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障壁越しに映る水の姿は固定した形を持たない猛牛。 もっと鮮明な表現をしようにも、身体を瞬時に引き裂く圧力を堪えるために目を強く瞑っているので出来ない。 どうにか、辛うじて、という話ではない。障壁が保っているのが奇跡としか言いようがないほどの衝撃と圧力。 オーラフォトンの障壁自体は制御をするエリシア自身への物理的な反発は存在しない。 だが、障壁の展開には術者の鋭敏なる感性が具現化していると言える程に深い繋がりがある。 そのため、障壁への何らかの干渉にはそのままエリシア自身が感じ取る事となる。 現状のエリシアは地下水の鉄砲水を一身に受け止めているため、身体に触れずとも強烈な圧迫感を感じていた。 「―――っ!!!!」 いまだ数秒しか経っていないのだが、精神の磨耗は極限まで来ていた。 戦闘訓練を受けず、元々障壁防御に向いていないブラックスピリットである事を考慮してもその粘りは奇跡である。 たとえこの大陸で最高の障壁防御を誇るスピリットが同じ事をしても、この数秒を耐えられるかは甚だ疑問だ。 大自然の威力の前では生物はあまりにも脆弱で小さな存在である。 ――…ビッ― しかし、元より耐え切れるはずも無く、エリシアは障壁に亀裂が生じるのを直接頭に感じ取った。 脳内の毛細血管の一部個所で纏めて切れ飛び、頭はスッと軽くなる様な感覚(脳内梗塞みたいな)。 後は走馬灯の様にゆっくりと世界は動いていた。 亀裂を感じると認識した時には障壁は亀裂部分より盛大に破砕し、待っていた水の暴君が全てを攫う。 身体に絡みつく無数の触手は身体の自由を全て奪い、無邪気な子供が人形で遊ぶように身体が縦横無尽に蹂躙される。 意識があるのかどうかなど、狂った奔流と世界が闇の中では平衡感覚は使い物にならないので理解できない。 だが、一つだけ確かな感覚があった。背中越しに抱き締められている感覚。 平衡感覚を失っている今に判断する無事な思考は存在しないために理解し切れないが、意識がある唯一の感覚なのかもしれない。 洪水の真っ只中に居れば、自ずと窒息するのはスピリットとて同じ事。 エリシアが無事なのはレイヴンから渡されて装備させられた管によってそれは免れている。 それでも現状で咥え続けるなど出来るほど意識が保てていないはずだが、背後より伸ばされている手によって口を塞がれていた。 その手の持ち主はエリシアの身体から離れないように固定し、奔流の流れに逆らわずに流されていく。 100km/hはあるであろう地下水の流れでは壁面に擦るだけでも皮膚の大半が削がれ、小さな突起物とぶつかれば生命の保証は何一つない。 無論、蛇行する地下水脈道の中では助かるという考えは観測的希望にしか過ぎず、人ならばそれは通って避けられぬ道。 それでも二対の光の翼を持つ者はエリシアを抱えて翼で舵をとって回避し続ける。 急勾配の曲がり角では特に急な流れの存在が規則的に存在し、そのルートを外す事無く通り抜けていく。 灯火の類など何一つない闇の中で水の流れのみで成し得る神業。五感の内の視覚と聴覚は全く使い物にならない。 生命活動をする動物にとってなくてはならない感覚を失っている中でのそれは生物の領域を超越しているだろう。 「―――」 しかし、水の奔流は彼らの移動速度の単純計算で数倍の速さで駆け抜けてくれた。 彼らは地下水が垂直落下する滝の流れに沿わず、水飛沫を上げて滑空して離脱する。 闇で確かめようはないがそこは先ほどまで流され続けた狭い空間の道ではなく、あまりにも広大な空間が広がっているのだ。 膨大な水の量が流れ落ちる音が空間内で響くが、あまりの広さに反射して反響してこない。 「―――っぁ……」 エリシアを抱えて滞空しているレイヴンは咥えている管を身動ぎ程度しか動かせない手で外して小さく呼吸をする。 滝の音で掻き消されているが、今程度の発声がとても澄み渡る音色となっていた。 それ即ち、滝以外の雑音など存在せずに純粋なる静寂の世界がこの空間の存在定義。無粋な音という存在ほど如実に反応している。 「………」 上段の蒼い翼が肩越しの視線の先へと根本より曲がって展開する。 そして翼の先端より青い光弾が一対分――二発が射出され、闇の中を高速で突き進む。 蒼い光の尾を引いていたが、やがてその光も見えなくなってしまった。 視覚を失って聴覚が鋭敏になる現状で、滝の音が木霊している。 遥か闇の先の一点でで発光現象。光恋しさの幻覚と考えても可笑しくは無い発光だが、それは幻ではない。 発光した一瞬より数秒後。レイヴンの周囲が淡く青い光が包み込んできた。 開けた視界の先には雄大な大自然の縦穴の洞窟が見事に存在している。 滑らかな壁面は長年の風化と水に溶かされて削られ、天井の氷柱は長い年月を彷彿とさせる。 下方は仄かな光では見切れない深さの闇が広がり、滝も闇へと突き刺さっていた。 いつまでも滞空しているのも億劫で、身体も冷え込んでいるので適当に見繕った岩壁の隙間にある足場へ着陸。 滝から幾分か離れているので、水飛沫による冷え込みは心配する必要は無い。 光はまるで洞窟そのものがマナを含んで発光していると見紛う程に淡くハッキリと視認が出来ている。 一体どれ程まで山の中へと入り込めばこれ程までに広大な空間を自然に構成できるのだろうか。 クロウズシオンが居る地下水脈によって構成された天坑とは条件が違いすぎる。 天坑は山肌の底に発生する現象ではあるが此処は遥か地中深く、大河すらもやすやすと突き落とす規模の空間形成は不可能に近いのだ。 そんな空間をレイヴンは一瞥するが何の感慨も湧かなかったのか、濡れた服を脱ぎ始めた――。 |
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Before Act - Aselia The Eternal - | |||
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『こちらブルー。B4-11ポイントクリア、B5へ移行します』 『こちらグリーン、了解。こちらは先にB6へ先行する』 『こちらインディゴ、以下略。B4-05から06への通路は駄目ね。B4-16から再アプローチを行う』 『ブルー、了解』 『グリーン、了解』 大崩落を起こしたミスル鉱山内で移動する者たちの会話。 彼女らは各々別の坑道を通って独自に下層部へと徐々に向かっている。 漆黒の闇を突き進む彼女たちは筒灯火一つで道を切り拓いていった。 事の起こりはリアナの鉱山内部探索結果報告にまで遡る…。 … 「えーーと、う〜〜ん、…っと」 鉱山内で光を発散・収集活動をしたリアナはシルスたちの所に戻るや否や大きな紙を広げて地図を書き始めた。 先の鉱山内での神剣魔法と似て否である様な神剣魔法はレーダーの様なものである。 壁すらもやすやすとすり抜けてしまう光素粒子にあらゆる情報を光として収集させ、ある一定量の情報が集ってリアナ自身の下へと帰還した。 光は一定時間ごとに規則的に情報を収集するので全ての情報を統合すれば鉱山内の地図や現状の把握は容易いものである。 「とりあえずは、即席でこれが私の探査で得られた大まかな鉱山内状況だよ」 ものの数分で書き上げたリアナはアルヘストの地図の上から被せるように広げて見せた。 その大きな紙にはアルヘストから得た地図を考慮した線状の道筋が一纏めにして幾つか記入されている。 覗き込んでいる二人の様子を確かめて言葉を続ける。 「知って通り、鉱山の中では半分以上の通路が閉鎖されてレイヴンが最後に居たであろう場所までの道は皆無。 唯一の生活区画からの進入は奥の部屋ごと崩落した岩で埋め尽くされているから現状を維持したままでは不可能。 無理やり抉じ開ければ出来なくもないかもしれないけど、その時は生き埋めのお仲間なるのを覚悟しなくちゃね」 「あたしが思っていた以上に崩落個所が少ないのは嬉しい誤算ね。 でも、本当にこんな出鱈目な坑道開拓で開通させてたっての?」 「うん、間違いないよ。途中で足元の通路で他の道と繋がってたり、入り組むようにして蛇行してた二つの坑道がやっと合流してたりもしてたよ」 シルスの指摘した所はリアナが幾つもの線が蛇行し、繋がったり上下に分かれているという規則性を見出すのに苦労する模様であった。 リアナ自身は情報を元に統合した結果を書き記しているだけなので、純粋な現場検証の結果である。 それをシルスは知っているのだが、それでも聞きたくなる様なおかしな立体地図なのだ。 「困りましたね。私たちが行くにしてもこれでは…」 レイヴンの救出、という行動を取ろうにもこう道が多くては進行に時間はかかり、未だに続く地震でこちらが生き埋めになりかねない。 「やっぱり当初の予定通りにアレでいく?」 「それしかないでしょう、ね」 思案するフィリスと同じくして初めから予定して行動の決起への意識をリアナとシルスは高める。 その事に関してもフィリスも同様に思っていたのだが、それ自体もリスクは高い。 故に一度リアナに鉱山内部の探索を行ってからの決定に遅延させていた。 「…行くのかい?」 彼女達とアルヘストが居た部屋より帰還してから邪魔にならないように隅で静か(着替え中は無論、外)にしていたクレス老人はここに来て始めて尋ねた。 彼の声に三人とも清々しく、そして曇り一つない力強い意思を乗せた微笑を向けたのだった。 その表情を見た瞬簡に、今の自分の確認の言葉はあまりにも余計お世話であった事を思い知らされた。 彼女たちは虐げられる種族でありながら、卑下されてきていながらも何処までも強い存在である事を――。 「お爺様。行って参ります」 「こんな時だからってあたしたちの見ていない所で余所の娘に手を出したら承知しないわよ?」 「そっれじゃ、いってきま〜す♪」 各々いつも通りの出かけの挨拶。荷馬車より降り立っていく後姿に、年甲斐も無く身体が疼いた。 隠居してより早幾十年の我が身でありながらも、彼女達のその穢れ無き何処までも進み続ける迷いの無い後姿に血が湧く。 それを自覚し、苦笑してこの気持ちを反芻する――だが、するまでも無い事であった。 「さて、のう…。わしも久々に若かりし頃の真似事でもするかのう――」 … 荷馬車を待機させていたのはミスル鉱山入り口付近の繋留所なので目的地のミスル鉱山入り口まではそれ程遠くは無い。 元々利便の良くない立地条件なのでせめて交通の便や管理は徹底して効率的かつ駐留条件を良好にさせていた。 周囲はミスル鉱山の一角が大崩落して機能麻痺を起こし、業者や鉱山夫が慌しくしているのでフィリスたちを気にする者は非常に少ない。 なので、彼女たちは彼女たちで予定を話すのに邪魔が入らずに済んでいる。 「じゃあ、突入後のコンタクトは回線348.94で。内部構図は頭に入ってるわよね?」 鉱山入り口前。既に誰も近づかず、全員が退避しているためか入り口からの人の気配が皆無であった。 三人は神剣を各々手にして呼吸を整える。中に入ってしまえば、そこは既に危険地帯なのだから油断はしない。 「おーけーおーけー。それじゃあ、一丁行くとしますか」 「はい。各々御武運を」 背後より出現・展開するウイングハイロゥと同時に三人は入り口の中へと吸い込まれるように消えていく…。 鉱山であるのだから鉱脈を捜し求めて掘削し続けた結果、数多の坑道を鉱山内部に生じさせた。 その結果が大崩落という結果に繋がったが、それもまた逆に助かっている。 通う道が多ければ目的地へと届く道筋もまた多い。探索でレイヴンの生存と他の生存者を確認し、その要因もそれに順じたものであった。 実際には天然の水脈道であるが、それを任意に応用している個所もあるので坑道と同じ定義にしている。 初めは同じ場所を通っていた三人だが、別の坑道への入り口に差し掛かると一人、また一人別行動をとっていく。 灯火は常時点灯しているので採掘が行われている付近までは明るさの上書きをしていたが、使われない坑道に入った途端暗闇の世界である。 胸元より行く道を点灯させている筒灯火だけが彼女たちの光の便りで飛行して下層へと突き進む。 冷たい空気を切り裂いて進み、湿気の多さで体感する空気の圧力は重く冷めたモノであった。 今来ている服装でなければ30分もせずに凍傷に陥って身動きが取れなくなってしまっているだろう。 リアナの情報によって順調な道なりとはならず、地震が断続的に起きているので後に封鎖されてしまっている個所が非常に多い。 人の手によっておざなりに補強されてもいない区画もあるので、脆い場所は耐え切れる要素は何一つ無かった。 そのために行っては引き、戻って新たな道を進んで遅々ながらも下層へと下がっていく。 お互いの情報流通は常時行い、道が合致した際の事前情報として情報を共有しあう。 離れていながら、しかも鉱山内の完全に声の届かない領域でありながらも、神剣の能力を駆使して可能としている。 言うまでも無い事だが、これを実践可能領域まで機能させたのはレイヴンである。 神剣のマナを求めて一定距離の範囲内で他のスピリットを探知できる性質を応用したモノとの事。 ある特定の波長を電波の様に擬似的に発信し、それを神剣に傍受させる手法である。 発信から受信までの距離概念は事実上皆無に近く、これは存在概念体である神剣特有の概念同士の距離概念が近似関係だからなのだ。 神剣は独自の個として現存しているが、それはスピリットという個体に依存、つまり契約して始めて独自の個として存在する。 つまり神剣同士の会話に距離は無く、神剣の声が契約者の意識に問い掛けるのと同じ状態にある。 『こちらブルー。B6へと移行、地理的にはグリーンのB6-06に隣接している模様。 こちらの通路は閉ざされているため、一度そちらに移動する』 『グリーン、了解。移動の際に振動に注意されたし』 『ブルー、了解』 フィリスは曲がり角の先にあるであろうリアナが一度通過した通路に入るべく、『雪影』を構える。 刀身が超振動を起こし、振動熱を強制的に発散させて冷気を纏わせて飛行速度をそのままに突撃をする。 虚空で二撃振り、刀身よりカマイタチの様に冷気が角の壁へと衝突、クロスするように交差して着弾した冷気は壁面を瞬時に凍結。 急速に周囲を凍らせていき、冷却による凝固で至る所で壁面が軋み声を上げている。 冷気に数瞬遅れてフィリスが角へと到着し、『雪影』を目的の壁面に特攻して突き立てる。 大きな抵抗はあったものの、凍って軋んでいた壁は意図も容易く隣の通路へと吹き飛び、フィリスは大きな振動を与える事も無く通過した。 砕けた壁は衝撃を受ける毎に細かく砕けていき、残された壁は硝子の中央を割った様な幻想を思わせる形で固定している。 その様子を背中越しに一瞥して構造的に問題がない事を確認したフィリスは更に下層へと向かうべくしてウイングハイロゥを加速させた――。 |
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「………」 エリシアは目の前で燃え盛っている炎をじっと見詰めて身体を温めている。 今の自分は下着のみで着ていた服は炎の傍で乾かしている。 地下水に飲み込まれて流されたのだから服はずぶ濡れ、早く乾かすために全てを脱ぎ去った。 近くで同じ目に遭ったレイヴンは下はそのままに、上半身だけ裸になって何かの作業をしている。 無駄のない肉付きに着痩せでもするのか、直に見ると服を着ているよりその背中は大きく見える。 腕を、上半身を、首を動かす度に動く筋肉に羨ましく思えるしなやかさが伸縮している。 「………」 レイヴンのその様子を見ていると、身体が疼く。 身体の芯から落ち着かない自身の状態に自分は理解できないでいる。 このまま見続けるのは良くないと判断し、目の前の炎へと視線を戻した。 エリシアが目を覚ました時にはまずは自分が生きている事を自覚し、レイヴンも無事であった事を知る。 今までは灯火以外は闇だった周囲が今の広大な空間は淡く光り、焚き火の様なもので身体は冷えずにいた。 焚き火の傍にレイヴンの外套と上着が置かれていたので、自身の服を見下ろして自分も乾かそうと脱ぎ去って現在に至っている。 エリシアたちを置いて闇の中へと逃げていった二人のスピリットの生死は不明。 自身がどの様にして助かったのか知らないが、彼女たちがあの状況で逃げ切れるはずもなく、溺死か激突死で消えてしまったと見るのが最善だろう。 無意味な希望的思考はこれからの行動の枷となってしまう。故に今、自分が焚き火を見詰めてじっとしている。 「飲む気力はあるか」 声をかけられ、レイヴンの方へと改めて顔を向けると片手に持った透明なコップに注がれている赤紫色の液体が掲げられている。 それが如何なるモノの結果として存在しているのか甚だ疑問を感じずにはいられない色合い。 エリシアは立ち上がって近づき、傍に腰を降ろして受け取った。匂いは皆無。だが、逆にそれはそれで危険な気がしなくもない。 「―――――」 「気付けには丁度いい味だ。頭に叩き付けが来るだろうが、栄養価と効果は保障できる一品だ」 つまり味は考慮されていないとの事。エリシア自身にしてはかなり長考し、腹を括って一口。 言われた通り、頭にぶん殴られる刺激が襲ってきた。体がぶっ倒れるイメージがあったが、実際には口をつけた姿勢のままである。 その後も二口、三口と口に含み、喉を鳴らして胃へと送り込んでいった。 慣れれば覚醒剤として機能し、冷たくなっている身体を身体の内より温まっていくのを感じる。保障は事実の様である。 「…貴方は――」 コップを持つ両手を降ろし、自然と言葉を発する。 何の打算も考えていない純粋な興味を言の葉に乗せる。 「――貴方は、何…?」 顔色は常に仮面の如く無表情。瞳の光も平坦といえる程に冷たく暖かくもない。 それでも今までの彼女を振り返れば、驚愕に値する質問であった。 だがそれは無論、レイヴンの知る由もない所だが見詰め返している。 「それは随分と抽象的な質問だな。つまり、貴様は俺に何を求めている?」 逆に問い返され、視線を手のコップの中で水面を作る液体を見詰める。 「…人間はワタシたちを使役する。それが採掘道具であろうとも、遊戯人形であろうとも。 人間に使われるのがワタシたち。ならば、それに順ずるのがワタシたち。 だが、貴方は人間に順ずるべきワタシたちの認識に該当する所がない。 ―――貴方は……ワタシたちの、何…?」 人間はスピリットを道具、ないしはそれに近似した言動を取って接してくる。 それは当然の事なのだから当たり前なのだ。しかし、レイヴンにその当たり前を“されていない”。 人間ならばスピリットに命令して脱出の道具とするだろう。水を用意させたり、ストレスの捌け口で抱くであろう。 鉄砲水を止めさせるための生け贄にして地震の盾にする。そしてさらに奉仕を命ずる。 だが、レイヴンはこれをしない。むしろその正反対な事ばかりをしていた。 相手の顔色を伺う生き様が全く役に立たず、こちらの心情を大きく掻き乱してくれた。 そう、エリシアは今までとは絶対の異する眼前の人間に戸惑っているのだ。 「違うな」 だがそれを一言で否定し、打破して打ち砕かれた。 色のない瞳が此処で初めて大きく揺れ、生まれて初めて動揺というものを経験する。 「貴様はそんな建て前を聞きたいわけではないのだろう? ならば聞きたければ聞くがいい。 貴様が聞きたい、本当に知りたい、理解したいと“想う理由”を――」 ――揺れた。どうしようもなくワタシは、震えた。 顔色は今も全く変わらないでいるが、瞳の瞳孔が大きく開いている。 沈黙しているのだが、その実は頭が真っ白に近い状態に陥って思考が停止しているだけだった。 ワタシは一体何を聞きたかったのだろうか?――判らない。 何を此処に居る人間に教えて欲しいのか?――分らない。 ワタシは彼に何を求めているのだろうか?――解らない。 分らない解らない判らないワカラナi―― ―… ……? ――『何ヲ求メテイルカ?』…? 何かが引っかかった。今まで思考の全てを費やしてきた理屈や打算ではない何かが。 言うなれば、“直感”であろうか。これこそが今ワタシが知りたがっていた事だと。 その部分に意識を置いて引き上げようと試みるが、なまじ知らなかった感覚ゆえに掴めない。 もどかしいという感覚は無いが、何かを掴めたのに掴み上げられない現状に他の思考だけが大きく蠢く。 「―――――」 「………」 沈黙が場を包むが、微妙に緊張感を漂わせる。 現状を体現するかのように焚き火が音を鳴らして火花を散らす。 冷気が彼らの肌を舐め、吐き出される白い息がこの場に溶け込んで見えない場の空気と化す。 答えの出ない答えに時間だけが過ぎていく。 此処に延々と居座るわけでもないが、現状ではずっと此処に居るような錯覚を今の彼らからは見せ付けられる。 しかしそれも、彼らに課せられた試練は痺れを切らした様であった。 軋み上げる空気と側壁。身体を駆け巡る電気信号にエリシアは身体を強張らせる。 レイヴンは自分のコップに口につけて飲み、平然としている。それをしている間も軋む音は増え、大きくなっていく。 既に目に見える形で壁には大きく深い亀裂が浮き彫りになり、遂には今居る床までもが裂け始めた。 「どうやら第二波をかけたらしいな。まさしく愚考。傷に塩を塗るとは何とも浅はかな」 甲高い亀裂していく音にエリシアの耳には届いてはいない。 しかし、聞けたところでその意図するものを理解できないだろうが…。 「――問おう」 静かな声で問い掛けられて、エリシアは事態の把握に周囲を観察していた瞳をレイヴンへと向ける。 「貴様が何を知りたいのか。それを知りたくば生き残ってみろ」 激震が亀裂を大いに刺激し、焚き火が落ちた。床が抜け、その上に在る物が全て空中に放り出される。 一瞬の浮遊感の後に落ち行く自身の身体。数秒のタイムラグを置いてウイングハイロゥを展開、滞空を試みた。 しかし、見上げた先の光景に、崩れ行く壁の岩と同じベクトルで移動をするしかない事を思い知らされる。 落ち行くのは何も特異で配置的に崩壊し易いだけではない。 大きな亀裂と振動があれば脆くも崩れ行く物は崩れ行くのである。 ――遥か上空からも、崩落する岩の雨が次々と降り注いでいるだ。 重力に従って落ちてくるそれはまさに圧巻。避けられるスペースなど、微塵も感じさせない程に迫り来る物量。 ましてや重い物ほど重力加速を得られるので大きな物が視界内に鮮明に映って回避不能の意識を植え付けさせる。 自らも同じく落下している状態ではあるが、重力加速度がまず違う。逆に微細に緩やかとなって迫るので視覚的効果で恐怖をより一層煽ってくる。 ウイングハイロゥの力で下へと加速する。上は落石の岩で埋め尽くされているのだから、下へ向かって活路を見出すしかない。 既にかなりの落下速度のために翼の効果は薄かったが先ほどまで足場だった落石に追い越いつき、とある物体に目が行く。 エリシアの視線は背を下に向けたまま上を見据えたレイヴンの姿。 彼に倣ってもう一度見上げると、毛穴が萎縮するし、身体中に怖気が走った。 引き離せたという勘違いで一時的な現実逃避は無意味なのを知る。既に大岩は目前に存在していた。 質量が大きいほどに落下速度は大きくなるのだから、この結果は当然であった。 地面は未だに闇の底。上方の岩に巻き込まれれば助かる術は無く、エリシアは自身の神剣を抜刀する。 先陣を切る大岩は軌道が分かっているので楽に避け、次陣を出迎える。 隙間はまだ大きく存在し、避けられる物は避けて突起物を斬り飛ばして剥ぎ取って回避。 徐々に岩の量が増えて避けられるスペースが激減していくが、どうにか避け続ける だが、飛行機動など未経験なエリシアは、翼性制御の慣性に振り回されていた。 「―――っはぁあ!!」 息一つつく間に目と鼻の先には岩の表面。 長い刀身を振るって縦に両断し、拓いた間に身体を通すがその向こうにはまた岩。 一秒の間に4〜5個は優に相手をさせられ、なまじ斬るのは容易いが圧倒的な量を前にして精神を擦り切るように磨耗させている。 狭い穴での負傷は尾を引き、多少睡眠を取っていても気休め程度にしかなっていない現状である。 斬り間に合わず、避け切れずして岩に身体の至る個所が激突して弾かれて他の岩でバウンドして同じく落ちていく。 鮮血が宙を舞い、金色に飛び散るのを目にするが、そんな事を気にしている暇は皆無である。 翼を動かして今にもぶつかろうとした岩を避け、再び迎撃の姿勢を整えようとする。 嘗てないほどの緊張感に危機感、生存本能に生への渇望、意志の体現がワタシの心を燃え滾らせている。 「――――っ!!!!」 目の前に広がるは視界の全てを覆い尽くす大岩の壁。 避けられるタイミングではない。後退しようにも、既に現在の落下速度以上の速度は出せないので無駄であった。 両手を交差させて衝撃に供えると、次瞬には横から身体を持っていかれる感覚に襲われるが激痛はなく、変わりに暖かな感触である。 閉じた瞼を開けると、視界に映るのは岩ではなくレイヴンの顔。今、自分の身体は彼に抱き締められているのだ。 レイヴンは身体は反転させ、強引に発生したベクトルに引っ張られて違う空間へと移動し出す。 身体の空気抵抗を応用したとしても、ここまで急激な動きや不可能なはずだが、動いて岩を避けている。 よく見れば彼の腕が止める事無く振り回され、その度に微かに煌く細い糸が見えた気がした。 再び振るわれた腕は斜め上へと向けられており、その先を見ると真横より直上に突き進む小刀が。 糸はこの小刀に括りつけられているようで、岩に突き刺さってワタシたちを追い越して岩ごと落ちていく。 すると当然糸が張り詰め、二人の身体は大きく弧を描いて軌道を変える。 彼は糸と繋がっている腕をまた振るって刺さった小刀を抜き去り、新たな上方の岩へと飛翔していく。 曲芸を披露する様に跳び回り、時には直に足をつけて岩を避け、駒の様に回転をして直撃の岩を手に戻した小刀で突破口を易々と切り開く。 あまりの回転と絶え間ない落下機動にエリシアは既に平衡感覚を完全に狂わせて目を回さないようにするので精一杯である。 今、自分の危機的状況を辛うじて認識し続けるが、最早彼に託すしか生き残れる道は無かった…。 |
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物体の重力加速とて無限ではないが、それでも数百メートルの高さをものの十数秒で看破できるはずの現状なのだが、未だに底は見えない。 レイヴンはワイヤーの先にダガーをくくり付けて即席のワイヤーアンカーで岩を避け、時には直接裂いて回避する。 初めはエリシアと別判断で動いていたが、結局はレイヴンのワイヤーで彼女は助けられ、今では彼の身体には張り付いている始末。 二人分となった重量を即座に考慮したワイヤー機動で避け続け、今は岩の横に突き立てたダガーを掴んで小休憩。 この岩は緩やかに落ちる無回転な岩なので、上の岩の警戒で済む。下方を見れば闇が薄らいで粉塵が舞っていた。 底が間近に迫っている。レイヴンは目を細め、ある一点に着目した。 ダガーを引き抜いたのと跳躍したのは同時。そしてそのままの勢いで斜め下方へと再び投げつける。 ワイヤーを引いたダガーは投擲者の意志のままに直進し、壁面に突き立つ。 弛んでいるワイヤーは下へと垂れていくが徐々に張り詰めていき、完全に張るとレイヴンの身体がダガーを基点に弧を描いて落ちていく。 レイヴンは落下速度を真下から横へと変換していくために視覚的にも速くなっていく岩の滝を横切っていく。 粉塵の中へと身を躍らせ、身体にぶつかる抵抗を堪えて斜めに突き進み続ける。 既に落下ではなく横滑り状態で落石の間を通り抜けていく。砕けていく岩の音が間近で聞こえ、空気が衝撃を与える。 身体全体を駆使してワイヤーを持つ腕を振り、ダガーを強制的に抜いて手元へと引き戻していく。 当然、自由になった身体は落下速度を上げていき、レイヴンはエリシアを庇うように身体を丸める。 下であった背中にかかる圧力は金属の床を思わせる滑らかさだが、その分圧力に余剰が見込めない。 落下速度を横ベクトルへと移していたので地面を横に滑っていく。 減速はしているだろうが、吹き上がる飛沫がレイヴンに掛かっている速さを物語る。 滑らかで飛沫が上がる床、それはつまり地面は大きな地底湖であった。遥か上方で彼らを押し流した滝の真下なのだから、当然である。 降り注ぐ岩の滝の中を一直線に壁際へと――それも穴が開いているポイントへとそのまま進み続ける。 進行方向の上方に大きな岩が彼らの道を、彼らを潰すかしないかスレスレなタイミングで迫り来る。 身体を低く沈め、身体に接触する時間を稼ぐ。ダガーは未だに戻りきっていない。 ――落着、轟音、爆砕、衝撃、爆発。 レイヴンの髪の毛を掠めたものの、無事に潜り抜けて横穴へと滑り込んだ。 戻ってきたダガーをワイヤーで腕に吊り下げ、抜き出した『月奏』で入り口の天井を青い閃光で突き刺し、崩落を引き起こす。 次々に崩れていく天井が口を塞ぐのを見届けられずにエリシアを抱いたレイヴンは砲撃の反動で横穴の中にまで続く湖の中に水飛沫を大きく上げて沈んだ。 隔離された横穴は断続的に轟く振動以外は静寂で包まれ、何処まで静かで冷たく存在している。 漂う冷気は至る所に剥き出ている氷壁を撫で、天然の冷凍庫を作り出していた。 氷の世界に長きに渡り、誰も知るはずの無い物が息すらもせずに眠り続ける聖なる領域。 氷の奥で、彫刻のように眠るその巨体を―― |
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