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神聖サーギオス帝国の全てであり、そのものと言って過言ではない皇帝の突然の死去。


その事実は瞬く間に大陸全土へと伝わり、全ての国が驚愕した。
暗殺や謀殺などが人々の間で囁かれたがどれも信憑性が皆無である。
ましてや皇帝を姿を知る者は皆無に等しく、どの国でも真相は確かめられなかった。

サーギオスが大陸中の国の怨敵として認識し、サーギオスもそれに相対する姿勢を崩さずに王位継承戦争より継続してきた。
そのために未だ嘗てサーギオス皇帝と謁見した他国の使者や王は居なかった。
敵地へと赴く命知らずの輩や度量を持つのは愚者であってイースペリアの女王とて無理な話である。

だがここで矛盾が生じる事となる。サーギオスからの情報が得られないとなれば、如何にして皇帝の死去が知れ渡ったのか?
それはサーギオスの方から一方的に全ての国に向けて声明(使者のよる伝達)があって初めて認知された。
皇帝の死は国の存在意義の消滅――つまり崩壊を意味するものだが、皇帝の死と共に皇太子が即位するという同時声明で免れた。
それでも国王宛てであるその声明には過激な内容が含まれていたのだ。

『前皇帝の後を継ぎし我の御前にて、いずれ大陸全ての者が平伏す』

前皇帝にさえなかった隠す事の無い大陸支配を宣言していた。
同盟関係にあるダーツィやバーンライトでさえも震撼し、一時的に政治が麻痺した。
これ以上帝国の軍事力が強化される前に叩くのが常套手段であるが、それを成せる国は皆無。
たとえ全ての国協力して戦ったとしても拮抗できるかどうかすら確たる自信は持ち得ない。

ましてや自国が滅ぼされない様にさらにサーギオスに従属するダーツィや協力するか分からないマロリガンは曲者である。
バーンライトは未だにサーギオス寄りであり、戦うための糧は何一つ揃える事は叶わない。
精々自国が攻め入られる際の防衛強化と他国との軍事同盟や不可侵条約の締結で時は過ぎていくのである――。


Before Act - Aselia The Eternal -
三章 サルドバルト  第八話 - 大地の軌道 -


サルドバルトの大地は肥沃で広大なミスル平原が国の中央に広がっている。
山々で囲まれている龍の大地の全てに近くの流水がこの国のバートバルト湾へと流れてい来る。
そしてそれらの川に含まれる養分を豊富に含んだ土砂が堆積して形成されている。
扇状地としての性質を持った大地なので本来なら農業が盛んになってもおかしくは無いのだが、現実には不可能であった。

扶養な大地は食物を異常なまでに成長促進を促し、ありとあらゆる植物達が蔓延っている。
地中では過剰な根の存在に豊富な養分は枯渇し、荒れ果てた荒野を形成した地域も少なくはない。ミスル山脈麓付近がその例を現実化している。
肥沃な大地はマナも多いので中央部ではそれほど問題にはならないが、農作をするには国家計画規模並みの開拓が必要になるのだ。
それをするだけの予算も人材も無く、ましてや成功する見込みすら未知数なのだから腰を上げたがる者はいない。
昨今の中で動いた者は居たかも知れないが、噂にもなっていないとなれば自ずと結果は窺い知れる。


バートバルトより少し南下したミスル平原に広がる土気色の台地。
進入するもの困難とされる緑の平原に全体からしてポツリと、人間視点では数`四方に広がる農業地が開拓されていた。
国からすら見離されたに近いこの台地は今そこに居る彼ら以外に知る者はいないに違いない。
それほどまでに隔絶された場所であり、未知なる事ゆえに怪しくもあった。

正方形や長方形に近い形で区画ごとに幾つにも分散された土がよく露出した大地が形成されている。
そしてその大地ごとに規則的に等間隔に生えている植物達の姿に農業が成立しているのを見せ付けていた。
青々と実った木の葉を持つのは人の背より少しばかり高い木。快晴の空の下に微風に吹かれて揺られている。

「ふぅ…」

長い間切っていない事を象徴する男の長い髪がその風で靡く。
手に持つ桑を立てて支えにし、首に巻きつけているタオルで顔の汗を拭う。
無精髭が拭う度に引っかかるのだが、それはいつもの事なので男は気にする事はない。

「さってと。これでこの場所の畑は耕し終えたっつー事で、後は種植えだな」

自身が掘り返した茶色い大地を眺め、同じ区域で作業していた者たちも終盤に差し掛かっていたのを確かめる。
固まった大地を穿り解し、作物を植え付けるための適度な大地の呼吸は必要不可欠。
また水を吸い易いようにするためにも絶対に必要な作業なのである。

男は空を見上げた。青く澄み渡る空に通り抜けるそよ風が目と肌に感じる。
今の自分を振り返り、あまりの滑稽な成り行きに苦笑が漏れた。
こうして生きているのがあまりの不可思議で、こんな生き様を得られた事に嬉しく思う。

(―――母さん、俺は…)

心の中での呟きは擦れるほどか細いものだが、男の表情は穏やかなものであった。
嘗ての母親の生き様と自身の過去の生き様はお世辞にも出来ない誰もが侮蔑するものであった。
生きるためと誤魔化しての金欲しさに汚れた生き方をし、鉱山で一攫千金を狙って堕落した男。
男――アルヘストは今、広大な大地の上で土を耕している。

ミスル鉱山を一つ潰すという大罪を国が許すはずも無く、責任者であるアルヘストは処分される運命にあった。
しかし、現実には今こうして彼は田を肥やし、五体満足で空を眺めているのだ。
彼は思い返してみても、あまりに都合の良い結果に苦笑すら誘う。

「今の作業が終えてもネネの実の抽出作業がまだあるというのに随分と楽しそうだな」

振り返ってみれば、そこにはあの時と変わらない服装の男が憮然とした表情で立っていた。
その人物のその表情が地である事は比較的長いという分類に入るアルヘストには分かっている。
黒の上下を着込んで白の外套を羽織る男、レイヴンに少し疲れた声で答える。

「それを言わないで下さいよ、旦那。こちとら丁度区切りがついたんで気分転換をしていた所だったのによー」

「それは失礼したな。だがその割には水分補給がなされていないのだな」

差し出される筒をアルヘストは受け取る。
筒の片方の先端に被さる蓋を回転させて外し、中のモノを飲み込む。
中身は細かな氷が塗してきんきんに冷えた冷水であった。

「はー、生き返るーっ。手間を掛けちまったな、感謝するぜ」

「必要ない。丁度話があったのでついでだ」

人の謝辞を無下にでもする拒絶の言葉はこの男の人間性であるのでアルヘストは気にしない。
レイヴンとしては言葉の通りの事をしたまでで、当然の事をしただけという認識なのだ。
最も、何もしない時は本当に何もしないので付き合いのし辛さがある。

「話か? アカスク(蒸留酒)の生成は今の所は順調だが?」

「貯蔵庫の方だ」

死を待つばかりのアルヘストを助けたのは他でもない、レイヴンであった。
彼はまずアルヘストの身を隠し、ほとぼりが冷めるまで存在を隠蔽したのだ。
責任の追及に国から調査隊や追撃部隊などが国中を探し回ったが、結局は見つからずに捜索は打ち切り。
そして今、アルヘストは生きて働いている。社会的には抹消されても、この世界ではそれは大した事ではない。

「あー…そっちは常時一定温度と湿度を保たせてるぜ。
そろそろ三年物は出荷できるし、味もかなりサマになってきた自身はあるぜ」

「“サマ”になったでは不十分だ」

「わかってる。ちゃんと出来てるぜ。
旦那に追いつくには後100年はかかるだろうけど、今回のあれは俺の自信作だって言える自負がある」

彼の今の生き様は蒸留酒の製造者。耕した大地で育てたネネの実果汁を基準とした各種果物の果汁酒を作っている。
特に長い時間をかけて寝かせるという手法による蒸留酒の生産は骨は折れるがその分やり応えがあった。
この国の新たな息吹足りえる物の生産と、未知なる物への挑戦は彼の望む所もあったのだ。

「ならばいい」

用は済んだとばかりアルヘストに背を向けてレイヴンは帰って行く。
態度が悪い様に見えるが、それもレイヴンという個性であるので納得する。
今のアルヘストは休んではいるがまだまだやる事は山詰みなのだ。
ある意味、レイヴンの行動は彼の邪魔をしない様に配慮しているという指摘も出来なくも無い。

「おしっ。仕事の戻るとするか」

そう言って周囲を見回して仲間の下へと歩き出す。
他の者たちの多くもアルヘストと同じ当時の鉱山出身者が多い。
あの時の廃坑によって職を失って途方に暮れていた男たちもレイヴンは見ていたのだ。

今でこそ言えることだが、彼らの此処までの道のりは困難であった。
草で埋め尽くされたミスル平原を開拓し、種を植え付けて栽培する。
再び生える雑草を毎日摘み取り、農業のノウハウを一から叩き込まれて数年が経ってやっとマシになっていた。

漸く余裕が出来て農業の軌道が乗ってきた昨今にアルヘストは新たな生き様を知ったのだ。
過去に比べれば格段に貧相な生き方であろうけど、充実している事に変わりは無かった。
この青い空を眺める毎に思い出す事を受け入れられるのだから、間違っていないと彼は思っている…。




「今回の“クライアントからの依頼”は北からサルドバルト首都へと通じる橋より東の平原の調査だ」

レイヴンがテーブルに置き広げているサルドバルト首都周辺を詳しく記している地図のある一点付近を指で円を幾度もなぞる。

「そこには一体何があるって言うの?」

いち早くシルスが疑問をぶつける。
今の彼女は対面に近い位置で地図の上を指で人が手をつけていないはずのミスル平原の境界をなぞる。
そうしているうちに彼女の掌の側面がレイヴンの腕にぶつかり、シルスの指はレイヴンの示している一体の内側に存在していた。

「何もない、人が手をつけていないだだっ広い草原をクライアントは何を望んでいるのかしら?」

橋は通行の便を鑑みて首都よりも離れ、イースペリアの象徴とも言える数多の湖より北上して流れ来る運河を跨ぐ橋がかけられてミスル平原側へと道が通じている。
配置されている橋の付近一帯は元々特に警備などは置かれていなかったが、盗賊などによる橋という人工の籠を悪用されてしまった。
その旨を考慮し、橋を管理して盗賊の監視を兼ねた集落をその一帯に築き上げた。
それ以外には突飛した土地柄や特産物も存在せず、レイヴンの示しているその東側は自然が広がっているだけなのだ。

「噂ぐらいはシルスも耳にしているだろう?」

「ええ、そうね。この付近で妙な唸り声や巨大な何かが歩く様な大地の揺らぎが昼夜問わずに発生している、かしら?
元々閉鎖的な場所だし、道行く人々の多くは空耳か複数の集落からの妄想が過ぎた作為的な噂かもしれないけどね」

シルスは椅子ではなく、テーブルに軽く飛び乗る様に腰を据える。
真横に置かれている紅茶の取っ手を手馴れた手つきで掬い取るように持ち上げて口にする。
いつも使っている馴染みのカップではなく、彼らが居る部屋――ひいては場所そのものが違っていた。

「今回の依頼は家では話せずに此処“スピリット訓練施設棟”なら出来る話なのはどうして?」

バートバルトのスピリット訓練施設の一角の個室。
利用される事はあまりに少ないが、シルスたちの訓練の一環としての清掃によって清潔に保たれている。
そんな個室にレイヴンとシルスが二人っきりなのは、他の面々が仕事で訓練の監督をしているためであった。

彼女たちに舞い込む“クライアント”からの“依頼”。
レイヴンたちを、正確には個人所有と認識できるシルスたちスピリットを国が野放しにしている交換条件によるものだ。
同族同士による戦力向上など彼らにとっては建て前にもならず、依頼という形で厄介事の処理を絶対的に成し遂げなければならない。
ミスル鉱山においての廃坑事故(改竄)の時も、後始末として駆り出されていた。

財政に難があるとはいえ、平和な日常の中で彼女たちが使われる機会も少ないために危険はないものばかりであった。
他人に聞かれたとしても別段、問題が発生する類のものではないのでクレス老人も同席してレイヴンに伝えられた国からの依頼を知る事は多い。
それが今回に限ってレイヴンがこの場所を指定し、尚且つ全員が揃うタイミングではないとまで来ている。

「その噂に新たに加えられた事がクライアントの代弁者より伝えられた。
『自然の緑を纏う巨大な龍が集落を襲撃した』とな」

シルスは「へぇ」と驚くというよりも感嘆に近い声を出してカップを置く。
噂からある程は予測でき、その噂の存在する場所の調査が過去に例を見ない厄介事となれば自ずと結論は出る。
だがまだその程度の情報ではシルスは先ほどの声を発する事はない。
この後にまだ続くであろう、レイヴンの言葉をシルスは待つ。

「知らせては来なかったが、首都からスピリットが派遣されたらしいが誰一人帰還した者はいない。
目的地に向かった数刻もせずに過去に類を見ない声と激震があったという。しかも今回は立ち上る黒煙付きだそうだ」

「その時の部隊規模は?」

「二個中隊」

軽く戦争の先遣部隊として起用できる人数に、シルスは微笑んで再び紅茶を手にして口をつける。
全てを飲み干すとテーブルより降りてスカートの皺を伸ばす。

「他に何か情報はある?」

「皆無だ。戦いに無縁の者達からは抽象的かつ誇張した情報しか得られなかった。
だが少なくとも何かが居る事は確かだ。気を付ける事だ」

広げていた地図を畳み、それを腰のポシェットに仕舞い込む。
仕舞うのに使われた手にはまた新たな丁寧に畳まれた紙が掴んでおり、それをシルスに手渡した。

「通行許可及び宿泊許可書だ。期待できないだろうが、無いよりはマシであろう?」

「ええ、そうね。夜風は冷えるもの。これを渡すという事は今回は同行しないのね?」

皮肉を返してシルスは中身を開いて確認をした。

「ああ。別件の用事で時間が重なっているのでな。今回はお前達だけの仕事だ」

餞別とも捉えられる言葉を残して部屋を後にするレイヴン。
今より何日も彼女らが会わないであろ事はいつもの事。
それでも少し感慨深げにシルスはその後姿を見送って一息する。


………


橋を守護するために作られた集落だからといってもそこが中継点となって栄えているわけではない。
バートバルトの様にミスル鉱山からの通行の便利上の様に、地理的に人々が寄るのが最善という理由もない。
精々道すがら途中で空いた小腹を満たすために食事を取るのに寄る程度。
それだけでも集落に飲食関係の店を構える家は多くなり、集落ごとの主な産業は観光が半分を占めている。

しかし最近では開いている店が少なく、用意されているテーブルや椅子が閑散と置かれたまま寂れているのが目立つ。
理由は言わずもがなの“例の噂”である。虚空からの唸り声や地響きが人々の来訪を寄せ付けず、ましてや先日には襲撃された集落があるとまで言われれば致し方ない。
首都から出てくる者や向かう者たちは一様に集落への中継を避け、一刻も早く橋の横断を果たして離れようとしている。

「…見事なまでに外の人が居ませんね」

とある集落の中で今でも根気良く店を開いている所で食事を取っているフィリスが周囲を見回して呟く。
彼女の言う通りに中継する者たちがいないのは分かってはいたが、此処に住んでいる者たちでさえ昼間なのに人が見当たらない。

「そうね。そうまでなるほどに自体は深刻化してるわけね。
今回ばかりはクライアントも藁をも縋る思いであたしたちに依頼したんでしょうね。
知ってる? 今回の依頼が成功した暁には追加報酬で宝石が贈呈されるそうよ。まぁ、失敗すると見越しての事でしょうけど」

同じテーブルの席のシルスが同意するほどに、楽観できる事態ではなくなってしまっていた。
声や地鳴りだけでも集落から人を遠ざけていたというのに襲撃があったとなれば自明の理、人が殆ど寄り付かなくなった。
幾ら国より保障されているとはいえ、集落そのものによる経済維持が成せないとなれば集落が消滅するのは時間の問題である。

「宝石かー、貰っても特に必要じゃないよね。でもネックレスやイヤリングにして付けてみるのもいいかも」

「そう? あたしはそういうのはあんまり好きじゃないんだけど」

「時折無性にお洒落をしたくたった時とかにいいと思うけどなー。ほら、レイヴンがいつも耳にしてる奴みたいに」

当然同じ席に居るリアナは片耳に触れてレイヴンのイヤリングを主張する。
元から国が貴金属などの追加報酬を貰えるとは本気にしておらず、夢見に今話題の種にしているだけである。
事実、国は絶対の権限による命令を敢行しているだけで、追加報酬を払う気などない。

「エリシアもそう思うでしょう?」

リアナは同意を求めて視線を隣の席の人物に声を掛ける。
そこにはパンを咀嚼していたエリシアが口をもぐもぐさせながら見返していた。
無愛想な顔のままに口を動かし、しっかりと噛んでから飲み干してお茶を一口。

「……悪くは無い。けど、ワタシもそれほど好みではない」

「えー」

同意を得られずに少し不貞腐れたリアナからエリシアは視線を逸らす。
それには少し気まずさが含まれていると感じるのは自惚れでは無いだろう。

「――でも、一度はやってみたい願望はある…」

「私もつけてみたいですね」

すかさずフィリスも同意し、リアナはすぐさま一変して復活。

「そうでしょそうでしょ。もしもやる時はシルスも一緒にね」

「まぁ、やらなくもないわね」

和気藹々とした食事が続けられる中でも、店の者は誰一人彼女たちを咎めない。
彼女らがスピリットであるのは一目で判断できるのだが、それでも食事を許している。
嫌悪している相手でも、客であるのならばどんな者でも受け入れる術でしか経営できぬ程に経営状況が悪い。
それは彼女たちが宿泊に選んだ宿屋でも同じ事で、形振り構っている余裕がなかった。
盗賊ですら噂に怯え、盗みを働く絶好の機会を捨てているのだから――。



「………」

事前に知らされている情報から得られてはいたが、その有様は情報通りと言って過言でなかった。
エリシアの目の前の広がる“集落であった”風景。今は誰一人、動物の気配すら皆無である。
原型を止めている家は無きに等しく、半壊の物でも住めるだけの機能を保持していない。

大地が抉れた個所は幾つも点在し、最も印象的かつ多い損傷理由が大きな圧力による崩壊であった。
家の上半分がある方向へと扇状に吹き飛ばされ、その見事な吹き飛び方には一種の清々しささえ感じさせる。
その様な有様のままに此処に住んでいた者たちは逃げたために一帯の雰囲気がかなり寂れた印象をより強くさせる。

「―――生体反応、皆無…」

エリシアは空を見上げて、呟いた。空は晴れてはいるが、本日は少々雲が多く層が厚いので日差しが弱い。
発言に同意するかの様に彼女の神剣である『静慮』は仄かにマナの光沢を放つ。
現在、エリシアは単独で噂の集落を偵察し、目標の補足の為に行動している。
他の平原や襲撃のあった集落でもエリシアと同じくフィリスたちが単独で周辺を偵察し、今でも神剣を介して目標の有無を連絡しあっている。

現在の偵察方法は橋を基点として扇を広げて面積を大きくしていく様に東に展開していっている。
元々目標の有無でさえ不確かで、潜伏している場所など何一つ分かっていない。
そして噂の地鳴りや唸り声が何時起きるのかさえ分からない現状ではしらみ潰しに探索するしか術が無い。
相手を見過ごさぬ様にお互いの展開地点を随時把握し、東のミスル平原に差し掛かっていく。

「反応、あり」

有象無象に生えている草地を掻き分けて進んでいると、頭の中にちりちりと照り付く反応を捉えた。
捉える数十分前からも何かがあるのはエリシアは知ってはいた。
噂の地鳴りはなかったものの、風に乗った空気の唸りともいえる怒号が周辺に響いていたのだ。
音響からある程度の方角を得て進んでみると地鳴りも徐々に大きくなっていた。

「目標(仮)接近中…」

徐々に、というには急速に揺れる大地に腰を落として高く聳えて生える草原の中に身を潜める。
それと同時に神剣の皆とのリンクを切ってマナの蠢きを止めてマナの気配を断ち切る。
地鳴りはやがて嘗ての鉱山で起きた地震を彷彿とさせる程に轟き、地盤が緩い個所では大地が断裂していく。

―――

静寂。
あれ程までに唸っていた大地の揺れが一瞬にして途切れた。
何事もなく、初めから何もなかったと主張するかの様に静けさが戻っていた。
辺りを視線を動かすも、先ほどから変わることの無い植物で埋め尽くされている大地が目に入る。
そんな何もない状況にあるにも関わらず、エリシアは現在の地点から飛び退いた。

直後に再び激震が大地を唸らし、巨大な影が空より舞い降りた。
即座に態勢を立て直したエリシアの視線の先には、大きな翼を雄大に伸ばした緑の龍が居た。
太い逆関節の二つの足が先ほどまで彼女が居た大地を大きく抉っている。先ほどの静寂は空より押し潰そうと飛翔していた様だ。

大地に沈んだ足を引き抜いて身体を捻り、濃緑の肌を存分に見せつけながらこちらへと振り返る。
長い首より伸ばされた頭部の、涼しい気候の今でも多量の水蒸気を兇悪に生え揃っている口より吐き出される。

『――――!!!!!』

一旦声を溜める動作をすると、エリシアに向かって空気の唸り声の原因である怒涛の声を吐き出した。
その様は宛ら野獣。ミスル鉱山の深淵で眠っていたあの黒龍に感じられた気高さなど微塵も無い。
大きく見開いている瞳からは理性の欠片も無く、血走っている元金色の瞳は廃れていた。

「……」

声の衝撃波をその身に受けつつエリシアは背負っている『静慮』を鞘より引き抜く。
大きく弧を描かせて剣型の神剣の中でも巨大な刀身を正面を向けさせる。
豊潤の女神より加護を受けたかの如く背より萌える発芽の様に、真っ白なウイングハイロゥが展開。
真っ直ぐに伸びて張り詰めている翼は何処までも鋭く、確固たる意志を感じさせる。

龍が大地を跳躍し、エリシアへと巨体を躍り掛からせる。
対するエリシアも大地を踏みしめ、残像を残して龍の懐へと突撃していく――。




緑龍の攻撃は単調で、その巨大な四肢を駆使しての打撃攻撃を仕掛けてくる。
大地に叩きつけるような踏み込みをして動くエリシアを追撃し、四脚から退化したような腕で吹き飛ばそうとする。
背後に回り込めば爬虫類を思わせる尻尾を振るって薙ぎ払いに掛かり、時には凶暴さを如実に現す牙を携えた口で噛み砕こうとする。

だが単調ゆえに読み易く、エリシアはいわば龍の身体に纏わりつく蚊トンボ。
大振りばかりの攻撃を地面を鋭利に滑走して避け、時には空中機動で上下にさえ翻弄している。
しかし、単調かつ大きい動作ゆえに一撃こそ脅威である事には変わりは無い。
緑龍が走れば大地は轟き砕け、止まる事の無い連撃を繰り広げてくる。

理性の欠片も無い様な印象を与えているが、常にエリシアの姿を捉え続けているのは流石は龍といった所である。
ましてや背中の翼を大きく広げた羽ばたきをしながらの動きは舞踏をしている様にも見える。
羽ばたきによる気流の乱れも相まってエリシアは対峙してからまともに反撃する機会を得られないでいた。。

「………」

一度背後へと回るも間髪を容れない尾による薙ぎ払いがエリシアを襲い、足とウイングハイロゥを合わせての跳躍で飛翔する。
そのまま瞬時に龍の翼の付け根へと着地を試みるも、その前に緑龍が片足を引いて振り返る。
とはいっても巨体の質量を即座に動かせる事は叶わないので少しだけ振り返り、広げている翼を少し畳んで尾っぽ同様に振るって打ち落とそうとする。
ウイングハイロゥを天へと突き立ててマナのフレアを散布したかの様に放出してエリシアは急降下をして避けた。

空間を薙ぎ払う翼をやり過ごしてそのまま『静慮』を勢いに乗せて上段より振り下ろす。
旋回の軸足となって踏ん張りに固定されている足を亜音速で振り下ろしたが、固い皮膚を軽く切り裂いてマナを少量出させた程度に終わる。
地面に足をつけると直ぐに移動して相手の追撃の拳を避ける。外れた拳は完全に地にめり込むも、緑龍は簡単に引き抜いてエリシアを追う。

エリシアは軽い攻撃などは見事に当てているのだが、如何せん力と助走、そしてタイミングが欠けている。
ブラックスピリットは力技は不得手であり、エリシア自身もそれを自覚してタイミング見計らう。
攻撃で龍の損傷した個所は至る所の刻まれて動き回るエリシアを追って動いているとマナの粒子が舞って命を削っているかの様である。
無論、自己修復で傷口を数秒もせずに塞がるのだが、傷つく速度もまた早いために一汗の如く舞うマナの量は一向に減らない。



乱舞を披露していた一人の一体の上空より飛来する白と黒の閃光。
二筋の光は緑龍の背中へと吸い込まれるように直撃をし、明暗の爆発が龍の身体を包み込む。
上からの膨大な圧力に緑龍は叫び声もままならなずに強制的に地に伏され、意識を持っていかれて立ち上がる事無くうめく。
そこにトドメとばかりに再び上空より舞い降りて煌く氷柱(つらら)。数多に振り注ぐ柱は緑龍とその周辺の大地に突き刺さる。
刺さりが浅いためか、龍の反応はそれほど大きくなく、痛がる様子も希薄であった。

しかし、降り注ぐ氷柱が途切れると柱は光沢を放ちうながら砕け弾け、水蒸気爆発を起こす。
溶けた氷柱全てを合わせると膨大な量の水蒸気を発生させるために龍の姿は完全に濃霧の中。
そして水蒸気は次第に内側より霜になる様に凍りつき、空に浮かぶ雲の様な形をして凍りつく。
光を乱反射しての光沢は煌いており、異形なオブジェクトは数瞬のうちに細かな氷粒子となって粉雪の如く地に落ちる。

中より再び姿を現した緑龍は完全に静止して体の至る所より小さな氷柱を形成していた。
地面に這い蹲っている様は蜥蜴そのもの。先ほどの氷付けで肉体機能を凍結されてしまったのだ。
エリシアは近くに居たので余波で髪や服の一部に霜が降りているが無事である。

かき氷を塗してシャリシャリした踏み応えで近づき、時間を止めた龍の姿を間近で確かめる。
吐き出される吐息はこの場所だけ一時零下を下回ったので白くなり、そして空より三人の女性が舞い降りる。

「お待たせー。タイミングはばっちしだったかなー?」

「――グッジョブ」

先立って降り立ったリアナに握り拳に親指を上に立てて感謝の意を表す。
リアナも同じく労いでエリシアに同じく返した。

「まぁ、今となってはもう勝手にすればって所だけど…」

「慣れればそう悪くない体での表現だとは私は思いますけどね」

少し遅れてシルスとフィリスも降り立ち、神剣を鞘の収める。
彼女らの傍らの凍りついている龍は一向に動く気配もなく、完全に沈黙化させられた様であった。

「それでどうします、この後の処置は?」

最終的に氷付けにした要因のフィリスは氷越しに龍の体表を撫でる。
あまりの凝縮・凝固をしてしまった結果に日光を浴びても溶ける気配も無く、摩擦が少ない滑る表面と冷たさもそれほど感じない。
そしてフィリスの言葉にシルスは腕を前で組んで考える。

「そうね…。下手に衝撃を与えるとまた活動を再開するでしょうし、かといって撃破するには骨が折れる。
今のは奇襲で行動不能には追い込めたにせよ、次があるかどうかは甚だアテに出来ない」

エリシアが接敵の直前に目標との接触を通信で知らせていたのでフィリスたちがエリシアの除く三人で作戦を練る。
上空より遠距離攻撃で動きを封じ込めて撃破する方針を打ち立てたのだが、神剣魔法が予想以上に効きすぎたために第一波で戦闘終了と相成った。
そのまま攻撃を継続しても良いのだが、それを実行に移す気が此処に居る全員には全くなかった。

「ですが今回の目的はあくまでも『原因の調査』ですので『退治』は含まれてませんから放置、でいいのではないですか?」

「あたしもそれでいいんじゃないとは思っているけど…それでいいかしら、フィリス?」

「構いません」

クライアントからの依頼は調査なので此処で龍を退治する内容は含まれていない。
ましてや追加報酬などは一切出ないので無駄な行為は益ではなかった。
退治したとしても依頼に含まれていないと却下され、逆に放置したとなればそれを咎めて報酬を無しにされるという理不尽を突きつける。

「この件に関しましては龍の存在の確認だけで問題はありませんし、それによって報酬の増減は無いでしょう」

「OK. それじゃあ、そういう事で。――リアナ、エリシア。帰りましょう」

お互いの合意を確認して二人に帰還を伝える。

「終わりでいいの?」

「そう。あくまでも今回の依頼は調査であって原因の排除ではないもの。
龍の情報そのものだってレイヴンからのだし、クライアントからはその事は一切報告されていないからどうとでも出来る」

「そっか。それなら私も帰るのに問題はなし。エリシアはどう?」

「同意します。…けど、コレはどうする?」

頷いてエリシアも賛成するが、見上げた物体を視線で示す。
凍りついた龍は直ぐには動きはしないだろうが、いずれは動き出すのは言うまでも無い事。
放置すれば再度近隣の集落を襲うであろう…。

「それは報告するクライアントの出方次第よ。その事はレイヴンと取り決めるから問題にはならないわ」

「――了解。帰還しましょう」

シルスの話に納得し、エリシアも『静慮』を鞘に収めて手ぶらになる。

「それでは帰りましょうか」

「――報告は何と?」

「目標を確認しただけっていうのもいいんじゃない?
未知の相手より龍が相手と分かった方が幾分か安心できるんじゃない?」

「…相手が龍となればそれはそれで逆効果じゃない。それこそ戦わなかった事を咎められるわよ」

「そのための軍事力なんですからそちらで請け負えばいいのにですね」

「絶賛同意します」

如何に上手く誤魔化して報告するかを協議しながら去っていく。
残された巨大な氷柱は雲の隙間より差し込む日の光で美しく映える。
草原に現れた氷の彫刻はフィリスたちが小粒ほどに遠くなった頃に何らかな粒子が周囲を舞い出す。

その量は時間が経過するごとに増大し、ニ・三分もせずに粒子の光が氷柱を輝きで隠してしまう。
何重にも渦巻く粒子の光が弾けて拡散した時には既に氷柱の存在が消えていた。
地面を抉った部分さえも氷付けの痕跡は無く、初めからそこに存在していなかったように消えてしまった。
大地に刻まれた傷跡のみが、そこで起きた現実を物語ってくれている――。


……


「………」

レイヴンは目の前にある物体を見上げている。大地に輝く魔方陣の上に添える様に置かれている氷の彫刻。
中に埋め込まれている巨大な緑龍のオブジェクトに憮然とした表情からは感情は窺えない。
周囲は薄暗く、上空は大きく開いた穴から窺える空があった。それが此処が何処かの大きな洞窟である事を物語る。
巨大な落とし穴の様な形状の洞窟の入り口こそは縦穴だが、中は直ぐに横穴である事を主張してレイヴンの足元に存在していた。

「手際は良好。だが、それに対する対応が甘いな」

氷柱より纏っていた幾ばくかの粒子が消滅し、地面に展開していた魔方陣も収縮して消え去った。

「まぁそれでも目的は調査であり、それが達成されたのだ。文句はあるまいに」

その言葉と共に、レイヴンの姿も青と赤の粒子を舞って姿を消した――。


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