き時を過ごした家を――生活を捨てるしかなかった。

クレス老人の死を悲しんでいる時間など、死んだと知った時以外になかった。
スピリットに居場所が無いのは分かっていたが、嘆く時間すらも許されない事に憤りを感じる。
手筈通りに後の事を考えての死者を出さない戦いでも、思いが先行して相手をその手にかけそうにもなっていた。
そうならなかったのは今まで培ってきた技術の賜物であり、自身の神剣の制動のお陰でもあった。

相手のマナだけを吹き飛ばしただけで消滅よりも得られたマナの量は格段に少ないが、神剣は主の命を遵守する。
強制ではない、共存。貪欲ではない、意志。神剣に宿した、思い。彼女たちが培ったものの一つであった。

レイヴンが再び歩き出す。彼女たちもその後を付いて行く。
サルドバルトという国には、もう彼らの居場所は無くなっていた。
これから先に、新たな居場所が存在するのかは全てが分からない。
それでも生きていくのならば、歩みを止めるわけにはいかない。

――夜が訪れ、星が瞬き出し、冷たい夜風が彼らの外套をはためかせる。






Now, END Of PHASE-Saruddarut. Go To Next PHASE Of ――

『 Erthperia 』


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