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「この地底湖からは未だに下への流れが存在している。此処が完全なる終着点ならば、流れの先にあるのは――」

「ハイ・ペリアかバルガ・ロアーのどちらかだねー」

レイヴンの脱出方法の説明にリアナが茶々を入れて言葉にする。
天国か地獄か。確かに先の見えない水流の先はまさしくその言葉通りである。
リアナが探査魔法で確かめると、確かにそれは外へと繋がっていたが、そこまでの道のりは簡単ではない。

まずは水圧。圧倒的な水の圧力の耐えなければならない。
次に呼吸。水脈の外までの長い道のりを耐えなければならない。
最後に泳ぎ。根本的にその水流に乗らなければ脱出の可能性すらない。

一つ目は障壁を張ることで解決し、二つ目はレイヴンの例の管で万事解決をしている。
最も困難な三つ目は、フィリスたち三人には何の問題は無いらしく、エリシアはレイヴンとペアで行く事のなった。
スピリットである彼女たちに預ける方が得策ではあるのだが、水に流された経験のあるレイヴンの方が対応し易いのが理由である。
エリシアとしてはそれが理由になるのか分からないが、何一つ文句の無い彼女たちの態度にレイヴンへの絶対的な信頼が見てとれた。

「では、行くぞ」

「――はい」

非常時の為に先行して行くことになったワタシたち。
レイヴンの言葉に改めて管を加え、新鮮な呼吸の違和感に直ぐに対応する。
神剣を左手で胸元に抱え、右手でレイヴンの左手を握り締める。

――ばしゃ…

浅瀬より深遠の地底湖へと身の投げ出し、深い闇の底へと足をばたつかせて潜水していく。
障壁を簡易に張ることで瞳と鼓膜への水の圧力を回避して突き進む。
泳いだ事の無い身なので、レイヴンに手を引かれてぐいぐい下へと進むが、やがて闇によって全てが失われた。
光が全くない世界で平衡感覚などあっても無きと同等なので、進むごとに感じる水圧と握られている手だけが動いている証拠となっている。

(――これが、闇…)

這って細い道を通ったときにも同じ様に暗闇を経験しているが、こちらはその時と異なる闇が広がっている。
何が違うかというと、主なのは聴覚である。地上では風を感じ、風音を耳に出来ていたがこの水の中では違う。
障壁越しと理由もあるだろうがこちらは全てが無音であり、自身の心臓が打つ音がしっかりと聞き取れている。

本当に他には何も無い隔絶された世界。肉体的に身体を動作させても何物も触れる事はない。
水の中を進むことによる水圧を擬似的に“触れる”事は出来るも、感触としては凝り(しこり)が残る。
初めはレイヴンの姿が視認できていたので自身もどうにか泳いでいたが、今となっては完全に相手に委託している。
自分が自分である事すらも認識できていない現状で何かをするのは枷になりかねない。
今は自分が自分足りえる感覚を最大限に感じ取り、生かし続ける。

(―――っ?)

ふいに何かに身体全体を包み込まれた。前面に大きくて少し強めの圧迫感に背中へと絡みつく数本の棒。
握られていた手が背中へと移行したことから、レイヴンによって抱き締めれたことがどうにか理解した。
しかしそれがどういう意味を持つのか、エリシアには今一つ分からない。

閉じていた瞼の上より感じる淡い輝き。何事かと薄く開くと目の前には黒い影。
何故“影”だと理解できたのは、その影を発生させている光源体がその物体のほぼ背後より生み出されたためであった。
顔を少しずらして見てみるとそれは淡い蒼い輝きを放つ羽、神々しい真紅の翼の光が目に入った。

それがレイヴンの背中より生えていた。目を見開くも、その答えを示す彼の顔は影で見えず、声も届かない現状。
そしてさらに背中に感じる水の圧力が流れを感じ始めてこれが先ほど言っていた水流だと分かった。
口に咥えている管に咥える力を強め、流されないように身体も強張らせる。
少しすると、流れの中に身を任せるように流れ始めたのを、不規則に揺れる圧力で何となく悟る。

今回は流れ始めではなくて流れの途中に割り込む形なのでそれほど大きな圧力はなかった。
身体が強烈な圧力によって加速していくのを感じつつ、レイヴンの胸にしがみ付く。
そこで感じる温かさにどうしても気持ちが向かい、身体を縮み込んでいるのを自覚する。
彼女たちが言っていたこの行為。何故それほどまでに拘るのか全く理解できなかったが今、何となくだがその理由が分かる気がした。

しっかりとした抱き締めには強制が無く、何処までも委ねたくなる。
抱き締められる経験など多くあるがそのどれもが情事による叩きつけのための拘束の類に限定される。
今の様に自身から求める様に相手の胸に縋り付くのは初めてであった。

(………――)

抱きつく力を強め、自ら密着している感触を味わっていると、水圧が急激に緩くなったのを感じた。
それに呼応して周囲には忘れていたのを思い出したかの様に光が戻ってきた。
暗さに慣れ始めていた目がその光に目を閉じてしまうが、徐々に再び光に慣れ出す。
周りが確認できるほどに回復して見回すと、大地を流れる水流(川であろう?)の中を駆けていた。
それが徐々に上方の光で煌く水面へと近づいていき、やがて水圧から完全に解放される。

「―――ぁ……」

多量に水を滴らせて蒼穹のソラへと飛翔する身体。
眼下にはごつごつした山間を下っていくカワが見え、その先に大きなウミへと通じていた。
傍らに近づく物を感じて見やると、そこにはフィリスたち三人が各々の翼を展開して追随している。
再び遥か下へと見下げると、やはりそこには世界が広がっていた。今まで求めても諦めていた世界が、そこにはあった。

――生まれた初めて見た外の世界は、何処までも広くて大きかった…。


Before Act - Aselia The Eternal -
三章 サルドバルト  第七話 - 罪の在りし所業 -


「ほれほれ、何のための筋肉じゃ。こんな程度でへこたれている様では男が廃るぞい。

なに? スピリットを使えじゃと? 馬鹿っ者、それぐらい人の手のみで成し遂げんかい!

彼女らには貴様らの分まで働いておるのじゃぞ。その分だけキリキリ動けい!!」

愚痴ってきた雑魚を怒鳴り散らして追い払い、再び机に置いた紙に文章を書き連ねる。
淀みなくすらすらと書き進めるその軽やかな動きは熟練した扱い方であった。
そしてそれをしている者は容姿もそれ相応に年齢を重ね、白い髭を蓄えていた。

「…おい、そこの爺」

「んむっ?」

心底恨めしそうに轟く声に、老人は顔を上げて振り返る。
そこには焦燥し切った状態のアルヘストが睨みつけてきていた。

「お主か。一体なんの用じゃ? 見ての通り、わしは今猛烈に忙しいのでな。用件は手短に頼むぞ」

「とぼけてんじゃねぇ。何で貴様がこんな所にいやがる?」

「はて、それはどういう意味かの?」

手にしている筆の後ろを顎に当てて模索する。
その様子が気に入らなかったのか、アルヘストは胸倉を掴み上げた。

「しらばくれやがって…!! 部外者の貴様が何で此処にいやがるって聞いてんだよ!!」

老人、クレス・ロードは凄んでくるアルヘストの全く動じずに「ほっほっほっ」と笑う。
ある意味アルヘストの言い分は一理ある。それは、今いる場所が鉱山陥没による臨時対策本部だからである。
そしてその中心となって対応を取る人物が目の前の老いた男であり、数刻前にアルヘストを尋ねてきた部外者。
そんな奴がどうして指揮の中心人物としてこの場にいるのはあまりにも不審である。

「何と聞かれてものぅ。見た通りでわしは今、災害現場の指揮を取っておる身じゃ。
此処の若造どもは対応がなっておらんのでな。老い耄れが直々に教授してやっておるのじゃ」

「それは貴様ではなく俺の仕事だ! 何故俺の所に情報を回さない!!?」

「わしの事を教えようにもお主は暫くの間呆けておったそうじゃないか。
そんな輩に何を言っても聞く耳を持たんじゃろ。時間が惜しいので自力で回復してもらっただけじゃぞ」

「白々しい爺だなっ。テメェが自分の手柄が欲しいだけだろが!!」

その言葉にクレス老人は懐かしむような眼差しで微笑んだ。

「若い。若い若いのう、お主。若い内に苦労をし過ぎて利権でしか物事を判断できんようじゃな」

「何を戯言を…!!」

「違うのかえ?」

今にも絞め殺さんとばかりに掴み上げている手の力を込める。
だが、細い瞼の下から覗く視線に力が今以上に強められずに躊躇してしまう。
見下すのでもなく諭すのでもない、純粋で直接的な言葉と声色にそれ以上言葉に出来ない。

「お主はその若さでこの世を知りすぎておる。
ゆえに常に自身が生き延び、利益を求めるしか出来んようになってしもうた。
もがき苦しんで手に入れた今の理想が消え去り、これからのお主は何を求めるのじゃ?
後に待つさらなる残酷な現実を前に、お主はまだ過去の呪縛を背負ってもがくのかのう」

「―――っ」

「今は引け。そして過去を顧みて、今世の懺悔をせよ。さすれば――」

「テメェに――」

絞り出される声に、アルヘストの腕は震えている。
過去の虐げられ、奪われ、震えた日々とサヨナラをした思いが込み上げてくる。
それ以外に生きる糧も術もなく、自らの行為によって失われたモノたちも多い。
得る物も多いが、失われた空虚な心は何時までも付きまとう。
それを打ち消すために、今まで色んな事をして生き抜いてきたのだ。

「俺の事をとやかく言われる覚えはねぇ…!!」

吊り上げた老い耄れをテーブルに叩きつけ、離した片手を服の裾に突っ込んである物を取り出す。
取り出されたそれは灯火で冷たい輝きを反射し、鋭利な先端が何もかも切り裂こうと主張している。
銀の色合いのソレの柄を逆手に持ち、その性質を余す事無く発揮するために振るわれた。

「いい加減にせんか小僧!!!!」

対象の服を破く寸前でその怒声によって反射的に停止してしまった。
先ほどから震えていた身体も声に大きく振るわせた後は全てが止まった様に静止している。
理由は張り上げられた声の衝撃波の勢いもあるが、何よりも相手の今まで封じられていた瞳がこちらを見据えているのだ。

「貴様は今や国の財政を司る産業の一柱な存在じゃ。貴様の功績一つ一つがこの国の民の生活に関わっておる。
今回の鉱山一つ失った事による経済損害は計り知れぬ。そしてそれによる食料輸入量の減少によってどれほどの民の生活が困窮する?
貴様に苦く生涯癒えぬ傷を抱えていたとしても、貴様はその仕事を最後の最後まで全うせねばならん!
甘えるな、小僧。この様な始末は貴様をさらに苦しめて過去が心を犯すだけじゃ」

細められていたはずの目は全てを見通し、己が意志を相手に強烈に印象付ける。
老いた容姿に声色からは全く想像できなかった責任を全うする男の色であった。

「っぁ……、ぁぁ――」

掴んでいた手が離れ、取り出した刃物も取りこぼして床に落ちた。
弱々しくうめいて一歩、また一歩と後退してついには膝をついてうな垂れる。
クレス老人の言葉に共感したわけではない。彼の何処までも強い瞳に心の殻を剥ぎ取られてのだ。

彼はクレス老人の瞳は衝撃であり、価値観の崩壊を生み出した。
今までの生で見てきたのはどれも欲に塗れ、そうでないのは何処までも何時までも欲している目であった。
裕福な者は何処までも豊かなのを求め、貧しい者は豊かさに蔓延ってよじ登ろうとする。
自身も貧しい者から蔓延ってよじ登った身であり、その生き様で精錬された目を持つ輩など何処にも居ない。
闇の世界に一筋の光が差し込み、闇の世界を光が覆い尽くすかのように、クレス老人の瞳は彼には革命なのであった。

「お主はまだ若い。本当ならばこれからがお主の時代なのじゃ。昔のわしの様になるでないぞ…」

それを言うとクレス老人は服を整え直し、テーブルの紙を手にして部屋を出て行く。
部屋に残されたのは今も蹲っている一人の汚れた生き様で生き残ってきた一人の男だけであった…。




「んー。疲れたー」

自宅であるクレス老人の家に帰ってきて早々、リアナは食堂に着くや否や服を脱ぎ出す。
そして今まで窮屈に着ていた服一式を脱ぎ捨ててリアナは軽快に食堂の椅子に座る。
その際に脱ぎ投げた服全部が隣の椅子にきちんと掛けられたのは最早言うまでも無い。

「ちょっとリアナ。幾らあたしたち以外に居ないからって脱ぎすぎよ」

「そんなこと言われても結構苦しかったんだから。特に胸がぎゅうぎゅう、って」

リアナは手でパタパタと下着の下で紅潮して少し茹っている胸元を煽ぐ。
他のスピリットと比べても豊かな肉付きは同姓でも羨むであろう素肌を露わにした。
それを少しじとっとして羨ましがっている様な恨めしがっている様な(どちらも意味は同じであろう)視線をシルスは向ける。

「………まぁ、いいけど」

軽くを嘆息し、脱いで小脇に抱えていた上着と外套を椅子に掛けて短パン履いている上で脱げる物を脱いで一息。
短パンがあって脱げないインナースーツは排熱効率が良いので何重にも着ていた反動でかなり涼しく感じられる。
凹凸が少なくてリアナの小柄であるが豊満な体つきとは対照的なスレンダーな容姿がより鮮明に浮き彫り取った映える。
スピリット特有の肉つきの少ない細身を基本に、レイヴンの訓練の成果による女性としては筋肉と脂肪の厚みがあっても均等に取れていた。

「それよりも、買い置きってどんなのがあったかしら?」

軽く熱を逃がした身体を適度にほぐしながらシルスは気を取り直して食材の確認をする。

「確かエクゥの取り置きが冷凍室に残ってなかったっけ?」

「でもそれは明日の分じゃなかったかしら? 本当なら明日の昼食用のだったはずよ」

「おろ? そうだった、そうだった。それじゃあ他に何があったっけな〜?」

何分、今晩の帰宅は予定に無いはずの急な帰宅である。
夜半過ぎにやっとの事で我が家に帰ってきた一向が途中で何かを調達するには遅すぎる時間だった。
ミスル鉱山からの脱出は日の入りより幾ばくか時間に余裕があったにせよ、下山の時間と街までの移動距離から完全に無理であった。
鉱山は災害現場の事後処理や鉱山一つ分を賄うために他の鉱山が急ピッチで稼働していたのでそちらに付け入る隙がなく、断念。
お陰で家の有り合わせで昼から何も口にしていない空いた腹を満たすほか無い。

「――園菜で幾つか見繕ってまだ手をつけていないパンもありましたので軽い食事を取ってお風呂にしませんか?
今日は疲れが溜まっているのでお風呂の後はそのまま就寝でしょうし、ね?」

遅れて食堂に入ってきたフィリスは手に抱えた野菜と太く長い楕円形のパンを見せる。

「おお、丁度いい按配じゃないかな。ナイス、フィリス♪」

「それじゃあ、あたしは肉を見繕うから先に調理を始めてて」

感心するリアナを尻目にシルスは別の場所でにある専用の冷凍貯蔵庫へと向かう。

「はい。それじゃあ、肉の方をお願いします」

「私も手伝うよー」

「お願いします。ですが、少し服を着てからで」

現在のリアナの恰好を一瞥してくすりと笑う。
それに対してリアナは軽く舌を出して「これは一本取られたね」と言いつつ即座に横の服の一部を軽く着て服装を整えた。
フィリスも台所の机に手持ちの荷物を置いて調理の為の身だしなみを整える。

マントの下より髪留めの輪を取り出し、長くストレートな後ろ髪を一束にして根本から輪で括ってポニーテールにする。
上着を脱ぎ、内着のチャックを全開にして冷気を胸元から取り込んで篭っていた熱気を冷やす。
ある程度冷めたらそのまま台所に常時備えて掛けてあるシンプルな白のエプロンを首に掛けるように垂らす。
垂らしてそのままではひらひらして逆に邪魔になるので、腰辺りで括れるようにしてある布両脇の一対の紐を腰を挟んで括る。

滑らかで細すぎない腰のラインが上下の身体を一つの布で覆う事によって鮮明に浮き彫りにする。
リアナほどに強調されてはいないが胸の突き出ている膨らみも腰のラインの強調によってより一層膨よかに映える。
マントを腰に羽織っているので腰より下は判別できないが、上は髪を括っているので普段は見えないうなじが晒され、容姿の流れる流線を強調させていた。
それによって女性としての理想の容姿を現実に体現させている。

「…………………」

三人の妖精を先ほどから観察していたエリシアは、今もずっと食堂で突っ立っている。
何時からといえば、リアナとシルスが食堂に入った最後尾に付いて入ってきた時からであった。

「エリシアはお客様ですので、どうぞ席に座っていて下さいね。直ぐにお茶の用意をしますから」

フィリスは蛇口より排出される水(高低差の位置エネルギーを利用した水道。レイヴン作)で持ってきた野菜を洗いながら言う。
向けられる微笑とともに、立ち尽くしていたエリシアは首を傾げる。

「――どうも…?」

「あんまり固くならなくていいからさぁ座った座った♪」

「…それでは」

テーブルに並べられる食器ついでにリアナはエリシアの背を押して座席に座らせた。
特に抵抗も無かったためにあっさり席に座った彼女はリアナを見上げる。
その視線にウインクを一つして軽く舞うような軽やかさでフィリスの下に戻って調理の手伝いを再開させた。
三人の言動に先ほどのエリシア自身への応対に対しても観察し続けたが、彼女の表情に変化は見られない。
それでも心境は複雑である、というよりも全く理解が出来ないでいた。

先の鉱山脱出よりおよそ四半刻過ぎの現在。
元来サルドバルトの所有物にして鉱山の労働人形である自分が何故かバートバルト(現時点では彼女は知らぬ街)に居る。
脱出した後に飛行していたレイヴンたちだったが、人間である彼がエリシアの身柄をスピリットの三人に預けて何処かへと離脱していってしまった。
空に残された四人は三人の合意の下にそのまま飛行しての帰還をする事になったのだ。
その際に抗議でも申請でもすれば現状には至らなかったであろうが、その時の彼女は空と地上に魅入られていたために叶わなかった。

「夜食でありつつパンに合いそうなのはやっぱりハムが一番かと思って肉の腸詰めを持ってきたけど、これでいい?」

「丁度いいですよ。野菜と合わさってあっさり風味なら、小腹に良いでしょうし」

「それってエクゥのでしょう? 歯ごたえもいいし、お客様にお出しするにはぴったりだね」

「野菜スープって線もあるでしょ? 冷たい中を結構な時間過ごしたからお風呂に前に少し温まりたい気分でもあるわよ」

「じゃあ、半々にしましょう」

「それっ、賛成〜」

彼女たちの何気なく話している会話も非常に興味深いものであるのは確かである。
鉱山での生活は周囲のスピリットは皆、常に無言。会話自体、極限られた新米に限られていた。
声を発するのは情事の時が精々で、目線にいる彼女たちの一挙手一投足全てが新鮮で世界が違う。

話す、笑う、膨れる、怒る、嘆く、勝ち誇る、踊る、跳ねる、ごねる。

殆ど知らない言動であり、知っているものでも大きく異なっている。
何が違うかと問われれば、全てが違っていた。

「はい。粗茶ですけど、どうぞ」

瞬きをするのも惜しむかの様に観察していたエリシアの下に、フィリスが飲み物と茶菓子をエリシアの目の前のテーブルに置いた。
そして聞き慣れない茶の名にエリシアはコップの中を覗き込む。

「粗茶…?」

「気付のお茶の様なものですね」

円柱型の重量感が感じられる土気色のコップの中に注がれている茶緑の液体。仄かに香る苦味と茶葉の香りがエリシアの鼻孔を擽る。
手に取ってみるが、立ち上る湯気に比例してコップも熱かったので直ぐに離してしまった。
通常コップには取っ手がついているのだが、このコップにはそれが無い。

「『心頭滅却すれば火もまた涼し』」

「?」

聖ヨト語としては聞くはずもない発音と言語がフィリスの口より発された。
教養の無いエリシアではなくともこの大地においてそこの言葉を認識し、尚且つ理解できるのは片手で数えられる程度である。

「熱いものでも熱いと思わなければ熱くは無い、という事です。
とは言うものの、熱いのには変わりはありませんので時間をかけて飲むのがいいですね。
飲む際には息を吹きかけて呑む分の熱さを調節するのがいいですよ」

そう言って軽く会釈と微笑を残して、フィリスは再び台所へと戻っていった。
数秒ほどそのすらりとした背中を見つめ、目元に湯気を発し続ける飲み物に視線を落とす。

「……………」

やがて意を決して再びコップに手を伸ばし、今度は両手でコップの側面を掴んで持ち上げる。
先ほどの様に突然感じた熱さに比べれば慣れたものの、熱い事には変わりなかった。
それでも手を離すほどに熱さを感じず、コップの口を目元に持っていく。
湯気が前髪を撫で、額には徐々に湯気の熱さが強まっていった。

――ふー…

軽く息を液体の表面を舐めるように吹きかけ、湯気を飛ばす。
息の風に流されて湯立つ水蒸気は流される。それを数回ほど行ない、彼女は楽しんでいる様でもあった。
やがて吹きかけるのが止まり、再び前髪に湯気がかかるのを眺める。

そして徐々に口にコップを近づけていき、湯気の熱さを唇で感じながらコップの口に口付ける。
その状態でコップを持つ手を傾けてお茶の液体を少量口に含んだ。

――こくりっ

小さく喉を鳴らし、エリシアは粗茶を一口飲んだ表情には少し眉が寄っていた。

「――…熱い」

まだ熱かった様である。





深遠の闇は果てしなく。震える大地は世界の息吹。静寂は虚無の祝詞なり。
香る輝きは胎動の鼓動。蒼は静なる涼の砕氷。紅は滅と紅蓮の申し子なり。
蒼と紅を携えし者は、相反する存在領域の狭間で輪廻の果てまで凍え炙られる。


謳え、破滅なる者よ。

踊れ、掌で泳ぐ滑稽なる者よ。

傅け、生と死を司る絶対者よ。



ミスル山脈の深淵を駆け抜ける疾風は周囲の壁に蔓延る水滴を水蒸気と化して吹き飛ばす。
光の存在が生息しない闇の中で光る青と赤の二対の輝きは一時とてその場に残滓を残さない。
長き時の中で形成された光を浴びる事の無いクレパス(亀裂)は無秩序の様な秩序立った歪な空洞を作り出した。
余りの歪な作りに人や小動物でさえ突き進み続けるだけの道のりを作り出すのは不可能でしかない。

しかし、青と赤の光源は蛇行しながらも確実に進み続けている。
光を残さない速さで。一切の減速も躊躇いもない、光の軌跡。
例え同じ道を辿っても、他の何をも同じ末路を辿る事は出来ないであろう。
何故なら今も尚、微動が世界を動かして空洞が蠢いて形を変えているのだから。

その時、その場で、その状況。二つと無い可能性の道を光は今も突き進んでいる。
果てしなき闇の世界に迷い込んだ燐光は出口を求めて彷徨い続ける。
ほんの一瞬でも止まってしまえば、光は即座に死を迎えるのを畏れているかの如く彷徨う。

仄かなる蒼き光が微かに闇を照らす。それは迷子の光に差し伸べられた天の導きか、それとも悪魔の囁きか。
僅かな迷いも無く、光は差し伸べられた蒼き光へと歩みを向けた。
光が闇より抜けると後には引かさんと言わんばかりに闇への扉は完全に閉じられる。
仄かな蒼き光は世界から。周りは悠久の牢獄の様に美麗な模様を描いた箱が聳え立つ。

天へと向けられる咎人による懺悔の祈りを捧げるかの如く箱は幾重にも重なって突き立っている。
迷い子の光は周囲の理解できない呪詛の祈りを拒む様に天へと向かって逃げていく。
横に逃げても延々と咎人たちが祈りを突き上げているのだから、他に道はない。

やはり此度の場所は永遠なる罪人の牢獄なのだろうか?
天へと昇る光の先に、その答えは世界を見下ろしていた。

祈りを見届ける裁きを下す白銀たる永遠な聖なる剣(つるぎ)。
神の裁定を下すために描かれた模様が黄金比すらも否定し、凌駕さえして長方形の穢れの無き両刃の双剣を支える。
生命の輝きを放つ聖剣は裁定を下し続ける。裁定の雫が刃の羽衣より滴り落ち、咎人に罪を改めさせる。

雫は幾学にも描かれる裁きのグリモアを開き、咎人の罪改めるために世界へと懺悔に向かう。
さりとて一度、生を全うして回帰したとて罪はそれだけでは消えるはずも無く、再び悦びも哀しみもない此処でまた新たに罪が積み重なる。
聖剣は幾度も繰り返される罪の輪廻を見守り続けている。それはまるで神ではなく、機械の化身であるかの如く。

迷えし光は剣を慰めるために存在するかの様に、寄り添って初めて動きを止めた。
まるで初めから決まっていたのかもしれない。もしかしたら剣がこの光を求めたのかもしれない。
真実が語られる時は、それ神話として世界が語り継いで読み解く者が現れれば分るかも知れない。

剣は嘆いていた。真なる有様を否定され、見守り続ける破滅へのワルツを。
差し伸べられし手を過去に掴んだものの、助かったのはそれ引き千切られて掴んでいた腕のみ。
最早己が存在を今という打ち込まれた楔を解くのは叶わぬ夢。
唯一の救いは何時とも知れない新たなる息吹たり得る来訪者が絶対者を打ち破る時のみ。

故に迷えし光に孤独な永遠の瑣末なる一時に感謝を。
受け継がれる事の無い想いの継承者に、祝福を込めてささやかなる贈り物を。
迷えし光は聖なる剣より光を贈られ、世界はそれを受け止めた。

聖なる剣は迷えし光をこの牢獄より解き放つべく、己がグリモアを開く。
楔を打ち込みし絶対者に光の存在を知られる前に逃がすべく、己が束縛されし唯一の自由を解放する。
消え行く迷子の光に聖なる剣は話し掛ける。


――もし、我が身が滅びし時までに。再び合い間見えることがあれば話がしたい。

――嘗ての話が主の事。彼方(あなた)の生き様。輪廻の果てより果ての永遠なる御伽噺を。


迷えし光は、それに答えた。


――時はいずれ来る。遠くない未来に。貴様を今という牢獄を開放すべくして。


聖なる剣は、楔の向こうから微笑んだ。


――楽しき一時に感謝を。彼方にマナの祝福の有らん事を。


そうして、迷子の光は聖なる剣によって光の世界へと帰された――。





テーブルに並べられた温かな料理をエリシアは凝視する。
葉の大きな野菜の上に乗せられる薄い輪切りにされたハム。
表面は硬質だが中身は真っ白で見ているだけでもその柔らかさが理解できるパン。
野菜が入っていながらもハムも入れられた事によって香る野菜と肉のブレンドが食欲をそそる。

「それじゃあ、頂きましょうか」

「そうですね。頂きます」

「いただっきま〜す♪」

これらを調理して作った三人は食事にかかる。
スプーンでスープの掬って香りを楽しんで口に含んで自己完結で頷く。
輪切りに切ってあるパンを手にしてその上に野菜とハムを乗せてサンドイッチにして食す味に微笑む。
スープの野菜とハムを共にして咀嚼し、うっとりして味の良さに感激をする。

「………」

エリシアは自分の分として用意された料理に手をつけずに三人のその様子を眺め続ける。
顔には出ていないが今まで自分が知っていた、体験してきた食事のあまりの違いに戸惑っていた。
食事と言えば全てが固いパンに肉スープ。大して料理手法を取っていない粗悪な出来映え。
スープの肉は生乾きとしか表現しようがない肉焼けをお湯に突っ込んでいるだけであった。

「そういえば、お爺さんは帰りは何時頃になるんだろね?」

「久々の鉱山の現場指揮で血が踊っている様子だからしばらくは無理じゃないの?
馬車はそのまま駐留させたまま飛んで帰って来たけど、あそこの管理設備だったらまず問題なく丁重に扱われているエクゥに乗って一人で帰って来れるでしょうね」

「それにしましても、クレスお爺様が働いていた当時かなりのやり手の男だというのには驚かされましたね…」

「確かに…。今回の指揮は当時のクレス爺さんの有能さを知っている責任者たちが見込んでの委託だものね。
今じゃあ、別の意味でやり手になってるけど」

「レイヴンの方は明日中には戻るみたいですし、食材の調達には少し箔をつけます?」

「丁度お風呂の洗剤関係の物も切れかけてたからそっちも忘れないようにしないとねっ」

そして食事の中での会話は新鮮の一言に尽きる。
食事の際だけとは限らないのだが、食事の時は咀嚼する音が周囲を包み込むだけであった。
この様にお喋りをするなど想像も出来なかった。

これを例えるのならば、エリシアの今までのしてきた食事風景は闇。
ただ生きるために栄養を取り、それ以外の要素は全て遮断されていた。
だが今、目の前に広がる光景は光というのはあながち過剰評価として一概に否定できない。
ここには温かさがあり、記憶には寂れた高低の差がある温度しかない。

「―――」

スプーンを手の取り、湯気が立っている香る水をひと掬い。
液体の表面に浮かぶ透明な斑模様は水と相容れない油が覆って熱を外部に漏らすのを遅延させている。
湯気と共に香る匂いが野菜とハムであるのは成分がスープに抽出されている証拠であった。
口に含むと、かなりの熱さが口の中に広がるが、先に飲んでいた粗茶での経験があるで気にならない。
そんな事よりも口の中に広がる野菜の風味とハムの脂身の香ばしさが美味であった。

「――どうですか?」

目を上げると、席の向こうからフィリスが主語を抜かして尋ねてきていた。
聞かずともその内容が今飲んだスープの味についてであり、他の二人も食事を中断してエリシアを見詰めている。
一通り周りを眺めた後、再び手元に視線を落とす。そしてもうひと掬いしてスープを飲んだ。

「――美味しい」

飲み干し、一つ小さく頷いてからそう言った。
答えを聞いたフィリスは微笑み、リアナは満足そうに頷いてシルスは当然とばかりの満足顔で食事を再開する。

「そういえば、エリシアはこれからどうするの?」

ふと思い出したかの様にリアナは食事合い間に尋ねる。

「エリシアの居た鉱山はどう見ても無期限閉鉱だし、エリシアの生存も私たち以外には知らないから死んだも同然」

「………」

「今のエリシアは中途半端な道の分岐点に立ってるよ。どうする?」

そう。今の彼女は今までの存在意義を数時間の内に失ってしまった。
働くべき鉱山がなくなり、同僚のスピリットたちは瓦礫の下。
ただ一人となった彼女は食欲の進む手を止める。

「ワタシは――」

自分でも、これからどうするべきか分からない。
何分、今までの選択して判断するなどあった試しがなかったのだ。
それを察してか、リアナはある提案をする。

「じゃあさ。うちに来てみない?」

「――?」

「他に行く宛てもない。今までの生きてきた鉱山にエリシアの事をこちらから言わなければ万事問題なし。
しばらく此処で暮らしてみて、後の事をじっくり考えてみない?」

「……」

「フィリスとシルスはどうかな?」

和やかに他の二人にも同意を求め、その予想に違わない答えが返ってくる。

「いいんじゃないの? あたしは反対しないわよ。部屋はまだあるし」

「私も賛成です。お爺様もきっと喜ぶでしょうし、レイヴンも反対しませんよ」

「うんうん。だってさ、どうかな?」

再びの問い掛けに、またしてもエリシアは沈黙。

「無理に今此処ではっきりとした答えを出さなくても良いんだよ。
時間を掛けて、自分が何をしたいのか。これから自分が何をしていきたいのをかをじっくり考えてみてよ」

沈黙の向こうから、リアナが優しく意志の篭った言葉を伝えてくる。
その声に自然とエリシアの視線はリアナに固定される。

「まずはしばらく此処に居てみるのはどうかな、ね?」

柔らかで温かい微笑み。エリシアは瞳を伏せて少し時間を置いて小さく、それでいてしっかりと頷いた。
初めて選択にしてこれからの違う生き方の始まりを選んだ瞬間である。

「よーしっ! それじゃあ、食事の後は新人歓迎会を兼ねて皆で一緒にお風呂へレッツだゴー!!」

「リアナ。それが目的だったんじゃないでしょうね?」

突然の大きな声でのリアナの宣言にシルスが呆れ顔で言う。
その言葉にムッとして「失礼な」と反論する。

「新しい住人とさっそく交流を深めようとしているだけなんだから、深くは考える必要ナッシングっ」

「――その心は…?」

「エリシアの身も心も私がこの手でリフレッシュさせるべく、あんな事やこんな事まで――」

隠す気もない返答に質問した本人は溜め息を一つ吐く。

「やっぱりそっちに持っていくのね…」

「シルスも一緒にどう?」

「結構よ「つれないなー」…一緒にしないでよね」

ぶーぶーと抗議するリアナとそれを受け流すシルスの会話にエリシアはまたしても観察する。
これからこんな姿を幾度も見る事になるのだと考えると、自然と肩の力が抜けていくのを自覚する。
顔の表情は変わらないが、幾分か力が抜けている印象も見受けられる。

「エリシア」

フィリスが微笑んでこちらを見ている。

「これから宜しくお願いしますね」

「――はい、こちらこそ」

彼女の笑顔につられてなのか、エリシアは小さくとても判り辛いが微笑んだ。
全てであった鳥籠より解き放たれし一人の妖精は青い空を、広い大地を知り始める。
こうしてエリシアは新たな生き様を求める生活が始まるのであった…。


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