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Before Act
-Aselia The Eternal-

第ニ章 バーンライト
第十話 「 訪れる朝日 」



ラキオスによる総力戦ともいうべき急襲は失敗に終わり、自ら自国の戦力被害を拡大しただけとなった。
この件に関しての両国の停戦を結び、この戦闘も今までと同じくラキオスとの戦闘の一つとして記録されるだけである。
無論、その記録の中にスピリットが何人死亡したのかは全く記載されておらず、ただ戦力が落ちた上回ったとしかない。

過去のこの大陸で起きた王位継承戦争においても、かの有名なエトランジェが宝剣を用いて絶大な力を振るった以外に具体的な記述は無い。
むしろそれは御伽噺的な歴史しか残されていない。この時にも当然スピリットは存在し、戦闘の最前線で戦っていたであろう。
それらの記述が全く残されていないのは少し語弊があったが、残されている記述はスピリットの研究資料としてしか残されていない。

そしてそれから読み取れる事は、数多のスピリットが戦場へ赴いてマナへと還り、実践記録を基に更なるスピリットに応用されてまた戦場に。
この世界のみならず、人のみにもあらず、生き物は経験によって情報を収集し、それを基に応用していく。実際に使って使えるかどうかを見極める。
即在も資料からは何百通りの訓練方法があり、それはつまり何百のスピリットが王位継承戦争でマナへと還っていった事になる。

訓練に組み込まれた規模一つに少人数である事が前提であり、実際には数倍のスピリットがマナの霧となった事は確実であろう。
もしかすればサモドアに住む全ての人の総人数を既に上回っているかもしれない。少なくとも小さな規模の集落を幾つか形成するだけの人数には達しているのは断言できる。
それでも人は何の気にも止めない。戦争はスピリットがやるもので、それを指揮するのは国の御山の大将だけの事。

――それは当然であるから。

人は何故、そのような感情を自身たちと同じ容姿をするスピリットへと向けられるのだろうか。
むしろ同じ容姿をしているからこそ、そういった事を可能としているのだろうか…。

「――言うまでも無い、な」

サモドアを囲う外壁の頂上に腰をかけながらレイヴンは一人、手にして開いていた分厚い本を片手で閉じた。
外壁の周囲には朝露によってもうもうと白い靄が掛かっており、サモドアの街は未だに眠っているために静寂が辺りを満たしている。
夜明け前という時間よりまだ少し早く、あと少しすれば街は再び喧騒に向けて人々が蠢き出す。

「一世界の事象の流れは調整され、集団の中における自意識への知覚認識能力の低下。後は――」

太陽が地平線にあるラシード山脈から姿を現し出す。
薄っすらとした光の靄の中から点の光が、そしてそれは線へと変化して太陽の丸い輪郭が浮かび出す。

靄でその輝きに色あせた風景を自然にかもし出し、辺り一面に暖かく柔らかい光を注がせる。
街もその光を浴びて靄の加減によって光のカーテンを作り出し、乱反射によって街中に真っ白くなっていく。

中央に見える城は細かな輪郭を光で隠され、まるで御伽噺に出てくるかのような綺麗な外装となっている。
城の頂から見下ろせば街は鮮やかな光の祝福を受けているように見えるだろう。そして今、レイヴンが居る所から城がある方を見れば――

「劣等感による自身の尊厳の維持」

光のカーテンによる輝きとともに天へと立ち上る金色の光の柱が見えてくる。
サモドア山道における戦闘が終結してから数日後。バーンライトはエーテル返還施設の総本山を一時機能停止。そして新設備での再稼働。
今立ち上っているマナの柱は新たなエーテル変換施設が正常に可動している事を示していた。

以前に比べてその柱は細くなっているが、その輝きは以前以上。
今は各地方への連結調整の真っ只中であり、ラジャオンとセムディアンは忙しく動き回っているだろう。
この国の領土の被害は無く、懸念された全ての現象は何一つ起こらずに成功を収めた。

人々は何も知らない。

ただ一人の人間が成功の最貢献者であり、それを可能したもう一つの存在の事を――。

……………
…………………

朝。太陽が地平線より完全に上り、朝を迎える。
バーンライト城の一角にある部屋の窓からもそれは確認でき、日の光がその部屋を明るく照らしていた。
とある部屋の一つ。その部屋は広々としていながらも最低限の装飾品しか備わっておらず、比較的に質素と言えるものである。

「――っ…」

窓側に設置された大きなベッド。それはこの部屋唯一の装飾が施された家具と言っても良い。
そのベッドには今、毛布に包まっていた人物が日の光を浴びて今日一日の活動のために蠢く。
毛布の中に包まっていたその人物は片手だけを露出させ、何かを探してもぞもぞと手探りをしている。

やがて目的の物に手が触れると、それを毛布の中に引きずり込んだ。
それは上着であり、今着込んでいる服を脱いで毛布の中で簡易に着替えている。
毛布の中で少しの間蠢き、直ぐにそれは収まって毛布から顔を出した。

「……うむ。今日は清々しい一日になるだろう」

――布団から出てきたのは眠気眼のジェイムズである。

――期待していた人は残念でした。これは仕様です。

「おはよう御座います、ジェイムズ様」

「うぬぉ!?」

窓を向いていたジェイムズの背後から突然かけられた声に驚くジェイムズ。
目覚めの心地良い眠気が一気に吹き飛んでベッドの上で後ずさり、石造りの壁に背をぶつけて声の主を確認する。
そこには直立不動でベッドの脇に佇む黒を基調とした白のレースとエプロンを着けたメイド――メラニスがそこに居た。

「朝食の時間まではまだ時間が御座います。軽く飲み物でも御用意致しましょうか?」

「――メラニス。何時からこの部屋に居た?」

「ジェイムズ様が手探りで上着を探している辺りからです。上着がベッドの下に落ちていましたのでお渡ししました」

「……そうか」

「先の一件に関しまして区切りがついて初めてのお休みです。
何か直ぐに成されなければならない事務は御座いませんので今日一日御ゆっくりして下さいませ」

メラニスは軽く会釈をし、ジェイムズは内心ハラハラさせて身だしなみを整える。
彼の場合はただ単に形の崩れた髭を直しているだけに過ぎないが、彼にとっては重要な事であった。
その髭は今に地位に就いた時にはちょび髭であったが数多の仕事を共にした言わば戦友であるのだ。

「うむ、ご苦労。しかし何故お前はその服を着ている? 既に私の世話係は辞しているはずだが?」

メラニスはジェイムズの秘書になるに当たって以前の職は辞職していた。
高官の秘書ともなれば常時激務となって副職を行うなど到底出来る所業ではない。
なのに彼女はジェイムズの世話係をしていた時の服を着込み、今此処に立っている。

「いえ、職自体は臨時に雇われる様にさせて貰っただけです。私自身の時間の空きがある際にはこうして仕事をしています」

そう言ってメラニスは目を細め、ジェイムズを軽く睨む。
その責める様な視線を向けられたジェイムズは何とも言えない寒気を感じた。

「ジェイムズ様はご自身が部屋の装飾などに気を使われない事は承知しています。ですが今ある装飾に目を向けても宜しくはありませんか?
お気付きになられてはいないでしょうが、この部屋の装飾は世話係をしている皆さんが好意でして頂いているのですよ」

「ぬ? そうであったのか…?」

辺りを見回してみると、確かに彼自身が見知らぬ装飾ばかりであった。
今さらながら気がついた自身の上司に彼女は自分の頬に手を当てて溜め息をつく。

「――そうなんです。私がジェイムズ様の秘書となってからも度々模様替えを致しましたが全く気がついてきれませんでしたね…。
さらに言わせて頂くならば、ご自身が着ている服も少し前から変更させて頂いた事にも全く気づいていないですし」

ジェイムズは今自身が着ている服を見下ろした。
以前の彼の上着は白一色の簡素なものであったが、今着ている上着には金色の刺繍がされている。
今さらながら彼は身の周りの変化に気がつき、何とも言えない気分にさせれた。

「――何時の間に」

「ジェイムズ様はご自身の事にはあまりにも無頓着過ぎます。
既に身を固めていても十分ですのに忙しいからと言ってことごとく縁談を断っていますし」

「待て。それは私個人の問題であってメラニスが口を挟む事では――」

言葉の途中でメラニスがジト目でジェイムズの顔に近づける。
口を噤んだジェイムズは非常に居た堪れない気持ちで一杯となり、視線を彼女からツツーと逸らす。

「大いにあります。普段からちゃんとしていればジェイムズ様の世話をする皆が苦労せずに済むのですから。
女性の世話係というのは身の回りの掃除や給仕だけでなく、夜のお世話まであるのですよ?」

「ちょっと待て! それは――」

「ジェイムズ様がそういう御方ではない事は皆も知っております。
ですが何時までも身を固めない主人に皆は淡い期待を寄せてしまうのです!」

「むぅ…」

「丁度良い機会です。朝食が出来るまで少しの間、今後について少しお話を致しましょう。これも“秘書の勤め”です」

「ぬぐぅ…」

「宜しいですね、ジェイムズ様?」

褐色の少女はニッコリと微笑み、対するジェイムズは冷や汗をたらたらと流す。
心地良い目覚めと久方の休日の出だしは予期せぬ災難となった。
彼は今にでも彼女の背後のある扉から自身の最高に頼もしい部下が現れる事を切に願った。

こちらが望めばそこに突然現れて様々な難題を解決してくれる彼を。
だがしかし、ジェイムズの願いも虚しくその扉は朝食の準備が出来た事を知らせに来た給仕が来るまで開くことは無かった。
この時ほどに頼れる部下に失望した事はなかったという…。恨むぞ、メノシアス。

「ジェイムズ様? ちゃんと聞いていますか?(ニッコリ)」

――誰か助けてくれ。


……………


両国の損害は双方ともに大きく、特にラキオスは精鋭の半数以上を今回の戦いの失ってしまった。
バーンライトの方でも伏せていた新戦力を投入して巻き返すも不完全であったために被害は少し大きい。
首都のサモドアでは戦闘の事後処理に城は何日もゴタゴタとしていたが、その何日が過ぎれば直ぐに静けさを取り戻す。

司書が居なかった図書館はもう既に司書が通常の仕事に戻り、ポツリポツリと図書室の中で人がまばらに点在している。
再び人が戻ったこの部屋の隅では以前とは違う事が起こっていた。あまり人が踏み込まない一角にこんもり積もった本の山。
そしてそれに囲まれて本を読んだりテーブルに置いた紙と睨めっこしている少女が三人居た。

「それなりに自由に出入りできるようになったからってこれは無しでしょう」

黒髪の少女、シルスは自身の足の長さよりほんの少し高い椅子の上で足をブラブラさせて愚痴る。

「でも、口実がなければここに居られる理由はありませんよ?」

緑髪を三つ網にしている少女、リアナは手元の本から視線をシルスに向けて答えた。
彼女の傍らでは蒼髪の少女、フィリスが本をテーブルに立てて置いてある紙の顔を突っ伏して微動だにしていない。

「そうだけど……それよりもその子、生きてる?」

シルスは先ほどまで聖ヨト語の書き取りをしていて、先ほどから今の状態で居るフィリスを指差した。
リアナはニッコリというよりも少し苦笑いを混じらせて言う。

「死んではいませんが、頭を使いすぎて寝てます」

立てている本を退かせるとそこには少しうなされながらも可愛らしい寝顔を覗かせていた。
リアナが髪の毛を撫でるとうめきながら身をよじらせ、それを見てシルスは苦笑混じりに溜め息を吐く。

「スピリットのあたしが言うには変かもしれないけど、何と言うか…平和ねぇ」

「…そうですね」

朝を過ぎて暖かな湿った風がこの部屋一帯に流れ込んでくる。
飛ばされそうになったテーブルの紙をスピリットならではの早業で掴んで防ぎ、上に本を乗せて対策を施した。
こういった部屋を利用する人間はスピリットに構う者も少なく、人数そのものも少ないために今の静かな時間を彼女たちはゆっくりと過ごせている。
最も、今の彼女たちの周囲を囲っている本の山が課題となっているが、それは眼中の外になっている。

風が彼女たちの長い髪を撫でている時にシルスはふと思い出した事があった。
視線をリアナに向けると彼女は風が吹き込んできている窓を眺めている。
その顔は幼いながらもシルスよりもずっと大人びており、その琥珀色の瞳は憂えていた。

「――リアナ」

「はい?」

こちらに向けられる微笑み。先ほどの瞳の見えた憂いはその奥に引っ込んでいる。
その事にシルスは眉を少し顰めるが、それを意識的に解いて続けた。

「レイナって子の事なんだけど…」

「――っ…」

彼女の微笑みが一瞬凍りつき、呼吸も止まった。

「何度かその子について話をする時のリアナの反応が少し気になったの。なんでか教えてもらえないかしら…?」

「……そう、ですね」

少し重くなった動作で隣で寝ているフィリスの頭を撫で、少ししてリアナは小さく頷いた。

「シルスには教えておいた方が良いかもしれませんね」

「無理しているんなら、言わなくてもいいのよ?」

リアナは軽く顔を横に振り、両手を自身の胸に当てて目を瞑った。

「大丈夫です。聞いて下さい」

そして彼女の口から語られるレイナというスピリットについての事。
自分と常にあり、一緒の時を他のスピリットたちよりも過ごしていた事を。彼女が神剣魔法を使うごとに飲み込まれていく事を。
そう長くないうちに感情の起伏が無くなり、遂にはお互いに笑わなくなり、そして互いが他人へとなっていった事を。

そんな時に、彼女達は出会った。彼に――レイヴンという男に。

「レイヴンは私たちが知っていたどの人間とも違う人でした。彼は私たちの訓練のために山篭りをしました。
あの時はやる事成す事全てが新鮮で、楽しかったです。そんな中でレイナは笑顔を、自身を取り戻していきました」

「……ちょーーっと質問いい?」

小さく挙手をして口を挟んだシルス。冷や汗を頬に一筋流している。
言いたい事がわかったリアナは「どうぞ」と先を促した。

「その山篭りって、前にフィリスが言っていたエヒグゥ跳びとかいうやつをやってた時の…?」

「半分正解。この時はまだ彼が訓練士として新任してきたばかりでフィリスと私、そしてレイナの三人だけでした。
その後直ぐにレイヴンは正式に訓練士として他のスピリットたちと色々な訓練を受けていたんです」

「今よりも凄かったの?」

リアナは少し思案するが、顔を横に振って答える。

「彼は常に手厳しい訓練をするので、現在進行形で訓練内容は綿密になってますね」

「それってつまり、あたしたちは常にヒィヒィ言って訓練を受けるはめになるわけね…」

テーブルに顔面から突っ伏したシルス。
今まで受けて虐待とも言っても過言ではない訓練地獄を思い返して苦虫を潰したような顔をテーブルで伏せている。
あんな訓練がいつも続くとなる事を想像しているのだろう。そしてリアナの話は続く。

「それからしばらくして、彼の下に指令が下りました。龍の討伐について――」

「――無謀も良い所ね。そこでレイナが…?」

「ええ。最後の最後で倒す事は叶わず、レイナだけがマナへと還って行ったんです。
その後はフィリスとレイヴンと共に山越えを。そこでシルスとも出会ったんです」

話し終えたリアナの表情には少し無理をして笑っていた。
シルスは何か気の利いた言葉でもかけようとも考えたが、どう言葉にすれば良いのか分からずに口を噤むだけである。
そんな彼女の葛藤に気がついたのか、リアナは少し嬉しそうな笑みを含ませた。

「気を遣う必要はありませんよ? 今もこうして私もフィリスも生きている。それだけでもあの子が生きていた証なんですから」

「…敵わないわねぇ」

リアナは強い。少なくともあたしよりも。
今の彼女の心に中に悲しみを有しているものの、シルスがどうこう出来る問題ではない。
羨ましくもあるが、同時に何もしてあげられない事に悲しくもあった。

今も自分の思いにまだ納得していないだろうが、それでも今を生きているリアナ。
フィリスはどうなのかはわからないけども……。

「ん…?」

頭の隅に引っかかる人の気配。レイヴンとの訓練によって培われた勘が知らせている。
ただ単にシルスたちの傍を通るだけならばどうとも感じないのだが、彼女たちが居るのはこの部屋の隅。
人が通る理由は存在しない。山積みになっている本を取りに来たとも考えられるが、違うと感じていた。

リアナもその気配を察しており、寝ているフィリスの寄り添ってテーブルの下でいつでも『彼方』を振るえる様に身構える。
シルス自身もリラックスして椅子に寄りかかっているが『連環』の位置確認は怠っていない。
人間に対してのこの反応は本来スピリットにはあるまじき行為だが、これもレイヴンによるものであった。

気配そのものはこちらを殺そうという類のものでは無く、別の理由で身構えていた。
こちらに近づいてくる足音と共に肌に感じる違和感を例えるならば、肌触りが好みではない服を着た時の嫌悪感というのがしっくり来る。
積まれている本の山によってその人物を視認出来ない。立ち上がって見ようとも思えない、見たくないと本能が言っているようであった。

「ふぅむ…。スピリットがこんな場所で何をやっているのですか」

現れたのは青年であった。だが、それは体つきであって顔はかなり老け込んでいる。
上半身は外套に近い上着を着込んでいるだけでオヘソが丸見え出る。ヤローのヘソ出しなんてつまらん。
髪の毛は短髪の茶色をしており、少しぶ厚い眼鏡をしていた。

「スピリット如きが人間が使う場所に居ていい筈が無いのですよ。さっさと自らが居るべき籠の中に戻りなさい」

その眼鏡の奥からシルスたちを見下ろす男の瞳。この世界の人間を代表するかの様な蔑み、見下していた。
それだけならばシルスもリアナも慣れており、別段身構える必要など何処にも無いはずなのにそうせずにはいられない。
その原因は簡単である。この男である。この男の仕草、息遣い、発せられる言葉の全てにシルスたちは嫌悪しているのである。

「道具であるあなたたちにこうして指摘して差し上げているのです。お礼としてその身を私に捧げてもらいたいものですねぇ」

こちらを値踏みするかのように視線で凌辱してくる。この男の行動一つ一つが他の人間と異質なモノがあった。
レイヴンに身体を下から上までジッと見詰められてもこうはならない。その後に続く一言に制裁は加えたくなるが。
シルスとリアナは自分の身体を庇う様にするも、男は口端を吊り上げて笑っている。それが何となく癇に障った。

「…使用許可は取ってるわ」

「使用許可ですってぇ? スピリット如きがそんな事をするなどおこがましい! 道具にそんな自由が許されないのですよ!」

シルスが発した一言に男が大いに驚き、次には罵倒してくる。

「道具は所詮人間のために使われるべくして存在している。我々人間の同等な事が出来ると考える事自体間違っているのですよ」

「その人間が使って良いって言ってるんだから別に問題なんてどこにもないわよ。それにこれも訓練の一環だし」

「スピリットの分際で人間に口答えをするのですか!?」

よくもまぁこういけしゃしゃと、といった感じのジト目でシルスが口を挟むとすかさず男が声を張り上げた。
蔵書を保管する場所特有の一種の密室空間であるこの部屋に男の大声が反響する。

「口答えも何もあたしたちは“人間の命令で”ここにいるのよ。何か言いたいことがあるならそっちに言って」

「私を不愉快にして、あなたたちが従うべきは全ての人間なのです。ならば私の言葉に従うのが道理というモノなのですよ」

「あら残念。あたしたちは国王の所有物なの。国の財産に手を出した輩は処刑されるのはご存知で?」

ほくそ笑むシルス。目を細めて侮蔑の色の他に怒りをその瞳に宿していた。
今までスピリットに反論された事などなかったのだろう。男はシルスの胸倉を掴んで引き寄せた。

「この国の訓練士であるこの私、ソーマが直々に教育する必要がありそうですねぇ」

男の名はソーマと言うらしいが、そんな事はシルスにとってどうでもいい事である。
間近に迫ってくるソーマの顔にシルスは顔を顰めた。見ていたくない顔である。

「無理ね。あたしはスピリット隊とは別の管轄に所属してるスピリットだから命令でもない限り出来ないわよ」

「ほう。ではあなたたちがあの男のスピリットですか。後ろのスピリット二人に見覚えがあると思っていたら…なるほど」

「いい加減放してくれないでしょうか…?」

ソーマに胸倉を掴まれているシルスは怒りを抑えて丁寧な口調で指摘する。
それでも言葉の端々からは隠し切れない怒気が滲んでいた。

「――人間に従うべきスピリットが反抗的なのは問題ありですねぇ。
所属など関係なく、これは訓練士である私が教育するべき事なのですよ!」

――バシッ

シルスの髪の毛を掴んで引っ張って行こうとしたソーマだが、それは当事者が叩いた事で防がれた。

「組織体系を乱す行為はお控え下さい、人間様? それともソーマ様と言えば宜しいでしょうか?」

小首を傾けて可愛らしげ言うシルス。だがそれには皮肉がたっぷり詰め込まれていた。
叩かれた本人は少し呆けている。スピリットが人間に手を出したのだから当然の反応であろう。
神剣を用いていないとはいえ、スピリットは人間に手を出さない。それが常識であるのだ。

「スピリットの訓練士はシグル様の管轄であり、あたしたちはジェイムズ様管轄の直属スピリットです。
こちらにはこちらの訓練士は御座いますので、ソーマ様の手を煩わせる事など何一つ御座いません」

丁寧な物言いにソーマの顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていき、臨界点を突破した。
彼は未だにテーブルに突っ伏して寝ているフィリスに目を向けて手を伸ばす。

シルスを相手にするのを止め、寝ていて抵抗の出来ないフィリスを選んだようであった。
だがそれは、寝ているフィリスをリアナが抱き寄せたために防がれてしまう。

「――これ以上の行為は私たちの所属への暴挙となります。手を引いて貰えないでしょうか?」

リアナの静かなる懇願という宣言。今のシルスたちの立場はあまりにも異常でその立場も確立してない。
他のスピリットたちとは別の所属など本来ありえないため、今現在はその力量が問われる真っ只中にある。
上手くいけば正式に国王からスピリットの派遣が行われて部隊が編成でき、下手をすれば即座に元に戻されかねない。

今のソーマはシグルが顧問を勤めるスピリットの専門機関に曲りなりにも所属し、人間の兵士を束ねる機関であるジェイムズのスピリットに手を出している事になる。
一つの組織に幾つもの独立した機関を有し、他の機関への干渉は基本的にもご法度である。
各々がそれぞれ独自の形態を持っているのでソリが合わないのは必至。衝突すれば大問題に発展しかねない。

一般市民が国王の所有物であるスピリットに手を出す事がご法度とされている様に、シルスたちに対するソーマの立場は一般市民と大して変わらない。
だが彼はスピリットの訓練士。国王の所有物に磨きをかけて輝かせる職人である。
スピリットに触れる存在がスピリットに触れられない。この矛盾こそが問題なのであった。

「わたしは作品であるスピリットを手がける人間なのですよ。スピリットに手を出す事に何の問題も無い」

そう言って彼はリアナの三つ編みの髪の毛を引っ掴んで持ち上げる。
リアナは少し苦悶の表情をし、引っ張られる方向に身体が傾く。
そしてそんなリアナの顔にソーマはひん剥いた血眼の目をした自身の顔を近づけた。

「人間に指図するなど大問題ですねぇ。どちらが上か、その身体に教えて差し上げましょう」

リアナの襟に空いている手で荒々しく掴み、引き下げようと力を込める。
だが、自身の首筋に感じるヒンヤリとした感覚に動きを止め、目を向けて驚愕した。

「あなたは…!?」

そこには『連環』の刃をソーマの首筋に添えた、シルスの姿があった。
彼女の身長では足りない高さをテーブルの上に登って構える事で解決させている。
細見の刀身の白い刃が刀身の半分以上を占め、差し込む日の光によって淡く反射して光る。

彼女の目は据わっており、静かな怒りをその瞳に宿していた。
風で長髪の黒髪がなびくも、微動だにしない完全に相手を捉えている時の静寂が彼女にはある。
幼く細見の容姿の中にある荒々しく凛としたその『連環』を構えた姿は美しい。

だが、ソーマはこの世界の典型的な人間――むしろ集合体と言ってもいいかもしれない。
彼女の美しさよりも目の前の現実が彼の目を惹きつけている。

「――調子に乗るのもいい加減にしてくれない? あんたは自分の事を訓練士とか言ってるけど、あたしはあんたなんか知らないわよ。
知らない人間を訓練士だから「ハイ、従います〜」なんてする程バカじゃないのよ。さっさとその手を離して消えなさい」

「あなたは人に向けてなんて事を…!?」

「これでもあたしたちは立場的に本当に大変なの。周りの人間もその辺りは心得ているから今は見て見ぬフリ。
知らないのはあんただけ。スピリットに説教されるなんて知らないにも程があるんじゃなくて?
ソーマ様?」

「〜〜〜〜…」

ソーマは閉口して口元を歪める。
スピリットは絶対に人を殺す事は出来ない。それはつまり神剣の刃を決して人に向けない事である。
論理観にひびが入り、屈辱と恐怖を同時に味わう時はこういった表情になるのだろう。

リアナは行く末を見据えるために髪を掴まれたまま静観している。
周囲には他に誰もいないのは幸いであろう。現状はシルスが人間に対して刃を向けて殺そうとしている様にしか見えない。
もし誰かが見ていればこれは一気に大問題へと発展してしまう。

刃を向けるスピリットと向けられる人間。
そして人間はもう一人のスピリットの髪を掴み、そのスピリットの膝で残りのスピリットが寝ている状況は混迷を極めているのであった。

そして次瞬――ソーマの胸から人の手が生えた。

正確には背後から腕で一突き、貫通させていたのである。
胸から大量の血が飛び散って位置的に彼の胸元に近い位置にいたリアナの顔面が血で塗られた。

「「「!!!?」」」

突然の事に三人とも何が起こったのか理解出来なかった。
それが致命的な隙を生んだと言えるのか、『連環』を構えるシルスの腕が肘から先が何かに寸断された。

「ひゃっ!?――あ、れ…?」

慌てて斬られた腕を押さえようと無事なもう片腕で触れると、そこには寸断されたはずの腕があった。
『連環』は驚いた拍子に手を離してしまったのか、地面に落ちている。

「なにが…!?」

見上げればソーマが立っている。腕に突かれていたはずの胸に穴など何も無い。
ソーマ自身もリアナの髪から手を離し、ぺたぺたと触って自分の胸を確かめている。
リアナも同じく血塗れになっていたはずの顔に触れても素肌の感触しかなく、触れていた手に何も付着しない。

状況があまりにもおかしすぎる。そして極めつけはソーマの背後に現れた人影。
初めに視線が目の前のリアナ、そしてシルスの順に向ける。最後に青ざめた顔でソーマが振り返った。
そこには何時の間にかレイヴンが椅子に座って読書をしている。

一体何時の間にそこに出現したのか、リアナはおろかシルスにすら発見できなかった。
そして今の幻は彼がした事だとこの場に居る誰もが判断していた。
やがて本を閉じて椅子から立ち上がると、静かな漆黒の瞳をソーマへと向ける。

「ソーマ。警告はしたはずだが?」

「――っ」

掌をソーマの肩へと置く。ソーマ自身は苦い顔をしている。
スピリットに手を出したこと自体への失態を案じているのではなく、状況が悪いためである。
先ほどの幻は殺気。ほんの一瞬向けられた殺気が先ほどの幻を見せ付けたのだ。

リアナとシルスも似た様な光景を見ていたであろうがその差異は微妙に異なっている事だろう。
だがそれを調べる暇も無く、ソーマは反論すべく口を開いた。

「……しかしまぁ――人に対して神剣の矛先を向けるスピリットなど問題以上です」

「…ほう、それで?」

「本来なら直接わたしが指導して差し上げるのですが、これから用事がありますので残念です」

眉を寄せてシルスが口を開こうとしたが、一瞬向けられたレイヴンの視線に閉口する。

「今後このような事が無いようにしてもらいたいものです」

「それについては考えておこう」

軽く頭を下げる。そして視線だけを上げてソーマを見る。
ソーマはその瞳を見て背筋が凍りつくのを感じた。

「――だが、次はない」

小さな呟きに次の言葉が出てこないソーマ。シルスとリアナは沈黙を保っており、静けさが訪れる。
それを破ったのは今まで微妙に蚊帳の外にいたスピリット――フィリスが起きた。

「ふぁぁ〜〜――……んんっ?」

目を擦って周囲を見回し、ソーマの顔に固着すると小首を傾げる。
傍らにあった開いている本とソーマの顔を見比べ、そして言った。

「本の人だ〜」

「本の人? それって――っ」

シルスが訊ねるが、すぐに息を詰らせる。彼女の視線は本の中身に釘付けとなり、固まってしまっている。
レイヴンとソーマも覗き見るとソーマは顔を引きつらせ、レイヴンはクククと小さく笑う。

「――わ、わたしはこれで失礼させてもらいます!」

「くくく…そうだな。そういう事にしておこう」

顔を怒気と羞恥で赤く染めた顔でさっさと去っていくソーマ。
レイヴンの声は聞こえていないだろうが一応、そう言ってソーマを見送った。

リアナが最後に本の中身を見て、彼女はシルスたちの反応に納得した。
そしてこれ以上これを晒しておくのは拙いとポンッと本を閉じる。
本の中身はこうである――



――ソーマに良く似た絵の男ともう一人の男が抱きしめ合っていた。それも濃厚(+α)に、である。




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